e0110713_14242531.jpg老人施設の調査研究を仕事にするフランチェスカ、とその息子で今はカナリア諸島に滞在中のクリストファーという二人の人物を軸にして、二人をめぐる家族、友人、知人が多彩に出入り、交錯する。短い章ごとに視点人物が入れ替わり、それぞれの視点で語られる挿話は、人物の内省やさりげない日常の断片であったり過去の回想であったりと様々だが、ひとまずは老いを主題にしていると言っていいだろう。

とうに七十の坂を越えながら、見知らぬ他人と何時間も一緒に過ごすのが苦痛という理由で、一人プジョーを駆ってイングランド中を駆け巡るフランが出会うのは、老人がその大半。迫りくる死期、弱りつつある身体能力、病からくる痛みと向き合いながらも、それぞれが自分の流儀で日々を生きる姿を、英国流のヒューモアと辛辣な人間観察によって、リアルに生き生きと浮かび上がらせる。

フランが住んでいるのは高層住宅。エレベーターがよく止まるので階段を上り下りしなければならない。少し躁じゃないのかと息子が思うくらい、常に動き回っていないといられない性格なのだ。仕事に出ていないときは、別れた夫で今はほとんどベッドに寝たままの元医師クロードのところにタッパーに詰めた手料理を届けたり、友人のテリーサやジョゼフィーンを訪ねたりと日々忙しく暮らしている。

老歴史家のサー・ベネットとその世話をしているアイヴァーが暮らすのは、北西アフリカ沖にあるスペイン領カナリア諸島のひとつランサローテ島。クリストファーの妻セイラは、この島でテレビ番組の取材中に突然倒れ、急逝したばかりだ。その時親身に世話を焼いてくれたのが、ベネットとアイヴァーの二人だった。事後の処理も兼ねて、島を訪れたクリストファーはベネットの住む「スエルテ荘」に厄介になっている。

社会的には中流にあたる階層の人々が多く、話題に上るのは文学や歴史、美術、音楽で、それもかなり突っ込んだ内容。たとえば、寝たきりのクロードの楽しみがマリア・カラスを聴くことだと言われれば、特にオペラ好きでなくても分かるかもしれないが、中皮腫を病んで体力が衰え、本棚の上の画集を取ることが難しくなったテリーサの兄が、ヤコポ・ダ・ポントルモの専門家と紹介されて、その絵が思い浮かばなければ、愉しみも半減してしまう。

フランのもう一人の友人ジョゼフィーンはケンブリッジのアテナ館に住む英文学研究者で今も週に一度成人学級を担当している。その研究テーマは「死んだ妻のまだ生きている姉妹」というものだ。週に一度木曜の夜に酒を飲む相手が同じ研究者仲間のオーウェンで、ケンブリッジのリーヴィス一派である。このオーウェンとベネットは旧知の仲というように、イングランドとカナリア諸島は、この他にもいくつもの線で繋がっている。

特にこれといった出来事が起きるわけではない。いちばんそれらしいのが、雨の中、湿地帯にある老人施設を訪れたフランが冠水した道路で立ち往生する場面なのだから推して知るべし。やむを得ず近くに住む娘の家に泊まることにしたフランは、地球環境を専門にしている娘の異常気象観測プログラムで、カナリア諸島の海底火山の活動が活発化していることを知り、息子にメールを送る。その頃クリストファーはベネットが倒れて、窮地に陥っているアイヴァーに寄り添っていた。

ベネットとアイヴァーは長いつきあいだが、同性婚をしているわけではない。ベネットが腰の骨を折ったことによって一時的に正気を失っていることがアイヴァーの苦境の原因だ。実質的には家族でも法的には他人である。もしものことがあれば、この異国の地で住む場所を失ってしまうことになる。陽光にあふれ空気の乾燥したカナリア諸島の暮らしを捨てて、じめじめしたイングランドに帰る気のしないアイヴァーは、今まで封印してきたベネットの遺言を読もうと決意する。

大した事件は起きないが、ベネットはただ転んだだけで正気を失うし、テリーサも書棚の踏み台から足を滑らせたのが原因で死期を早める。老人にとってはちょっとしたことが命取りなのだ。七十をこえてもバリバリ現役のフランやジョゼフィーンだが、フランは運転はできても電気系統には疎い。ジョゼフィーンヌにしてもDVDの取り扱いがよく分からない。そうした小さなことが老人を生きづらくさせている。彼女らよりは少し若い自分にも身につまされることは多い。

難民問題や民族独立といった政治的な課題から、同性愛者の抱える不安、老人問題といった身近な話題まで、多彩な話題を多くの人物に振ることで、ストーリーらしきもののない身辺小説的な話に立体的な構造を持たせることに成功している。女性の髪形や服装、化粧といったディテールを微細に描き分けることで、人物の個性を際立たせることの巧みさはいうまでもない。フランお手製の料理はイギリスの食事がまずいという先入観を打ち破るものだし、ワインやアブサンといったアルコール類への目配りも利いていて読む愉しさに尽きない。

エピグラフに引いたD・H・ロレンスやW・B・イェーツをはじめとする作家や詩人への言及もたくさんあるので、英文学愛好家には何かと読みどころが多い。何より個性あふれる人物が魅力的で、個人的には寝たきりの身でありながら美貌のジンバヴウェ人介護士を口説くことに成功する食えないオヤジのクロードに親しみを覚えた。飲み食いだけでなく、知的な会話や活動を含め、老いを描いているのに少しも枯れを感じさせない。これは国民性の違いだろうか。

日常会話の中にシェイクスピアやギリシャの古典、ベケットの戯曲、イェーツやロレンスの引用が頻繁に出てくるのは文芸評論家でもある作家ゆえかもしれないが、体が動かなくなるにつれ、人との交流は会話が中心になる。その際に、どれだけの引き出しを持ち、互いに相手ができるかが大事になる。医者通いや我が子の愚痴が共通の話題では悲しすぎる。我が身を振り返っても、文学の話のできる友人は身近にはいない。残り少ない人生を楽しく語り合える友を持つフランやジョゼフィーンが羨ましく思えた。

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# by abraxasm | 2018-04-24 14:24 | 書評
e0110713_12201952.jpgジョン・フォード監督に『シャイアン』という映画がある。いつもの白人の視点ではなく、不毛な居留地に閉じ込められたインディアン側に寄り添った一味違う西部劇だ。約束を守らない白人に業を煮やしたシャイアンの部族全員が故郷に帰る決断をする。苦労を重ねた末にたどり着いたそこには、彼らの生活の糧となるはずのバッファローの白骨が散乱していた。白人がコート用の毛皮を得るために狩りつくしていたのだ。

インディアンは皮だけでなく、肉は食料に骨はナイフや矢じり、針とバッファローを使い切る。それを白人は毛皮だけのためにほぼ全滅させた。何よりそれがネイティブ・アメリカンの命脈を断ったのだ。『ブッチャーズ・クロッシング』は、そのバッファロー狩りを主題に描いたものである。それも極端にミニマムの視点で、一人の猟師が一シーズンにどれだけの数のバッファローを殺すことができるのかを克明に記す。

チームの人数は最小構成で四人。猟師(ハンター)が一人、皮剥ぎ職人が二人、料理その他を取り仕切るキャンプ係が一人。彼らは獲物がいる場所まで来る日も来る日も旅をする。猟場に着いて肉が手に入るまでは、豆とベーコンとコーヒーという食事。川筋から離れ平原に入ると水すら飲めなくなる。用意した水が切れるまでに次の水場に着けるかどうかがリーダーの能力にかかっている。だから、リーダーの指示には絶対に服従しなければならない。

この小説でリーダーを務めるのはミラーという猟師だ。他の流れ者や南軍くずれとちがい、彼はこの地方をよく知る本物の猟師である。人を雇って猟をさせ、毛皮を鞣して売る商人マクドナルドは彼を雇いたがるが、彼は自分のやり方で猟をすることにこだわり、首を縦に振らない。狩猟隊を組むには元手が必要だ。獲った毛皮を運ぶ荷車とそれを牽く連畜、銃と火薬、食料に馬等々、一介の猟師には手が出ない金額になる。だから、ミラーは獲物の大群がいる場所を知りながら、ここ十年狩猟隊が組めていない。

そこに、語り手の青年がボストンからやってくる。カレッジを三年で中途退学し、ラルフ・ウォルド・エマソンの思想にかぶれ、自然の中で自分の生き方を見つけたいとおじの遺産を胴巻きに入れて、はるばるブッチャーズ・クロッシングにやって来たのだ。この地で皮商人を営むマクドナルドはボストンにいた頃、ユニテリアン派の在俗司祭を務める父の教会に顔を出していた。父の紹介状を手にしたウィリアム・アンドリューズは、ホテルに着くと真っ先にマクドナルドをたずねる。

商人は若者の軽はずみをいさめるが、気のはやる若者は聞く耳を持たない。そこで、マクドナルドが紹介したのがミラーだ。自分のいうことは聞かない男だが、誰よりもこの地方をよく知る男で、古い知人の息子を委ねる相手としては彼をおいて他にないと判断したからだ。ミラーと会って話を聞くうちにアンドリューズは狩猟隊を結成するのに自分の所持金を提供することを決める。その代わり自分も一緒に連れていってほしいという。

ミラーがバッファローの大群を見つけたのは、カンザスから二週間ほどかかるコロラド準州。ビーバーを狩りに入った山で偶然に見つけた。山間に隠れた谷の下に広がる平地で、多分白人は誰も知らないが、四、五千頭はいるという。猟の方法は、猟師が一日がかりで仕留めたバッファローを一晩中かけて皮剥ぎ職人が皮を剥ぐ。キャンプ係はその間に料理したり、牛や馬の世話をしたりする。単調な作業の繰り返しだ。アンドリューズはシュナイダーという皮剥ぎ職人に教えてもらいながら皮剥ぎを手伝う。

三部構成で、一部と三部はブッチャーズ・クロッシング、第二部がバッファロー狩りの旅が舞台。第二部が小説の中心だが、刊行当時ウェスタン扱いされたこの小説は不評だったという。さもあらん。舞台こそ西部だが、これはその手のウェスタンとはちがう。終始一貫してバッファロー狩りだけを追う、ある意味、ノンフィクションのような味わいがある。無論、人物同士の葛藤や、猛威を奮う大自然との格闘があって、スリルやサスペンスに溢れていて、面白さは格別だ。

特にミラーという猟師の人物像が魅力的だ。誰にも頼らず、自分の足で好きなところに行き、好きなように生きる。それも大都会ではなく、道などない手つかずの大自然の中だ。携行する道具は最小限。狩りに使う弾丸も自分で金属を熔かし、火薬を詰めて作る。雪に降り込められたら、避難小屋も建て、猛吹雪の中で獲物の毛皮を細工して寝袋も作る。沈着冷静にして穏やかだが、一度これと決めたら譲らない頑固さもある。アメリカ人の理想のような男である。

ところが、至極頼りになるこの男が豹変する場面がある。バッファローの大群に一人で立ち向かう時だ。リーダーを殺されたバッファローは、うろたえ怯えるばかりでうまく逃げることもできない。その相手を、Y字型の木の枝を支えにして、狙いをつけては心臓か眉間の間を撃つ。銃が熱を持つと交換し、一日中撃ち続ける。これはもう、狩猟というよりただの大量虐殺である。必要十分な数の毛皮を得ても猟をやめて帰ろうとしないミラーにシュナイダーが噛みつくが、撃てる限りのバッファローを撃ち殺すまで、ミラーはやめない。

ふだんは頼りがいのある有能なリーダーなのに、銃を手にすると人が変わったようになる。相手が、自分たちと同じ「人間」ではないからだ。ミラーはその猟場のことを「遠い昔にインディアンが来たかもしれないが、人間(傍点二字)はまだだ」と発言している。つまり、彼の眼にはインディアンは「人間」として見えていないのだ。ならば、相手がインディアンだろうが、黒人だろうが、黄色人種だろうが、ミラーにとってはバッファローと変わらないのではないだろうか。

法が支配する町では出来ないことも、西部のフロンティアなら可能だ。力さえあれば土地も獲物も金も思い通り手に入れることができる。アメリカ人の頭からはこの考え方が抜けきらない。ヴェトナム戦争時代に書かれたというが、湾岸戦争でもイラク戦でも、現在のシリア情勢でも銃を手にしたアメリカという国の振る舞いにはミラーを思わせるところがある、と思うのはうがちすぎだろうか。

シュナイダーの忠告を聞こうともしないミラーは、そのために重大な判断ミスを犯す。雪が降りはじめるのだ。大量の毛皮を積んだ荷車を牽いて雪山を出ることは到底不可能。四人は人里を遠く離れた山中で雪が融ける春まで越冬しなければならなくなる。無論シュナイダーはミラーと険悪になるし、以前雪山で凍傷になり、片手を失ったキャンプ係は正気を失いかける。攻める時は果敢だが退き時を誤り、大きな被害を被る点もミラーはアメリカに似る。

大自然の中での経験が主人公の人間的な成長を描くことが主眼と思えるのだが、訳者あとがきで、エマソンの思想に触れて、訳者はアンドリューズが赴いたコロラドのような大自然はバックカントリーといい、エマソンのいうカントリーとは、都市の周辺に残る人間に管理されたフロントカントリーのことだという。自然に触れる中で本来の自分を見つけようとした若者が、触れるべきでない大自然に飛び込んでしまった結果、何を得て何を失ったのだろう。馬に乗って町を出る青年の遠ざかる背中を見つめ、そう思った。

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# by abraxasm | 2018-04-19 12:20 | 書評
e0110713_16374803.jpg一九二四年のマザリング・サンデー、三月三十日は六月のような陽気だった。マザリング・サンデー(母を訪う日曜)は、日本でいう藪入り。この日、住み込みの奉公人は実家に帰ることを許される。そのために雇い主の家では昼食をどこかでとることが必要となる。料理をする者が暇を取るからだ。ニヴン家のメイドであるジェーン・フェアチャイルドは孤児院育ちで帰る家がなかった。ジェーンはニヴン氏にお許しをもらって家にとどまり、外のベンチで本を読もうと思っていた。

そこに電話がかかってくる。相手はポール・シェリンガム。ご近所に住むシェリンガム家の一人息子で、もうすぐ結婚が決まっているが、七年前からジェーンとこっそりつきあっている。エマ・ホプディと結婚すれば、二人は二度と会えなくなる。両親も使用人もいなくなるこの日が二人で過ごせる最後の一日だった。ポールはジェーンに家に来るよう誘った。ジェーンは主人の手前、間違い電話の振りをしながら同意の由を伝えた。

誰もいない家の中、ことが済んで裸のままの二人がベッドの上で煙草を吸っている。男は二十三歳、女は二十二歳だ。今日もこの後、婚約者と会うことになっている男の悠揚迫らぬ態度を見ながら女は考える。その間、男は時間をかけて服を一つ一つ身に着けてゆく。まるで結婚式にでも行くような正装だ。それを見ながら女は、裸のままでベッドに寝そべり、男の結婚相手のことを考えている。男は女に服を着るよう命じもしないし、自分も急がない。

三月なのに六月のような好天の日曜の午後、開け放たれた窓からは日が差し込み、鳥の鳴き声が聞こえている。着替えを終えた男は、彼女一人を残し、車で出てゆく。残された女は、裸のままで屋敷の中を探検する。今日一日だけは何をしても許される、それが彼の最後の贈り物のように思えたからだ。

不思議な小説である。性体験はすでにある二十二歳の女性の目で見たことが語られるのだが、言葉があけすけで、慎み深さが感じられない。普通ならいくら男女の間であっても、メイドと他家のお坊ちゃんだ。言葉遣いや態度にそれらしい関係が出るはずではないか。話が進むにつれ謎が解けてくる。実は話者は小説家で、今読者が読んでいるのは、その小説なのだ。

小説家ジェーン・フェアチャイルドは九十歳になっている。インタビューでは、いつ小説家になったのか、と必ず聞かれる。そのひとつが、この日だった。この特別な日、彼女の胸に湧き起こった、自分の人生が始まったという自由の感覚だ。それは家の探検を終え、服を着て玄関の扉に鍵をかけ、言われた場所に鍵をかくして自転車で走り出した時に感じた。自分の人生は終わったのでなく今始まったばかりだ、という感覚だ。年に一度の休暇はまだ残っている。どちらに自転車を走らせるか、ジェーンは迷う。

まだ運命の出来事は起きていない。小説家は、インタビューに答えるように、自分の過去を語りはじめる。孤児院で育ち、十四歳で奉公に出た。読み書きができ、計算もできる彼女は雇い主に重用され、図書室の本を読む許可も貰う。冒険小説が好きだった。やがて、スティーヴンソンの『宝島』その他の小説を経て、この日はコンラッドを読んでいた。『闇の奥』ではない。『青春』だった。

不思議な小説である。老作家の考える小説論が、書きかけの小説の中に混じり、後に結婚し、早くに死に別れた夫との思い出話が挿入される。言葉に敏感な娘だった時代のある種の言葉に対する違和感が語られる。「それにしても、へんてこりんなことばだ、『ズボン(トラウザーズ)』って」。<trousers>のどこがおかしいのか、このあたり、訳注があってもいいと思う。少なくとも自分は知りたいと思う。

ミステリではないし、途中でジェーン自身も明かしてしまうから書くが、この日ポールは事故を起こして死んでしまう。婚約者との待ち合わせに遅れているので、裏道を飛ばし、曲がりくねった細道で木に衝突したのだ。ただの事故なのかもしれない。しかし、ニヴン氏はシェリンガム邸に出向いて、何か書いた物が残っていなかったかメイドに尋ねている。一日のうちに自分に起きた自由の感覚と大きな喪失感。人生というものの謎めいてはかり難いことへの衝撃が一人の作家を生んだのかもしれない。

ある日の一日限りの出来事の記憶の想起と、想像力豊かな作家のそれに対する自己の批評を絡み合わせ、なおかつ第一次世界大戦の少し前、一九〇一年生まれらしい孤児が老作家になるまでの人生を撚り合わせるという凝りに凝った中篇小説である。読後心に残るものの豊饒さと静謐な印象に圧倒される。

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# by abraxasm | 2018-04-17 16:37 | 書評

『雪の階』奥泉光

e0110713_17005379.jpg武田泰淳の『貴族と階段』、松本清張の『点と線』を足して二で割ったような小説。二・二六事件前夜の緊迫した政治的状況を背景に、伯爵家の令嬢が友人の死の謎を解く、ミステリ仕立ての一篇である。特筆すべき点は、元ネタとして、上に記した二作品をフルに使いきっていることだ。自炊用にバラした二篇を適当につなぎ合わせて筋が通るように手直しし、一篇に仕立て直したような凝った作品になっている。

貴族院議員笹宮惟重伯爵の娘で女子学習院に通う惟佐子には宇田川寿子という親友がいた。松平侯爵邸のサロン演奏会のあと、外苑で花見をする予定でいたのに、寿子は演奏会を欠席した。その後も連絡がなく、心配していた惟佐子が事実を知ったのは数日後。寿子の死体が発見されたからだ。寿子は久慈という青年将校と富士の樹海で情死していた。

しかし、惟佐子には寿子が心中したとは思えなかった。惟佐子宛の仙台中央の消印のある葉書には「くわしいことは帰ったら話す」と書かれていたからだ。貴族の娘で外出もままにならない惟佐子に代わり、この謎を追うのが、幼い頃の惟佐子の「おあいてさん」になっていた惟佐子が「ねえさま」と慕う千代子。新米写真家の千代子は蔵原という顔見知りの記者と二人で、心中事件の謎を追う。

惟佐子をめぐる出来事が『貴族の階段』をモチーフにし、千代子と蔵原のコンビが鉄道に乗って事件を捜査する『点と線』の刑事二人に擬されている。情死に見せかけての殺人事件を冒頭に配したのは『点と線』に対する挨拶。ならば、二つの小説を読んでいないと面白くないかといえば、そんなことはない。むしろ、知らずに読む方が面白い。既読であればあまりにそっくりなぞられていることがかえって煩く感じられるにちがいない。

というのも、恐らく作者はそういう仕掛けを施すことで、かえって自由気儘に小説世界を遊ぶことができるからだ。二・二六事件に関する資料や稗史を大胆に活用して、かなりアブない小説世界を展開してみせている。霊能者や霊夢、神智学、神人、獣人といった概念を日本という国家と絡み合わせ、天皇親政を目指して決起した青年将校の動きを利用し、別の目論見が進行していたというのだ。

三千年も昔のアメノミナカヌシノカミに始まる純粋日本人の系譜が廃れ、大陸から渡ってきて日本を席巻したのがヤマト民族、つまり現在の日本人で、かつては神人の純粋な血であったものが、今ではヤマト民族と混血することで濁ってしまった。この穢れた血を廃することが肝要だ、というのが惟佐子の母方である白雉家の伯父惟允の考えだ。とんでもない内容で、ナチスのアーリア人種を優先し、ユダヤ人弾圧につながる同系の理論である。

惟佐子の兄、惟秀は伯父の思想を受け継ぎ、二・二六事件を利用して皇居に入り、天皇を人質にしてクーデタを起こそうという妄想に支配されていた。白雉家こそが、純粋日本人の血を引くわずかな生き残りだからだ。一方でこの白雉家の血を継ぐ者は淫蕩で乱倫、同衾相手は男女を問わないというもの。惟佐子にもその傾向があるのは次第に明らかになる。没落貴族の退嬰的な風俗描写は『貴族の階段』由来であろう。

それに食傷気味になるだろう読者を意識して、食欲旺盛で健康的な千代子と新聞記者をやめて出版社を始める蔵原という健全なコンビがいる。なかなか進まない恋愛模様が、事件の捜査と共に進捗する。男に混じって三脚や重いカメラバッグを持って駆け回る千代子がいなければ、この小説は胸につかえる。どこまでが事実で、どこからが妄想なのか、スパイ疑惑や組織による暗殺、放火殺人といった不審な事件が二人の行く先々で待ち受ける。

もとにしたネタがあるのだから、話の行き着く先は決まっている。広げに広げた大風呂敷をどううまく畳んでみせるかが腕の見せ所である。一応合理的な解決がなされているが、オカルトめいた世界をすっかり払拭するところまではいかない。惟佐子にはこれから先の日本が戦争へと向かうことや国土が焼尽に帰すことまで見えているようなのだ。つまり、結末の明るさは蝋燭が消える前の束の間の明るさに過ぎない。

白雉家の血を引く清漣尼がいう。この国をヤマト民族に任せておけば、戦争で滅ぼされてもまた同じことを始めるだろう。なぜなら彼らは自分で自分を滅ぼしたいのだ。この言葉が妙に心に残る。敗戦以来一人の戦死者も出さなかった憲法を変え、軍隊の持てる国にしたいという人間を国民が支持するのだ。清漣尼の言う通りではないか。今頃、『貴族の階段』や『点と線』を持ち出した作家には、今のこの国の在り様がデジャヴのように見えているのではないのだろうか。

漢語ルビ振りを多用し、擬古的な文章に見せているが、漢字の多さを気にしなければ文章自体は特に時代がかってはいない。文章中にも言及されているがヴァージニア・ウルフの用いる次から次へとくるくると変換する視点も、慣れればそんなに気にならない。それよりも、作家が用意した奇手妙手に手もなく翻弄される楽しさの方を味わいたい。そして、暇があれば、泰淳や清張の小説にも手を伸ばしてみたいと思う。

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# by abraxasm | 2018-04-07 17:01 | 書評

『それまでの明日』原尞

e0110713_13211393.jpg愛煙家必読の書。今どきこれだけ煙草を吸うシーンが描かれる小説は世界中どこを探してもないだろう。出てくる男も女もひっきりなしに煙草を吸っている。禁煙になっていてもだ。まあ、自分は吸わないが、最近の煙草に対する世間の冷たさには首をかしげたくなるところもある。昔の映画の喫煙シーンをカットしたり、煙草の代わりに別のものを持たせるように改変したりする動きがハリウッドであるという。それだけはいくらなんでもご容赦ください、と言いたくなる。ボギーに何を持たせるつもりだ。ぺろぺろキャンディか?

和製ハードボイルドの第一人者による14年ぶりの沢崎シリーズの新刊である。期待は大きい。書き出しを読んで胸躍らせる愛読者も多かろう。沢崎もとうに五十の坂を越えたが、事務所の看板は相変わらず<渡辺探偵事務所>のままだ。ただ愛車のブルーバードは部品取り用に修理工場に買い取られ、今はそこの代車に乗っている。携帯電話は今も持たない。この節携帯なしで仕事ができるのか、と思うだろうが、電話サービスを利用しているので、留守の時はそちらにかかる。後で確認すればいいし、嫌な相手の電話を無視できる利点もある。

今回の依頼人は当節めったにお目にかからない紳士。老舗の料亭の女将の身辺調査の依頼である。依頼人の望月は金融会社の新宿支店長で融資先の経営者を調べたいという。本当は別の依頼があって、これはそのための小手調べではないかと思った沢崎は、あまり気の乗らない仕事だが受けることにした。ところが、調査を開始してすぐ、その女将は半年前に亡くなっていることが分かる。赤坂の<業平>というその店は、今では妹が後を継いでいた。

そのことを告げようとしても電話が通じない。依頼人が勤める金融会社に出向いた沢崎を待っていたのが強盗事件だった。支店長不在で金庫が開かないことに業を煮やし、一人が逃げ、残された一人は客の海津という青年に説得されて自首。強盗は未遂に終わったが、金融会社が渋るのを警察が強引に開けさせた金庫には本来あるはずの金のほかに数億円の札束が詰まったジュラルミン・ケースが入っていた。

沢崎は海津と一緒に姿を消した支店長の望月を探し始める。海津は学生ながら人材派遣会社を経営しており、望月とは懇意で娘のアルバイト先も斡旋する間柄だという。貰った名刺から電話サービスで自宅の住所を突きとめ、部屋に入ると、そこには別人の死体があった。すわ殺人かと色めきたつ警察。そこにやくざまでがからんでくる。もしや望月は事件に巻き込まれ、やくざに監禁されているのでは、とアタリをつけた沢崎は<清和会>の相良に探りを入れる。相良は親を介護するため一時的に組を離れていた。

本家のハードボイルドのギャングだが日本ではやくざになる。これが苦手だ。どうにも絵にならない。チャンドラーの小説に出てくる大物は、ディナー・ジャケットに身を包み、身だしなみも整ったいっぱしの紳士気取りだ。交わす会話も洒落ていて、読んでいてそれが楽しい。ところが、安藤昇を除けば、やくざには学もなければ教養もない。ただ、怒鳴り散らして脅しをかけるだけだ。洒落っ気はないが相良との会話に人間味のあるのが救いだ。

チャンドラーの『長いお別れ』、近頃では『ロング・グッドバイ』の方が通りがいいか。あれを意識しているのだろう。男の友情というのが一つの主題だ。つけ加えるなら親子、夫婦といった家族もそうだ。探偵という稼業のせいか、渡辺を亡くしてからというもの、沢崎には心許せる友人も家族もいない。今回相棒をつとめるハンサム・ボーイの海津や、沢崎が紳士だと認めた望月と名乗る依頼人が、二人でテリー・レノックス役をつとめている。

つきあいは浅いが、好ましく思える相手のために、いろいろと世話をした挙句、結果的には裏切られてしまう、孤独な探偵の心情を哀感込めて描いたのが『長いお別れ』だ。もちろん殺人事件が起こり、その謎を解くのが本筋だが、読者の心に長く残るのは、人たらしのテリー・レノックスに手もなく魅了される、まだ若さの残るマーロウの意外にやわなハートだ。さすがに五十をこえた沢崎はそこまで甘くはない。

残念なのは、魅力的な女性が語りの中には出てくるのに、すでに死んでしまっていることだ。伝法で気っぷのいい静子という女将は映画なら山田五十鈴あたりが役どころ。銀幕の名女優の名が何人も出てきて、高峰秀子が語ったとされる女将の生前の印象が文中に引用されている。これがなかなかの出来。強盗犯の一人が俳優の河野秋武に似ていたという一節が出てくるが、若い者は誰も知らないというのも面白い。携帯は持たない、辺りかまわず煙草は吸う、懐かしの映画スター、と時代に逆らったような演出だ。

それでいいのだ。十四年も新作を待つファンなら、変わり果てた沢崎など見たくはなかろう。ミステリ調よりもハードボイルド調を優先したというのが作家の言葉。たしかに発砲事件が起こり、死者も出るが、肝心の事件が物足りない。まあ、舞台が新宿ではハリウッド大通りのあるLAとちがって街並みからして猥雑だ。ケチなやくざ絡みでは話がショボくなるのも仕方がないのかもしれない。過去に因縁のある新宿署の錦織も<清和会>の橋爪も沢崎の相手役としての魅力に乏しい。三月初旬というから東日本大震災だろう。新しい事務所は地震を持ちこたえ、沢崎も健在だ。次の事件を期待するとしよう。

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# by abraxasm | 2018-04-01 13:21 | 書評
e0110713_16214500.jpg舞台はアメリカ西海岸、主人公の名はアルマ・べラスコ。慈善事業に熱心なべラスコ財団の代表である。自身のブランドを所有するデザイナーでもあるが、何を思ったか家を出て民主党支持者やヒッピーの生き残りやアーティストが入居待ちリストに名を連ねるラーク・ハウスという老人ホームに入居を決めてしまう。そのアルマのもとに時々、クチナシの花と手紙が届く。二重の封筒に収められた手紙の送り主は誰か、ハウスでアルマの世話を任されているイリーナにもアルマの孫のセツにも分からない。

ずっと運転手付きのメルセデスに乗っていたアルマは、最近免許を更新してスマートに乗り始めた。それだけではない。突然思い立っては数日家を空け、どこかに旅に出る。いくら健康に見えても高齢者で、パーキンソン病の持病もある。孫は祖母がどこへ出かけていくのかを探ろうと、愛するイリーナに協力を求める。イリーナはアルマには恋人がいるのではないか、それは部屋にある写真立ての中にいる日本人、イチメイ・フクダではないか、と話す。

アルマはポーランド出身のユダヤ系女性。ナチスの擡頭で欧州情勢が緊迫していることを心配した叔父イサク・べラスコは妻の妹の家族をアメリカに移住させようと試みるが、アルマの父は頑固でその好意に応じず、娘一人を船に乗せる。サンフランシスコの港でアルマを出迎えたべラスコ家の中には後に結婚することになる従兄のナタニエルがいた。孤独なアルマは実の兄の代わりにナタニエルを慕った。

太平洋とサンフランシスコ湾に挟まれた敷地シークリフに邸宅を建設中のイサクには信頼して庭造りを任せられるタカオ・フクダという庭師がいた。イチメイはその末っ子でアルマとすぐ仲良くなる。しかし、日米開戦により、日本人は敵国人として財産没収の上収容所送りになり、二人は会えなくなる。

幼い頃に出会ってすぐに惹かれあった男女が戦争によって引き裂かれてしまう。戦後再会した二人は愛し合うが、戦勝国の富裕層の女と敗戦国の庭師の男とでは人種と身分に差がありすぎ、結婚に踏みきれない。しかし、別れることのできない二人は周囲に関係をかくして密会を重ねる。ゴキブリの出る汚いモーテルで人目を忍んで愛し合う二人。限られた時間しか会うことのかなわない恋愛はいっそう二人を燃え立たせる。その結果、アルマは妊娠する。

イリーナの視点で描かれるラーク・ハウスで遠くない死を待つ老人たちの日常。その間に挿まれるアルマの過去の回想で、第二次世界大戦から現在までのユダヤ人、日本人、アメリカ人、それにイリーナの故郷モルドバ、と国の歴史に翻弄される人々の暮らしが語られる。アメリカ在住の裕福なユダヤ人は別として、ヨーロッパのユダヤ人の悲惨なことはいうまでもない。独立後のモルドバも苦しい。人々の暮らしは国家の歴史と切り離すことができない。

結局アルマは妊娠したことをイチメイに告白せず別れる。ナタニエルが父親役を引き受け、二人は結婚。日本に帰ったイチメイも日系二世と結婚する。それぞれ幸せな家庭を営む二人だったが、運命の悪戯が二人を再び出会わせる。ミステリ仕立てなので詳述は避けるが、そこには一筋縄ではいかない試練が待ち受けていた。

一方、イリーナはセツの求愛を受け留められずにいた。ハウスの住人から愛され、人から距離を置くアルマにも信用されるイリーナには他人に言えない秘密があったのだ。イリーナの母は娘を自分の両親に預け、早くに国を出た。いい稼ぎ口があると騙され、行き着いた先はイスタンブールの売春宿だった。イリーナが十二歳の時、母から手紙が届き、アメリカに呼び寄せられる。しかし、そこに待っていたのは思いもつかない事態だった。

ラーク・ハウスという場が心の中に孤独を呑みこんだ二人の女を結びつけた。信頼できる人との出会いによって、やがて心と心が響きあい、秘し隠していた過去にほころびが生じる。人は一人で生きることも一人で死ぬことも出来るかもしれないが、幸せとは言い難い。できるものなら、他者に心を開き、他者の思いも受け止め、ともに生きて老いたい。そして、最後は誰かに看取られて死んでいきたいものだと思う。

一日本人読者として、イチメイの造形が少々気になる。その指で触れると植物が芽吹くという「緑の指」の持ち主で、空手と柔道をあわせた格闘術に秀で、乞食行で百寺巡礼を果たし、画才もあるというから、まるで求道者。興味深いのは、父のタカオがオオモトの信者とされているところ。高橋和巳の『邪宗門』のモデルとなった大本教のことだ。収容所行きが決まったとき、白装束を着てオオモトの儀式に則って先祖伝来の刀を地中に埋めるところなど、外国から見た日本人のステレオタイプそのもの。

現代のアメリカ西海岸と、第二次世界大戦下のアメリカを主な舞台に、祖母の世代と孫の世代のふたつの恋愛事情を、老女の秘められた過去の謎解きをからめたミステリ仕立ての一大ロマンス小説。ミステリではないから、謎が解けても問題が解決されるわけではない。ただ、ゲイやエイズ、尊厳死、ユダヤ人差別、小児虐待と深刻な主題をいくつも扱いながら、登場人物が善良で心優しい人々であることが幸いして、愛と友情に満ちた物語になっている。人によっては、そこがもの足りないかもしれないが、読み終えた後味はさわやかだ。

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# by abraxasm | 2018-03-28 16:21 | 書評
e0110713_17302539.jpg訳者は一般に流布する「リョサ」ではなく、原語の発音に近い「ジョサ」と記すが、著者はあのノーベル賞作家である。実際にあった事件に基づいて書かれた小説である。新聞に載った数行程度の記事から小説を書くのは、スタンダールに限らず、多くの小説家がやることだが、面白いのは、冒頭では主人公の革命家は「私」の友人であるのに、結末近くでは、それが虚構であることが暴露されることだ。

つまり、読者はフィクションと思って読みはじめた小説が、途中からメタ・フィクションであることを教えられるわけだ。冒頭、貧困と不衛生がはびこる現代のリマをジョギングする作家の「私」がかつての同級生マイタの昔話を始める。しかし、普通の小説のように生い立ちから語り出された話は途中で打ち切られる。突然話者である「私」が割り込んできて、マイタを知る人物に当時の思い出話を聞く部分が挿入される。

それがしばらく続くと、マイタその人が前面に出てくる小説が再開される。「私」がインタビューする相手が代わるたびに小説の場面は新しい局面に変わってゆくのだが、章による区切りも、改行による目配せもなく、「私」が書きつつある小説と、その資料収集と事実確認のために「私」が行ったインタビュー記録が綯い交ぜになって織り為されているのが、この小説である。

そして最後には、とうとう主人公であるマイタのモデルである本人自身がインタビュー相手として登場するのだから、かなり異色の小説といえるだろう。小説の元ネタになっているのは、一九六〇年代初頭に『ル・モンド』に載ったニュース短報で、「下士官と組合運動家と数名の学生がペルー山間部で極小規模の反乱を起こして即刻鎮圧された」事件である。

はじめは合流するはずだった労働者その他のメンバーが当日になって現れず、数名の学生と四人の大人だけで警察や銀行を襲撃したものの、広場で行った集会には誰も顔を見せず、革命の狼煙を上げるはずが、ただの銀行強盗の扱いを受けて追われる身になるという、惨めな展開。しかし、成功していれば、その後に何度か起きることになる社会主義革命の先駆的な事件になっていたはずだ。今やだれも見向きもしない事件に「私」が興味を持ったのはその点にある。

歴史は勝者によって作られる。当時マイタが接触した人物は今でも生きていて、上は国会議員から、下は貧しい暮らしをする盲人までいろいろだ。当然、事件に関わった経緯は自分の身を守るためや、自慢話のために、ねじ曲げられたり、粉飾されたりすることになる。「私」はそれらの人々の証言に耳を傾けながら、マイタという人物を作り上げていく。大事なことは、作者のねらいが歴史的な事実を語ろうというのではないことだ。

当然、語られることの中から真実を嗅ぎ分けようとはする。しかし、小説家の「私」がやりたいことは真実をかき集めて、それを素材に嘘を語ることだ。リアリズム小説の作家であるリョサは、かなり丹念に資料を漁り、証言を集める。しかし、そこに大量のフィクションが混入するのは当たり前のことだ。だから、リョサの小説は読ませる。細部がしっかり書き込まれ、人物がくっきりした輪郭を備えているからだ。それは、この小説でも同様だ。

ただ、多くの人が語るマイタその人の像は、語る人によって誤差が大きく輪郭がブレる。むしろ、かつては友人だったり、敵対者であったりしたマイタを取り巻く人物たちの方がはっきりした人物像を描いている。最後にはマイタのモデルその人が現れて、それまでに作ってきた人物像を裏切ってみせるのだから、マイタが「作られた歴史」に擬せられているのは明らかだ。人は、自分の見たように自分の考えで「人」を語る。それは結局のところ、対象ではなく、本人について語っているのではないか。そんなふうに思われてくるのだ。

「私」がインタビューを行う時代設定は、ペルーにキューバ革命が飛び火し、ボリビアから軍が越境し、反政府ゲリラに対応するためアメリカ軍が派遣され、ペルー自体が大騒動になっている。そういう時代だからこそ、人々の語る言葉にはその人間の本音が現れる。激動の時代をうまく生き延びた政治家や商人のうさん臭さをあぶり出すために、マイタたちの行動は対比的に純粋で無思慮かつナイーブに描かれる。

マルクシズムのイデオロギーを信じ、暴力革命に身を投じる人物を現時点で読めば、とてものことに感情移入はできない。青臭くて痛々しくてとても見てはいられない。おまけに、「私」はマイタの属性に同性愛者であることをわざわざつけ加えている。マチズモの国で男性同性愛者であることは負の属性でしかない。マイタが革命に賭けたのは貧困だけではなく同性愛者も差別されない自由な国の建設だったというのだ。

はじめから負けると分かっている勝負に賭けるロマンチシズムが書きたかったわけでもあるまい。性の問題はともかく、反乱自体はたとえ限定的なものであっても革命の烽火になることはできたかもしれない。歴史にイフはないというから、そんなことを言っても仕方がないが、作家自身も含めて多くの若者が社会主義革命に未来を見つけた思いでいたことも確かだ。時の流れは無常で、今の世界の有様を見るにつけ、出るのはため息ばかりだ。三十年も前の作品だが、マイタの物語を書こうとした「私」には、今も感情移入できるものがあるように思われる。

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# by abraxasm | 2018-03-06 17:30 | 書評
e0110713_15442610.jpg<上下巻併せての評>
歳をとってきた人間がやろうとすることの一つに「自分史」を書くというのがある。記憶力も衰えてきて、思い出すことができるうちにまとめておきたくなるのだろう。特に遺しておくような値打ち物の過去もなければ、日記をつける習慣もないので、これまで考えもしなかったが、エーコが書いたのを読んでいたら、これの日本版が読んでみたくなった。というのは、本作『女王ロアーナ、神秘の炎』は限りなくエーコの自分史に近い。それもただの自分史ではない。

少年時代に読んだ本やコミック、目にしたポスター、ラジオから聞こえてきた音楽などを通して、当時の自分を思い出す試みである。しかも、それは自分一人にとどまることなく、同じ時代を生きた人の記憶とも重なる。エーコが列挙するマンガや物語の中には、アメリカのコミックやディズニーのアニメなども含まれるので、それらは分かるものの、イタリアのものはほとんど分からない。同じ国の読者ならどんなに楽しいことだろう。しかも、贅沢なことに大量の原色図版つきである。

自分史などに興味が持てないでいるのは、他人の名前は忘れてしまっていても自分についての記憶はまだ確かだからだ。もし、それも覚束なくなってきたら、必死になって思い出そうとするだろう。現に口に出そうとして出てこない人の名前は一日中出てくるまで気になって仕方がない。当時の世の中の出来事とその頃出回っていた読み物や流行の音楽を、自分の個人史と結びつけることで、ありありと目の前に光景が浮かんでくる。日本版があれば、という所以である。

ミラノで古書店を営むヤンボこと、ジャンバッティスタ・ボドーニは、目を覚ますと病院にいて医師の質問を受けていた。口はきけ、眼も見えるし、百科事典的な記憶には何の問題もないのに、自分の名前も、顔も一切合切記憶から消えていた。事故のせいで脳の一部に損傷を受け、自動的に行動することを助ける潜在記憶には問題がないのに、もう一つの意識的に思い出すための顕在記憶の中のエピソード記憶と呼ばれる、自分を自分につなぎ留めておく記憶がすっぽり抜け落ちてしまったのだ。

彼にはパオラという心理学者の妻がいて、彼が子どもの頃暮らしていたソラーラに行ってみることを勧める。そこには、祖父が遺してくれた大きな館があり、子どもの頃にヤンボは、そこに住んでいたからだ。当時は第二次世界大戦中でミラノは空襲が激しく、両親はヤンボを疎開させていた。ところが、結婚してからヤンボはソラーラに行くことも館で暮らすことも嫌がっていた。そこには何らかの理由があるにちがいない。記憶が戻らないのも何かそこに起因しているのでは、というのが優しく聡明な妻の見立てであった。

古書店の仕事の方はシビッラという美しい娘が彼の代わりをつとめていた。親友のジャンニが娘のことで揶揄うようなことを言ったので、ヤンボは自分とシビッラの間には何かあるのではと疑心暗鬼にとらわれる。しかも街角で出会った老婦人から、かつての情事をにおわせるような言葉を掛けられる。この辺の艶笑譚的なくすぐりはいかにもエーコらしくて、愉快。何にも覚えていない男の自意識の暴走は止めようがない。

妻と子はミラノに残してソラーラで暮らし始めたヤンボは祖父の書斎を覗いて本がないのに驚く。聞けば、屋根裏部屋にあるという。そこには祖父が蒐集した大量の新聞や書籍があった。ヤンボはそれから毎日、屋根裏部屋に通い詰め、飽かずにそれらを読み漁るのだった。屋根裏部屋、秘密の扉、封じられた礼拝堂、というゴシック小説めいた筋立てが読者の心をそそる。記憶の底から表面に気泡のように立ち上ってくるいくつかの名前や歌。それらの手がかりを求めてヤンボの探究は続く。

幼少期にソラーラで何が起きたのか、どうしてそれを思い出したくなかったのか。霧に関する文章をいくつも集め出したのはそもそも何を理由としていたのか。下巻に入ると、第二次世界大戦下のソラーラは決して安全な田舎とはいえなかったことが明らかになってくる。村にはドイツ軍がシェパードを連れて脱走したコサック兵を捜索にやってくる。彼らを逃がし、パルチザンのもとへ届けるためにヤンボは手助けを頼まれる。

頭がよくて行動力もあるヤンボの活躍とその後の展開が時代状況と絡み合い大きな重みをもって迫ってくる。トーマス・マンの『魔の山』に登場するセテムブリーニとナフタを一人にしたようなグラニョーラという人物がヤンボに、神は邪悪だと説くあたりは『魔の山』や『カラマーゾフの兄弟』を彷彿させる。少年だからといって戦争は免罪符をくれるわけではない。その時代を生きた者でなければ書けない真実が、そこにある。

『女王ロアーナ、神秘の炎』の主題になっているのは記憶である。次第に明らかになってゆく少年時代のヤンボの生活だが、その中でリラという少女の顔だけが思い出せない。初恋の少女で、その後転校して会えずじまいになっている。ソラーラでの出来事がタナトスを主題にしているとすれば、リラに関する挿話の主題はずばりエロスだろう。ソラーラで一度は死んだヤンボの魂が再生するきっかけとなったのがリラである。人を喜ばせ、人に好かれる今のヤンボはリラによって命の火がともされたのだ。

自分史とはいっても、少年時代が中心で、尻切れトンボの感じがしないでもないが、ムッソリーニと黒シャツ党の跋扈する時代のイタリアを生きた一人の多感で読書好きの少年の瑞々しい思春期をイタリアらしい明るい色彩と音楽、それにそこだけフォントを変えて記される様々な小説から引用された名文句の数々。これはプルーストだな、とかランボーときたか、というふうに分かるものを見つけてはにやりとする愉しみがある。ユイスマンスの『さかしま』のように贔屓の作品への言及は何よりうれしい。本好きのために書かれたような小説だ。誰か書けるうちに日本版を書いてくれないだろうか?

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# by abraxasm | 2018-02-25 15:45 | 書評
e0110713_16281646.jpg『ソロ』という音楽用語に似つかわしく、小説は第一楽章「人生」、第二楽章「白昼夢」と題された二つの章で構成されている。この章につけられた名前の意味は、小説が終わりを迎えるころ意味を明らかにする。その意味を知った読者は、作者の巧妙な作為にはたと膝を打つにちがいない。それはありそうで、今までなかった小説の書き方である。もしかしたら先例があるのかもしれないが、すぐには思いつかない。

第一楽章は、ブルガリアのソフィアに住む盲目の老人の「人生」を描いたもの。話者は、はじめその人物を「男」と呼ぶ。映画の冒頭で、キャメラがひとりの男に焦点を当て、少しずつ近づいていくように。やがて男の現在の様子が、食べる物も人に恵んでもらい、人の助けを得ねば薬も飲むことができない惨めな状況であることが明らかにされてゆく。それと同時に今のソフィアという街の有様も、音やにおいといった盲人に残された感覚器官を総動員して描写されてゆく。この導入部が効果的だ。

男の名はウルリッヒ。大好きだった音楽を父に取り上げられ、その代わりに化学を愛するようになる。ベルリンの大学で化学を学ぶが父の死により学資が続かず志半ばで帰国。化学への夢をあきらめて会社に勤め、やがて親友の妹と結婚。子どもを授かるも、夢をあきらめた夫に愛想をつかして妻は子どもを連れて家を出る。共産主義国家となってからは工場勤務を命じられ、退職後は年金暮らしで今に至る。

オスマン帝国から独立、幾度の戦争を経て共産主義国家となり、ソ連崩壊後資本主義化されたブルガリアは強国の意向に沿うように工業化される。その結果、化学工場から排出される薬物により大地は汚染された。オスマン・トルコやソ連といった大国にはさまれたブルガリアという国の近現代史を背景に、かつてはそれなりの夢も才能もあった男が、家族の桎梏と歴史の波に翻弄され、最後に残されたわずかな日々の慰めまで奪われてしまう無残な人生を、突き放したようなさめた筆致で語るのが第一楽章だ。

第二楽章は、ぐっと曲想が異なり、アップ・テンポでスリリング。ブルガリアとは黒海をはさんだ対岸にあたる、グルジアの王家の血を引く少女ハトゥナとその弟が、ブルガリア出身の若者ボリスとアメリカで出会ったがために起きる悲劇。住民が逃げ出してしまった土地で豚を飼いながら、ヴァイオリンを弾き続けてきたボリスは、ワールド・ミュージックの辣腕プロデューサーに見いだされて渡米。トラブルに巻き込まれたハトゥナも弟と二人アメリカに渡る。

体制が代わるたびに、元スポーツ選手などの有名人が政治家になり、金を蓄え、やがて実業家になる。しかし、実態は麻薬を扱い、女を売り飛ばすギャング同様の稼業だ。早晩暗殺され失脚する運命。しかし、その刹那的な生にしか、生きることの快楽を見出せない種類の人間がいる。ハトゥナがそうだ。弟はその価値観を認めず、詩を書くことだけを愛していた。ところが、ボリスの曲を聴いたことで二人は共鳴しあう。友から片時も離れられない弟、弟を愛する姉は音楽家を憎む。三角関係が軋みを上げはじめる。

大物実業家が何人ものボディ・ガードに囲まれ、城の内部を要塞化した邸宅を立て、世界中で武器を売買する。美女たちが夜ごとパーティーに集まり、奔放な音楽家は業界のしがらみなど気にせず、好きな相手とセッションしては勝手に配信してしまう。音楽家の失墜を策謀した女は情報を操作して追い落としをはかる。華やかな世界とその陰で蠢く人々の姿を描く第二楽章は、いったいあの陰鬱な第一楽章とどうつながっているのか?

実は第二楽章で語られるストーリーの素材は、そのほとんどが第一楽章の中に象嵌されている。ただし、語られるのはほんのわずかで、最初に読んだときは、そのあまりの短さに読み飛ばしてしまう。それが作者のアイデアだった。九十代後半のウルリッヒの記憶からは多くのものが抜け落ちていても不思議はない。ただ、とげのようにひっかかって離れないものだけが断片的に残っている。

目の見えない男の楽しみはテレビ番組から聞こえてくるニュースや隣人の立てる物音、街に聞こえる騒音といった素材をもとに、日がな自分が組み立てた「白昼夢」を見ることだった。そこに登場するのは、生きていれば今はもう七十代になっているはずの子どもだが、夢の中ではまだ若いままだ。ボリスやハトゥナはウルリッヒがかつて接した人々の記憶を頼りに作り上げられた夢の創造物、というのが作者の見立てだ。

再読してみて驚いた。あれがこれになるのか、と。白昼夢の何とけばけばしくおどろおどろしいことか。ウルリッヒの実人生がついえた夢の破片の集積物だとしたら、白昼夢はその可能態である。母の遺品を買い叩いた骨董商の記憶は、いつまでも心の片隅に残っていて、ハトゥナの手によって復讐される。あきらめた音楽家の夢はボリスによって成し遂げられる。所詮夢ではないか、というなかれ。かつて荘周は夢の中で胡蝶になって遊び、覚めて後、果たして荘周が胡蝶の夢を見たのか、それとも今の自分は胡蝶が見ている夢なのか、とつぶやいたというではないか。

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# by abraxasm | 2018-02-17 16:29
e0110713_17030332.jpg原題は<The Lady in the Lake>。サー・ウォルター・スコットの叙事詩『湖上の美人』<The Lady of the Lake>をもじったもの。< Lady of the Lake>は、アーサー王伝説に登場する「湖の乙女」のことだ。この作品のもとになっている中篇「湖中の女」は、稲葉明雄訳『マーロウ最後の事件』の中に収められており、かつて読んだことがある。そこに登場する色男の名前がランスロットであることから、チャンドラーがアーサー王伝説を意識していたことはまちがいない。長篇となった本作ではクリス・レイヴァリーと名を変えている。

人物の名前こそ変わっているが、『水底の女』の骨格にあたる部分は、ほぼ「湖中の女」を踏襲している。主な舞台となるのは、ロサンジェルス東部の砂漠地帯サン・バーナディノ近郊のリトル・フォーン湖にある別荘地。それと別の短篇「ベイシティ・ブルース」の舞台となるサンタモニカがモデルといわれる海辺の町ベイ・シティ。既存の短篇を使い回して長篇に仕立て上げるのは、チャンドラーの得意とするところだが、本作に限っていえば、別の土地で起きた事件を同一人物の仕業にしたため、偶然の一致が多くなったのが残念だ。

チャンドラーの長篇の持つ魅力は、事件解決よりも、事件を捜査する過程で、探偵であるマーロウと他の登場人物とのやりとりや、マーロウが人物に寄せる感情の揺れを味わったり、マーロウの目を通して語られる富裕層の頽廃的な生活や、大都会に蔓延る犯罪組織とそれを事実上見逃す警察組織への批判に共鳴したりするところにある。ところが、本作は意外に律儀に謎解き推理小説をなぞろうとしているふしがある。

チャンドラーはフリーマンやハメットは別として、不必要な蘊蓄や不誠実な叙述の詐術を用いた推理小説を嫌っていた。本作にも名を訊かれたマーロウが「ファイロ・ヴァンス」と偽名を名のる場面がある。ヴァン・ダインへの揶揄だろう。それもあって、乱歩が「類別トリック集成」に挙げている中でも使用例の多いトリックを扱いながら、本作におけるマーロウによる語りは実にフェアなものだ。それがかえって、長篇ならではの脱線や遊びを遠ざけ、作品を窮屈にしている気もするが。

マーロウは香水会社を経営するドレイス・キングズリーから妻の捜索依頼を受ける。リトル・フォーン湖にある別荘に出かけた夫人が帰宅予定日に帰って来ず、エル・パソから打たれた電報には、離婚してクリスと結婚するとあった。妻の性格をよく知るキングズリーはそのまま放っておいたが、先日、そのクリスと市内で偶然出くわした。話を聞けば、夫人とは最近会っていないという。何か事件に巻き込まれたのであれば事業に影響が出る。それで探偵を雇ったのだ。

ベイ・シティにクリスを訪ねたマーロウは、向かいの家に住む医師によって警察に通報される。医師の妻は自殺しており、不審に思った妻の両親は探偵を雇って事実を調査していた。デガルモという強面刑事に町を出るよう威嚇されたマーロウが次に向かったのはリトル・フォーン湖。持参してきた酒を管理人のチェスに飲ませ、妻の家出の顛末を聞き出す。二人でキャビンに向かう途中、湖中に沈む女性遺体を発見する。損傷が激しかったが、夫は妻のミリュエルだと認めた。

これが題名の由来だが、実は死体は「水底」にはない。人造ダムを造ったことでかつての船着き場が水中に沈み、死体はその船着き場に邪魔されて浮かび上がってこれなかったのだ。つまり女は「水底」ではなく、文字通り「湖中」にいたのだ。その意味でいうと、『水底の女』という新訳の題名はあまりそぐわない。いつものように原題を片仮名書きにして『レディ・オブ・ザ・レイク』とでもしておけばよかったのに、とつい思ってしまった。

リトル・フォーン湖の遺体は自殺か他殺か。他殺だとしたら犯人は誰か。マーロウは保安官補のパットンに推理を語る。このパットンがいい。短篇ではティンチフィールドという名で登場する、ステットソンをかぶった田舎町の保安官補だ。肉付きのいい好々爺に見えて、その実見事な手腕を見せる名脇役だ。短篇を読んだときもそう思ったが、長篇ではなお一層魅力が増している。チャンドラーは女を描かせると、美しいが危険な人物にしがちだが、男性の場合は大鹿マロイをはじめ、憎めない脇役、敵役を多く生み出している。

村上春樹のチャンドラー長篇全七巻の翻訳はこれで最後。当初は、旧訳になじんだ読者から批判もされたが、今後はこれが定訳になっていくのだろう。村上訳の特徴は、原作に忠実なところだ。一語たりとも見逃すことなく、日本語に移し替えてゆく。ただし、その分一文が長くなる。それが冗長と感じる読者もいるだろう。たしかに、原文はおどろくほどシンプルな英語で書かれている。ただ、それをそのまま日本語に置き換えると、身も蓋もない訳になる。それをいかにもそれらしい日本語に置き換えるところに訳者は頭をひねるのだ。

一例をあげるとマーロウが香水の香りをたずねる場面で、問われたキングズリーが「白檀(びゃくだん)の一種だ。サンダルウッド種」と答えるところがある。旧訳では「チプレの一種だ。白檀(びゃくだん)のチプレだ」となっている。「チプレ」って何のこと?と思ってしまうが、「シプレ(シプレー)」はキプロス島のことで、香水の香りの系統を表す。原文は<A kind of chypre. Sandalwood chypre.>で「チ」と「シ」の読みまちがえは惜しいが、清水訳の方が原文に忠実なのがわかる。

しかし、これを「シプレの一種だ。白檀のシプレ」と正しく訳したところで、香水に詳しくない者にとってはチンプンカンプンだろう。註を使わず乗り切るためにわざと「シプレ」を省いて、白檀の訳語であるサンダルウッドを使うことで、分かりやすくしたのだと思う。村上訳は逐語訳や直訳を避け、原文を、読んで分かる日本語に解きほぐす訳を目指しているようだ。チャンドラーの長篇を村上氏がすべて訳してくれたことで、旧訳と比較しながら原文を読む愉しみが増えた。『湖中の女』には、田中小実昌氏の訳もある。これもいつか探して読み比べたいと思っている。

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# by abraxasm | 2018-02-04 17:05 | 書評

覚え書き


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