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e0110713_17560717.jpg<上・下巻併せての評です>

ディストピア小説の傑作『侍女の物語』の作者マーガレット・アトウッドによる「マッドアダムの物語」三部作のひとつで、やはりディストピア小説。近未来のアメリカが舞台。疫病が蔓延し、人々は感染してほぼ死に絶えた中で、奇跡的に生き延びた女性が主人公。一人は大人でトビー、もう一人がレンという娘。二人は「神の庭師たち」という名の宗教団体に庇護されていた時に知り合う。

同じディストピア小説でも、超監視社会という閉鎖的な世界に生きる人々を描いた『侍女の物語』とは異なり、『洪水の年』は、まともな政府が機能しなくなり、私企業がその代わりをつとめている無政府状態にある国家で生きる人々の姿を描く。近未来のアメリカは階層化が進み、一流企業に勤務する人々が住む地域はそれ以外のヘーミン地と隔てられている。

遺伝子化学によって、異なる種を接合した動物が作り出される一方でヘーミン地に住む人々は食糧不足のため、得体の知れない肉で作られたシークレット・バーガーなるものを食べている。暴力とセックス、ドラッグが支配するヘーミン地に生きる人々の間にはいくつもの狂信的なカルト集団ができており、そのひとつがアダム一号をリーダーとする「神の庭師たち」と呼ばれる教団である。

キリスト教を母体とする教団「神の庭師たち」は宗教と科学を教義の基礎に据えて集団で暮らしている。廃墟となったビルの屋上に庭園を造り、有機野菜を栽培し、ハチを飼い、蜂蜜を採取したり、薬草やキノコを育て、薬や食料にしている。菜食主義を貫き、動物を食べない。自分たちが死ねば、他の動物の餌となったり、堆肥の中で腐敗溶解されることを当然のことと考えている。

地味な服を着て肉食を避ける「神の庭師たち」は、他のヘーミン地に生きる人々からはからかいの対象であり、時にはひどい扱いも受けるが、蜂蜜や手工芸などを売る行為を通じて、ある程度受け入れられていた。この物語は、その教団の歴史でもある。各章の初めには「教団歴何年」と記されている。その後に「トビー」とあればトビーの視点で語られ、「レン」とあればレンの視点で語られている。

冒頭に「教団歴二十五年」とあるが、この時点でアメリカは疫病でほぼ壊滅している。無菌状態にある場所に隠れ潜んでいた者だけが感染死を免れている。トビーもレンもその数少ない生存者の一人。物語は、二人の生い立ち、家族関係、そして独立後の悲惨な暮らし、教団との出会い、教団での生活、教団の危機、そして迎えることになった「水なし洪水」と呼ばれる疫病の蔓延、そこからのサバイバルが、過去と現在が往還し、トビーとレンの交錯する物語として展開される。

人間が作り出した災害は人類だけを滅ぼし、動植物や虫たちは、人間が消えた地上を我が物顔に動き回っている。こう書けば分かるように、『洪水の年』のモチーフは聖書にあるノアの方舟がモデルだ。傲慢な人間は遺伝子を操作し、神の真似をしようとして愚かにも自分たちを滅ぼしてしまう。主人公の二人は「神の庭師たち」の手によって性奴隷の状態から救い出され「水なし洪水」を乗り切る。

一部の人間をのぞいて全滅しなくてはならないほど、人間はどんな悪行を積んだのか。自分たちだけが偉いと勘違いして、他の動物を単なる食料と考え、好き放題に食べ尽くすと同時に環境を破壊し、自然な暮らしを捨て、薬物や美容整形に頼って、本来の健康な生き方を捨ててしまった。もし、神がいてこのような有様を見たなら、第二の大洪水をおこして、人類を絶滅させるにちがいない。ただ、人間にわずかの可能性を与えるため、一部の者は助かるようにするかもしれない。

全篇に響く「神の庭師たち」の口伝による聖歌は、もっと荘厳で、イメージ豊かなものとして書かれているが、簡単にいえば、このような考え方が教団設立の基礎にあったのだろう。トビーもレンも信仰心などは持っていない。ただ、教団の中で暮らしたことで、何かを自分の中に育てることができ、自分を守るだけでなく、他人のために何かができるようになっていく。二人を包む環境は最悪で、イモラルなものとして描かれている。その対極にあるのが「神の庭師たち」の静謐な暮らしだ。

ただ、「神の庭師たち」はまるで60年代のヒッピーのコミューンのようなものとして描かれている。ノスタルジックではあるがそこに希望のないことは、あの時代を経験したものには明らかだ。ディストピア小説が人気を呼ぶのは、今の時代の世界の在り方が、それに地続きであるかのように感じられるからだろう。物語の中で描かれるヘーミン地は、まるでソドムとゴモラだが、富裕層であるコーポレーションの世界も目に見えないネットワークによって管理される超監視社会であり、ディストピアであることに変わりはない。

水道を外資に売り渡そうとしたり、自国民が働かない劣悪な労働環境で移民を働かそうとしたりする今のこの国を見ていると、本物のディストピアまで、あと一歩だと実感する。そうと分かっていてもそこで生きるしかない点で物語の主人公と自分が重なる。劣悪な環境の中に放り出されながらも、そこを抜けだし、凶悪な追っ手の追跡をかわし、自分を見失わず、孤独に耐え、仲間を信じ、新しい世界に希望を抱く、そんな主人公の生き方は、この暗い時代を生きる者にひとつの希望を与えてくれる。

by abraxasm | 2018-11-13 17:56 | 書評
e0110713_21044379.jpg読み終わって気になることがあり、書棚の展覧会の図録や画集の並んでいるスペースの前に立った。ルネサンスに関する本を片端から手にとってみるのだが、記憶に残っている一枚になかなかたどり着けない。最後に手にとったのが中山公男監修の『初期ルネサンスの魅力』だった。そしてやっと見つけた。フランチェスコ・デル・コッサ画「男性の肖像」。黒い帽子をかぶった男がじっとこちらを見ている。

その意志的な眼もだが、特徴的なのは窓枠と思われる縁をこえてこちらの方に突き出された指輪をつまんだ左手だ。二次元の絵画からそこだけ三次元になったように突き出して見える。なるほど、これがバルトか。そういわれてみると、そのような気がしてくるから不思議だ。もちろんフィクションなのだから、そんなことはあり得ないのだが、本作の主人公の一人がフランチェスコ・デル・コッサその人なのだ。

この本には「第一部」が二つある。まちがいではない。聞くところによれば、流布されている本の中には、二つの「第一部」の順番が入れ替わっているものがあるとか。手許の本の場合、フランチェスコ・デル・コッサを主人公とするクワトロチェントの画家の物語は後半に置かれている。どちらが先でも構わないということらしい。なかなか面白い趣向ではないか。

それでは前半に置かれた「第一部」はというと、舞台は現代のイギリス、オックスフォード。主人公は十六歳の少女ジョージ。女なのにジョージはおかしいだろう、と思うのは当然だ。実は、60年代にヒットしたザ・シーカーズの『ジョージー・ガール』にちなんで、母がつけた名前なのだ。懐かしい!元々は同名のイギリス映画のタイトル曲で、実は主人公のジョージィは、男っぽくてあまりさえない女の子に描かれている。自分の大事な娘にそんな名前をつける母親ってちょっと変わってる。

男の名を持つ女の子、というのが『両方になる(How to Be Both)』という本のテーマに関わってくる。もう一つ、実在するフランチェスコ・デル・コッサという画家が、この本の中では女性とされている。当時女性の画家はいなかった。その腕を惜しんだ父親の機転で、男性として絵を描く仕事に就いたのだ。先に触れたバルトは子どものころからの親友で、女であることがばれて一時疎遠になるも、後にまた友人となる。肖像画は結婚して父の跡を継いだバルトを描いたものということになっている。

二つの物語は、フランチェスコ・デル・コッサの描いた絵を間にはさんで、表と裏、前と後ろの関係になっている。邦訳はジョージの物語から始まるので、かいつまんで紹介する。ジョージは母親の喪に服している。美術史を学び多方面で活躍していた母が突然病死し、父は酒浸りとなり、ジョージは笑わなくなった。生前、母がジョージと弟をつれ、訪れたのがフェラーラの宮殿に残されたフランチェスコ・デル・コッサの描いたフレスコ画だった。

当時の母は、友人リサとの間がこじれてすさんでいたが、その絵の前では生き生きして見えた。母は政治的な活動にも参加しており、一度現役政治家を揶揄したことで当局に目をつけられていた。郵便物も開封されていたらしい。リサは互いに惹かれあう関係となった同性の友人だったが、その正体が知れないところがあり、関係を断っていたのだ。ありていに言えば当局のスパイではないかと疑ったわけだ。その後母は急死している。

いじめにあったのがきっかけでジョージに心の許せるやはり、同性の友だちができる。二人は協力してフランチェスコ・デル・コッサについて調べたことを発表しようと決める。つまり、もう一つの「第一部」は、二人が創作したクワトロチェントの画家の生涯についての物語、というふうにも読めるわけだ。もちろん、そう読まねばならない理由はない。というのも、フランチェスコ・デル・コッサの方も、ジョージを見ているからだ。当然生きてはいない。突然現代のイギリスに空から舞い降りた形になっている。実体はない。姿は見えないし声も聞こえない。まあ、幽霊のようなものと考えてもらえばいい。

フランチェスコが降り立ったのが美術館。目の前には自分の描いた絵を見る少年がいた。15世紀の画家の目にはジョージは少年に見えたのだ。ジョージは美術館でフランチェスコ・デル・コッサ描くヴィンチェンツォ・フェレーリを見ている問題の母の友人リサを見つけ、後をつける。引きずられるようにフランチェスコもその後を追う。後半の物語は、画家が語る自分の生涯と現代でジョージが行うリサの監視を話者として物語る構成になっている。

タイトルの意味は、男と女、友人と恋人、母と娘、その他数多ある組み合わせの「両方になる」ことを意味しているようだ。前半に埋め込まれたいくつもの伏線が、後半の物語の中で回収されていくわけだが、その逆もある。DNAの二重らせん構造のように二つで一つの物語になっている。後半の物語にはフランチェスコ・デル・コッサと同時代の画家、コズメ・トゥーラや、弟子のエルコレなど、クワトロチェントの画家が、多数登場するのも美術好きにはたまらない。画集などを引っ張り出してきて、いちいちあたってみるのも愉しい。


by abraxasm | 2018-11-08 21:04 | 書評