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e0110713_17073972.jpg帯の惹句に「半自伝的実験小説」だとか「私小説にしてメタメタフィクション!」だとかいう文句が躍っているが、スランプに陥った小説家が何とかしてページ数をかせぐための苦肉の策じゃないか。しかも、ネタは自分の旧作からの引き写しだし。これが新作だったらかなりの批判が予想されるが、原作が刊行されたのが一九七〇年であることを考えると帯の惹句も満更、盛り過ぎというわけでもない。

エドはけっこうなハイペースで、ここまでは書いて来た。しかし、締め切りが近いのに突然書けなくなってしまう。スランプだ。しかし、エドにはスランプなどという言い訳は使えない。エドはゴースト・ライターなのだ。書けなければ代わりはいくらでもいる。妻子のいる今、実入りのいい仕事を失うわけにはいかない。

この仕事は大学時代のルーム・メイトのロンからの話だ。ロンはポルノに嫌気がさして、スパイ小説を書きはじめたら、これが売れて映画化もされた。この路線で行きたいが、ポルノの需要は絶えずあり、出版社としては人気作家の作品がほしい。そこで、大学時代の同期で売れていないエドにゴースト・ライターにならないか、と持ちかけたわけだ。

タイプライターに用紙を挟み、いざ書こうとするのだが、何も出てこない。スランプを克服するいい方法は、何でもいいから書くことだ。そのうちに調子が戻ってくる。そう聞いたので、エドはとにかく書き出すのだが、タイプ用紙に打ち出されるのはエドの現在の心境やら、ポルノ小説のセオリーやら、最近うまくいっていない妻ベッツィーとの関係といったポルノ小説とは関係のないことばかり。

この小説には上と下に二つのノンブルが打たれている。タイプ用紙二十五枚が完成原稿二十五ページに相当する。一章が二十五枚で十章書けば完成だ。しかし、二十五枚書けたところで原稿を破り捨て、はじめからやり直したりするから、下に打たれているこの小説のページ数は増えていくのに、上に打たれたノンブルはいっこうに数が増えていかない、という面白い仕掛け。いや、面白いのは読者にとってであって、主人公にとっては厄介のたねだ。

そんなこんなで七転八倒の挙句、どうにか第一章は書き上げるのだが、そのネタというのが、エド自身と妻ベッツィーをモデルにした身辺小説。実はエド、ポルノ小説は書いていても、妻以外の女性とセックスしたことがない。しかし、その分、頭ではいろいろ妄想している。一応作家なので妄想したことは書いて残している。ベビーシッターの十七歳のアンジーとのことも。実名なので日記みたいなものだ。しかし、すべては妄想であり、真実ではない。

ところが、エドの留守中にベッツィーがそれを読み、エドの帰りも待たずに子どもを連れて実家に帰ってしまう。実家には恐ろしい義兄二人がいて、話を聞いてエドの家に押しかけてくる。エドは這う這うの体で家を逃げ出し、ロンの部屋で原稿の続きを書く破目に。しかし、第二章が書けない。ポルノ小説でよく使う手に、章ごとに夫と妻の視点が入れ替わる、というのがある。それで行くと第二章はベッツィーが他の男とセックスをする番だ。今の状態でとてものことにそれは想像すらしたくない。

そこで、第二章を飛ばして第三章を書きはじめることにする。別の男女を次々とリレー式に登場させるロンド形式で行くわけだ。しかし、エドの家に探りを入れに行ったロンからの電話では、兄弟がこちらに向かっているらしい。慌ててロンの家を出たエドにはタイプがない。エドは百貨店のタイプ売り場で試し打ちをする客を装い、原稿の続きを書く。しかし、店員に見咎められ別の百貨店へ。

いつの間にか、エドが書いている話より、エドが置かれている状況の深刻さの方が数倍も興味深くなってきている。未成年のアンジーとのセックスは、ただの妄想なのだが、エド以外の人間にとっては犯罪である。警察がエドを追いかけ出す。追いつめられたエドは逃げ回りながら、タイプライターが使える場所を探しては、原稿の続きを書く。ここらあたりからの展開はジェットコースタームービーを観ているよう。

唯々、決められた枚数のタイプ用紙を埋めるために書き続けること、それが作家というものの至上命題であることが痛いほど伝わってくる。どうやら、元ネタになっているのは、ウェストレイク本人の実生活らしい。「半自伝的実験小説」、「私小説にしてメタメタフィクション!」の看板に偽りはないようだ。多作で知られる「ウェストレイク全作品の中でも大傑作に属する私小説にしてメタメタフィクション!」と若島正氏が絶賛するのも頷ける。

というのも、ネタに困ったエドがついつい持ち出す自身の逸話がいちいち思い当たる。大学に行ったのも、結婚せざるを得ない破目に陥ったのも、そこいらじゅうに転がっている、誰にでもある話だからだ。ゴーストだってライターであることにちがいはない。読者は面白がっているのだ。しかし、書いている本人は知っている。真の作家とそうでない者との差を。妄想日記で窮地に陥るところは、本当に面白い。それでいて、当人の心情を語る部分を読んでいると身につまされる。このギャップが凄い。

キスマークの中に、サイケデリック調(死語?)のレタリングで記されたタイトルといい、表紙の色調といい、七〇年代を知る者には懐かしい限りだが、意気阻喪したホールデン・コールフィールドばりのモノローグで押し通す語り口調に今の読者はついてきてくれるのだろうか。「メタメタフィクション」といえば、そうにちがいはないが、ついてない男の駄目っぷりをユーモラスかつシリアスに描いた、遅れてきた青春小説といいたいような出来映え。ファンは勿論、その実力を知るという意味で、初ウェストレイクという人こそ手にとるべき本かもしれない。

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by abraxasm | 2018-07-30 17:07 | 書評
e0110713_15521763.jpg三部構成で十八篇、第一部は、地方の町に暮らす市井の人の身辺小説めいた地味めな作品が並ぶ。第二部には一篇だけ外国を舞台にした作品がまじっているが、日本を舞台にしたものは一部とそう大きくは変わらない。ただ、少しずつ物語的な要素が強くなっている。そして第三部になると一気にその気配が強くなり、掉尾を飾る表題作はSF的設定の濃いディストピア小説となっている。

全篇から一つ選ぶなら第一部に入っている「果樹園」だろう。二匹の犬を連れて散歩中の私が出会う景色や人々をスケッチしているだけの作品だが、滋味にあふれ、生きることに対する前向きな姿勢が読む者にじわじわ効いてくる、そんな作品である。事故で頭痛と脚に痺れが残る「私」は、心ならずも実家に帰っている。そんなとき姉がリハビリにいい、とアルバイトを見つけてくる。犬の散歩係だ。

飼い主が足を痛めて散歩ができない。健康が回復するまで犬の散歩をお願いできないか、というチラシにはオクラとレタスという名の二匹の犬の画が添えられていた。委細面談というので、出かけた飼い主の安水夫妻にというより、オクラのことを気遣うレタスに認められたようで「私」は採用される。二匹の個性の異なる犬と散歩するうちに「私」は少しずつ犬と会話ができるようになる。

動物と暮らしている人になら分かってもらえると思うが、毎日いっしょにいると会話ができるようになる(気がする)。人との会話には本心はあまり出さず、当たり障りのないことを話す。動物相手には本音で話す。すると相手も本音でつきあってくれる。本心を偽ることのない会話は心地いい。「私」は安水氏と話すうち、それまで少し距離を置いていた父との関係が修正されていくようになる。

他郷で手がけた仕事がうまくいきかけていた時に思わぬ事故に遭い、実家の厄介になり日を送らざるを得なかった「私」は、頭痛や足に力が入らないこと、自立できないでいることに焦りや蟠りを感じていた。二匹との散歩の途中で出会う人々や安水氏との会話を通して、鬱屈して閉じていた「私」の心と体はゆっくり解きほぐされ、新しい事態を受け入れてゆく心構えのようなものが芽生えてきている。恢復の予感のようなものが仄見える終わり方だ。

二部なら「徳さんのこと」か。地元にはない進学校に通うため、子どものいない叔父夫婦の家に下宿している佐知は、日曜の朝になると原付でやってくる徳さんの話を聞かされる。足を挫いているので、二階の自分の部屋に帰るのが難しいからだ。徳さんは地域のあれこれに顔を出し、冠婚葬祭にはまめに金を出す。そうしておけば見返りがあるというのだ。

近頃頻繁に顔を出すのは、叔父夫婦と誰かとの間に立ってまとめたい話あるようなのは「判をついたっていい」という口癖から察しが付くが、詳しい話は知らない。その回りくどい話が、夫妻に子どものいないこと、と自分に関わりがあることが次第に明らかになるという、まあ日本の田舎にならどこにでも転がっていそうな話。がさつだが憎めない徳さんと、柄本明の顔が重なるともういけない。話し声まであの声に聞こえてくる。

第三部から一篇となると普通なら表題作は外せない。この国の近未来には、色というものが存在しない。誰かが失くしてしまったらしい。ある一族の少年の頭には四角い穴が開いていてふだんは蓋をかぶせている。一生に一度頭蓋内圧が高まると蓋を外すのだが、ピンホールカメラの原理で内壁に倒立画像が浮かぶ。この話はそのとき目にしたものの記録である。次々と繰り出される画像が珍しく落ち着きがなく、そのくせ終末観が色濃い。この作家にこのような預言的な物語を書かせる今の時代の在り様が気になる。

個人的には堀江敏幸版「遠野物語」のような「あの辺り」の方を推したい。新聞記者の「私」は古刹での取材を済ませて帰る彦治郎さんを車に乗せている。その彦次郎さんが汽車から漏れる明りの方を指さして「あの辺りに、よく出る」と言う。隧道工事に雇われていた工夫が寝泊まりしていた小屋が土砂崩れに呑まれたのだという。「使ってはいけない人たちを使っていたから、表沙汰にはできなかった」。埋められた無縁仏が迷っているのだと。

八十二歳の彦治郎さんは郷土史家で、このあたりのことに詳しい。昔は狐がよく出たので、悪さをされないように油揚げをお供えした。ここらあたりで油揚げの入った糟汁を作るのは、その余りなのだ。幽霊列車も走るが、運転手はどうも狐らしい、とか、少し前までは、日本中のどこにでもあったような話ばかりだ。

以前『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という本を面白く読んだ。実は祖母から、祖父が狐に化かされて、竹藪のあたりを一晩中歩き回って夜が明けたという話を聴かされたことがある。竹藪を通る道は丘の上に新設された中学への近道に当たるので、帰りが遅くなって、おまけに小雨の降る晩など、ひとりで歩くのは心細かった。ただ、あの当時でさえ狐に化かされた話はもう誰もしていなかった。「使ってはいけない人たち」というのがどういう人たちだったのか、一つ一つの話に心を揺さぶられるものがある。

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by abraxasm | 2018-07-23 15:52 | 書評
e0110713_10390228.jpgごくごく短い掌篇から、かなり読み応えのある長さのものまでいろいろ取り揃えた十七篇の短篇集。ニュー・ヨークの高層ビルの一部屋に置かれたピアノから突然バッハ本人が出てくるという突拍子もない奇想から、旱魃の最中に死んでしまったサーカス団の象の死体の処理に村中が知恵を絞るフォークロア調の話、自分の身代わりに連行された教授に成りすまし、教授の友人や教え子に手紙を書いて送ってもらった金で暮らす料理人の話等々。

時代も舞台もいろいろだし、現代に生きる女性の一人称限定視点だったり、三人称客観視点だったり、断章形式だったり、一篇まるごとテープ起こしだったり、と語り方も千差万別。それではばらばらで統一が取れていないのではと思われるかもしれないが、不思議なことに、一篇一篇は異なっているのに、こうやって一冊にまとまると、どこかで何かが響きあっているような奥底に流れる基調音がある。

原題が<Music for Wartime>。その訳が『戦時の音楽』というのだからほぼ直訳だ。たしかに、多くの作品に音楽や音楽家、絵画や画家、役者に作家といった芸術家が配されている。正面から戦時を描いているわけではない。戦争が我が身に迫ったとき、ユダヤ人のように迫害される側の人々がどうなったのか、ということを突き詰めようとしている。運よく逃れた者もいれば、殺された者、投獄された者がいる。その責めは誰が負うのか。

戦争が終われば本当の意味で平和がやって来るのかどうか。「これ以上ひどい思い」のアーロンの父は若い頃ジュリアード音楽院に招かれ、アメリカに渡る。その後ルーマニアに残った家族全員が殺される。恩師のラデレスクは捕らえられ右手の中指を切り落とされるが、チャウシェスク政権が崩壊して放免される。アーロンはラデレスクの弾くヴァイオリンの音に耳を澄ませ、それらの物語を聴いている。

父には仲間や恩師、家族を捨てて一人生き残ったことについての罪悪感があったことにアーロンは気づく。アメリカ生まれのアーロンは無辜であり、無垢のはずだ。しかし、感受性の強いアーロンは経緯について何も知らないまま、人々の不幸に反応してしまう。ユダヤ人の虐殺のあった公園を通りかかった時には寒気を感じる。そんなとき父はアーロンの頭に手を置きながら「これ以上ひどい思いをせずにすみますように」という言葉をまじないのようにつぶやく。

この「無垢」と「罪悪感」というのが短篇集を貫く主題。主人公たちは何もしていないのに、夫とうまくいかなくなったり、次々と不運に見舞われたりする。9.11以来、信仰が揺らいだという夫と離婚した「私」は、ある日ピアノの中から現れたバッハと暮らすうちに、高層ビルの窓から下を見たバッハの恐怖を知る。そして夫の不安に思い至る。無意識がバッハを呼び出し「葛藤」が発展的に解消されてゆく過程をユーモラスに描く「赤を背景とした恋人たち」。マカーイは絵と音楽を競演させるのが好きだ。ここではバッハの音楽にシャガールを併せている。

「絵の海、絵の船」は、雁と間違えてアホウドリを撃ち殺してしまう話から始まる。アレックスはカレッジの英文学科の教師。ラファエル前派のミューズ、ジェーン・モリスに似ているのが自慢なのだが、婚約者のマルコムは容姿を誉めてくれない。そんなある日、レポートでは優秀なのに授業ではしゃべらないエデン・スーを呼び出し、このままでは成績にひびくと注意する。その際「韓国では」と口に出したのが問題となる。スーはミネソタ生まれの中国系アメリカ人だった。人種による偏見だと委員会に訴えたのだ。

苦慮するあまり、ついつい酒を飲みすぎて、授業にも出られなくなり、なお悪いことに再度エデン・スーとぶつかってしまう。任期なしの専任教授になることも難しくなったアレックスだが、それを婚約者に相談することができない。ついには酔った勢いで婚約解消まで申し出る羽目に。心配してくれる詩人のトスマンにも冷たい態度をとる。事態が収まるところに収まってから彼女は振り返る。

「年下の同僚たちにその話をするときは、アホウドリから始まり、エデン・スーが中心となり、誰もが知っているトスマンの死で終わった。要点、つまり話の教訓は、人はいかに先入観を持ってしまうのか、犯した間違いがどれほど致命的になりうるかということだった。何かを見極めそこねると、それを傷つけたり、殺してしまいかねないし、そうでなくても救えなくなってしまうのだと」

チェロ奏者のセリーンは新しい絵に引っ越したばかりだ。その家の前には十字架が立っていた。交通事故の犠牲者を悼むものらしい。それだけでなく、月命日ごとに家族が二人やって来ては、ぬいぐるみと造花の花壇を拡張させてゆく。死を悼む行為に反感を抱きたくはないが、はっきり言って醜いもので芝生を奪われるのは嫌だ。四重奏団の練習にやって来るメンバーもいろいろ案を出すが、どれも功を奏しそうにない。石碑か何かに替えてもらえるなら協力するというメモを貼り付けたが、二人はせせら笑って破り捨てる。

ここへやってきたのは逃げるためだった。セリーンは一度結婚に失敗している。強迫症という持病もある。頑丈な家を買ってそこに籠れば誰にも孤独を邪魔されない。そう思ってやって来たところに十字架が突き刺さった。そんな月命日の夜、扉を叩く音がする。遺族の顔が思い浮かぶ。思い切って扉を開けると第一ヴァイオリンのグレゴリーだった。解決策を持ってきたという。セリーンはどうやってこの苦境を乗り切るのか、というのが「十字架」だ。

罪悪感という主題を奥深く沈めていながら、どれも読後に癒されるような思いが残る。音楽と美術がいつも寄り添っていることも救いになっているようだ。カメオ出演のようにスチュアート・ダイベックが登場人物の一人として作中に紛れこんでいるのも楽しい。これが第一短篇集という、信じられないレベルの達成を見せる短篇小説の新しい名手の誕生である。

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by abraxasm | 2018-07-21 10:39 | 書評
e0110713_16393937.jpgJ・D・サリンジャーが雑誌に発表したままで、単行本化されていない九篇を一冊にまとめた中短篇集である。下に作品名を挙げる。

「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」
「ぼくはちょっとおかしい」
「最後の休暇の最後の日」
「フランスにて」
「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」
「他人」
「若者たち」
「ロイス・タゲットのロングデビュー」
「ハプワース16、1924年」

「他人」までの六篇が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に関連する短篇。中篇「ハプワース16、1924年」は「バナナフィッシュにうってつけの日」の主人公で、グラース家兄弟の長男にあたるシーモアが七歳の時にキャンプ地で足を怪我して動けない時に家族に書いた手紙の体裁をとっている。「若者たち」と「ロイス・タゲットのロングデビュー」は単独の話である。

「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデン・コールフィールドが主人公。クリスマス休暇で家に帰ってきたホールデンはサリーとデートするが、ささいなことで諍いになる。「ぼくはちょっとおかしい」は学校を追われたホールデンが歴史教師の家を訪ねるごく短い話。二篇とも『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に同様の挿話が入っているが、別の短篇として読んでもおかしくない。もっと読みたいと感じたら『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでみるといい。

ジョン・F・グラッドウォラー二等軍曹、愛称ベイブは家に帰ってきている。その家を訪れるのが軍隊仲間のヴィンセント・コールフィールド。ヴィンセントは陸軍に入る前は小説家でラジオもやっていた。この日は、二人にとって出征前の「最後の休暇の最後の日」なのだ。ヴィンセントの弟のホールデンは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』以降に学校を退学して、陸軍に入ったものの、今は行方が分からなくなっているようだ。

第二次世界大戦中のアメリカの若者の戦争に対するナイーブな気持ちがストレートにぶつけられている。ベイブが父に話すことはホールデンに似てイノセントなものだが、自分の中にあるイノセンスをどう扱っていいか分からないホールデンとちがって、ベイブはそれを少し恥ずかしく感じながら、自分の意見として人に話すことができる。自分は戦争に行くが、それを全的に肯定しないし、帰還したら口を閉ざす。父親のように戦争で地獄を見て来たくせに「先の大戦では」などとは決して口にしない、と。

そのベイブは「フランスにて」で、ドイツ兵と戦っている。くたくたに疲れた今夜は塹壕を掘る力が出ない。死んだドイツ兵が使っていた塹壕は狭くて血で汚れていたが、毛布を敷いてそこで寝ることにする。その前に妹のマティルダからの手紙を読む。国に残したてきた恋人の様子や町の人々のあれこれが書かれている。「お願い、早く帰ってきて」と口に出し、そのまま眠りに落ちる。短いスケッチだが、戦場の夜を必要十分に描いている。

「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」の主人公はヴィンセント。ジョージアの雨の中、トラックに兵隊を三十三人のせて、ダンスに向かうところ。ホールデンはヨーロッパ戦線から無事帰国した後、今度は太平洋で戦闘中行方不明になっている。ビンセントはダンスの相手をする女性が四人分足りないことを気にしている。誰を下ろすか、どうやって決める?命のやり取りはないが、滅多にない楽しみの機会を奪うのは上官である自分だ。命令を下す者の孤独が胸に迫る。兵たちとの会話の間もホールデンのことが頭から離れない。タイトルは除隊したら書こうと考えている作品名のリストの一つ。

「他人」は除隊したベイブが妹を連れてランチをとりマチネを見るつもりで街に出たのに、ヴィンセントの恋人の家を訪ねる話。ヴィンセントはヒュルトゲンの森で戦死していた。ベイブは友人の恋人にその最期を、嘘偽りなく語る責任があった。迫撃砲にやられる死とはどういうものか。迫撃砲は音がしない。突然落ちる。最期の一言などない。サリンジャー自身がヒュルトゲンの森で実際に目にした事実だ。酷い死を語るベイブに花粉症のくしゃみをさせ、マティにヴィンセントの思い出を語らせることで、明暗のバランスをとっている。

「ハプワース16、1924年」はサリンジャーにとって最後の作品。雑誌発表時に酷評され、それ以降筆を執っていない。しかし、ある出版社からオファーを受けて単行本化寸前まで行ったというから、結局実現することはなかったが、作家自身は愛着を持っていたのだろう。訳者あとがきによれば「難解」な作品だそうだが、そうは思えなかった。七歳の子どもが書く手紙か、という批判は当たらない。グラース家の子どもはみな「神童」と呼ばれたのだから。なかでもシーモアは特別だ。

キャンプの中で浮いている自分とバディが、どれだけ不快な目にあっているかを訴える手紙なのだから、内容的に楽しいものではない。ユーモアは塗されているが、かなり苦味がある。性的関心の芽生えについてもけっこう触れているので、こういうところがお気に召さなかった人がいるのではないだろうか。ヴェーダンタ哲学が作家を壊したなどというのはいちゃもんのようなものだ。『ナイン・ストーリーズ』の「テディ」はシーモアの前身と考えられているが、そのテディの方が余程ヴェーダンタ哲学について詳しく語っている。

兄弟たちによって、伝説的存在にまで高められてしまっているシーモア。その神童のありのままの姿を見せたい、と考えたのは兄の手紙をタイプ原稿に打った次兄のバディだ。作家であることからバディはサリンジャー自身と重ねられることが多いが、おそらく作家自身も、複雑にして猥雑なシーモア像を描きたかったのだろう。家族に対する愛にあふれ、自分の好きな作家、作品について誰はばかることなく目いっぱい書きまくっている。それまでの作品にあった抑制を欠いていることが批評家たちの受けを悪くしてしまったのだろう。しかし、これも間違いなくサリンジャーだ。読めてよかった。

後の二篇にふれる余裕がなくなってしまったが、どちらも短篇として他の作品に引けを取らない。最後に訳だが、みずみずしい文章で、サリンジャーの訳として申し分ない。ただ、一つだけ注文をつけたいのが、原文で「ベシー」と「レス」とされている二人の呼称を「母さん」と「父さん」に変えてしまっていることだ。グラース家の兄妹は母親をベシーと呼ぶ。それは前からそうだったし、別にいけないわけでもない。訳者が気になって仕方がないからと言って勝手に変えるのはどうかと思う。訳自体はとてもいいので残念だ。


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by abraxasm | 2018-07-16 16:39 | 書評
e0110713_15350570.jpgミルハウザーらしさに溢れた短篇集。<オープニング漫画><消滅芸><ありえない建築><異端の歴史>の四部構成になっており、<オープニング漫画>は「猫と鼠」一篇だけ。後の三部は各四篇で構成されている。「トムとジェリー」を想像させる猫と鼠の、本心では互いを必要としながらも、習性として策略を廻らして戦い続ける宿命の二人組を文章で描き切った一篇は「パン屋の一ダース」にするためのミルハウザーからのおまけだろう。

残る三部はタイトルから分かるように、いかにもミルハウザーというべきジャンル分けになっている。中篇であれば作り込んだ設定の中で、ディテールに凝りまくって読者をうならせるミルハウザーだが、短篇の場合、一つのテーマに絞り込んで、脇見もせず一気に驚愕のラストまで読者を送り込む。息もつかせぬ迫力がミルハウザーの短篇の真骨頂だ。

<消滅芸>のテーマはその名の通り「消滅」。おとなしくて印象の薄い同級生が鍵のかかった部屋からいなくなる「イレーン・コールマンの失踪」。誘拐か、それとも失踪か、捜査は進むが、誰もがイレーンという少女はどんな顔をしていたのか思い出せない。「私」も一生懸命思い出そうとするのだが結果は空しい。誰にも自分を正視してもらえなかった少女の消滅の過程を検証した胸の痛む一篇。

転校生の家を訪れた「僕」が真っ暗な部屋で暮らす妹に紹介される「屋根裏部屋」。いつ行っても部屋は暗い。容貌に問題でもあるのか、それとも兄の悪戯か、姿の見えない相手に対する「僕」の好奇心は高まるばかり。そして遂にカーテンが開かれるとき「僕」は意外な行動に出る。「危険な笑い」は他愛ないゲームとして始まった「笑いクラブ」がどんどエスカレートしていく狂気を描く。「ある症状の履歴」は、ハイデガーのいう頽落を避けるため、空言に耽ることができなくなってしまった男の妻に寄せる弁明の書だ。

<ありえない建築>は、これぞミルハウザーという作品ばかり。透明なドームで家を丸ごと覆ってしまうという流行は、やがて街全体を覆うものとなり、遂には……。行き着く果てはご想像の通りという奇想溢れる「ザ・ドーム」。ミルハウザーお得意の微細な世界の構築を描くのが「ハラド四世の治世に」だ。王に雇われた細密細工師の作り出す、拡大鏡がなくては見ることのできない作品は人々の評判を呼ぶが、匠は一向に満足できない。中島敦の『名人伝』を彷彿とさせる一篇。

遂に天に到達した塔に住みついた人々を描く「塔」は、ブリューゲル描く『バベルの塔』の画を思い出させる。あまりに距離が遠く、一代では天に到達することもかなわず、地に戻ることもできない人々は子孫にその願いを託す。想像を絶する高さの塔の建築過程を克明に描写する作家の愉悦を思う。他に、自分たちの住む町の複製を隣に作り、時々はそこを訪れるのを楽しみにする人々を描く「もう一つの町」を含む。

<異端の歴史>は、歴史が主題。「ここ歴史協会で」は、過去の再現のためにすべてを蒐集しようとする学芸員の偏執病的な思考を前面に押し出すことで、その異様さを暴き出す。確かボルヘスに実寸大の地図製作を描いた一篇があったと思うが、それの歴史版。「流行の変化」は、女性のファッションの変遷をややシニカルに描いたもので、流行の変化にとらわれずにいられない人々をコミカルに描く。

異端の芸術家の試みを描いたのが「映画の先駆者」。落語に「抜け雀」というのがある。旅の絵師が屏風に描いた雀が毎朝餌を求めて絵から抜け出す話だ。画家ハーラン・クレーンが描いた絵の中の蠅は、とまっていた林檎から隣の林檎に飛び移る。やがて、大きな会場を借り切ったクレーンは舞踏会を描いた大作を披露する。画中の人々は奏でられるワルツに合わせて絵から舞台に出てきて躍り出す。しかし、音楽が終わると絵の中に戻る。一昔前の興行師を描かせるとミルハウザーの筆は冴えわたる。他にエジソンをモデルに、皮膚感覚を機械的に再生する触覚機(ハプトグラフ)の発明を描く「ウェストオレンジの魔術師」を含む。

海岸の砂浜に斜めに刺さるジュース瓶といった、古き佳きアメリカの夏の風景を入口に、それが徐々に極大或いは極小といった一定の方向に極端化されていく。論理的には不可能な世界が目に見えるように、精緻にどこまでもリアルに描出される。そんな世界を描かせたらミルハウザーの右に出る者はいない。それでいながら、どこかエドワード・ホッパーが描いたアメリカのような郷愁を感じさせるレトロスペクティブな世界が共存しているところが、ミルハウザー・ワールドの魅力だ。

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by abraxasm | 2018-07-13 15:35 | 書評
e0110713_16150062.jpg一枚の絵がある。十七世紀初頭のオランダ絵画だが、フェルメールでもレンブラントでもない。画家の名前はサラ・デ・フォス。当時としてはめずらしい女性の画家である。個人蔵で持ち主はマーティ・デ・グルート。アッパー・イーストに建つ十四階建てのビルの最上階を占有する資産家の弁護士だ。絵はニューヨークがまだニュー・アムステルダムと呼ばれていた頃オランダから渡った先祖が蒐集したコレクションの一つで夫婦の寝室に飾られていた。

それが、パーティーの最中に盗難にあう。しばらく盗まれたことに気づかなかったのは、本物そっくりの贋作と入れ替わっていたからだ。マーティは私立探偵を雇い、犯人を見つけようとする。変人ながら腕のいい探偵は、どうやら贋作者を見つけ出す。しかし、本物はどこにあるかが分からないのでうかつに手は出せない。マーティは偽名を名乗り、贋作者と会う手はずを整える。

贋作者はシドニー生まれの若い女性でコロンビア大学の院生。芸術史を学びながら、アルバイトで古い絵画の修復を手がけている。初めは贋作を描いている気はなかった。模写だと言われたからだ。しかし、話の様子から依頼者が絵のすり替えを企んでいることを知っても手を引くことはしなかった。エリーは女であることで、修復家としても教授職を得ることも難しくなることに腹を立てていた。精巧な模写の完成は、そんな世間を見返すことになる。

その絵を描いたサラは夫とともにオランダの聖ルカ組合というギルドに所属していたが、夫のしでかした不始末のためギルドを追われ、貧しい暮らしを強いられていた。おまけに娘はペストに侵されて死んでしまう。『森のはずれにて』という、その絵の中の白樺に手を添えスケートをする人々を見ている少女の横顔には早くに逝った娘の印象が重ねられている。

ドミニク・スミスは、十七世紀初頭のオランダの女性画家の苦闘の物語と、二十世紀半ばのニュー・ヨークの絵画盗難事件の所有者と贋作者の出会い、そして、二〇〇〇年、大学と美術館に籍を置く美術史研究者となったエリーとマーティのシドニーでの再会を、章が代わるたびに時代と場所と人物を交替させながら描くことで、一枚の絵に操られるように生きることになる三者三様の人生を三つ編みに編んだ髪のように纏め上げる。

マーティは莫大な遺産を相続していることが仇となって事務所での出世は遅かった。四十代になり、子どもができないこともあり、妻は鬱気味でいつも酒の匂いをさせている。妻を愛してはいたが、自分の人生が思ったようなものになっていないことをどこかで不満に感じていた。そんな時、エリーと出会う。はじめは罰を与えるつもりだったが、何度か食事をしたり飲んだりするうちにエリーの絵に向ける情熱に惹かれている自分に気づく。それはトランペットに夢中だったかつての自分を思い出させるのだ。

エリーは自分を認めない男性社会に腹を立てていて、男との付き合いはあまりなかった。資産家で如才がなく、金払いのいい美術愛好家の誘いを何度も受けるうち、エリーもまた悪い気はしなくなっていた。ジェイクと名乗る男との一泊旅行を承諾するくらいに。オルバニーのホテルで二人は初めて結ばれるが、その夜ジェイクは荷物も持たずに車で帰ってしまう。荷物の中身にある署名から、エリーはジェイクの本名を知る。

半世紀後、シドニーの大学で教鞭をとるエリーは美術館から『十七世紀オランダ女性絵画展』のキュレーターを依頼される。驚いたことに、ライデンの美術館は『森のはずれにて』のほかにもう一点サラの作品を持っているという。そこへ館長のマックスから電話がかかる。なんとアメリカのマーティがもう一枚の『森のはずれにて』を自ら持参してシドニーを訪れるというのだ。

真贋二作が同時に同じところに揃えば、徹底的に調べられ、贋作を描いたエリーの罪が暴かれる。さらに、一六三六年以来絵を描いた形跡のないサラに一六三七年のサインが入った作品が何故描けたのか。エリーとマーティの再開はエリーの研究者としての経歴にとどめを刺すのか。大学と美術館に宛てた二通の辞表をバッグに入れ、エリーは会場に向かう。

旅先のホテルに女を残して一人ニューヨークに帰ってしまったマーティの真意がどこにあったのか、読者は最後にそれを知ることになる。そして、もう一作が描かれることになったその後のサラの人生も。二十世紀後半の新大陸の話に十七世紀初頭のオランダの物語を挿むことで、軽いミステリ・タッチの話に小説としての厚みが加わり、音楽その他による三つの時代の書き分けが興を添える。マーティは大のジャズファンなのだ。

オランダ絵画の蘊蓄、絵画修復の技術や贋作のテクニックと読みどころが満載されている。サラがギルドに飾られているレンブラントの『テュルプ博士の解剖学講義』を批評するところがある。解剖のために開かれた左腕と左手が他の部位に比べ大きすぎるというのだ。二〇〇三年の『大レンブラント展』の図録で確かめるとたしかに大きく見える。十七世紀の女性は長時間外に出て風景画など描くことはできなかったという。妻の描いた絵が夫の名前で売られてもいたようだ。自分たちの進出を阻む有名な男の画家に、憎まれ口の一つもたたきたくなるのは当然かもしれない。

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by abraxasm | 2018-07-08 16:15 | 書評
e0110713_21062191.jpg主人公はドリゴ・エヴァンス。七十七歳、職業医師、オーストラリア人。第二次世界大戦に軍医として出征し、捕虜となるも生還して英雄となり、テレビその他で顔が売れ、今は地元の名士である。既婚、子ども二人。医師仲間の妻と不倫中。他人はどうあれ、ある時期以降の自分をドリゴは全く評価しない。戦争の英雄という役割を演じているだけだ。とっかえひっかえ女とつきあうが愛しているわけでも肉欲に駆られてのことでもない。アイデンティティ・クライシスから抜け出せないで歳をとってしまっただけだ。

きっかけは分かっている。戦争が二人の仲を裂いたのだ。婚約者のいる身で他人の妻、それも自分の叔父の妻と恋に落ちてしまった。それが叔父の知るところとなり、別れようという相手に、帰ったら結婚しようと電話で告げて出征した。戦争が終わり、帰還したドリゴは婚約者と結婚し、戦争の英雄とたたえられ、現在に至る。傍目にはめでたし、めでたしの人生だが、本人にとっては不本意の後半生だ。ではなぜ、ドリゴは約束を果たさなかったのか?

すべての小説は探偵小説であるといわれる。別に探偵が出てくるわけではない。読むことでしか解消できない疑問点をその中に含んでいるからだ。その謎を解こうと読者は本を読み続ける。そして結末に至り、そういうことだったか、と納得するのだ。だから、尻切れトンボに終わってしまう作品には不満を感じる。逆に伏線がうまく回収され、ひっかかっていた不自然さが自然なものに感じられるような作品は高く評価される。

『奥のほそ道』は、ドリゴ・エヴァンスという男の人生を、恋愛と戦争体験の二つの要素に基づいて描いている。そして、そこにはこんな立派な男がなぜ抜け殻のような後半生を送らねばならなかったのか、という謎を解くカギが隠されている。メロドラマ要素の強い恋愛悲劇も、悲惨を通り越してアパシーに陥ってしまいそうな捕虜生活を描いた部分も、それだけで充分読ませる力を持つのだが、その二つを通してドリゴを変容させたものが見えてくるように仕組まれている。

決して親切には書かれていない。最後まで読み通したらもう一度初めに戻って読み直すといい。最初あれほど読みづらかった部分が、面白いくらいすらすらと読めることに気づくはずだ。なぜなら、さして重要な人物とも思えない複数の人物のエピソードが、冒頭から何度も顔を出すが、これがカギなのだ。初読時は、その後出てこなくなるので重要視もせずに読み飛ばしてしまう。ところが、これが後で回収される伏線になっている。

あるいは、作中くどいくらいに何度も話題として取り上げられるのが、当時封切りされたばかりのヴィヴィアン・リーとロバート・テイラー共演の映画『哀愁』。有名な「オールド・ラング・ザイン」の曲を蝋燭が一本、また一本と消えていく中、映画をなぞるようにドリゴも恋人と踊る。これもカギだ。結婚を約束した女と兵士の仲を裂くのが男の出征という点がそのまま共通している。映画をよく知る読者には悲恋の暗示であることは自明である。

それだけなら、よくできた大時代的なメロドラマになってしまいそうなストーリーを基部で支えているのが、ドリゴが日本軍の捕虜となって泰緬鉄道の敷設のため、強制労働を課される部分である。この部分は、もともと軍曹として従軍し、捕虜となり泰緬鉄道工事に携わった作家の父が話して聞かせた事実に基づいている。無論、多くの資料を読み、現地に足を運んで調査して得た客観的な事実に作家の主観的な想像力を働かせた虚構である。しかし、その迫力たるや生半なものではない。

ハリウッド映画でお馴染みの男ばかりが共同生活する軍隊ならではの磊落なユーモアが陰惨な強制労働を描くタッチと絶妙な均衡を保っている。もし、この男たちのくだらないといえばくだらないやり取りがなかったら、どこに救いを求めればいいのだろう。食べる物も着る物もなく、支給された褌一丁の姿で、泥濘の中を徒歩で工事現場まで歩き、ハンマーと鉄棒で岩を砕く。栄養失調で肛門が突き出た男たちは、便所までもたず糞尿を垂れ流す。あのナチスの強制収容所でさえ雨風から身を護る建物があった。ここには何もない。

日本軍の将校たちでさえ「スピードー」と呼ばれるこの命令の不条理さは理解している。ただ、彼らはそれに背くことができない。この服従の仕方はもはやカルトでしかない。自分の認識力や理解力の上に天皇という上部構造を置いて、その命令を行使することがすべてという生き方を自ら選び取る形で受容する。不都合な部分は受け入れやすい形に変形していく。まるで今でいうフェイクのように。リチャード・フラナガンの筆は、まるで今の日本を見ているような気にさせる。

そのように受け入れがたい現実を自分に強いた兵たちは、戦後においても何ら戦中と変わらない価値観で生きてゆくことができる。あれほどの犠牲を強いた泰緬鉄道を走った蒸気機関車C5631号機が靖国神社に今も保存されている。犠牲者については何も触れてはいない。戦後日本は体面上は、戦前の価値観を否定した上に今の日本を築いたことになってはいるが、戦犯の孫が戦前の価値観を称揚し、憲法改正を訴えることについて異議を唱える人の方が少数派というのが現実だ。

新聞を読まない人々によって支えられている政党が多数の支持を得ているのだから、こんな小説など読む人の数は限られているに違いない。小説は声高に正義を唱えたりはしていない。それどころか、戦争という異常事態の中で自らを失った異なる国家に属する人民の一人一人に寄り添っているとさえいえる。もちろん、主人公はドリゴなのだが、活写される人物たちの内面が読者の中で生命を得て甦り、それぞれの人生を生き始める。読む者は彼らとともにこの救いようのない現実に直面し、ふと己の置かれている現在を見つめ直す。自分を失っているのはドリゴだけでないことに。


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by abraxasm | 2018-07-05 21:06 | 書評

『飛ぶ孔雀』山尾悠子

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これまでの幻想小説色の濃い作品とは、少し毛色が変わってきたのではないか。精緻に作りこまれた世界であることは共通しているのだが、いかにも無国籍な場所ではなく、間違いなくこの国のどこかの町を舞台にしている。作者が学生時代を過ごした京都や生地である岡山のような、古くからその地に伝わる文化や言い伝えが残る、程よい古さと大きさを兼ね備えた地方都市のような。

「飛ぶ孔雀」と「不燃性について」の二部に分かれている。それぞれは独立しているようでいて、実はどこかでつながっているらしいのは、どちらにも登場する人物がいたり、どちらにも出てくる話題があることから分かる。ただ、その繋がり具合が尋常でない。「強盗(がんどう)返し」という語が文中に一度ならず使われているように、障子一枚引き開ければ、踏み入った世界はまったく別世界といった具合に、二つの世界は背中合わせで通底しているようだ。

人物の心情や行動の変容を通して、人間や世界を見つめるというような作品ではない。いうならば、トポス(場所)が主題である。目に見えないが存在する、何かに影響を与える磁力のような力を持つ場所があり、それが人や人の住む場所の形や大きさを変える。地火水風、四大の異変が通奏低音のように流れていて、人物たちは物語の冒頭からその影響下にある。書き出しからして「シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった」なのだ。

その「柳小橋界隈」は、シブレ山の南東に広がる城下町の中を川が流れ、いくつも架かる橋の一つを揺らして路面電車が通り過ぎる。橋げたの下に積み重なったバラックの一軒。中洲の先端に突き出した何度も泥水に洗われて、足下の覚束ない物干し台で少女は火を熾そうとしている。火が燃えにくくなっているという設定の世界は、冒頭から通常の世界ではないことを印象づける。暗夜にとぼしく灯る火を目当てに男は船で漕ぎつける。火が「飛ぶ孔雀」の重要なモチーフである。

男と少女の逢引きという主題は次の「だいふく寺、桜、千手かんのん」に話をつなぐ。菓子屋の娘を連れて寺の拝観に来たKは、石切り場の事故でシブレ山が二つに増え、石屋の社長は湯治に逃げた、という噂話を耳にする。「ひがし山」は「橋をひとつ渡るたびに、確実にちからは増す」という『橋づくし』を思わせる予言から書き出される。眼の悪い少女が家を継ぐことになった顛末が語られる。少女はペリットを吐く。鳥類が一飲みにした小動物の未消化物を指すペリットは次のKの記憶を語る「三角点」にも出てくる。このようにイメージがイメージを呼び、断片的な挿話が次から次へと繰り出される。

「火種屋」、「岩牡蠣、低温調理」と火のモチーフを扱った間奏曲二篇を挟んで表題の「飛ぶ孔雀、火を運ぶ女」に至る。二つの川を水路で繋いだことにより、大きな三角州状になった川中島Q庭園で行われる大茶会が「飛ぶ孔雀」のメイン・ディッシュ。菓子屋の娘とその腹違いの妹が、逆回りで庭園内の茅屋に灰形の火を運ぶ役に籤で選ばれる。守るべき禁忌があるのだが、孔雀は飛ぶし、芝生は動くし、関守石は転がるしで、姉妹は禁忌を犯す。面妖な怪異が夜の庭園をかき回し、盂蘭盆会を賑やかに不思議な大騒動が繰り広げられる。

「不燃性について」は「移行」という「若いGがじぐざぐの山の頂上へ至るまでのおおよその経緯」を書いた挿話ではじまる。季節は移って初秋になっている。「地元Q庭園」とあるからには、同じあの町だが、場所は変わって川端にある古い公会堂地下三階にある公営プール、路面電車の軌道がカーブする位置にある三角ビル、とシビレ山にある施設が主な舞台となる。モチーフは水。

場所を象徴するのは、巨大なすり鉢状の構造である。しかも、階段状になっている。地下のプールとその客席がそうだし、シビレ山の施設、頭骨ラボも修練場も同じである。「眠り」で仕事帰りに公営浴場に立ち寄ったKは、地下プールで路面電車の女運転士ミツと出会う。ミツは弟のQが三角ビルに住んでいて、最上階に住むKを知っていた。三角ビルと聞いて思い出すのは横尾忠則の連作「Y字路」だ。

そして横尾といえば、アングラ芝居のポスターではないか。妙に土俗的で、それまで自分たちが否定し、隠してきた恥部を露悪的に前面に押し出すことで前近代的な自我を自己肯定しているような生温かいぬるさのようなものが後づけの西欧を追いやるところが「不燃性について」と根を同じくしている。理屈ではない。肌合いのようなものか。血縁だけではない疑似的な家族関係、兄さん、姐さんといった呼称、泉鏡花や柳田国男のいう「妹の力」の強調。

若い劇団員のQはシビレ山にある頭骨ラボへの出張を突然命じられる。頭骨ラボは宿泊施設を改築した死骸を煮て肉をこそげ落とし標本用の白骨を取り出す工場のようなものだ。ある意味ペリットの相似形。先輩のトワダは先にラボに行ってしまうが、婚約中であったQは後援会組織の家族の意向で急遽結婚させられてしまう。相手はよく似た顔をした大勢の姉妹を持つ一人である。

「不燃性について」を支配しているのはカルト的な組織とそれに抗する地下組織の暗闘のようなものだ。喫煙者を襲う自警団や清掃活動を宗教的な位置に祭り上げる老人会、地熱で温めた温泉卵を路面電車で配達する地下組織、何やらよく訳の分からない連中が犇めきあっている。温泉の熱で温められる地下、と雷が落ち大蛇がうねくる山頂部分が対比的に影響を与え合っている。両者をつなぐのが、同じ場に相いれない美少年Qと今では大人となったKだ。

アングラ芝居の要領で、一人の役者が衣装や鬘をとっかえひっかえ、次々と別の人物に成り代わって舞台をあいつとめる。雲海を突っ切って上り下りするゴンドラとケーブルカー。同じ構造を持つ十角形を基盤に持つ中空の塔状組織をひっくり返したような巨大建築物。鶏冠と耳と鰭、それに退化した前肢を保有する大蛇、そんな物が大勢の登場人物を呑みこんで上を下への大騒ぎだ。

現実と壁を隔てたところに位置する異世界との交流、もしくは互いに影響を与え合うことによる混乱がせめぎあう、何ともにぎやかなスクリューボール・コメディ。泉下の鏡花先生も苦笑するような仕上がりだが、これはこれで上出来の一巻。多すぎる謎、符合する記述、回収されない伏線、と何度ページを繰っても読み終わるといううことがない。分からないから放り出すということができない、練られた文章力の持つ味わい。山尾悠子は大化けしたのではないだろうか。


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by abraxasm | 2018-06-19 05:42 | 書評
e0110713_06431607.jpgどんでん返しもなし、視点人物の交代もなし、二つの時間軸の行ったり来たりもなし。おまけに、時効が成立しているので犯人を見つけても逮捕することができない。今どきこんな小説を書いて、読む人がどこかにいるのだろうか、と思うのだが大勢いるらしい。本邦初訳ながら、作者レイフ・GW・ぺーションはスウェーデン・ミステリ界の重鎮で、本作で探偵役を務めるヨハンソンとヤーネブリングのコンビはシリーズ化されているという。

国家犯罪捜査局の元長官ラーシュ・マッティン・ヨハンソンは二〇一〇年七月五日、スウェーデンいちのホットドッグを食わせる<ギュンテシュ>の屋台に車を停め、ホットドッグを買い求める。車の運転席に座り、食べようとしたとき、後頭部が突然アイスピックで刺されたような痛みに襲われる。脳塞栓だった。発見が早かったので一命はとりとめたものの右半身に麻痺が残り「角の向こう側が見通せる」と噂された頭の切れが戻らない。

主治医のウルリカから相談をもちかけられたのが、事件に関わることになったきっかけだ。牧師だったウルリカの父はある殺人事件の犯人を知っている女性の懺悔を受けたが守秘義務を守り、口を閉ざしたまま死んだ。一九八五年六月に起きたヤスミン・エルメガンという九歳の少女の強姦殺人事件で、初動捜査の遅れにより事件は迷宮入りとなる。事件解決を遅らせる要因となったのが、翌年二月のオロフ・パルメ事件だ。現職の首相が殺され、警察は多くの人員をそちらに割いた。難民のイラン人少女の殺害はその影響をもろに受けたのだ

ヨハンソンは、体の自由が戻らぬままに捜査を開始する。アームチェア・ディテクティブならぬ、ベッド・ディテクティヴだ。その手となり足となるのが元同僚で今は定年退職をした元捜査官のボー・ヤーネブリングであり、義弟のアルフ・フルト。それにコンピュータに詳しい介護士のマティルダと兄が送り込んだ頑強なマックスというロシア生まれの青年だ。警察小説でありながら捜査本部は病室と自宅だが、ヨハンソンを慕う部下は多く、協力を惜しまない。

事件の捜査の進捗とヨハンソンの回復と停滞が日付けとともに日誌のように記されてゆく。淡々とした捜査日誌ではなく、体が思うように動かせない病人の苛立ち、子ども扱いされる不満、大好きなホットドッグや酒を止められ、ヨーグルトやミューズリーといった健康食品を食べさせられる不満が、随所に書き留められる。ほぼヨハンソンの視点で語られているため、会話の後に内言が多用され、言わずに置いたこともすべて語られるので、読者はいやでも主人公と感情を共有することになる。

よくある刑事とちがって、ヨハンソンは資産家だ。長兄とすすめている事業も順調で、歳の離れた若い妻との仲もいい。子どもの頃から狩りをしてきて銃の扱いには長けている。食いしん坊で、不摂生とストレスが心臓に負担をかけており、健康的な生活を心がけねば危険だと医者に言われていても、リハビリ中にもかかわらず、ヤーネブリングやマックスの手を借りて、レストランで好きなものを食べ、酒を飲む。ほぼ同じ年頃なので、気持ちはわかるが妻にしてみれば困った亭主である。

北欧ミステリといえば、本作もそうだが、幼児性愛や、虐待といった陰惨な事件を扱うことが多い。その反面、それを追う警察仲間の人間関係はけっこう親密で、ユーモアに溢れているのが、ある種の救いになっている。本作もまさしくそれでヨハンソンを囲む人々の元長官に寄せる愛情がひしひしと伝わってくる。もっとも、本人はなかなか回復しない病状の方に気が行って、それをありがたく思うところにまで気が回らない。

純然たるミステリとはいえない。取り寄せた資料を読み解くうちに、ヨハンソンは犯人像をしぼりこむ。特に重要なことは、ヤスミンの両親が知らない人に注意することを徹底していたという点だ。顔見知りの犯行ということになる。しかも、犯行の手口から見て、ふだんはまともな暮らしをしていることがうかがえる「配慮のあるペドフィリア」。撒き散らした精液の量から見て歳は若い。

これだけプロファイルされていたら、巻頭に掲げた登場人物の紹介をあたれば、まだ登場していなくても犯人は分かる。問題は時効が成立済みの犯人にどう対処するか、という点になる。髪の毛一本すら現場に残さない犯人から、どうやってDNAのサンプルを採取するのか。あるいは、万が一それが一致したとして、逮捕できない犯人をどう処罰するのか。正直言って、この解決法は納得のいくものではない。ひねりのないのも善し悪しだ。

二〇一〇年、スウェーデンは殺人罪などの重大犯罪は時効を廃止した。しかし、施行日以前までに起きた犯罪は時効が成立してしまう。その矛盾をどうするのか、という大きな問題を突きつけている。ヨハンソンという人物の魅力と、その周りに集まってくる友人、知人の活躍で持っている作品である。スウェーデン料理についても逐一紹介されていて、料理好きにはちょっとたまらない。これを機に未訳のシリーズ作品が、訳出されると思われる。本作には他のシリーズ物からカメオ出演している人物も多いらしい。何かと愉しみな北欧ミステリの雄の登場である。

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by abraxasm | 2018-06-11 06:43 | 書評
e0110713_10525188.jpg石ノ森章太郎が「COM」に連載していた『ジュン』をはじめとして、画面上に異様に大きな月を掲げる映像表現は多々ある。ルナティックとは狂気のことで、月の大きさはファンタジー色の濃さに比例する。だが、これはその比ではない。なにしろ、比喩でなく手を伸ばせば月に手が届くのだ。月の引力で潮が満ちた満月の夜、人は船を出す。脚榻(きゃたつ)に乗り、思いっきり手を伸ばして月にしがみつくと、月の引力圏に入って月の上に降り立つことができる。月が地球からこんなにも遠く離れる遥か以前の物語である。

巻頭の「月の距離」には、その昔、月に一度満月の夜に月に渡ってミルクを採取する人々の物語が語られる。月と地球が近かったころ、その引力に引かれて地球から月に引きつけられた物質が月上で醗酵し、チーズのようなものになる。それを掬い取るために人は月に降り立った。そんな話を語るのはQfwfqという名の語り手である。見てきたように嘘をつくという言葉があるが、Qfwfqは本当にその場にいたという。

それだけではない。船長夫人に愛される耳の聞こえない従弟を嫉妬した。月に魅せられた男と、その男を慕う女。そしてその女を恋い慕うもう一人の男が織りなす、一人の女を巡る二人の男の三角関係を描いたありふれたメロドラマ、のはずなのだが、何しろ舞台が月の上だ。一度月に行ってしまって、タイミングを逃すと次の満月まで地上に帰れない。しかも、その間にも月と地上は離れつつあった。

ありえない世界をさもありそうに子細にリアルに描くのはイタロ・カルヴィーノの最も得意とするところ。『見えない都市』で見せたハイパー・リアルな情景描写が思い起こされる。これで一気に引き込まれ、期待に胸をわくわくさせながら次の作品に移る。というのもこれは連作短篇小説集なのだ。舞台は、ミクロコスモスからマクロコスモスまで、望遠鏡や顕微鏡のつまみを回すように、一作ごと自在に変化する。

各章の巻頭にはエピグラフが付される。科学書から引用した科学的な事実の断片である。それを受けて語り出すのがQfwfqという名の爺さん。太陽系がその姿を現すずっと以前から、宇宙のどこかに何らかの形で存在していた不可知な実体。ある時は恐竜、またある時は両棲類。それくらいなら感情移入も可能だが、感情など持たない「もの」に寄り添って、この世界が生成変化する場面を目撃し証言する。要は『ほら吹き男爵の冒険』の宇宙版。

普通ならありえない設定で、まことしやかに飄々と物語世界を闊歩するのがカルヴィーノの作品世界の住人だ。『まっぷたつの子爵』しかり、『不在の騎士』しかり。今度はスケールが違う。宇宙の創世期から理論物理学が想定するミクロコスモスの世界まで縦横無尽に語り尽す。マーカス・デュ・ソートイ著『知の果てへの旅』の愛読者なら喜びそうな、科学的知識の啓蒙書の雰囲気も併せ持つ、物語調で書かれた宇宙の創世記である。

とはいえ、科学に疎い読者には、そうそうは易々と中に入り込めないものもあり、紹介するのは、こちらの好みに合ったものに限らせてもらう。読者によって好みの異なることはあらかじめ言っておきたい。全十二篇中、ここで取り上げるのは巻頭の「月の距離」を含む「水に生きる叔父」、「恐竜族」、「空間の形」の四篇。共通するのは、濃密な情景描写、物語性、男女の三角関係、失われたものへの哀惜感といったところだろうか。

進化の過程で水辺から離れたところで暮らすQfwfqには変わり者の大叔父がいて、いまだに水中から出ることを拒み続けている。一年に一度は叔父を訪ねるのがこの家族のならいで、Qfwfqはご機嫌伺いに出かけるが、大叔父の態度はいつもと変わらず素っ気ない。Qfwfqはこの変わり者の大叔父に許嫁を紹介することをためらうが、案に相違して二人は意気投合。最後には許嫁はQfwfqのもとを離れ、水中で大叔父と暮らすことを選ぶ。時代の推移に取り残されながら、それを肯んじ得ない者を描く「水に生きる叔父」は、次の「恐竜族」とも主題を共有する。

「恐竜族」は、すでに恐竜の時代を過ぎ、新世代の生物は恐竜という存在を忘れ果てている。Qfwfqはその忘れられた恐竜の最後の生き残り。ひょんなことから新世代の生物と暮らし始めるが、いつ自分が恐竜であることを知られるか不安で仕方がない。そんな時、一人の女を好きになり、付き合い始めるが、新しい女との出会いが話者の心をゆすぶる。時代に適応できない人物の心の揺れを恐竜に託して語る物語である。

「空間の形」は話者がQfwfqであると明記されない。実際、これは誰なんだろう。なぞなぞめいた話で、ヒントばかりがたくさん書かれるが、解答は明示されない。他の物語群とは一線を画し、宇宙とも時間とも距離を置いている。どうやら、文字を紙の上に記す過程を主題にしていることは分かるのだが、主人公である私と、その恋するウルスラH’xと、ライヴァルであるフェニモア中尉が何を意味しているのかがまったく分からない。

私見では万年筆のような筆記具が関連しているように思えるのだが、今のところ絶対ではない。そもそも寓話を意図していないという意味で、何が何を表すというような読解は不要なのだ。ではあるが、微妙に官能的な描写を読む読者には、これが何を描いているのか知りたくなるのは作者はすでに承知。であれば、それを読み解こうと再読はおろか、何度でも読み返し、ああでもない、こうでもないと頭をひねる。読書の喜びこれにつきるものなし。

宇宙を舞台に、現実にはあり得ない世界を描いているという点ではSFのジャンルに入るのだろうが、どことなく収まりが悪い。騎士道小説の枠を借りながら、そのジャンルそのものを批判しているセルバンテスの『ドン・キホーテ』さながら、作家と自らが描いている世界との距離感が遠いのだ。先端的な科学知識も無限大に引き伸ばされた時間軸の上では、先史時代のそれと何ら変わりがない。そういう冷めた知性がどこかほの見える。それでいて、対象への愛も強く感じられるのは、喪われたものへ向けられた哀惜ゆえだろうか。

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by abraxasm | 2018-05-28 10:53 | 書評

覚え書き


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