e0110713_16150000.jpg丘は、海の手前で逆さにひっくり返された舟を連想させる湾曲した細長い形をしていて、スッラ(マメ科の多年草。フレンチハニーサックル)の緋色で一面彩られていた。そのまわりを、果樹、乳香樹の茂み、月桂樹、金雀枝(えにしだ)、ローズマリー、庭常(にわとこ)、ぶどう畑、オリーブの巨木、ところどころに群生するフィーキ・ディンディア(ヒラウチワサボテン)などがぐるりととり囲み、陰になった斜面は常盤樫(ときわがし)の森に覆われ、たわんだ半円の冠のようだった。

ローマ神話ではゲニウス・ロキ(地霊)と呼ばれるが、ある種の土地には時に人を縛りつけて放さない力のようなものがある。『風の丘』は、緋色のスッラで埋め尽くされ、風の止むことのないロッサルコと呼ばれる丘を四代にわたり守り続けてきたアルクーリ家の物語だ。

自らを「僕」と呼ぶ、アルクーリ家の最も若い跡継ぎが語りはじめるのは、祖父アルトゥーロが子どもの頃、ロッサルコの丘で出会った忘れられない出来事。兄と弟と三人で水浴びをしていると丘の上の桜林で銃声が響く。兄弟が丘の上に出ようとしたところで野良仕事を終えた母と出会う。不審がる子どもたちをなだめ、帰り支度を急がせる母を振り切って一人丘に駆け上がったアルトゥーロは見てしまう。二人の男が血に染まって死んでいるところを。

「僕」がこの話を知っているのは、父に聞いたからだ。アルクーリ家の跡を継ぐ者は、次代に伝える時が来るまで固く秘密を守りつづけねばならない。そして、自分が死ぬ前に、一家の物語を語り伝えてゆくことを約束させた上で、秘められた物語を語って聞かせる。父もまた祖父のアルトゥーロから、こうして話を聞かされたのだ。

母の死後、父は村にある家を出て、丘にあった小屋を改装して独り暮らしを始めた。ある日、父から電話がかかる。父には語り継ぐべき家族の物語の他に、誰にも話していない自分と妻の間に秘された物語があった。こうして、「僕」が父から話を聞く現在の物語と、曾祖父母、祖父母、そして父ミケランジェロと母マリーザの過去の物語が、時に交錯し縺れ絡まりあうようにして家族の物語が紡ぎ出される。

長靴の形をしたイタリア半島の爪先のあたりに位置するカラブリア。大地主が土地を所有し、人々は高い小作料を払って小作人となるしかない貧しい土地。曾祖父アルベルト・アルクーリは硫黄鉱山で日雇い仕事をしながら、先祖から受け継いだちっぽけな土地に、合衆国に渡るため急いで土地を手放したい農民から少しずつ買い足してロッサルコの丘一帯を手に入れたという。しかし、村人は信じていなかった。何か裏があるにちがいない、と。

カラブリアは貧しい。地代と重税にあえぐ村人の目には、岩だらけの不毛の地を切り拓き、オリーブや葡萄の木を植え、家畜を育てる自作農になったアルクーリ家は、アルビノの白燕のようなものだ。おまけにアルトゥーロは反ファシストの闘士ときている。白燕は色の違う仲間の燕によって巣から追い落とされる。硬貨には必ず裏表がある。ロッサルコの丘は一家にとって大事な宝になるとともに危険な火種ともなった。

冒頭の二人の若者の死は一家に暗い影を投げかける、硬貨に喩えるならその裏面にあたる。第一次世界大戦中曾祖父アルベルトは、二人の息子を戦争で奪われる。独り生還したアルトゥーロは丘を買い占めようと圧力をかけてくる大地主ドン・リコと対立し、讒言によって流刑にされる。釈放後、家族とともに丘に木を植え、小麦を育てて家を盛り立てるが、第二次世界大戦末期、不時着した英兵を匿ったことが災いしたか、行方が分からなくなる。

父の代になると、リゾート開発や風力発電の風車建設地にと丘を手に入れようとする者たちが次々と現れる。首を縦に振らないミケランジェロに脅しをかけるため、犯罪組織の手を借りて木を伐ったり、森に火をつけたりとしたい放題。そのすべての原因となるのが、代々の親から語り継がれた丘を絶対に守れ、という言葉に縛られる男たちの頑なな性格だ。

対比的に女たちは、生命力にあふれ、快活で自由だ。料理上手の曾祖母ソフィー、祖父に代わって丘を守ってきた祖母リーナ、絵が上手で家に縛られない叔母ニーナベッラ、考古学者で家を空けてばかりだった「トリノっ娘」の母マリーザ、と丘の磁力に引きつけられ、土地に縛りつけられ続ける男たちが飲まされる苦汁を味わうことがない。

アモーレ(愛)、カンターレ(歌)、マンジャーレ(食)の三つを大切にするのがイタリア人、とイタリアを旅した時に聞いたことがある。まさにその通りで、この物語の中でも人々は何かといえば、食べ、歌い、愛し合う。食卓には南イタリア特有の食材を使って女たちが調理した美味そうな料理が並び、男はキタッラ・バッテンテをかき鳴らして小夜曲(セレナータ)を歌って女を口説き、男と女は丘の草上で愛を交わす。

トロイア戦争の英雄ピロクテテスによって建てられた古代の都市の遺跡が埋まっているとされるロッサルコの丘。トロイア戦争に向かう途中、踵の傷の痛みに呻くピロクテテスは仲間であるオデュッセウスに島に置き去りにされる。しかし、ヘラクレスの弓を持つピロクテテスの腕なくしてはトロイアは落ちず、十年後島から呼び戻されたピロクテテスの放った矢は見事パリスを射止め、戦争はギリシアの勝利に終わる。

村人の恨みによって島に流されながら、かえって以前より思想も身体も強靭になって帰還したアルトゥーロがピロクテテスに喩えられていることからも分かるように、紀元前の世界から連綿と続く文化・自然遺産を表面に、戦争や人間同士の権力闘争、嫉妬からくる讒言、因習的な土地に蔓延る犯罪組織、といった現代に至るまで連綿と続く負の遺産を裏面に描いた、作家の郷土カラブリアのワインさながらの濃厚な味の物語である。

男と女、北の開かれた都市トリノに対し、南の因習に囚われ貧しさにあえぐカラブリア、土地と夫第一の昔の女性に対し、自由に各地を飛び回る現代女性、古代から伝わる自然を保護し、そこで生きようとする地元民に対し、金になるなら自然破壊も辞さない観光開発ありきの資本、と二項対立を際立たせることで、物語をぐいぐい引っ張ってゆく、カルミネ・アバーテのストーリーテラーぶりに圧倒される。

冒頭の引用に見られるように、訳者が植物の名にルビ振りの漢字を多用しているのもうれしい。料理名や食材の場合、タラッリ(リング状の堅焼きパン)、ソップレサータ(豚の足、耳、舌などを煮詰めてゼラチンで固めたもの)、カピコッロ(豚の首から肩の肉を使用したサラミ)、などと懇切丁寧な紹介ぶりも食欲をそそって曰く言い難い読み心地に誘う。パンツゥイア(豚の頬肉の塩漬け)やサルデッラ(シラスの唐辛子漬け)など、引用するだけで生唾がわいてくる。罪な本である。

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# by abraxasm | 2017-04-21 16:15 | 書評
e0110713_16011358.jpg少し前に出た『冬の日誌』に続く自伝的な色彩の強い書物である。前作と同じように「君は」と二人称で語られる。『冬の日誌』が、小さい頃から今に至る身体の履歴について時間軸に沿って述べた物語であるのに対し、本書の体裁は少し異なっている。四部構成で、その第一部が表題作「内面からの報告書」で、主に十二歳までの自分に関する記憶を頼りに、自分というものが発生するに至る経緯をたどっている。

第二部は、やはり少年期の自分が影響を受けることになった二本の映画について語る「脳天に二発」。その映画とは『縮みゆく人間』と『仮面の米国』。前者はSF映画で、文字通り体が徐々に小さくなっていく男の恐怖を描いたもの。後者は第一次世界大戦の帰還兵が、帰国してから職を探すものの不況下に職はなく、果ては監獄に入れられてしまう。脱走に成功し、別人となった男に過去の罪が再び迫るという暗澹たるストーリーの映画である。

第三部の「タイムカプセル」は、著者の最初の妻で作家、翻訳者として知られるリディア・デイヴィス宛に書かれた手紙と、それについての作家のコメントによって再構成された、十代後半から二十四歳までの作家志望の青年の内面の赤裸々なリポート。相手と離れて暮らす若者が書いた手紙であるから、普通にはラブレターと解される類のものだが、そこは「君」らしく、今とりかかっている小説の進展具合や、友達との交友、教授に対する反目といった誰にでも覚えのある若き日の心情があふれている。

面白いのは第四部の「アルバム」だろう。「君」が心躍らせたアニメーションや、野球選手、ユダヤ人俳優からはじまって、のちに何度も悪夢となって襲い掛かるナチスの歩兵隊や、先に触れた二本の映画のスチール写真、パリ時代の街角のスナップなどが、ふんだんに配された文字通りの写真帳になっている。

「君」は、自分の内面を探ることについて、自分を特別だと思うからでなく、ごく普通の人間の代表としてとらえている。だからなのか、十二歳までの記憶に、特に印象的なものはない。地球を平面だと信じたり、コナン・ドイルやスティーヴンソンを読みふけったり、と少年期の男の子あるあるといった感じの話が続く。

一つちがうとすれば「君」ががユダヤ人であるということ。「君」の両親は、ディアスポラ以来ヨーロッパに渡ったユダヤ人の子孫で、その多くはユダヤ人に対して保護的な政策を掲げていたポーランドに住んでいた。ナチスによって迫害を受け、大量虐殺に遭う前にアメリカに渡ってきた祖父母のお陰で、この世に誕生することができた「君」は、物心ついて以来、事あるごとに自分がユダヤ人であることを思い知ることになる。

二人の親友が「君」の住んでいた地区から引っ越したのは、芝生のある家に住むために多くのユダヤ人が引っ越してきたので、元からいた人たちが出て行ったのだ、と母から聞かされる。まちがって友達に怪我を負わせたときは、「お前らのような種は」と罵声を浴びせかけられる。アメリカは素晴らしい国で、自分はアメリカ人だと信じていた「君」にとっては容易に理解しがたい事態であった。

メジャー・リーグをはじめ、ユダヤ人のスポーツ選手は稀で、ギャング映画の顔役として知られるエドワード・G・ロビンソンは本名エマヌエル・ゴールデンバーグ。あの妖艶な美人女優ヘディ・ラマーはヘートヴィヒ・キースラー。役者として売れるにはユダヤっぽい名を捨てる必要があった。近くに住んでいたので憧れの対象だったエジソンは、同じ床屋に通っていたが、自社で働いていた社員である「君」の父がユダヤ人だと分かると即刻解雇した。

そう考えると、『縮みゆく人間』や『仮面の米国』の主人公を自分だと感じる「君」の内面がどのように形成されつつあったのかも理解できる気がする。それまで、難なく同調できていた周囲から、あるとき不意にズレていく自分という存在についての自覚。どれほど努力して、周囲に溶け込もうとしても執拗に正体を暴こうと迫る者たちがいることへの恐怖心。ただ、「君」はそれに負けはしなかった。仮令孤立しようともユダヤ人として生きてきた。

個人的に懐かしかったのは、コロンビア大学における紛争に「君」も参加し、逮捕されていたことを知ったことだ。いうまでもなく映画『いちご白書』として描かれ、一躍有名になった1969年のあの紛争である。今の人たちにとってはバンバンが歌った『「いちご白書」をもう一度』の方が、まだ記憶に残っているのかもしれないが、当時大学生活を送っていた者として、ニール・ヤングやCS&Nの名曲に彩られたあの映画は忘れられない。

当時ソルボンヌに留学していた「君」は、頑迷な担当教授とぶつかり、授業をボイコットしてしまう。中途退学となれば、徴兵猶予の待遇を失うこととなり、ヴェトナム戦争が激しさを増していた当時、アメリカに帰国すれば、徴兵されるか、拒否することで逮捕されるか、またはカナダに向かうしか手段はなかった。人生最大の難問にぶつかった「君」の心の揺れを示すリディアへの手紙は読んでいても痛々しい。

「君」の内面ともいうべきものが生まれ、両親の不仲やユダヤ人という境遇を背負い、果敢に戦い、時には崩壊寸前にまで追い込まれながらも、青年期の危機を乗り越え、やがて成熟した大人となるまでを描く。大人になるということは、何かを喪失することでもある。日記を書かなかった「君」は、覚束ない記憶を手探りし、昔の写真や、妻宛の手紙を手掛かりに今はもう失われてしまったものを再現することに成功する。六十も半ばを過ぎた作家の手になる内面への遡行の旅の何というみずみずしさであることか。

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# by abraxasm | 2017-04-19 16:01 | 書評
e0110713_16200635.jpgフランスによる運河建設工事が破綻して混乱の極みにあるパナマ共和国。その北部にあってカリブ海に面した港町コロンからロンドンに逃れてきた男ホセ・アルタミラーノが語る物語。語りの中で時おり呼びかける可愛い盛りの娘エロイーサを独り故国に残して、何故男はイギリスに来なければならなかったのか。それには驚くべき理由があった。

秘史とついているから、南米かスペインあたりにある地名と思うだろうが、実はコスタグアナという国はない。ジョゼフ・コンラッドが南米を舞台にして書いた長編小説『ノストローモ』に出てくる架空の共和国である。そのモデルになっていると男が主張するのがパナマ共和国。男は、コンラッドが自分の物語を盗んで『ノストローモ』を書いた、というのだ。何故そんなことが言えるのか。その訳というのが一口では言えない複雑な話で、だからこそこんな小説が書かれたわけだ。

コロンビア人の作家といえば、『百年の孤独』を書いたガルシア=マルケスが有名だが、大風呂敷を広げたがるのは詩と演説を好むという国民性だろうか。ホセが語るパナマ運河にまつわる一族の小さな出来事と、何度も繰り返される革命と反乱に揺れるコロンビアとパナマの大きな出来事を聞いたコンラッドが、勝手に換骨奪胎して自分の小説にしてしまった。『ノストローモ』は、自分の話した内容とは似ても似つかない代物だ、とホセは言う。

それなら、自分で語ってみせるしかない。ホセはまず、自分の出自から語り始める。これがまたとんでもない話。ホセの父ミゲル・アルタミラーノは、反カトリックの自由主義者として一世を風靡していたが、司祭とトラブルを起こして破門され、抗議に出かけた教会で人を殺す羽目に。時を同じくして起きたクーデターのお陰で殺人犯として告発は免れるものの、今度は叛乱軍から粛清されそうになる。

イギリス船に乗り込んだミゲルは停泊中のオンダという町で知り合った人妻アントニア・デ・ナルバエスと船上で一夜限りの愛を交わす。その後二人は二度と出会うことはなかった。年若い妻の腹の中の子が自分の種でないことを知った夫は銃で自殺。大きくなったホセは、自分の実の父について母から聞き、父を探す目的でコロンに向かう。

その昔自由主義者として新聞に健筆をふるっていた父だったが、運河建設事業のためにパナマを訪れたレセップスの知遇を受けたことをきっかけにパナマ運河についての提灯記事を新聞に書き続けることで、その見返りに住む所や食事その他の厚遇を得る御用記者となる。息子もまた父に連れられて現場を踏むうちにパナマ運河建設事業に深くはまり込んでしまう。

フランス主導のパナマ運河建設は洪水や地震という天災と風土病に見舞われ続け、フランス人技師の多くを失い、見込みを大幅に上回る費用をつぎ込んだ挙句、レセップスが自分の過ちを認め事業から撤退する。ただ、その陰で大規模な汚職が発見され、その主犯格が長年にわたり事態を歪曲した内容の記事を現地から報告し続けてきた新聞にあることが明らかになる。アルファベット順の記者名一覧の筆頭に挙がったのがミゲル・アルタミラーノだった。

引退したミゲルは町中の人間から後ろ指をさされる境遇となる。ホセは、父の友人だった死んだフランス人技師の妻シャルロットと暮らし、一人娘を得る。コロンの町は何度目かの戦争状態に陥っていたが、ホセは自分の家庭の幸せに酔っていた。だが、一人の脱走兵が放った弾がシャルロットの命を奪う。ホセは何故かシャルロットを失った悲しみを娘と共有しようとせず、エロイーサを一人残したたまま逃げるようにイギリスに渡るのだった。

時間軸に沿ってあらすじを書けばこういう話になる。ところが、話はそう簡単に進まない。いたるところに、語り手のドッペルゲンガーのように、若き日のジョゼフ・コンラッドが登場してくる。ホセとコンラッドはほぼ同い年で、船乗りであったポーランド出身の青年とホセは、何度か港町ですれ違っている。若い頃、真っ白な地図にあるアフリカ領コンゴを指さし、「ぼくここに行くよ」と宣言したコンラッドと同じように、ホセもまた運河建設中のパナマ地峡を指さしていたのだ。

訳者あとがきによると、ファン・ガブリエル・バスケスはコンラッドの伝記を執筆している。その際に『ノストローモ』執筆中、現地をよく知らないコンラッドが、共和国元大統領の息子で、イギリス公使でもあった人物の手になる書物から知識を得ていた事実を知る。おそらく、それが本作を書こうと思った理由だろう。『パナマ秘史』ではなく、コンラッドが創り上げた架空の国家コスタグアナを表題にしたのも、コロンビア人作家として、コンラッドが奪ったコスタグアナ=パナマを奪還しよう、という思惑があってのことにちがいない。

果たして本作はコンラッドの長編小説として、ここのところ重要視されつつある『ノストローモ』を超えることができたのか?それは『ノストローモ』を読んでみなければ、何とも言えない。これを読んで読みたくなったのも確かだ。ただ、『ノストローモ』未読でも、この小説は面白い。絶えず蚊の攻撃に悩まされ、雨季の雨量がまるで洪水のようなパナマ地峡の気候風土や、自由派と保守派が交互に政権を奪い合うコロンビアという国家についてのポスト・コロニアル批評、と読ませどころに事欠かない。

読者をその気にさせておいて、それはまだ早いと迂回し脱線を繰り返すはぐらかし方など、物語の造り手としてなかなかの曲者と見た。先輩作家であるガルシア=マルケスへの挨拶と見られる言及、『白鯨』の作者や女優サラ・ベルナールなどの現地訪問の史実を取り交ぜながら、ジョゼフ・コンラッドの評伝としても読める、巧みな構成にすっかり魅了された。ラテン・アメリカ文学の有望株として今後が期待される作家の輝かしい登場である。

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# by abraxasm | 2017-04-15 16:20 | 書評
e0110713_10493261.jpg人気シリーズ「特捜部Q」で知られる北欧ミステリの雄、ユッシ・エーズラ・オールスンの初期の作品。嗜虐的な人物による陰湿で執拗ないじめと長い時間をおいて反撃可能になった被害者の苛烈な復讐という人気シリーズに繰り返し現れる主題は、作家活動初期段階から顕著であった。

二部構成。第一部は第二次世界大戦末期の1944年。第二部は1972年。場所はドイツ、フライブルク近辺。主人公は、イギリス空軍パイロット、ブライアン・ヤング。ブライアンとその親友のジェイムズ・ティ-ズデイルは、アメリカ軍から協力要請を受け、ドイツにあるV1飛行爆弾基地を撮影する任務を受けた。クリスマス休暇中でもあり、ブライアンは渋ったが、ジェイムズは否やを言わなかった。

複座のP51Dムスタングに搭乗した二人は、予想通りドイツ軍の反撃に遭い、パラシュートで降下。追撃する兵と犬から逃げようと運良く来かかった列車に辛くも乗り込んだ。それは傷病兵を帰郷させる列車だった。二人は、高級将校に成り代わることに。だが、連れていかれた先は何と精神病院だった。ジェイムズはドイツ語が分かるが、ブライアンは分からない。連合軍の進撃が迫る中、終戦まで偽患者に成り果せることができるのか。

Rhマイナスのジェイムズが、同じA型でもプラスの血液を輸血されてアレルギー・ショックを起こしかけたり、電撃治療や服薬で意識が朦朧となったりするのも危険だったが、それより怖ろしいのは、患者の中に敗色濃厚なのを知り、隠匿した美術品を山分けすることを目論む四人の偽患者が紛れ込んでいたことだ。彼らは、ジェイムズを疑い、食事に糞便を混ぜるなどをして、正気かどうかを試す。彼がためらいを見せると、密告を恐れて夜ごと暴行を加え、瀕死状態に追い込む。

逃亡を企てるブライアンは、ジェイムズの様子を窺うが、とても同行できる状態ではなく、一人で逃げる。それを知って追いかけて殺すために偽患者たちも逃亡。厳寒の北ドイツ、闇の中、水中での格闘劇。口に突っ込まれた木切れが頬を突き破ったり、眼球に突き刺さったり、とハードなアクションを描かせるとこの作家は巧い。痛みの感覚を刺戟する筆致に、作家自身に嗜虐性があるのではないかと疑いたくなるほどだ。

第二部。平和になったドイツではミュンヘン・オリンピックが開催中。アメリカ軍によって救出されたブライアンは、その後医師の資格を取り結婚。今ではいくつもの特許を持つ製薬会社の社長だ。帰国後手を尽くして探したもののジェイムズは消息不明のまま現在に至っている。戦後ドイツを訪れることを避けてきたブライアンだったが、思わぬことが相次いで起きたのをきっかけに、かっての地を訪れることになる。

第一部では、戦争当時の精神病院における人体実験の様子や、ナチスが戦利品として収奪した美術品その他の物資の隠匿、といったエピソードで興味をそそりながら、様々な悪を体現する偽患者たちが消灯後の病室でひそひそ話す、殺人や拷問の自慢話が披露される。隣のベッドで耳を澄ませて聞き入るジェイムズがあまりの残酷さに反応を悟られてはならないと必死で息を殺す様が凄絶だ。

戦後、偽患者たちは隠匿物資を元手に財を成し、過去の身分を隠して一般人として暮らしている。そこへ、ジェイムズの安否を尋ね、過去からブライアンが現れる。悪人たちは、ブライアンの目的を知らないが、危険を察知し始末しようと行動を起こす。魔の悪いことに、夫の行動に不信を感じたブライアンの妻ポーリーンがドイツに飛んでくる。第二部は、ジェイムズの消息を探るブライアンの探索行と悪人たちの知恵比べ、というミステリ仕立てになっている。

少年時代、ジェイムズとブライアンは熱気球でドーヴァー海峡を飛ぶという冒険を試みる。空気が漏れだした気球から飛び降りたブライアンは崖の上に着地できたが、最後まで降りなかったジェイムズは、突風にあおられて崖に激突。気球は木の枝に引っかかって、崖の途中で宙吊りになりながら、ジェイムズは、ブライアンをなじり罵倒する。危機の最中に親友を見捨てて逃げるという本作の主題の、これが伏線になっている。

小さい頃からの遊び友だちで、そのまま戦友となった二人だが、性格はちがう。すべてにおいて、決定権を握るのはジェイムズの方だ。ブライアンは、いつもジェイムズの「だいじょうぶだよ。うまくいくさ」という言葉を信じて一緒に行動してきた。熱気球が膨らみきっていないのに飛ぼうとした時も、偶然通りかかった列車に乗りむ時も、ジェイムズが仕切ったのだ。ブライアンが自分で離脱を決めた時、ジェイムズはそれをなじる。

三十年近く、ブライアンはそれを恥じてきた。どうすればよかったのか。著者あとがきのなかで、作者は「これは戦争小説ではない。『アルファベット・ハウス』は人間関係の亀裂についての物語である」と述べている。絶え間ない暴力に見舞われる精神病院からの脱走、葬ったはずの過去からの反撃、とスリルとサスペンス溢れるストーリー展開に魅せられながらも、やはりこれは作者の言う通り、亀裂した人間関係の回復とその難しさを描いた物語なのだ、と思う。余韻の残るラスト・シーンに胸打たれた。

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# by abraxasm | 2017-04-08 10:49 | 書評
e0110713_16493243.jpg「詰め物をしたナス、辛味のペペロナータ(パプリカの炒め煮)、土鍋で煮込んだインゲン豆にソラ豆にヒヨコ豆、ラザーニャか、ヤギや仔ヒツジのミートソースで味付けした手打ちパスタ、シーラ山地特産のアニスで風味をつけたリコッタチーズ入りラヴィオリ。そして、お祖母ちゃんの自慢料理もあった。ポテトとズッキーニを添えたムール貝、カボチャの花のフライ、そしてカブの芽のオレッキエッテ(耳たぶの形をした小さなパスタ)」

イタリアを描いた小説らしく、料理の名前がこれでもか、というくらい次々出てくるので参った。こういうのをフード・テロというのか。特に大好きなトリッパ(牛の胃)まで登場すると俄然食べたくなって困った。いつでも食べられるというものではないのだ。主な舞台になっているのはカラブリア。長靴にたとえられることの多い半島の爪先にあたる部分である。

「イオニア海とティレニア海、二つの海に挟まれた丘のうえに、蹄鉄のような形でちょこんと乗ってい」るロッカルバという村に、その昔アレクサンドル・デュマも訪れたことのある《いちじくの館》という旅館があった。火事に遭って、今では恐竜の門歯が虫歯になったような壁が残っているだけだが、館の主と同じ名前をもつジョルジョ・ベッルーシは、いつかは旅館を再建するという強い意志を持っていた。

物語の中心人物は、燃え盛るように気性の激しいことから炎のベッルと綽名されるジョルジョ・ベッルーシ。語り手であるフロリアンというハンブルク生まれの少年の祖父にあたる。少年の母ロザンナは若い頃、父の旧友で有名な写真家ハンス・ホイマンに会うため、ハンブルクを訪れ、息子のクラウスに出会う。クラウスは、何年も経ってから映画『ゴッドファーザー』を見て、アル・パチーノが結ばれる褐色の肌の娘にかつてのロザンナを思い出し、二千五百八十一キロの道をひたすら飛ばして、結婚を申し込みに来る。ロマンティックな話だ。

今はハンブルクに住むフロリアンたちは、長い夏休みを過ごすため南イタリアにある母の故郷を訪れる。はじめは、蠅の多さや熱風にうんざりするフロリアンだが、女友だちも出来て次第になじむ。そんな時、祖父が逮捕されるという事件が起きる。肉屋を営んでいた祖父のところに、みかじめ料を要求する男が現れたのだ。きっぱり拒否すると、その後家の戸に火をつけられたり、羊や犬が殺されたりという嫌がらせが続いた。祖父は再度訪れた男を犬や羊がされたのと同じように殺して鉤にぶら下げたのだった。

祖父が監獄にいることは少年の耳には入っていなかったが、薄々は感じていた。写真家の祖父は弟が生まれたときに一度立ち寄ったきりで世界中を飛び回るのに忙しかった。殺人者と薄情者の血を受け継いだことを憎んでいたフロリアンだったが、ある年のクリスマス、ロッカルバの教会の前の篝火に照らされた髭面の男に祖父の帰還を知る。帰ってきた祖父は、早速《いちじくの館》再建に取り組むが、旅館が姿を現し始めた矢先、ダイナマイトによって爆破されてしまう。

工事資金は、自分の店や祖母の土地まで抵当に入れて作ったものだった。もう一度初めからやり直すための資金はどこにもなかった。ギムナジウムを卒業し、進学か就職かを決める前に一年の留保を得たフロリアンは、祖父の夢を実現するために旅館建築の手伝いを始める。祖父の家には、デュマが《いちじくの館》を訪れた時に忘れていった書巻が大事にしまわれていた。その書巻を携えてフロリアンはスイスに飛ぶ。父方の祖父に借金の相談に出向いたのだ。

フロリアンの貢献もあって、見事に完成した《新・いちじくの館》。完成披露パーティの後、祖父は旅館の鍵束を孫に手渡すとその足で旅に出る。行く先々から孫に送られる絵葉書には祖父たちの笑顔が見えるようだ。輝く太陽と紺碧の海。相好を崩した二人の祖父がかつてともに旅した思い出の地を巡る旅程の背後には、しかし、影のようにつき纏う者の姿が。『ゴッドファーザー』についての言及は、周到な作者の目配せだった。

一つの家系の核となる建築が、諸国を往来する人々の憩いの場となり、盗賊の集会場となる。それが原因で火事に遭い、長く放置された末にやっと再建されるかと思ったら爆破される。《いちじくの館》にまつわる逸話と家族の物語が、時を超えて結び合わされる。季節が変わるたびに咲く花、祖母の作る料理の数々、性を知りはじめた少年の悶々とした思い、熱風がよどむ南イタリアの夏の炎暑の日々。精緻で華麗な自然描写のなかに、傲慢と思えるほど、自分の意思を貫こうとする男たちの気概に満ちた生き方が点綴され、何とも言えない詩情を漂わせる。美しい自然と人間の過酷な生の相剋に圧倒された。

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# by abraxasm | 2017-04-03 16:51 | 書評
e0110713_21512082.jpg特捜部Qシリーズ第六作。きっかけはボーンホルム島に勤務する警官からカールにかかってきた一本の電話だった。退職を前に心残りの事件の再捜査を依頼するものだったが、相変わらずやる気のないカールはすげなくあしらう。翌日、定年退職を祝うパーティーの席上で、電話の相手ハーバーザートが拳銃自殺してしまう。むげに拒否したことが引鉄を引かせたのだろうか。カールは重い腰を上げるしかなかった。

事件は十七年前に自動車事故として処理されていた。ハーバーザートは、そのために家族を失ってまでも、なぜかその事件について長年独自の捜査を続けてきた。主を失った家には捜査資料が山のように残されていた。ローセはそれを署に持ち帰り、捜査を開始。前作から殺人課の課長になったビャアンの肝いりで、ゴードンという新人が仲間に加わる。即戦力とはいえないものの要員だけは着実に増えている。

アルバーテという少女は、男の子の間で人気者だったが、早朝自転車で走っているところを轢き逃げされ、木に逆さ吊りになって発見された。車体の屋根に曲線の一部が見えるワーゲンのバスの写真が残され、その傍に男の姿が写っている。どうやらハーバーザートは、この男が犯人だと考えていたらしく、捜査はその線でなされたようだが、懸命な捜査にも関わらず車も男も見つからなかった。

今回の主題は、スピリチュアルやヒーリングといったもので、この作家には珍しく太陽信仰と世界各地の宗教との関係に関する詳しい解説が開陳され、ぺダンティックな要素が盛り込まれている。いつもながら何か新味を持ち込むことで、マンネリ化を避ける工夫がなされている。複数視点で描かれるのはいつも通りだが、殺人の実行犯とカールたちの捜査との間に置かれた時間差は前作『知りすぎたマルコ』に続いて、ほとんどない。

きっかけは十七年前に轢き逃げ事件にあるのだが、殺人は現実に今起きているのだ。<人と自然の超越的統合センター>の導師アトゥは、近づく人を魅了するカリスマ的な力を持っていた。その右腕であるピルヨは、アトゥを愛していたが、アトゥは彼女以外の女性と次々関係を持っていた。嫉妬の鬼と化したピルヨはアトゥに近づいた女を次々と消していく。果たして、アルバーテもまたピルヨの手にかけられたのだろうか。

いつものことながら、事件解決の手がかりを見つけてくるのは、ローセたちチームのメンバーで、今回はなんと車椅子に乗れるようにまで回復したハーディが、すごい手助けをしてくれる。もっとも、カールやハーディを襲った例の事件についても、ハーディは記憶に残る手がかりをもとに事件の捜査をするように迫るが、カールは煮え切らない。カールにとってこれが最重要な事件だというのに、何がカールに一歩踏み出すことを躊躇させているのか、興味は募るばかりだ。

今一つ、伯父殺しの共犯だと言いふらしていたロニーが死に、葬儀の席で遺言が披露される。それには、あらためて伯父殺しを自白し、カールがその間よそ見をしていてくれたことに感謝し、遺産を半分遺すと記されていた。死者の口から出た言葉は重く、カールは身に覚えのない罪を背負わされたことに驚く。ロニーの狙いは何だったのか。相変わらず、始終パニック発作に襲われ、離婚の条件だった義母への面会を前妻に請求され、カールは多事多難。

頭よりは足を使うタイプのカールとアサドは、次々と関係者を訪ねては質問をし、相手の反応を見ていく。アサドによる強引な質問による揺さぶりや、厳しくねめつけるような凝視は、相手の告白を引き出す絶好の手段。このコンビの息がぴったり合ってきたことをうかがわせる。カールが自分の葬式で悲しむ人物としてアサドを一番に挙げるほどに。今回も相手にこっぴどくやっつけられ、太陽光発電によって感電死させられそうになる二人だが、絶体絶命の時、互いに相手を思いやるところがぐっとくる。

それにしても、最後は二人揃って痛い目に遭わされるのがこのシリーズのお約束であることは重々承知だが、妊婦が屈強な刑事二人相手に争って、最後はロープで縛りあげるというのはいくらなんでも無理があるのではないだろうか。細かなことを言い出すときりがないが、これまで何度も難敵を相手にしてきたアサドにしてはちょっと無様すぎる。自分の親指をアース代わりに使うことで、カールを助けようとするアサドの犠牲的精神を描くために、この窮地が必須だったことは分かるとしても、だ。

十七年前の事件の真犯人は誰か、というのが最後まで残された謎。犯人として考えられた人物が、二転三転した後で、やはり今回もどんでん返しに遭う。最近、エンディングに凝るようになってきたことは読者としてはうれしいのだが、正直なところ、愛する男のために次々と殺人を犯してゆく女の姿を、ハラハラドキドキして追ってきた読者にしてみれば、これが真相だったのか、という解決は、すとんと腑に落ちる展開とは言えない。一人の少女の存在が多くの人の死を招くことになった。そのアイロニカルな結末に苦い味が残る。

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# by abraxasm | 2017-04-02 21:51 | 書評

『名誉と恍惚』松浦寿輝

e0110713_10503261.jpg権力の中枢にいる者が民間の一事業主に便宜を図る引き換えに何かをさせようと思えば、誰か連絡を取る者が必要となる。下っ端の公務員なら、いざとなれば切り捨てることができるので好都合だ。しかも、真の意図は隠し、国のためを思ってやることだと言い含めて疑念をそらす。ことが露見すれば、上に立つ者は白を切り、実際に動いた者が、蜥蜴の尻尾のようにあっさりと切り捨てられ、名誉どころかその命さえ奪われかねない。

こう書くとまるで今の日本の現実のようだが、これは小説の中の話。時代は事変から戦争へと拡大し続けている日中戦争のさなか。外灘(バンド)に西洋風建築が競い合うように建ち、多くの国から人々が流れ込む国際都市、魔都と呼ばれる上海の共同租界を舞台に、一人の日朝混血の工部局警官が国家的謀略の渦に巻き込まれ、その人生を大きく変えられてゆく姿を描いた千三百枚の大長編。これだけ力の入った小説を読むのは久しぶりだ。

芹沢一郎は朝鮮人の父と日本人の母の間に生まれた。十七歳という娘の年齢を慮って、祖父は自分の末子として届を出した。早くに実の両親を亡くした一郎は父親代わりの叔父の世話になり、外国語学校を出た後、警官の道を選ぶ。係累も後ろ盾もない一郎にとって警察機構は、身を守る鎧となるはずだった。四年前東京警視庁から派遣されて上海工部局警察部に赴任し、主に翻訳や検閲、情報収集という机仕事をしている。

そんな芹沢に軍から呼び出しがかかる。相手は陸軍参謀本部第二部第十一班の嘉山少佐。通称「謀略課」と呼ばれる第十一班はの少佐が何の用かと思えば、青幇(チンパン)の頭目蕭炎彬(ショー・イーピン)に紹介の労を取れという。一介の警官にギャングの首領との仲介がつとまる訳もないと断ると、芹沢と旧知の間柄である憑篤生(フォン・ドスァン)が蕭の伯父であることを告げ、警察には隠している日朝混血という芹沢の出自をちらつかせ隠微に脅しをかけてくる。

憑は芹沢に蕭と嘉田の会談をまとめる代わりに警察の内部情報を漏らす覚悟はあるのかと聞く。会談は無事行われるが、芹沢の同席を望む蕭とそれを拒む嘉田との間に緊張が走る。結局、芹沢が蕭の代りに第三婦人美雨(メィウ)のお供をすることで決着する。女優だった美雨は阿片のやりすぎと子どもができないことから蕭との仲も冷め切っている。凄艶な美女と三十前の精悍な警官の出会いである。この夜から芹沢の転落が始まる。

何故か芹沢の情報漏洩や秘事が上司の知るところとなる。秘事とは何か。骨董商憑篤生にはハンス・ベルメールに先駆けて関節を自在に動かせる人形を完成させたアーティストとしての顔があった。ただ、ベルメールと違い、性器まで精緻に作り上げた黒髪裸体の美少女は、上肢と下肢を入れ替えたり、二人の少女が胴体を共有したり、と奇形ともとれる造形がなされていた。芹沢はそれを撮影した写真を秘匿していた。さらにもう一つ悪いことに、白系ロシア人の少年アナトリーと唇を合わせている写真まで盗撮されていた。

変態と罵られ、朝鮮人との「雑種」を警察内部に置いておくことなどできない、懲戒免職になりたくなければ今すぐ辞表を書けと迫られる。昨日まで法の番人として、いっぱしの正義漢ぶっていた男のみじめな転落である。始末したはずの写真を盗み出すことができたのはアナトリー以外にいないことに気づいた芹沢は少年を追う。そして、その背後にいた意外な人物の存在に驚き、自分をハメた理由を問い詰めた挙句殺してしまう。ここまでが第一部。

激昂のあまり相手の頭を地面に打ち付け、ぐにゃりとした手触りで殺してしまったことに気づく、その描写がぞくぞくするほど。下手なミステリなど及びもつかない迫真性だ。鉄条網に顔面を押し付けて引きずる場面にしてもそうで、身体性を徹底してリアルに追求している。それは官能的な場面でも通用する。アナトリーとの肉体的な触れ合いが、どれほどの恍惚感をもたらすものだったかを指や爪、といった先端部分でのふれあいによって想起させる技術はさすがだ。

第二部は殺人犯としての正体が暴露されるのを恐れながら、苦力として働く芹沢の逃亡生活を描く。第一部が紅灯揺らめく魅惑の街上海の表の顔だとすれば、第二部は南京虫や虱の湧く小屋をねぐらに肉体労働で日銭を稼ぐ者らが蠢く上海の裏の顔だ。このキアロスクーロが効いている。ただ、不思議なことに何も考えず単純な肉体労働に励む毎日の方が芹沢にとっては楽なようなのだ。表題にある「恍惚」感に襲われるのもこの場所だ。金を掏られた上、病んだ芹沢は、夢か幻視か、鷗が舞う光景を見る。世界が粒だって見えた、この全能感は一度きりだったが、芹沢の無為な生き方をゆすぶった。

徴兵忌避者と殺人犯を一緒にはできないが、官憲に追われる孤独な逃亡者の心理を克明に追うところで、丸谷才一の『笹まくら』を思い出した。人目をはばかる逃亡生活の中でも、人は人らしく生きたいという願いを持ち、向日性に憧れる。警察官であった頃の芹沢の日々は、年端もいかない少年との快楽に耽りながら、日々の仕事に何の疑問も抱かない鈍感な男のように見える。芹沢に主人公としての魅力が宿るのは、苦力に身を落としてからだ。

二進も三進も行かなくなったところを憑によって救出された芹沢は、憑が経営する映画館で住み込みの映写技師として働き始める。美雨との再会があり、洪(オン)という友人もできる。憑ファミリーの一員となり、中国人沈(スン)として生きてゆく覚悟もでき、香港行きが決まったその日、前々から探らせていた嘉田の居所が判明する。何故自分がこんな目に遭わねばならなかったのか。あの会合は本当に国家のためのものだったのか、芹沢にとって、それは自分の「名誉」に係わることだった。美雨を先に港に行かせ、芹沢は独り嘉田のいるホテルに向かう。

大団円の嘉田との長いダイアローグ。ドストエフスキーの『悪霊』や埴谷雄高の『死霊』を思い出した。国家論であり、戦争論でもある。国家の意思を体現した嘉田が語る確信犯的な議論は、今世情を騒がす国家主義者たちの表には出せない、裏に隠し持った思惑とも合致するだろう。国家、国家といいながら、嘉田が本当に大事にしているのは、自己の欲望の成就だ。馬鹿な大衆も無能な軍人たちも端から見下している。手配中の芹沢が、危険な場に我が身をさらしてまでも問わねばならなかったのは、他でもない自分の行動の倫理的な正当性である。すべてを失ってしまっても、誇りをなくしては男は生きていけない。

このハードボイルド小説的な対決の決着をつけるのが玉突きというのがシャレている。ナインボールで先に三勝した方が勝ち。芹沢が勝てば無事にホテルを出ていける。実力は嘉田の方が少し上だが、芹沢は、玉のつき方から嘉田の慎重な性格は臆病さの裏返しであることを見抜いていく。このあたりの心理戦の描き方が面白い。ここにきて、急に芹沢がヒーローらしさを発揮する。凡庸な男が苦難の経験を通じて成長を遂げる。ビルドゥングスロマンはこうでなくてはいけない。

スケールの大きい小説で、上海という蠱惑的な都市を効果的に配し、漢語に英語風の読みのルビ振りをする表記とも相まって、視覚効果は抜群だ。さらには日中戦争が軍部の意図を越えて暴走し始め、抑制が効かなくなった日本軍の南京での虐殺事件にも目を配るなど、歴史的な配慮も行き届いている。何も知らなかった青年が煮え湯を飲まされ、落ちるところまで落ちる。自分を見失い無為な日々を過ごすが、最後に覚醒し、自身の人生を掴み取る賭けに出る、という山あり谷ありのドラマを、終始主人公に寄り添った視点で語る。一人の男の目を通して、勝ち目のない戦争に突っ走っていった時代の狂乱の世相を描いた傑作。この時代だからこそ読みたい。半端ではない厚さだが、一気読みは保証する。

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# by abraxasm | 2017-03-28 10:50 | 書評
e0110713_12551976.jpg複数視点の名手という呼び名が献じられるほど、その構成が繰り返し使われる特捜部Qシリーズ。第四作にあたる本作も2010年11月(現在)と1987年8月(二十三年前)で、二つの視点を交互に使い分けている。現在時の方は、カールとアサド、それに今回は現場にも同行するローセたち特捜部Qの面々が、同時期に行方が分からなくなった複数人物の未解決事件の捜査を行う。過去の時点で描かれるのは、一人の女性の人生を崩壊させることに係わった五人の人物への復讐劇だ。

冒頭に置かれた屈辱的な情景が痛ましい。今は上流階級の一員に収まっているニーデが、パーティーの席上で偶然再会したクアト・ヴァズという産婦人科医に、淫売と罵倒された挙句、夫の目の前で知られたくない過去を洗いざらいぶちまけられる。ニーデは過去に複数の中絶経験があり、クアトに不妊手術を受けていた。帰りの車内、夫から別れ話を持ち出されたニーデは横から手を伸ばし、ハンドルを思いっきり切り、車は海に落ちる。

今回主題となるのは優生学思想。ナチスがユダヤ人を大量死させたのと同じ思想だ。ある特別な種に価値があり、他の劣等な種と交雑することによって、優等な種の価値が劣化すると考え、劣等と考えられる人種や知的その他の障碍を持つ人々の増加を阻止する目的で、中絶や不妊手術を行うことで知られる。本作において、その思想を体現する男がクアト・ヴァズ。ニーデの人生を狂わせたこの男は、今や<明確なる一線>という政党のリーダーとして議会に議席を獲得する勢いを持つ。

過去と現在に二つの視点を置き、一方では非情な経験によって人生を狂わせられた人物が、相手に対して行う復讐劇を犯人側の視点で語り、もう一方で、過去に行われた未解決事件の謎を解き、犯人逮捕を目指すカールたち特捜部Qの活躍を描く、というのがこの作家の常套手法。陰鬱で悲惨な過去に対し、カールを取り巻く仲間たちのドタバタ劇は笑劇タッチで描かれるのもお定まりの約束になっている。シリーズ物らしく、カールにつき纏う未解決事件の謎は少しずつ解き明かされるが、逆にその闇は深まるばかりだ。

警察小説としての特捜部Qは、家庭内にトラブルを抱えながらも、カウンセラーのモーナと良好な関係を築きかけているカール。いまだその正体は不明ながら、格闘にも捜査にも抜群の実力を持つシリア人のアサド。父親の死のトラウマのせいで、時に解離性同一性障害を引き起こし、妹ユアサの人格と入れ替わるローセが主要メンバー。それに、全身麻痺の身をカールの家で介護を受けるハーディや署内の食堂を経営する腕利きの元鑑識官ラウアスンらが力を貸す、といったチーム物の要素が強い。最後に命を脅かす危険な目に合うのもいつものことながら、シリーズ物の宿命として結果的に命は助かる。

それに対して、犯人側に視点を置いた犯罪小説としての要素は、これが北欧ミステリの特徴なのかどうか、他の作家の作品をあまり読んでいないのではっきり分からないのだが、正直いつも陰惨極まりない。今回の場合、ニーデはまともな教育を与えられず、性に対してあけすけな環境で育てられたことから、少女のうちに妊娠し、流産する。世間体を苦にして他家に預けられ、そこでもいじめられ続ける、という悲惨な経験を持つ。

理解のある夫婦によって識字教育を受け、立派に社会に出ることになるが、幸せな結婚生活は過去を知るヴァズによって壊される。夫の遺した遺産でひっそりと暮らしていたニーデを復讐にまで追い込むのはやはり過去の因果だ。正気を疑う復讐の方法は相変わらず猟奇的で正視し難いが、正直なところ、今回の犯人をあまり憎むことができない。殺害に至る計画はずさんだし、その方法もあまりにも素人臭く、到底うまくいくとは思えない。しかも、一人の相手に対しては殺害に及んだことを後悔すらしている。まあ、だからこそ赦してやりたくもなるのだが。

蛇足ながら、ニーデが送られたことになっているスプロー島の矯正施設はほんの五十年前まで実在していたという。福祉が充実し、女性の権利にも敏感な北欧の国デンマークでそんなことが行われていたとは。シリア人のアサドや心に傷を負うローセがいつになく真剣に怒っているのが作家の意識の有り様を物語っている。宗教や民族による差別に加え、人種や障碍の有無によって人の優劣を比べ、それを政治に持ち込むなど、あってはならないことだが、日本でもヘイト・デモを繰り返した集団が政党を立ち上げるなど、他人事ではない。

毎回ほぼ同じ構成を使いまわしながら、よく次々と書けるものだと感心する。同工異曲といわれることを知ってか、今回は最後にどんでん返しが用意されている。他の人気作家ではよく見かける、この手法、この作家にしては珍しい。伏線もあるので、注意深い読者なら見破れるのではないか。ミステリ読みとしては二流を自負する読み手としては、先を読みたくて急ぐあまり、つい読み飛ばしては後で臍を噛んでばかり。でも、考えようによっては、作家の仕掛けたトリックにうまくひっかかって悔しがるのは、この種の読み物の正統的な読み方ではないだろうか。そんな負け惜しみをつぶやきながら、次回作に手を伸ばすのである。

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# by abraxasm | 2017-03-25 12:55 | 書評
e0110713_11351796.jpg著者自身が「博覧強記の学魔の異名をとる」という自身の紹介記事をことのほか気に入っているようなので仕方がないが、とにかく出てくるは出てくるは。見たことも聞いたこともない本の名前が次から次へと繰り出される。俗にいう「高山ワールド」の信奉者ならともかく。初心者には敷居の高いこと、天狗様御用達の高下駄を履いても、跨ぎ越すことは覚束ない。そうは言っても、上から目線で語りだされる「講義」そのものは、独特の講釈口調でなかなかに魅力的。

まずは冒頭に掲げられた表題作「殺す・集める・読む」を読めばいい。お題はシャーロック・ホームズなので、ずぶの素人にもとっつきやすい。後の章も大体が同工異曲。はじめて聞く名前の学者やら物書きやらの名前が目白押しだが、講義そのものは特に難解ではない。副題に「推理小説特殊講義」とあるが、推理小説についての講義と思って読むと足をとられる。推理小説を素材に、物の見方を説く本だからだ。読めば目から鱗が落ちる。

たとえば、「ヴィクトリア朝世紀末の感性と切り離してはドイルの推理小説は絶対に成り立たなかった」という断言はいかなる根拠があるのか、そのあたりから読み始めることにしよう。著者は言う。「仮にホームズのいないホームズ作品というものを考えてみると、残るものは確かに世紀末としか言いようのないビザルリー(異常)とグロテスク(醜怪)の趣味だけである」と。そして、本文からの引用が続く。

ホームズ作品からホームズを取り去るというところが、いかにも現象学的還元だが、そこにあるのは確かに醜悪な死体の「描写のフェティシズム」。現在の推理小説まで延々と繰り返される、この「酸鼻なバロック趣味」が、なぜこの時期に発生し得たのかという理由を語るまでに、羅列されるのが、サルヴァトール・ローザ、ムリリョ、カラヴァッジオなどのバロック画家の名前であり、『放浪者メルモス』を書いたゴシック作家のチャールズ・ロバート・マチューリン、『さかしま』の作者でデカダンスの作家ユイスマンスなどの名前だ。

大体が、高山宏といえば、マニエリスム、バロックの権威。要は我田引水なのだが、マニエリスム、バロック美学と推理小説を今まで誰も真っ向からぶつけて考えようとしなかったところが盲点であった。つまりは、両者を並べてその関係性を明らかにしたのがこの本だ。博引傍証が多いのも、衒学趣味ばかりではなく、この本自体がマニエリスム美学で成り立っているからで、それを愉しむ者にしか、この本は開かれていないのだ。

当時のロンドンが富裕なウェスト・エンドと、貧苦のイースト・エンドという明暗対比(キアロスクーロ)の都市だったこと。繁栄を誇る大都市はまた、衛生状態の悪さからコレラ、チフス、天然痘、猩紅熱に加えてインフルエンザの猛威に苦しめられる死の都市ネクロポリスであった。この大量死に対し、殺人という個別の死を対峙させ、神の死んだ世界にあって、神の代わりとなって、死の謎を解明するのがホームズだ。シャーロック・ホームズこそはビクトリア朝世紀末の悪魔祓い、というのが高山宏の見立てである。

勿論、こんな粗雑な括りを、褒めるか腐すか、人によって「奇才、異才、奇人、変人、ばさら、かぶき、けれん、香具師、ぺてん師」などと呼ばれる著者が簡単にするはずがない。ここに至るまでに世紀末のパノラマ文化に江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』を持ち出し、世紀末の老化衰退文化(ビザンチニズム)の行き着く先は集めることだと喝破したマーリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』を引っ張り出し、ホームズの収集癖、標本作り、テクスト作成等々を構造主義的な視点で語り明かす。

さらには、あのブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』が、立派な推理小説だという論点から語りつくす「テクストの勝利」、ケインズ理論を援用して論じる「『二銭銅貨』の経済学――デフレと推理小説」など、読めば成程と膝を打つ、腑に落ちる名講義が引きも切らない。そして、掉尾を飾るのがあの絢爛たるペダントリーで知られる『黒死館殺人事件』を論じた「法水が殺す――小栗虫太郎『黒死館殺人事件』」というのだから、これはもう読むしかないではないか。

ただ、書かれたのが2002年ということもあり、当時話題であったドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」や柄谷の「形式化」問題などの用語が今となっては隔世の感がある。その点は割り引いて読んでもらうしかない。著者自身による解説「この本は、きみが解く事件」を読んでから本文を読めば、著者がなぜこの本を書いたのがよくわかって納得がいくかもしれない。「美書で高価、おまけに難解」というイメージのつき纏う高山宏が文庫で読める。これはお勧めである。

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# by abraxasm | 2017-03-23 11:35 | 書評
e0110713_10554765.jpg雨が降り続き道路は川のようになった。そのうち霧が出た。やりきれない一月だった。アルノルフ・アルヒロコスは独身のベジタリアン。身なりは貧しいものの、いつもきちんとした服を着て煙草も酒もやらず、四十五にもなるのに女を知らなかった。プティ・ペイザン機械工場の経理課に勤め薄給を得ていたが、稼ぎはやくざな弟にせびられてばかりで、便所の臭いと騒音の絶えない屋根裏部屋に住んでいた。

行きつけの店<シェ・オーギュスト>のマダム・ビーラーはアルヒロコスのような善人が、いつまでもこんな不健康な暮らしをしていてはいけないと考え、結婚を勧めていた。本人の同意を得て『ル・ソワール』紙に出した広告がタイトルでもある「ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む」。すると、クロエという女性から返事があった。二人は店で待ち合わせ、一度で惹かれあった。二人は結婚を決める。

クロエは美人で、毛皮のコートを着、香水をつけていた。仕事はメイドということだった。結婚を決めた二人が街を歩くと、大統領や司教、今売り出し中の画家、市の名士たちが、アルヒロコスに挨拶をするではないか。果ては、雇用主のプティ・ペイザン氏までも。いったい何が起こったのか。その日からアルヒロコスには考えられない好運が舞い降りてくることになる。

翌朝、出勤したアルヒロコスは、次々と上司に呼ばれ、最後は社長室に行くことに。そこで常務に昇進したことを告げられる。一流の店でしつらえた洋服で旅行会社に行き、新婚旅行としてギリシア行きの船旅の予約をする。結婚式を挙げるため司教の元を訪れたアルヒロコスは、自分の不安を司教に打ち明ける。

突然好運に見舞われることになった男が、どうして自分ばかりがこんなに幸運に恵まれるのか、その理由がわからず不安に襲われる。それはそうだろう。普通ならありえない話だ。ところで、いつからそうなったかといえば、クロエと結婚することを決めてからで、この幸運がクロエから発していることはまちがいないのだ。でも、何故?

そこには、なるほどと納得できる理由がある。よく読めば、読者にも分かるように伏線が張られている。しかし、当人には事態がのみこめていない。この話は、周りは分かっているが当人にはわからないことから起きる、主人公の困惑を周りから眺めるときの面白さを描いている。話を聞いた司教は、この事態を「恩寵」だと説く。

重要なのはこれらすべてが何を意味しているのか、ということなのです。あなたが恩寵を受けた人間であり、あなたにその恩寵のしるしがこの上なくはっきりと積み重なっているということなのです。(略)これから問題になるのは、あなたがその恩寵にふさわしい人間であるかどうかを証明することなのです。このことを謙虚に我が身に引き受けなさい。もしもそれが不幸な出来事であったならきっとあなたが引き受けたように。私があなたに申し上げることができるのは、これがすべてです。ひょっとしたらあなたはこれから幸運の道という、非常に困難な道を歩むことになるのかもしれない。幸運の道を歩むという課題はたいていの人には課されていません。というのも、私たちが普通この世で歩むのは不幸な道なので、人は不幸の道の歩き方は知っていても幸運の道の歩き方は知らないからです。

この言葉にすべては尽きる。まさしく、アルヒロコスこそは、不幸な道ばかりを歩いてきた男なのであって、クロエと出会ってからはじめて幸運の道を歩き始めたわけなのだから。アルヒロコスは、結婚式の最中に、それまで気づかなかったある事実に思い至る。式場を飛び出したアルヒロコスは自暴自棄となり、革命家にスカウトされ、尊敬する大統領暗殺の計画に加わることになる。

この小説には、二つの終わり方が記されている。終わりⅠは、本来作者が書きたかった結末であり、終わりⅡは、「貸本屋のための」と書かれた娯楽小説としてのお約束の結末である。普通に読んでいけば、読者はいわゆるハッピーエンドに導かれるわけで、無事安堵して読み終えることになるが、心の中に一抹の疑問が残る。主人公の突然の変容が、あまりに不可解であるため、事態をのみこむことができないからだ。

そのために訳者あとがきが付されている。作家はプロテスタントの牧師の子として生まれ、それまでに書かれた戯曲にも本作の主題とされている、新約聖書の思想に基づく「一番取るに足りない人間が恩寵を授かる」という設定をすでに何度も披露している。カフカやキルケゴール由来の、ちっぽけな人間が大きすぎる幸運を受け止めることの困難を描いた本作も自家薬籠中の主題だったということだ。

しかし、読者はそんなことに関係なく、単なる喜劇として読めばいい。それも、何故この男に突然信じられない幸運が舞い降りたのか、という謎を抱えたミステリとして。初めは何かの寓話か、と思いながら半信半疑で読んでいくにちがいない。しかし、最後まで読んでから再読すれば、実に事細かに作者はウィンクを送っていたことに気づくにちがいない。手練れの劇作家ならではの巧みな目配せに、いつあなたは気づくだろう。評者などはいつまでたっても人間観察に疎い甘ちゃんであることに改めて気づかされ、苦笑させられた。

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# by abraxasm | 2017-03-22 06:01 | 書評

覚え書き


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