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『ふたつの海のあいだで』 カルミネ・アバーテ_e0110713_16493243.jpg「詰め物をしたナス、辛味のペペロナータ(パプリカの炒め煮)、土鍋で煮込んだインゲン豆にソラ豆にヒヨコ豆、ラザーニャか、ヤギや仔ヒツジのミートソースで味付けした手打ちパスタ、シーラ山地特産のアニスで風味をつけたリコッタチーズ入りラヴィオリ。そして、お祖母ちゃんの自慢料理もあった。ポテトとズッキーニを添えたムール貝、カボチャの花のフライ、そしてカブの芽のオレッキエッテ(耳たぶの形をした小さなパスタ)」

イタリアを描いた小説らしく、料理の名前がこれでもか、というくらい次々出てくるので参った。こういうのをフード・テロというのか。特に大好きなトリッパ(牛の胃)まで登場すると俄然食べたくなって困った。いつでも食べられるというものではないのだ。主な舞台になっているのはカラブリア。長靴にたとえられることの多い半島の爪先にあたる部分である。

「イオニア海とティレニア海、二つの海に挟まれた丘のうえに、蹄鉄のような形でちょこんと乗ってい」るロッカルバという村に、その昔アレクサンドル・デュマも訪れたことのある《いちじくの館》という旅館があった。火事に遭って、今では恐竜の門歯が虫歯になったような壁が残っているだけだが、館の主と同じ名前をもつジョルジョ・ベッルーシは、いつかは旅館を再建するという強い意志を持っていた。

物語の中心人物は、燃え盛るように気性の激しいことから炎のベッルと綽名されるジョルジョ・ベッルーシ。語り手であるフロリアンというハンブルク生まれの少年の祖父にあたる。少年の母ロザンナは若い頃、父の旧友で有名な写真家ハンス・ホイマンに会うため、ハンブルクを訪れ、息子のクラウスに出会う。クラウスは、何年も経ってから映画『ゴッドファーザー』を見て、アル・パチーノが結ばれる褐色の肌の娘にかつてのロザンナを思い出し、二千五百八十一キロの道をひたすら飛ばして、結婚を申し込みに来る。ロマンティックな話だ。

今はハンブルクに住むフロリアンたちは、長い夏休みを過ごすため南イタリアにある母の故郷を訪れる。はじめは、蠅の多さや熱風にうんざりするフロリアンだが、女友だちも出来て次第になじむ。そんな時、祖父が逮捕されるという事件が起きる。肉屋を営んでいた祖父のところに、みかじめ料を要求する男が現れたのだ。きっぱり拒否すると、その後家の戸に火をつけられたり、羊や犬が殺されたりという嫌がらせが続いた。祖父は再度訪れた男を犬や羊がされたのと同じように殺して鉤にぶら下げたのだった。

祖父が監獄にいることは少年の耳には入っていなかったが、薄々は感じていた。写真家の祖父は弟が生まれたときに一度立ち寄ったきりで世界中を飛び回るのに忙しかった。殺人者と薄情者の血を受け継いだことを憎んでいたフロリアンだったが、ある年のクリスマス、ロッカルバの教会の前の篝火に照らされた髭面の男に祖父の帰還を知る。帰ってきた祖父は、早速《いちじくの館》再建に取り組むが、旅館が姿を現し始めた矢先、ダイナマイトによって爆破されてしまう。

工事資金は、自分の店や祖母の土地まで抵当に入れて作ったものだった。もう一度初めからやり直すための資金はどこにもなかった。ギムナジウムを卒業し、進学か就職かを決める前に一年の留保を得たフロリアンは、祖父の夢を実現するために旅館建築の手伝いを始める。祖父の家には、デュマが《いちじくの館》を訪れた時に忘れていった書巻が大事にしまわれていた。その書巻を携えてフロリアンはスイスに飛ぶ。父方の祖父に借金の相談に出向いたのだ。

フロリアンの貢献もあって、見事に完成した《新・いちじくの館》。完成披露パーティの後、祖父は旅館の鍵束を孫に手渡すとその足で旅に出る。行く先々から孫に送られる絵葉書には祖父たちの笑顔が見えるようだ。輝く太陽と紺碧の海。相好を崩した二人の祖父がかつてともに旅した思い出の地を巡る旅程の背後には、しかし、影のようにつき纏う者の姿が。『ゴッドファーザー』についての言及は、周到な作者の目配せだった。

一つの家系の核となる建築が、諸国を往来する人々の憩いの場となり、盗賊の集会場となる。それが原因で火事に遭い、長く放置された末にやっと再建されるかと思ったら爆破される。《いちじくの館》にまつわる逸話と家族の物語が、時を超えて結び合わされる。季節が変わるたびに咲く花、祖母の作る料理の数々、性を知りはじめた少年の悶々とした思い、熱風がよどむ南イタリアの夏の炎暑の日々。精緻で華麗な自然描写のなかに、傲慢と思えるほど、自分の意思を貫こうとする男たちの気概に満ちた生き方が点綴され、何とも言えない詩情を漂わせる。美しい自然と人間の過酷な生の相剋に圧倒された。

# by abraxasm | 2017-04-03 16:51 | 書評
『特捜部Q-吊された少女=』 ユッシ・エーズラ・オールスン_e0110713_21512082.jpg特捜部Qシリーズ第六作。きっかけはボーンホルム島に勤務する警官からカールにかかってきた一本の電話だった。退職を前に心残りの事件の再捜査を依頼するものだったが、相変わらずやる気のないカールはすげなくあしらう。翌日、定年退職を祝うパーティーの席上で、電話の相手ハーバーザートが拳銃自殺してしまう。むげに拒否したことが引鉄を引かせたのだろうか。カールは重い腰を上げるしかなかった。

事件は十七年前に自動車事故として処理されていた。ハーバーザートは、そのために家族を失ってまでも、なぜかその事件について長年独自の捜査を続けてきた。主を失った家には捜査資料が山のように残されていた。ローセはそれを署に持ち帰り、捜査を開始。前作から殺人課の課長になったビャアンの肝いりで、ゴードンという新人が仲間に加わる。即戦力とはいえないものの要員だけは着実に増えている。

アルバーテという少女は、男の子の間で人気者だったが、早朝自転車で走っているところを轢き逃げされ、木に逆さ吊りになって発見された。車体の屋根に曲線の一部が見えるワーゲンのバスの写真が残され、その傍に男の姿が写っている。どうやらハーバーザートは、この男が犯人だと考えていたらしく、捜査はその線でなされたようだが、懸命な捜査にも関わらず車も男も見つからなかった。

今回の主題は、スピリチュアルやヒーリングといったもので、この作家には珍しく太陽信仰と世界各地の宗教との関係に関する詳しい解説が開陳され、ぺダンティックな要素が盛り込まれている。いつもながら何か新味を持ち込むことで、マンネリ化を避ける工夫がなされている。複数視点で描かれるのはいつも通りだが、殺人の実行犯とカールたちの捜査との間に置かれた時間差は前作『知りすぎたマルコ』に続いて、ほとんどない。

きっかけは十七年前に轢き逃げ事件にあるのだが、殺人は現実に今起きているのだ。<人と自然の超越的統合センター>の導師アトゥは、近づく人を魅了するカリスマ的な力を持っていた。その右腕であるピルヨは、アトゥを愛していたが、アトゥは彼女以外の女性と次々関係を持っていた。嫉妬の鬼と化したピルヨはアトゥに近づいた女を次々と消していく。果たして、アルバーテもまたピルヨの手にかけられたのだろうか。

いつものことながら、事件解決の手がかりを見つけてくるのは、ローセたちチームのメンバーで、今回はなんと車椅子に乗れるようにまで回復したハーディが、すごい手助けをしてくれる。もっとも、カールやハーディを襲った例の事件についても、ハーディは記憶に残る手がかりをもとに事件の捜査をするように迫るが、カールは煮え切らない。カールにとってこれが最重要な事件だというのに、何がカールに一歩踏み出すことを躊躇させているのか、興味は募るばかりだ。

今一つ、伯父殺しの共犯だと言いふらしていたロニーが死に、葬儀の席で遺言が披露される。それには、あらためて伯父殺しを自白し、カールがその間よそ見をしていてくれたことに感謝し、遺産を半分遺すと記されていた。死者の口から出た言葉は重く、カールは身に覚えのない罪を背負わされたことに驚く。ロニーの狙いは何だったのか。相変わらず、始終パニック発作に襲われ、離婚の条件だった義母への面会を前妻に請求され、カールは多事多難。

頭よりは足を使うタイプのカールとアサドは、次々と関係者を訪ねては質問をし、相手の反応を見ていく。アサドによる強引な質問による揺さぶりや、厳しくねめつけるような凝視は、相手の告白を引き出す絶好の手段。このコンビの息がぴったり合ってきたことをうかがわせる。カールが自分の葬式で悲しむ人物としてアサドを一番に挙げるほどに。今回も相手にこっぴどくやっつけられ、太陽光発電によって感電死させられそうになる二人だが、絶体絶命の時、互いに相手を思いやるところがぐっとくる。

それにしても、最後は二人揃って痛い目に遭わされるのがこのシリーズのお約束であることは重々承知だが、妊婦が屈強な刑事二人相手に争って、最後はロープで縛りあげるというのはいくらなんでも無理があるのではないだろうか。細かなことを言い出すときりがないが、これまで何度も難敵を相手にしてきたアサドにしてはちょっと無様すぎる。自分の親指をアース代わりに使うことで、カールを助けようとするアサドの犠牲的精神を描くために、この窮地が必須だったことは分かるとしても、だ。

十七年前の事件の真犯人は誰か、というのが最後まで残された謎。犯人として考えられた人物が、二転三転した後で、やはり今回もどんでん返しに遭う。最近、エンディングに凝るようになってきたことは読者としてはうれしいのだが、正直なところ、愛する男のために次々と殺人を犯してゆく女の姿を、ハラハラドキドキして追ってきた読者にしてみれば、これが真相だったのか、という解決は、すとんと腑に落ちる展開とは言えない。一人の少女の存在が多くの人の死を招くことになった。そのアイロニカルな結末に苦い味が残る。

# by abraxasm | 2017-04-02 21:51 | 書評

『名誉と恍惚』松浦寿輝

『名誉と恍惚』松浦寿輝_e0110713_10503261.jpg権力の中枢にいる者が民間の一事業主に便宜を図る引き換えに何かをさせようと思えば、誰か連絡を取る者が必要となる。下っ端の公務員なら、いざとなれば切り捨てることができるので好都合だ。しかも、真の意図は隠し、国のためを思ってやることだと言い含めて疑念をそらす。ことが露見すれば、上に立つ者は白を切り、実際に動いた者が、蜥蜴の尻尾のようにあっさりと切り捨てられ、名誉どころかその命さえ奪われかねない。

こう書くとまるで今の日本の現実のようだが、これは小説の中の話。時代は事変から戦争へと拡大し続けている日中戦争のさなか。外灘(バンド)に西洋風建築が競い合うように建ち、多くの国から人々が流れ込む国際都市、魔都と呼ばれる上海の共同租界を舞台に、一人の日朝混血の工部局警官が国家的謀略の渦に巻き込まれ、その人生を大きく変えられてゆく姿を描いた千三百枚の大長編。これだけ力の入った小説を読むのは久しぶりだ。

芹沢一郎は朝鮮人の父と日本人の母の間に生まれた。十七歳という娘の年齢を慮って、祖父は自分の末子として届を出した。早くに実の両親を亡くした一郎は父親代わりの叔父の世話になり、外国語学校を出た後、警官の道を選ぶ。係累も後ろ盾もない一郎にとって警察機構は、身を守る鎧となるはずだった。四年前東京警視庁から派遣されて上海工部局警察部に赴任し、主に翻訳や検閲、情報収集という机仕事をしている。

そんな芹沢に軍から呼び出しがかかる。相手は陸軍参謀本部第二部第十一班の嘉山少佐。通称「謀略課」と呼ばれる第十一班はの少佐が何の用かと思えば、青幇(チンパン)の頭目蕭炎彬(ショー・イーピン)に紹介の労を取れという。一介の警官にギャングの首領との仲介がつとまる訳もないと断ると、芹沢と旧知の間柄である憑篤生(フォン・ドスァン)が蕭の伯父であることを告げ、警察には隠している日朝混血という芹沢の出自をちらつかせ隠微に脅しをかけてくる。

憑は芹沢に蕭と嘉田の会談をまとめる代わりに警察の内部情報を漏らす覚悟はあるのかと聞く。会談は無事行われるが、芹沢の同席を望む蕭とそれを拒む嘉田との間に緊張が走る。結局、芹沢が蕭の代りに第三婦人美雨(メィウ)のお供をすることで決着する。女優だった美雨は阿片のやりすぎと子どもができないことから蕭との仲も冷め切っている。凄艶な美女と三十前の精悍な警官の出会いである。この夜から芹沢の転落が始まる。

何故か芹沢の情報漏洩や秘事が上司の知るところとなる。秘事とは何か。骨董商憑篤生にはハンス・ベルメールに先駆けて関節を自在に動かせる人形を完成させたアーティストとしての顔があった。ただ、ベルメールと違い、性器まで精緻に作り上げた黒髪裸体の美少女は、上肢と下肢を入れ替えたり、二人の少女が胴体を共有したり、と奇形ともとれる造形がなされていた。芹沢はそれを撮影した写真を秘匿していた。さらにもう一つ悪いことに、白系ロシア人の少年アナトリーと唇を合わせている写真まで盗撮されていた。

変態と罵られ、朝鮮人との「雑種」を警察内部に置いておくことなどできない、懲戒免職になりたくなければ今すぐ辞表を書けと迫られる。昨日まで法の番人として、いっぱしの正義漢ぶっていた男のみじめな転落である。始末したはずの写真を盗み出すことができたのはアナトリー以外にいないことに気づいた芹沢は少年を追う。そして、その背後にいた意外な人物の存在に驚き、自分をハメた理由を問い詰めた挙句殺してしまう。ここまでが第一部。

激昂のあまり相手の頭を地面に打ち付け、ぐにゃりとした手触りで殺してしまったことに気づく、その描写がぞくぞくするほど。下手なミステリなど及びもつかない迫真性だ。鉄条網に顔面を押し付けて引きずる場面にしてもそうで、身体性を徹底してリアルに追求している。それは官能的な場面でも通用する。アナトリーとの肉体的な触れ合いが、どれほどの恍惚感をもたらすものだったかを指や爪、といった先端部分でのふれあいによって想起させる技術はさすがだ。

第二部は殺人犯としての正体が暴露されるのを恐れながら、苦力として働く芹沢の逃亡生活を描く。第一部が紅灯揺らめく魅惑の街上海の表の顔だとすれば、第二部は南京虫や虱の湧く小屋をねぐらに肉体労働で日銭を稼ぐ者らが蠢く上海の裏の顔だ。このキアロスクーロが効いている。ただ、不思議なことに何も考えず単純な肉体労働に励む毎日の方が芹沢にとっては楽なようなのだ。表題にある「恍惚」感に襲われるのもこの場所だ。金を掏られた上、病んだ芹沢は、夢か幻視か、鷗が舞う光景を見る。世界が粒だって見えた、この全能感は一度きりだったが、芹沢の無為な生き方をゆすぶった。

徴兵忌避者と殺人犯を一緒にはできないが、官憲に追われる孤独な逃亡者の心理を克明に追うところで、丸谷才一の『笹まくら』を思い出した。人目をはばかる逃亡生活の中でも、人は人らしく生きたいという願いを持ち、向日性に憧れる。警察官であった頃の芹沢の日々は、年端もいかない少年との快楽に耽りながら、日々の仕事に何の疑問も抱かない鈍感な男のように見える。芹沢に主人公としての魅力が宿るのは、苦力に身を落としてからだ。

二進も三進も行かなくなったところを憑によって救出された芹沢は、憑が経営する映画館で住み込みの映写技師として働き始める。美雨との再会があり、洪(オン)という友人もできる。憑ファミリーの一員となり、中国人沈(スン)として生きてゆく覚悟もでき、香港行きが決まったその日、前々から探らせていた嘉田の居所が判明する。何故自分がこんな目に遭わねばならなかったのか。あの会合は本当に国家のためのものだったのか、芹沢にとって、それは自分の「名誉」に係わることだった。美雨を先に港に行かせ、芹沢は独り嘉田のいるホテルに向かう。

大団円の嘉田との長いダイアローグ。ドストエフスキーの『悪霊』や埴谷雄高の『死霊』を思い出した。国家論であり、戦争論でもある。国家の意思を体現した嘉田が語る確信犯的な議論は、今世情を騒がす国家主義者たちの表には出せない、裏に隠し持った思惑とも合致するだろう。国家、国家といいながら、嘉田が本当に大事にしているのは、自己の欲望の成就だ。馬鹿な大衆も無能な軍人たちも端から見下している。手配中の芹沢が、危険な場に我が身をさらしてまでも問わねばならなかったのは、他でもない自分の行動の倫理的な正当性である。すべてを失ってしまっても、誇りをなくしては男は生きていけない。

このハードボイルド小説的な対決の決着をつけるのが玉突きというのがシャレている。ナインボールで先に三勝した方が勝ち。芹沢が勝てば無事にホテルを出ていける。実力は嘉田の方が少し上だが、芹沢は、玉のつき方から嘉田の慎重な性格は臆病さの裏返しであることを見抜いていく。このあたりの心理戦の描き方が面白い。ここにきて、急に芹沢がヒーローらしさを発揮する。凡庸な男が苦難の経験を通じて成長を遂げる。ビルドゥングスロマンはこうでなくてはいけない。

スケールの大きい小説で、上海という蠱惑的な都市を効果的に配し、漢語に英語風の読みのルビ振りをする表記とも相まって、視覚効果は抜群だ。さらには日中戦争が軍部の意図を越えて暴走し始め、抑制が効かなくなった日本軍の南京での虐殺事件にも目を配るなど、歴史的な配慮も行き届いている。何も知らなかった青年が煮え湯を飲まされ、落ちるところまで落ちる。自分を見失い無為な日々を過ごすが、最後に覚醒し、自身の人生を掴み取る賭けに出る、という山あり谷ありのドラマを、終始主人公に寄り添った視点で語る。一人の男の目を通して、勝ち目のない戦争に突っ走っていった時代の狂乱の世相を描いた傑作。この時代だからこそ読みたい。半端ではない厚さだが、一気読みは保証する。

# by abraxasm | 2017-03-28 10:50 | 書評
『特捜部Q-カルテ番号64ー』ユッシ・エーズラ・オールスン_e0110713_12551976.jpg複数視点の名手という呼び名が献じられるほど、その構成が繰り返し使われる特捜部Qシリーズ。第四作にあたる本作も2010年11月(現在)と1987年8月(二十三年前)で、二つの視点を交互に使い分けている。現在時の方は、カールとアサド、それに今回は現場にも同行するローセたち特捜部Qの面々が、同時期に行方が分からなくなった複数人物の未解決事件の捜査を行う。過去の時点で描かれるのは、一人の女性の人生を崩壊させることに係わった五人の人物への復讐劇だ。

冒頭に置かれた屈辱的な情景が痛ましい。今は上流階級の一員に収まっているニーデが、パーティーの席上で偶然再会したクアト・ヴァズという産婦人科医に、淫売と罵倒された挙句、夫の目の前で知られたくない過去を洗いざらいぶちまけられる。ニーデは過去に複数の中絶経験があり、クアトに不妊手術を受けていた。帰りの車内、夫から別れ話を持ち出されたニーデは横から手を伸ばし、ハンドルを思いっきり切り、車は海に落ちる。

今回主題となるのは優生学思想。ナチスがユダヤ人を大量死させたのと同じ思想だ。ある特別な種に価値があり、他の劣等な種と交雑することによって、優等な種の価値が劣化すると考え、劣等と考えられる人種や知的その他の障碍を持つ人々の増加を阻止する目的で、中絶や不妊手術を行うことで知られる。本作において、その思想を体現する男がクアト・ヴァズ。ニーデの人生を狂わせたこの男は、今や<明確なる一線>という政党のリーダーとして議会に議席を獲得する勢いを持つ。

過去と現在に二つの視点を置き、一方では非情な経験によって人生を狂わせられた人物が、相手に対して行う復讐劇を犯人側の視点で語り、もう一方で、過去に行われた未解決事件の謎を解き、犯人逮捕を目指すカールたち特捜部Qの活躍を描く、というのがこの作家の常套手法。陰鬱で悲惨な過去に対し、カールを取り巻く仲間たちのドタバタ劇は笑劇タッチで描かれるのもお定まりの約束になっている。シリーズ物らしく、カールにつき纏う未解決事件の謎は少しずつ解き明かされるが、逆にその闇は深まるばかりだ。

警察小説としての特捜部Qは、家庭内にトラブルを抱えながらも、カウンセラーのモーナと良好な関係を築きかけているカール。いまだその正体は不明ながら、格闘にも捜査にも抜群の実力を持つシリア人のアサド。父親の死のトラウマのせいで、時に解離性同一性障害を引き起こし、妹ユアサの人格と入れ替わるローセが主要メンバー。それに、全身麻痺の身をカールの家で介護を受けるハーディや署内の食堂を経営する腕利きの元鑑識官ラウアスンらが力を貸す、といったチーム物の要素が強い。最後に命を脅かす危険な目に合うのもいつものことながら、シリーズ物の宿命として結果的に命は助かる。

それに対して、犯人側に視点を置いた犯罪小説としての要素は、これが北欧ミステリの特徴なのかどうか、他の作家の作品をあまり読んでいないのではっきり分からないのだが、正直いつも陰惨極まりない。今回の場合、ニーデはまともな教育を与えられず、性に対してあけすけな環境で育てられたことから、少女のうちに妊娠し、流産する。世間体を苦にして他家に預けられ、そこでもいじめられ続ける、という悲惨な経験を持つ。

理解のある夫婦によって識字教育を受け、立派に社会に出ることになるが、幸せな結婚生活は過去を知るヴァズによって壊される。夫の遺した遺産でひっそりと暮らしていたニーデを復讐にまで追い込むのはやはり過去の因果だ。正気を疑う復讐の方法は相変わらず猟奇的で正視し難いが、正直なところ、今回の犯人をあまり憎むことができない。殺害に至る計画はずさんだし、その方法もあまりにも素人臭く、到底うまくいくとは思えない。しかも、一人の相手に対しては殺害に及んだことを後悔すらしている。まあ、だからこそ赦してやりたくもなるのだが。

蛇足ながら、ニーデが送られたことになっているスプロー島の矯正施設はほんの五十年前まで実在していたという。福祉が充実し、女性の権利にも敏感な北欧の国デンマークでそんなことが行われていたとは。シリア人のアサドや心に傷を負うローセがいつになく真剣に怒っているのが作家の意識の有り様を物語っている。宗教や民族による差別に加え、人種や障碍の有無によって人の優劣を比べ、それを政治に持ち込むなど、あってはならないことだが、日本でもヘイト・デモを繰り返した集団が政党を立ち上げるなど、他人事ではない。

毎回ほぼ同じ構成を使いまわしながら、よく次々と書けるものだと感心する。同工異曲といわれることを知ってか、今回は最後にどんでん返しが用意されている。他の人気作家ではよく見かける、この手法、この作家にしては珍しい。伏線もあるので、注意深い読者なら見破れるのではないか。ミステリ読みとしては二流を自負する読み手としては、先を読みたくて急ぐあまり、つい読み飛ばしては後で臍を噛んでばかり。でも、考えようによっては、作家の仕掛けたトリックにうまくひっかかって悔しがるのは、この種の読み物の正統的な読み方ではないだろうか。そんな負け惜しみをつぶやきながら、次回作に手を伸ばすのである。

# by abraxasm | 2017-03-25 12:55 | 書評
『殺す・集める・読む』 高山宏_e0110713_11351796.jpg著者自身が「博覧強記の学魔の異名をとる」という自身の紹介記事をことのほか気に入っているようなので仕方がないが、とにかく出てくるは出てくるは。見たことも聞いたこともない本の名前が次から次へと繰り出される。俗にいう「高山ワールド」の信奉者ならともかく。初心者には敷居の高いこと、天狗様御用達の高下駄を履いても、跨ぎ越すことは覚束ない。そうは言っても、上から目線で語りだされる「講義」そのものは、独特の講釈口調でなかなかに魅力的。

まずは冒頭に掲げられた表題作「殺す・集める・読む」を読めばいい。お題はシャーロック・ホームズなので、ずぶの素人にもとっつきやすい。後の章も大体が同工異曲。はじめて聞く名前の学者やら物書きやらの名前が目白押しだが、講義そのものは特に難解ではない。副題に「推理小説特殊講義」とあるが、推理小説についての講義と思って読むと足をとられる。推理小説を素材に、物の見方を説く本だからだ。読めば目から鱗が落ちる。

たとえば、「ヴィクトリア朝世紀末の感性と切り離してはドイルの推理小説は絶対に成り立たなかった」という断言はいかなる根拠があるのか、そのあたりから読み始めることにしよう。著者は言う。「仮にホームズのいないホームズ作品というものを考えてみると、残るものは確かに世紀末としか言いようのないビザルリー(異常)とグロテスク(醜怪)の趣味だけである」と。そして、本文からの引用が続く。

ホームズ作品からホームズを取り去るというところが、いかにも現象学的還元だが、そこにあるのは確かに醜悪な死体の「描写のフェティシズム」。現在の推理小説まで延々と繰り返される、この「酸鼻なバロック趣味」が、なぜこの時期に発生し得たのかという理由を語るまでに、羅列されるのが、サルヴァトール・ローザ、ムリリョ、カラヴァッジオなどのバロック画家の名前であり、『放浪者メルモス』を書いたゴシック作家のチャールズ・ロバート・マチューリン、『さかしま』の作者でデカダンスの作家ユイスマンスなどの名前だ。

大体が、高山宏といえば、マニエリスム、バロックの権威。要は我田引水なのだが、マニエリスム、バロック美学と推理小説を今まで誰も真っ向からぶつけて考えようとしなかったところが盲点であった。つまりは、両者を並べてその関係性を明らかにしたのがこの本だ。博引傍証が多いのも、衒学趣味ばかりではなく、この本自体がマニエリスム美学で成り立っているからで、それを愉しむ者にしか、この本は開かれていないのだ。

当時のロンドンが富裕なウェスト・エンドと、貧苦のイースト・エンドという明暗対比(キアロスクーロ)の都市だったこと。繁栄を誇る大都市はまた、衛生状態の悪さからコレラ、チフス、天然痘、猩紅熱に加えてインフルエンザの猛威に苦しめられる死の都市ネクロポリスであった。この大量死に対し、殺人という個別の死を対峙させ、神の死んだ世界にあって、神の代わりとなって、死の謎を解明するのがホームズだ。シャーロック・ホームズこそはビクトリア朝世紀末の悪魔祓い、というのが高山宏の見立てである。

勿論、こんな粗雑な括りを、褒めるか腐すか、人によって「奇才、異才、奇人、変人、ばさら、かぶき、けれん、香具師、ぺてん師」などと呼ばれる著者が簡単にするはずがない。ここに至るまでに世紀末のパノラマ文化に江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』を持ち出し、世紀末の老化衰退文化(ビザンチニズム)の行き着く先は集めることだと喝破したマーリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』を引っ張り出し、ホームズの収集癖、標本作り、テクスト作成等々を構造主義的な視点で語り明かす。

さらには、あのブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』が、立派な推理小説だという論点から語りつくす「テクストの勝利」、ケインズ理論を援用して論じる「『二銭銅貨』の経済学――デフレと推理小説」など、読めば成程と膝を打つ、腑に落ちる名講義が引きも切らない。そして、掉尾を飾るのがあの絢爛たるペダントリーで知られる『黒死館殺人事件』を論じた「法水が殺す――小栗虫太郎『黒死館殺人事件』」というのだから、これはもう読むしかないではないか。

ただ、書かれたのが2002年ということもあり、当時話題であったドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」や柄谷の「形式化」問題などの用語が今となっては隔世の感がある。その点は割り引いて読んでもらうしかない。著者自身による解説「この本は、きみが解く事件」を読んでから本文を読めば、著者がなぜこの本を書いたのがよくわかって納得がいくかもしれない。「美書で高価、おまけに難解」というイメージのつき纏う高山宏が文庫で読める。これはお勧めである。

# by abraxasm | 2017-03-23 11:35 | 書評

覚え書き


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