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e0110713_09555977.jpg書名からロシア文学だと思うかもしれないが作者はアメリカ人。原作は英語で書かれている。原題は<A Gentleman in Moscow>(モスクワの紳士)。邦題は主人公アレクサンドル・イリイチ・ロストフが帝政ロシアの伯爵であることに由来する。小説が扱うのは一九二二年から一九四五年まで。小説が始まる五年前の一九一七年、ロシアでは二月革命と十月革命が起きている。貴族には、亡命、流刑、投獄、銃殺など、悲惨な運命が待っていた。

暗い予感に躊躇するかもしれないが、早まってはいけない。主人公のロストフ伯爵は銃殺刑を免れる。革命前に書いた詩が人民に行動を促した事実が認められたのだ。従来どおり、モスクワの超一流ホテル、メトロポールに住むことを許される。ただし、部屋は最上級のスイートから屋根裏部屋に変わる。ホテル外に一歩でも出たら銃殺刑という処分。貴族のプライドを傷つけ、自由を奪う、見せしめの刑である。

伯爵は意気消沈したか、それとも自分をこんな目にあわせた相手に復讐を誓っただろうか。自暴自棄になっただろうか。とんでもない。名づけ親である大公の「自らの境遇の奴隷となってはならない」というモットーに従い、新しい境遇を受け入れ、第二の人生に足を踏み出してゆく。伯爵は逆境を前向きにとらえ、新生を愉しむ。その姿はむしろ明るく颯爽としている。

この伯爵という人物が実に魅力的だ。小説の魅力の大半はこの人物にかかっている。当意即妙の話術。文学や音楽に関する教養。人を惹きつける態度物腰。人間観察力による客の差配。料理の選択とそれに合わせるワインに関する蘊蓄を含め、貴族として持ち合わせている資質に加え、主人公だけが持つ人間的魅力に溢れている。

貴族とか紳士とかいう人々はこんなふうに生きているのか、とその優雅さにため息が出る。何しろ、父が作らせた時計は一日二度しか鳴らない。紳士たるもの時間に縛られてはならぬのだ。朝起きたら、コーヒーとビスケット、果物を摂り、昼の十二時に時計が鳴るまでは読書。<ピアッツァ>で昼食を楽しんだ後は好きなことに時間を費やす。晩餐はレストラン<ボヤルスキー>でワインを伴に、食後はバー<シャリャーピン>でブランデーを一杯。そして夜十二時の時計の音を聞く前に眠るというもの。

机の脚に隠された金貨の力もあり、欲しいものは取り寄せる。外に出ずとも暮らし向きに不自由はない。午前中は読書で時間がつぶれるが、午後の無聊をどうしたものか。主人公を退屈から救うのが少女ニーナとの出会いだ。仕事に忙しい父親に放っておかれたせいで、ニーナはホテルを遊び場にしていた。伯爵はニーナに案内されホテルのバックヤードに通暁する。秘密の通路や隠し部屋は単なる遊び場所ではなく、後に出てくるスパイ活劇での出番を待つ。伯爵と少女との会話がチャーミング。

貴族にロマンスはつきものだが、外出の自由を奪われた男は女とどう付き合うのか。密室物のミステリ同様、軟禁状態での色恋は不可能に思える。伯爵はコース料理はメインディッシュから逆算してオードブルを選ぶ。同様に作家はストーリを組み立てる時点で、後から起きる事件の原因を先に置く。綿密に練られたプロットがあって、多くの伏線が張られている。二度読みたくなる。ああ、これはこのためだったのか、と膝を叩くこと請合い。

ホームズ張りの観察眼の持ち主である伯爵は、レストランで客をどの席に案内するのが最適か一目でわかる。その特技を生かして給仕長となる。マネージャーのアンドレイ、料理長のエミールと互いの力量を知る者同士の間に友情が芽生える。その一方で、伯爵の前に一人の男が立ちふさがる。給仕のビショップだ。党の実力者にコネがあり、権力の階段を上ってゆく。この男が伯爵の宿敵となる。

敵がいれば味方もできる。グルジア出身の元赤軍大佐オシブがその一人。外交上の必要から伯爵に英仏語会話やジェントルマン・シップを学ぶうち肝胆相照らす仲になる。もう一人がバーの相客リチャード。アメリカ人ながら育ちの良さや学歴、と共通項のある二人はすぐに打ち解ける。リチャードがプレゼントした蓄音機とレコードも大事な伏線のひとつ。

革命時、パリにいた伯爵は身の安全を図るなら帰るべきではなかった。祖母の国外脱出を援けるためなら自分も一緒に逃げればいい。戦いに加わらないのに、なぜ国内にとどまったのか。それには深い理由があった。新しい友との出会いの中で、過去の経緯が語られる。伯爵の衒気が敵を作り、最愛の妹を傷つけたのだ。王女をめぐる軽騎兵と貴族の恋の鞘当て。ツルゲーネフの小説にでも出てきそうな過去の逸話が伯爵の人物像に陰翳を添える。

貴族であることを理由に処分されながら、伯爵は一概に革命後のソヴィエトに対して批判的な立ち位置をとらない。むしろ、時代というものは動いてゆくものだ、と冷静に受け止めている。しかし、スターリン独裁による粛清やシベリアの収容所という現実は、自分の友人知人の運命と直接関わってくる。ニーナに代わり、その娘を育てることになるのもニーナの夫のシベリア送りがからんでいる。

三十代から六十代までの人生を、伯爵はホテルの外に出ることなく、友達に恵まれ、女性を愛し、「娘」を授かり、子育てを経験し、やがて立派に成長した娘を外の世界に送り出す。どんな時代にあっても、どんなところに暮らしていても、人と人とは邂逅する。階級差やイデオロギー、国籍を超えて、人は人と生きてゆく。近頃珍しい人間賛歌が謳いあげられる。

ひとつの街のように、まるで異なる人生を生きてきた人と人が、ひと時のめぐり逢いを生きる、ホテルという場所を生かして、魅力的な登場人物を配し、ここぞというときに動かす。それまで軽い喜劇調で進んでいた話が、最高潮に達すると、ル・カレのスパイ小説のようなシリアス調に変化する。はじめに張っておいた伏線が次々と回収され、見事に収斂する。

格式あるメトロポール・ホテルの調度は勿論のこと、大きなフロアを泳ぐように動き回る給仕たち。様々な食材をさばくレストランの調理場。林檎の花咲きこぼれるニジニ・ノヴゴロド。ライラックの蜜を求めて蜜蜂が群舞するアレクサンドロフスキー庭園、と魅力溢れる風景が眼の前に浮び上る。まるで映画の一シーンを見るようだと思っていたら、映画化も決まっているという。アンドレイのナイフ四本のジャグリング、エミールの包丁さばき、と見どころは多いが、演ずる役者もさぞ大変なことだろう。


by abraxasm | 2019-06-23 09:56 | 書評
e0110713_12290041.jpg<上・下巻併せての評です>

「アメリカが清らかだったことはかつて一度もない。悪党どもに幸いあれ―」

「電文体」が帰ってきた。一文が短い。まるで電報。一文に単語が五つ以上使われることは滅多にない。新聞の見出しが躍る。電話の録音の書き起こし。マフィアのボスのバカ話。ハリウッドのスキャンダル。ときどき無性に読みたくなるジェイムズ・エルロイ。シリーズ中残る一作は「アンダーワールドUSA」三部作の第二作。アメリカ史に影を落とす要人暗殺の連鎖を背景に、男たちの報われることのない闘いを描く。

前作で死んだケンパー・ボイドに代わり、ウェイン・ジュニアが登場。ラスヴェガスの富豪、ウェイン・テッドロー・シニアの一人息子。ウェイン・シニアはクー・クラックス・クラン。子は父を憎んでいる。憎悪がウェイン・ジュニアの糧だ。ピート・ポンデュラントはそんなウェインを弟のように見守る。三人の主人公が交代で視点人物を務める。もう一人はウォード・リテル。懐かしい友に再会した気分だ。

ジャック・ケネディの死に始まり、マーティン・ルーサー・キング、ボビー・ケネディの死に終わる。アメリカの暗黒史を暴くクロニクル。一九六三年十一月二十二日、ラスヴェガス市警刑事、ウェイン・テッドロー・ジュニアのダラス到着に始まる。以後、ラスヴェガス、ロサンゼルス、メンフィス。さらにキューバ、ヴェトナム、ラオス国境のケシ畑。舞台は太平洋をまたぐ。時はヴェトナム戦争の真っ最中。

ピートにとってヴェトナムはもう一つのキューバだ。ピッグス湾で仲間を見捨てたケネディが許せない。軍から横流しされた武器をキューバに送る。夢よもう一度だ。イデオロギーではない。金儲けも関係ない。ハヴァナには夢があった。カジノがあった。そこにピートの生きる場所があった。ケネディは腰が砕けた。カストロはハヴァナを奪った。ピートは夢を忘れられない。

ウェインはダラスに送り込まれた。指令は黒人のヒモの殺害。ウェインは殺せなかった。逆にダラスの刑事を殺してしまう。ピートの助けを得て死体を処理。辛くも罪を免れる。ところが、ヒモ男はウェインの妻を惨殺する。復讐に狂ったウェインは仲間の黒人三人を殺し、刑事を辞める。化学専攻のウェインはヘロイン精製に通じていた。ピートはウェインをヴェトナムに誘う。ウェインは見る。ヴェトナムを。ヘロインに群がる男どもの姿を。ウェインは見続ける。見ることは知ることだ。ウェインは強くなる。

ウォードは孤独だ。理想や主義を捨てた堕落したインテリ。誰も彼を理解できない。権力者の黒子となって相手を援ける。相手は誰でもいい。大富豪でも、マフィアのボスでも、FBI長官でも。イデオロギーも信仰も介入する余地はない。相手に合わせて仮面をかぶり、カメレオンのように色を変える。盗聴し、強請り、人を動かす。帳簿を誤魔化し、金を動かす。ウォードが動く方に世界は動く。人が殺される。ウォードは怖れる。

シェルシェ・ラ・ファム。女を探せ。犯罪の陰に女あり。エルロイの女たちは魅力的だ。顔やスタイルは当然のこと。会話が弾み、機転が利き、歌が歌え、ダンスが踊れ、数字に強い。腕が立つのは男も同じだが、男は女に勝てない。エルロイの男たちは女に弱い。ノワールのヒーローなのに。惚れっぽい。人間臭い。そこがいい。

男たちの見果てぬ夢が終わる。夢は美しすぎた。ヴェトナムはキューバに代わる楽園ではなかった。ボビーの目指すアメリカの正義は潰える。マフィアが潰す。フーヴァーが潰す。組織は一度握った権力を離さない。そのためには裏切る。裏切りに次ぐ裏切り。大義は国家に裏切られ、男は愛した女に裏切られる。ドラッグが見せる束の間の美しいトリップ。夢の終わりはいつも切ない。

オズワルドは、何故ジャック・ルビーに殺されたのか。マーティン・ルーサー・キングを殺したかったのは誰か。ボビーの死を願ったのは。史実と虚構をつき混ぜ、どこまでが本当でどこからがフィクションなのか、そのあわいを判然とさせないエルロイ・マジック。これが事実である必要はない。しかし、これが事実であってもよい。そう思わされるだけの重さが宿る入魂のノワールである。今のこの国の報道など、この小説一文ほどの重さもない。


by abraxasm | 2019-06-18 12:29 | 書評
e0110713_14022809.jpg<上・下巻併せての評です>

その情景は私の目に焼きついている。通信衛星を使った日米間初のテレビ宇宙中継の実験放送中に飛び込んできたからだ。中学一年生だった。人気のヘア・スタイルをまねようと髪を伸ばし始めていたころだ。当時、ジョン・F ・ケネディ大統領は、その清新なイメージによって世界中で人気を集めていた。その大統領が白昼、衆人が環視する中で殺されたのだ。あの時の衝撃は忘れることはない。

実行犯としてリー・ハ-ヴェイ・オズワルドが逮捕されたが、二日後ジャック・ルビーによって殺されており、真相は闇に葬られたままだ。アメリカという国家の闇の部分を描くとしたらまさにうってつけの題材で、狂犬の異名を持つジェイムズ・エルロイが放っておくはずがない。『アメリカン・タブロイド』(上・下)は「暗黒のL.A.四部作」に続く「アンダーワールドUSA三部作」の第一作。舞台はL.Aからアメリカ全土に広がる。

大男のピート・ポンデュラントは素手で人を殴り殺し、手錠を引きちぎるという化け物である。労働界のボス、ジミー・ホッファ、大富豪のハワード・ヒューズという権力を後ろ盾に、殺しも請け負えば、副業の探偵業で不倫亭主を強請りもする、強面の便利屋だ。男を殴り殺した事件を担当したのが、当時FBIにいたケンパー・ボイドとウォード・J・リテル。今回はこの三人が章が変わるたびに語り手役を交代し、その視点から事件を、心中を語る。

ケンパー・ボイドは、FBI長官エドガー・フーヴァーにスパイとしての力量を買われ、形式上はFBIを辞職したことにし、労働組合の年金基金不正を暴くマクレラン委員会で働くことになる。委員会を率いるのはロバート・ケネディ。裕福な家に生まれたボイドだったが父の自殺で一家は没落。これを機会にケネディ家に近づき、失地回復を夢見る。野心家で、女にもて、服装やホテルには金を惜しまない高級志向の色男ながら、自在に訛りを操るなど、頭も切れ、腕も立つ。

ウォード・リテルは、盗聴などの汚れ仕事に長じるFBI特別捜査官。イエズス会出身で弁護士資格も持つ理想家肌で、ボビーに共感し近づこうとするが相手にされない。任務の上ではボイドには頭が上がらず、腕力ではピートを怖れている。小心で緊張をほぐすためについ酒に頼るところがある。しかし、いったんどん底まで落ちたことで、腹をくくり、マフィアの弁護士を引きうける。それ以降、リテルは一段と凄みを見せるようになる。

三人の悪党の眼から見たアメリカの裏面史である。表の世界を動かしているのは政治家だが、実際に動くのはその手足となって働く下っ端の連中である。上には上の思惑があるが、下には下の思案がある。政治家、金持ち連中は裏でマフィアとつながっているし、それを監視する立場のFBIは盗聴で得た情報を使い政治家やマフィアを牛耳ろうとする。当時キューバではカストロの勢いが増しており、麻薬とカジノの利権をめぐり、マフィアのボス連中はキューバ対策で頭を悩ませていた。

CIAは、反カストロの亡命キューバ人による部隊を作り、米軍とともにピッグス湾に侵攻する作戦を立てる。ピートとボイドは、上から密命を受け、キューバ人部隊を訓練することになる。その一方で彼らはそれとは別にカストロ暗殺を企て、狙撃手を募り、秘かに訓練を繰り返していた。その狙撃手が、カストロではなく、大統領暗殺に転用されることになろうとは、このとき二人は知る由もない。

南部の名門出身でイェール大卒のボイドはジャック・ケネディに自分を重ねていた。もし、父の死がなければ自分が大統領になっていたかもしれない、という思いである。しかし、ジャックは、ボイドなど眼中になかった。盗聴テープでそれを知り、傷ついたボイドは、自暴自棄のような作戦にピートを引き入れる。マフィアの麻薬を横取りすることに成功はするものの、二人はその後、報復怖れて疑心暗鬼に陥り、頭痛に悩まされ、それまで手を出さなかった薬に頼るようになる。

フーヴァーに失策を咎められ、FBIを追われたリテルは、マフィアのボスの一人に弁護士として雇われ、その後ハワード・ヒューズの下でも働くことになる。ピッグス湾事件が完全な失敗に終わり、カストロ暗殺の目も消えた。ピートとボイドは、麻薬強奪の件がばれ、マフィアに生殺与奪の権を握られてしまう。そんな二人に挽回策を見つけてきたのはリテルだった。二人の使命はジャックを殺すことだった。

「電文体」が影を潜めた硬質な文章から伝わってくるのは、男たちの悲しさだ。人の命などこれっぽっちも気に留めない男たちだが、何故か妙に心に残る。ジャックに追いつこうと、精一杯虚勢を張る見栄っ張りなボイド。同じカトリックとしてボビーの力になろうと身を粉にして働きながら一顧だにされないリテル。豪勢な部屋をあてがわれていても番犬にとっては犬小屋だと自嘲するピート。

三人の男は、危険の中に身を置いていないと、生きる実感が得られない、内的衝動を抱えている。エルロイ自身の衝動の反映だろう。ヒューズ、フーヴァーといった大物連は徹底的に戯画化される反面、自分一人の才覚で生きるしかない男たちは、意思も感情も知力もある等身大の人間として描かれている。ただ、組織を背負って生きてきた男たちは後ろ盾をなくすと脆い。自分の魂を売って組織を乗り換えた男だけが強かに生き残る、その非情さに胸蓋がれる。エルロイはチャンドラーが嫌いだそうだ。たしかに、チャンドラーにこんな男は書けない。シリーズは続く。


by abraxasm | 2019-06-13 14:02 | 書評
e0110713_15091734.jpgスウェーデンの冬は寒い。海まで凍りついてしまう。毎朝、島の入り江に張った氷を斧で叩き割って穴を開け、その中につかるのが「私」の日課だ。寒さと孤独と闘う、と本人はいうが、自分に課した懲罰のような行為だ。元医師のフレドリックは六十六歳。昔はストックホルムを臨む、この群島に五十世帯もの家族が暮らしていた。今は七人だけだ。自ら望んで島流しのような暮らしをするにはどんな理由があるのだろう。

ある日、水浴を終えて家に帰る途中、歩行器に頼って雪の上を歩く女の姿を見つける。どうやら、この島を訪れる唯一の訪問者である郵便配達夫ヤンソンがハイドロコプターに乗せてきたらしい。近づくにつれ、それが昔捨てたハリエットであることが分かる。元恋人は癌に侵され余命いくばくもなかった。死ぬ前に昔の約束を果たせと言いに来たのだった。

刑事ヴァランダー・シリーズで知られる北欧ミステリの雄、へニング・マンケルによる新作。つかみはばっちりという発端だが、これはミステリでもサスペンスでもない。いや、もちろんドキドキハラハラはさせられる。秘されている事実があるからだ。「私」はなぜ、こんな孤独な暮しを自分に強いているのか。ハリエットは、なぜ別れて四十年も経つ今頃になってフレドリックに会いに来たのか。

孤独な隠遁生活を送る老人という設定だけで、読みたいと思わされる。他人事ではないからだ。我が身を振り返れば、主人公と同い年の今も、妻や子に囲まれてひとつ家に暮らしてはいるものの、これは単なる偶然に過ぎない。もともと、家族を持とうなどとは考えてもいなかった。もとより自分から動くタイプではない。出会いというものがあり、相手の意思というものがなければ、どうなっていたかは分からない。

家族を持てば、責任がついて回る。自分勝手な生き方を送りたいと思っているものには、それは桎梏でしかない。おまけに、現に生きている世の中は自分が生きていたいと思うものでもなければ、自分の子を住まわせたいと思う世界でもなかった。主人公は何故、絶海の孤島で孤独な人生を送ることにしたのか、その訳が知りたいと思った。

この歳になると、結婚も二度や三度の経験があるのが西欧の常識らしい。この前読んだデニス・ジョンソンの『海の乙女の惜しみなさ』にも、別れた元妻が死ぬ前に電話をかけてくる話があった。人の死を前にすると、誰しも敬虔な気持ちにさせられる。振り返りたくもない過去を振り返る気にさせられるのだ。

ミステリではないので、ネタバレを心配することもないのだが、これから読む読者のことを考えると内容を詳しく書くことはできない。主人公が外科医で、自ら孤島に引きこもっているというなら、その原因は自分がおかした誤診のせいでは、と推察できる。足の不自由な老女が、連絡もなしに、突然氷に閉ざされた絶海の孤島にまで足を運ぶのは、有無を言わさず、相手をそこから引っ張り出す目的があるからだ。

主人公は過去の不幸な出来事を「大惨事(カタストロフ)」と呼んでいる。被害者意識から自分の行為に対して直面することを避け、病院を飛び出して外国に逃げた。故国に舞い戻ってからは祖母の家があったこの島に世間から逃げるようにして隠れ住んでいる。四十年ぶりに突然現れた元恋人が、彼を世界に引っ張り出し、連れまわることで、結果的にフレドリックは世界との関係を作り直すことを迫られる。

帯に「孤独な男の贖罪と再生、そして希望の物語」とあるが、それは主人公の側に立った視点でしかない。客観的に見れば、主人公の行為は利己的で、無責任。それ以上に他者に対しての思いやりというものを徹底的に欠いている。捨てた女のいうことを聞いて、旅に出たのはいいが、過去を責められると、また女を振り捨てて島に逃げ帰る。古傷に向き合いはしたが、相手が責めないのをいいことに、再び傷つけるような行為に及ぶ。

どうにも救いようのない男なのだ。犬や猫、鳥を相手にしている時だけ人間らしさが垣間見える。そう考えて、思い至った。三十年以上、誰ともつきあって来なかったのだ。人間とのつきあい方などとうに忘れていて当然ではないか。そんな「人でなし」が、死を前にした昔の恋人の手で、人の世の中に連れ戻され、情けない目や、怖い目にあわされ、しだいに人間性を回復してゆく。これはそういう物語なのだ。

「贖罪」というのは、まだ納得がいかないが、「再生」の物語というなら、なるほど、と思わされる。ミステリの大家らしく、読者を物語世界に誘い込む手立ては巧いものだ。イタリアの名工の注文靴に対する蘊蓄など、枝葉末節と見誤りがちだが、冒頭から結末に至るまで、ちゃんと主筋にからみついていて、最後にきちんと回収される。どれだけ逃げ回っていても、最後には勘定を合わせるために、見たくない真実に直面させられるのが人生というものなのだろう。たまには自分の人生について振り返ってみるのも悪くない。そんな気にさせられる物語だ。


by abraxasm | 2019-06-08 15:10 | 書評
e0110713_23462236.jpg大学時代、同じゼミにいた友人が、岩波文庫版の『アエネーイス』について話すのを傍で聞いたことがある。ギリシアを代表する詩人、ホメーロスの代表作が『イーリアス』、『オデュッセイア』だとすると、ローマでそれにあたるのが、神々の血を引く英雄アエネーアスが、ローマ帝国の礎を築くまでの遍歴を描いた長編叙事詩『アエネーイス』である。そんな話だった。本の選び方に偏りがあり、古典に疎い学生には得難い友であった。

書名を耳にしても、手にとってみるほどの興味は持てず、長い間ご無沙汰をしていた。実際に読んだのはずっと後で、映画『トロイ』に触発されてというのが本当のところだ。もちろん、ブロッホに『ウェルギリウスの死』という作品があることも知らなかった。それを読んでみようと思ったのは、ある日突然ネット上に書影が流れて来たからで、理由は分からないが、何故か気になった。

ジョイスの『ユリシーズ』が、ダブリンの街を行く、レオポルド・ブルームの一日を「意識の流れ」の手法で追ったものであるように、『ウェルギリウスの死』は、ローマ時代の詩人ウェルギリウスが、死の床に就こうとする一日を、詩人の内面に湧き起こる心的葛藤や幻想の叙述、友人との対話という形式を通して、今まさに死んでいこうとする芸術家の魂の揺れを克明に描いた芸術家小説といえよう。

アウグストゥスの船団とともにアテーナイから帰る途中、病に倒れたウェルギリウスを乗せた船は、カラブリア海岸にあるブルンディシウムの港に停泊する。詩人はアテーナイで『アエネーイス』を完成させた後は彼の地で哲学にいそしみ、余生を過ごすつもりでいたところを思いもかけずアウグストゥスに帰国を共にするよう要請され、やむなく帰国の途に就いた。もとより、『アエネーイス』は未完であり、本人としては不本意の旅である。

おまけに、炎暑がたたって詩人は病みつき、帰りの船でも床に就いたままとなってしまう。病を得た者の常として気は弱まり、畢生の大作の帰趨に対する展望が見えないこともあり、ウェルギリウスは死を覚悟し、未完の『アエネーイス』を他人の手に渡すよりは、いっそ夜明けを待って自分の手で焼いてしまおうと決意する。

『ウェルギリウスの死』は、死期が迫ったウェルギリウスに次々と襲いかかる幻想、それに焼却の運命にある『アエネーイス』を守ろうとする友や皇帝アウグストゥスと詩人との対話で成り立っている。その主題の一つが、芸術作品はその作者の所有物なのか、それを受容する無数の人々のものであるのか、という問いである。もとより、二者択一ができるような問いではない。それだけに、双方の情理を尽くしての対話、論戦が白熱するのは当然である。

そもそも、何故ウェルギリウスは草稿を焼いてしまわねばならないのか、その理由が第三者である友人プロティウスやルキウス、それに、完成した暁には『アエネーイス』を捧げられるはずの皇帝アウグストゥスには分らない。完成はしていないまでも、完成途上の詩は本人の朗読により何度も耳にしている。ローマの宝ともいえる傑作であることは多くの者が知っている。病気を治して、完成させればいいだけのことではないかというのが、三人の一致する見解だ。

それに対するウェルギリウスの考えは、冒頭から明らかにされている。まず、ウェルギリウスは根っからの宮廷人ではない。農民の子で、父親は陶工をしていた。長じて都会に来るようになり、実学に励んでいたが何の因果か今は詩人としてもてはやされている。周囲の期待に応えているうちに何となくここまで来ただけで、本人の中では詩人である自分に納得が行っていないのだ。

ウェルギリウスは、自分の詩は万人向けに受けの好い「美」を謳ったものであり、現実や正しい認識を取り上げていない、と思っている。何故そうしたかといえば、現実や認識をうたったところで、それを喜ぶ者はいないからだ。船中や市中で目にする群衆の姿、その浅ましさを目にすることで、詩で大衆に働きかけ、世の中の何かを変えることなどできない、という実感が強まってくる。そこに、自分の乗った輿を担ぐ捕虜である奴隷の惨状が追い打ちをかけ、無力感は高まる一方である。

宿舎に入った詩人は微睡みの中で夢を、熱のせいで幻覚を見る。そこにいるはずもない少年や奴隷、過去の恋人が眼の前に立ち現れて詩人に語りかける。その幻視、幻聴はすべて詩人自身の裡より生じる、自己内対話であろう。自分の資質にない仕事をし遂げ、名誉を得るも、自分が本当にしたかったことは何ら成し遂げていない。人生が終わりに近づいた時に、多くの人が感じる焦慮、悔恨が様々な想念となって、弱った魂に追い打ちをかけるのだ。

特に「死」のイメージが強烈だ。アエネーアスやオルフェウスに導かれ、黄泉の国を訪れる幻想をはじめ、間際に迫った死に対する強迫観念の強さに圧倒される。幻想文学好きとしては、イメージが奔騰する幻想の描写に迫力を覚える。ただ、このイメージの寄って来たるところが、ユダヤ人であったブロッホがナチスの手によって捕えられ、五週間という長きに渡って収容所に投獄され「死」と直面していたことにある、と知ると唯々イメージの豊かさに感心しているわけにはいかない。

結果的に作家は死を免れることになるが、詩人はローマへの帰還は叶わず、旅先で死んでいる。四大に基づく四部構成の「第四部 灝気―帰郷」は、詩人の導き手である少年リュサニアスと過去への執着の象徴である恋人プロティアが一体化した存在に導かれ、死の世界に分け入る詩人の最期を描く。人間から動物へ、そして植物へと形相を変化させながら、次第に自と他の区別を離れ「言葉の彼方」へ旅立つ。人が死に至る場面を描く小説は多いが、これほど執拗に変化してゆく自分を追いつづける文学は珍しい。余りにも西欧的な死生観に違和感がないでもないが、いずれは死ぬ身。一読の価値がある。

めったに目にすることのない漢語(倏忽、灝気など)が頻出し、久しぶりに辞書の厄介になったが、詩を意識した荘重な叙事、いかにもローマというべき弁論術を駆使した対話、めくるめく幻想が奔出するイメージ、とただでさえ大部の著作を場面によって訳し分ける苦労は並々ならぬものだったろう。二段組四百ページを超えるボリュームではあるが、読み終えた後の達成感は保証する。


by abraxasm | 2019-06-05 23:46 | 書評