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『わたしはこうして執事になった』ロジーナ・ハリソン

『わたしはこうして執事になった』ロジーナ・ハリソン_e0110713_18101779.jpg執事というのは奇妙な仕事だ。本人は決して高い身分ではない。ほとんどが労働者階級の出身である。それなのに、上流階級の人々にくっついていることで、時の首相や、時には女王ご本人に拝謁を賜ったりすることもある。直々に声をかけていただいたり、お褒めの言葉を頂戴したり、と傍から見れば羨ましいようなものだが、あくまでも使用人である。周囲からの高い評価は期待できない。パブの店主でも一国一城の主のほうが敬意を抱かれる。

しかし、名のある執事ともなれば、行儀作法は勿論、ワインや料理に対する知識、超豪華客船一等室での船旅を含む世界旅行の経験等々、われわれ庶民には及びもつかない世界を知っている。どこまでいっても主人と使用人という間柄ではあるけれども、大事な悩みを打ち明けられて、その相談に乗ったりすることもあり、他人には決して言うことのできない秘密を共有することもあって、長く仕えているうちに友人のような関係になることもある。

国家の運命を決定する場に立ち会うこともある。「20世紀最大の英政界スキャンダル」と呼ばれたプロヒューモ事件のようなスキャンダルの現場にだって。1962年、当時のハロルド・マクミラン政権の陸相ジョン・プロヒューモがソ連の美人スパイ、クリスティン・キーラーに紹介されたのが、ビル・アスター卿所有のバッキンガムシャーにあるクリヴデンだった。その後二人は肉体関係を持つに至り、国家機密の漏洩が疑われた。その結果マクミランは辞任、次の総選挙で労働党が政権に就くことになる。

1975年に刊行された『おだまり、ローズ』の著者が、当時アスター家で一緒に勤めた執事たち五人から聞いた話を、自伝風にまとめたのがこの本。主人とメイドという関係にありながら、互いに意見を主張して一歩も引きさがらず、丁々発止とやりあう二人の関係を面白おかしく描いた前作は、日本でも話題に上った。本の内容上、夫人に関するエピソードという枠組みからはみ出したものは、いくら面白くとも割愛しなければならず、とっておきのこぼれ話が書かれずにいた。それらを拾い集めて執事の物語にしたところがお手柄。

五人の誰もが一度は勤めることになったのが、アスター卿の館クリヴデン。ここを取り仕切る「クリヴデンのリー卿」と呼ばれる執事エドウィン・リーこそが、他の四人の男たちの教師であり、父であり、尊敬する船長、皆から「サー」と呼ばれるあこがれの対象だ。著者であるハリソン嬢もまた、このリーを「父さん」と呼ぶ。アスター夫人付きのメイドとして長くリーの下で働き、その仕事ぶりや人柄を誰よりもよく知る人である。

実はこの本、とんでもなく面白い。英国上流階級を描いた小説や映画は多いが、終始一貫して使用人の視点で描かれたものはそう多くはない。ジェイムズ・アイヴォリー監督の手で映画化され、アンソニー・ホプキンスが主演した、カズオ・イシグロの『日の名残り』くらいか。主人公スティーブンスの目から見たダーリントン卿と、世間の目から見たそれとの差が際立っていたが、あの視線に近いものは、この本にもある。

はからずもスキャンダルの場を提供することになり、正当な手続きを経ずして指弾されてしまった主人に、使用人たちは誰もが同情的だ。逆に労働党の幹部や社会主義者たちに向ける視線には冷たいものがある。労働者階級に属してはいても、自分たちがその空気を吸っていたアスター家の(女主人の時間を無視する癖と、仕事振りを素直に褒めようとしないことには辟易しながらも)今はなくなってしまった英国上流社会の活気に溢れた優雅な暮らしぶりとそこで働く自分たちの仕事を愛していたからだ。

男たちは一つ仕事を覚えると職場を変える。下働きの使い走りから始め、第二下男、第一下男、そして副執事、執事、とステップを踏んでいく間に何度も勤務先を変える。上司とそりが合わず、どうしようもなくて辞める場合もあるが、いい雰囲気の勤務先であっても、最後までそこに勤めようとはしない。ある程度その世界で生きていこうと思ったら、場数を踏むことが大事だと知っているからだ。また、仕事ぶりが認められた者には、好条件で雇ってくれる家が必ずあるのがこの世界なのだ。

一方的に雇ってもらうというのではない。こちらも相手を選んでいる。その駆け引きの面白さ。新しい勤務先で出会う上司や同僚の奇矯な振舞いや、酒癖、女癖の悪さといった下世話な話も話し手が労働者階級出身だからこそ。年代物のワインの空き瓶やコルク栓が、結構な値で売れる仕組み(食堂の給仕が中身を安物のワインと入れ替えて、相手にヴィンテージと信じさせるための小道具)等の業界の裏話もあれば、信じられない手さばきで燕尾服の裾に隠したワインを二本も取り出して見せる水際だった給仕ぶりの紹介もある。

狐狩りで着用する赤い燕尾服の汚れ落としのテクニックもあれば、主人のお付きでアスコット・ウィークの大晩餐会に招待された時の晴れがましい感想もある。食事中も無言で通す作法、長時間をかけての銀器の手入れ、夜明け前から午前三時まで働き詰めの生活は、自分では経験したいと思わないが、そういう労働で支えられていた、かつての上流階級の暮らしぶりを知るには、とっておきの一冊。読み物として面白いのは保証するが、英国小説を読んだり、映画を見るときの参考資料としての価値も高い。

第一次世界大戦勃発の引き金を引いたオーストリア皇太子暗殺事件の直前、急用ができ、渡英した皇太子を迎えに行けないアスター卿の代りに車に乗った父君。いつもの癖で、開いていると思った窓に痰を吐いてガラスを汚してしまった。これに腹を立てた運転手は興奮のあまり車をぶつけてしまう。幸か不幸かフェンダーをこすっただけで済んだが、大事故でも起こしていたら、第一次世界大戦は起きなかったのでは、と語る執事は歴史の証人でもある。

ドイツ軍の爆撃を逃れて週末だけチャーチルが身を隠すことになった。身近で暮らしぶりを見た者だけが知るその実像とは。酒浸りだと噂されていたが、そうでもなかったらしい。好きな酒はウィスキーで、トレードマークの葉巻も一口吸ったら灰皿に置いていたとのこと。帽子とコートを渡したチャップリンに握手を求められ、礼儀から無視をしたら、かえってご不興を買ってしまったという。この種の有名人の逸話には事欠かない。

第一次世界大戦前から、第二次世界大戦後までを扱う。時間の経過とともにさしもの英国上流階級の暮らしにも変化が生じる。大人数の使用人を抱え、大勢の客を呼んで食事会を開く家も少なくなり、執事たちも変化を認めざるを得なくなる。時代の趨勢から見て、そういうものだとは思いながらも、物心ともにゆとりのあった時代を惜しむ気持ちもよくわかる。今は昔の英国上流階級の暮らしを、執事部屋から覗く貴重な体験のできる一冊である。

by abraxasm | 2017-02-20 18:05 | 書評

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