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e0110713_18041746.jpg家の外にある便所でローザがビニール袋に自分の大便を落とす。ローザは袋の口を閉じて廊下の冷凍庫にそれをしまう。スカトロジー? いや違う。これには訳がある。ローザの夫は従弟の妻ジョアナと浮気をしているという噂がある。ローザは溜めておいた自分の大便を缶に集めて水で溶き、それを籠に入れるとジョアナが店を広げているところに行き、籠の缶に手を突っこむとその顔にどろどろの大便をぶっかける。驚いている顔にもう一度。その後はつかみ合いの喧嘩。二人とも留置場に入れられる。糞便で汚れたまま、壁の両端に離れて。

こんなすごい復讐劇、初めて読んだ。文字通り「糞喰らえ」ってやつだ。しかし、陰惨さがかけらもない。村の産婆に呪いをかける方法を教えてもらうが、呪いをかけられるのは夫の陽物だ。死人も出ない。二人とも髪は引きちぎられたが、それだけだ。見物客も臭かっただろうが、堪能したに違いない。しかも後日談がある。二人の女はその後、夫が仕事に出たすきを見つけて脚をからめあう仲になったというのだから、畏れ入るではないか。

こんなエピソードが次から次へと繰り出される、不思議な小説である。マジック・リアリズムめいてはいるが、雨は何年も降り続かない。せいぜい一週間だ。人が空を飛ぶが、オートバイ事故だ。一九八四年というから、さほど昔の話ではない。ロス五輪が開催された年である。それなのに、ここポルトガルの寒村では、電気の引かれていない家があり、欲しいものは、と聞かれた娘は「テレビ」と答えている。

ガルヴェイアスに「名のない物」が空から降ってくる。落ちた場所には、直径十二メートルの穴が開き、「名のない物」からは強い硫黄臭がする。それから七日七晩、強い雨が降り続くと、犬たちをのぞいて人々はそのことを忘れてしまう。しかし、その日から、村には硫黄臭が絶えず漂い続け、小麦の味を変え、パンを不味くしてしまう。ガルヴェイアスのあるアレンテージョ地方は穀倉地帯で、ポルトガルでは「パンのバスケット」と呼ばれている。呪いがかかったようなものだ。

主人公という特権的な立場に立つ者はいない。章がかわるたびに、一つの家なり、人なりに照明が当たり、その秘密や隠し事、他の家との確執、兄弟間の裏切り、復讐、喧嘩、和解といった出来事が語られる。面白いのは、あるエピソードにちょっと顔を出すだけの人や物が、別のエピソードの中では重要な役割を果たすという仕掛けを使っていることだ。

たとえば、ウサギ。冒頭で紹介したローザの息子が銃で撃ってきたウサギを五羽持ち帰る。ローザはそれを他所への届け物に使うのだが、亭主は四軒の届け先には納得がいくが、残りの一軒になぜウサギをやるのかが分からない。実はそのアデリナ・タマンコが、亭主の一物に呪いをかけるやり方を伝授してくれたのだ。話が進んだところで、ああ、あれはそういうことだったか、と納得する仕組み。つまりは伏線の回収なのだが、これが実に巧みでうならされる。

ウサギだけではない。オートバイ、銃、金の鎖といった小道具が、人の因果を操る呪物のように重要な役割を要所要所で果たす。それは人と人とをつなぐとともに、災いのたねともなる。たとえばウサギ狩りにも使われているオートバイは、村の若者が町に出かけるための必須アイテムだ。カタリノは路上レースで負けを知らず、ついには彼女をものにする。しかし、そのカタリノが兄とも慕うオートバイ修理工は、新婚の身で事故に遭ってしまう。

小さな村のことで、人々は互いをよく知っている。それでいながら、隠すべきことはしっかり隠している。そしてまた隠していても誰かには見られてもいる。「名のない物」が落ちたのを契機にして、箍が外れたようにそれが露わになる。中でも多いのは性に関わることだ。ブラジルから来たイザベラはパンを焼くのが本業だが、店は風俗店も兼ねている。若い妻を家に置き去りにしてカタリノはイザベラの店に通う。

イザベラがポルトガルに来たのはファティマかあさんの最後の頼みを聞いてやったからだ。ポルトガル生まれの老売春婦は、生まれ故郷に埋葬してほしいとイザベラに頼んで死んだ。棺桶と一緒に船に乗ってイザベラはガルヴェイアスにやってきた。そしてかあさんの家を継ぐことになった。そんなある晩、イザベラは村の医者マタ・フィゲイロの息子ペドロと車で夜のドライブに出た。

セニョール・ジョゼ・コルダトは、親子ほども年の離れた使用人のジュリアに焦がれ、自分の横で眠ってくれと懇願する。ジュリアには二十五にもなって遊び歩いているフネストという息子がいる。ジュリアのためを思ってセニョール・コルダトは懇意にしているマタ・フィゲイロ先生に仕事を紹介してもらう。収穫したコルク樹皮の見張り番だ。フネストは夜中にやってきた車に向かって威嚇射撃を行うが、朝になって警察に捕まる。撃たれたのはイザベラだった。

よかれと思ってしたことが、人を不幸にしもするが、逆に殺そうとまで恨んだ思いが和解を育むこともある。小さな村の錯綜した人間模様が複雑に絡みあい、一九八四年のガルヴェイアスに襲いかかる。「名のない物」の落下に始まる黙示録的な啓示は、どう果たされるのか。詩人で紀行文も書くという作家はシンプルで読みやすい文章で、ガルヴェイアスの住人の素朴な魂を紡ぎ出す。作家の故郷でもあるガルヴェイアスに行ってみたくなった。

by abraxasm | 2018-08-25 18:04 | 書評

『文字渦』円城塔

e0110713_13394702.jpg中島敦に『文字禍』という短篇がある。よくもまあ同名の小説を出すものだ、とあきれていたが、よく見てみると偏が違っていた。『文字禍』は紀元前七世紀アッシリアのニネヴェで文字の霊の有無を研究する老博士ナブ・アヘ・エリバの話だ。同じ名の博士が本作にも登場するところから見て、連作短編集『文字渦』は中島の短篇にインスパイアされたものと考えられる。

『文字渦』の舞台は主に日本と唐土。時代は秦の時代から近未来にまで及ぶ。ブッキッシュな作風で、渉猟した資料から得た知識を披瀝する衒学趣味は嫌いではないが、近頃これだけ読めない字の並んだ本に出会ったことがない。康煕字典でも手もとに置いていちいち繙くのが本当だろうが、それも大変だ。とはいえ、文字が主題なので、それがなくては話にならない。一冊の本にするには、関係者の苦労は並大抵のことではなかったと推察される。ただし、外国語にはほとんど翻訳不可能だろう。

始皇帝の兵馬俑発掘の際、同時に発見された竹簡に記された文字の謎解きを描いたのが表題作の「文字渦」。粘土で人形を作ることしかできない男が、俑造りのために召しだされる。腕を見込まれて始皇帝その人をモデルに俑を作ることになるが、その印象が日によって変わるのでなかなか捗らない。兵馬俑の成立過程とその狙いを語りつつ、物と直接結びついていた字が、符牒としての働きを持つ実用的な文字へと変化してゆく過程を描き出す。

阿語という稀少言語を探しながら各地を歩いていた「わたし」はあるところで「闘蟋」ならぬ「闘字」というものに出会う。「闘蟋」とは映画『ラスト・エンペラー』で幼い溥儀が籠の中に飼っていたあの蟋蟀を戦わせる遊びである。「闘字」は、それに倣い、向い合った二人が互いに硯に字を書いて、その優劣を競う。ヘブライ文字で書かれたゴーレムの呪文を漢字に書き換える論理のアクロバットが痛快無比の一篇「闘字」。

個人的には、「梅枝」に出てくる自動書記の「みのり」ちゃんがお気に入り。いくつものプーリーやらベルトで出来たガントリー・クレーンを小さくしたような形の機械ながら、『源氏物語』の紫の上の死を書き写す際、のめり込み過ぎて他の書体では書けなくなってしまうほど神経の細やかなオートマタなのだ。ニューラル・ネットワークによって学習する「みのり」は話者である「わたし」の一つ先輩である境部さんの自作。境部さんはアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』を自分で訳し直したものを「みのり」を使って絵巻に仕立てている。本は自分で作るものだというのだ。

この時代、紙は「帋」と呼ばれるフレキシブルディスプレイと化している。境部さんは言う。「表示される文字をいくらリアルタイムに変化させても、レイアウトを動的に生成しても、ここにある文字は死体みたいなものだ。せいぜいゾンビ文字ってところにすぎない。魂なしに動く物。文字のふりをした文字。文字の抜け殻だ」「昔、文字は本当に生きていたのじゃないかと思わないかい」と。

この境部さんのいう文字に魂があった時代、もう一人の境部が遣唐使として、唐の国に渡っている。白村江の戦いに敗れ、唐の侵攻を食い止めるための外交交渉の副使としての任務がある。高宗の封禅の儀式に立ち会い、皇后武則天の威光を知った境部石積は、一計を案じる。外交の窓口となる役人に二つの願いを出す。ひとつは函谷関を越え西域に旅をする許可。もう一つは、武則天の徳を讃えるために新しい文字を作ること、である。前者は日本がカリフの国と手を組んで唐を挟み撃ちにすることを意味している。

そんなことが許されるはずがないので、これは単なる脅しにすぎない。ではもう一つの方にはどんな意味があるのか。「石積は思う。もしもこの十二年、自分の考え続けてきた文字の力が本当に存在するのなら、皇后の名の下に勝手な文字をつけ加えられた既存の漢字たちは、秩序を乱されたことを怒り、反乱を企てるだろう。楷書によって完成に近づいた文字の帝国に小さな穴が空くだろう」と。

中島敦の『文字禍』に登場するナブ・アヘ・エリバの名が出てくるのが、この「新字」。老博士は文字の霊の怒りにふれ、石板に下敷きになって死ぬが、石積はその文字の力を信じ、一大帝国に揺さぶりをかけようとしているのだ。もし西域への旅が許されたら、同盟国を探すつもりだが、その頃日本は唐に攻め滅ぼされているかもしれない。それなら、新しい土地で新しい言葉で日本の歴史を記せばいい。それも「国を永らえる一つの道なのではないか。文字を書くとは、国を建てることである」と石積は考えている。

収められた十二篇の短篇の中には、横溝正史の『犬神家の一族』をパロディ仕立てにした「幻字」もあり、SF、ミステリ、歴史小説、王朝物語とジャンルの枠を軽々と越えて見せる変幻自在ぶりに圧倒されて、ついつい見逃しがちになるのだが、全篇を貫くのは「文字の力」という主題である。公文書の改竄や、首相、副首相の無残な識字力が世界中に知れ渡ってしまった今のこの国において、文字の魂、文字の力を標榜することは大いに意義深いものがあるといえるのではないだろうか。

by abraxasm | 2018-08-21 13:39 | 書評