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『夢見る帝国図書館』中島京子

『夢見る帝国図書館』中島京子_e0110713_17004500.jpg題名に「図書館」と入ってるだけで、読んでみたくなる。その前に「帝国」とある。「大英帝国」のことかな、と考える。まだその上に「夢見る」とついている。ユメ子さん? シャンソン人形? 図書館はふつう夢を見ない。見ないだろう? いや、見るのか? まあ、どちらでもいい。こうまで不可解なものは中身に目を通すしかない。

「私」が喜和子さんにあったのは上野である。国際子ども図書館を取材して一息ついて大噴水前のベンチに座っていたら、隣に座った人がいた。それが喜和子さんだ。古い着物をパッチワークしたコートを着、粋な手つきで煙草を吸い始める六十代の小柄な女性。煙草の煙にむせた「私」に「きっと、あれだよ、花粉症」なんて言って、すましている。身勝手なようでいて、人は悪くない。突き抜けた感じが当時の「私」には新鮮で、すぐに仲良くなった。

それからちょくちょく二人で会って、ランチをしたり、甘いものを食べたりするようになる。谷中の路地の奥にある大正時代に建てられた長屋が一軒だけ残ったような喜和子さんの小さな家にお呼ばれもする。上野界隈をこよなく愛する喜和子さんは上野の図書館を主人公にした小説が書きたい。その題名が「夢見る帝国図書館」。書きたいのだが文章を書くのは苦手。で、作家である「私」にそれを書くように勧め、ぼつぼつと構想を語り出す。

この「夢見る帝国図書館」のエピソードが、小説本編とは別仕立てで、話の合間に挿入される。賢治の同性の友に寄せる気持ち、宇野浩二が震災時に遭遇した自警団の恐怖、ハッサン・カンのモデル等々。帝国図書館に通った明治・大正・昭和の文士の逸話、これがべらぼうに面白い。永井荷風の父、久一郎の奮闘に始まる帝国図書館の歴史だけでも図書館通になれる。「お金がない。お金がもらえない。書棚が買えない。蔵書が置けない。図書館の歴史はね、金欠の歴史と言っても過言ではないわね」と喜和子さんは言う。

本編となるのは、なんだか不思議な喜和子さんの「女の一生」の謎解きだ。本人は自分の過去を詳らかにせず、話半ばで早々とあの世に逝ってしまう。「夢見る帝国図書館」は「私」が書くしかない。それが喜和子さんの遺志でもあった。そんな訳で「私」は喜和子さんの昔のことを人づてに聞いて回ることになる。戦後の上野にまだバラックがあった時代、三、四歳だった喜和子さんは、そこで「お兄さん」と慕う男の人と一緒に暮らしていたという。

「夢見る帝国図書館」は、復員兵のお兄さんが書こうとしていた小説だった。ちっちゃな喜和子さんはお兄さんの背嚢に入って、図書館に通い、夜はそこで眠ったりもしたらしい。夜になると、隣の動物園から動物たちもやってくる。そんな夢のような話を書いた童話「としょかんのこじ」が国立国会図書館に残っていた。作者の名は城内亮平。手がかりを一つ一つ調べていくうちに、「私」は喜和子さんの数奇な人生に巡り会う。

喜和子さんの愛人の元大学教授やインテリのホームレスが語る喜和子さんの身の上話にはどこか絵空事めいたものがある。だいたい、幼い少女がなぜ一人で上野で暮らしていたのだ。アナグラムやら、暗号やらが繰り出され、喜和子さんの少女時代を探るところは、ちょっとしたミステリ仕立てになっている。ネタバレになるので詳しくは明かせないが、「私」が出会った頃の喜和子さんは過去の生を生き直している最中だった。そのテキストが「夢見る帝国図書館」だったのだ。

お兄さんの影響もあるのだろう、何もない部屋に全集を揃えるほど一葉好きの喜和子さんが「私」に遺した書きかけの原稿が、一葉女史が書きそうな、なかなか句点が出てこない文体で、もちろん、作家中島京子による文体模倣なのだが、一葉に憧れた一人の女が、おそらく暗記するほど身に染みついた筆致で、幼かったころの上野の、徳川様由来の紋所から「葵部落」と名づけられたバラック小屋で暮らす日々を振り返る文章の洒脱さったらない。

いつの時代、誰の前にも平等に開かれているのが図書館だ。世の中が怪しくなると、まず本当のことを書いた本が図書館から消える。本や図書館がいかに戦争と折り合いが悪かったか。金欠、本の焼失の元凶は、明治以来大日本帝国が次々と引き起こしてきた戦争である。都合の悪いことは人の目から隠され、あったことがないことにされる。戦争から生きて帰った者には、死者に代わってやるべきことがあった。お兄さんの場合、それは小説を書くことだった。「としょかんのこじ」の「後記」に詩のようなものが付されている。

とびらはひらく
おやのない子に
脚をうしなった兵士に
ゆきばのない老婆に
陽気な半陰陽たちに
怒りをたたえた野生の熊に
悲しい瞳を持つ南洋生まれの象に
あれは
火星へ行くロケットに乗る飛行士たち
火を囲むことを覚えた古代人たち
それは
ゆめみるものたちの楽園
真理がわれらを自由にするところ

「真理がわれらを自由にする」は国立国会図書館の図書カウンター上部に、今もギリシア語原文と並んで刻まれている。


by abraxasm | 2019-07-06 17:01 | 書評

覚え書き


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