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『さすらう者たち』 イーユン・リー

『さすらう者たち』 イーユン・リー_e0110713_14211428.jpg原題は"The Vagrants”で、『さすらう者たち』は、ほぼ直訳である。ところで、その「さすらう者たち」は、いったい誰を指しているのだろう。というのも、どれも一筋縄ではいかない人物たちの中で、唯一好人物といっていい、ゴミ拾いや掃除を仕事としている華(ホァ)という老夫婦が、通りすがりの二胡弾きにかつては自分たちも放浪者であったことを明かしているが、その盲目の二胡弾きを除けば主な登場人物は、舞台となる中国の新興工業都市、渾江市に定住する者ばかりだ。

毛沢東の死後、江青ら四人組は逮捕、紅衛兵による「文化大革命」が批判され、改革開放政策が叫ばれ出した頃である。一九七九年の春分の日。この日、教師である顧(グー)師の一人娘珊(シャン)が、反革命分子の罪状で公開処刑されることが告知されていた。珊はかつては紅衛兵として両親や近所の大人たちを批判、足蹴にするなどの暴力行為をくり返した罪で獄に囚われ、十年を獄中で過ごしたが、獄中から共産主義の誤りを批判した手紙を送るなど改悛の情が見られないことを理由に、この日の処刑が決まったのだ。

この物語は事実に基づくフィクションである。リーがネットで読んだ事件についてエッセイを書いている。その前半の要旨が「訳者あとがき」にある。ストーリー紹介としては、ほぼこれに尽きる。

一九六八年、湖南省に住む元紅衛兵の十九歳の女性が、文化大革命を批判する手紙をボーイフレンドに送ったところ、密告されて逮捕され、十年収監された。そして一九七八年、臓器移植のため麻酔なしで臓器を抜かれた後、銃殺された。女性の遺体は野に放置され、ある男に死姦のうえ損壊された。それからしばらくたって彼女の名誉回復のために数百名の市民が抗議行動を起こし、その結果、二歳の男の子の母親だったリーダー格の三十二歳の女性を含め、全員が処分の対象とされた――。


顧珊(グーシャン)が処刑される日、市では数箇所で批闘集会がもたれ、各集会所を引き回された後、珊は人目につかない場所で処刑される。過去に珊に関わった人々、この日の処刑及び臓器移植や死体損壊に関わった者たちが、それぞれの場所で動き出す様子を、リーは、まるでその場にいたかのように生き生きと描き出す。その人物像のリアルさはどうだ。

かつて妊娠中の母が珊に蹴られたことが原因で体に障害が残る十二歳の娘、妮妮(ニーニー)は、障害のせいで両親に疎んじられ、赤ん坊の子守をしたり、家族の食事を作ったりするほか、駅での石炭拾いから野菜屑拾いを命じられる。いつも腹をすかせている妮妮に優しいのは華老夫婦と顧師夫妻だけだ。ただ、娘が殺されるこの日、顧師の妻はいつものように妮妮のために食事を用意する余裕がなかった。死んだ娘があの世で寒がらないように、辻で服を燃やす準備で忙しかったのだ。妮妮は、ここでも自分が嫌われ行き場をなくしたと思い込む。

放送局でアナウンサーとして働く凱(カイ)は、少女の頃、珊と同級生だった。二年生の歌と踊りのコンテストで優勝したのが凱の方だったため、演劇学校に通い、ヒロイン役で人気を得たが、親の勧めもあって土地の有力者の息子と結婚した。場合によっては珊と自分が入れ替わっていた可能性もあり、珊のため行動を起こすことを考え、同調者と連絡を取っていた。

八十(パーシー)は、パイロットだった父が悲運の死を遂げたことで、政府から家や生活費を給付され、仕事に就くために勉強する必要がなかった。年頃になっても女性と出会う機会がなく、一度でいいから女性の秘所を見たいと思い、小さい女の子を手に入れることを考え、市中を徘徊していた。女性に餓えた八十と安らぎの場を求める妮妮が出会うのは必然ともいえた。食べ物と石炭をもらえることで妮妮は、八十の家に入り浸るようになる。

この少し足りない(と周りから見られている)二人のコンビは、周囲が見ているほど、愚鈍でも無能でもない。二人の会話は、知性の輝きが仄見え、未来に対する展望に溢れ、このやりきれないほど惨酷で息が詰まるような物語の中で、わずかな開放感をあたえてくれる。イノセントな二人が生の欲動に突き動かされ、「禁じられた遊び」というか、「穢れなき悪戯」というか、いかにも幼い性の交歓に及ぶ場面は、微笑ましいようなやるせないような微妙な感情を読む者に抱かせる。

田舎から街に来たばかりで、仲間に入れてもらえず、「耳」という名の黒犬だけしか心通わせる友だちのいない童(トン)は、革命の小英雄に憧れる勉強熱心な少年だ。迷い犬を探すうち、八十と出会い、前後の見境なく抗議集会で署名をしてしまう。この童を含め、真面目に熱心に学問し、革命や民主主義といった理念に動かされる凱やその他の人物は、いかにも生硬で、主たる役割を持つ人物ではあっても魅力に乏しい。

それにくらべ、八十や妮妮という、どちらかといえば道化やトリックスター的な役割を担わされた人物の方は、外見は良くないが、エネルギッシュで、ユーモアを忘れず、憎まれないキャラクターをあたえられている。それは、珊の死体を葬るために顧師に金で雇われた昆(クエン)のような信じがたい悪党にまでも付与されている。一党独裁による共産主義国家である中国のような国で、人間らしく生きていくには、アウトサイダーの位置に自分を置くしかない。共同体の中に身を置く限り、密告や裏切り、監視といった相互監視システムの一員とならざるを得ず、自分の思う通り、話したり動いたりすることはできないからだ。

しかし、アウトサイダーでいることは人並みの暮らしを捨てることでもある。物語の最後で、八十と昆は刑務所に収監されてしまうし、華じいさんと華ばあさんは、束の間の定住生活を棄て、以前のように「さすらう者たち」の仲間入りをすることになる。自分の欲望に忠実に生きたため、結果的には妹に家と親兄弟をなくすことになる妮妮もまたその旅に同行する。

「さすらう者たち」とは、狭義には彼らを指すのだろうが、広い意味で考えれば、揺れ動く国家の教義に右往左往させられる民衆全般を指すもののようにも思われる。それは知識人階級であるか、一般大衆であるかどうかを問わない。前者は意識的かつ主体的にさまよい、後者は何の意識もなく客体としてさまよう。どこに差異があろう。

イーユン・リー、初めての長篇小説である本書は、ウィリアム・トレヴァーゆずりの短篇小説の名手というリーの評価を改めさせるに足る完成度だ。リーのストーリー・テラーぶりが遺憾なく発揮され、陰惨なストーリーが、中国の一地方都市の風物や伝統的な文化と綯い交ぜになって、陰影に富む物語となっている。
by abraxasm | 2016-06-04 14:21 | 書評

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