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e0110713_15442610.jpg<上下巻併せての評>
歳をとってきた人間がやろうとすることの一つに「自分史」を書くというのがある。記憶力も衰えてきて、思い出すことができるうちにまとめておきたくなるのだろう。特に遺しておくような値打ち物の過去もなければ、日記をつける習慣もないので、これまで考えもしなかったが、エーコが書いたのを読んでいたら、これの日本版が読んでみたくなった。というのは、本作『女王ロアーナ、神秘の炎』は限りなくエーコの自分史に近い。それもただの自分史ではない。

少年時代に読んだ本やコミック、目にしたポスター、ラジオから聞こえてきた音楽などを通して、当時の自分を思い出す試みである。しかも、それは自分一人にとどまることなく、同じ時代を生きた人の記憶とも重なる。エーコが列挙するマンガや物語の中には、アメリカのコミックやディズニーのアニメなども含まれるので、それらは分かるものの、イタリアのものはほとんど分からない。同じ国の読者ならどんなに楽しいことだろう。しかも、贅沢なことに大量の原色図版つきである。

自分史などに興味が持てないでいるのは、他人の名前は忘れてしまっていても自分についての記憶はまだ確かだからだ。もし、それも覚束なくなってきたら、必死になって思い出そうとするだろう。現に口に出そうとして出てこない人の名前は一日中出てくるまで気になって仕方がない。当時の世の中の出来事とその頃出回っていた読み物や流行の音楽を、自分の個人史と結びつけることで、ありありと目の前に光景が浮かんでくる。日本版があれば、という所以である。

ミラノで古書店を営むヤンボこと、ジャンバッティスタ・ボドーニは、目を覚ますと病院にいて医師の質問を受けていた。口はきけ、眼も見えるし、百科事典的な記憶には何の問題もないのに、自分の名前も、顔も一切合切記憶から消えていた。事故のせいで脳の一部に損傷を受け、自動的に行動することを助ける潜在記憶には問題がないのに、もう一つの意識的に思い出すための顕在記憶の中のエピソード記憶と呼ばれる、自分を自分につなぎ留めておく記憶がすっぽり抜け落ちてしまったのだ。

彼にはパオラという心理学者の妻がいて、彼が子どもの頃暮らしていたソラーラに行ってみることを勧める。そこには、祖父が遺してくれた大きな館があり、子どもの頃にヤンボは、そこに住んでいたからだ。当時は第二次世界大戦中でミラノは空襲が激しく、両親はヤンボを疎開させていた。ところが、結婚してからヤンボはソラーラに行くことも館で暮らすことも嫌がっていた。そこには何らかの理由があるにちがいない。記憶が戻らないのも何かそこに起因しているのでは、というのが優しく聡明な妻の見立てであった。

古書店の仕事の方はシビッラという美しい娘が彼の代わりをつとめていた。親友のジャンニが娘のことで揶揄うようなことを言ったので、ヤンボは自分とシビッラの間には何かあるのではと疑心暗鬼にとらわれる。しかも街角で出会った老婦人から、かつての情事をにおわせるような言葉を掛けられる。この辺の艶笑譚的なくすぐりはいかにもエーコらしくて、愉快。何にも覚えていない男の自意識の暴走は止めようがない。

妻と子はミラノに残してソラーラで暮らし始めたヤンボは祖父の書斎を覗いて本がないのに驚く。聞けば、屋根裏部屋にあるという。そこには祖父が蒐集した大量の新聞や書籍があった。ヤンボはそれから毎日、屋根裏部屋に通い詰め、飽かずにそれらを読み漁るのだった。屋根裏部屋、秘密の扉、封じられた礼拝堂、というゴシック小説めいた筋立てが読者の心をそそる。記憶の底から表面に気泡のように立ち上ってくるいくつかの名前や歌。それらの手がかりを求めてヤンボの探究は続く。

幼少期にソラーラで何が起きたのか、どうしてそれを思い出したくなかったのか。霧に関する文章をいくつも集め出したのはそもそも何を理由としていたのか。下巻に入ると、第二次世界大戦下のソラーラは決して安全な田舎とはいえなかったことが明らかになってくる。村にはドイツ軍がシェパードを連れて脱走したコサック兵を捜索にやってくる。彼らを逃がし、パルチザンのもとへ届けるためにヤンボは手助けを頼まれる。

頭がよくて行動力もあるヤンボの活躍とその後の展開が時代状況と絡み合い大きな重みをもって迫ってくる。トーマス・マンの『魔の山』に登場するセテムブリーニとナフタを一人にしたようなグラニョーラという人物がヤンボに、神は邪悪だと説くあたりは『魔の山』や『カラマーゾフの兄弟』を彷彿させる。少年だからといって戦争は免罪符をくれるわけではない。その時代を生きた者でなければ書けない真実が、そこにある。

『女王ロアーナ、神秘の炎』の主題になっているのは記憶である。次第に明らかになってゆく少年時代のヤンボの生活だが、その中でリラという少女の顔だけが思い出せない。初恋の少女で、その後転校して会えずじまいになっている。ソラーラでの出来事がタナトスを主題にしているとすれば、リラに関する挿話の主題はずばりエロスだろう。ソラーラで一度は死んだヤンボの魂が再生するきっかけとなったのがリラである。人を喜ばせ、人に好かれる今のヤンボはリラによって命の火がともされたのだ。

自分史とはいっても、少年時代が中心で、尻切れトンボの感じがしないでもないが、ムッソリーニと黒シャツ党の跋扈する時代のイタリアを生きた一人の多感で読書好きの少年の瑞々しい思春期をイタリアらしい明るい色彩と音楽、それにそこだけフォントを変えて記される様々な小説から引用された名文句の数々。これはプルーストだな、とかランボーときたか、というふうに分かるものを見つけてはにやりとする愉しみがある。ユイスマンスの『さかしま』のように贔屓の作品への言及は何よりうれしい。本好きのために書かれたような小説だ。誰か書けるうちに日本版を書いてくれないだろうか?

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by abraxasm | 2018-02-25 15:45 | 書評
e0110713_16281646.jpg『ソロ』という音楽用語に似つかわしく、小説は第一楽章「人生」、第二楽章「白昼夢」と題された二つの章で構成されている。この章につけられた名前の意味は、小説が終わりを迎えるころ意味を明らかにする。その意味を知った読者は、作者の巧妙な作為にはたと膝を打つにちがいない。それはありそうで、今までなかった小説の書き方である。もしかしたら先例があるのかもしれないが、すぐには思いつかない。

第一楽章は、ブルガリアのソフィアに住む盲目の老人の「人生」を描いたもの。話者は、はじめその人物を「男」と呼ぶ。映画の冒頭で、キャメラがひとりの男に焦点を当て、少しずつ近づいていくように。やがて男の現在の様子が、食べる物も人に恵んでもらい、人の助けを得ねば薬も飲むことができない惨めな状況であることが明らかにされてゆく。それと同時に今のソフィアという街の有様も、音やにおいといった盲人に残された感覚器官を総動員して描写されてゆく。この導入部が効果的だ。

男の名はウルリッヒ。大好きだった音楽を父に取り上げられ、その代わりに化学を愛するようになる。ベルリンの大学で化学を学ぶが父の死により学資が続かず志半ばで帰国。化学への夢をあきらめて会社に勤め、やがて親友の妹と結婚。子どもを授かるも、夢をあきらめた夫に愛想をつかして妻は子どもを連れて家を出る。共産主義国家となってからは工場勤務を命じられ、退職後は年金暮らしで今に至る。

オスマン帝国から独立、幾度の戦争を経て共産主義国家となり、ソ連崩壊後資本主義化されたブルガリアは強国の意向に沿うように工業化される。その結果、化学工場から排出される薬物により大地は汚染された。オスマン・トルコやソ連といった大国にはさまれたブルガリアという国の近現代史を背景に、かつてはそれなりの夢も才能もあった男が、家族の桎梏と歴史の波に翻弄され、最後に残されたわずかな日々の慰めまで奪われてしまう無残な人生を、突き放したようなさめた筆致で語るのが第一楽章だ。

第二楽章は、ぐっと曲想が異なり、アップ・テンポでスリリング。ブルガリアとは黒海をはさんだ対岸にあたる、グルジアの王家の血を引く少女ハトゥナとその弟が、ブルガリア出身の若者ボリスとアメリカで出会ったがために起きる悲劇。住民が逃げ出してしまった土地で豚を飼いながら、ヴァイオリンを弾き続けてきたボリスは、ワールド・ミュージックの辣腕プロデューサーに見いだされて渡米。トラブルに巻き込まれたハトゥナも弟と二人アメリカに渡る。

体制が代わるたびに、元スポーツ選手などの有名人が政治家になり、金を蓄え、やがて実業家になる。しかし、実態は麻薬を扱い、女を売り飛ばすギャング同様の稼業だ。早晩暗殺され失脚する運命。しかし、その刹那的な生にしか、生きることの快楽を見出せない種類の人間がいる。ハトゥナがそうだ。弟はその価値観を認めず、詩を書くことだけを愛していた。ところが、ボリスの曲を聴いたことで二人は共鳴しあう。友から片時も離れられない弟、弟を愛する姉は音楽家を憎む。三角関係が軋みを上げはじめる。

大物実業家が何人ものボディ・ガードに囲まれ、城の内部を要塞化した邸宅を立て、世界中で武器を売買する。美女たちが夜ごとパーティーに集まり、奔放な音楽家は業界のしがらみなど気にせず、好きな相手とセッションしては勝手に配信してしまう。音楽家の失墜を策謀した女は情報を操作して追い落としをはかる。華やかな世界とその陰で蠢く人々の姿を描く第二楽章は、いったいあの陰鬱な第一楽章とどうつながっているのか?

実は第二楽章で語られるストーリーの素材は、そのほとんどが第一楽章の中に象嵌されている。ただし、語られるのはほんのわずかで、最初に読んだときは、そのあまりの短さに読み飛ばしてしまう。それが作者のアイデアだった。九十代後半のウルリッヒの記憶からは多くのものが抜け落ちていても不思議はない。ただ、とげのようにひっかかって離れないものだけが断片的に残っている。

目の見えない男の楽しみはテレビ番組から聞こえてくるニュースや隣人の立てる物音、街に聞こえる騒音といった素材をもとに、日がな自分が組み立てた「白昼夢」を見ることだった。そこに登場するのは、生きていれば今はもう七十代になっているはずの子どもだが、夢の中ではまだ若いままだ。ボリスやハトゥナはウルリッヒがかつて接した人々の記憶を頼りに作り上げられた夢の創造物、というのが作者の見立てだ。

再読してみて驚いた。あれがこれになるのか、と。白昼夢の何とけばけばしくおどろおどろしいことか。ウルリッヒの実人生がついえた夢の破片の集積物だとしたら、白昼夢はその可能態である。母の遺品を買い叩いた骨董商の記憶は、いつまでも心の片隅に残っていて、ハトゥナの手によって復讐される。あきらめた音楽家の夢はボリスによって成し遂げられる。所詮夢ではないか、というなかれ。かつて荘周は夢の中で胡蝶になって遊び、覚めて後、果たして荘周が胡蝶の夢を見たのか、それとも今の自分は胡蝶が見ている夢なのか、とつぶやいたというではないか。

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by abraxasm | 2018-02-17 16:29
e0110713_17030332.jpg原題は<The Lady in the Lake>。サー・ウォルター・スコットの叙事詩『湖上の美人』<The Lady of the Lake>をもじったもの。< Lady of the Lake>は、アーサー王伝説に登場する「湖の乙女」のことだ。この作品のもとになっている中篇「湖中の女」は、稲葉明雄訳『マーロウ最後の事件』の中に収められており、かつて読んだことがある。そこに登場する色男の名前がランスロットであることから、チャンドラーがアーサー王伝説を意識していたことはまちがいない。長篇となった本作ではクリス・レイヴァリーと名を変えている。

人物の名前こそ変わっているが、『水底の女』の骨格にあたる部分は、ほぼ「湖中の女」を踏襲している。主な舞台となるのは、ロサンジェルス東部の砂漠地帯サン・バーナディノ近郊のリトル・フォーン湖にある別荘地。それと別の短篇「ベイシティ・ブルース」の舞台となるサンタモニカがモデルといわれる海辺の町ベイ・シティ。既存の短篇を使い回して長篇に仕立て上げるのは、チャンドラーの得意とするところだが、本作に限っていえば、別の土地で起きた事件を同一人物の仕業にしたため、偶然の一致が多くなったのが残念だ。

チャンドラーの長篇の持つ魅力は、事件解決よりも、事件を捜査する過程で、探偵であるマーロウと他の登場人物とのやりとりや、マーロウが人物に寄せる感情の揺れを味わったり、マーロウの目を通して語られる富裕層の頽廃的な生活や、大都会に蔓延る犯罪組織とそれを事実上見逃す警察組織への批判に共鳴したりするところにある。ところが、本作は意外に律儀に謎解き推理小説をなぞろうとしているふしがある。

チャンドラーはフリーマンやハメットは別として、不必要な蘊蓄や不誠実な叙述の詐術を用いた推理小説を嫌っていた。本作にも名を訊かれたマーロウが「ファイロ・ヴァンス」と偽名を名のる場面がある。ヴァン・ダインへの揶揄だろう。それもあって、乱歩が「類別トリック集成」に挙げている中でも使用例の多いトリックを扱いながら、本作におけるマーロウによる語りは実にフェアなものだ。それがかえって、長篇ならではの脱線や遊びを遠ざけ、作品を窮屈にしている気もするが。

マーロウは香水会社を経営するドレイス・キングズリーから妻の捜索依頼を受ける。リトル・フォーン湖にある別荘に出かけた夫人が帰宅予定日に帰って来ず、エル・パソから打たれた電報には、離婚してクリスと結婚するとあった。妻の性格をよく知るキングズリーはそのまま放っておいたが、先日、そのクリスと市内で偶然出くわした。話を聞けば、夫人とは最近会っていないという。何か事件に巻き込まれたのであれば事業に影響が出る。それで探偵を雇ったのだ。

ベイ・シティにクリスを訪ねたマーロウは、向かいの家に住む医師によって警察に通報される。医師の妻は自殺しており、不審に思った妻の両親は探偵を雇って事実を調査していた。デガルモという強面刑事に町を出るよう威嚇されたマーロウが次に向かったのはリトル・フォーン湖。持参してきた酒を管理人のチェスに飲ませ、妻の家出の顛末を聞き出す。二人でキャビンに向かう途中、湖中に沈む女性遺体を発見する。損傷が激しかったが、夫は妻のミリュエルだと認めた。

これが題名の由来だが、実は死体は「水底」にはない。人造ダムを造ったことでかつての船着き場が水中に沈み、死体はその船着き場に邪魔されて浮かび上がってこれなかったのだ。つまり女は「水底」ではなく、文字通り「湖中」にいたのだ。その意味でいうと、『水底の女』という新訳の題名はあまりそぐわない。いつものように原題を片仮名書きにして『レディ・オブ・ザ・レイク』とでもしておけばよかったのに、とつい思ってしまった。

リトル・フォーン湖の遺体は自殺か他殺か。他殺だとしたら犯人は誰か。マーロウは保安官補のパットンに推理を語る。このパットンがいい。短篇ではティンチフィールドという名で登場する、ステットソンをかぶった田舎町の保安官補だ。肉付きのいい好々爺に見えて、その実見事な手腕を見せる名脇役だ。短篇を読んだときもそう思ったが、長篇ではなお一層魅力が増している。チャンドラーは女を描かせると、美しいが危険な人物にしがちだが、男性の場合は大鹿マロイをはじめ、憎めない脇役、敵役を多く生み出している。

村上春樹のチャンドラー長篇全七巻の翻訳はこれで最後。当初は、旧訳になじんだ読者から批判もされたが、今後はこれが定訳になっていくのだろう。村上訳の特徴は、原作に忠実なところだ。一語たりとも見逃すことなく、日本語に移し替えてゆく。ただし、その分一文が長くなる。それが冗長と感じる読者もいるだろう。たしかに、原文はおどろくほどシンプルな英語で書かれている。ただ、それをそのまま日本語に置き換えると、身も蓋もない訳になる。それをいかにもそれらしい日本語に置き換えるところに訳者は頭をひねるのだ。

一例をあげるとマーロウが香水の香りをたずねる場面で、問われたキングズリーが「白檀(びゃくだん)の一種だ。サンダルウッド種」と答えるところがある。旧訳では「チプレの一種だ。白檀(びゃくだん)のチプレだ」となっている。「チプレ」って何のこと?と思ってしまうが、「シプレ(シプレー)」はキプロス島のことで、香水の香りの系統を表す。原文は<A kind of chypre. Sandalwood chypre.>で「チ」と「シ」の読みまちがえは惜しいが、清水訳の方が原文に忠実なのがわかる。

しかし、これを「シプレの一種だ。白檀のシプレ」と正しく訳したところで、香水に詳しくない者にとってはチンプンカンプンだろう。註を使わず乗り切るためにわざと「シプレ」を省いて、白檀の訳語であるサンダルウッドを使うことで、分かりやすくしたのだと思う。村上訳は逐語訳や直訳を避け、原文を、読んで分かる日本語に解きほぐす訳を目指しているようだ。チャンドラーの長篇を村上氏がすべて訳してくれたことで、旧訳と比較しながら原文を読む愉しみが増えた。『湖中の女』には、田中小実昌氏の訳もある。これもいつか探して読み比べたいと思っている。

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by abraxasm | 2018-02-04 17:05 | 書評

覚え書き


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