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e0110713_15412447.jpg旧訳の『青白い炎』は筑摩書房世界文学全集で読んだことがある。例の三段組は読み難かったが、詩の部分は二段組で、上段に邦訳、下段に原文という形式は読み比べに都合がよかった。新訳は活字が大きく読みやすいが、英詩は巻末にまとめてあるので、註釈と照合するには使い勝手がよくない。詩の部分四十ページ分コピーするか、註釈者が勧めるようにもう一冊用意するといい。

というのも、この本は「まえがき」に続いてジョン・シェイドという詩人の九百九十九行に及ぶ四篇からなる長詩が記され、その後にチャールズ・キンボートによる註釈が記される構成になっている。キンボートはまず註釈を読んでから詩を読むように示唆しているが、いずれにせよひっきりなしに頁を繰ることを要求される。それというのも詩だけでなく、註釈を参照せよと命じる註釈が存在することもあって、頁を繰る手が止まらなくなるのだ。

『淡い焔』は、ナボコフがプーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』の英訳に大量の註釈をつけて出版したことが執筆の契機となっている。厖大な注釈の中でナボコフは自分の考えを思う様披瀝しているが、おそらくそこに註釈者の自由を感じたのだろう。註釈者は、たった一行の詩に対して何ページもの註釈をつけることが可能なのだ。敷衍すれば牽強付会な解釈をすることすらできる。キンボートがやろうとしているのはつまるところそれである。

シェイドの詩「淡い焔」は、自分の人生、愛娘の死、愛する妻、死後の生に関する考察といった、いわば極めて個人的な主題が、英雄詩体二行連句(ヒロイック・カプレット)で弱強五歩格(アイアンピック・ペンタミター)の押韻を踏んで書かれている。一見すると、そこには註釈に出てくるようなキンボートの故国ゼンブラに関することなど書かれていないように思える。

ところが、ゼンブラからアメリカに亡命したキンボートは同じ大学に勤務し、以前から知る詩人シェイドの隣に住むこととなり、夕刻など一緒に付近を散歩するおり、詩人にゼンブラの話をしていた。詩人ははっきりとは書いていないが、ゼンブラやその王チャールズについてそれとなく仄めかしている詩行が多くあると思い込んでいる。

註釈は、はじめこそ註釈らしい体裁をとっているが、次第にゼンブラという王国に起きた政治的な紛争と、囚われた王の脱走劇、王の暗殺を命じられた刺客の追跡、といったストーリーが増殖してくる。しかも、シェイドが四篇の詩を完成するまでの日数と刺客の探索から暗殺に至る日数までがぴたりと符合する。もっとも、ひどい下痢に悩まされていた刺客はあろうことか急ぐあまりキンボートではなく後ろにいたシェイドを殺してしまう。

自らの素性を明かしていないが、誇大妄想でなければ、キンボートが国を追われたゼンブラの国王チャールズらしい。キンボートは夫の死で取り乱す未亡人を言いくるめ、詩の出版の権利を我が物とする。無論報酬はすべて妻のものになる約束で。かくして、輪ゴムで束ねた詩を清書した八十枚のインデックス・カードと別にクリプ留めされた草稿を手に入れ、「淡い焔」はキンボートの註釈をつけて出版されることになる。

ロリータやプニンといったナボコフの作品に登場する人物名がかくれんぼしたり、ポープやシェイクスピアの詩が引用されたり、ナボコフ自ら書き起こした四篇からなる長詩「淡い焔」は、言葉遊びを多用した、それだけで充分楽しめる押韻詩になっている。そこに、大量の註釈が付けられる。原稿を秘匿し、果たしてあるのかないのか定かでない草稿や加筆訂正箇所を自在に使うことで、キンボートの妄想は肥大し疾走する。

もちろん一つ一つの註釈はまず詩についての記述から始まる。しかし、すぐに逸脱をはじめ、アメリカに来てからのシェイドとの交際、さらに、ゼンブラ時代の思い出へと話はそれる。偏執病的パーソナリティの所有者チャールズ・キンボートの理想郷、ゼンブラの物語には、王の城から劇場の楽屋に通じる秘密の通路や少年愛、変装等、偏愛のギミックが惜しげもなく浪費される。

知っての通り、ナボコフはロシア革命で殺された政治家を父に持つ。その後ヨーロッパを経て最終的にアメリカに腰を据え、大学で文学を講じながら小説を書くことになる。故郷喪失者であるナボコフはアメリカという異郷にあって、少年時代を過ごしたロシアを強く懐かしんでいたにちがいない。キンボートのゼンブラに寄せる思いはナボコフが今は亡きロシアに寄せる思いが過剰に重ねられている。

しかも、ナボコフはアメリカで、英語で執筆するようになる。『エヴゲーニイ・オネーギン』でプーシキンの韻文を英訳する際、はじめは脚韻を踏むことを考えたが、文脈に沿って訳すことを優先する目的で後にそれを放棄している。シェイドの詩は、その時置き去りにされた情熱の照り返しではなかろうか。

「読書とは再読のことだ」というのはほかならぬナボコフの有名な言葉だが、『淡い焔』こそは、その再読を読者に強いる目的で著された最強の書物だろう。まえがき、「淡い焔」──四篇からなる詩、註釈、索引で構成されるこの書物は、註釈から詩、詩から索引へと、さながら枝から枝へと飛び移る連雀のごとく、読者を絶えず使嗾してやまない。


by abraxasm | 2018-12-26 15:42 | 書評

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1955年、田舎町に住む家政婦が鍵のかかった家の中で階段から落ちて死んでいるところが庭師によって発見される。不慮の事故のようだったが、その三日前、死者は息子に「死ねばいい」という意味の言葉を浴びせられていた。近くのパブで、その喧嘩を聞いた客は息子の仕業ではないかと疑う。息子の婚約者は名探偵アティカス・ピュントに捜査を依頼するが、ピュントは断る。実は脳腫瘍であと三月の命と宣告されていたのだ。


ところが、それからしばらくして階段から落ちた女性が家政婦をしていたパイ屋敷の主人である準男爵が首を斬り落とされるという事件が起きる。小さな村で関係者が連続して死ぬのは異例だ。捜査を担当するのが顔見知りの警部補であることを知り、ピュントは助手のジェイムズを供に捜査に乗り出すことに。


もとは修道院であった建物には翼棟の端に八角形の塔がついた屋敷。その奥には鬱蒼とした森と湖という典型的な英国風ミステリの舞台。死んだ家政婦のメアリは村人のゴシップを蒐集しては手帳に書き記していた。この「お節介屋」が死んだことで胸をなでおろした人物が少なからずいる。また殺された準男爵は村中の嫌われ者で、限嗣相続という制度のせいで双子であるのに兄に家を追い出された妹を筆頭に殺人の動機を抱く人物が引きも切らない。


「一粒で二度おいしい」というのはキャラメルの宣伝文句。一粒でキャラメルの味とアーモンドの風味を楽しめることをいうらしい。その伝で行けば「一作で二作分面白い」ミステリと言えるだろう。注意深い読者なら、この本の仕掛けにすぐ気がつくにちがいない。うかつなことに扉が二種類使われていることに気づいていながら、上巻の最後まで読んでうっちゃりを食ってしまった。


冒頭部五ページ分を除けば『カササギ殺人事件』上巻は、アラン・コンウェイ作『カササギ殺人事件』で構成されている。しかし、探偵が関係者を集めて、自身の推理を語る結末部分が抜けているのだ。アティカス・ピュントという探偵は最後の最後まで真犯人については明らかにしない。だから、結末部分の抜けた上巻だけ読んでも誰が犯人か分からないわけだ。まあ、普通上下巻に分かれた本を読む人は上下とも買うだろうから、文句を言う人はいないだろう。


では、なぜ結末部分が抜けているのか。そこには、ひとりの人間が殺人を犯すに足る理由が隠されている。冒頭でこの作品をキャラメルに喩えたが、宣伝文句という点ではそうだが、本質としたら、サンドイッチの方が正しい。上巻の冒頭部分で「わたし」と称する人物には彼氏がいて、アンドレアスという名も出ているのに「登場人物」の中に名が出ていない。しかし、下巻にはちゃんと出ている。というか、下巻の登場人物と上巻のそれはまったく異なっている。


つまり、『カササギ殺人事件』は二つあって、一つは表紙に書かれている通り、アンソニー・ホロヴィッツ作『カササギ殺人事件』。もう一つが「作中作」であるアラン・コンウェイ作『カササギ殺人事件』だ。アンソニー・ホロヴィッツが探偵役として使っているのは出版社の編集者であるスーザン・ライランド。彼女が上司から手渡されたテクストがアラン・コンウェイの最新作『カササギ殺人事件』である。


パンにあたるのが現代のイギリスで起きた殺人事件。これを冒頭と結末に置き、中に1955年に起きた殺人事件を描く「作中作」という具をはさんでいる。サンドイッチという所以である。殺されたのは「作中作」の作者アラン・コンウェイである。殺人事件の舞台となるパイ屋敷はアラン自身の屋敷をモデルにしているだけでなく、探偵のピュントにはジェイムズという助手がおり、アランにはジェイムズ・テイラーという若い恋人がいる、というように二つの『カササギ殺人事件』は多くの点で重なっている。


作中作の『カササギ殺人事件』にはアランが好むアナグラムが仕込まれていて、それがアラン自身の死の謎を解くカギになっている。スーザンはアランが暮らしていた町を訪ね、実の姉や別れた妻と会って話を聞く。アランという作家は実に無雑作に身の回りの人物をモデルにしたり、その名前を借りたりして作品に登場させていることが分かってくる。それとともに、そのあまり愉快でない人となりや文学的な野望も。


なかなか面白い趣向で、最後まで引っ張ってくれる。アルファベットのアナグラムが鍵となる小説を日本語で取り扱う困難を考えると訳者の苦労がしのばれるが、括弧を使用して原語併記を採用するか、片仮名のルビを多用してくれたらもっと楽しめたような気がする。趣向を凝らした作品ながら、荒唐無稽な理由で人を殺す犯人やサイコパスの出てくるミステリが多い中、殺人の手段や殺人を犯す理由に納得のいく点が一番の推しポイント。年末年始で休みが取れる時期、じっくり読むにふさわしい力作である。



by abraxasm | 2018-12-25 17:59 | 書評

『不意撃ち』辻原登

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五篇の短篇というには長い作品で構成された、いわば中篇集。辻原登は間口が広い。今回は時代的には現代に的を絞り、新聞や週刊誌に取り上げられた事件を物語にからませてリアルさを醸し出している。『不意撃ち』という表題作はない。突然、登場人物たちに降りかかる外界からのむき出しの悪意の来襲を意味するのだろう。

巻頭を飾るのは「渡鹿野」。つい最近も「売春島」という刺戟的なタイトルのついた本が出たくらいで、関西に住むある程度の年齢の男性ならよく知る地名である。今は往時の賑わいはないらしいが「志摩のはしりがね」と呼ばれる潮待ち、風待ちの船客を相手にする遊女の暮らした島で、その名残を今に留めている。

東京でデリヘル嬢をしていたルミ子は、殺人事件の現場に行き会う。それをきっかけに同じく現場にいたドライバーの佐巴と連絡を取り合う仲になり、やがて関係を持つ。ルミ子はかつてはルポライターだったが、同棲相手の男が急に失踪し、背後に暴力団の影があることを知り、子どもを親元に預け、今の仕事につくという過去があった。

帰郷する前にかつて仕事で訪ねた島でひと稼ぎをしようと渡鹿野に渡ったルミ子は、天王祭の晩やはり故郷へ帰ることにした佐把とひと時の逢瀬を楽しむ。渡鹿野には現地取材をしたのだろうか。辻原はよく古い日本映画の話を出す。渡鹿野の対岸にある的矢を小津の『浮草』のロケ地と書いているが、あれは大王町の波切ではなかったか。フィクションなので、ルミ子の記憶ちがいということもあるが、気になった。

不意撃ちが起きるのは最後。渡船場でタクシーを待つ佐巴がふと目にする行方不明者のポスターである。行方不明の女性の目許がさっきまで一緒にいた女に似ていると思い、姓名を確認しようとして、タクシーのクラクションにせかされる場面で終わっている。この行方不明者の件は事実である。事実とフィクションの融合は辻原のよく使う手法だが、未解決事件であり、家族のことを思うと、この使い方には疑問を感じる。

「仮面」は、阪神淡路大震災でボランティア活動をし、NPO法人を立ち上げた男女が東日本大震災の被災地に向かう。神戸での経験がものを言い、二人は現場を取り仕切る。そして被災地の子どもを連れ、東京で募金活動をすることになる。美談の陰にある真の動機が主題。当時はとてものことにこういう話は発表できなかったと思う。これにも、実際に起きた事件が大事な役を担わされている。

「いかなる因果にて」は、小さい頃にいじめられた経験を持つ者が何十年も経ってから事件を起こす話にひっかかるものを感じた話者が、自分の友達が教師に平手打ちされた事実を思い出し、亡くなった友達に替わって自分がその教師に会おうとする話。紀伊田辺、新宮と辻原の小説によく登場する土地を舞台に作家自身を思わせる話者の語りが、フィクションとも実話とも判断しかねる味わいをうまく演出している。

「Delusion」は時間だけでいえば近未来。精神科の医師である黒木が女性宇宙飛行士の不思議な体験を聞く。猿渡という女性は誰もいるはずのない宇宙ステーション内で、何ものかがいるという感じを持って以来、未来予測ができるようになる。ただし、自分に関わることだけで、それがいつ起きるかは分からない。人に話しても信じてもらえないので専門家の話を聞こうとやってきたという。他の話とは毛色のちがう話である。

個人的には巻末の「月も隈なきは」が面白かった。定年退職をした男が妻子を置いて、短期間、念願の一人暮らしを試みるという他愛ない話である。ただし行き先も告げず、少しの間、旅に出るとの書置きだけ残し、ある日ぷいっと出て行くので、夫のことをよく知る妻は心配ないとは思いながらも、探偵を雇って居場所を探す。その結果は。

ポール・オースターの『幽霊たち』や、つげ義春の『退屈な部屋』が紹介されている。参考にしたのかもしれない。日常生活に何の不満もない男が、一人暮らしがしたくなる。そこにどんな理由があるのだろう。主人公もよく分かっていないようだ。けれど、週の半分はバイトをし、後の半分は街歩きや映画、将棋といった趣味に時間を費やす毎日は楽しそうだ。

ここでも成瀬や小津の映画の話題が出る。一人暮らしということで山頭火や放哉も登場する。感じのいい飲み屋や食堂、文房具店等の蘊蓄も披露されるので、東京暮らしの同年輩には一種のカタログみたいに使える愉しみがある。ニューハーフとの体験をのぞけば、ヤバい案件は出てこないので、安心して読んでいられる。この年になると、あまり刺激の強いのは心臓に悪い。自宅の近くに、ひっそりと部屋を借りて隠れ住む程度の冒険でも結構どきどきするものだ。


by abraxasm | 2018-12-19 12:26 | 書評
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体力に自信がないので、本格的な登山はしたことがない。ただ、山に対する憧憬はあり、旅をするときは信州方面に向かうことが多かった。落葉松林や樺の林の向こうに山の稜線が見えだすとなぜかうれしくなったものだ。子どもが生まれてからは八ヶ岳にある貸別荘をベースに、夏は近くの高原に出かけ、冬はスキーを楽しんだ。この本を読んでいるあいだ、ずっとあの森閑とした夜を思い出していた。

北イタリア、モンテ・ローザ山麓の村を舞台に、ひとりの男の父との確執と和解、友との出会いと別れを清冽に描いた山岳小説。ピエトロは小さい頃から夏は両親に連れられ、あっちの山こっちの山と連れ回された。麓の宿に着くと、父は一人で山を目指し、母と子は近くを散策しながら父の帰りを待った。母は二週間も泊まる宿が毎年変わることを嫌がり、やがて一家は母が見つけてきた一軒の家を借りることになった。

ミラノもネパールも出てきはするが、小説の主たる舞台はグレノン山を仰ぐグラーナ村だ。母が見つけてきたのは鋳鉄製のストーブ以外何もない家。集落の上方に位置するその家でピエトロは少年時代の夏を過ごす。僕の沢と名づけた沢で遊んだり、大家の甥であるブルーノという少年と廃屋を探検したり、ミラノ育ちの都会っ子は次第にたくましくなってゆく。

「僕」が六つか七つのとき、初めて父と山に登る。父の登山はとにかく誰よりも早く頂上を攻めるスタイルだ。休むことなく一定のリズムで歩き続ける。迂回路を拒み、たとえ道がなくても最短距離のルートを選ぶ。そして、頂上に登りつめると興味をなくしたかのように、後は急いで家に帰りはじめる。「僕」は父の言うままに登山をはじめ、やがてモンテ・ローザ連峰の四千メートル級の山々に挑むことになる。

ある年、父はブルーノと「僕」を連れ氷河を目指す。しかし、高山病にかかった「僕」は、クレバスを前にして吐いてしまう。一心に登頂を目指す父とはちがい、「僕」は山歩きの途中で目に留める風景や人々の様子に魅かれていた。思春期になり「僕」は両親と距離を置きはじめる。そして、ある日ついに「僕」はいっしょにキャンプしようという父に「いやだ」と言う。初めて父に対して自分の意志を表明した訳だが、父はそれを受けとめられなかった。その日以来二度と二人はいっしょに山を歩くことはなかった。

父の死後「僕」は、父が自分にグラーナ村の土地を遺したことを知らされる。久しぶりに村を訪れた「僕」は、親子が夏を過ごした家の壁に張られた地図に記されたフェルトペンの跡に感慨を覚える。網目状に広がる線の黒いのは父、赤いのは「僕」、そして緑がブルーノの踏破した軌跡だった。「僕」が同行しなくなってから父はブルーノと登っていたのだ。そして、「僕」は久しぶりに大きくなったブルーノと再会を果たす。

父が「僕」に遺したのは湖を臨む土地に「奇岩」(パルマ・ドローラ)と呼ばれる岩壁を背負った石壁造りの家だった。雪の重みに耐えられず梁が折れて屋根は崩れていた。父はブルーノにこの家の再建を頼んでいた。金がない、と躊躇する「僕」に、手伝いがあれば安く上がる、とブルーノは言う。父の思いは疎遠になった二人をもう一度近づけることだと気づいた「僕」は喜んで従う。吹っ切れたように家づくりに励むことで「僕」は、再び山に、そしてブルーノと過ごす日々に夢中になる。

ネパールで出会った老人が地面に円を八分割した図を描く挿話が出てくる。八辺の上に八つの山を描き、その間に波状の線を描いて海だという。そして中心にあるのが世界の中心である須弥山(スメール)だ。老人は度々ヒマラヤを訪れる「僕」のことを「八つの山をめぐっている」のだといい、須弥山の頂上を極める者と、「どちらがより多くを学ぶのだろうかと問うのさ」という話をする。「僕」は、山から離れないブルーノのことを思う。

ピエトロの母はどこにいても誰かと関係を結び、年をとっても孤独でいる気遣いはない。山に魅せられた男三人との対比が鮮やかだ。家族もいるというのに、牧場の経営が破綻しそうになっても山を下りる生活が考えられないブルーノ。いくつになっても独り身でドキュメンタリー・フィルムを撮る資金を集めてはネパールやチベットに通い詰めるピエトロ。放浪と定住という差はあるにせよ、山に縛りつけられている三人の男の桎梏がせつない。

まるでその場にいるようなグラーナ村とそのまだ上にあるパルマ近辺の森や湖、湧きあがる雲、降り積もる雪の描写が素晴らしく美しい。初読時は一気に読み、次の日にはじっくり再読した。頑なな父の気質がどこから来たのか、それに悩まされながらも突き放すことなく粘り強く接し続けた母。その母は決して氷河の上を歩こうとしなかった。そこには深い訳があったのだ。

原題は「八つの山」(Le otto montagne)。中央に聳え立つ山ではなく、その周囲にある山をさまよい続ける人々を意味するのだろう。邦題は逆に、中央の山を『帰れない山』と名づけている。その意味は最後の段落にある「人生にはときに帰れない山がある」という一文を読んで初めてわかる。深い喪失の悲しみに胸蓋がれる結末が読者を待ち受けている。それでも、何度でも頁を繰りたくなる。近頃めったと出会えない心に沁みる長篇小説である。


by abraxasm | 2018-12-15 12:13 | 書評
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デイヴ・ガーニーは四十七歳。いくつもの難事件を解決してきた超有名な刑事だが、今はニューヨーク警察を退職し、デラウェア近郊の牧草地に十九世紀に建てられた農館で暮らしている。事件解決以外に興味を持たない夫と二つ違いの妻マデリンとの間にはすき間風が吹いていて、それは近頃ではどんどん強くなってきていた。早期に退職したのはそれも原因の一つだった。

どんな資産があれば、ただの元刑事がそんな優雅な引退生活を送れるのだろう、と素朴な疑問がわくのだが、ともかくそんな元刑事のところに事件は突然舞い込んでくる。大学時代の友人に送られてきた奇妙な手紙の一件だ。手紙には「数字を一つ思い浮かべろ」と書かれていた。友人は658という数字を思い浮かべた。同封の小さな封筒を開けるとその中に入っていた紙には、658と記されていた。なぜ差出人は前もって知ることができたのか、というのが謎だ。

クラブのショーの一つに読心術というのがある。それと同じ手口だが、サクラを使えない手紙で、どうしてそれができたのか。しかも、手紙には続きがあり、なにやら復讐めいた匂いすら漂う。今は成功者だが、かつて酒浸りだったことのある友人は当時のことを覚えておらず、恐怖を感じてガーニーを頼ってきたのだ。初めは警察に知らせろと言っていたガーニーだが、その友人が殺される。

被害者は割れたガラス瓶で喉を何度も刺されて死んでいた。しかし、不可解なのは雪の上に残された犯人の足跡だった。現場から規則的に続いた足跡が途中で消えていたのだ。何という古典的なトリックだろう。近頃とんとお目にかかれないべたな足跡消失ネタである。読心術に雪上に残る足跡。古き良き探偵小説の読みすぎだろう、とツッコミの一つも入れたくなるところだが、それでいてこの小説けっこう読ませる。

ガーニーは地方検事の要請で、捜査に協力することに。すると、間を置かず、ブロンクスでもウィチャーリでも殺人事件が起きる。被害者は一様に喉を指されているのだ。しかも、現場にはしりとり遊びのように殺人の行われた地名を示す何かが残されていた。もっとも、そのことに気づくのはガーニーではなく、彼の妻であるマデリンなのだが。そう、このガーニーという凄腕の元刑事、前評判は高いくせにひらめきという点では妻にかなわない。

それというのも、何かというと自分の過去や現在の家庭内の問題にばかり頭を悩ませているからだ。実は父親に疎まれていた過去を持ち、今は前妻との間にできた子とは疎遠で、マデリンとの間に生まれた子は事故で失くしている。妻との間に溝が生まれたのはその事故がきっかけだった。ガーニーは子どもの死以来、家庭を顧みなくなっていた。自分が眼を離した間に息子が交通事故に遭えば、自分を責めるのは当たり前だと思うが、妻の眼から見るとまるで自分を罰しているように見える。

謎解き物の本格ミステリのように見えるが、評判の割にはガーニーの捜査にキレはない。むしろ、口は悪いが腕は立つディックもふくめ、妻のマデリンや捜査本部のチームに属する冷静沈着な女性巡査部長ウィッグや同じく女性心理学者のレヴェッカに助けられている。むしろ、刑事でもないのに長時間車を運転して現場に向かい、現場を仕切る刑事に煙たがられるガーニーの姿は、どちらかというとハードボイルド小説の探偵のようだ。

シリーズ化を考えているらしいが、数字のトリックはまだしも、消えた足跡の方はあまりにも時代がかっている。謎解きならよほど目新しいものを持ってくる必要がある。他の人気シリーズとの差異化を図るなら、ニューヨークという大都会ではなく、キャッツキル渓谷という山間地を舞台にしている点はポイントになる。もう一つ、アームチェア・ディテクティブ役を振られているマデリンとのコンビを強化し、今後も二人三脚でやっていくことを強く勧めたい。


by abraxasm | 2018-12-11 16:47 | 書評
e0110713_22462099.jpgリンカーン・ライム、シリーズ第十三作。今回の相手はコンポーザー(作曲家)を名乗る犯罪者。特別に繊細な聴覚を持つが、統合失調症を病んでいる。脳内で音が異常に増殖する、ブラック・スクリームという症状が現れると、自分を制御できなくなる。チェロ用のガット弦で作った首吊り縄を被害者の首に巻き、時間をかけて首を絞めてゆく仕掛けを用いて、苦しむ様子を撮影した動画をネットに曝す。そして、被害者の呻き声をサンプリングして作曲し、バックに流すというのがその手口。

一人目の被害者がニュー・ヨークで誘拐される現場が少女によって目撃され、ライムたちが動き出す。現場に残された証拠から、ライムは監禁場所を割り出し、サックスが現場に急行し、すんでのところで被害者は辛くも助け出される。運よく逮捕を免れた犯人は、現場にパスポート用の写真を切り抜いた紙片を残していた。海外逃亡を企てたのだ。舞台は、イタリア、ナポリへと移る。

このシリーズには珍しく、主要な事件が海外で展開される。紛い物のトリュフの売人を追っていた森林警備隊の巡査エルコレは、逮捕を目前にして自分を呼ぶ声に気づく。誘拐事件の目撃者が警官を呼んでいたのだ。現場に残された首吊り縄のミニチュアといい、目を通していたニュー・ヨークの事件に酷似していた。指揮を執る国家警察警部ロッシにより捜査の一員に抜擢されたエルコレは、早速アメリカに連絡を取る。依頼した証拠物件とともにやってきたのがライムと介護士のトム、それにライムの婚約者アメリア・サックスだった。

シリーズ物の常として、ある程度続くと、何か新味を出す必要に迫られる。ライムとアメリアの結婚ネタや、新メンバーの投入だけでは興味をつなぎとめることが難しいと見たのか、今回は、なんと臨時チームの編成となった。国家警察ナポリ本部を捜査本部に、腕利きだが狷介な上席検事スピロや、有能な科学捜査官ベアトリーチェ、美人の遊撃隊巡査ダニエラ、と今回限りにしておくには惜しいメンバーの勢ぞろいだ。

首から上と右腕を除き全身麻痺のライムはいうところの安楽椅子探偵。現場に向かうのはサックス刑事だ。グリッド捜索で微細証拠を集めて帰り、それを分析して一覧表にまとめる。不案内なイタリアでサックスのバディを務めるのが、三十歳のエルコレ。国家警察か国家治安警察を目指していたが諸事情で断念した経緯がある。この事件で認められ、念願を果たすという野心を抱いている。果たしてそれはなるのか。

能力はあるがお人好しで思いつきをすぐ口に出してしまうエルコレは事あるごとにスピロの叱責を受ける。スピロは何故かライムたちを目の敵にする。ふだんならチーム・ワークを武器に事件の謎に迫るが、今回はこの難敵が立ちふさがる。かといってこのスピロ、ただの敵役ではない。ライムも認める高い捜査能力を持つ男だ。外部の者の協力を拒否するスピロの目をかいくぐり、サックスとエルコレは次々と起きる事件に立ち向かう。

部下思いの穏健な警部ロッシの陰の協力を得、科学捜査官のベアトリーチェの力を借り、エルコレに無理を強いてライムは捜査を進める。ところが、コンポーザーを追うライムたちに別の事件が降りかかる。留学中のアメリカ人学生が強姦事件の犯人として逮捕され、その嫌疑を晴らしてほしいというナポリ領事館からの依頼である。しかも、検察側の担当検事がスピロであることから、話がややこしくなる。この窮地をどうやって乗り越えるのか。

今回の舞台となるのが、ヨーロッパへの難民の玄関口であるイタリア南部に位置するナポリ。イタリアには有名なシチリアのコーザ・ノストラだけではなく、ナポリを拠点とするカモッラ、カラブリアのンドランゲタ、プーリア州のサクラ・コロナ・ウニタなどの犯罪組織が犇めいている。そこに今話題となっている難民問題が加わる。原題は<The Burial Hour>。本文では「生き埋めの危機」と訳されている。地滑りのように押し寄せる難民で、もともとの国民が生き埋めに会うような恐怖を味わうことを意味している。

難民問題という政治的な話題を絡ませることで、単なる犯罪捜査に留まらず、意外な展開が待ち受けていることもあり、いつもとは一味も二味も違った風合いに仕上がっている。おなじみのどんでん返しもちゃんと用意されているので心配はいらないが、アモーレ、カンターレ、マンジャーレの国イタリアらしく、各国料理の成分や蒸留酒の製法が事件解決のカギを握るなど、思ったよりマイルドな仕上げになっている。

ごりごりのミステリ・ファンはどうかしれないが、たまにはこういう変化球もあっていい。ライムがウィスキーではなくイタリアの蒸留酒グラッパにはまるなど、アレンジも効いている。風光明媚なヴォメロの丘や海に浮かぶ卵城、カモッラが根城にするスパッカ・ナポリなど、ナポリらしさが満喫できる。犯行現場となる地下通路の絞り込みなど見どころは多く、マッスル・カーではなく、ルノー・メガーヌを駆るサックスもまた一興だ。

無愛想な敵役に見えたスピロの意外な正体や、エルコレの国家警察入りの成否など、人間関係の機微にも興味は尽きない。事件が終わった後、ライムとサックスの結婚についてもあらましが仄めかされており、ファンなら読むしかない。ミステリは好きだが、あまり酸鼻を極めるものは苦手、という読者にお勧めできる後口のさわやかな一篇である。


by abraxasm | 2018-12-01 22:46 | 書評