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e0110713_15062809.jpg76年から96年までに発表されてはいるものの、単行本未収録であった短篇を集めたものである。著者自身は原稿も掲載誌も残しておらず、編者が当時の掲載誌を捜し集めたという。初出は「小説宝石」をはじめとする小説誌で、今では廃刊になっているものもある。一昔前には駅前の書店などで発売日に平積みされており、その当時は大人が読む本だと思っていた。近頃では書店そのものを見かけないので、どうなっているのかしらないが、なんだか妙に懐かしい匂いのする小説集だ。

巻頭に置かれた表題作を読み、子どもの頃を思い出した。田舎のことで、サーカスは祭りの日くらいしか町に来なかった。鋼鉄製の球体の檻の中をオートバイがぐるぐると駆け回る演し物は記憶に焼きついている。「アポロン」は、そのバイク乗りの綽名である。本来はスピード・レーサーになりたかったが、それには途轍もない金がかかる。男が選んだのはどこまで行っても飛び出すことのできない鋼鉄の檻の中をいつまでも走り続けることだった。

華やかなボリショイなどとはちがう小屋掛けのサーカス。旅から旅への浮草暮らしの男と女が死を賭した恋の顛末。女は言う「サーカスは、古くさくて、うす汚くて、わびしいものほど、華やかで残酷で素晴らしいんです」。逆説である。皆川博子の描く世界は、陰と陽でいえば陰。内と外でいえば内。表と裏でいえば裏。どこまでいっても明るい外部に抜け出ることがない。逆に、内部は多彩だ。体や心の中に分け入るような物語世界は表からは見えない色や形と冷たいようでいて生温かい人肌を感じさせる。

書かれた時間の順に並べられている。掲載誌の求めに応じて書きぶりも変わっていったものと思われるが、個人的には初期のものに心引かれる。「冬虫夏草」は、主人公の家に寄生するように棲みついた女のことをいうのだろうか。腐れ縁めいた二人の中年女と若い男の奇妙な同居生活の歪さを通して、頼られることの喜びと煩わしさを被虐嗜虐の快楽にまで突き詰めた意欲作。戦時疎開の記憶が生々しく、ひりひりするような女二人の心理劇が痛い。

ヒッチコックの『めまい』を彷彿させる「致死量の夢」は、誰でも一度や二度は見た覚えのある「墜落する夢」が主題。人は耐えられないほど辛いことに出会うと記憶に蓋をする。迪子が繰り返し見る墜ちる夢には何が隠されているのか。秘された記憶に閉じ込められた罪が、当事者同士の偶然の再会により一気に噴き出す。小さな公営住宅に暮らす三人の女には自分も知らない過去の因縁があった。短い話の中で二転三転する謎解きの妙味。人の心の深淵に潜む悪意の奔出を描いて秀逸。

「天井から、肉塊が吊り下がっている。生肉は、かすかに腐臭を放ちはじめている」という穏やかでない書き出しではじまるのは「雪の下の殺意」。雪まつりで賑わう地方のスナックが舞台。開けたばかりの店に同業のミツ子が顔を出す。七年前の雪まつりの晩、ミツ子の姉のトシ子はかがり火に飛び込んで死んだ。云うなら今夜は七回忌。雪に降り込められる北の町ならではの鬱屈が二人の会話に漂う。

同じ店の台所でマスターの妻、友江が坐り込んで肉塊を眺めている。なぜ友江は呆けたように吊り下げた肉塊を眺めているのか。意表を突く出だし、時と場所、話の筋を限る「三一致の法則」通り、舞台劇を見るようだ。人口三万の小さな町、ほとんどの人は顔見知りだ。封じ込められたような町では男と女の出会いもまた限られる。パイの奪い合いが狂気の賭けを生む。謎は解けても、雪解けは遠い。

公共図書館に所蔵がなく、故山村正夫氏の書庫から発見されたという曰く付きの「死化粧」。書生と人情本作者のコンビが旅役者の子役の死の謎を解く開化人情譚。『柳多留』からの引用や、湯屋の風情、河原者に対する差別意識、お上の威光を振りかざす巡査、と江戸から明治にかけての人情の移り変わりも視野に入れた謎解き小説だ。山田風太郎ばりの開化物は他の作品と比べると趣きが変わるが、余韻の残る幕切れなど、手馴れたものだ。

中井英夫に傾倒するミステリー作家が、和泉式部に因む暗号の謎を解くのが「ほたる式部秘抄」。初の長篇ミステリーでジャンルの登龍門であるポオ賞をとったものの、次作を書きあぐねている「わたし」は高校時代からの友人敦子に乗せられて取材で京都旅行中。貴船の宿に泊まった二人は、そこで一人の女の残した暗号を教えられる。急用で先に帰ることになった敦子に煽られ、慣れぬ暗号解読にはげむ「わたし」は、ついにその謎を解く。冒頭と結末部分が受賞後第一作の文章。間に挟まれているのが暗号解読ミステリーという凝った造り。

ミステリーのジャンルに当てはまるものを集めた『夜のアポロン』は幻想小説を集めた『夜のリフレーン』と対をなす皆川博子の単行本未収録短篇集である。編者の日下三蔵氏も解説で書いているように「クオリティの高さは驚異的」である。これが単行本未収録で、作家自身も原稿や掲載誌のコピーを残していないというのが信じられない。これくらいのものならいつでも書ける、という作家の自負かも知れないが、何とか本にしたいという編者の執念がなければ二度と日の目を見ることはなかったろう。編集者の存在を感じさせる一冊である。


by abraxasm | 2019-04-28 15:06 | 書評

『飛族』村田喜代子

e0110713_20124434.jpgタイトルを目にしたときは中国の少数民族の話かと思った。まさか、イカロスでもあるまいに、人が空を飛ぶ話になるとは思わなかった。イカロスは羽根をつけて飛ぶのだから、それとはちがう。この小説では人が鳥に変身する。空を自由に飛びたいなどという、ロマンチックなものではなく、もっと切羽詰まったやむにやまれぬ事情で、人は衷心から鳥になりたいと希求するときがあるのだ。

周りの海が東シナ海というのだから、五島列島近辺の小島が舞台。語り手のウミ子は六十過ぎの女性だが、その母親で九十二歳のイオからは子ども扱いされている。ウミ子は大分に住んでいるが、故郷の島に暮らす三人の老婆の一人が死んだので、葬儀を兼ねて母を自分の家に引き取ることを考えてやってきたのだ。しかし、母がいなくなれば身寄りのない八十八歳のソメ子さん一人が島に残ることになる。ウミ子はそれが気がかりで話を出し渋っていた。

今では女年寄りばかりが住む島々では、単独で行事を催すのは難しく、互いに参加しあうようになっている。祝島の祭に参加するためウミ子たちは船で島に渡る。女年寄りはそこで鳥踊りを舞う。鳥の頭巾に紙の翼の羽織を着て、ほどけた輪のようにいつまでも舞うのである。男たちは傍らで焼酎を飲みながら世間話に余念がない。老婆たちは知る由もないが、わずかな年寄りが暮らす島のために、電気やガスの供給に莫大な金がかかる。連絡船の油代は年二千万円もかかるというから何と気前のいいこと、と初めは思った。

ウミ子は島に見回りに来た鴫という名の青年と知り合う。鴫は市役所に勤めているが、このあたりは無人島も多く、外国人が棲みつくと面倒なので見回っているのだという。無人島に外国人が住みつくと、そこはその国の領土と認められるらしい。そこで、時々上陸して「君が代」を流し、わが国固有の領土であることを示しているという。島暮らしの年寄りの風変わりな習俗の話かと思ったらきな臭い話になってきた。

このあたりの島は古来より歌にも歌われ、遣唐使も水や食料を求めて立ち寄った。広報課に勤める鴫は、ウミ子にそんな話をして、島の売り込みにかかる。インフラの整備にいくら金がかかっても無人島になるよりはいいらしい。島を離れようとしないイオとの間で話は物別れになったままだ。釣り糸を垂れれば魚はいくらでも釣れるし、今でも海に潜るソメ子さんに教えてもらったシマで、鮑もとり放題だ。ウミ子は少しずつ島の暮らしになじんでいく。

透明度の高い海の水の色や、アジサシやカツオドリが舞う空、また海に潜りはじめたウミ子の視点から描かれる神秘的な海中の景色、とまるでリゾートライフを綴るエッセイのように思えた小説に、ふと翳りが落ちるのは話が海難事故に及ぶ時だ。ソメ子の弟の遺体も見つからなかった。そんなとき酒を飲んで寝ていた亭主がガバッと起きて「姉ちゃ、姉ちゃ」と弟の声で話しだしたのだ。弟は言う。自分は今はイソシギになったので家には帰れないと。

クエ漁に出た船は、漁場で大量のクエを獲るが、台湾坊主と呼ばれる台風につかまって船が壊されそうになる。その時、老漁師が「鳥になって空ば飛べ」といって船縁から飛び立った。それに続いて、皆が飛び立ち、今は鳥になったという。同じ船で遭難したイオの夫も鳥になっている。イオとソメ子は、祭りが終わっても崖の上で、しょっちゅう羽ばたく練習をしている。あれは飛び立つ準備なのだろうか。ウミ子はいぶかしく眺めるばかりだ。

ウミ子はポスターの写真撮影で沖根島を訪れる鴫に同行する。宿泊センターの鯨塚という老人は、全員離島した島を観光地にするという鴫の話が気に入らない。しかし、領土を守ることが真意と気づき、二人に倉庫で見つけたカセット・テープを聞かせる。卒業式で歌う「蛍の光」だ。最終便が出るときに流すのだという。その四番の歌詞を知る人は少ない。

台湾のはても 樺太も
八州(やしま)のうちの 守りなり
いたらん国に いさをしく
つとめよ わがせ つつがなく

実は四番の歌詞も当初は「千島の奥も 沖縄も」だった。その次も「やしまのそと」であったものが、千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて後「やしまのうち」と変わり、日清戦争による台湾割譲後、「千島の奥も 台湾も」と変わり、日露戦争後、上記の歌詞に変えられたという。なんとも世知辛い話ではある。

目に沁みるようなブルーの海、どこまでも青い空に翩翻とひるがえる、ミサゴやカツオドリを描いた幟。海で死んだ魂は空に上って鳥になるのだろうか。今日も鳥をまねて羽ばたく老婆たちの上に、アジサシが鳥柱を立てている。老婆たちはいつ鳥にまじって飛び立っても不思議ではないような気がしてくる。ファンタジー色の濃い物語に見えながら、その裏には、美しい島に脈々と受け継がれているナショナリズムが衣の下の鎧のように透けて見える。村田喜代子、なかなか食えない作家である。

妻の父は九十六歳でサ高住に入居中。常々、体は何ともないが頭の方がとボヤいている。認知症が進んでからの入居では友だちもできない。住み慣れた島で気心の知れた友と暮らすイオたちが眩しく映る。食べ物は自給自足。必要な物は連絡船で届く。気ままな暮らしのようでいて、その実国防に寄与しているのだから、二千万円くらい安いものだ。ウミ子でなくても島で一生を終えることを考えたくなってくる。


by abraxasm | 2019-04-09 20:13 | 書評
e0110713_09301303.jpg私小説というわけでもないのに、作家が主人公の小説というのがけっこう多い気がする。やはり、自分のことを書くのが作家の基本なんだろうか。読者の方は、別に作家志望とかでもないだろうに、やっぱり作家が主人公の小説が好きなんだろうか。よくわからないが、小説が書けなくて、ゲームばっかりやっている大学助教授の話である。ネット環境がいいからと研究室のコンピュータで参戦するというのはどんなものだろうか。

サミュエル・アンダーソンは大学助教授。一時期、作家を目指したが、短篇を一作完成して以来何も書いていない。今では講義の合間にネットゲームにのめり込んでいる。担当は英文学で、ハムレットを教えている。クレーマーらしき女学生にレポートの盗用を注意したところ、逆切れされて上司から叱責される破目に陥る。さらに、次作を書く契約で出版社から大金を受け取っていながら、原稿を送っていない件で訴えられかけている。

進退窮まったところに電話がかかる。何年も前に父と自分を置いて家を出て行ったきりの母が、大統領候補者に暴行し、大騒動になっていた。電話は弁護士からで裁判所に意見書を書いてくれという。捨てられた憾みこそあれ、母を助ける義理など毛頭ないサミュエルは、今や候補者の名にちなんで「パッカー・アタッカー」という異名を持つ母の暴露本を書くことで、件の出版社との契約を果たそうと思いつく。

取材のために再会を果たした母は過去について話そうとしない。弱ったサミュエルは、シカゴに住むゲーム仲間のポウンジを頼る。ポウンジは写真を手がかりに、当時の母の友人を探り当てる。アリスというその女性は、母の裁判を担当する判事の名前を聞くと、母を連れて即刻国を出るように警告する。どうやら相手は相当ヤバいやつらしい。アリスは、当時警官だったブラウン判事との経緯について話し始めるのだった。

すべてが謎につつまれている。まず、たとえ短篇にせよ、次代を担う作家の一人と目される小説の書けたサミュエルが、何故それ以来ただの一本も小説を書くことができないのか。また、母はなぜ突然,夫と子を捨てて家を出て行ったのか。或いは、母はなぜ、その日偶々公園にやってきた大統領候補に砂利をぶつけることができたのか。 

サミュエルは取材を通し、母親であるフェイ、そしてフェイの父でノルウェーからアメリカに来たフランクの過去をたどる。表題の「ニックス」とは、祖父の話に出てくるノルウェーの水の霊で、一人遊びをする子どものところに馬の姿をして現れる。子どもが馬に夢中になり、やがてその背に乗って遊ぶようになると、馬は子どもを乗せて走り出し、崖から宙空に飛び出して落ちる。子どもは岩に打ちつけられるか水底に沈む。

祖父によればその教訓は「うますぎる話は信じるな」というものだが、フェイは「君がいちばん好きな者が、いつか君をいちばん傷つけるのよ」と、息子に話して聞かせる。これが、この小説において繰り返し現れては変奏される主題である。愛するものが自分を窮地に追い込むことになる。それは、祖父から母を通じて孫に至る、ノルウェーからついて来た幽霊の呪いなのか。ノルウェーで祖父にいったい何が起きたのか。

探索の第一歩は、サミュエルの少年時代。ビショップとベサニーという双子の兄妹と知り合ったサミュエルは、裕福な階級に属する二人に惹かれる。兄のビショップは反抗的な少年で、教師やいじめっこには容赦をしないが、いじめられっ子には優しい少年だった。妹のベサニーはヴァイオリンの練習に余念のない美しい少女だった。サミュエルは一目で恋に落ちる。サミュエルの処女作は二人との交友を描いたものだった。

だが、ある出来事をきっかけにビショップは町を去り、後に軍に入って戦死する。後年、成長したサミュエルは、当時反抗的な少年たちに体罰をふるっていた校長が、なぜビショップの尻を打たなかったのか、という理由に思い至る。同時にビショップが見せた奇妙な行動の意味も。友の許しを得ずに、それを書いたことをサミュエルは苦にしていた。

一九六八年。母には別の物語があった。奨学金を得たフェイはシカゴの大学に進学しようとするも、父はそれを許さなかった。フェイは家を出て寮に入る。反戦運動真っ盛りのシカゴは勉強どころの騒ぎではなかった。隣部屋のアリスと出会い、運動の渦中に飛び込む。そこでカリスマ的な扇動者であるセバスチャンに一目惚れする。それがすべての過ちのはじまりだった。逮捕されたフェイは二度とシカゴにもどらないという約束で釈放されたのだった。

幼い性の目覚めとプラトニックな近親相姦関係。美しい兄妹との間で疑似的な三角関係に巻き込まれるサミュエル。フェイが巻き込まれる六十年代特有の反戦運動の高まりも見過ごせない。何しろアレン・ギンズバーグ本人がフェイとセバスチャンをめあわせるのだ。ビートニクやヒッピーといったムーヴメントがヴェトナム戦争に揺れるアメリカでピークに達し、やがて崩れてゆくその波頭の軌跡を、映画的なカット・バックの手法を多用し、シカゴの長い一夜を熱く描き出す。

児童性的虐待、反戦運動、同性愛、ナチスの侵攻、といった多様な話題を多くのエピソードにからめ、最後に一族の問題に収斂させていく。これが長編デビュー作とも思えぬ手捌きである。ただ、多くの人物の視点で語られる物語に一貫性を求めるのは難しく、一族のストーリー以外は語られっぱなしで収集しきれていない。そのためか、どこか離れた位置から人々の騒ぎを眺めているような冷めた印象を持った。サミュエルのヰタ・セクスアリスを描いた部分が清冽だっただけに、惜しい気がする。短篇をもとに長編を書く難しさが出たようだ。自分を素材にしなくなったとき、どんなものを書くのか期待したい。


by abraxasm | 2019-04-08 09:30 | 書評