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e0110713_14242531.jpg老人施設の調査研究を仕事にするフランチェスカ、とその息子で今はカナリア諸島に滞在中のクリストファーという二人の人物を軸にして、二人をめぐる家族、友人、知人が多彩に出入り、交錯する。短い章ごとに視点人物が入れ替わり、それぞれの視点で語られる挿話は、人物の内省やさりげない日常の断片であったり過去の回想であったりと様々だが、ひとまずは老いを主題にしていると言っていいだろう。

とうに七十の坂を越えながら、見知らぬ他人と何時間も一緒に過ごすのが苦痛という理由で、一人プジョーを駆ってイングランド中を駆け巡るフランが出会うのは、老人がその大半。迫りくる死期、弱りつつある身体能力、病からくる痛みと向き合いながらも、それぞれが自分の流儀で日々を生きる姿を、英国流のヒューモアと辛辣な人間観察によって、リアルに生き生きと浮かび上がらせる。

フランが住んでいるのは高層住宅。エレベーターがよく止まるので階段を上り下りしなければならない。少し躁じゃないのかと息子が思うくらい、常に動き回っていないといられない性格なのだ。仕事に出ていないときは、別れた夫で今はほとんどベッドに寝たままの元医師クロードのところにタッパーに詰めた手料理を届けたり、友人のテリーサやジョゼフィーンを訪ねたりと日々忙しく暮らしている。

老歴史家のサー・ベネットとその世話をしているアイヴァーが暮らすのは、北西アフリカ沖にあるスペイン領カナリア諸島のひとつランサローテ島。クリストファーの妻セイラは、この島でテレビ番組の取材中に突然倒れ、急逝したばかりだ。その時親身に世話を焼いてくれたのが、ベネットとアイヴァーの二人だった。事後の処理も兼ねて、島を訪れたクリストファーはベネットの住む「スエルテ荘」に厄介になっている。

社会的には中流にあたる階層の人々が多く、話題に上るのは文学や歴史、美術、音楽で、それもかなり突っ込んだ内容。たとえば、寝たきりのクロードの楽しみがマリア・カラスを聴くことだと言われれば、特にオペラ好きでなくても分かるかもしれないが、中皮腫を病んで体力が衰え、本棚の上の画集を取ることが難しくなったテリーサの兄が、ヤコポ・ダ・ポントルモの専門家と紹介されて、その絵が思い浮かばなければ、愉しみも半減してしまう。

フランのもう一人の友人ジョゼフィーンはケンブリッジのアテナ館に住む英文学研究者で今も週に一度成人学級を担当している。その研究テーマは「死んだ妻のまだ生きている姉妹」というものだ。週に一度木曜の夜に酒を飲む相手が同じ研究者仲間のオーウェンで、ケンブリッジのリーヴィス一派である。このオーウェンとベネットは旧知の仲というように、イングランドとカナリア諸島は、この他にもいくつもの線で繋がっている。

特にこれといった出来事が起きるわけではない。いちばんそれらしいのが、雨の中、湿地帯にある老人施設を訪れたフランが冠水した道路で立ち往生する場面なのだから推して知るべし。やむを得ず近くに住む娘の家に泊まることにしたフランは、地球環境を専門にしている娘の異常気象観測プログラムで、カナリア諸島の海底火山の活動が活発化していることを知り、息子にメールを送る。その頃クリストファーはベネットが倒れて、窮地に陥っているアイヴァーに寄り添っていた。

ベネットとアイヴァーは長いつきあいだが、同性婚をしているわけではない。ベネットが腰の骨を折ったことによって一時的に正気を失っていることがアイヴァーの苦境の原因だ。実質的には家族でも法的には他人である。もしものことがあれば、この異国の地で住む場所を失ってしまうことになる。陽光にあふれ空気の乾燥したカナリア諸島の暮らしを捨てて、じめじめしたイングランドに帰る気のしないアイヴァーは、今まで封印してきたベネットの遺言を読もうと決意する。

大した事件は起きないが、ベネットはただ転んだだけで正気を失うし、テリーサも書棚の踏み台から足を滑らせたのが原因で死期を早める。老人にとってはちょっとしたことが命取りなのだ。七十をこえてもバリバリ現役のフランやジョゼフィーンだが、フランは運転はできても電気系統には疎い。ジョゼフィーンヌにしてもDVDの取り扱いがよく分からない。そうした小さなことが老人を生きづらくさせている。彼女らよりは少し若い自分にも身につまされることは多い。

難民問題や民族独立といった政治的な課題から、同性愛者の抱える不安、老人問題といった身近な話題まで、多彩な話題を多くの人物に振ることで、ストーリーらしきもののない身辺小説的な話に立体的な構造を持たせることに成功している。女性の髪形や服装、化粧といったディテールを微細に描き分けることで、人物の個性を際立たせることの巧みさはいうまでもない。フランお手製の料理はイギリスの食事がまずいという先入観を打ち破るものだし、ワインやアブサンといったアルコール類への目配りも利いていて読む愉しさに尽きない。

エピグラフに引いたD・H・ロレンスやW・B・イェーツをはじめとする作家や詩人への言及もたくさんあるので、英文学愛好家には何かと読みどころが多い。何より個性あふれる人物が魅力的で、個人的には寝たきりの身でありながら美貌のジンバヴウェ人介護士を口説くことに成功する食えないオヤジのクロードに親しみを覚えた。飲み食いだけでなく、知的な会話や活動を含め、老いを描いているのに少しも枯れを感じさせない。これは国民性の違いだろうか。

日常会話の中にシェイクスピアやギリシャの古典、ベケットの戯曲、イェーツやロレンスの引用が頻繁に出てくるのは文芸評論家でもある作家ゆえかもしれないが、体が動かなくなるにつれ、人との交流は会話が中心になる。その際に、どれだけの引き出しを持ち、互いに相手ができるかが大事になる。医者通いや我が子の愚痴が共通の話題では悲しすぎる。我が身を振り返っても、文学の話のできる友人は身近にはいない。残り少ない人生を楽しく語り合える友を持つフランやジョゼフィーンが羨ましく思えた。

by abraxasm | 2018-04-24 14:24 | 書評
e0110713_12201952.jpgジョン・フォード監督に『シャイアン』という映画がある。いつもの白人の視点ではなく、不毛な居留地に閉じ込められたインディアン側に寄り添った一味違う西部劇だ。約束を守らない白人に業を煮やしたシャイアンの部族全員が故郷に帰る決断をする。苦労を重ねた末にたどり着いたそこには、彼らの生活の糧となるはずのバッファローの白骨が散乱していた。白人がコート用の毛皮を得るために狩りつくしていたのだ。

インディアンは皮だけでなく、肉は食料に骨はナイフや矢じり、針とバッファローを使い切る。それを白人は毛皮だけのためにほぼ全滅させた。何よりそれがネイティブ・アメリカンの命脈を断ったのだ。『ブッチャーズ・クロッシング』は、そのバッファロー狩りを主題に描いたものである。それも極端にミニマムの視点で、一人の猟師が一シーズンにどれだけの数のバッファローを殺すことができるのかを克明に記す。

チームの人数は最小構成で四人。猟師(ハンター)が一人、皮剥ぎ職人が二人、料理その他を取り仕切るキャンプ係が一人。彼らは獲物がいる場所まで来る日も来る日も旅をする。猟場に着いて肉が手に入るまでは、豆とベーコンとコーヒーという食事。川筋から離れ平原に入ると水すら飲めなくなる。用意した水が切れるまでに次の水場に着けるかどうかがリーダーの能力にかかっている。だから、リーダーの指示には絶対に服従しなければならない。

この小説でリーダーを務めるのはミラーという猟師だ。他の流れ者や南軍くずれとちがい、彼はこの地方をよく知る本物の猟師である。人を雇って猟をさせ、毛皮を鞣して売る商人マクドナルドは彼を雇いたがるが、彼は自分のやり方で猟をすることにこだわり、首を縦に振らない。狩猟隊を組むには元手が必要だ。獲った毛皮を運ぶ荷車とそれを牽く連畜、銃と火薬、食料に馬等々、一介の猟師には手が出ない金額になる。だから、ミラーは獲物の大群がいる場所を知りながら、ここ十年狩猟隊が組めていない。

そこに、語り手の青年がボストンからやってくる。カレッジを三年で中途退学し、ラルフ・ウォルド・エマソンの思想にかぶれ、自然の中で自分の生き方を見つけたいとおじの遺産を胴巻きに入れて、はるばるブッチャーズ・クロッシングにやって来たのだ。この地で皮商人を営むマクドナルドはボストンにいた頃、ユニテリアン派の在俗司祭を務める父の教会に顔を出していた。父の紹介状を手にしたウィリアム・アンドリューズは、ホテルに着くと真っ先にマクドナルドをたずねる。

商人は若者の軽はずみをいさめるが、気のはやる若者は聞く耳を持たない。そこで、マクドナルドが紹介したのがミラーだ。自分のいうことは聞かない男だが、誰よりもこの地方をよく知る男で、古い知人の息子を委ねる相手としては彼をおいて他にないと判断したからだ。ミラーと会って話を聞くうちにアンドリューズは狩猟隊を結成するのに自分の所持金を提供することを決める。その代わり自分も一緒に連れていってほしいという。

ミラーがバッファローの大群を見つけたのは、カンザスから二週間ほどかかるコロラド準州。ビーバーを狩りに入った山で偶然に見つけた。山間に隠れた谷の下に広がる平地で、多分白人は誰も知らないが、四、五千頭はいるという。猟の方法は、猟師が一日がかりで仕留めたバッファローを一晩中かけて皮剥ぎ職人が皮を剥ぐ。キャンプ係はその間に料理したり、牛や馬の世話をしたりする。単調な作業の繰り返しだ。アンドリューズはシュナイダーという皮剥ぎ職人に教えてもらいながら皮剥ぎを手伝う。

三部構成で、一部と三部はブッチャーズ・クロッシング、第二部がバッファロー狩りの旅が舞台。第二部が小説の中心だが、刊行当時ウェスタン扱いされたこの小説は不評だったという。さもあらん。舞台こそ西部だが、これはその手のウェスタンとはちがう。終始一貫してバッファロー狩りだけを追う、ある意味、ノンフィクションのような味わいがある。無論、人物同士の葛藤や、猛威を奮う大自然との格闘があって、スリルやサスペンスに溢れていて、面白さは格別だ。

特にミラーという猟師の人物像が魅力的だ。誰にも頼らず、自分の足で好きなところに行き、好きなように生きる。それも大都会ではなく、道などない手つかずの大自然の中だ。携行する道具は最小限。狩りに使う弾丸も自分で金属を熔かし、火薬を詰めて作る。雪に降り込められたら、避難小屋も建て、猛吹雪の中で獲物の毛皮を細工して寝袋も作る。沈着冷静にして穏やかだが、一度これと決めたら譲らない頑固さもある。アメリカ人の理想のような男である。

ところが、至極頼りになるこの男が豹変する場面がある。バッファローの大群に一人で立ち向かう時だ。リーダーを殺されたバッファローは、うろたえ怯えるばかりでうまく逃げることもできない。その相手を、Y字型の木の枝を支えにして、狙いをつけては心臓か眉間の間を撃つ。銃が熱を持つと交換し、一日中撃ち続ける。これはもう、狩猟というよりただの大量虐殺である。必要十分な数の毛皮を得ても猟をやめて帰ろうとしないミラーにシュナイダーが噛みつくが、撃てる限りのバッファローを撃ち殺すまで、ミラーはやめない。

ふだんは頼りがいのある有能なリーダーなのに、銃を手にすると人が変わったようになる。相手が、自分たちと同じ「人間」ではないからだ。ミラーはその猟場のことを「遠い昔にインディアンが来たかもしれないが、人間(傍点二字)はまだだ」と発言している。つまり、彼の眼にはインディアンは「人間」として見えていないのだ。ならば、相手がインディアンだろうが、黒人だろうが、黄色人種だろうが、ミラーにとってはバッファローと変わらないのではないだろうか。

法が支配する町では出来ないことも、西部のフロンティアなら可能だ。力さえあれば土地も獲物も金も思い通り手に入れることができる。アメリカ人の頭からはこの考え方が抜けきらない。ヴェトナム戦争時代に書かれたというが、湾岸戦争でもイラク戦でも、現在のシリア情勢でも銃を手にしたアメリカという国の振る舞いにはミラーを思わせるところがある、と思うのはうがちすぎだろうか。

シュナイダーの忠告を聞こうともしないミラーは、そのために重大な判断ミスを犯す。雪が降りはじめるのだ。大量の毛皮を積んだ荷車を牽いて雪山を出ることは到底不可能。四人は人里を遠く離れた山中で雪が融ける春まで越冬しなければならなくなる。無論シュナイダーはミラーと険悪になるし、以前雪山で凍傷になり、片手を失ったキャンプ係は正気を失いかける。攻める時は果敢だが退き時を誤り、大きな被害を被る点もミラーはアメリカに似る。

大自然の中での経験が主人公の人間的な成長を描くことが主眼と思えるのだが、訳者あとがきで、エマソンの思想に触れて、訳者はアンドリューズが赴いたコロラドのような大自然はバックカントリーといい、エマソンのいうカントリーとは、都市の周辺に残る人間に管理されたフロントカントリーのことだという。自然に触れる中で本来の自分を見つけようとした若者が、触れるべきでない大自然に飛び込んでしまった結果、何を得て何を失ったのだろう。馬に乗って町を出る青年の遠ざかる背中を見つめ、そう思った。

by abraxasm | 2018-04-19 12:20 | 書評
e0110713_16374803.jpg一九二四年のマザリング・サンデー、三月三十日は六月のような陽気だった。マザリング・サンデー(母を訪う日曜)は、日本でいう藪入り。この日、住み込みの奉公人は実家に帰ることを許される。そのために雇い主の家では昼食をどこかでとることが必要となる。料理をする者が暇を取るからだ。ニヴン家のメイドであるジェーン・フェアチャイルドは孤児院育ちで帰る家がなかった。ジェーンはニヴン氏にお許しをもらって家にとどまり、外のベンチで本を読もうと思っていた。

そこに電話がかかってくる。相手はポール・シェリンガム。ご近所に住むシェリンガム家の一人息子で、もうすぐ結婚が決まっているが、七年前からジェーンとこっそりつきあっている。エマ・ホプディと結婚すれば、二人は二度と会えなくなる。両親も使用人もいなくなるこの日が二人で過ごせる最後の一日だった。ポールはジェーンに家に来るよう誘った。ジェーンは主人の手前、間違い電話の振りをしながら同意の由を伝えた。

誰もいない家の中、ことが済んで裸のままの二人がベッドの上で煙草を吸っている。男は二十三歳、女は二十二歳だ。今日もこの後、婚約者と会うことになっている男の悠揚迫らぬ態度を見ながら女は考える。その間、男は時間をかけて服を一つ一つ身に着けてゆく。まるで結婚式にでも行くような正装だ。それを見ながら女は、裸のままでベッドに寝そべり、男の結婚相手のことを考えている。男は女に服を着るよう命じもしないし、自分も急がない。

三月なのに六月のような好天の日曜の午後、開け放たれた窓からは日が差し込み、鳥の鳴き声が聞こえている。着替えを終えた男は、彼女一人を残し、車で出てゆく。残された女は、裸のままで屋敷の中を探検する。今日一日だけは何をしても許される、それが彼の最後の贈り物のように思えたからだ。

不思議な小説である。性体験はすでにある二十二歳の女性の目で見たことが語られるのだが、言葉があけすけで、慎み深さが感じられない。普通ならいくら男女の間であっても、メイドと他家のお坊ちゃんだ。言葉遣いや態度にそれらしい関係が出るはずではないか。話が進むにつれ謎が解けてくる。実は話者は小説家で、今読者が読んでいるのは、その小説なのだ。

小説家ジェーン・フェアチャイルドは九十歳になっている。インタビューでは、いつ小説家になったのか、と必ず聞かれる。そのひとつが、この日だった。この特別な日、彼女の胸に湧き起こった、自分の人生が始まったという自由の感覚だ。それは家の探検を終え、服を着て玄関の扉に鍵をかけ、言われた場所に鍵をかくして自転車で走り出した時に感じた。自分の人生は終わったのでなく今始まったばかりだ、という感覚だ。年に一度の休暇はまだ残っている。どちらに自転車を走らせるか、ジェーンは迷う。

まだ運命の出来事は起きていない。小説家は、インタビューに答えるように、自分の過去を語りはじめる。孤児院で育ち、十四歳で奉公に出た。読み書きができ、計算もできる彼女は雇い主に重用され、図書室の本を読む許可も貰う。冒険小説が好きだった。やがて、スティーヴンソンの『宝島』その他の小説を経て、この日はコンラッドを読んでいた。『闇の奥』ではない。『青春』だった。

不思議な小説である。老作家の考える小説論が、書きかけの小説の中に混じり、後に結婚し、早くに死に別れた夫との思い出話が挿入される。言葉に敏感な娘だった時代のある種の言葉に対する違和感が語られる。「それにしても、へんてこりんなことばだ、『ズボン(トラウザーズ)』って」。<trousers>のどこがおかしいのか、このあたり、訳注があってもいいと思う。少なくとも自分は知りたいと思う。

ミステリではないし、途中でジェーン自身も明かしてしまうから書くが、この日ポールは事故を起こして死んでしまう。婚約者との待ち合わせに遅れているので、裏道を飛ばし、曲がりくねった細道で木に衝突したのだ。ただの事故なのかもしれない。しかし、ニヴン氏はシェリンガム邸に出向いて、何か書いた物が残っていなかったかメイドに尋ねている。一日のうちに自分に起きた自由の感覚と大きな喪失感。人生というものの謎めいてはかり難いことへの衝撃が一人の作家を生んだのかもしれない。

ある日の一日限りの出来事の記憶の想起と、想像力豊かな作家のそれに対する自己の批評を絡み合わせ、なおかつ第一次世界大戦の少し前、一九〇一年生まれらしい孤児が老作家になるまでの人生を撚り合わせるという凝りに凝った中篇小説である。読後心に残るものの豊饒さと静謐な印象に圧倒される。

by abraxasm | 2018-04-17 16:37 | 書評

『雪の階』奥泉光

e0110713_17005379.jpg武田泰淳の『貴族と階段』、松本清張の『点と線』を足して二で割ったような小説。二・二六事件前夜の緊迫した政治的状況を背景に、伯爵家の令嬢が友人の死の謎を解く、ミステリ仕立ての一篇である。特筆すべき点は、元ネタとして、上に記した二作品をフルに使いきっていることだ。自炊用にバラした二篇を適当につなぎ合わせて筋が通るように手直しし、一篇に仕立て直したような凝った作品になっている。

貴族院議員笹宮惟重伯爵の娘で女子学習院に通う惟佐子には宇田川寿子という親友がいた。松平侯爵邸のサロン演奏会のあと、外苑で花見をする予定でいたのに、寿子は演奏会を欠席した。その後も連絡がなく、心配していた惟佐子が事実を知ったのは数日後。寿子の死体が発見されたからだ。寿子は久慈という青年将校と富士の樹海で情死していた。

しかし、惟佐子には寿子が心中したとは思えなかった。惟佐子宛の仙台中央の消印のある葉書には「くわしいことは帰ったら話す」と書かれていたからだ。貴族の娘で外出もままにならない惟佐子に代わり、この謎を追うのが、幼い頃の惟佐子の「おあいてさん」になっていた惟佐子が「ねえさま」と慕う千代子。新米写真家の千代子は蔵原という顔見知りの記者と二人で、心中事件の謎を追う。

惟佐子をめぐる出来事が『貴族の階段』をモチーフにし、千代子と蔵原のコンビが鉄道に乗って事件を捜査する『点と線』の刑事二人に擬されている。情死に見せかけての殺人事件を冒頭に配したのは『点と線』に対する挨拶。ならば、二つの小説を読んでいないと面白くないかといえば、そんなことはない。むしろ、知らずに読む方が面白い。既読であればあまりにそっくりなぞられていることがかえって煩く感じられるにちがいない。

というのも、恐らく作者はそういう仕掛けを施すことで、かえって自由気儘に小説世界を遊ぶことができるからだ。二・二六事件に関する資料や稗史を大胆に活用して、かなりアブない小説世界を展開してみせている。霊能者や霊夢、神智学、神人、獣人といった概念を日本という国家と絡み合わせ、天皇親政を目指して決起した青年将校の動きを利用し、別の目論見が進行していたというのだ。

三千年も昔のアメノミナカヌシノカミに始まる純粋日本人の系譜が廃れ、大陸から渡ってきて日本を席巻したのがヤマト民族、つまり現在の日本人で、かつては神人の純粋な血であったものが、今ではヤマト民族と混血することで濁ってしまった。この穢れた血を廃することが肝要だ、というのが惟佐子の母方である白雉家の伯父惟允の考えだ。とんでもない内容で、ナチスのアーリア人種を優先し、ユダヤ人弾圧につながる同系の理論である。

惟佐子の兄、惟秀は伯父の思想を受け継ぎ、二・二六事件を利用して皇居に入り、天皇を人質にしてクーデタを起こそうという妄想に支配されていた。白雉家こそが、純粋日本人の血を引くわずかな生き残りだからだ。一方でこの白雉家の血を継ぐ者は淫蕩で乱倫、同衾相手は男女を問わないというもの。惟佐子にもその傾向があるのは次第に明らかになる。没落貴族の退嬰的な風俗描写は『貴族の階段』由来であろう。

それに食傷気味になるだろう読者を意識して、食欲旺盛で健康的な千代子と新聞記者をやめて出版社を始める蔵原という健全なコンビがいる。なかなか進まない恋愛模様が、事件の捜査と共に進捗する。男に混じって三脚や重いカメラバッグを持って駆け回る千代子がいなければ、この小説は胸につかえる。どこまでが事実で、どこからが妄想なのか、スパイ疑惑や組織による暗殺、放火殺人といった不審な事件が二人の行く先々で待ち受ける。

もとにしたネタがあるのだから、話の行き着く先は決まっている。広げに広げた大風呂敷をどううまく畳んでみせるかが腕の見せ所である。一応合理的な解決がなされているが、オカルトめいた世界をすっかり払拭するところまではいかない。惟佐子にはこれから先の日本が戦争へと向かうことや国土が焼尽に帰すことまで見えているようなのだ。つまり、結末の明るさは蝋燭が消える前の束の間の明るさに過ぎない。

白雉家の血を引く清漣尼がいう。この国をヤマト民族に任せておけば、戦争で滅ぼされてもまた同じことを始めるだろう。なぜなら彼らは自分で自分を滅ぼしたいのだ。この言葉が妙に心に残る。敗戦以来一人の戦死者も出さなかった憲法を変え、軍隊の持てる国にしたいという人間を国民が支持するのだ。清漣尼の言う通りではないか。今頃、『貴族の階段』や『点と線』を持ち出した作家には、今のこの国の在り様がデジャヴのように見えているのではないのだろうか。

漢語ルビ振りを多用し、擬古的な文章に見せているが、漢字の多さを気にしなければ文章自体は特に時代がかってはいない。文章中にも言及されているがヴァージニア・ウルフの用いる次から次へとくるくると変換する視点も、慣れればそんなに気にならない。それよりも、作家が用意した奇手妙手に手もなく翻弄される楽しさの方を味わいたい。そして、暇があれば、泰淳や清張の小説にも手を伸ばしてみたいと思う。

by abraxasm | 2018-04-07 17:01 | 書評

『それまでの明日』原尞

e0110713_13211393.jpg愛煙家必読の書。今どきこれだけ煙草を吸うシーンが描かれる小説は世界中どこを探してもないだろう。出てくる男も女もひっきりなしに煙草を吸っている。禁煙になっていてもだ。まあ、自分は吸わないが、最近の煙草に対する世間の冷たさには首をかしげたくなるところもある。昔の映画の喫煙シーンをカットしたり、煙草の代わりに別のものを持たせるように改変したりする動きがハリウッドであるという。それだけはいくらなんでもご容赦ください、と言いたくなる。ボギーに何を持たせるつもりだ。ぺろぺろキャンディか?

和製ハードボイルドの第一人者による14年ぶりの沢崎シリーズの新刊である。期待は大きい。書き出しを読んで胸躍らせる愛読者も多かろう。沢崎もとうに五十の坂を越えたが、事務所の看板は相変わらず<渡辺探偵事務所>のままだ。ただ愛車のブルーバードは部品取り用に修理工場に買い取られ、今はそこの代車に乗っている。携帯電話は今も持たない。この節携帯なしで仕事ができるのか、と思うだろうが、電話サービスを利用しているので、留守の時はそちらにかかる。後で確認すればいいし、嫌な相手の電話を無視できる利点もある。

今回の依頼人は当節めったにお目にかからない紳士。老舗の料亭の女将の身辺調査の依頼である。依頼人の望月は金融会社の新宿支店長で融資先の経営者を調べたいという。本当は別の依頼があって、これはそのための小手調べではないかと思った沢崎は、あまり気の乗らない仕事だが受けることにした。ところが、調査を開始してすぐ、その女将は半年前に亡くなっていることが分かる。赤坂の<業平>というその店は、今では妹が後を継いでいた。

そのことを告げようとしても電話が通じない。依頼人が勤める金融会社に出向いた沢崎を待っていたのが強盗事件だった。支店長不在で金庫が開かないことに業を煮やし、一人が逃げ、残された一人は客の海津という青年に説得されて自首。強盗は未遂に終わったが、金融会社が渋るのを警察が強引に開けさせた金庫には本来あるはずの金のほかに数億円の札束が詰まったジュラルミン・ケースが入っていた。

沢崎は海津と一緒に姿を消した支店長の望月を探し始める。海津は学生ながら人材派遣会社を経営しており、望月とは懇意で娘のアルバイト先も斡旋する間柄だという。貰った名刺から電話サービスで自宅の住所を突きとめ、部屋に入ると、そこには別人の死体があった。すわ殺人かと色めきたつ警察。そこにやくざまでがからんでくる。もしや望月は事件に巻き込まれ、やくざに監禁されているのでは、とアタリをつけた沢崎は<清和会>の相良に探りを入れる。相良は親を介護するため一時的に組を離れていた。

本家のハードボイルドのギャングだが日本ではやくざになる。これが苦手だ。どうにも絵にならない。チャンドラーの小説に出てくる大物は、ディナー・ジャケットに身を包み、身だしなみも整ったいっぱしの紳士気取りだ。交わす会話も洒落ていて、読んでいてそれが楽しい。ところが、安藤昇を除けば、やくざには学もなければ教養もない。ただ、怒鳴り散らして脅しをかけるだけだ。洒落っ気はないが相良との会話に人間味のあるのが救いだ。

チャンドラーの『長いお別れ』、近頃では『ロング・グッドバイ』の方が通りがいいか。あれを意識しているのだろう。男の友情というのが一つの主題だ。つけ加えるなら親子、夫婦といった家族もそうだ。探偵という稼業のせいか、渡辺を亡くしてからというもの、沢崎には心許せる友人も家族もいない。今回相棒をつとめるハンサム・ボーイの海津や、沢崎が紳士だと認めた望月と名乗る依頼人が、二人でテリー・レノックス役をつとめている。

つきあいは浅いが、好ましく思える相手のために、いろいろと世話をした挙句、結果的には裏切られてしまう、孤独な探偵の心情を哀感込めて描いたのが『長いお別れ』だ。もちろん殺人事件が起こり、その謎を解くのが本筋だが、読者の心に長く残るのは、人たらしのテリー・レノックスに手もなく魅了される、まだ若さの残るマーロウの意外にやわなハートだ。さすがに五十をこえた沢崎はそこまで甘くはない。

残念なのは、魅力的な女性が語りの中には出てくるのに、すでに死んでしまっていることだ。伝法で気っぷのいい静子という女将は映画なら山田五十鈴あたりが役どころ。銀幕の名女優の名が何人も出てきて、高峰秀子が語ったとされる女将の生前の印象が文中に引用されている。これがなかなかの出来。強盗犯の一人が俳優の河野秋武に似ていたという一節が出てくるが、若い者は誰も知らないというのも面白い。携帯は持たない、辺りかまわず煙草は吸う、懐かしの映画スター、と時代に逆らったような演出だ。

それでいいのだ。十四年も新作を待つファンなら、変わり果てた沢崎など見たくはなかろう。ミステリ調よりもハードボイルド調を優先したというのが作家の言葉。たしかに発砲事件が起こり、死者も出るが、肝心の事件が物足りない。まあ、舞台が新宿ではハリウッド大通りのあるLAとちがって街並みからして猥雑だ。ケチなやくざ絡みでは話がショボくなるのも仕方がないのかもしれない。過去に因縁のある新宿署の錦織も<清和会>の橋爪も沢崎の相手役としての魅力に乏しい。三月初旬というから東日本大震災だろう。新しい事務所は地震を持ちこたえ、沢崎も健在だ。次の事件を期待するとしよう。

by abraxasm | 2018-04-01 13:21 | 書評