e0110713_15482713.jpg原題は「黒い管理職」という肝心の中身をバラしかねない題だ。邦題の方は、まさにピエール・ルメートルといったタイトル。しかし、カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの持つ嗜虐趣味と謎解きの妙味はない。仕事にあぶれた中年男が持てる力を振り絞って、地位と金を手にしようと必死にあがく姿をサスペンスフルに描いたクライム・ストーリーである。

五十七歳のアランは目下失業四年目。僅かな金のために働く仕事先で、足蹴にされたことに腹を立て、上司に頭突きを食らわせる。それで失職し、訴訟を起こされる。二進も三進もいかなくなったアランのところに、応募していた大手の人材コンサルタント会社から書類審査に通ったという手紙が来る。キツネにつままれたような気持ちで筆記試験を受けると、これも合格。面接試験を受けることに。ところが、最終的に四人にしぼられた候補者の中から一人を選ぶ試験というのが問題だった。

そのコンサルタント会社では、ある大企業の大規模な人員整理を担当する人材を探していた。最終的に絞った五人の候補者の中から一人を選ばなければならない。大規模な人員整理となれば反対運動がおこるのは目に見えており、それに動じることなく冷静に判断を下せる者を見極めるには通常の試験では難しい。コンサルタント会社の考えたのはとんでもない方法だった。

試験と称して候補者を一室に集め、そこをゲリラに急襲させる、というものだ。もちろん犯人グループは偽物で、武器その他も実弾は入っていない。しかし、事実を聞かされていない候補者たちはパニックに陥るに決まっている。そういう場面でも冷静に判断を下せる人材は誰か、を見極める試験官を別室に潜むアランたちにやれというわけだ。候補者たちに候補者を選ばせるという一石二鳥の名案だった。事件が起きるまでは。

小説はアランの視点で面接までの経過を記す「そのまえ」。「人質拘束ロールプレイング」のオーガナイザー、ダヴィッド・フォンタナの視点で事件の経緯を記す「そのとき」。そして、またアランの視点で事件のその後の出来事を描く「そのあと」の三部で構成されている。これが実にうまくできていて、この小説の鍵を握っている。

アランには美しい妻と二人の娘がいる。姉のマチルドは銀行家と結婚し、妹のリュシーは弁護士だ。幸せを絵に描いたような生活は、アランの失職で一気に瓦解する。妻の働きのせいで、なんとか暮らしてはいけるものの、着古したカーディガン姿の妻を見るたびに、自分の力のなさが思いやられ、アランは娘たちにも引け目を感じている。フランスの話だが、日本に置き換えても何の不都合もない、身につまされる境遇に主人公は置かれている。

ついこの前までは同じ位置にいた者に足蹴にされたら、誰だってプライドが傷つく。ましてや五十代のアランはまわりからおやじ扱いを受ける身だ。ふだんはキレたりしないが、再就職の口が見つからずイライラしていたところでもあり、つい暴力をふるってしまう。最初に暴力に訴えたのは相手だが、その上司は目撃者を買収することで裁判を有利に進めようとする。買収されたのは金に困っていた同僚で、証言を変えるはずもなかった。

アランとしては、コンサルタント会社の面接に合格するしか道はなかった。まずは、その大手企業と匿名の候補者について知ることから始めねばならなかった。探偵会社を雇い、調べさせることはできるが、それには金がいる。娘の夫に借金を申し込むが断られ、娘を説き伏せ、新居のために積み立てた資金を取り崩させて探偵社に払う。もう一つ、人質拘束事件について実際に知っている人に話を聞きたいとネットに投降した。これにも元警察官のカミンスキーから連絡があり、彼の指導で練習を積み準備はできた。

だが、作者はピエール・ルメートルだ。そうやすやすと話は通らない。コンサルタント会社に勤める女からアランに電話がある。会ってみると、面接は見せかけで、採用者はすでに決まっている。アランはただの当て馬だという。この試験のために娘の新居の資金をふいにした。これが駄目なら裁判に勝てる見込みはない。自暴自棄に陥ったアランはカミンスキーから拳銃を手に入れ、試験会場であるコンサルタント会社に出向く。

見せかけの「人質拘束ロールプレイング」が途中から本物に変わる。コンサルタント会社の担当者も、オーガナイザーのフォンタナも、事態の急変を予期できなかった。「そのとき」で、事件の実況を受け持つフォンタナは傭兵経験を持つ百戦錬磨のつわものだ。その男の目に映るアランの姿は単に試験のために緊張しているにしては異様だった。その男はアタッシュケースからやおら拳銃を取り出すとその場を仕切りはじめるのだった。

怒りに任せての復讐劇かと思わせておいて、「そのあと」で描かれる事件の顛末がいちばんの読みどころ。まるで映画のような見せ場がいっぱいだ。拘置所内でアランを襲う恐怖。娘リュシーの弁護のもとに行われる裁判劇。本業である自分が一杯食わされたことに腹を立てるフォンタナとアランの手に汗握る駆け引き。息もつかせないカー・チェイス。初めはもったりとしたテンポではじまった話がハイ・スピードで走り出す。

話自体には、それほどの新味はない。ただ、アランを助ける友人その他のキャラが立っていて、くたびれた中年オヤジにしか見えなかったアランも、ひとつ場数を踏むたびに逞しくなり、勘は冴えわたり、巨悪を相手に一歩も退かないところが、だんだん頼もしく目に映るようになってくる。家族を愛する男はこうまで強くなれるものか。結末は万々歳とはいかない。いろいろと無理がたたって、ほろ苦い後味を残す。しかし、一皮むけたアランの明日にはかすかな灯りがほの見えてもいる。

カミーユものとは一味ちがう、ピエール・ルメートルの小説家としての多面的な才能がうかがえる作品である。はじめは、さえない中年男の話かと少々だれ気味に感じられていたものが、ギアが切り変わるたびに加速されるような感じで、一気に加速すると、あとは一気呵成だ。息つく暇もなく読み終えてしまった。


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# by abraxasm | 2018-10-04 15:48 | 書評
e0110713_01205091.jpg「犬」「物語」「虚栄」「ひとりの女が歳をとると」「老女と猫たち」「嘘」「ガラス張りの食肉処理場」の八編からなる、モラルについての短篇集。はじめの二篇を除く六篇は、一人の年老いた老作家エリザベス・コステロをめぐる、ある一家の物語。時間の推移通りに配された連作短篇として読むこともできる。エリザベス・コステロは、クッツェーの同名の小説の主人公で、クッツェーのアルター・エゴといえる。

仕事の往き帰りにその家の前を通るたび猛犬に威嚇される。雄犬は「彼女」が体から発する匂いか何かで自分を恐れていることを知覚し過剰に反応するらしい。それは怒りであり、情欲でもあると「彼女」は考える。雄犬は強い獣として弱者を威嚇すると同時に、雄として雌を征服する喜びを二重に感じているのだろうか。

屈辱的な恐怖感を自分で制御できない「彼女」は、人間が堕落していることの証明は自らの身体の運動(勃起)を制御できないことだ、というアウグスティヌスの言葉を思い出す。犬と関係性を作ろうとして飼い主に話をするが相手にされない。キレた「彼女」が「人間の」言葉で犬を罵るところで話は唐突に終わる。「犬」には、性、動物と人間、暴力、といった本書の主要なテーマが鏤められ、序章の役目を果たしている。

「物語」のテーマは不倫。夫に内緒で別の男との情交を楽しんでいる「彼女」には疚しさというものがまったくない。夫を愛しているが、夫のいない時間はただの自由な自分に戻るだけのことだ。保守的な「彼女」は、いつかこの関係が終わったら、結婚している女に戻ることも知っている。「彼女」はモラルに反しているのか。モラルをストレートに問う一篇。

エリザベス・コステロと、その家族を扱う連作短篇が読ませる。エリザベス・コステロは、オーストラリア出身で、六十歳をこえた今でもポレミックな姿勢を崩さない。簡単には人の意見に同調することのない、この老作家と息子たちの対話が実に愉しい。中心となる話題は、老いつつある作家の一人暮らしだ。心配する二人の子の思いは分かるものの、自分の人生は自分の思うように生きたい老人のこだわりはいつもすれちがう。

「虚栄」では家族が六十五歳の誕生日を祝うために母親のアパートに集まる。その前に現れた母親は髪をブロンドに染めてドレスアップしていた。家族は驚くが、母親は「ずっとこのままってことではないの」「この人生でもう一度か二度、ひとりの女が見つめられるように見つめられたい」と言う。しかし、帰りの車では、あのまま放っておくと義母は傷つくにちがいない。自分をコントロールできていない、とジョンの妻ノーマは言う。

実の息子と娘は、母親のすることに驚きはしても批判はしない。批判してやめる母親ではない。ノーマもそれは知っているから、その場では口をはさまない。もともと現実離れした世界で生きてきた人なのだ。「若いときは問題がなかった。でもいまはその現実離れが(略)彼女に追いつきはじめた」とノーマは言う。微妙なのは、あのまま放置しておいて、義母が傷ついた時「その責任が私たちに降りかかってくる」というところだろう。

「ひとりの女が歳をとると」では、ヘレンがギャラリーを運営するニースに母がやってくる。同じ頃、アメリカにいるジョンも渡仏する。母親は、これには企みがあると考える。案の定、二人は同居を提案する。ニースでもアメリカでもいい。どちらかを選んだらいい、と。もちろん、母親は同意しない。まだまだ一人でやっていける、と。母と娘、母と息子それぞれの間で交わされる会話がいい。作家の脳内対話なのだが、実に生き生きしている。

子どもたちは母を心配し、同居を考え、それを拒否されると、施設への入居を勧める。放っておくと母親の頭と体はどんどん衰え、最悪の場合、孤独死だ。それを止めるのが子どもの義務だと考えている。が、ジョンとヘレンにとってはそれだけではない。本当に心配なのだ。同居も施設も最良のものを準備しての提案である。第三者的にはこれ以上ないような提案に思える。

一方、親は遠くで誰の世話にもならず、死にたいと思っている。思いやりは迷惑とまではいわないが、子どもに要らない心配をかけたくない。それに、死ぬまでの間にはやりたいことや考えたいことがまだまだある。子どもとの同居や施設への入所は、その邪魔になるだけだ。体や頭の自由がきく間はそれでいけるだろう。だが衰えは知らぬ間に進んでいる。

「老女と猫たち」では、母親はスペインの田舎に隠遁している。そこへジョンが訪ねてくる。母の家には露出癖のあるパブロという男が同居している。施設に収容されるところを母が保護を名乗り出たのだ。それに十数匹の猫も。村を出た人々が飼っていた猫を捨て、野良猫となった。村人は野良猫を見つけると撃つか罠で捕らえて溺死させる。それで母が保護している。当然、村人は面白くない。母親は村で孤立している。

人と動物について、選択と行動等々、哲学的ともいえる会話が母と子の間で交わされる。老いた母は議論で相手を言い負かせたい訳ではない。ただ最後まで自分の生き方を通したいだけなのだ。猫を保護するのは「数が多すぎるという理由で、母親から引き離されて溺死させるような世界に私は生きていたくない」からだ。人間だったらどうなのかという問いがそこにはある。結局ジョンは母を説得できない。

「老女と猫たち」の内幕をジョンの視点で語るのが「嘘」。ジョンは母が転倒したことを知り、慌てて飛んできたのだ。足腰の弱った母に施設への入所を提案する息子に「本当の真実」を言えと母親は迫るが、息子の口からは言えない。妻になら言える。それで手紙を書く。異国の寒村で痴呆の男に看取られて死ぬかもしれない母親に寄せる息子の切々とした心情が綴られる。親を施設に入れた身として、今はジョンに肩入れして読んでしまうが、そのうち立場が入れ替わるのも承知だ。身につまされる。

「ガラス張りの食肉処理場」では、いよいよ知力が衰えてきた老作家は息子を頼る。自分のことではない。人間が他の動物を食べるという問題について、考えるための施設を作れないか、という電話だ。それからいくつもの断片的な文書が送られてくる。人間と動物について書かれた本の書評やら、書きかけの作品。中にはダニを馬鹿にするハイデガーが弟子のハンナ・アーレントに対してはダニと同じことをしている、と揶揄する文章まである。もう自分では、まとめることができなくなっていることを自覚して息子に後を託しているのだ。

明晰で直截的。紛らわしいところや仄めかしを残さない。辛辣さをユーモアで塗したエリザベス・コステロの断簡は、勿論クッツェー自身の手になるもの。大きめの活字でゆったり組まれた組版は、老眼に優しいが、書かれている中身は決して優しくない。しかし、エリザベス・コステロとジョンの思弁的な対話には思わず引き込まれる魅力があり、ナイーヴなテーマを恐れず追究する態度は感動的である。傍らに置いて何度でも読み返し、余白に書き込みを入れたくなる、そんな一冊。未読の『エリザベス・コステロ』も読んでみたくなった。


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# by abraxasm | 2018-09-23 01:21
e0110713_04462007.jpg『ポリフィルス狂恋夢』という絵入り本の話を初めて読んだのは澁澤龍彦の『胡桃の中の世界』だった。サルバドール・ダリの絵の中に登場する、飴細工を引き延ばしたように細長い足を持ち、背中にオベリスクを背負って宙を歩く象のイメージも、この本の中に収められている一葉の木版画に基づいていると紹介されていた。

作中『ポリフィロの狂恋夢』という書名で語られる面妖な本はフランチェスコ・コロンナ作と伝えられるが、実作者の名は明らかではない。しかし、出版した人物は奥付により明らかにされている。ヴェネツィアの出版人アルド・マヌツィオその人である。澁澤の本にもアルドゥス・マヌティウスの名で登場している、商業印刷の父とも称される十五世紀イタリアの出版人である。

タイトルからも分かるように、この小説は、そのアルド・マヌツィオが、ヴェネツィアを初めて訪れたその日から、愛する妻に看取られて死を迎えるまでの波乱に満ちた半生を、黒死病の蔓延する水の都ヴェネツィアを舞台に、ピコ・デラ・ミランドラやエラスムスといったルネサンスを生きた人文哲学者との交友をからめて、華麗に描き上げた歴史小説といえる。また、その影響力、伝播力を恐れて教会権力が出版を認めない当時の発禁本を秘密裡に印刷、出版しようと苦闘する出版人の努力を描くものともいえる。

何よりも興味深いのは、当時のイタリアの出版事情をその当事者の目から描いていることだ。当時の本は重くて大きく、台の上に置いて読むものだった。それを誰もが片手で持ち運べるポケットサイズの八折り版でギリシア古典を出版したのがアルドだった。その組版や活字には、熟練の活字工フランチェスコ・グリッフォの存在があった。イタリック(斜字体)の活字を考案したのも、この活字父型彫刻師の存在に負うところが大きい。

注釈なしのギリシア語で古典文学を出版するのは、ラテン語に訳されたアリストテレスを読んでいた当時としては大胆な試みだった。しかし、ドージェの息子やピオ王子の家庭教師をしていたアルドには、学生にとっては手軽に持ち歩けるギリシア語の古典文学全集の必要性が分かっていた。資本も印刷所も持たないアルドはヴェネツィアで手広く出版業を商っていたアンドレア・トッレザーニに協力を仰ぎながら、出版人への道を歩きはじめる。

ギリシア語の文学書を出し続けながら、アルドが秘かに出版を考えていたものがある。それはフィレンツェで同じ師匠に学んでいた学友のピコ・デラ・ミランドラに託された二冊の本の出版である。それが前述の『ポリフィロの狂恋夢』であり、もう一つがエピクロス作『愛について』である。この本では『ポリフィロの狂恋夢』の作者はピコ・デラ・ミランドラその人という大胆な設定がされており、エピクロスの本については、驚異的な記憶力を誇るピコが全篇を記憶したものを写本にしたという設定である。

『ポリフィロの狂恋夢』が、実際に出版された書物としてアルド・マヌティオの名を高めたタイポグラフィ史上の傑作であるのに対して、エピクロスの書物については詳しいことは残されていない。エピキュリアン(快楽主義)という名のもとになったことから、誤解されがちだが、快楽というのは肉体的快楽ばかりを意味するのではなく、むしろ精神的な快楽を意味するものであったとされているが、作中ではかなり性的な快楽の書であるという理解の上に位置付けられている。

それ故に。キリスト教との対立が生まれ、サヴォナローラの命を受け、異端の書を闇に葬るために暗躍する写本追跡人が、アルドが秘かに隠し持つピコの写本に目をつけ、執拗にそれを奪取し、火の中にくべようとアルドを追い回す。カトリック教徒であるアンドレアもまた、教会側の意を汲み、アルドの目論見を阻止しようと、折につけ出版の邪魔をする。一方で、自分の事業にとってアルドの見識を誰よりも必要とするのがアンドレア。それ故、自分の愛娘マリアを年の離れたアルドの妻として結婚させる。

ユダヤの血を引きながら、ユダヤ教にもキリスト教にも帰依しないアルドは、それでいながら女性との間には距離を置き、仕事ひとすじの人生を送ってきた。歳を経ての結婚には二の足を踏み、何とかマリアとの結婚を回避しようとするが、アンドレアの策謀によって結婚式は挙行される。初夜の床に就くのを拒否するアルドに対してマリアのとった行動が大胆で、その後のマリアの生き方に真っ直ぐつながっている。

学識はあるのだろうが、優柔不断で行動力の伴わないアルドに対し、ギリシア語も解し、印刷出版業についても熟知しているマリアという女性の魅力が際立つように描かれる。アルドの息子パオロは、父の偉業を後世に伝えるために伝記を書こうとして、若くして死に別れた父の真の姿をマリアに尋ねようとするが、母はそれに対して口を濁す。序章に記されたその事実が、後のアルドの実人生の持つ深い意味を物語る。

アルドの偉業を支えたのは、単にグリッフォだけでなく、妻であるマリアの存在が大きかったのだ。パオロには聞かせなかったヴェネツィアの出版人アルド・マヌティオの真の物語をその妻のマリアの記憶が語ったのが、この『ヴェネツィアの出版人』という物語。歴史的事実に作家の大胆な想像力が生み出した、ルネサンスを生きたであろう人々の破天荒な生き方を絶妙の筆加減で配したビブリオテカ・ロマンとでも名付けられそうな異色の小説。本好きな読者にこそおすすめしたい。



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# by abraxasm | 2018-09-21 04:46 | 書評
e0110713_16515253.jpgただ「怪談」と聞くと川端の枝垂れ柳や、枯れ薄の叢の中の古沼、裏寂れた夜道といった妙に背筋が寒くなる風景を思い描いてしまいそうになる。それが、前に「英国」という二文字が着くと、急に座り心地のいい椅子や、炉端に火が用意された落ち着いた部屋のことを考える。別にどこでもよさそうなものだが、「英国怪談」を読むには、いかにも彼の地の幽霊が出てくるにふさわしい環境が用意されていなければいけないような気がするのだ。

紺地に赤と金で唐草文様を配した豪奢な装丁の本である。厚さだけでも相当なものだが、持ち重りする大冊である。寝転がって読むというわけにはいかない。手持ちの書見台に置いて読もうとしたが、想定される厚さを越えているためページ押さえが使えず使用不可となった。机の上に直に置くと読むために首を傾けなくてはならず、長時間続けば首が痛くなる。仕方がないのでオットマンに足を載せ、腿の上あたりを支えに、革のブックカバーを被せて両手で持ちながら読んだ。

有名無名の作家二十六人からなる三十二篇のアンソロジー。アルジャノン・ブラックウッドやら、アーサー・マッケン、ウォルター・デラメーアといった名の売れた作家の他にもホーレス・ウォルポールの息子のヒュー・ウォルポールや、H・G・ウェルズ、最近立派な本が出たフィオナ・マクラウド、それにエリザベス・ボウエンのような作家も含めた多彩な顔触れである。短篇、それもかなり短いものも多いので、一日に少しずつ読む愉しさがある。

英国怪談は、大半が幽霊譚である。古く由緒のある建築が都市にも田舎にも残っていて、またそういう古いものを悦ぶ気質がある。またどの家の箪笥の中にも骸骨が仕舞われている、という意味の諺もあるくらいだから、人が何人か集まれば、その類の噂話に事欠かない。また、好んでそういう話を聞きたがる人種もいる。そんな訳で、語り手が誰それから聞いた話を、その座にいる人々に語って聞かせるというスタイルの話が圧倒的に多い。

よく、犬は人につき、猫は家につくと言われるが、日本の幽霊は害をなした人に祟ることが多く、英国の幽霊は事の起きた場所に居つくことが多いように思う。無論、例外もある。この本にも殺した人の前に現れる幽霊の話も出てくるが、あまり陰惨にならないのはお国柄か。柵に腰かけた幽霊やらピアノを弾きまくる陽気な道化の幽霊やらが登場する。

すべては紹介できないので、いくつか紹介しよう。ストーク・ニューウィントンにあるというキャノンズ・パークの不思議を語るアーサー・マッケンの「N」は、ロンドンという大都会の中に迷い込んでいく経験のできる作品。普通の通りなのに、その窓から眺めるとまるでこの世のものとも思えない美しい風景が見える、しかし、二度と目にすることがかなわない、という話。何人もが経験した不思議の秘密を考える謎解きの興味も付されている。日常の中に怪異を見つけるのが得意なマッケンらしい一篇。

自家用車を駆って、低地地方を訪れた旅人が石造りの古めかしい館で遊ぶ子どもを見かけ、主人らしい目の不自由な婦人と懇意になり、何度かその館を訪れるようになる。『ジャングル・ブック』で有名なラドヤード・キップリングの「彼等」。子どもを産んだことのない女性が、自分は声しか聞こえないのにあなたは見ることができて幸せだ、と旅人にいうのだが、実はその館に集まってくるのは、とうに死んだ子たちなのだ。彼女が子どもを愛するから集まってくるという。怖さの欠片もない、子を思う愛しさに満たされた怪談である。

集中最も怖かったのが、H・R・ウェイクフィールドの「紅い別荘」。休暇を過ごすため田舎の一軒家を借りた家族が出遭うことになる怪異譚。アン女王様式の家は立派で庭園もついており、木戸から川にも出ることができた。ところが、着くやいなや胸騒ぎを覚える。先に到着していた息子は川遊びを嫌がるし、妻も加減が悪そうだった。そのうちに次から次へと異様なものを目にするようになる。昔のことを知る人に話を聞くと、とんでもない曰くつきの物件だった。次第に高まってゆく恐怖が、怪談の妙味。

掉尾を飾る「名誉の幽霊」が先に紹介した道化の幽霊がピアノを弾きながら卑猥な歌を歌うという落とし噺風の一篇。客を迎えた夫婦が、自分の家に幽霊が出ることを隠しもせず、むしろ面白がるだろうと考えて、いろいろ幽霊のことを紹介するのが面白い。客も今さら怖いとも言えず、幽霊が生ける人間には顔を見せない、という一言に救われてその家に泊まる。ところが、夜半に現れた幽霊は何のことはない顔を平気で見せる。約束が違うと文句を言う客に幽霊が語る理由がオチになっている。

少し値は張るが、書架に愛蔵するにふさわしい、近頃珍しい函入り上製本である。作家によって文体を変えて訳されているのも嬉しい。南條竹則氏編訳。以前に文庫などで出された作品を改めて纏めたものだが、訳し下ろしも七篇入っている。そのどれもが読み応えのある作品ばかり。これらを読むだけでも手にとる価値があると思う。


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# by abraxasm | 2018-09-14 16:52 | 書評
e0110713_18041746.jpg家の外にある便所でローザがビニール袋に自分の大便を落とす。ローザは袋の口を閉じて廊下の冷凍庫にそれをしまう。スカトロジー? いや違う。これには訳がある。ローザの夫は従弟の妻ジョアナと浮気をしているという噂がある。ローザは溜めておいた自分の大便を缶に集めて水で溶き、それを籠に入れるとジョアナが店を広げているところに行き、籠の缶に手を突っこむとその顔にどろどろの大便をぶっかける。驚いている顔にもう一度。その後はつかみ合いの喧嘩。二人とも留置場に入れられる。糞便で汚れたまま、壁の両端に離れて。

こんなすごい復讐劇、初めて読んだ。文字通り「糞喰らえ」ってやつだ。しかし、陰惨さがかけらもない。村の産婆に呪いをかける方法を教えてもらうが、呪いをかけられるのは夫の陽物だ。死人も出ない。二人とも髪は引きちぎられたが、それだけだ。見物客も臭かっただろうが、堪能したに違いない。しかも後日談がある。二人の女はその後、夫が仕事に出たすきを見つけて脚をからめあう仲になったというのだから、畏れ入るではないか。

こんなエピソードが次から次へと繰り出される、不思議な小説である。マジック・リアリズムめいてはいるが、雨は何年も降り続かない。せいぜい一週間だ。人が空を飛ぶが、オートバイ事故だ。一九八四年というから、さほど昔の話ではない。ロス五輪が開催された年である。それなのに、ここポルトガルの寒村では、電気の引かれていない家があり、欲しいものは、と聞かれた娘は「テレビ」と答えている。

ガルヴェイアスに「名のない物」が空から降ってくる。落ちた場所には、直径十二メートルの穴が開き、「名のない物」からは強い硫黄臭がする。それから七日七晩、強い雨が降り続くと、犬たちをのぞいて人々はそのことを忘れてしまう。しかし、その日から、村には硫黄臭が絶えず漂い続け、小麦の味を変え、パンを不味くしてしまう。ガルヴェイアスのあるアレンテージョ地方は穀倉地帯で、ポルトガルでは「パンのバスケット」と呼ばれている。呪いがかかったようなものだ。

主人公という特権的な立場に立つ者はいない。章がかわるたびに、一つの家なり、人なりに照明が当たり、その秘密や隠し事、他の家との確執、兄弟間の裏切り、復讐、喧嘩、和解といった出来事が語られる。面白いのは、あるエピソードにちょっと顔を出すだけの人や物が、別のエピソードの中では重要な役割を果たすという仕掛けを使っていることだ。

たとえば、ウサギ。冒頭で紹介したローザの息子が銃で撃ってきたウサギを五羽持ち帰る。ローザはそれを他所への届け物に使うのだが、亭主は四軒の届け先には納得がいくが、残りの一軒になぜウサギをやるのかが分からない。実はそのアデリナ・タマンコが、亭主の一物に呪いをかけるやり方を伝授してくれたのだ。話が進んだところで、ああ、あれはそういうことだったか、と納得する仕組み。つまりは伏線の回収なのだが、これが実に巧みでうならされる。

ウサギだけではない。オートバイ、銃、金の鎖といった小道具が、人の因果を操る呪物のように重要な役割を要所要所で果たす。それは人と人とをつなぐとともに、災いのたねともなる。たとえばウサギ狩りにも使われているオートバイは、村の若者が町に出かけるための必須アイテムだ。カタリノは路上レースで負けを知らず、ついには彼女をものにする。しかし、そのカタリノが兄とも慕うオートバイ修理工は、新婚の身で事故に遭ってしまう。

小さな村のことで、人々は互いをよく知っている。それでいながら、隠すべきことはしっかり隠している。そしてまた隠していても誰かには見られてもいる。「名のない物」が落ちたのを契機にして、箍が外れたようにそれが露わになる。中でも多いのは性に関わることだ。ブラジルから来たイザベラはパンを焼くのが本業だが、店は風俗店も兼ねている。若い妻を家に置き去りにしてカタリノはイザベラの店に通う。

イザベラがポルトガルに来たのはファティマかあさんの最後の頼みを聞いてやったからだ。ポルトガル生まれの老売春婦は、生まれ故郷に埋葬してほしいとイザベラに頼んで死んだ。棺桶と一緒に船に乗ってイザベラはガルヴェイアスにやってきた。そしてかあさんの家を継ぐことになった。そんなある晩、イザベラは村の医者マタ・フィゲイロの息子ペドロと車で夜のドライブに出た。

セニョール・ジョゼ・コルダトは、親子ほども年の離れた使用人のジュリアに焦がれ、自分の横で眠ってくれと懇願する。ジュリアには二十五にもなって遊び歩いているフネストという息子がいる。ジュリアのためを思ってセニョール・コルダトは懇意にしているマタ・フィゲイロ先生に仕事を紹介してもらう。収穫したコルク樹皮の見張り番だ。フネストは夜中にやってきた車に向かって威嚇射撃を行うが、朝になって警察に捕まる。撃たれたのはイザベラだった。

よかれと思ってしたことが、人を不幸にしもするが、逆に殺そうとまで恨んだ思いが和解を育むこともある。小さな村の錯綜した人間模様が複雑に絡みあい、一九八四年のガルヴェイアスに襲いかかる。「名のない物」の落下に始まる黙示録的な啓示は、どう果たされるのか。詩人で紀行文も書くという作家はシンプルで読みやすい文章で、ガルヴェイアスの住人の素朴な魂を紡ぎ出す。作家の故郷でもあるガルヴェイアスに行ってみたくなった。

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# by abraxasm | 2018-08-25 18:04 | 書評

『文字渦』円城塔

e0110713_13394702.jpg中島敦に『文字禍』という短篇がある。よくもまあ同名の小説を出すものだ、とあきれていたが、よく見てみると偏が違っていた。『文字禍』は紀元前七世紀アッシリアのニネヴェで文字の霊の有無を研究する老博士ナブ・アヘ・エリバの話だ。同じ名の博士が本作にも登場するところから見て、連作短編集『文字渦』は中島の短篇にインスパイアされたものと考えられる。

『文字渦』の舞台は主に日本と唐土。時代は秦の時代から近未来にまで及ぶ。ブッキッシュな作風で、渉猟した資料から得た知識を披瀝する衒学趣味は嫌いではないが、近頃これだけ読めない字の並んだ本に出会ったことがない。康煕字典でも手もとに置いていちいち繙くのが本当だろうが、それも大変だ。とはいえ、文字が主題なので、それがなくては話にならない。一冊の本にするには、関係者の苦労は並大抵のことではなかったと推察される。ただし、外国語にはほとんど翻訳不可能だろう。

始皇帝の兵馬俑発掘の際、同時に発見された竹簡に記された文字の謎解きを描いたのが表題作の「文字渦」。粘土で人形を作ることしかできない男が、俑造りのために召しだされる。腕を見込まれて始皇帝その人をモデルに俑を作ることになるが、その印象が日によって変わるのでなかなか捗らない。兵馬俑の成立過程とその狙いを語りつつ、物と直接結びついていた字が、符牒としての働きを持つ実用的な文字へと変化してゆく過程を描き出す。

阿語という稀少言語を探しながら各地を歩いていた「わたし」はあるところで「闘蟋」ならぬ「闘字」というものに出会う。「闘蟋」とは映画『ラスト・エンペラー』で幼い溥儀が籠の中に飼っていたあの蟋蟀を戦わせる遊びである。「闘字」は、それに倣い、向い合った二人が互いに硯に字を書いて、その優劣を競う。ヘブライ文字で書かれたゴーレムの呪文を漢字に書き換える論理のアクロバットが痛快無比の一篇「闘字」。

個人的には、「梅枝」に出てくる自動書記の「みのり」ちゃんがお気に入り。いくつものプーリーやらベルトで出来たガントリー・クレーンを小さくしたような形の機械ながら、『源氏物語』の紫の上の死を書き写す際、のめり込み過ぎて他の書体では書けなくなってしまうほど神経の細やかなオートマタなのだ。ニューラル・ネットワークによって学習する「みのり」は話者である「わたし」の一つ先輩である境部さんの自作。境部さんはアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』を自分で訳し直したものを「みのり」を使って絵巻に仕立てている。本は自分で作るものだというのだ。

この時代、紙は「帋」と呼ばれるフレキシブルディスプレイと化している。境部さんは言う。「表示される文字をいくらリアルタイムに変化させても、レイアウトを動的に生成しても、ここにある文字は死体みたいなものだ。せいぜいゾンビ文字ってところにすぎない。魂なしに動く物。文字のふりをした文字。文字の抜け殻だ」「昔、文字は本当に生きていたのじゃないかと思わないかい」と。

この境部さんのいう文字に魂があった時代、もう一人の境部が遣唐使として、唐の国に渡っている。白村江の戦いに敗れ、唐の侵攻を食い止めるための外交交渉の副使としての任務がある。高宗の封禅の儀式に立ち会い、皇后武則天の威光を知った境部石積は、一計を案じる。外交の窓口となる役人に二つの願いを出す。ひとつは函谷関を越え西域に旅をする許可。もう一つは、武則天の徳を讃えるために新しい文字を作ること、である。前者は日本がカリフの国と手を組んで唐を挟み撃ちにすることを意味している。

そんなことが許されるはずがないので、これは単なる脅しにすぎない。ではもう一つの方にはどんな意味があるのか。「石積は思う。もしもこの十二年、自分の考え続けてきた文字の力が本当に存在するのなら、皇后の名の下に勝手な文字をつけ加えられた既存の漢字たちは、秩序を乱されたことを怒り、反乱を企てるだろう。楷書によって完成に近づいた文字の帝国に小さな穴が空くだろう」と。

中島敦の『文字禍』に登場するナブ・アヘ・エリバの名が出てくるのが、この「新字」。老博士は文字の霊の怒りにふれ、石板に下敷きになって死ぬが、石積はその文字の力を信じ、一大帝国に揺さぶりをかけようとしているのだ。もし西域への旅が許されたら、同盟国を探すつもりだが、その頃日本は唐に攻め滅ぼされているかもしれない。それなら、新しい土地で新しい言葉で日本の歴史を記せばいい。それも「国を永らえる一つの道なのではないか。文字を書くとは、国を建てることである」と石積は考えている。

収められた十二篇の短篇の中には、横溝正史の『犬神家の一族』をパロディ仕立てにした「幻字」もあり、SF、ミステリ、歴史小説、王朝物語とジャンルの枠を軽々と越えて見せる変幻自在ぶりに圧倒されて、ついつい見逃しがちになるのだが、全篇を貫くのは「文字の力」という主題である。公文書の改竄や、首相、副首相の無残な識字力が世界中に知れ渡ってしまった今のこの国において、文字の魂、文字の力を標榜することは大いに意義深いものがあるといえるのではないだろうか。

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# by abraxasm | 2018-08-21 13:39 | 書評
e0110713_17073972.jpg帯の惹句に「半自伝的実験小説」だとか「私小説にしてメタメタフィクション!」だとかいう文句が躍っているが、スランプに陥った小説家が何とかしてページ数をかせぐための苦肉の策じゃないか。しかも、ネタは自分の旧作からの引き写しだし。これが新作だったらかなりの批判が予想されるが、原作が刊行されたのが一九七〇年であることを考えると帯の惹句も満更、盛り過ぎというわけでもない。

エドはけっこうなハイペースで、ここまでは書いて来た。しかし、締め切りが近いのに突然書けなくなってしまう。スランプだ。しかし、エドにはスランプなどという言い訳は使えない。エドはゴースト・ライターなのだ。書けなければ代わりはいくらでもいる。妻子のいる今、実入りのいい仕事を失うわけにはいかない。

この仕事は大学時代のルーム・メイトのロンからの話だ。ロンはポルノに嫌気がさして、スパイ小説を書きはじめたら、これが売れて映画化もされた。この路線で行きたいが、ポルノの需要は絶えずあり、出版社としては人気作家の作品がほしい。そこで、大学時代の同期で売れていないエドにゴースト・ライターにならないか、と持ちかけたわけだ。

タイプライターに用紙を挟み、いざ書こうとするのだが、何も出てこない。スランプを克服するいい方法は、何でもいいから書くことだ。そのうちに調子が戻ってくる。そう聞いたので、エドはとにかく書き出すのだが、タイプ用紙に打ち出されるのはエドの現在の心境やら、ポルノ小説のセオリーやら、最近うまくいっていない妻ベッツィーとの関係といったポルノ小説とは関係のないことばかり。

この小説には上と下に二つのノンブルが打たれている。タイプ用紙二十五枚が完成原稿二十五ページに相当する。一章が二十五枚で十章書けば完成だ。しかし、二十五枚書けたところで原稿を破り捨て、はじめからやり直したりするから、下に打たれているこの小説のページ数は増えていくのに、上に打たれたノンブルはいっこうに数が増えていかない、という面白い仕掛け。いや、面白いのは読者にとってであって、主人公にとっては厄介のたねだ。

そんなこんなで七転八倒の挙句、どうにか第一章は書き上げるのだが、そのネタというのが、エド自身と妻ベッツィーをモデルにした身辺小説。実はエド、ポルノ小説は書いていても、妻以外の女性とセックスしたことがない。しかし、その分、頭ではいろいろ妄想している。一応作家なので妄想したことは書いて残している。ベビーシッターの十七歳のアンジーとのことも。実名なので日記みたいなものだ。しかし、すべては妄想であり、真実ではない。

ところが、エドの留守中にベッツィーがそれを読み、エドの帰りも待たずに子どもを連れて実家に帰ってしまう。実家には恐ろしい義兄二人がいて、話を聞いてエドの家に押しかけてくる。エドは這う這うの体で家を逃げ出し、ロンの部屋で原稿の続きを書く破目に。しかし、第二章が書けない。ポルノ小説でよく使う手に、章ごとに夫と妻の視点が入れ替わる、というのがある。それで行くと第二章はベッツィーが他の男とセックスをする番だ。今の状態でとてものことにそれは想像すらしたくない。

そこで、第二章を飛ばして第三章を書きはじめることにする。別の男女を次々とリレー式に登場させるロンド形式で行くわけだ。しかし、エドの家に探りを入れに行ったロンからの電話では、兄弟がこちらに向かっているらしい。慌ててロンの家を出たエドにはタイプがない。エドは百貨店のタイプ売り場で試し打ちをする客を装い、原稿の続きを書く。しかし、店員に見咎められ別の百貨店へ。

いつの間にか、エドが書いている話より、エドが置かれている状況の深刻さの方が数倍も興味深くなってきている。未成年のアンジーとのセックスは、ただの妄想なのだが、エド以外の人間にとっては犯罪である。警察がエドを追いかけ出す。追いつめられたエドは逃げ回りながら、タイプライターが使える場所を探しては、原稿の続きを書く。ここらあたりからの展開はジェットコースタームービーを観ているよう。

唯々、決められた枚数のタイプ用紙を埋めるために書き続けること、それが作家というものの至上命題であることが痛いほど伝わってくる。どうやら、元ネタになっているのは、ウェストレイク本人の実生活らしい。「半自伝的実験小説」、「私小説にしてメタメタフィクション!」の看板に偽りはないようだ。多作で知られる「ウェストレイク全作品の中でも大傑作に属する私小説にしてメタメタフィクション!」と若島正氏が絶賛するのも頷ける。

というのも、ネタに困ったエドがついつい持ち出す自身の逸話がいちいち思い当たる。大学に行ったのも、結婚せざるを得ない破目に陥ったのも、そこいらじゅうに転がっている、誰にでもある話だからだ。ゴーストだってライターであることにちがいはない。読者は面白がっているのだ。しかし、書いている本人は知っている。真の作家とそうでない者との差を。妄想日記で窮地に陥るところは、本当に面白い。それでいて、当人の心情を語る部分を読んでいると身につまされる。このギャップが凄い。

キスマークの中に、サイケデリック調(死語?)のレタリングで記されたタイトルといい、表紙の色調といい、七〇年代を知る者には懐かしい限りだが、意気阻喪したホールデン・コールフィールドばりのモノローグで押し通す語り口調に今の読者はついてきてくれるのだろうか。「メタメタフィクション」といえば、そうにちがいはないが、ついてない男の駄目っぷりをユーモラスかつシリアスに描いた、遅れてきた青春小説といいたいような出来映え。ファンは勿論、その実力を知るという意味で、初ウェストレイクという人こそ手にとるべき本かもしれない。

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# by abraxasm | 2018-07-30 17:07 | 書評
e0110713_15521763.jpg三部構成で十八篇、第一部は、地方の町に暮らす市井の人の身辺小説めいた地味めな作品が並ぶ。第二部には一篇だけ外国を舞台にした作品がまじっているが、日本を舞台にしたものは一部とそう大きくは変わらない。ただ、少しずつ物語的な要素が強くなっている。そして第三部になると一気にその気配が強くなり、掉尾を飾る表題作はSF的設定の濃いディストピア小説となっている。

全篇から一つ選ぶなら第一部に入っている「果樹園」だろう。二匹の犬を連れて散歩中の私が出会う景色や人々をスケッチしているだけの作品だが、滋味にあふれ、生きることに対する前向きな姿勢が読む者にじわじわ効いてくる、そんな作品である。事故で頭痛と脚に痺れが残る「私」は、心ならずも実家に帰っている。そんなとき姉がリハビリにいい、とアルバイトを見つけてくる。犬の散歩係だ。

飼い主が足を痛めて散歩ができない。健康が回復するまで犬の散歩をお願いできないか、というチラシにはオクラとレタスという名の二匹の犬の画が添えられていた。委細面談というので、出かけた飼い主の安水夫妻にというより、オクラのことを気遣うレタスに認められたようで「私」は採用される。二匹の個性の異なる犬と散歩するうちに「私」は少しずつ犬と会話ができるようになる。

動物と暮らしている人になら分かってもらえると思うが、毎日いっしょにいると会話ができるようになる(気がする)。人との会話には本心はあまり出さず、当たり障りのないことを話す。動物相手には本音で話す。すると相手も本音でつきあってくれる。本心を偽ることのない会話は心地いい。「私」は安水氏と話すうち、それまで少し距離を置いていた父との関係が修正されていくようになる。

他郷で手がけた仕事がうまくいきかけていた時に思わぬ事故に遭い、実家の厄介になり日を送らざるを得なかった「私」は、頭痛や足に力が入らないこと、自立できないでいることに焦りや蟠りを感じていた。二匹との散歩の途中で出会う人々や安水氏との会話を通して、鬱屈して閉じていた「私」の心と体はゆっくり解きほぐされ、新しい事態を受け入れてゆく心構えのようなものが芽生えてきている。恢復の予感のようなものが仄見える終わり方だ。

二部なら「徳さんのこと」か。地元にはない進学校に通うため、子どものいない叔父夫婦の家に下宿している佐知は、日曜の朝になると原付でやってくる徳さんの話を聞かされる。足を挫いているので、二階の自分の部屋に帰るのが難しいからだ。徳さんは地域のあれこれに顔を出し、冠婚葬祭にはまめに金を出す。そうしておけば見返りがあるというのだ。

近頃頻繁に顔を出すのは、叔父夫婦と誰かとの間に立ってまとめたい話あるようなのは「判をついたっていい」という口癖から察しが付くが、詳しい話は知らない。その回りくどい話が、夫妻に子どものいないこと、と自分に関わりがあることが次第に明らかになるという、まあ日本の田舎にならどこにでも転がっていそうな話。がさつだが憎めない徳さんと、柄本明の顔が重なるともういけない。話し声まであの声に聞こえてくる。

第三部から一篇となると普通なら表題作は外せない。この国の近未来には、色というものが存在しない。誰かが失くしてしまったらしい。ある一族の少年の頭には四角い穴が開いていてふだんは蓋をかぶせている。一生に一度頭蓋内圧が高まると蓋を外すのだが、ピンホールカメラの原理で内壁に倒立画像が浮かぶ。この話はそのとき目にしたものの記録である。次々と繰り出される画像が珍しく落ち着きがなく、そのくせ終末観が色濃い。この作家にこのような預言的な物語を書かせる今の時代の在り様が気になる。

個人的には堀江敏幸版「遠野物語」のような「あの辺り」の方を推したい。新聞記者の「私」は古刹での取材を済ませて帰る彦治郎さんを車に乗せている。その彦次郎さんが汽車から漏れる明りの方を指さして「あの辺りに、よく出る」と言う。隧道工事に雇われていた工夫が寝泊まりしていた小屋が土砂崩れに呑まれたのだという。「使ってはいけない人たちを使っていたから、表沙汰にはできなかった」。埋められた無縁仏が迷っているのだと。

八十二歳の彦治郎さんは郷土史家で、このあたりのことに詳しい。昔は狐がよく出たので、悪さをされないように油揚げをお供えした。ここらあたりで油揚げの入った糟汁を作るのは、その余りなのだ。幽霊列車も走るが、運転手はどうも狐らしい、とか、少し前までは、日本中のどこにでもあったような話ばかりだ。

以前『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という本を面白く読んだ。実は祖母から、祖父が狐に化かされて、竹藪のあたりを一晩中歩き回って夜が明けたという話を聴かされたことがある。竹藪を通る道は丘の上に新設された中学への近道に当たるので、帰りが遅くなって、おまけに小雨の降る晩など、ひとりで歩くのは心細かった。ただ、あの当時でさえ狐に化かされた話はもう誰もしていなかった。「使ってはいけない人たち」というのがどういう人たちだったのか、一つ一つの話に心を揺さぶられるものがある。

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# by abraxasm | 2018-07-23 15:52 | 書評
e0110713_10390228.jpgごくごく短い掌篇から、かなり読み応えのある長さのものまでいろいろ取り揃えた十七篇の短篇集。ニュー・ヨークの高層ビルの一部屋に置かれたピアノから突然バッハ本人が出てくるという突拍子もない奇想から、旱魃の最中に死んでしまったサーカス団の象の死体の処理に村中が知恵を絞るフォークロア調の話、自分の身代わりに連行された教授に成りすまし、教授の友人や教え子に手紙を書いて送ってもらった金で暮らす料理人の話等々。

時代も舞台もいろいろだし、現代に生きる女性の一人称限定視点だったり、三人称客観視点だったり、断章形式だったり、一篇まるごとテープ起こしだったり、と語り方も千差万別。それではばらばらで統一が取れていないのではと思われるかもしれないが、不思議なことに、一篇一篇は異なっているのに、こうやって一冊にまとまると、どこかで何かが響きあっているような奥底に流れる基調音がある。

原題が<Music for Wartime>。その訳が『戦時の音楽』というのだからほぼ直訳だ。たしかに、多くの作品に音楽や音楽家、絵画や画家、役者に作家といった芸術家が配されている。正面から戦時を描いているわけではない。戦争が我が身に迫ったとき、ユダヤ人のように迫害される側の人々がどうなったのか、ということを突き詰めようとしている。運よく逃れた者もいれば、殺された者、投獄された者がいる。その責めは誰が負うのか。

戦争が終われば本当の意味で平和がやって来るのかどうか。「これ以上ひどい思い」のアーロンの父は若い頃ジュリアード音楽院に招かれ、アメリカに渡る。その後ルーマニアに残った家族全員が殺される。恩師のラデレスクは捕らえられ右手の中指を切り落とされるが、チャウシェスク政権が崩壊して放免される。アーロンはラデレスクの弾くヴァイオリンの音に耳を澄ませ、それらの物語を聴いている。

父には仲間や恩師、家族を捨てて一人生き残ったことについての罪悪感があったことにアーロンは気づく。アメリカ生まれのアーロンは無辜であり、無垢のはずだ。しかし、感受性の強いアーロンは経緯について何も知らないまま、人々の不幸に反応してしまう。ユダヤ人の虐殺のあった公園を通りかかった時には寒気を感じる。そんなとき父はアーロンの頭に手を置きながら「これ以上ひどい思いをせずにすみますように」という言葉をまじないのようにつぶやく。

この「無垢」と「罪悪感」というのが短篇集を貫く主題。主人公たちは何もしていないのに、夫とうまくいかなくなったり、次々と不運に見舞われたりする。9.11以来、信仰が揺らいだという夫と離婚した「私」は、ある日ピアノの中から現れたバッハと暮らすうちに、高層ビルの窓から下を見たバッハの恐怖を知る。そして夫の不安に思い至る。無意識がバッハを呼び出し「葛藤」が発展的に解消されてゆく過程をユーモラスに描く「赤を背景とした恋人たち」。マカーイは絵と音楽を競演させるのが好きだ。ここではバッハの音楽にシャガールを併せている。

「絵の海、絵の船」は、雁と間違えてアホウドリを撃ち殺してしまう話から始まる。アレックスはカレッジの英文学科の教師。ラファエル前派のミューズ、ジェーン・モリスに似ているのが自慢なのだが、婚約者のマルコムは容姿を誉めてくれない。そんなある日、レポートでは優秀なのに授業ではしゃべらないエデン・スーを呼び出し、このままでは成績にひびくと注意する。その際「韓国では」と口に出したのが問題となる。スーはミネソタ生まれの中国系アメリカ人だった。人種による偏見だと委員会に訴えたのだ。

苦慮するあまり、ついつい酒を飲みすぎて、授業にも出られなくなり、なお悪いことに再度エデン・スーとぶつかってしまう。任期なしの専任教授になることも難しくなったアレックスだが、それを婚約者に相談することができない。ついには酔った勢いで婚約解消まで申し出る羽目に。心配してくれる詩人のトスマンにも冷たい態度をとる。事態が収まるところに収まってから彼女は振り返る。

「年下の同僚たちにその話をするときは、アホウドリから始まり、エデン・スーが中心となり、誰もが知っているトスマンの死で終わった。要点、つまり話の教訓は、人はいかに先入観を持ってしまうのか、犯した間違いがどれほど致命的になりうるかということだった。何かを見極めそこねると、それを傷つけたり、殺してしまいかねないし、そうでなくても救えなくなってしまうのだと」

チェロ奏者のセリーンは新しい絵に引っ越したばかりだ。その家の前には十字架が立っていた。交通事故の犠牲者を悼むものらしい。それだけでなく、月命日ごとに家族が二人やって来ては、ぬいぐるみと造花の花壇を拡張させてゆく。死を悼む行為に反感を抱きたくはないが、はっきり言って醜いもので芝生を奪われるのは嫌だ。四重奏団の練習にやって来るメンバーもいろいろ案を出すが、どれも功を奏しそうにない。石碑か何かに替えてもらえるなら協力するというメモを貼り付けたが、二人はせせら笑って破り捨てる。

ここへやってきたのは逃げるためだった。セリーンは一度結婚に失敗している。強迫症という持病もある。頑丈な家を買ってそこに籠れば誰にも孤独を邪魔されない。そう思ってやって来たところに十字架が突き刺さった。そんな月命日の夜、扉を叩く音がする。遺族の顔が思い浮かぶ。思い切って扉を開けると第一ヴァイオリンのグレゴリーだった。解決策を持ってきたという。セリーンはどうやってこの苦境を乗り切るのか、というのが「十字架」だ。

罪悪感という主題を奥深く沈めていながら、どれも読後に癒されるような思いが残る。音楽と美術がいつも寄り添っていることも救いになっているようだ。カメオ出演のようにスチュアート・ダイベックが登場人物の一人として作中に紛れこんでいるのも楽しい。これが第一短篇集という、信じられないレベルの達成を見せる短篇小説の新しい名手の誕生である。

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# by abraxasm | 2018-07-21 10:39 | 書評
e0110713_16393937.jpgJ・D・サリンジャーが雑誌に発表したままで、単行本化されていない九篇を一冊にまとめた中短篇集である。下に作品名を挙げる。

「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」
「ぼくはちょっとおかしい」
「最後の休暇の最後の日」
「フランスにて」
「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」
「他人」
「若者たち」
「ロイス・タゲットのロングデビュー」
「ハプワース16、1924年」

「他人」までの六篇が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に関連する短篇。中篇「ハプワース16、1924年」は「バナナフィッシュにうってつけの日」の主人公で、グラース家兄弟の長男にあたるシーモアが七歳の時にキャンプ地で足を怪我して動けない時に家族に書いた手紙の体裁をとっている。「若者たち」と「ロイス・タゲットのロングデビュー」は単独の話である。

「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデン・コールフィールドが主人公。クリスマス休暇で家に帰ってきたホールデンはサリーとデートするが、ささいなことで諍いになる。「ぼくはちょっとおかしい」は学校を追われたホールデンが歴史教師の家を訪ねるごく短い話。二篇とも『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に同様の挿話が入っているが、別の短篇として読んでもおかしくない。もっと読みたいと感じたら『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでみるといい。

ジョン・F・グラッドウォラー二等軍曹、愛称ベイブは家に帰ってきている。その家を訪れるのが軍隊仲間のヴィンセント・コールフィールド。ヴィンセントは陸軍に入る前は小説家でラジオもやっていた。この日は、二人にとって出征前の「最後の休暇の最後の日」なのだ。ヴィンセントの弟のホールデンは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』以降に学校を退学して、陸軍に入ったものの、今は行方が分からなくなっているようだ。

第二次世界大戦中のアメリカの若者の戦争に対するナイーブな気持ちがストレートにぶつけられている。ベイブが父に話すことはホールデンに似てイノセントなものだが、自分の中にあるイノセンスをどう扱っていいか分からないホールデンとちがって、ベイブはそれを少し恥ずかしく感じながら、自分の意見として人に話すことができる。自分は戦争に行くが、それを全的に肯定しないし、帰還したら口を閉ざす。父親のように戦争で地獄を見て来たくせに「先の大戦では」などとは決して口にしない、と。

そのベイブは「フランスにて」で、ドイツ兵と戦っている。くたくたに疲れた今夜は塹壕を掘る力が出ない。死んだドイツ兵が使っていた塹壕は狭くて血で汚れていたが、毛布を敷いてそこで寝ることにする。その前に妹のマティルダからの手紙を読む。国に残したてきた恋人の様子や町の人々のあれこれが書かれている。「お願い、早く帰ってきて」と口に出し、そのまま眠りに落ちる。短いスケッチだが、戦場の夜を必要十分に描いている。

「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」の主人公はヴィンセント。ジョージアの雨の中、トラックに兵隊を三十三人のせて、ダンスに向かうところ。ホールデンはヨーロッパ戦線から無事帰国した後、今度は太平洋で戦闘中行方不明になっている。ビンセントはダンスの相手をする女性が四人分足りないことを気にしている。誰を下ろすか、どうやって決める?命のやり取りはないが、滅多にない楽しみの機会を奪うのは上官である自分だ。命令を下す者の孤独が胸に迫る。兵たちとの会話の間もホールデンのことが頭から離れない。タイトルは除隊したら書こうと考えている作品名のリストの一つ。

「他人」は除隊したベイブが妹を連れてランチをとりマチネを見るつもりで街に出たのに、ヴィンセントの恋人の家を訪ねる話。ヴィンセントはヒュルトゲンの森で戦死していた。ベイブは友人の恋人にその最期を、嘘偽りなく語る責任があった。迫撃砲にやられる死とはどういうものか。迫撃砲は音がしない。突然落ちる。最期の一言などない。サリンジャー自身がヒュルトゲンの森で実際に目にした事実だ。酷い死を語るベイブに花粉症のくしゃみをさせ、マティにヴィンセントの思い出を語らせることで、明暗のバランスをとっている。

「ハプワース16、1924年」はサリンジャーにとって最後の作品。雑誌発表時に酷評され、それ以降筆を執っていない。しかし、ある出版社からオファーを受けて単行本化寸前まで行ったというから、結局実現することはなかったが、作家自身は愛着を持っていたのだろう。訳者あとがきによれば「難解」な作品だそうだが、そうは思えなかった。七歳の子どもが書く手紙か、という批判は当たらない。グラース家の子どもはみな「神童」と呼ばれたのだから。なかでもシーモアは特別だ。

キャンプの中で浮いている自分とバディが、どれだけ不快な目にあっているかを訴える手紙なのだから、内容的に楽しいものではない。ユーモアは塗されているが、かなり苦味がある。性的関心の芽生えについてもけっこう触れているので、こういうところがお気に召さなかった人がいるのではないだろうか。ヴェーダンタ哲学が作家を壊したなどというのはいちゃもんのようなものだ。『ナイン・ストーリーズ』の「テディ」はシーモアの前身と考えられているが、そのテディの方が余程ヴェーダンタ哲学について詳しく語っている。

兄弟たちによって、伝説的存在にまで高められてしまっているシーモア。その神童のありのままの姿を見せたい、と考えたのは兄の手紙をタイプ原稿に打った次兄のバディだ。作家であることからバディはサリンジャー自身と重ねられることが多いが、おそらく作家自身も、複雑にして猥雑なシーモア像を描きたかったのだろう。家族に対する愛にあふれ、自分の好きな作家、作品について誰はばかることなく目いっぱい書きまくっている。それまでの作品にあった抑制を欠いていることが批評家たちの受けを悪くしてしまったのだろう。しかし、これも間違いなくサリンジャーだ。読めてよかった。

後の二篇にふれる余裕がなくなってしまったが、どちらも短篇として他の作品に引けを取らない。最後に訳だが、みずみずしい文章で、サリンジャーの訳として申し分ない。ただ、一つだけ注文をつけたいのが、原文で「ベシー」と「レス」とされている二人の呼称を「母さん」と「父さん」に変えてしまっていることだ。グラース家の兄妹は母親をベシーと呼ぶ。それは前からそうだったし、別にいけないわけでもない。訳者が気になって仕方がないからと言って勝手に変えるのはどうかと思う。訳自体はとてもいいので残念だ。


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# by abraxasm | 2018-07-16 16:39 | 書評

覚え書き


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