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e0110713_15274665.jpg読ませようという気があるのか、と言いたくなるタイトル。原題が<Ein ganzes Leben>だから、直訳だ。すべてが、ここに集約されている。削りに削りまくった、飾り気とか色気とか、そういうものが一切ない、必要最小限度のもので成立している長篇小説。長さすら削られている。幼い頃、オーストリア・アルプスのとある山村にやってきた、何者でもない一人の男の一生を、三人称限定視点で突き放すように描いたリアリズム小説である。

アンドレアス・エッガーは、一九〇二年の夏、遠い町から馬車で運ばれ、山までやってきた。四歳くらいだった。母を亡くした私生児で、義理の伯父に引き取られたのだ。伯父はエッガーを労働力としか考えておらず、粗相をすると折檻が待っていた。八歳のころハシバミの枝を削った鞭で打たれ、左足の骨が折れた。伯父が医者代を惜しんだせいで、折れた足は元に戻らず、一生引きずることになった。

しかし身体は頑健で逞しく育ち、子どものころから大人並みに働いた。「だが緩慢だった。ゆっくり考え、ゆっくり話し、ゆっくり歩いた。けれど、どの考えも、どの言葉も、どの一歩も、その跡をしっかり残した。それも、その種の跡が残るべきだとエッガー自身が考える場所に」。十八歳になった誕生日の翌日、鞭打とうとした伯父に反抗し、「失せろ」と言われ、家を出る。

障碍者ではあったが、エッガーは、よく働き、要求は少なく、ほぼ何も話さず、どんな仕事も引き受け、確実にやり遂げ、不平は言わなかった。何をさせてもうまくやれた。食事へ行くことは稀で、行ったとしても一杯のビールと蒸留酒を注文するだけだった。ベッドで寝ることは滅多になく、藁の中や屋根裏、家畜小屋で眠った。二十九歳の年、貯まった金で森林限界のすぐ下にある干し草小屋つきの傾斜地を買い、小屋に手を入れ、そこで暮らした。

その頃がエッガーのいちばん幸福な時代だった。山小屋で寝付いている山羊飼いを助けに行ったのに、雪の山で見失うという事件が起きたのがその頃だ。背負い籠に縛りつけたはずの山羊飼いが、自分で縄をほどいて飛び降りたのだ。途方に暮れ、漸く村に帰ってきたエッガーは暖を求めて食堂に入った。そこで、新入りのマリーという女と出会う。それが二人のなれそめだった。

エッガーはマリーに結婚を申し込むのにふさわしい男になろうと、当時村でロープウェイの工事をしていた<ビッターマン親子会社>を訪ね、そこで働くことになる。誰よりもこのあたり一帯に詳しく、高所作業を得意としたため、工事用の穴をうがつ場所に最初に足を踏み入れる男になった。やがて、マリーと結ばれ、二人はエッガーの小屋で暮らし始める。しかし、幸せはそう長く続かない。雪崩が村を襲ったのだ。

総じて時間の順序に従って書かれているのに、冒頭に置かれた章には、エッガーの記憶としていくつかの思い出が断片的に挿まれている。それが、映画でいえば予告編になっている。山羊飼いの死についての考え、その直後のマリーとの出会いは、まさにエロスとタナトス。その後の<ビッターマン親子会社>が初めて村にやってくる場面、そして、初めての雪崩との遭遇。村の子ども達に「びっこ」と囃し立てられ、氷柱で応酬する場面。本編で出会うたび、ああ、あれだ、と気づかされる。

少し昔のことになるが、どの地域にも、一人や二人、共同体からはじかれたように、独りで暮らす年寄りがいたものだ。何かの不幸があって、家族と別れ、長い独り暮らしを強いられながら、気質のせいか、境遇のせいか、共同体に馴染めず、追いやられはしないものの中には入り込めない孤独者が。頑是ない子どもたちは、そんな人たちに向かって情のないひどい言葉を投げつけていた。小説を読んでいて思い出した。これは、そういう立場にある人の視点で描かれた小説ではないのか、と。

厳しくも美しい自然の中にあって、村の人々とは確かな距離を保ち、ほとんど襤褸と言っていい最低限の衣服を身に纏い、野生児のように暮らす主人公を、親しい人々を除けば、自分たちとは異なる存在として見ていたのだろう。エッガーはそれでもかまわなかったし、気にもしていなかった。ただ、マリーを失った後はしばらく立ち直れなかった。

山岳を主たる舞台とする小説として、山の自然の美しさが描かれる一方で<ビッターマン親子会社>の仕事は手つかずの自然の中に人工を引き入れることである。ロープウェイは観光客を村に引き入れ、スキー場が次々と作られ、夏は山歩きの人が村にやってくる。なかには、山歩きのガイドを務めるエッガーに、「君にはこの美しさが見えないのか」と説教を始める者まで出てくる。誰よりも山を愛しているエッガーに、偶々やってきた観光客が口走るこの台詞に強烈なアイロニーを感じる。

質朴で寡黙な男が、黙々と人生を送るうちに、世界は彼を一人置いて別なところに進んでいた。そして、その世界こそ我々読者が暮らしている世界なのだ。現代社会はエッガーのような暮らしを好んでする者を異端者扱いしてはばからない。そして、既にエッガーは周囲からそういう目で見られていた。川遊びの少年が三十代のエッガーに「びっこ」と呼びかけたのは、当時から村人が彼をそう呼んでいたことを物語っていたのだ。

世界は、エッガーの眼が見ているような美しいものではなくなった。人は自分のまわりに美しい孤独をおいておけなくなった。今では孤独に価値などない。群れたがり、衆を頼んで、我々はどこへ行こうとしているのか。激動する時代のさなかにあって、時々は振り返ってみることが必要ではないだろうか。我々は何を失い、代わりに何を得たのだろう、と。そんなことをしみじみと感じさせてくれる一服の清涼剤のような小説である。




by abraxasm | 2019-07-30 15:28 | 書評
e0110713_16372725.jpgタイトルがどっかで聞いたことがあると思って口ずさんだら、曲調を覚えていた。カバー・イラストにあるのと同じ型のベースを持ったマッシュルーム・カットのポール・マッカートニーが『ヒッピー・ヒッピー・シェイク』と歌っていた。「ヒッキー」が引きこもりの俗称であることは知っていた。扉の裏に次のような文言が引かれている。

ひき - こも・り【引き籠もり・引き隠り】
 仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、六ヶ月以上続けて自宅にひきこもっている状態。時々は買い物になどで外出することもあるという場合も「ひきこもり」に含める。(厚生労働省)

読んで、ちょっと引いた。これで自分は、政府から正式に「ひきこもり」に認定されてしまったような気がした。妻もどこかでこれを読んだのかもしれない。本気で自分の夫のことを「ひきこもり」ではないのか、と心配していたことがあった。趣味は読書くらいで、何かをいっしょにやる知り合いというものがいない。ゴルフもカラオケも嫌いで、年に二回、学生時代の仲間と飲むのを除いたら、酒は家で飲むと決めている。

なんだか、人間はずっと家にいてはいけないのか、という気がしてくる。勤めていたころ、雨になると仕事に出てこない人物がいて、理由を訊いた相手に、人間はなぜ家に屋根をつけたと思っているんだ、と返事したらしい。ちょっと変わった人だったが、ちゃんと本は書いて何冊かは売れたようだ。人が快適に暮らす場所として家があるという考えは誤りではない。たまに飛行機が墜ちたり、車が飛び込んで来たりすることはあっても、確率は低い。

好きで家から出ない私のような場合は別として、出たいが出られないというのは辛いものがあるにちがいない。しかし、タイトルやカバー・イラストを見る限り、どうも暗い話ではなさそうだ。津原作品は一冊だけ『エスカルゴ兄弟』というのを読んだことがある。人生を深く考えるにはあまり役立たないが、面白い話だった。全部が全部、そういう世界ではないだろうが、「ひきこもり」をどう扱うのか興味がわいた。

竺原丈吉というひきこもり専門のカウンセラーが、自分のクライアントの中から使えそうな人材をスカウトして「不気味の谷」を越えようとする話。そこに、世界的なハッカーであるロックスミスが加わって、ミッション・コンプリートとなるはずだったのが、どこからかロックスミスを上回る腕前のハッカーが登場して、せっかく創り上げたプロジェクトが思いもかけない方向に漂流しはじめる。

ネット上で「不気味の谷」を超える精度のCGの美女を動かそうというのが、竺原の目論見のようだが、同郷の友人の榊にさえ詐欺師扱いされている竺原のことを、人一倍猜疑心の強いロックスミスは端から信じていない。いざというときには自分の手でどうにでもなるという自信がロックスミスにはあり、独自の動きで牽制しつつ、プロジェクトは進行する。

竺原が考えた四人のハンドルネームは、パセリ、セージ、ローズマリー、タイム。有名なバラッド「スカボロー・フェア」の歌詞から来ている。パセリは苦味を消し、セージは忍耐、ローズマリーは貞節・愛・思い出、タイムは勇気を象徴するという説がある。パセリは白人の父に似た容貌を持ちながら、日本育ちで英語が喋れない。周囲から浮く美貌もコンプレックスになっている。絵はかなりの腕前。セージは技術はピカ一だが会社勤めに不向き。中学生のタイムは熱血教師の指導があだとなり学校で嘔吐する癖がついた。ベースを弾く。

パセリの原画をセージがポリゴン化し、タイムがセリフをつけた「アゲハ」を動かすのがローズマリー(ロックスミス)だ。竺原の狙い通り、四人はそれぞれ他人との共同作業を通じて、少しずつ知らない間に「ひきこもり」から脱却していく。同時進行する別のプロジェクトも軌道に乗り、万々歳かと思ったところに邪魔が入る。竺原が次に仕掛けようと思っていたウィルスが、「ジェリーフィッシュ」という凄腕ハッカーの手で、彼らのプロジェクト「アゲハ」に仕込まれ、「アゲハ」を見た者はそのサイトに誘導され、病気になってしまう。四人は強力な敵とどう戦うのか。

名伯楽がいて、特別な才能を持つ協力者を募り、ある使命に向かって死力を尽くす。『七人の侍』や『鷲は舞い降りた』などに見られる共通のパターンがここでも用意されている。竺原が狩り集めた四人が果たす使命はいったい何なのか、最後まで目が離せない。なにより、竺原自身がうそつきを自認しているので、プロジェクト自体が「信頼できない語り手」によって書かれたシナリオであることが明かされている。お約束のどんでん返しが披露されたところで、話はストンと幕を下ろす。少し風呂敷を広げ過ぎた気もするが、後は野となれ山となれ、という感じがいっそ清々しい。

『日本国紀』をめぐる騒動で、幻冬舎から出るはずだった文庫が早川書房から出版された経緯は、新聞にも出たのでここで詳しくは書かない。結果的には作家の考えを広く知らしめ、新しい読者を得たと思う。単行本の表紙を飾っていた、ビートルズの『REVOLVER』のジャケットを描いた、クラウス・フォアマンの原画が使えなかったのは残念だったが。


by abraxasm | 2019-07-28 16:37 | 書評
e0110713_15361649.jpg古い地球儀の極の方に「テラ・インコグニタ」と記された土地がある。誰も足を踏み入れた者がいないため、地名は勿論、地勢も植生も何が棲んでいるのかも分からない、未知なる領域のことである。誰も知らない土地、世に忘れられた世界のことを書いたものには前々から惹かれるものを感じていた。稲垣足穂の『黄漠奇聞』、小栗虫太郎の『人外魔境』といった小説の影響が強いのかもしれない。

マルコ・ポーロの『東方見聞録』のパロディという形式を纏い、五十五の架空の都市を物語るのが、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』。青年マルコが憂い顔の皇帝フビライ・汗に招かれ、旅先で目にした数多の都市の有様を物語る形で書かれている。およそありそうもない都市や、未来都市、全くの寓意としか考えられない都市が登場する点で、本書によく似ている。ほぼ同時期に全く離れた地で、兄弟のように相似た本が構想されたことが不思議でならない。

ギョルゲ・ササルマンは建築士でもあるようで、同じように到底存在不可能な都市について書き連ねた書物という点は似ているものの、その形態が異なる。誰かがミロラド・パヴィチの『ハザール事典』を例に挙げていたが、カルヴィーノの『見えない都市』が、どちらかといえば巻物風に次々と広げていくようであるのに比べ、『方形の円』は、短い断章を項目別に編配置した建築や都市に関する事典のようだ。

文体も、『見えない都市』はいかにも物珍し気に驚異に満ちた世界を描き出そうとするマルコの口吻が伝わってくるようであるのに対し、『方形の円』は、一部を除いて、ソリッドでフラットに書かれている。まず、都市の形態が俯瞰的な二次元平面で説明され、やがて、時間の経過に連れ、都市が生成変化してゆく過程が綴られる。多くの都市は、初期の目標が達成された後、そこに暮らす人々の意識の変化や天災、戦争による被害といった影響を受け、まったく姿を変えてしまうことになる。しかし、叙述は寧ろ冷淡すぎると思えるくらい温度に変化がない。

ぽつぽつと書きためられていったのであろう制作過程を物語るように、一つ一つの章は断章と言っていいほど短い。しかるに、その短さの中に、すべてが詰まっているという感が強い。事典風だというのは、そういうスタイルから感じられる特徴である。普通の作家なら、ここにある一つの章から短篇は勿論、長篇小説が書けるだけの素材とアイデアが惜しげもなく詰め込まれている。知的過ぎる作家に共通するのかもしれない、ボルヘスを彷彿させる簡素さだ。

削ぎ落したような文体は嫌いではないが、内容は変化するものの、淡々とした記述が続くと、さすがに変化が欲しくなる。名前を持った人物が登場すると、俄然面白くなる。「一部を除いて」と先に述べたが、その一部がこれらの物語群だ。イカロスやアンティオペーといった神話上の人物、イギリス貴族の探検家、あるいは山岳登山者等々。都市の運命を中心にした章に比べ、これらの章は人間が主人公。都市や建築論も興味深いが、悲劇に見舞われる人間の姿の方に惹かれるのは仕方がない。

「サフ・ハラフ(貨幣石市)」は、直径二マイルの円環状の都市。外観は完璧に組み合わされた石のブロックでできた高さ六〇~七〇フィートの壁。まさに「方形の円」そのもの。イギリス貴族の探検家、ロード・ノウシャーは、仲間を失い、案内人に逃げられた挙句、わずかな水と食糧の入ったリュック一つを手に、やっとのことで目的地たどり着く。体を横にしなければならないほど狭い入口から内部に入ったものの、行けども行けども螺旋状の廊下は出口に行き着かない。一夜が去り、次の晩も暗黒の回廊を進む。やっと辿り着いたロードがそこに目にしたものは何だったか。

「ダヴァ(山塞市)」では、未踏峰の初登頂を目指した三人の登山者が頂上で先着者の遺物を発見する。一瞬の幻滅の後、三人は第二峰の登頂を目指す。不思議なことに、人跡未踏であるはずの第二峰の上半部は巨大な堡塁の形をしており、城壁、塔、銃眼を備えているではないか。この謎を解明しようと、登山者は峻険なナイフリッジを傷だらけになって踏破し、岩を彫って作り上げた城内に足を踏み入れる。不思議なことに内部から何かの音が聞こえてくる。果たして、それは…。

チャウシェスク政権下のルーマニアで発表された時、検閲にひっかかり、十篇が削除されるという憂き目を見たという。荒唐無稽とも思われる作品の寓意的な部分が、現政権を風刺したものと受け止められたようだ。たしかに、独裁国家における政府の姿は荒唐無稽極まりない。その後、スペイン語訳が出版され、それを目にしたル=グウィンが手許に置くうちに愛着を覚え、ついに英訳を試みるという運に恵まれる。ル=グウィンが書いた英語版の序文が付されている。翻訳への愛が溢れた、この序文が実に素晴らしい。

カバー装画にも触れておきたい。スターリン・クラシック様式で建築途上にある、バベルの塔のような高層建築が背後に迫りくる暗雲の遥か上方に聳えている。SF的でもあり、神話的でもある絵が、内容を暗示してくれている。ジャケ買いしたくなること請け合い。各書店に置かれては、是非、面陳で並べることをお勧めする。


by abraxasm | 2019-07-25 15:36 | 書評
e0110713_14554006.jpgスティーヴン・ミルハウザーの短篇集。ほぼ中篇といっていい表題作を含む七篇所収。これまでのミルハウザーの物語世界と地続きでありながら、どこか新味を感じさせる作品が揃っている。どれも粒よりであることはいうまでもない。どこまでも手を抜かず精緻に組み上げた精巧な細工物のような世界は健在である。それでいて、造り物めいた手触りが控え目になり、より地に足がついたようで、古くからのファンは物足りなさを感じるかもしれない。

舞台となるのは、アメリカ映画によく出てくる、堂々とした街路樹が陰を作り、道路から程よく距離を置いた瀟洒な家が芝生を前に建ち並ぶ郊外都市。都会に近く電車等で通勤可能でありながら、静かで落ち着いた環境に恵まれている。治安もよく、人々も親和的。これまで何度もミルハウザー作品の舞台となってきた町であるだけでなく、平均的なアメリカ人が夢見る暮らしができそうな町である。

「平手打ち」はどこからともしれず突然現れた男が町ゆく人に平手打ちを食らわせ、そのまま姿を消す事件に見舞われたスモールタウンの話。シリアル・キラーならぬ、連続平手打ち犯(シリアル・スラッパー)はタン色のトレンチ・コートを着た男というだけで、被害者には犯人の心当たりがない。場所もちがえば相手も異なる複数の人間が被害に遭うことで、住民は疑心暗鬼に陥る。

そんな目に遭う見当がつかないとはいうものの、誰にでも過去はある。胸に手を当てて考えれば、思い当たるふしもない訳ではない。しかし、被害者の数が増えるにつれ、個人的な怨恨説は消え、住民全員への嫉みや憾みではないか、と論調に変化が現れる。新しい被害者が出るたび、新しい論議を生む。命にかかわる危険ではないものの、訳の分からない事件に巻き込まれた町の人々の間に高まってゆく不安な空気感。外見に変化はないのに、事件を境にかつては平穏だった町が、不穏な変貌を遂げる、ざわざわする恐怖感が半端ではない。

ミルハウザーの短篇が巧いのは、狙いを一つにしぼり、読者の眼をその一点からそらさないことである。「白い手袋」はまさにその好見本。仲のいい二人の高校生がいる。「僕」は学校の帰り、エミリーの家を訪ねては、彼女の家族と食事をし、スクラブルをして過ごしていた。ところが、ある日、エミリーは学校を休む。電話をしてもエミリーは出ない。それ以降、エミリーの左手はいつも白い手袋に被われている。

「僕」は、その白い手袋が気になって仕方がない。好奇心が募り、ついには深夜、勝手知ったるエミリーの家を訪れ、彼女の手から手袋を外そうとまでする。どうにかしてそれは思いとどまるものの、二人の間には以前とは違って壁のようなものが立ちふさがる。白い手袋は、エミリーが明かそうとしない秘密となって、二人の間に立ちふさがる。果たして、白い手袋の下に隠されたエミリーの秘密とは。何の変哲もない白い手袋を効果的に使った古典的スリラー。

モールの隣の広場に突然出現した<The Next Thing>と名乗る店はちょっと変わっていた。入口に大きなオフィスがあり、人が一人入っているブースがたくさんあって、通路が四方八方にのびている。店自体は地下にあった。初めは無視していた「私」だったが、次第に急拡大していく店舗にひきつけられてゆく。それは他の住民も同じで、高収入につられて社員となり、元の家を売り払い、地下にある最新設備つきの社員住宅に転居する。

新しい生活が始まる。空調と照明のせいで地上の世界と変わらない地下の暮らしに次第に慣れてゆく。しかし、収入がよくなれば、仕事はそれにつれて増える。仕事がこなせないと職を追われ、今や住む場所のない地上に帰るしかない。ノルマに追われ、息つく暇もない地下の暮らしは、作家にすれば空想の産物なのだろうが、兎小屋に住む働き過ぎのエコノミック・アニマルと揶揄された当時の私たち日本人のそれを嫌でも思い起こさせる。地下に住む大勢の奴隷労働者が、地上に暮らす一握りの上級国民の暮らしを支えるディストピア。そのモデルは日本なのかもしれない。

掉尾を飾る「私たち異者は」は、中篇と言っても通る長めの一篇。コネチカットに住む「私」は父の跡を継いだ五十二歳の医師。妻には去られ、再婚を考えていた矢先、軽い眩暈に襲われ、重い気分で寝床に入る。翌朝、私は「重みが胸からのみならず体じゅうから下りたような気」分で目を覚ます。そして、ベッドに寝ている自分を見つける。「私」は、その日を境に「異者」たちの仲間入りをした。

ふつう怪談は、古い邸に棲みついた幽霊を、そこに住む生者が見るものだ。「私たち異者は」は、それをひっくり返し、幽霊となってしまった「異者」の眼から、この世界を描いてみせる。死んだら自分はどうなるのだろう、というのは洋の東西を問わない問いなのだろう。医師という科学的な考え方をする人種だからか、キリスト教徒の国であるアメリカにあって、この「私」はかなり異端ではないだろうか。

しかし、ほとんど信仰というものを持たない、われわれ日本人にはなんだか馴染みのある死後の世界である。一人の独身女性の家に居ついた「私」と、どうやら「私」の存在に気づいたらしい、その女性と、その家を訪れた姪との間に繰り広げられる何とも奇妙な三角関係。幽霊の眼で見た死後の世界、という斬新なアイデアが光る、ちょっとユーモラスな異色怪談である。子の死後の世界をどう受け留めればいいのか、妙に気になる一篇。他に、ごく短いショート・ショート風の「刻一刻」、「大気圏空間からの侵入」、「書物の民」の三篇を含む。


by abraxasm | 2019-07-21 14:56 | 書評
e0110713_15240772.jpgおちょくってるのか。簡潔な記録だと。A5版七百ページ二段組。厚さ五センチ。重さ一キログラム超。まさに凶器レヴェル。放ったらかしにしてあった妻の実家の庭の草刈りをした後で手にしたら、手首が震えて床に落としそうになった。『JR』以来、厚手の本を読むときいつもやるように、机の上に足を載せ、椅子を後ろに倒して膝の上に置いてページを繰った。久しぶりの大物である。しかし、長大さに恐れをなすことはない。一つ一つの章は確かに簡潔で要を得ている。

「ボブ・マーリィが逝っちゃった」と歌ったのは加川良だった。ボブ・マーリーが死んだのは一九八一年五月のことだから、おそらくその年の秋から冬にかけてのことだろう。町の小さな居酒屋の隅で額に汗を浮かべて歌っていた。当時、レゲエなる音楽には無縁でジャマイカが生んだ国民的歌手にして、カリスマ的な人気を誇るボブ・マーリーの曲を聞いたことはなかった。後にクラプトンがカバーした「アイ・ショット・ザ・シェリフ」などを通じて、その独特のリズムと生々しい詩の世界を知ることになる。

本書は、そのボブ・マーリーが襲撃された実際の事件を核に、何かの理由で事件に関わることになった複数の人物の、当時とその後の人生を追ったものである。「七つの殺人に関する簡潔な記録」というタイトルは、ミック・ジャガーをスクープするよう『ローリング・ストーン』誌からジャマイカに派遣されたライター、アレックス・ピアスが、後に当時の関係者にインタビューして、ジャマイカ人関係者たちの動きを追った記事につけた題名である。

「アイ・ショット・ザ・シェリフ」という物騒な歌詞からも分かるように、ジャマイカのキングストンは緊張感に溢れていた。当時民衆の大半は貧しく、複数のギャングのボスが牛耳るゲットーに別れて暮らしていた。政治家がやくざを使って選挙民を操るというのは、何も現代の日本に限られたことでなく、低開発国ではよくあることだ。ジャマイカもご多聞に漏れず、社会主義的な現政権が率いるPNPと、より保守的なJLPが鎬を削っていた。

糞尿が下水を流れる劣悪な環境。身体を洗うためには共同で使う裏庭で衆人環視の中で水浴びせざるを得ない。政治家は自分たちに投票するゲットーだけに上下水道を配備、そうでない地域は無視するという、どこかの政府のような政策を露骨にとっていた。対立するゲットーのボスは配下のギャングたちを使い抗争に明け暮れていた、そんなとき、「歌手」がピース・コンサートを持ちかける。不毛な対立をやめ、力を合わせようというメッセージにボス二人は歩み寄りを見せる。

ところが、コンサートを二日後に控えた一九七六年五月三日。リハーサルに余念がない「歌手」の自宅がマシンガンやピストルを手にした集団に襲われるという事件が勃発する。不幸中の幸いで、弾丸はわずかに「歌手」の心臓を反れ、命は助かる。純然たるミステリなら、犯人は明かさないのが定石だが、本書は倒叙形式で書かれている。襲ったのはコペンハーゲン・シティのドン、ジョーズィ・ウェールズ、とその手下の若い者たちだ。

コペンハーゲン・シティを牛耳るドンはパパ=ローだったが、寄る年波には勝てず、対立するゲットー、エイト・レインズのドン、ショッタ・シェリフと獄中で和解し、ことを穏やかに進めようとしていた矢先だった。パパ=ローが右腕とも頼るジョーズィ・ウェールズはCIAから送り込まれたコンサルタントと気脈を通じ、パパ=ローを通さず勝手に事を起こそうと、薬漬けにした若手を鉄砲玉として送り込む。

麻薬の密輸ルートをめぐるギャングたちの勢力争いは、ジャマイカだけを見ているパパ=ローたちの頭上をはるかに越え、アメリカのマイアミ、ニューヨークまでその勢力圏を広げていた。同じ頃、アメリカは、ピッグス湾の失敗以来、キューバの勢力が強まり、カリブ海諸島の国々やラテン・アメリカ諸国の左傾化がドミノ倒しのように広がっていくことを恐れ、政府への露骨な介入を進めていた。また、その裏側ではCIAをはじめとする裏の機関が各種勢力と手を結びつつあった。

ケネディ暗殺に始まるアメリカの裏面史を麻薬の密輸をめぐって暗躍するマフィア、翻弄されるFBI職員、謀略を張り巡らせるFBI長官フーヴァーなどの実相を、これでもかというほど暴いて見せたのがジェイムズ・エルロイの「アンダー・ワールドUSA三部作」だった。これは、差し詰めそのジャマイカ版。暗黒描写もギャングたちの使う独特の言い回しも負けてはいない。しかし、過激な描写の裏に色濃く悲哀がのぞくエルロイとは異なって、この小説に哀歌は似合わない。

主要な登場人物として、先述のパパ=ロー、ジョーズィ・ウェールズ、同じくウィーパーやギャングの面々がいる。それぞれの目論見から、襲撃に加わったり、その後始末に追われたりする。その裏で、ジャマイカの社会主義化を阻もうと動くCIAジャマイカ支部チーフ、元調査官、コンサルタントなど、アメリカ側の男たち。さらに、「歌手」と一夜だけの関係を持ったことがあるニーナ・バージェスがいる。襲撃事件の現場で犯人と目を合わしたことで国にいられなくなり、アメリカに逃げるが、相手はどこまでも追ってくる。

事件の中心に位置するジョーズィ・ウェールズとCIAコンサルタントの対話や、擡頭してきた新勢力のユーピーの周りを読み解く冷静な分析はさすがに説得力がある。ただ、惜しむらくは人間的な魅力という点で、これら確信犯には迷いがなさすぎる。ジャマイカ脱出に賭けて身も世もあらず涙ぐましい奮闘ぶりを見せるニーナや、刑務所でカマを掘られて以来、自分の中に発見した性的嗜好と格闘しつつ、遂には身を亡ぼすことになるウィーパー(泣き虫)といった等身大の人物の方に共感したくなるからだ。

大部な作品だが、主要な人物からほんの脇役に至る多種多様な人物が、入れ代わり立ち代わり、多視点的に事件を語る。事件に関わった者は、その後の地獄のような復讐劇の顛末を。また、事件に至る経緯を知る関係者は、偶々現場に遭遇した第三者には知る由もない、麻薬ビジネスの裏表を語る。テープ・レコーダー片手に証言を求めて監獄を訪ねるのは、今は「ローリング・ストーン」誌を離れ、一ジャーナリストとして事件を追うアレックス・ピアス。このピアスやニーナといった偶然事件に巻き込まれることになる人物の視点を重視することで、小説のノワール色が薄まり、別種の読者を獲得することができたのではないか。二〇一五年マン・ブッカー賞受賞作。


by abraxasm | 2019-07-17 15:24 | 書評
e0110713_17004500.jpg題名に「図書館」と入ってるだけで、読んでみたくなる。その前に「帝国」とある。「大英帝国」のことかな、と考える。まだその上に「夢見る」とついている。ユメ子さん? シャンソン人形? 図書館はふつう夢を見ない。見ないだろう? いや、見るのか? まあ、どちらでもいい。こうまで不可解なものは中身に目を通すしかない。

「私」が喜和子さんにあったのは上野である。国際子ども図書館を取材して一息ついて大噴水前のベンチに座っていたら、隣に座った人がいた。それが喜和子さんだ。古い着物をパッチワークしたコートを着、粋な手つきで煙草を吸い始める六十代の小柄な女性。煙草の煙にむせた「私」に「きっと、あれだよ、花粉症」なんて言って、すましている。身勝手なようでいて、人は悪くない。突き抜けた感じが当時の「私」には新鮮で、すぐに仲良くなった。

それからちょくちょく二人で会って、ランチをしたり、甘いものを食べたりするようになる。谷中の路地の奥にある大正時代に建てられた長屋が一軒だけ残ったような喜和子さんの小さな家にお呼ばれもする。上野界隈をこよなく愛する喜和子さんは上野の図書館を主人公にした小説が書きたい。その題名が「夢見る帝国図書館」。書きたいのだが文章を書くのは苦手。で、作家である「私」にそれを書くように勧め、ぼつぼつと構想を語り出す。

この「夢見る帝国図書館」のエピソードが、小説本編とは別仕立てで、話の合間に挿入される。賢治の同性の友に寄せる気持ち、宇野浩二が震災時に遭遇した自警団の恐怖、ハッサン・カンのモデル等々。帝国図書館に通った明治・大正・昭和の文士の逸話、これがべらぼうに面白い。永井荷風の父、久一郎の奮闘に始まる帝国図書館の歴史だけでも図書館通になれる。「お金がない。お金がもらえない。書棚が買えない。蔵書が置けない。図書館の歴史はね、金欠の歴史と言っても過言ではないわね」と喜和子さんは言う。

本編となるのは、なんだか不思議な喜和子さんの「女の一生」の謎解きだ。本人は自分の過去を詳らかにせず、話半ばで早々とあの世に逝ってしまう。「夢見る帝国図書館」は「私」が書くしかない。それが喜和子さんの遺志でもあった。そんな訳で「私」は喜和子さんの昔のことを人づてに聞いて回ることになる。戦後の上野にまだバラックがあった時代、三、四歳だった喜和子さんは、そこで「お兄さん」と慕う男の人と一緒に暮らしていたという。

「夢見る帝国図書館」は、復員兵のお兄さんが書こうとしていた小説だった。ちっちゃな喜和子さんはお兄さんの背嚢に入って、図書館に通い、夜はそこで眠ったりもしたらしい。夜になると、隣の動物園から動物たちもやってくる。そんな夢のような話を書いた童話「としょかんのこじ」が国立国会図書館に残っていた。作者の名は城内亮平。手がかりを一つ一つ調べていくうちに、「私」は喜和子さんの数奇な人生に巡り会う。

喜和子さんの愛人の元大学教授やインテリのホームレスが語る喜和子さんの身の上話にはどこか絵空事めいたものがある。だいたい、幼い少女がなぜ一人で上野で暮らしていたのだ。アナグラムやら、暗号やらが繰り出され、喜和子さんの少女時代を探るところは、ちょっとしたミステリ仕立てになっている。ネタバレになるので詳しくは明かせないが、「私」が出会った頃の喜和子さんは過去の生を生き直している最中だった。そのテキストが「夢見る帝国図書館」だったのだ。

お兄さんの影響もあるのだろう、何もない部屋に全集を揃えるほど一葉好きの喜和子さんが「私」に遺した書きかけの原稿が、一葉女史が書きそうな、なかなか句点が出てこない文体で、もちろん、作家中島京子による文体模倣なのだが、一葉に憧れた一人の女が、おそらく暗記するほど身に染みついた筆致で、幼かったころの上野の、徳川様由来の紋所から「葵部落」と名づけられたバラック小屋で暮らす日々を振り返る文章の洒脱さったらない。

いつの時代、誰の前にも平等に開かれているのが図書館だ。世の中が怪しくなると、まず本当のことを書いた本が図書館から消える。本や図書館がいかに戦争と折り合いが悪かったか。金欠、本の焼失の元凶は、明治以来大日本帝国が次々と引き起こしてきた戦争である。都合の悪いことは人の目から隠され、あったことがないことにされる。戦争から生きて帰った者には、死者に代わってやるべきことがあった。お兄さんの場合、それは小説を書くことだった。「としょかんのこじ」の「後記」に詩のようなものが付されている。

とびらはひらく
おやのない子に
脚をうしなった兵士に
ゆきばのない老婆に
陽気な半陰陽たちに
怒りをたたえた野生の熊に
悲しい瞳を持つ南洋生まれの象に
あれは
火星へ行くロケットに乗る飛行士たち
火を囲むことを覚えた古代人たち
それは
ゆめみるものたちの楽園
真理がわれらを自由にするところ

「真理がわれらを自由にする」は国立国会図書館の図書カウンター上部に、今もギリシア語原文と並んで刻まれている。


by abraxasm | 2019-07-06 17:01 | 書評
e0110713_13255871.jpg周囲四キロに満たない小さな島で暮らしていたことがある。そこの子どもたちは年上の子の名前の下に兄(にい)や姉(ねえ)をつけて呼んでいた。初めは島中が親戚なのかと思っていたが、血縁とは関係なく、年長者への敬意を表すためのもので、大人の間でも親しい間柄ではそう呼び合うのだ。お隣の韓国にもそういうことがあるらしい。

表題作を含む七篇からなる短篇集である。その冒頭に置かれた「明るくなる前に」の「私」は、同じ雑誌社の先輩をウニ姉さんと呼んでいる。過失ともいえない不幸な巡り合わせで弟を亡くしたその人は、雑誌社を辞めてから、一年の大半をネパールやチベットの山地やタクラマカン砂漠やゴビ砂漠で過ごすようになった。

そのウニ姉さんの唐突な死を受けて、作家である「私」が彼女とのそれまでの会話を思い出す。二人が抱えていたそれぞれの悪夢について。ウニ姉さんが弟の死について自分を責め続けているように「私」には娘を連れて家を出るに至った経緯がある。怪我や病気、別離の経験を通して、大きな何かを失った者の、もがくような苦悩を潜り抜けての回復が全篇を貫く主題になっている。

表題作は未来から過去と現在を語る二人称回想視点で語られる。「あなたは」と語る話者は未来の「私」。ある喪失を起因として疎遠になった姉妹の妹が主人公。その姉の死が「あなた」を追い詰める。両親にも言えない秘密を共有した結果、姉は妹に心を開かなくなる。過去は変えることができない。ましてや相手が死者である場合には。過去と現在と未来、三つの時系列を往還して、二人にとって桎梏となった取り返しのつかない確執が語られる。生きる喜びに溢れた過去の「あなた」に語りかける未来の「私」の言葉が辛い。

「エウロパ」は、恋人関係にない男女の捻れた関係を描く。会社勤めの「僕」には、イナという女友だちがいる。なぜ、恋人になれないか。それは「僕」が女の子になりたい男の娘(こ)だからだ。「僕」にとってイナは自分がなりたい女の子だった。男として女に欲情はするものの、女のなりをしたい男。たぶん「僕」を愛しているが、過去の何かがそれに蓋をして、一歩を踏み出せない女。イナの歌う「エウロパ」の歌詞が二人の緊張感を孕んだ関係を象徴する。

「フンザ」は、非常勤の大学教師の夫と一人息子との暮らしを支えるため、睡眠を削って働く女の物語。「私」は通勤に使っている高速道路上でパキスタンにある桃源郷のような村、フンザについて考えている。逃げられない現実からの束の間の現実逃避。しかし、時が経つにつれ当のフンザが変貌してゆく。最早「私」が夢見るフンザは存在しない。二進も三進もいかない暮らしの中で夢見ることすら許されない「私」を圧し拉ぐ絶望的な状況。

年の離れた画家への思慕を、同い年になった「私」が、先に逝ってしまった「あなた」に優しく語りかける「青い石」。しみじみとした語りであるのに、ここにも日常の中に待ち受けている暴力の陰が潜んでいる。血が止まらない病気を持つ「あなた」が怪我をしないように気をつける所作をそっと見つめる「私」の中にもある残忍な心。死とは何か、生とは何かを静かに問う一篇。

「左手」は、この短篇集の中では異色作。平凡な会社員である「彼」は、ある日執拗に自分を罵る上司の口を押えていた。左手が勝手に動いたのだ。左手の暴走はそれだけにとどまらなかった。かつて憧れていた女性との出会いも、左手がお膳立てした。どうやら「彼」の左手は心の裡に押し隠されていた内的欲求の発露らしい。人は衝動に従って生きれば身の破滅を招く。だから誰もが内心を秘し隠し、社会通念に従って生きている。しかし、果たしてそれが本当に生きるということなのか、と逆説的に問いかけている。

掉尾を飾るのは回復の主題に正面から迫る「火とかげ」。「私」は、交通事故で左手が動かなくなる。それをかばって無理をした右手も傷めてしまう。家事のできなくなった妻に夫は冷たい。そればかりではない。腕の動かない画家など幽霊と同じ。そんな時、昔の友人から、写真館で「私」の写真を見た、との電話。身に覚えのない写真が気になって、写真館を訪れた「私」は、その写真を撮ってくれた男のことを思い出す。過去との思いがけない遭遇が「私」を蘇らせる。蜥蜴の尻尾が切られても元通りに生えてくるのを思い出した。

主人公は女性。誰もが現実の生活の中で傷つき、苦しんでいる。個人的な原因の背後に子どもを生み、家事をするのは女性だという考えがある。家庭内暴力の影も見え隠れする。年上の相手を呼ぶときに「姉さん」をつけるという習慣は年長者を敬う「美風」なのかもしれない。しかし、社会的な慣習は当事者が望む望まないにかかわらず一方的に服従を強いるものにもなる。それは韓国に限らない。教育勅語をありがたがる日本にも根強く残っている。

恢復期というのは、病や傷が癒えてくるころのことで、さすがに痛みも薄れ、熱も退いてくる。しかし、まだ本復には遠い、けだるいような日々の、あの原状復帰を待つ日の楽しさを期待すると裏切られる。『回復する人間』という表題には、むしろ、人間は回復するはずであり、回復されなければならない、という祈りにも似た強い思いが込められている。絶望的な状況の中、必死に生きる者たちの語られない闇にどこまで近づけたのか、と厳しく問われている気がする。


by abraxasm | 2019-07-03 13:26 | 書評
e0110713_19415007.jpg病室のテレビは国会が襲撃されたクーデター事件を放送している。一九八一年のスペイン。弁護士のマリアは三十五歳。バルセロナの病院で死にかけている。複数の事件に関わっているらしく病室には監視がついている。事件は一応終っているのだが、逃亡中の容疑者がいて、刑事が時折訪れて尋問めいた話をしていく。マリアは脳腫瘍の手術後で、しかも腫瘍はまだ取り切れていない。髪の毛は剃られ、身体にはチューブがつながれている。

多視点で語られる。遡行したり、現時点にもどったり、行きつ戻りつを繰り返しながら、絡み合う人物同士のもつれあった関係を一つ一つ解きほぐし、一本の筋の通った物語に纏め上げてゆく。親の因果が子に報い、というのは見世物小屋の口上だが、まさに、それを地で行く因果応報の地獄絵図だ。拷問、暗殺、監禁、調教とこれでもかというくらい救いようのない残酷さに満ち溢れている。

三年前、マリアはある事件を担当した。セサル・アルカラという警部がラモネダというたれ込み屋を拷問し瀕死の重傷を負わせた、とその妻が訴えた。証拠も証言も揃っていた。警部は投獄され、マリアの仕事はそれを機会に倍増した。しかし警部の暴行には理由があった。彼はプブリオ議員の悪行を暴く証拠を握っていたが、逆に娘を誘拐され、事実を話せば娘を殺すと脅されていた。ラモネダを傷めつけたのは娘の居所を吐かせるためだったのだ。

一九四一年、セサルの父マルセロは、フランコ独裁政権下のファランヘ党バダホス県支部長を務めるギリェルモ・モラの次男アンドレスの家庭教師に雇われていた。プブリオは当時貰の私設秘書としてすべてを掌握する片腕だった。そんなとき、モラが共産党シンパに襲撃される事件が起きた。暗殺を計画したのはモラの妻だった。イサベル夫人に惹かれていたマルセロは夫人の逃亡に手を貸して逮捕された後、夫人殺しの罪で処刑されてしまう。しかし、真犯人は他にいた。

第二次世界大戦中、スペインは参戦に積極的ではなかった。余力がなかったのだ。ただ、ヒトラーの支援を受けていたフランコは「青い旅団」をロシア戦線に派兵した。父による母の虐待を指弾した長男フェルナンドを、モラはその一員に加えることで罰した。アンドレスは守り手の母と兄を失い施設に放り込まれてしまう。イサベラの処刑を目撃してしまった兵士ペドロも、プブリオの手で同じくロシア行きとなる。

愛する者や自分の人生を奪われた者たちの復讐劇の幕が切って落とされる。三十五年という時間は、人をその容貌だけでなく精神の根底から変えてしまう。ましてやシベリアの強制収容所(グラーグ)という地獄を経験すれば、変わらない方がおかしかろう。死んだものと思われていたのを幸いに時間をかけて計画された復讐手段は手が込んでいた。

一方で権力を得たプブリオは議員職だけに飽き足らず、クーデターを計画し、権力の掌握を狙っていた。自分の邪魔になる警部の娘を誘拐し、口を封じたが、マリアという弁護士が獄中のセサルに接見し、証拠を嗅ぎ出そうと動き出したことに気がつき、マリアの元夫を使って脅しをかけるが、マリアには通じない。そこで、ラモネダをマリアに付き纏わせる。マリアとセサルは、娘のマルタを取り戻すことができるのか。夫人を殺した真犯人は誰か。

スペイン現代史を背景に、父の犯した罪によって人生を狂わされる子どもたちの悲惨極まりない人生を描く圧巻のミステリ。とはいえ、謎解き興味は薄い。あまりに多くの人間が視点人物となって事件を異なる角度から語りはじめるので、謎がいつまでも謎でいられなくなるのだ。そうなると、興味は人間ドラマの方に移るわけだが、今のこの国の現状と変わらず、悪は追及をすり抜け、運命に翻弄された弱者ばかりが憂き目を見ることになる。どこまで行っても霧の晴れない世界に放り込まれた者たちが互いに傷つけあうのを傍で見ているようでいたたまれなくなる。

小説の中で日本刀が大事な役割を果たしている。ただし、日本で作られたものではない。ピレネー近くの村で鍛冶職人をしているマリアの父が作ったものだ。日本人読者からすれば、それはちょっと、と思ってしまうのだが、鞘は泰山木と竹、鍔には龍が彫られているというから本物の拵えのようだ。原題は<La Tristeza del Samurái>(侍の悲しみ)。西洋人から見た武士道に対する憧憬は感じられるものの木に竹を接いだような違和感が残る。

バルセロナを舞台にしたミステリといえば、カルロス・ルイス・サフォンの『風の影』を思い出すが、スペインの近代史を背景にしている点以外にも、グラン・ギニョールを彷彿させる血塗れの残虐さや醜悪さの追求といった点に共通するものを感じる。裏切りとそれに対する報復に寄せる執着も並々ならぬものを感じる。国民性などという言葉で簡単に括りたくはないが、美観地区にちなんで、バルセロナ・ゴシックとでも名づけたいような独特の雰囲気がある。人にもよるが残酷描写が嫌いでなければハマってみるのも悪くないかもしれない。


by abraxasm | 2019-07-01 19:42 | 書評