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e0110713_11085101.jpg原題は<DODGERS>。言うまでもなく有名なメジャー・リーグのチーム名で、旅に出る少年たちが来ているユニフォーム・シャツに由来する。ドジャースがブルックリンに本拠地を置いていた時代、ブルックリンの住人は行き交う路面電車をかわしながら街を往来しなければならなかった。そこから、ブルックリン地区の人々を 「路面電車をよける (dodge) 人たち」 つまり、 「トローリー・ドジャース」と呼んだ。チーム名はそこから来ていると言われている。

少年時代、ドッジ・ボールが苦手だった。最後に一人残って逃げてばかりいると、味方の外野から「早く当たれ」とやじられる。ゲームが早く終われば、はじめからもう一回できるからだ。後年、「ドッジ」の意味が「よける」だと知り、ひらりひらりとボールをよけていた自分の方が、自ら捕りに行く級友よりも正統的であったことに気づき、留飲を下げた覚えがある。まあ、そんなことで少年時代の苦い思い出は消えたりしないのだが。

クライム・ノヴェルであり、ロード・ノヴェルでもある。ロサンジェルスからウィスコンシンまで、北米大陸を車で東に横断する黒人少年たちの旅と、主人公であるその名もイーストの旅立ちを描く。主人公が十五歳。弟のタイが十三歳、最年長のウォルターでさえ十八歳である。初めは旅を仕切っていた二十歳のマイケル・ウィルソンがラス・ヴェガスでトラブルを引き起こし、仲間から排除されてしまう。それがケチのつきはじめだった。

イーストは、ボクシズ(箱庭)と呼ばれる地区で麻薬業界を仕切るフィンというボスに見張り役として使われていた。ある日、警察に踏み込まれ、組織は打撃を受ける。仕事先の「家」は閉鎖され、失業したイーストは、フィンから直々に、他の三人とウィスコンシンまで行き、自分の裁判を担当する判事を殺せ、という指令を受ける。飛行機を使うと身元が割れる。車で行って仕事をし、終わったらそのまま帰ってくるという筋書だった。

金以外は何も持たずに出向き、銃は現地で調達するはずだったが、四人のはずが三人になったため、銃の取引相手が信用せず、別口で銃を買う羽目に追い込まれる。この辺りの少年たちの困惑と、そこを何とか切り抜ける機転の利かせ具合がなかなか面白い。ひとつピンチを切り抜けるたびに、それまでよく知らなかった相手の頭の良さや口の上手さ、度胸の良さ、危機回避能力などを知ることで、相手をリスペクトするようになってゆく。

口先ばかりのマイケル・ウィルソンが去ると、コンピュータ・オタクのウォルターが、なかなかの切れ者であることが分かってくる。種ちがいの弟のタイは家を出て以来音沙汰がなかったが、組織の雇われ仕事で、銃の扱いに慣れており、いざという時は頼りになる。ただ、何かというと銃を使いたがるので、イーストは扱いに困っている。タイは誰のいうことも聞きはしないのだ。

イーストは、冷静で暴力を好まない。「家」のガサ入れで銃撃戦に巻き込まれて死んだ少女をいつまでも忘れられない。そんな少年がなぜ殺人という依頼を受けたかだが、一つはフィンは父の実弟で、血のつながりがある。もう一つは、組織の危機を招いたのが自分が仕切る見張りチームのミスではなかったかという自責の念だ。さらに言えば、死んだ父の代わりに母に仕送りをしなければならなかった。

廃屋の段ボールの箱で眠り、洗面器で体を洗う少年の暮らしは、人の温みとは無縁だった。そんなイーストが父親代わりに出会うのが、第三部「オハイオ」。請け負った仕事はやり果せたものの、数々の失態から、ついにイーストは厄介者のタイを撃ってしまう。飛行機で家に帰るウォルターと別れ、独り東に向かって歩き出したイーストを雇ってくれたのが、スローター・レンジというウォー・ゲーム場のオーナーだった。

追われる身であるイーストは、このペリーに見込まれ、仕事を任される。模擬弾を使った撃ち合いだが、持ち込まれた弾には危険なものがある。プレイヤーたちが不正をしないか、上から見張ったり、掃除や道具の貸し出しをしたりといった仕事をイーストはしっかりこなした。客からも信頼され、オハイオでの暮らしにすっかりなじんだ頃、ペリーが死ぬ。そんな時、思いもかけないことに襲撃を受ける。

あっと驚くどんでん返しだが、オハイオでの地道な暮らしに共感を感じていた読者としてはありがたくない不意打ちだ。ネタバレになるので詳しくは書けないが、種明かしめいた展開はあまりいただけない。イーストという少年の成長と更生を願う読者としては、これではまるで、イーストが観音様の掌の中を飛び回る斉天大聖悟空のように見えてくる。いっぱしの大人のように思えていたイーストが一気にただの子どもに戻ってしまうのだ。

「書評七福神の今月の一冊」で票を集めていたので手を出した。これがデビュー作というので名うての評者も点が甘かったのかもしれない。広いアメリカを行く少年の目に初めて見える景色や、土地によって異なる人々の暮らしの様子など、少年であればこそとらえることのできる初々しい視点がある。ロード・ノヴェルの新境地かもしれない。ただ、終始十五歳の少年に寄り添った視点では、いくら大人びていても見えるものは限られている。それが叙述トリックなのかもしれないが、見える世界が限られている息苦しさが気になった。

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by abraxasm | 2017-10-27 11:08 | 書評
e0110713_17572053.jpg北欧ミステリらしいと言っていいのかどうか、ひたすら暗い。そして重い。湖の水位が異常に下がっているので、水位をのぞきに行った研究員が、砂に埋もれた頭蓋骨を発見する。こめかみの上に穴が開いている。もしかしたら殺されたのではないかと考えた発見者は警察に連絡する。鑑識が調べると、骸骨にケーブルが巻きつけられ、その先にロシア製の壊れた無線機が結びつけられていた。まだ水位の高かったころに船から投げ込んだのかもしれない。

捜査を担当するのはエーレンデュルというレイキャビク警察の犯罪捜査官。少年時代父と弟と山に行き、雪崩に遭い弟を見失った過去を持つ。そのせいか失踪者に異常な執着を持つ。妻とは離婚して一人孤独に暮らしている。母親に引き取られた娘とその弟は、母親から父について色々吹き込まれたようで関係はうまく行っていない。それに若手の男性と女性刑事がチームを組む。ハンサムな男性刑事は結婚しているが子どもはいない。女性刑事は料理が得意でレシピ本を刊行し、評判になっている。

派手な捜査は行わない。手がかりをもとに、一つ一つ聞き込みを進め、捜査対象をしぼってゆく。その合間合間に、関係者の個人的なごたごたが挿入され、ああ刑事も人の子なんだなあ、たいへんだ、と同情したくなるエピソードが執拗に投入される。生活感があって良い、と思う読者にはいいのだろうが、シリーズ物を途中から読みはじめた者には、正直こういう部分は本筋を追うのに邪魔になる。それではつまらないのだがとばして読みたくなるのだ。

追う側のあれこれとほぼ同量を費やして追われる側の回想が過去から現在に至るまで、事細かに語られる。本作の主題はこちらの方だ、とでも言っているかのように。それは、第二次世界大戦後、世界がアメリカを中心とする資本主義国家とソ連を盟主とする社会主義国家に二分され、覇権を争っていた時代のことだ。アイスランドから東ドイツのライプティヒに留学した男子学生が、同じくハンガリーから留学中の女子学生と恋に落ちた話である。

それだけなら微笑ましいような話だが、ハンガリー動乱が目前で、東ドイツは運号が広がるのを恐れていた。留学生たちも相互監視を強制され、社会主義の理想に燃える学生の中にも、現実の社会主義国家の在り方には疑問を感じる者も多かった。二人の恋は、その波をもろにかぶってしまい、男の方は祖国に強制送還され、女の方は行方知れずになってしまう。回想しているのは、トーマスという男子学生の方で、湖で発見された死体についてよく知る者のようだ。

死体に結びつけられていたのが盗聴器であったことから、冷戦時代のスパイ疑惑が浮上する。刑事たちは各国大使館に出向き、当時の行方不明者の洗い出しにかかる。特別なひらめきがある訳ではない。捜査はエーレンデュルの直感に基づいて進められる。行方不明者の一人に農機具のセールスマンがいた。バス停に黒のフォード・ファルコンを乗り捨てたまま家で待つ女のところに帰ってこなかった。今でも帰りを待つ女のことが、大事な人を失った者の一人として刑事には気になった。

過去にこだわりを持つ二人の男が、行方の知れない愛する者への思いを抱きながら、追う者と追われる者に分かれて双方から真実に近づいてゆく。湖の男の正体はいったい誰なのか、というのが解かれるべき秘密である。それも、読んでゆくとだいたいの見当はつく。しかし、謎が解決されてもすっきりした気持にはなれない。時代の流れは、社会主義が迷妄であったと切り捨てて今に至るが、今の国際社会の混迷ぶりは、ひたすらに経済的利益を追求してきた資本主義諸国の自由とやらの虚しさを白日の下にさらしている。

秘密警察が国民すべてを監視していた旧東ドイツの社会は極めつけのディストピアだった。それと闘おうとして、力なく敗れた者の無力感が全篇の大部を覆い、読後に重いものを残す。ベルリンの壁が壊れ、東西ドイツは統一されたが、戦後の日本社会同様、不都合な真実に目をつぶり、充分な検討がされないまま有耶無耶になったことがあまりに多いのだろう。登場人物の一人が言う、「私は東ドイツで見た社会主義はナチズムの継続だと思った。たしかにソ連の影が東ドイツ全体を覆ってはいたが、私は行ってまもなくあの国の社会主義はナチズムの新しい形に過ぎないと思った」と語っている。

人が人を監視し、自分とは異なる相手の考えや立場を尊重しようとせず、長い物に巻かれるように、周囲の声に同調し、意見の異なる者を排撃する。ナチズムだけの問題ではない。同じころ、ファシズム国家であったこの国にも、その根っこは残っていたようだ。いつの間にやら時代は七十年前に戻ったようになっている。ひたすら暗く、重いのは北欧ミステリのせいではなかった。この国の今の在り様がそう思わせるのだ。

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by abraxasm | 2017-10-22 17:57 | 書評
e0110713_11445225.jpg<上下巻併せての評です>

「ファミリー・ヒストリー」というTV番組がある。著名人をスタジオに招き、スタッフが調査してきた何代かにわたる一家の歴史を語ってみせるのが売りだ。たしかに、父や母ならまだしも、祖父母の代以上になると、よほどの名家でもない限り、子孫は詳しくは知らない。よく見かける広告に「家系図作ります」というのがある。本人に代わって一家のルーツを調べ、家系図に書き記すというものだ。だが、一般人が家系などわざわざ調べたくなるものだろうか。

家のルーツなど知らなくても不自由はしない。ただし、自分が誰なのか分からないとしたら、これは別の話だ。もし、小さい頃子供用のトランクを下げて、太平洋航路の大きな客船が着く埠頭に独りでいたのを見つけた。それがあなただと言われたら、あなたは自分の本当の生い立ちを知りたくならないだろうか。名前はおろか生国さえ分からない、となればアイデンティティの危機である。

見つけられた少女は、そのまま発見者ヒューに引き取られ、ネルという名をつけてもらい、幸せな家族に囲まれて育つ。二十一歳の誕生パーティーの夜。ネルは真実を知らされる。今まで家族と思っていた人たちが自分とは血のつながりのない人だったと知り、ネルは少しずつ家族と距離を置きはじめる。やがて婚約者とも別れ、独立して暮らし始める。これが1930年。所はオーストラリアのブリスベン。

ここから話は一気に2005年に飛ぶ。いっしょに暮らしていたネルが死に、孫のカサンドラにコーンウォールの断崖の上に立つコテージが遺贈されたことを知らされる。孤独に暮らしていた祖母が何故英国に家を持っていたのか。それがどうして、自分に贈られるのか。その謎を突きとめるため、カサンドラはネルの遺品のトランクにあったお伽話の本を手に、イギリスに飛ぶ。その本を書いたイザベラ・メイクピースという名前を手掛かりに、ネルの本当の名前を探し出し、その生い立ちを知るために。

お伽話、貴族の大邸宅、迷路、秘密の庭、海賊の洞窟、蔦で覆われた海沿いのコテージ、とケイト・モートン偏愛のアイテムに囲まれて、一族の秘められた歴史を追うファミリー・プロット。祖母とその母に纏わる女たち四代にわたる歴史は、ヴィクトリア朝ロンドンを皮切りに、コーンウォール、オーストラリアと、時代とともに舞台を変え、場所の記憶や遺品への思いを転轍機代わりに、軽々と時空を超え、視点は移り変わり、目まぐるしく話は進んでゆく。

自分の出自や能力、容貌などによる劣等感が人間を捻じ曲げ、いびつなものに変えてゆく。そのために、自分の周りにある、純粋で真正なものを憎悪する。憎悪や悪意が、目に見えない網のように家族をからめ取り、傍目には裕福で優雅極まりない貴族階級の一家がやがて自壊し、没落する様がすさまじい。敵役であるブラックハースト邸の女当主レディ・マウントラチェットは、お伽話に出てくる悪い王妃そのままに謀略の限りをつくし、夫が愛した妹似の姪を苛めぬく。

一方、主人公の女たちは、へこたれない子(サバイバー)として描かれる。たった一人でロンドンからオーストラリア行きの船旅を乗り切ったネル。母がありながら、小さいときに祖母の家に預けられ、孤独に生きることに慣れたカサンドラ。貴族の娘に生まれながら、船乗りと駆け落ちした母のせいでロンドンの貧民窟で育ったイザベラ。誰もが家族との縁を断ち切られ、困難な状況に置かれても、自分の手で環境を切り拓いてゆく。抽象的な意味ではなく、自分の手を使って、庭を造り、家や家具を修理し、そこが自分の居場所(ホーム)だ、といえる場所にしてゆく。

題名が『秘密の花園』と似ている。それだけでなく、父が留守がちであったり、入ることを禁じられた塀で囲われた秘密の庭があったり、と設定の酷似することに怪訝な思いを抱くかもしれない。種明かしをすれば、当時『小公子』を発表したばかりのバーネットがマウントラチェット家で開かれるパーティーに招かれ、この家の庭を見たことが執筆動機となったように書かれている。作家だけでなく同時代の画家ジョン・シンガー・サージェントに、重要な手掛かりとなる肖像画を描かせるなど、工夫がうかがわれる。

イライザ自作のお伽話が、総ルビ付きで飾り枠に囲まれ、本文の間に挿入される。このお伽話がネルの生い立ちについての謎解きの手引きになっている。初読時にはただのお伽話にしか読めないが、すべてが明らかになってから再読すれば、いちいち合点がいく。初版本にあるという画家ナサニエル・ウォーカーによる挿絵のないのが残念だが、そこは想像力で補ってもらうしかない。ミステリ色は薄いが、その分『レベッカ』や『ジェイン・エア』、『嵐が丘』を思わせるゴシック・ロマンス風味がある。テムズ川沿いの貧民窟の場面など、ディケンズそのもの。作中に忍ばせた名作のパスティーシュ探しも文学好きにはたまらない。

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by abraxasm | 2017-10-19 11:45 | 書評
e0110713_10391416.jpg冒頭、銃弾が頭を貫通した女が痛みを感じずに車を走らせる場面が出てくる。前頭葉前部を撃ち抜かれていても、そういうことが可能だという。車を降りてハリウッドの看板まで歩いて行った女はそこで倒れ、翌朝日本人観光客に発見されて病院に送られる。半年後、リハビリの甲斐あって女は言葉も話せるようになるが、記憶がすっぽり抜け落ちている。一時的な記憶喪失とはちがう。弾丸と手術のメスによって脳の一部が摘出されたからだ。その結果、女は人格さえ以前とは別のものになっていると医者は言う。

厄介なことに身分を証明する免許証その他を何も所持しておらず、着ていた服はどこでも買える量販品で、テレビで放送されたにもかかわらず彼女を知っているという関係者は現れなかった。身元不明の女につけられる名前、ジェーン・ドーとして女は過去と決別し、新しい人生を生きることになる、はずだった。ところが深夜の病室で何者かに殺されそうになり、担当医の計らいで、ビヴァリー・ヒルズの豪邸で暮らすことに。

記憶をなくした女が、記憶を取り戻すのでなく、新しい人格のもとに出直そうというのがめずらしい。普通なら何としてでももとの自分に戻りたいと思うはずだ。しかし、リセットがきくものなら、そうありたいと考える人間の方が実際は多いにちがいない。人生をはじめからゼロにしてやり直せるチャンスなど誰にもないに等しい。ところが、ジェーンに異変が起こる。完全に防犯管理されたはずの豪邸に、見えるはずのないインディアンの姿が見えたり、眠っているうちに夢遊病状態で変装したりする奇行が現れる。

ジェーンの訴えで担当医のクルーグは女性のボディガードをつけることにする。射撃の名手のサラだ。サラにはデイヴィッドという息子がいた。彼は先天性免疫疾患に冒されていて、菌に耐性がなく、サラの経営する警備会社の地下にある部屋に作られた無菌室から一歩も出ることなく、あらゆる情報を処理していた。クルーグがサラの援助をしていた関係でサラはジェーンの庇護者になる。四六時中一緒にいるうちに二人は互いをよく知るようになる。ジェーンは夢で見たことを少しずつサラに話す。それは信じられない話だった。

前頭葉被切断者は、なくした記憶を補填するため、後づけの記憶から偽の記憶を作り出すことがあるという。ジェーンのそれは、殺し屋だった。それもCIAに類した組織の依頼を受け、長期間ターゲットをつけねらい、最後には死に至らしめるというものだ。ジェーンの話を裏付けようと現地に赴いたサラは、話が事実であったことに驚く。担当医のクルーグはそれは本で読んだことを自分の記憶と勘違いしているだけだとサラをいましめるが、ジェーンの話は詳細で事実に合致している。サラは次第にジェーンの話を信じるようになる。

蘇った記憶が真実なのか、それとも精神科医の言うようにすべて虚言なのか、読者はその結果を知りたいと思い読み進める。次々と現れる新たな事実が、それまでの読みをひっくり返し、新たな読みを浮かび上がらせる。探偵役のサラと一緒に読者も翻弄されてしまう。この間のミスディレクションはなかなかよくできている。再読してみたが、かなり、誠実に事実がほのめかされていることがよく分かる。問題はSF的な設定と極端なまでに過酷な幼少期の記憶が事実を見抜くのを妨害しているのだ。

記憶に中のジェーンもサラも共に保護者の強権に屈し、従順にその保護者の望む通りの人生を送ってきている。見ようによっては完全に虐待されているのだ。そういう過去を共有する二人がともに行動するうちに、精神的に共振するようになってゆくのは理の必然と言っていい。サラの視点を通して、ジェーンの過去を判断していくしかない読者はそれに引きずられて事態を読んでゆくことを要求される。ある意味で、信頼できない語り手による話を聞かされているようなものだ。

話自体は非常に興味深く、若干強引なところや、SF的なギミックが気になるところもあるが、ヒッチコック映画を見ているようなサスペンスは鮮烈だ。誰が本当のことを言っているのか、ジェーンは本当は誰なのか、彼女の記憶は真正なものなのか、最後まで明らかにされないまま事態はどんどん悪化してゆく。最後の最後に明らかにされた真実にはあっと驚く仕掛けが用意されている。ミステリとエスピオナージ、それにほんの少しばかりSF的なスパイスを効かせた本作はアメリカを舞台にしているが書いたのはフランスの作家だ。

最近読んだ新聞の書評欄に「フランスでは1日2人が虐待で命を落とすが、「家庭内のしつけ」とタブー視され、社会的関心は低い」と書かれていて驚いた(『父の逸脱/ピアノレッスンという拷問』セリーヌ・ラファエル著)。「犬の虐待の方が関心が高いぐらい」だと著者は言う。そうした社会背景の上に成り立ってこの作品は書かれている。作家自身が精神障害を持つ母のせいで不遇な幼年時代を送ったらしい。皮肉なことだが、それが作品をリアルなものにしているのはまちがいない。何者にもなることなく老いを迎えた身には、しつけの名を借りて自分の願望を子に押しつけようとしなかった両親に感謝したくなった。

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by abraxasm | 2017-10-16 10:39 | 書評
e0110713_15543538.jpgエンリーケ・ビラ=マタスは邦訳された全作を読んでいるが、今のところではこれがベストだと思う。前二作も意表を突く話題に驚かされつつ楽しく読めたが、知的な部分が前に立ちすぎ、小説としての魅力が今一つ出ていない憾みがあった。本作も一応、著者本人と思しき作家が行う、アイロニーについての三日間の講演のメモがもとになっているという体裁をとる。短い断章形式で構成されるその中身は、中年となった作家の現在の思いと、パリでの二年間の修業時代の回想、それに聴衆を前にして講演している部分とが断章形式で代わるがわる提示される。しかし、視点は常に「私」に置かれており、話題はパリと作家修業、小説の書き方、人との出会い、等に限られていて、大きな逸脱はない。 

作家の自伝的小説でパリにおける修業時代を描いたものといえば、誰だってヘミングウェイの『移動祝祭日』を思い出す。だいたい、タイトルにしたところが、そこから採られている(『移動祝祭日』の最終章の題が「パリに終わりはない」)。ヘミングウェイが、パリ時代、カフェに腰を据え、鉛筆で原稿を書いたことや、スコット・フィッツジェラルド、ガートルード・スタインやエズラ・パウンドとのつきあいの日々を描いたのが、『移動祝祭日』。そこには後のノーベル賞作家の、貧しくも幸福なパリ時代の暮らしが息づいている。つまり、これが元ネタになっているのだ。

「私」は若い頃、ヘミングウェイに憧れていて、中年となった近頃では大酒を飲んで太り、見かけも似てきたと本人は思っている。冒頭にキー・ウェストで行われたヘミングウェイそっくりさんコンテストに出場し、似てないといわれて撥ねられたエピソードを披露している。この作品がヘミングウェイの『移動祝祭日』のパロディ、それもちっとも似てないパロディであることをほのめかしているのだ。講演の主題が「アイロニーについて」であることも、このエピソードが冒頭に置かれた意味を表している。アイロニーとは「表面的な立ち居振る舞いによって本質を隠すこと、無知の状態を演じること」の意である。

「私」は、ヘミングウェイのようなハンター、ボクサーといった陽性のタイプではなく、母に言わせれば根暗なタイプで、パリ時代も幸福な時代だとは感じていない。金は父親からの仕送りで不自由はなかったし、下宿だって小さな屋根裏部屋ながら、家主はなんとあのマルグリット・デュラスだというから恵まれている。ただ、処女作『教養のある女暗殺者』を書きあぐねている作家志望の若者としては、将来というものの見えない絶望的な生活のように当人には思われていたようだ。

もちろん、アイロニーだとはじめから明かされているので、その辺は割り引いて読まなければいけないのだろう。事実、デュラスをはじめ、登場する人物の顔ぶれの豪華さたるや本家の『移動祝祭日』をはるかにしのいでいる。ロラン・バルトが入りびたるカフェで通りを行く人物評にうつつを抜かし、ジョージ・オーウェルの二人目の妻と話をし、ジョルジュ・ぺレックの顔も間近で見ることができたのだ。自分の下宿の部屋に逗留した人物の中には、レジスタン運動時代のミッテラン元大統領もいたというから世間は狭い。

へミングウェイにとってガートルード・スタインが文学上の庇護者であったように、「私」にとってデュラスがそうだった。ズボンの尻ポケットには、彼女が書いてくれた小説の書き方を箇条書きにしたメモがいつも入っていて、折に触れてはそれを開き、そこに書かれた内容について友だちに尋ねたり、自問したりするのが習慣になっていた。その部分だけを抜き出して読めば、小説家志望の青年にとっていかに有意義な解説が書かれているか驚かされる。パロディめかした書きぶりに騙されぬように読まねばならない。これは純粋な魂の告白など、恥ずかしくてできない作家が正体を隠すために被った仮面の蔭から真剣な声で語りかける小説なのだ。

とはいえ、サルトルの写真に影響されて眼鏡をかけ、パイプをいつもくわえた「私」のパリ時代の生活は、口で言うほど絶望的なものではなく、服装倒錯者に囲まれ、映画を撮るだけでなく出演もし、有名人が出入りするパーティーではデビュー直前の女優イザベル・アジャーニに凍りつくような視線で見つめられるなど、パリに暮らす亡命者の中でも恵まれた生活を送っている。この手の話は枚挙に暇がない。絶望的な顔の仮面でもつけておかなければ単なる自慢話と読まれてしまうにちがいない。

それでいて、読後の印象は悪くない。冷たく陰気な冬が明け、パリに春が来る場面などには本家の『移動祝祭日』にも似た抒情的な詩情を漂わせ、他のどこでもないパリに生きる喜びを堪能している若者の姿が浮かび上がる。そのたびに、現在中年となった作家が表面に出てきて、アイロニーを知る者の持つ強みと、それを知った者が未だそれを知らなかった当時をうらやましさの混じった気持で哀惜する心情を訴える。この構成の妙が本作の味わいを深いものにしている。『移動祝祭日』の愛読者なら何をおいても一読をお勧めする。また、小説家を夢見る若い読者にも。

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by abraxasm | 2017-10-13 15:54 | 書評

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