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e0110713_16214500.jpg舞台はアメリカ西海岸、主人公の名はアルマ・べラスコ。慈善事業に熱心なべラスコ財団の代表である。自身のブランドを所有するデザイナーでもあるが、何を思ったか家を出て民主党支持者やヒッピーの生き残りやアーティストが入居待ちリストに名を連ねるラーク・ハウスという老人ホームに入居を決めてしまう。そのアルマのもとに時々、クチナシの花と手紙が届く。二重の封筒に収められた手紙の送り主は誰か、ハウスでアルマの世話を任されているイリーナにもアルマの孫のセツにも分からない。

ずっと運転手付きのメルセデスに乗っていたアルマは、最近免許を更新してスマートに乗り始めた。それだけではない。突然思い立っては数日家を空け、どこかに旅に出る。いくら健康に見えても高齢者で、パーキンソン病の持病もある。孫は祖母がどこへ出かけていくのかを探ろうと、愛するイリーナに協力を求める。イリーナはアルマには恋人がいるのではないか、それは部屋にある写真立ての中にいる日本人、イチメイ・フクダではないか、と話す。

アルマはポーランド出身のユダヤ系女性。ナチスの擡頭で欧州情勢が緊迫していることを心配した叔父イサク・べラスコは妻の妹の家族をアメリカに移住させようと試みるが、アルマの父は頑固でその好意に応じず、娘一人を船に乗せる。サンフランシスコの港でアルマを出迎えたべラスコ家の中には後に結婚することになる従兄のナタニエルがいた。孤独なアルマは実の兄の代わりにナタニエルを慕った。

太平洋とサンフランシスコ湾に挟まれた敷地シークリフに邸宅を建設中のイサクには信頼して庭造りを任せられるタカオ・フクダという庭師がいた。イチメイはその末っ子でアルマとすぐ仲良くなる。しかし、日米開戦により、日本人は敵国人として財産没収の上収容所送りになり、二人は会えなくなる。

幼い頃に出会ってすぐに惹かれあった男女が戦争によって引き裂かれてしまう。戦後再会した二人は愛し合うが、戦勝国の富裕層の女と敗戦国の庭師の男とでは人種と身分に差がありすぎ、結婚に踏みきれない。しかし、別れることのできない二人は周囲に関係をかくして密会を重ねる。ゴキブリの出る汚いモーテルで人目を忍んで愛し合う二人。限られた時間しか会うことのかなわない恋愛はいっそう二人を燃え立たせる。その結果、アルマは妊娠する。

イリーナの視点で描かれるラーク・ハウスで遠くない死を待つ老人たちの日常。その間に挿まれるアルマの過去の回想で、第二次世界大戦から現在までのユダヤ人、日本人、アメリカ人、それにイリーナの故郷モルドバ、と国の歴史に翻弄される人々の暮らしが語られる。アメリカ在住の裕福なユダヤ人は別として、ヨーロッパのユダヤ人の悲惨なことはいうまでもない。独立後のモルドバも苦しい。人々の暮らしは国家の歴史と切り離すことができない。

結局アルマは妊娠したことをイチメイに告白せず別れる。ナタニエルが父親役を引き受け、二人は結婚。日本に帰ったイチメイも日系二世と結婚する。それぞれ幸せな家庭を営む二人だったが、運命の悪戯が二人を再び出会わせる。ミステリ仕立てなので詳述は避けるが、そこには一筋縄ではいかない試練が待ち受けていた。

一方、イリーナはセツの求愛を受け留められずにいた。ハウスの住人から愛され、人から距離を置くアルマにも信用されるイリーナには他人に言えない秘密があったのだ。イリーナの母は娘を自分の両親に預け、早くに国を出た。いい稼ぎ口があると騙され、行き着いた先はイスタンブールの売春宿だった。イリーナが十二歳の時、母から手紙が届き、アメリカに呼び寄せられる。しかし、そこに待っていたのは思いもつかない事態だった。

ラーク・ハウスという場が心の中に孤独を呑みこんだ二人の女を結びつけた。信頼できる人との出会いによって、やがて心と心が響きあい、秘し隠していた過去にほころびが生じる。人は一人で生きることも一人で死ぬことも出来るかもしれないが、幸せとは言い難い。できるものなら、他者に心を開き、他者の思いも受け止め、ともに生きて老いたい。そして、最後は誰かに看取られて死んでいきたいものだと思う。

一日本人読者として、イチメイの造形が少々気になる。その指で触れると植物が芽吹くという「緑の指」の持ち主で、空手と柔道をあわせた格闘術に秀で、乞食行で百寺巡礼を果たし、画才もあるというから、まるで求道者。興味深いのは、父のタカオがオオモトの信者とされているところ。高橋和巳の『邪宗門』のモデルとなった大本教のことだ。収容所行きが決まったとき、白装束を着てオオモトの儀式に則って先祖伝来の刀を地中に埋めるところなど、外国から見た日本人のステレオタイプそのもの。

現代のアメリカ西海岸と、第二次世界大戦下のアメリカを主な舞台に、祖母の世代と孫の世代のふたつの恋愛事情を、老女の秘められた過去の謎解きをからめたミステリ仕立ての一大ロマンス小説。ミステリではないから、謎が解けても問題が解決されるわけではない。ただ、ゲイやエイズ、尊厳死、ユダヤ人差別、小児虐待と深刻な主題をいくつも扱いながら、登場人物が善良で心優しい人々であることが幸いして、愛と友情に満ちた物語になっている。人によっては、そこがもの足りないかもしれないが、読み終えた後味はさわやかだ。

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by abraxasm | 2018-03-28 16:21 | 書評
e0110713_17302539.jpg訳者は一般に流布する「リョサ」ではなく、原語の発音に近い「ジョサ」と記すが、著者はあのノーベル賞作家である。実際にあった事件に基づいて書かれた小説である。新聞に載った数行程度の記事から小説を書くのは、スタンダールに限らず、多くの小説家がやることだが、面白いのは、冒頭では主人公の革命家は「私」の友人であるのに、結末近くでは、それが虚構であることが暴露されることだ。

つまり、読者はフィクションと思って読みはじめた小説が、途中からメタ・フィクションであることを教えられるわけだ。冒頭、貧困と不衛生がはびこる現代のリマをジョギングする作家の「私」がかつての同級生マイタの昔話を始める。しかし、普通の小説のように生い立ちから語り出された話は途中で打ち切られる。突然話者である「私」が割り込んできて、マイタを知る人物に当時の思い出話を聞く部分が挿入される。

それがしばらく続くと、マイタその人が前面に出てくる小説が再開される。「私」がインタビューする相手が代わるたびに小説の場面は新しい局面に変わってゆくのだが、章による区切りも、改行による目配せもなく、「私」が書きつつある小説と、その資料収集と事実確認のために「私」が行ったインタビュー記録が綯い交ぜになって織り為されているのが、この小説である。

そして最後には、とうとう主人公であるマイタのモデルである本人自身がインタビュー相手として登場するのだから、かなり異色の小説といえるだろう。小説の元ネタになっているのは、一九六〇年代初頭に『ル・モンド』に載ったニュース短報で、「下士官と組合運動家と数名の学生がペルー山間部で極小規模の反乱を起こして即刻鎮圧された」事件である。

はじめは合流するはずだった労働者その他のメンバーが当日になって現れず、数名の学生と四人の大人だけで警察や銀行を襲撃したものの、広場で行った集会には誰も顔を見せず、革命の狼煙を上げるはずが、ただの銀行強盗の扱いを受けて追われる身になるという、惨めな展開。しかし、成功していれば、その後に何度か起きることになる社会主義革命の先駆的な事件になっていたはずだ。今やだれも見向きもしない事件に「私」が興味を持ったのはその点にある。

歴史は勝者によって作られる。当時マイタが接触した人物は今でも生きていて、上は国会議員から、下は貧しい暮らしをする盲人までいろいろだ。当然、事件に関わった経緯は自分の身を守るためや、自慢話のために、ねじ曲げられたり、粉飾されたりすることになる。「私」はそれらの人々の証言に耳を傾けながら、マイタという人物を作り上げていく。大事なことは、作者のねらいが歴史的な事実を語ろうというのではないことだ。

当然、語られることの中から真実を嗅ぎ分けようとはする。しかし、小説家の「私」がやりたいことは真実をかき集めて、それを素材に嘘を語ることだ。リアリズム小説の作家であるリョサは、かなり丹念に資料を漁り、証言を集める。しかし、そこに大量のフィクションが混入するのは当たり前のことだ。だから、リョサの小説は読ませる。細部がしっかり書き込まれ、人物がくっきりした輪郭を備えているからだ。それは、この小説でも同様だ。

ただ、多くの人が語るマイタその人の像は、語る人によって誤差が大きく輪郭がブレる。むしろ、かつては友人だったり、敵対者であったりしたマイタを取り巻く人物たちの方がはっきりした人物像を描いている。最後にはマイタのモデルその人が現れて、それまでに作ってきた人物像を裏切ってみせるのだから、マイタが「作られた歴史」に擬せられているのは明らかだ。人は、自分の見たように自分の考えで「人」を語る。それは結局のところ、対象ではなく、本人について語っているのではないか。そんなふうに思われてくるのだ。

「私」がインタビューを行う時代設定は、ペルーにキューバ革命が飛び火し、ボリビアから軍が越境し、反政府ゲリラに対応するためアメリカ軍が派遣され、ペルー自体が大騒動になっている。そういう時代だからこそ、人々の語る言葉にはその人間の本音が現れる。激動の時代をうまく生き延びた政治家や商人のうさん臭さをあぶり出すために、マイタたちの行動は対比的に純粋で無思慮かつナイーブに描かれる。

マルクシズムのイデオロギーを信じ、暴力革命に身を投じる人物を現時点で読めば、とてものことに感情移入はできない。青臭くて痛々しくてとても見てはいられない。おまけに、「私」はマイタの属性に同性愛者であることをわざわざつけ加えている。マチズモの国で男性同性愛者であることは負の属性でしかない。マイタが革命に賭けたのは貧困だけではなく同性愛者も差別されない自由な国の建設だったというのだ。

はじめから負けると分かっている勝負に賭けるロマンチシズムが書きたかったわけでもあるまい。性の問題はともかく、反乱自体はたとえ限定的なものであっても革命の烽火になることはできたかもしれない。歴史にイフはないというから、そんなことを言っても仕方がないが、作家自身も含めて多くの若者が社会主義革命に未来を見つけた思いでいたことも確かだ。時の流れは無常で、今の世界の有様を見るにつけ、出るのはため息ばかりだ。三十年も前の作品だが、マイタの物語を書こうとした「私」には、今も感情移入できるものがあるように思われる。

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by abraxasm | 2018-03-06 17:30 | 書評

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