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e0110713_01205091.jpg「犬」「物語」「虚栄」「ひとりの女が歳をとると」「老女と猫たち」「嘘」「ガラス張りの食肉処理場」の八編からなる、モラルについての短篇集。はじめの二篇を除く六篇は、一人の年老いた老作家エリザベス・コステロをめぐる、ある一家の物語。時間の推移通りに配された連作短篇として読むこともできる。エリザベス・コステロは、クッツェーの同名の小説の主人公で、クッツェーのアルター・エゴといえる。

仕事の往き帰りにその家の前を通るたび猛犬に威嚇される。雄犬は「彼女」が体から発する匂いか何かで自分を恐れていることを知覚し過剰に反応するらしい。それは怒りであり、情欲でもあると「彼女」は考える。雄犬は強い獣として弱者を威嚇すると同時に、雄として雌を征服する喜びを二重に感じているのだろうか。

屈辱的な恐怖感を自分で制御できない「彼女」は、人間が堕落していることの証明は自らの身体の運動(勃起)を制御できないことだ、というアウグスティヌスの言葉を思い出す。犬と関係性を作ろうとして飼い主に話をするが相手にされない。キレた「彼女」が「人間の」言葉で犬を罵るところで話は唐突に終わる。「犬」には、性、動物と人間、暴力、といった本書の主要なテーマが鏤められ、序章の役目を果たしている。

「物語」のテーマは不倫。夫に内緒で別の男との情交を楽しんでいる「彼女」には疚しさというものがまったくない。夫を愛しているが、夫のいない時間はただの自由な自分に戻るだけのことだ。保守的な「彼女」は、いつかこの関係が終わったら、結婚している女に戻ることも知っている。「彼女」はモラルに反しているのか。モラルをストレートに問う一篇。

エリザベス・コステロと、その家族を扱う連作短篇が読ませる。エリザベス・コステロは、オーストラリア出身で、六十歳をこえた今でもポレミックな姿勢を崩さない。簡単には人の意見に同調することのない、この老作家と息子たちの対話が実に愉しい。中心となる話題は、老いつつある作家の一人暮らしだ。心配する二人の子の思いは分かるものの、自分の人生は自分の思うように生きたい老人のこだわりはいつもすれちがう。

「虚栄」では家族が六十五歳の誕生日を祝うために母親のアパートに集まる。その前に現れた母親は髪をブロンドに染めてドレスアップしていた。家族は驚くが、母親は「ずっとこのままってことではないの」「この人生でもう一度か二度、ひとりの女が見つめられるように見つめられたい」と言う。しかし、帰りの車では、あのまま放っておくと義母は傷つくにちがいない。自分をコントロールできていない、とジョンの妻ノーマは言う。

実の息子と娘は、母親のすることに驚きはしても批判はしない。批判してやめる母親ではない。ノーマもそれは知っているから、その場では口をはさまない。もともと現実離れした世界で生きてきた人なのだ。「若いときは問題がなかった。でもいまはその現実離れが(略)彼女に追いつきはじめた」とノーマは言う。微妙なのは、あのまま放置しておいて、義母が傷ついた時「その責任が私たちに降りかかってくる」というところだろう。

「ひとりの女が歳をとると」では、ヘレンがギャラリーを運営するニースに母がやってくる。同じ頃、アメリカにいるジョンも渡仏する。母親は、これには企みがあると考える。案の定、二人は同居を提案する。ニースでもアメリカでもいい。どちらかを選んだらいい、と。もちろん、母親は同意しない。まだまだ一人でやっていける、と。母と娘、母と息子それぞれの間で交わされる会話がいい。作家の脳内対話なのだが、実に生き生きしている。

子どもたちは母を心配し、同居を考え、それを拒否されると、施設への入居を勧める。放っておくと母親の頭と体はどんどん衰え、最悪の場合、孤独死だ。それを止めるのが子どもの義務だと考えている。が、ジョンとヘレンにとってはそれだけではない。本当に心配なのだ。同居も施設も最良のものを準備しての提案である。第三者的にはこれ以上ないような提案に思える。

一方、親は遠くで誰の世話にもならず、死にたいと思っている。思いやりは迷惑とまではいわないが、子どもに要らない心配をかけたくない。それに、死ぬまでの間にはやりたいことや考えたいことがまだまだある。子どもとの同居や施設への入所は、その邪魔になるだけだ。体や頭の自由がきく間はそれでいけるだろう。だが衰えは知らぬ間に進んでいる。

「老女と猫たち」では、母親はスペインの田舎に隠遁している。そこへジョンが訪ねてくる。母の家には露出癖のあるパブロという男が同居している。施設に収容されるところを母が保護を名乗り出たのだ。それに十数匹の猫も。村を出た人々が飼っていた猫を捨て、野良猫となった。村人は野良猫を見つけると撃つか罠で捕らえて溺死させる。それで母が保護している。当然、村人は面白くない。母親は村で孤立している。

人と動物について、選択と行動等々、哲学的ともいえる会話が母と子の間で交わされる。老いた母は議論で相手を言い負かせたい訳ではない。ただ最後まで自分の生き方を通したいだけなのだ。猫を保護するのは「数が多すぎるという理由で、母親から引き離されて溺死させるような世界に私は生きていたくない」からだ。人間だったらどうなのかという問いがそこにはある。結局ジョンは母を説得できない。

「老女と猫たち」の内幕をジョンの視点で語るのが「嘘」。ジョンは母が転倒したことを知り、慌てて飛んできたのだ。足腰の弱った母に施設への入所を提案する息子に「本当の真実」を言えと母親は迫るが、息子の口からは言えない。妻になら言える。それで手紙を書く。異国の寒村で痴呆の男に看取られて死ぬかもしれない母親に寄せる息子の切々とした心情が綴られる。親を施設に入れた身として、今はジョンに肩入れして読んでしまうが、そのうち立場が入れ替わるのも承知だ。身につまされる。

「ガラス張りの食肉処理場」では、いよいよ知力が衰えてきた老作家は息子を頼る。自分のことではない。人間が他の動物を食べるという問題について、考えるための施設を作れないか、という電話だ。それからいくつもの断片的な文書が送られてくる。人間と動物について書かれた本の書評やら、書きかけの作品。中にはダニを馬鹿にするハイデガーが弟子のハンナ・アーレントに対してはダニと同じことをしている、と揶揄する文章まである。もう自分では、まとめることができなくなっていることを自覚して息子に後を託しているのだ。

明晰で直截的。紛らわしいところや仄めかしを残さない。辛辣さをユーモアで塗したエリザベス・コステロの断簡は、勿論クッツェー自身の手になるもの。大きめの活字でゆったり組まれた組版は、老眼に優しいが、書かれている中身は決して優しくない。しかし、エリザベス・コステロとジョンの思弁的な対話には思わず引き込まれる魅力があり、ナイーヴなテーマを恐れず追究する態度は感動的である。傍らに置いて何度でも読み返し、余白に書き込みを入れたくなる、そんな一冊。未読の『エリザベス・コステロ』も読んでみたくなった。


by abraxasm | 2018-09-23 01:21
e0110713_04462007.jpg『ポリフィルス狂恋夢』という絵入り本の話を初めて読んだのは澁澤龍彦の『胡桃の中の世界』だった。サルバドール・ダリの絵の中に登場する、飴細工を引き延ばしたように細長い足を持ち、背中にオベリスクを背負って宙を歩く象のイメージも、この本の中に収められている一葉の木版画に基づいていると紹介されていた。

作中『ポリフィロの狂恋夢』という書名で語られる面妖な本はフランチェスコ・コロンナ作と伝えられるが、実作者の名は明らかではない。しかし、出版した人物は奥付により明らかにされている。ヴェネツィアの出版人アルド・マヌツィオその人である。澁澤の本にもアルドゥス・マヌティウスの名で登場している、商業印刷の父とも称される十五世紀イタリアの出版人である。

タイトルからも分かるように、この小説は、そのアルド・マヌツィオが、ヴェネツィアを初めて訪れたその日から、愛する妻に看取られて死を迎えるまでの波乱に満ちた半生を、黒死病の蔓延する水の都ヴェネツィアを舞台に、ピコ・デラ・ミランドラやエラスムスといったルネサンスを生きた人文哲学者との交友をからめて、華麗に描き上げた歴史小説といえる。また、その影響力、伝播力を恐れて教会権力が出版を認めない当時の発禁本を秘密裡に印刷、出版しようと苦闘する出版人の努力を描くものともいえる。

何よりも興味深いのは、当時のイタリアの出版事情をその当事者の目から描いていることだ。当時の本は重くて大きく、台の上に置いて読むものだった。それを誰もが片手で持ち運べるポケットサイズの八折り版でギリシア古典を出版したのがアルドだった。その組版や活字には、熟練の活字工フランチェスコ・グリッフォの存在があった。イタリック(斜字体)の活字を考案したのも、この活字父型彫刻師の存在に負うところが大きい。

注釈なしのギリシア語で古典文学を出版するのは、ラテン語に訳されたアリストテレスを読んでいた当時としては大胆な試みだった。しかし、ドージェの息子やピオ王子の家庭教師をしていたアルドには、学生にとっては手軽に持ち歩けるギリシア語の古典文学全集の必要性が分かっていた。資本も印刷所も持たないアルドはヴェネツィアで手広く出版業を商っていたアンドレア・トッレザーニに協力を仰ぎながら、出版人への道を歩きはじめる。

ギリシア語の文学書を出し続けながら、アルドが秘かに出版を考えていたものがある。それはフィレンツェで同じ師匠に学んでいた学友のピコ・デラ・ミランドラに託された二冊の本の出版である。それが前述の『ポリフィロの狂恋夢』であり、もう一つがエピクロス作『愛について』である。この本では『ポリフィロの狂恋夢』の作者はピコ・デラ・ミランドラその人という大胆な設定がされており、エピクロスの本については、驚異的な記憶力を誇るピコが全篇を記憶したものを写本にしたという設定である。

『ポリフィロの狂恋夢』が、実際に出版された書物としてアルド・マヌティオの名を高めたタイポグラフィ史上の傑作であるのに対して、エピクロスの書物については詳しいことは残されていない。エピキュリアン(快楽主義)という名のもとになったことから、誤解されがちだが、快楽というのは肉体的快楽ばかりを意味するのではなく、むしろ精神的な快楽を意味するものであったとされているが、作中ではかなり性的な快楽の書であるという理解の上に位置付けられている。

それ故に。キリスト教との対立が生まれ、サヴォナローラの命を受け、異端の書を闇に葬るために暗躍する写本追跡人が、アルドが秘かに隠し持つピコの写本に目をつけ、執拗にそれを奪取し、火の中にくべようとアルドを追い回す。カトリック教徒であるアンドレアもまた、教会側の意を汲み、アルドの目論見を阻止しようと、折につけ出版の邪魔をする。一方で、自分の事業にとってアルドの見識を誰よりも必要とするのがアンドレア。それ故、自分の愛娘マリアを年の離れたアルドの妻として結婚させる。

ユダヤの血を引きながら、ユダヤ教にもキリスト教にも帰依しないアルドは、それでいながら女性との間には距離を置き、仕事ひとすじの人生を送ってきた。歳を経ての結婚には二の足を踏み、何とかマリアとの結婚を回避しようとするが、アンドレアの策謀によって結婚式は挙行される。初夜の床に就くのを拒否するアルドに対してマリアのとった行動が大胆で、その後のマリアの生き方に真っ直ぐつながっている。

学識はあるのだろうが、優柔不断で行動力の伴わないアルドに対し、ギリシア語も解し、印刷出版業についても熟知しているマリアという女性の魅力が際立つように描かれる。アルドの息子パオロは、父の偉業を後世に伝えるために伝記を書こうとして、若くして死に別れた父の真の姿をマリアに尋ねようとするが、母はそれに対して口を濁す。序章に記されたその事実が、後のアルドの実人生の持つ深い意味を物語る。

アルドの偉業を支えたのは、単にグリッフォだけでなく、妻であるマリアの存在が大きかったのだ。パオロには聞かせなかったヴェネツィアの出版人アルド・マヌティオの真の物語をその妻のマリアの記憶が語ったのが、この『ヴェネツィアの出版人』という物語。歴史的事実に作家の大胆な想像力が生み出した、ルネサンスを生きたであろう人々の破天荒な生き方を絶妙の筆加減で配したビブリオテカ・ロマンとでも名付けられそうな異色の小説。本好きな読者にこそおすすめしたい。



by abraxasm | 2018-09-21 04:46 | 書評
e0110713_16515253.jpgただ「怪談」と聞くと川端の枝垂れ柳や、枯れ薄の叢の中の古沼、裏寂れた夜道といった妙に背筋が寒くなる風景を思い描いてしまいそうになる。それが、前に「英国」という二文字が着くと、急に座り心地のいい椅子や、炉端に火が用意された落ち着いた部屋のことを考える。別にどこでもよさそうなものだが、「英国怪談」を読むには、いかにも彼の地の幽霊が出てくるにふさわしい環境が用意されていなければいけないような気がするのだ。

紺地に赤と金で唐草文様を配した豪奢な装丁の本である。厚さだけでも相当なものだが、持ち重りする大冊である。寝転がって読むというわけにはいかない。手持ちの書見台に置いて読もうとしたが、想定される厚さを越えているためページ押さえが使えず使用不可となった。机の上に直に置くと読むために首を傾けなくてはならず、長時間続けば首が痛くなる。仕方がないのでオットマンに足を載せ、腿の上あたりを支えに、革のブックカバーを被せて両手で持ちながら読んだ。

有名無名の作家二十六人からなる三十二篇のアンソロジー。アルジャノン・ブラックウッドやら、アーサー・マッケン、ウォルター・デラメーアといった名の売れた作家の他にもホーレス・ウォルポールの息子のヒュー・ウォルポールや、H・G・ウェルズ、最近立派な本が出たフィオナ・マクラウド、それにエリザベス・ボウエンのような作家も含めた多彩な顔触れである。短篇、それもかなり短いものも多いので、一日に少しずつ読む愉しさがある。

英国怪談は、大半が幽霊譚である。古く由緒のある建築が都市にも田舎にも残っていて、またそういう古いものを悦ぶ気質がある。またどの家の箪笥の中にも骸骨が仕舞われている、という意味の諺もあるくらいだから、人が何人か集まれば、その類の噂話に事欠かない。また、好んでそういう話を聞きたがる人種もいる。そんな訳で、語り手が誰それから聞いた話を、その座にいる人々に語って聞かせるというスタイルの話が圧倒的に多い。

よく、犬は人につき、猫は家につくと言われるが、日本の幽霊は害をなした人に祟ることが多く、英国の幽霊は事の起きた場所に居つくことが多いように思う。無論、例外もある。この本にも殺した人の前に現れる幽霊の話も出てくるが、あまり陰惨にならないのはお国柄か。柵に腰かけた幽霊やらピアノを弾きまくる陽気な道化の幽霊やらが登場する。

すべては紹介できないので、いくつか紹介しよう。ストーク・ニューウィントンにあるというキャノンズ・パークの不思議を語るアーサー・マッケンの「N」は、ロンドンという大都会の中に迷い込んでいく経験のできる作品。普通の通りなのに、その窓から眺めるとまるでこの世のものとも思えない美しい風景が見える、しかし、二度と目にすることがかなわない、という話。何人もが経験した不思議の秘密を考える謎解きの興味も付されている。日常の中に怪異を見つけるのが得意なマッケンらしい一篇。

自家用車を駆って、低地地方を訪れた旅人が石造りの古めかしい館で遊ぶ子どもを見かけ、主人らしい目の不自由な婦人と懇意になり、何度かその館を訪れるようになる。『ジャングル・ブック』で有名なラドヤード・キップリングの「彼等」。子どもを産んだことのない女性が、自分は声しか聞こえないのにあなたは見ることができて幸せだ、と旅人にいうのだが、実はその館に集まってくるのは、とうに死んだ子たちなのだ。彼女が子どもを愛するから集まってくるという。怖さの欠片もない、子を思う愛しさに満たされた怪談である。

集中最も怖かったのが、H・R・ウェイクフィールドの「紅い別荘」。休暇を過ごすため田舎の一軒家を借りた家族が出遭うことになる怪異譚。アン女王様式の家は立派で庭園もついており、木戸から川にも出ることができた。ところが、着くやいなや胸騒ぎを覚える。先に到着していた息子は川遊びを嫌がるし、妻も加減が悪そうだった。そのうちに次から次へと異様なものを目にするようになる。昔のことを知る人に話を聞くと、とんでもない曰くつきの物件だった。次第に高まってゆく恐怖が、怪談の妙味。

掉尾を飾る「名誉の幽霊」が先に紹介した道化の幽霊がピアノを弾きながら卑猥な歌を歌うという落とし噺風の一篇。客を迎えた夫婦が、自分の家に幽霊が出ることを隠しもせず、むしろ面白がるだろうと考えて、いろいろ幽霊のことを紹介するのが面白い。客も今さら怖いとも言えず、幽霊が生ける人間には顔を見せない、という一言に救われてその家に泊まる。ところが、夜半に現れた幽霊は何のことはない顔を平気で見せる。約束が違うと文句を言う客に幽霊が語る理由がオチになっている。

少し値は張るが、書架に愛蔵するにふさわしい、近頃珍しい函入り上製本である。作家によって文体を変えて訳されているのも嬉しい。南條竹則氏編訳。以前に文庫などで出された作品を改めて纏めたものだが、訳し下ろしも七篇入っている。そのどれもが読み応えのある作品ばかり。これらを読むだけでも手にとる価値があると思う。


by abraxasm | 2018-09-14 16:52 | 書評