e0110713_09004296.jpgクールでハード、女を抱くにせよ抱かぬにせよ、本心は見せないというのがハードボイルド探偵の流儀だったはず。それなのに、いくら独身生活が長いにせよ七十歳近くにもなりながら、女が欲しくて妄想をたくましくしてストーカーまがいの行動に走り、挙句は昏睡状態に陥った女を自室に置いて、体を拭いたり寝返りをさせたり、と川端康成やガルシア=マルケスでもあるまいに「眠れる美女」に執心するとは、とんでもない危なっかしい「探偵」じゃないか。

ずいぶん年寄りを探偵役に据えるものだと思った。ピアノ調律師も兼ねる御年六七歳のタクシー運転手というのだから、ハードボイルドは到底無理だと思うのだが、これが結構やってのけるのだ。殴られたり、首を絞められて殺されそうになったり、警察でも拷問監禁で痛めつけられたり、とフィリップ・マーロウ顔負けの巻き込まれ型というか、好き好んで巻き込まれに行くタイプだからどうにも仕方がない。

カナリア諸島の一つ、フェルテベントゥラ島は、アフリカに近い島でヨーロッパからの避暑地としてにぎわう。主人公のエアハートはデンマーク人だが、故あって故国を離れ、妻子を捨ててこの島まで流れてきた。初めは野宿暮らしだったが、そのうち伝手を頼って今の職にありついた。上との交渉事が苦手で儲けは少ないが、別れた妻に送金した残りでかつかつ食っている。ヤギ番用の小屋に住み、缶詰から直接食べるような暮らしも苦にはしていない。人は彼を「世捨て人」と呼ぶ。

その「世捨て人」が、どうしてまた柄にもなく「探偵」稼業のまねを始めたのかといえば、波打ち際に乗り捨ててあった車の中に段ボール箱に入れられて死んでいた生後三か月の赤ん坊のせいだ。赤ん坊を捨てたのは誰か。こんな酷い事件なのに、何故か警察は事件をうやむやの裡に解決してしまおうとする。若い娼婦が名乗り出て、捨てたのは自分だと証言するというのだ。エアハートは虚偽の証言を食い止めるため、娼婦を自分の小屋に連れ帰り監禁する。

これだけでもう立派な犯罪者だ。無関係な事件にここまで執着する理由が理解できない。その後も、友人ラウールの失踪とベアトリスの暴行事件に巻き込まれ、やむなくではあるが事後従犯、疑いようもない「犯罪」に手を染めてしまう。主人公と共に事件の謎を追いたくても、この男の倫理観のなさには到底ついていけないと読者は思うにちがいない。彼をしてここまで突き進ませるものは何なのか。

事件の裏には、海賊に襲われた貨物船の保険が絡んでおり、その背後にはラウールの父親でいくつもの会社を経営するエマヌエルの影がちらつく。ラウールの失踪後、エマヌエルはエアハートに近づき、自分の経営するタクシー会社の重役の椅子を提供するだけでなく、ラウールのマンションをそのまま使うことを許可する。その懐柔策の裏に何があるのかを探るため、申し出を受けたエアハートだったが、次第にその暮らしの快適さになじんでゆく。

一運転手では手を出せない、企業家同士のつながりや、情報を手にするために肩書や高級車、それに提供された軍資金がものを言って、エアハートは少しずつ事件の核心に迫る。だが、深入りし始めた彼は、誰かに襲われるだけでなく、警察に追われる身に。八方ふさがりのエアハートに救いの手を差し伸べたのは、またしても黒幕と思われるエマヌエルだった。事件の真相には意外にもエアハート自身の存在が影を落としていた。

ミステリ的には、ほとんど事件の真相は予想がつく。それほど複雑な事件ではないからだ。話を難しくしているのは、親と子の間にある予想のつかない人間の心理と行動のほうだ。放っておけばそれで済んだものを殺人事件まで引き起こしてしまうのはエアハートが、赤ん坊の死にこだわって事件を突っつきまわしたせいだ。シリーズ物で、すべてが明かされてないからか、何故そこまで他人の赤ん坊の死にこだわるのか、それが最後まで読んでも理解できなかった。

長丁場を、最後まで読ませる力はある。それは、ひとえに主人公エアハートという人物が、ことごとく内心を流露してくれるからだ。ハードボイルドに限らず、ミステリの主人公は本音を語らない。格好良くて、女に惚れさせても自分は惚れたそぶりを見せてはいけない。読者にとっては自分の夢の実現者だ。それがお約束のはず。それを裏切って、独身男の妄想をこれでもか、とぶちまけたところに、この本の新味がある。

いい年をしながら、女に欲望を抱いても実際に行動には移せない優柔不断な男。コルトレーンを愛し、本を手放せない年寄りのインテリ崩れ。過去に自分が娘を捨てたことに負い目があるからだろうか、生後三か月の赤ん坊を餓死させた母親に対して義憤を感じずにはいられない。左手の小指の欠損にも強い執着を見せるが、三部作の第一作のせいか、その経緯はつまびらかにされることはない。

本国スペインよりアフリカにほど近いカナリア諸島の島々を舞台にしたことで、ソマリア沖の海賊や、その被害の補償に使われる保険といった犯罪小説らしいモチーフが生き、独特の食べ物や、酒、シエスタの風習といった異国情緒も堪能できる。乾ききった空気が探偵小説によく合うことに改めて思い至った。動物好きには小屋と込みで引き継いだローレルとハーディと名付けられた二匹のヤギがエアハートが小屋を出てからどうなるのか気になって最後まで本から手を離せないにちがいない。ずるい手だ。

スマホはおろかパソコンも扱えない年寄りのくせに、老いてますます盛んなエアハートの激しい欲望になかなかついていけず、その手の場面は端折って読んでしまった。同年輩の読者でさえこうなのだから、年若い読者にはどう見えるのか老婆心ながら心配になった。そういえば、フリーセックスなどという言葉がもてはやされた時代、その風潮をもたらしたのはエアハートが生まれた北欧の国々だったことをはしなくも思い出した。裏返しにされたハードボイルドが吉と出るか凶と出るか。判定次第で続編の翻訳も決まることだろう。

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# by abraxasm | 2017-02-06 09:00 | 書評
e0110713_16455348.jpgシャーロック・ホームズがベイカー街で名をはせていた頃。いかがわしい外国人がたむろする辺りに一軒の質屋があった。老店主の死後、店を預かるのはまだ二十代の一見してジプシーとわかる娘。この娘、美人であるだけでなく、店に持ち込まれる品物の目利きにも長け、その上頼まれもしない難事件に首を突っ込む趣味があった。男性優位の十九世紀ロンドンを舞台に、ジプシー娘が暗号を解読し、隠された秘密を暴いて回る異色探偵小説。

ロンドン南部、ランベスのカービーズ・クレッセントにある質屋は、ジェイコブ・ディックスというけちで有名な老人が経営していた。そこへやって来たのが二十代のジプシー娘ヘイガー・スタンリー。黒髪の美しいヘイガーは、ジェイコブの死んだ妻の姪で、大嫌いな男と結婚させられそうになり、ニューフォレストのキャンプから逃げ出してきたのだ。乾いたパンと水さえくれれば、わらの上で寝るから、とジェイコブを説得し、住み込みの家政婦兼質屋の手伝いとして働きはじめる。

質草にまつわる謎解きを扱う連作短篇集が書かれたのはヴィクトリア朝。副題にある通り、「シャーロック・ホームズ」の影響下にある。ミステリとか推理小説とか言い出す前の古き良き「探偵小説」の香りを残す一品。主人公の探偵が、うら若いジプシー女というのは、当時でも珍しかっただろう。ランベス地区というのは、テムズ川をはさんでシティの対岸にあたる地区だが、多国籍の人々が集まる地区で、当時に限らず現在でもあまり治安がよくない界隈である。

全十二章構成で、主人公の進退を紹介する初めと終わりの二章を除く十章が本編にあたる。第二章「一人目の客とフィレンツェ版ダンテ」から、第十一章「十人目の客とペルシャの指輪」まで、異国情緒たっぷりの品々が、曰く因縁を引っ提げて登場する。暗号や質草に隠された秘密の仕掛けが話の中心だが、どれもたわいないもので、なあんだという感想をもらすのは、まずまちがいない。謎解き興味はともかく、美人で気のいいジプシー娘の快気炎と全篇に揺蕩うエキゾティシズムはたっぷり用意されている。

発見者が遺産を相続するという遺言に基づいて、『神曲』の第二版という稀覯書に隠された財宝の在りかを求めて、故人の甥と見返りを求めるかつての支援者が争うのが、「一人目の客とフィレンツェ版ダンテ」。書き込みの見当たらない文書に隠された暗号を見つける決め手になるのがあぶり出しというのが何とも懐かしい。一話完結ではあるが、異なる短篇同士につながりがあり、第二章に登場する、ちょっと頼りないイケメンのユースタスの他にも、まさかあの男がと思わせる人物も章の枠を越えて登場するなど、通して読む面白さも用意されている。

殺人事件が登場しない話から始まるので、全編この調子か、と落胆するには及ばない。話が進むにつれて、殺人も起きるし、謎解き以外の部分にも親子の愛憎や階級差にからむ葛藤といった主題が提示され、なかなか含みのある筋書きが次々に現れる。女性の権利が制限されていた時代、女が一人で生きていくのは難しかった。職業選択や遺産相続もその一つで、そのために起きる殺人事件を描いたのが、「二人目の客と琥珀のネックレス」。大英帝国の都下、ジプシー女が被疑者の黒人女を救うところが小気味よい。

以下、広東の関帝廟から盗まれた翡翠の関帝像をめぐる英国人と中国人の争いを描く「三人目の客と翡翠の偶像」。チェリーニ様式の十字架に仕込まれた短剣が殺人事件を引き起こす、ルネサンス時代の悲劇を下敷きにした「四人目の客と謎の十字架」。主人にあたる令嬢と家令の息子の恋をめぐって父の思いが空回りする「五人目の客と銅の鍵」。アンドレア・デル・カスターニョ描く『キリストの降誕』が、子故の闇を照らす。

「六人目の客と銀のティーポット」は、盲目の女性マーガレット・スノウの悲恋の物語。茶農園主となるためインドに渡った恋人は、婚約の破棄を告げる最後の手紙に添えて、それまでマーガレットが書いた手紙を返してきた。マーガレットはそれを銀のティーポットに入れハンダで封じ込めた。今や老いて明日をも知れない体となったマーガレットは形見のティーポットを質に入れることで、突然の婚約破棄の理由を知ることになる。「質屋って本当に変わったところだ!(略)人生のありとあらゆるがらくたが流れ着く。傷ついた心、台なしになった経歴、破れた恋――そんなものの吹き溜まり」と、ヘイガーでなくとも嘆きたくなる。

本物の悪党が登場するのが「七人目の客と首振り人形」。「陽気なビル」が預けた人形をめぐって、脇役として何度も登場するベイカーの雑用係ボルカーと悪徳弁護士でジェイコブの遺産を狙っているヴァークが暗躍する。「八人目の客と一足のブーツ」は、一人の女を愛した二人の男が関わることになる殺人事件の謎解き。「九人目の客と秘密の小箱」は、不倫の証拠になる手紙を見つけたヘイガーが、恐喝者の手から手紙を奪い、未然に犯罪を防ぐことになる。ひねりの効いたオチが秀逸。

ペルシャの公爵アリーの美しい妻アイーシャは王の目に留まり、ハーレムに召される。その代わりとしてアリーが王から貰ったのが件の指輪。その後アリーは叛乱の罪に問われ全財産没収の上英国に流れ着く。天国から地獄への急降下。「十人目の客とペルシャの指輪」は、まさにアラビアン・ナイト風の趣の濃い一篇。アリー酷似の人物登場で、アラビア夜話風奇譚がミステリに変貌する。

ヘイガーの探偵術は、ジプシーらしく人相が決め手。人は見かけによる、という訳だ。英国生まれながら、外国暮らしの長いヒュームが繰り出す、当時の外国事情や美術品についての衒学的な蘊蓄も愉しく、ヴィクトリア朝ロンドンの雰囲気も相まって、昔懐かしい探偵小説的世界を満喫した。あまり知られていない作家だが、なかなかの小説巧者だ。これを機会に見直されてもいい。

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# by abraxasm | 2017-01-29 16:46 | 書評
e0110713_13485453.jpgパリ郊外のもとは野菜畑だった荒れ地におんぼろのキャンピングカーがずっと停まっている。そこに住んでいるのは、長い髪にロング丈のスカートをはいた女たちと裸足で走り回る子どもたち、そして一日中何もせずに話し込んでいる男たち。彼らは「ジプシー」。近頃では「ロマ」と呼ばれることが多いが、フランスでは「ジタン」、スペインなら「ヒターノ」と昔から呼ばれてきた。荷馬車をねぐらに各地を放浪しては音楽や占い、曲芸によって、日々の糧を得る人々だ。

常に移動することで定住者とは距離を置いてきたが、最近では定住を選ぶ者も多くなり、それを喜ばない地区住民との間に軋轢が生じることも多い。キャンピングカーで暮らす家族も、かつて宿にしていた無人ホテルを追われ、ここに移動してきたのだ。しかし、好意的だった土地の所有者が死ねば、土地は市の所有となり、ここも出ていかなければならない。そんな家族のもとを訪れる一人の女がいた。これは、あるジプシーの一家と一人のユダヤ人女性の心の交流を描いた物語である。

元看護婦で今は図書館に勤めるエステールは、黄色いルノーに乗って野菜畑にやってくる。一家の長はアンジェリーヌという老婆。五十七という年齢は老婆というほどの年ではないが、顔に刻まれた皴や、真っ黒に穴の開いた虫歯だらけの口では、そう思われても仕方がない。彼女はそこらに落ちているごみを拾ってきては火の中にくべ、日がな一日焚火にあたっている。アンジェリーヌは、自分を怖がらずに話しかけるエステールのことが気に入り始めている。

エステールは、学校にも行かず、冬でも薄着、裸足でそこら中を走り回るだけしか遊びをしらない子どもたちに本を読んで聞かせたいと思ったのだ。一週間に一度水曜日に、エステールは本を車に積んでやってくる。はじめは警戒していた子どもたちも、次第にその日が待ち遠しくなってくる。絵本『ぞうのババール』からはじめた読み聞かせが、だんだん長いものに変わってくる。それと同時に、母親たちとも親しくなってくる。初めは遠くから睨んでいた男たちも、次第に近くに寄ってくるようになる。なかでも兄弟の中で唯一独り者のアンジェロはエステールに恋をする。

プライドばかりが高く、まともな仕事には長く就くことができない男たちに代わって、女たちは少ない水で、料理、洗濯をし、残ったお湯で子どもたちを洗ってやる。食べるものは食堂の残飯を頂戴してくる。冬場はいいが、夏は長くもたないので苦労する。水も自由には使えないので、体や服はいつも臭うし、髪は伸ばし放題だ。しかし、性格はいろいろだが、どの女も自分たちの生活に誇りを感じている。クリスマスには鶏をつぶし、ホームレスを招待してパーティーを開く。夜通し焚火を囲んでの酒盛りだ。無論歌って踊る。

エステールは、アニタという少女が学齢に達していることを知り、学校に通わせたいと思う。しかし、地区住民でないジプシーに学校は冷たい。ジプシーもまた学校は自分たちには縁がないと感じている。事実、エステールの努力で通学できるようになったアニタは、強烈な臭いのせいでいじめに遭う。夜の遅いジプシーは朝が苦手で、アニタは毎日遅刻せずに学校に行くことができない。ジプシーの伝統的な暮らしと一般市民の暮らしとの格差にとまどうエステール。しかし、文盲の苦労を知るアニタの父は学校生活の必要性を感じていた。

子どもと同じ一つ屋根の下で暮らしながら、欲望を抑えられない夫は、いつも妻を求める。妊娠に継ぐ妊娠。時には流産もある。夫はといえば、すぐに暴力をふるう男や、妻を愛しながらも浮気の絶えない男、とろくでもない男ばかり。生まれた子どもは母親に任せっきりで、家事の手伝いなどしない。それではどこかで働くのかといえばふだんの不品行が原因で、まともな職場では使ってもらえない。エステールの向ける、男たちへの視線はなかなかに厳しいものがある。

多くの小説に登場しているジプシーだが、多くは犯罪者だったり、占いなどの特殊な力を持つ者だったりで、話に陰影をつける役割を果たすのみで、ジプシーの家族を正面から描いた小説には不勉強のせいか、あまり出会うことがなかった。タイトルから、本との出会いがジプシーたちを変える物語かと期待しつつ読んだのだが、ある面ではその通りであり、ある面ではちがっていた。変わるものは変わるが変えられないこともあるのだ。

エステールの介入は、ジプシーの一家にとって、それまでは当然のこととして受け取られていた、男への服従や、伝統的な暮らしの継続という決まりに対する揺らぎを生じさせることになる。ある者は夫を捨て子どもを連れて街へと去り、ジプシー暮らしをやめる。アンジェリーヌを核とする、兄弟たちの大家族集団は、すでに維持できなくなっていた。新しい出会いがあり、悲しい別れがある。話者の視点は、常にジプシー一家の傍にあって離れない。「本を読むひと」と題名にあるエステールの帰るはずの家は一度も語られることがない。

『本を読むひと』という表題は、原題通りではない。原題は直訳すると『恩寵と貧困』。貧困は疑いようがないが、キリスト教でいうところの「神の恵み、慈しみ」が、どこにあるというのだろう。サンドロという男の子はコインを拾った幸運が忘れられず、下ばかり見て道を歩いていてひき逃げに遭う。妻に逃げられたシモンは警察の厄介になった挙句精神病院に入れられる。どこに恩寵があるというのか。いや、あるのだ、おそらく。エステールがここに通いつめたのは、そこにあったからだ、恩寵が。アンジェリーヌの語る言葉の中に、野菜畑での日々のつましい暮らしの中に、エステールの語る物語を聴く子どもたちの心の中に。

住む家はおろか家電からIT機器にまで囲まれ、何の不自由もない生活を送っているわれわれ日本人からみれば、何も持たず、何も欲しないアンジェリーヌたちの生き方は、貧しさの極みにあるかのように見える。しかし、濃密な家族間の愛情や、季節の巡りに合った単純素朴な暮らし、本や言葉、文字に対する激しい飢餓感、といったものが今を生きる私たちに果たしてあるだろうか。放浪の民であるジプシーの家族のなかに分け入った闖入者の眼で、子細に語られる日々の裡にこそ、われわれ現代人が見失った何かがある。それは「恩寵」としか呼び様のないものかもしれない。


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# by abraxasm | 2017-01-27 13:50 | 書評
e0110713_09273265.jpg朝の六時半、男の家に電話がかかってくる。男は私立探偵。弁護士から仕事の依頼だった。八時に到着する列車から女を探し、宿泊先を突き止め、報告せよというのだ。ディオールで身を固めた秘書から小切手と女の写真その他を受け取り、駅に向かう。女は駅で別の男と待ち合わせをしていた。探偵の眼には女は男に強請られているように見えた。何かを書いた紙を手渡すと男は車で去り、女は列車に乗った。探偵は終着駅で降りた女の後をつける。

おとなしく依頼人のいうことを聞いていればいいのに、いつもの詮索好きが高じてトラブルの渦中に巻き込まれるのが、この探偵の悪い癖。金のためだけに探偵稼業をやっているわけではないからだ。男の名はフィリップ・マーロウ。女は何か訳ありの様子。困っているなら力になるが、訳を聞きたい、と自分の身許を明かしてしまう。深夜、その女ベティがマーロウの部屋を訪れ、自分の部屋のバルコニーに男の死体がある。始末してくれたら金を払うと持ち出す。

現場に行ってみると、死体は影も形もなくなっている。睡眠薬で眠ってしまったベティを部屋に残し、マーロウは聞き込みに回る。夜間の駐車係が、その男ならホテルの支払いを済ませて出ていったと証言する。消えた死体の代わりにマーロウが見つけたのは、自分の家で首を吊って死んでいる駐車係の死体だった。マーロウとベティの周りには、消えた男の後を追う、カンザスから来た私立探偵が煩くつきまとい、謎は深まるばかり。大金を所持した女は何者で、消えた男の握る女の秘密とはいったい何なのか?

私立探偵フィリップ・マーロウの活躍を描くシリーズ第六作。次作の『プードル・スプリングス物語』は未完(続きを書いたのはロバート・B・パーカー)に終わったから、チャンドラーによるマーロウ物としては遺作になる。その割には評価は低い。たしかに、事件自体が地味で、舞台となる土地もロサンジェルスではなく、南に百六十キロほど離れたサン・ディエゴ市の一部、エスメラルダという富裕層が暮らす海辺の町。

引退した老人たちが、持て余した老後の日々を暮らす海浜ホテルが舞台とあっては、緊迫感が薄く、おまけに首つり死体はあるが、事件の鍵を握る肝心の強請り屋の死体がいつまでたっても出てこない。それに、相変わらず後頭部をしたたかに殴られたりはするものの、地元警察はやけに協力的で署長もなかなかの人物と来ては、さしものマーロウも突っ張りようがない。海岸の保養地には土地開発をたくらむ悪人やギャングたちの陰もなく、マーロウが対峙する巨悪というものが存在しない。

これが出版された時、チャンドラーは七十歳。愛妻シシーを亡くし、さすがのチャンドラーも気落ちし、酒浸りであったらしい。そのせいか、最初からマーロウは「お若いの」と呼びかける依頼人に、電話口で「すみませんね、ミスタ・アムニー。しかし私はもう若くはありません。年を取っていて、疲れていて、コーヒーもまだ飲んでいない」とぼやく始末。青年期のマーロウの突っ張りを懐かしく思っても、無理というもの。どんなヒーローだって年を取る。それは仕方のないことだと思う。

でもあろうが、相変わらず減らず口をきき、突拍子もない比喩をまき散らすマーロウの口ばっかりは達者なものだが、肝心の気構えのほうはどこへやってしまったのか。訳者もあとがきで書いているように、この作品には、人口に膾炙した、あの有名な「タフでなければ生きていけない。優しくなれなければ生きている資格がない」という決め台詞があるというのに。いつになく、マーロウは女に対してガードが低い。ディオールを着た秘書とベッドインしたり、依頼人となったベティと関係を持ったり、その辺にごろごろしているハード・ボイルド小説の探偵みたいなやわな身振りを露呈する。

例の台詞、原文は<If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.>。訳者による直訳は「冷徹な心なくしては生きてこられなかっただろう。(しかし時に応じて)優しくなれないようなら、生きるには値しない」となる。それなのに、今回のマーロウは、なぜか惰弱な心を相手に見せる。一度しか相手にしない女と寝ることが「優しい」ことだとでも思っているのだろうか。そこを厳しく律してこその「優しさ」ではないのか。少なくとも、これまでのマーロウなら、瘦せ我慢していたところだ。

これが年をとるということなら、やはりヒーローには年をとってほしくなかった。体力的に衰えるのは仕方がない。推理力や直観力に若い時ほどの冴えがなくても我慢する。それでも、こんなに自分の欲望にやすやす屈するマーロウは、やはり「らしく」ない。映画のシナリオとして書かれた同名の作品を小説化したもので、もともとのシナリオはマーロウが主人公ではなかった。それが原因なのかもしれない。あるいは、次作『プードル・スプリングス物語』で、あの『ロング・グッドバイ』のリンダ・ローリングと結婚させる布石だったのだろうか。

そういえば、マーロウに親切なロッジで働く恋人たちは作品の中で愛を育み、見事ゴールインするし、探偵顔負けの観察力を見せる上流階級出身の老人も、同じホテルに住む女性との結婚を見越している。かつては汚れた街を行く孤独な騎士だったマーロウも、とうとう年貢の納め時が来たのか。年をとり、疲れた騎士は馬を下り、想い人の胸にやすらいを求めるのか。プロットはいささか弱く、ひねりもない。けれども、地味で小粒ながらチャンドラー流の文章は充分味わうことができる。これで村上訳のマーロウもすでに六作。後は『湖中の女』を残すのみだ。愉しみはまだ残されていると思うことでよしとしよう。

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# by abraxasm | 2017-01-25 10:03 | 書評
e0110713_1552046.jpgこういっては何だが、本人の書いた源氏物語を材にとった小説『女たち三百人の裏切りの書』より面白かった。現代語訳とはいっても、本来語り物である『平家物語』を、カギ括弧でくくった会話を使用し、小説のように書き直したそれは、もはや別物だ。加筆した部分に作家自身の小説作法が顕わで、いかにも小説家らしい訳しぶりであることが評価の別れるところかもしれない。が、そのおかげで、この大部の物語を読み通せるのだから、ありがたいと思わないわけにはいかないだろう。

読み通した人は少ないだろうが、誰でも中学や高校の教科書でその一部は読んだことがあるはず。冒頭部分の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」を暗記している人も多いだろう。那須与一の「扇の的」や、義仲の死を描く「木曽最期」など、授業で教わったことを今でも覚えている。また、歌舞伎にも『熊谷陣屋』、『平家女護島』など、熊谷次郎直実や俊寛僧都といった『平家物語』に登場する人物にスポットを当てた芝居も多い。

そうした有名な合戦の様子や武士たちの戦いぶりばかりが目に留まりがちだが、冒頭部分にあるように、『平家物語』は、諸行無常、盛者必衰といった仏教的無常観にどっぷり浸かった物語だ。また、祇王、祇女と仏御前の悲話からはじまり、後白河法王が草深い大原の里に建礼門院を訪ねる「大原御幸」で終わる、そのことからもわかるように、戦いに明け暮れる男たちだけでなく、その陰で夫や子、孫、想い人と別れなければならない女たちの物語でもある。

もちろん、「平家にあらずんば人にあらず」とまで言わせた栄耀栄華の暮らしから、清盛の死を契機に凋落、源氏の旗揚げにより、西国に落ち延び、壇ノ浦で滅びるまで平家一門の姿を追った部分が主たる筋となる。それを太い幹としつつ、幾つもの挿話が枝分かれし、時には本邦を遠く離れ、中国にまでおよぶ。項羽と劉邦、蘇武に李陵、玄奘三蔵まで登場するにぎやかさだ。おそらく、琵琶法師によって語り継がれてゆくうちに、増殖していったものでもあろうが、その雑多な物語群の入れ子状態にこそ『平家物語』の魅力があるように思われる。

数多く登場する武士や公達のなかでも特筆すべきは、頭領である平清盛ではなく、嫡子重盛。清盛が尋常ではない悪人として一目置かれながらも、高熱を発しての有り得ない死の有様を見ても分かるように、どこかカリカチュアライズされて描かれているのに対し、重盛の方は、その学識、物腰、人に対する配慮、朝廷を敬う態度、とどれをとっても申し分のない人物として最大級の扱いを受けている。平家の凋落は、重盛が神意によって病を得て、父より先に死ぬことがその遠因となっている。

しかし、聖人君子のような重盛では物語の主人公はつとまらない。そこで、登場するのが朝日将軍木曽義仲や九郎判官義経といった武人たちだ。現役バリバリの小説家による現代語訳最大の成果は、人物造形の力強さにある。特に義仲は、奔放なエネルギーを持て余す豪傑として出色の出来。「だぜい」を語尾につけるところは、どこかの芸人みたいだが、都流の雅など知らぬと言いたいばかりの無礼千万な振る舞いは、いっそ小気味よく、墨をたっぷり含ませた太筆で一気に描き切ったといった感じ。剛毅であって、稚気溢れる人物像が粟津の松原での最期のあわれをいっそう搔き立てる。

それに比べると、反っ歯で小男という外見もそうだが、奇手奇策を用いて相手の隙を突く戦法を得意とする義経は、あまり英雄豪傑らしくない。搦め手の大将という位置にありながら、功名手柄を独り占めしたがり、配下の梶原平蔵相手に先陣争いをしてやり込められるなど、梶原の言う通り将たる者の器量ではない。扇の的を射た後、船上で舞い踊る人物を必要もないのに射させるなど残虐なところもある。性狷介固陋にして子飼いの者にしか心許すことがない。後に先陣を許されなかったことを恨みに思う梶原の讒訴により兄との仲を割かれるが、あながち梶原ばかりが悪くはないと思わせる人物として描かれている。

意外に思うのは、重盛をはじめとする当時の政治家たちが自分の国をどう見ていたかという点である。幼帝の践祚や還俗しての重祚など、何かというと中国の先例を引いて、その正当性を確かめようとするところに、中華文明圏の一員としての自覚を見ることができる。自分の国は粟粒ほどのちっぽけな島であるという言葉さえ見られる。また、自分の置かれた状況を図るのに、『史記』にある蘇武や李陵の例を引くなど、中国文化をモデルにして生きていたことをうかがわせる。自分の国の小さいことや歴史の浅さをよく知り、中華文明を生きていく上での規範としていた訳だ。

多くの作者によって語られた物語群の統合としてある『平家物語』。そのなかに、何人かは知らないが、世界を俯瞰できる眼の持ち主がいたのだろう。今でこそ『平家物語』は軍記物の古典である。しかし、当時これだけのものを書こうと思えば、中国古典に習うしかない。そして、そのなかに仏教的無常観を招じ入れ、独特の語り物文学をつくり上げた。訳者は、そこに諸国放浪の琵琶法師はもとより、皇族、公家や武士、多くの女人たちの声を聴きとり、ポリフォニックな語りの文体を採用した。かなりの長さだが、単調になることなく最後まで面白く読み通すことができたのは、その工夫によること大である。古川本で『平家物語』を読んだ、という人が増えることはまちがいない。
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# by abraxasm | 2017-01-21 15:52 | 書評
e0110713_1742119.jpg『タルト・タタンの夢』、『ヴァン・ショーをあなたに』に次ぐシリーズ第三弾。商店街の中にある小さなビストロを舞台に、訳あり客の持ち込んだトラブルや悩みをシェフが解決するアームチェア・ディテクティブ・ミステリ連作短篇集である。店の名前はビストロ・パ・マル。スタッフは四人。フランスの田舎で料理修業をしてきた長髪に無精ひげの料理長三舟。スーシェフの志村。紅一点のソムリエ金子、それに狂言回しをつとめるギャルソンの「僕」(高築)の四人。カウンター席七つに、椅子席五つの店は小さいながら、いつも予約で埋まる人気店だ。

シリーズの人気を支えるのは、一つは料理。パリの有名店ではなく、フランスの地方を回り、郷土色豊かな各地の味を自分のものにしてきた三舟の出す料理は、気取らないが美味。さりげなく語られる蘊蓄も楽しく、それがミステリに付き物の謎を解く探偵術となっている。今回もアルザスの名物鍋や、フレンチ・アルプス地方のパンに隠された秘密が、人と人との心を結ぶ役割を果たす。どこから仕入れてくるのかは企業秘密だろうが、よく次から次へとこんなネタを見つけてくるものだ。また、その料理の仕方がにくい。ビストロもそうだが、リピーターはそこの味を楽しみに足を運ぶ。材料は目新しくとも、いつもの味でないと満足できない。

ほとんど厨房から出ることのない三舟は、カウンター越しに客の漏らすふとした言葉や、ホールで高築と客のかわす何気ない会話から、客の抱える悩みや問題をつかんでしまう。その場所から離れることなく持ち前の知識に論理的な推理力を働かせて謎を解く。椅子にこそ腰かけていないが、典型的なアームチェア・ディテクティブ(肘掛け椅子探偵)ではないか。スーシェフの志村もまた、鋭い観察眼の持ち主で、シェフの片腕をつとめる。三舟(船)と志村といえば映画『酔いどれ天使』以来黒澤組の名コンビ。阿吽の呼吸で謎解きにかかる手際は料理を捌くときと同じだ。

メニューに似せた意匠で供される料理は八品。いずれも、仕込みから力の入った逸品ぞろいだ。一品目は「コウノトリが運ぶもの」。コウノトリの絵柄の鍋が、いつの間にか離れたままになっていた父と娘の思いをつなぐ。フランス各地を渡り歩いた三舟ならではの郷土料理の知識と鋭い推理力が相俟って、かたくなだった乳製品アレルギーを持つ、かつてのパン職人の心を解きほぐす。事件解決の後の一言がしみじみと胸に響く名品。

自分の店を火遊びのアリバイ作りに使われた三舟が、いつになく厳しく客に接する「青い果実のタルト」。偏食がちの少年と新しい父になる男を結びつけるのに一役買ったのは、バレルいっぱいのフライド・チキンだった。いつまでも少年の心を失わない生物教師が少年の知的好奇心に火をつけた「共犯のピエ・ド・コション」。ヨーロッパ由来であれば豚の血のソーセージを食べるくせに、アジア人が食べる「四川火鍋」は野蛮だと感じる日本人の差別意識を突いた「追憶のブーダン・ノワール」。ここでも三舟の客を思う一言が人が心に立てる壁をこわす働きをする。

蝶ネクタイに口ひげの紳士、ムッシュ・パピヨンこと西田が目にとめたのは姉妹店のブーランジェリが試作したブリオッシュ・サン・ジュニ。アーモンドのプラリーヌの入ったブリオッシュで、フレンチ・アルプス地方のパン屋ではよく見かけるもの。イタリア、トリノで研修中に知り合った女性が別れるときに渡してくれたのがそれだった。その人を忘れることができず、再度訪ねたときは死んだと聞かされていたが、ブリオッシュ・サン・ジュニには、ある伝説があった。伝説に込められたメッセージを三舟が解き明かす「ムッシュ・パピヨンに伝言を」も泣かせる。

突然姿を消したパティシエールの残した「マカロンはマカロン」という言葉から、「彼女」の胸中を察した三舟は、昔なじみのレストランのオーナーに語りかける。男性優位の料理界で女性がやっていくことの難しさをサブ・プロットに生かした今日風の問題を追った表題作。友人のふりをして、相手を罠にかけたのか、と生肉を調理して出す料理店ならではの危機感を追求した「タルタルステーキの罠」。不穏な雰囲気がいつもとはちがった味わいを湛える。意表を突いた解決が鮮やか。

最後の一品は、めずらしく後味にほろ苦いものが残る一篇。人に喜んでもらいたいという一心が、かえって相手の心を傷つけていることがある。人間関係の難しさを題材にした「ヴィンテージワインと友情」は、ワインの持ち込みを扱ったレストランでの振る舞い入門にもなる一篇。飲みきったワイン・ボトルの底に澱のようなものが残る話だが、そこは近藤史恵。最後に救いの残る結末にしている。

出てくる料理がどれも美味しそうで、近くにビストロがあればすぐにでも飛んでいきたくなる。なかでも、スペシャリテの豚や鶏のレバーを使った田舎風パテは、きっと大好物。カリカリに焼いたバゲットに塗って食べれば絶対うまいにちがいない。赤ワインを飲みながら、それだけでもいいくらい。この本は、お腹が空いているときに読んではいけない。いわゆるフード・テロになりかねない。食事を済ませて、ゆっくりした気分で味わいたいもの。
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# by abraxasm | 2017-01-17 17:42 | 書評
e0110713_16305369.jpgイングランド北部に位置する古都ヨーク。時は1951年。今しも、一人の女の子が母親の子宮に着床しようとしている。ユーモアたっぷりに語るのは、なんとその産まれてくる赤ん坊で名前はルビー。母親はバンティという家事に追われる主婦。父親のジョージは一階でペット屋を営んでいるが、店番を妻にまかせては、しょっちゅう家をあけている。肉屋のウォルターと飲んでいるというのだが、女好きでバンティにも色目を使うウォルターといっしょでは、何をしていることやら。そのせいもあって、この夫婦の仲は険悪。産まれてくるルビーも気が気でない。

同郷の大先輩である、スターンの『トリストラム・シャンディ』に敬意を表してか、有名な書き出しに倣って語りだされた物語は、ルビー・レノックスという女の子の半生を、時間の順序に従って物語る自伝だ。一方、各章の後につけた「補注」では、ルビーの母バンティ、祖母のネル、曾祖母のアリス、と女系一族四代の歴史を、こちらは時間順ではなく出来事に沿って紹介する。こうすることで、二つの大戦をはさんだ時代、一族を襲った運命の悲喜劇を、枝を張り巡らし葉を生い茂らせた家系図を織り上げた綴れ織りのごとき、一大叙事詩としてみせる。

そうはいっても、『戦争と平和』とはちがって、そこは庶民。大舞踏会も名誉をかけた戦いも用意されはしない。戦場に出た男たちは、突然の砲弾に吹っ飛ばされたり、死の予感にさいなまれながら生きのびたり、とロマンティックなところなどまるでない。人はやたらとあっけなく死ぬ。そのとことん非情な筆致がかえって印象的なほど。あたかも、死など人間のあずかり知らぬことであるかのようで、主人公の姉のジリアンはクリスマス・イブの夜、車に轢かれて死ぬし、父のジョージは結婚式の披露宴の最中、ウェイトレスの上に負いかぶさって腹上死する始末。

ファルス(笑劇)のような大騒ぎのドタバタがレノックス一家の休暇旅行や結婚式にはついて回るが、その底に家族の秘密が隠されている。夢遊病に悩むルビーには長姉のパトリシア、次姉のジリアンという二人の姉がいる。ルビーはしっかり者のパトリシアは信じられるが、美人だが意地悪なジリアンは信じない。母親はなぜか、子どもたちに厳しくあたる。バンティが家出した休暇旅行では、ジョージは愛人のドリーンに子どもたちの面倒を見させ、一人家で店番をするなど、家族の仲はバラバラだ。

英国には「どの家の戸棚のなかにも骸骨が隠されている」ということわざがある。どうやらその骸骨が悪さをしているようなのだが、語りを任されているルビーはそれを知らない(ことになっている)ので、冒頭から、なんか変だ、どこか引っかかるといったところが度々顔を出す。それは、作者による仄めかしであって、信用できない語り手であるルビーとともに、読者は最後までつき合うことでしか、その秘密を知ることはできない仕掛けになっている。もっとも、注意深い読者なら冒頭に記された一族の系図を見るだけで分かるようになっている。この辺りは、実にフェアでミステリ通の読者なら骸骨の正体を見破れるかもしれない。

ただし、物語を読む楽しみは単なる謎解き興味にあるわけではない。四代の女主人公それぞれの女としての生き方に焦点をあててみるとき、「間違いの人生」というテーマがそこに宿っていることがわかる。戦争や病気その他によって、男たちは女の前から姿を消してしまう時代。愛した男は戦場から帰って来ず、女はあてがいぶちの男で我慢するしかなかった。また、その男たちがどれもこれも仕方がない奴ばかりで、女を手に入れるまではそれなりの男に見せていても、自分のものにしたら、賭け事狂いだったり、飲んだくれだったり、女に手を挙げる男だったり、と化けの皮が剥げる。

女がそんな人生が間違いだと知って、逃げ出したり、不倫に走ったりすれば、そこにはまた別の苦しみが待っていた。四代の女の人生は、「間違いの人生」という一点で重なる。特に、主人公ルビーと、その母バンティの二人の人生は、二人が共有する「秘密」によって、決定的にボタンを掛け違えたまま時が過ぎる。その二人を見守る位置にありながら、利発で自意識の強いパトリシアは、母親を挑発し、自分に似て賢くなりつつある妹を横目に見やりながら、60年代を自立した女性へと駆け抜けて行ってしまう。

エリザベス二世の戴冠式からフォークランド紛争に至るまでの英国を背景にしながら、当時流行した音楽や映画、文学をためらいを見せずにたっぷりと引用したところが楽しい。因みに、パトリシアが夢中になる対象はエルヴィスからビートルズに移り、ローリング・ストーンズに変化するが、最後は仏教徒として禅の瞑想に耽るようになる。その間、ルビーは、『失われた時を求めて』をはじめ文学書を読み漁り、自分の葬式には、レナード・コーエンやテレンス・スタンプ、マリア・カラスが参列する夢を見る。同時代を生きた者としてはニヤリとしたくなるセレクトである。

系図上に登場する多くの人物と、周縁の知人を含めると信じられないくらい多くの人名が登場する。しかも、ゆかりの名前をもらった同名異人も少なくないので、一読して理解するのは難しいかもしれない。しかし、よく読んでいくと、とんでもないところで既知の人物ゆかりの人物とめぐりあったりするので、あっさり読み飛ばすのは惜しい。昔、「一粒で二度おいしい」というキャラメルのコピーがあったが、一冊の本も再読することで、読書の楽しみが倍加することがある。これはその種の本である。

個人的には、ペット・ショップの火事を生き抜いたラッグズ(ボロ布)という名の犬と、ハンドラーであるジャックを慕って、戦場を飛び交う砲弾の間を搔い潜り、最後に被弾してしまうベップの運命が胸を打った。傷ついて塹壕に戻れなくなった犬を救いに飛び出し、自分の命をちぢめてしまうジャックと、バンティに動物愛護協会送りにされそうになったラッグズをすんでのところでポケット・マネーで買い戻したパトリシアに共感した。あまり本を読んで泣くことはないが、ここのところでは鼻がツーンとなった。本作はサルマン・ラシュディらを抑え95年、栄えあるウィットブレッド賞を受賞した作者初の長篇である。
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# by abraxasm | 2017-01-15 16:31 | 書評
e0110713_1593516.jpg2017年、年が改まって早々、坂本龍馬が暗殺される五日前に書いた手紙が発見された。福井藩の重臣に宛てた手紙で、謹慎中の三岡八郎(後の由利公正)を「新国家」の財政担当者として出仕させることをせかす内容である。竜馬が明治政府を「新国家」と評していることが新発見なのだが、その財政担当を薩長の武士ではなく、福井藩士にさせようとしているところが興味深い。由利は後にその任に当たり、新紙幣発行に関わることになるが、これにはどんな子細があるのだろうか。

話は簡単だ。維新の志士たちは、みな下級の貧乏侍で、その鬱憤晴らしに幕府相手に戦争を仕掛けたわけで、長崎のグラバーら武器商人によって新式の銃砲を手に入れたことにより、鳥羽・伏見の戦いに勝った。しかし、新政府の顔ぶれを見渡しても貧乏公家やら侍ばかりで財務の要職にあった人間は一人もいない。頼みとする幕府側の有能な勘定奉行であった小栗上野介はすでに亡い。そこで、松平春嶽が家臣の由利公正に資金調達を命じた。これを請けたのが三井であり、ここから財閥と明治政府との深い関係がはじまるのである。

と書いてくるとなんだか、近現代日本史にずいぶん詳しいようだが、これは全部広瀬隆著『日本近現代史入門―黒い人脈と血脈』の受け売りである。広瀬隆といえば、原発が本当に安全なら、なぜ東京に作らないのか、と突きつけた『東京に原発を!』や、ジョン・ウェインやスティーヴ・マックィーンといった西部劇役者の相次ぐガン死は、当時の西部劇の撮影地が核実験場に近接していたことによる、と見抜いた『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』で知られる。原発事故の恐ろしさを訴えた『危険な話』は話題になり、「朝まで生テレビ」にも出演した。

芦浜原発反対を唱えるグループが氏を講師に呼んだ集会で直接話を聞いたことがある。そのときの話では、これからはコジェネレーションの時代。もう原発の時代ではないだろう、というものだった。幸いなことに芦浜は作られることがなかったが、福島第一原発の事故が、氏の危機感の正当性を裏打ちしたのは皮肉なことであった。その後、ロスチャイルド家の門閥についてメスを入れた『赤い楯』などを書いていたが、ここに来て、現在の政治状況に危うさを感じ、この本を書いた。一つは危機感からであり、今一つは若い人が反政府行動に立ち上がったことに力を得たためでもあるようだ。

題名は歴史の入門書のようだが、内容は副題の「黒い人脈と金脈」の方が当を得ている。私たち日本人が学校で教えられてきた近現代史は、いわば建前の歴史で、本音の歴史の方は表立って語られることがなかった。それはそうだろう。いくらなんでも、この本に書かれているように財閥が政治家を動かし、政治家は資産家や皇族、華族と婚姻関係を繰り返して、複雑にして密な閨閥を作り上げる。当初軍とは距離を置いていた財閥も、財政危機で国民が窮乏し、テロが横行し始めると、今度は軍人との間に閥を作り上げ、保身を図るとともに軍閥を利用して戦争を起こし、兵器産業でぼろもうけを図る、などということを、関係者があからさまにするわけがない。

政治家に限らず、世評を操る者たちは、ヒストリー(歴史)ではなくストーリー(物語)をつくりあげることに血道をあげる。小説や映画が歴史を作るのだ。広瀬隆は司馬遼太郎の『坂の上の雲』をはじめとする「日清、日露戦までの日本人は良かった」という所謂司馬史観が特に気に入らないようだ。これを読めば分かることだが、そこに断絶はない。戦争によって金を儲け、儲けた金をまた軍備につぎ込むという動きは、むしろ連綿と続いている。財閥と軍閥によるこの動きが朝鮮の植民地化や満州国建設、大東亜戦争へとレールを敷いたのは誰の目にもはっきりしている。

少し前、明治維新についての映画を政府主導で作るというニュースが飛び込んできたが、これなどもその一つ。政府によるプロパガンダ映画製作という発表に思わずナチスを思い浮かべてしまったが、現政権ほど露骨に自分たちが戦後日本の継承者ではなく、明治維新を成し遂げた長州閥の系譜にあることを表明する政権は過去になかった。彼らにとっては、(審らかではない)ポツダム宣言も、東京裁判も、日本国憲法も、一時の気の迷いのようなものなのだろう。

なぜ財閥がここまで力を持つに至ったかといえば、下級武士が名を連ねた明治政府には財政能力にたけた人間がいなかった、というバカみたいに単純な答えが待っていた。NHK大河ドラマの『花燃ゆ』を思い出した。なるほど、松下村塾に集った連中よりは、同じNHKの『龍馬伝』における岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)の方が、よほど金については詳しかろうと思わされる。

その松下村塾で塾生を指導した吉田松陰のイデオロギーが朝鮮や満州への侵略の道筋をつけたというのが広瀬の論旨だが、そういわれてみれば、なぜ産業遺産でもない松下村塾が安倍政権下で「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の名で世界遺産入りを果たしたのかという訳もわかってくる。もっとも、その多くが明治ではなく、江戸時代にできているのが皮肉だが。

身も蓋もない話の連続で、正直開いた口が塞がらないが、これはこれで一つの歴史なのだろう。視点を変えるだけで、これだけのことが見えてくる。資料に当たって論を組み立てるのが持ち味の広瀬隆の本には図表がつきものなのだが、松方正義や福沢諭吉をはじめ全財閥の閨閥のリストだけでも参照する価値がある。なかでも、「長州のアジア侵略者が明治維新以来組み上げた閨閥」がすごい。もちろん最後に来るのが安倍晋三であることは言うまでもない。

「入門」とあるように、誰でも読める読み物になっている。特に、幕末から明治にかけてのところが面白い。福沢諭吉や渋沢栄一がどのようにして財閥を作り上げていったかが活写されている。朝鮮・満州・アジア侵略の歴史も教科書では教えてくれない事実が記されていて貴重だ。日本国憲法がアメリカの押しつけであったかどうかも、丁寧に解説されている。ただ、時代が現代に近づいてくると公害問題など、既知の事実との差が小さくなるのは仕方のないところか。歴史上の人物の実態暴露が読ませる。吉田茂はもちろんだが、GHQに物申した男として持ち上げられることの多い白州次郎も、広瀬の手にかかると滅多切りである。

一般大衆の側に視点を置いて見れば、日本の近現代史はこう見える、というのが本書の意図するところだろう。一読後はレファレンス資料として、お茶の間(死語か?)の一角に常備されるとよい。ドラマなどに登場する有名人は、必ずどこかの閨閥に引っかかっている。それを眺めながらドラマを見るのも一興。学校図書館にも是非推薦したい。歴史好きの子には、教科書で教えられる歴史の格好の解毒剤になることだろう。
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# by abraxasm | 2017-01-11 15:10 | 書評
e0110713_13422411.jpg少年期に負ったトラウマが、その後の人生を送る上で、人にどれだけの影響を与えるものか。登場人物のそれぞれが皆、過去に傷を負っている。傷を負いながらも、たくましく生きるタフな女性もいる。主人公の親友ブルックリンや、旅先で出会った少女レインのように。また深く傷つきながらも、そこから恢復し再生する者もいる。ただ、負った傷がトラウマになるほどの深い傷である場合、本人の意志だけではどうにもならない場合がある。主人公とその恋人の場合がまさにそれだ。

主人公はカリフォルニアの小さな化粧品会社で働く漆黒の肌をした魅力的なブライド。バリバリのキャリア・ウーマンで、今は次のキャンペーンのアイデアを練っているところ。ただ、六カ月の間うまくいっていた恋人が、昨日口げんかした後、出ていったまま帰らないことに思いがけず動揺している。よく考えれば、住まいも生活費も全部自分が面倒を見ていたブッカーのことを何も知らなかった。知っているのは、唇と肩にある傷痕を除けば、ほれぼれするほどのいい男ということくらいだ。

けんかのきっかけはブライドが小さい頃アパートの大家が児童虐待をしていた場面を目撃した話。母親に口止めされて黙っていたことをブッカーが責めたのだ。ブライドは真っ黒に生まれたが、母は白人で通るほどの色白。人種差別が激しい時代、黒人と分かれば差別を受ける。その大家は黒人の母子をかろうじて受け入れてくれていた。母親は黒い娘と距離をとっていた。ブライドは、物心ついて以来、母に手をつないでもらったことがない。母親の関心を引くためなら何でもした。たとえそれがよくないことでも。

小さい子どもに対する虐待が、この小説の核となっている。直接間接の被害者がそれによって受ける心的外傷(トラウマ)のために苦しむ。防衛機制のために退行現象を引き起こしたり、過剰に攻撃的になって他者を許せなくなったり、人によって出方は様々だが、自分ではどうしようもない。周りにいる人間には、当人の陥っている状況がのみ込めず、ちぐはぐな対応が余計にことを難しくする。

自分の過去を清算するためにとった行動が思わぬ結果を呼び、傷ついたブライドは仕事を親友のブルックリンに任せ、ブッカーの行方を追う。なぜ、「おまえは、おれのほしい女じゃない」という捨てぜりふを残してブッカーは去ったのか?荷物の中には本が残されていた。ファッション雑誌しか読まないブライドにとって、ブッカーはいったい何だったのか。ブッカーを探す旅が自分探しの旅に重なっていく。愛車の灰色のジャガーを駆ってアメリカの中西部を走るブライドの旅がロード・ムービーのように展開する。物語が動き出すここからが非常に魅力的だ。

旅の途中、自動車事故を起こして骨折したブライドを助けた中年ヒッピー夫婦と、その夫婦に拾われたホームレス少女との出会いがブライドを少しずつ変えてゆく。ブッカーは唯一心を許しているクィーンという叔母のところにいた。ブッカーの人となりが少しずつ明らかになるにつれ、彼の抱え込んでいたものの重さが分かってくる。人は一人で生きていくことはできない。いい時も悪い時も人は人と出会って、傷つけたり、傷ついたりするものだ。また、その逆に救ったり、救われたりもする。この小説は、人と人とのめぐり逢いの物語でもある。

視点人物が替わるたびに、今まで見えていた事態がひっくり返り、隠されていたことが明らかになる。しかも、章立てが短く、転換が目まぐるしい。ブライドの母親スウィートネス、ブルックリン、ブライドの告発によって囚人となったソフィア、少女レイン、と視点人物をつとめるどの女性も個性的で魅力的だ。そして、最後に登場する何人もの男と結婚し離婚した過去を持つクィーンという赤毛の女性が二人を結びつける運命的な役割を果たす。

人種問題や児童虐待といった話題を扱っているため、読んでいて辛いところもあるが、切れのある文章は生き生きとして力強い。使われている比喩は清新で、登場人物の心理とシンクロした情景描写は生気に満ちている。表題は、ほぼ原題(GOD HELP THE CHILD)通り。主人公の母親が、離れて暮らす娘のことを思って口にする言葉だ。人の親となることの悦びとおそれを思うとき、キリスト者ではない自分のような者にも共感できる祈りの言葉である。

ミステリではないが、物語の発端におけるブライドの刑務所訪問には不可思議性があり、中盤のブッカーを探す旅には、親友によるポスト簒奪の危険や人里外れた場所での事故といったサスペンスが潜んでいる。意外な結末といえるかどうか微妙だが、ブライドの行動の謎は最後には解決される。その意味では、美男美女のこじれた関係の謎を解く、ミステリ的要素を持った恋愛小説といってもいいかもしれない。

1993年にアフリカン・アメリカンの女性として初のノーベル文学賞を受賞したトニ・モリスンの長篇十一作目。一時期、ノーベル文学賞などに、たいして意味はないと思っていたこともあったけれど、アリス・マンローをはじめ、受賞をきっかけに読むことになった作家には、素晴らしい書き手がいることに気づかされた。もちろん、トニ・モリスンもその一人。今まで読んでこなかったことが悔やまれるほどに。
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# by abraxasm | 2017-01-04 13:42 | 書評
e0110713_14284383.jpg全二十五編の短篇集。いちばん短いものは二ページに満たない掌編。確かに短いが、それだけに恐怖感が煮凝り状に凝縮され、飴色をした琥珀の薄明りの中に蟻ならぬ恐怖の本体が閉じ込められている。エヴンソンの物語は、突然訳も知らされずに絶望的な状態の中に放り込まれ、やむを得ずそれを受けいれるところからはじまり、首まで使って身動きがとれなくなったところで、ぷっつりと切れる。読者は、終りが近づくことを怖じ恐れながらも、物語が終焉を迎えることで恐怖から解放される時を待つしかない。短篇という狭小空間にグロテスクのアラベスクを敷詰めるその手法はE・A・ポオの末裔と呼ばれるにふさわしい。

「ダップルグリム」は、馬に魅入られた若い男の逃れられない宿命を描いている点で、本家ポオのデビュー作「メッツェンガーシュタイン」を思い起こさせる。ポオのそれはドイツ・ゴシック小説の意匠を借りて、タペストリーに織り込まれた運命の馬が招く悲劇を描く。エヴンソンは、シャルル・ペローの『長靴をはいた猫』を下敷きに、末の弟に遺産として遺された仔馬が破格の出世を招き寄せる話を書いている。ペローの猫を馬に替えたわけだ。後にダップル(まだらの)グリム(陰惨)と呼ばれることになる黒いまだらのある灰色の仔馬である。

初めて見たときからその馬の人を射すくめるような瞳に見つめられると、「私」は、私の中から引っ張り出され、我を忘れて周りにいるものを殺しまわる。気がつけば「私」は血まみれで死体の中に立っているのだ。「私」が血を浴びれば浴びるほど、馬は大きくなる。馬のおかげで力を得た「私」は、遂には王の位置にまで駆け上がる。主人公の意志で王になるのではない。猫が、馬が、王にさせるのだ。所詮、王とて誰かの操り人形に過ぎないという寓話か。陰惨な話を抑制のきいた文体で記した一篇。

エヴンソンのすごさは、一様に恐怖を描きながらも、変幻自在なそのスタイルにある。古潭もあれば、SFもある。たとえば、語り手が「あなた」に物語る寓話で始まる「無数」。列車に片腕をもがれたはずの男が目覚めると腕がある。手術によって高性能の義肢を与えられていたのだ。義肢を作った技師には、自殺した統合失調症の弟がいた。「自分の身体を、複数の人間が支配権を争う一種の乗り物だと感じる」のはどういうものか、と考えた技師は、義肢の各関節に超小型脳を組み込む。初めはよかったが、腕自体が考えはじめると、男は腕の暴走に悩み眠れなくなる。

切断された腕のほうにはまた別の話がある。「想像を超えた何かを一瞬垣間見て、その後また以前の暮らしに戻らねばならない人間は何をするものだろう」というのがそのテーマだ。話を聞いている「あなた」の置かれている状態が判明すると、これまで語られていた寓話が、実は恐ろしい意味を持つものであったことが分かる。自分を構成しているのは一人ではなく、無数の人ではないか、というのは、片腕や弟といった自分の一部と感じているものが消える、という故知らぬ喪失感とともに、エヴンソンの強迫観念の一つらしく、集中に何度も登場する。

「モルダウ事件」は、タイトルからも想像がつくミステリ風の一篇。複数の報告者による報告書を入れ子状に配した階層性を持つ物語である。ストラットンという金持ち階級の男が、妻と子ども二人を鉈状の刃物で斬殺し、肉と骨の断片を部屋中にまき散らした後シャワーを浴び、留守の間に家族が惨殺されたと警察に電話をする。警察は男を疑うものの弁護士への電話を許可する。ストラットンが電話したのが、報告者ハービソンの勤務する組織である。

ハービソンとストラットンは旧知の仲、というより、前者は後者に恋人を盗られた過去を持つ。しかし、相手はそれを知らない。組織は警察権力に介入することが可能らしい。ハービソンが釈放させたストラットンをどうするかはお察しの通り。ストラットンの失踪を受けて、今度はモルダウが、今やハービソン事件と呼ばれることになった事件を担当する。モルダウとハービソンの二つの報告書の存在が、地下室でこれから起きるであろうことを示唆する、追う者が追われる、監視する者が監視される、「ミイラ捕りがミイラに」という、どこかポール・オースターを連想させるサスペンスフルな一篇。

ポオのようなミステリも書けそうなエヴンソンだが、何故推理小説を書かないのか、その理由を論じたのが、遠く離れた二箇所にある二つの死体が互いに殺し合ったことを示す不可解な事件を描いた「知」だ。ミシェル・フーコー張りの言説をそこら中に点綴して、一つの事件の解決が不能であることを証明してみせる。そして、次のように不遜な言葉を書きつける。
推理小説というジャンルは、ひとつの認識体系にしか属さない。知ることは真実を明るみに出すことであり、知をめぐってほかの考え方を導入しようとしても、つねにジャンルに変調をきたす結果しか招かない。我々としてはせいぜい、ある犯罪が解決不能と見なされ、何も知られず理解もされない地点に行きつくことが望めるのみである――周りの世界を理解する上で自分の認識体系がまったく無力であるにもかかわらず、その認識体系に探偵が頑固に、執拗にしがみつく状態に。/だからこそ私は、私の推理小説をいまだに書いていないのである。

フーコー的な言葉を使って「知」の言説を書いてみるという一種のパスティーシュだろうが、結論部分は、もしオーギュスト・デュパンがこれを読んだら驚くだろう、「推理小説時代遅れ」論である。推理小説も愉しむ者としては、たとえ、ひとつの認識体系にすがる懐古趣味の持ち主とよばれようとも、いっこうに構いはしないが、アメリカではもう推理小説というジャンルは過去の遺物なのだろうか。それとも、これはまだ書かれていない、新しい推理小説についての、「ポオの末裔」からの挑戦状なのだろうか?

以前一度は手に取ってはみたものの、読まずにすませた『遁走状態』に、再挑戦したくなる出来映えの第二作(邦訳)である。
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# by abraxasm | 2016-12-30 14:29 | 書評

覚え書き


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