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e0110713_06213719.jpgいつも同工異曲。似たような素材を相も変らぬ調理法で俎上に載せているのだ。飽きられても仕方がない。それなのに、新作が出るとついつい手に取ってしまう。それがまた期待を裏切らない出来映えになっているところが驚異だった。ところが、ここのところミルハウザーの新作を評する気になれなかった。いよいよミルハウザーも煮詰まったか、と残念な思いでいたのだが、本作は久しぶりに堪能。そうか、長編でもなく、短篇でもなく、中篇(ノヴェラ)という手があったか。そういえば、『三つの小さな王国』はじめ、中篇には佳品が多かった。

短篇と中篇の違いについて、柴田氏は、訳者あとがきのなかで「短篇は概して世界の一断片を切り取ろうとするのに対し、中篇は限定された一つの世界の全体を描こうとする」と書いている。博物館にしろ、土牢にしろ、徹底的に作りこまれた細部を増殖させてゆくミルハウザーのような作家にとって、世界を断片として切り取るだけでは満足できないにちがいない。これでもか、というくらい書き込んで初めて一つの世界が現出するのである。その細部にまで手を抜かない作りこまれた世界あっての、ミルハウザーだったのだ。

三篇が収められている。第一の「復讐」、第二の「ドン・ファンの冒険」、最後に表題作「木に登る王」と、読み進むにつれて次第に長さと読みごたえが増す。しかも、男女の恋愛が三篇をつらぬくテーマとなっているところが、いつになく一冊の本としての統一感を感じさせる。単に適当な長さの作品を三つ集めて編んだのではなく、そこには作家の明確な意図が感じられる。そうなのだ。本作は、いつものミルハウザーとは一味違う。

いやいや、心配には及ばない。「復讐」には、幽霊がとり憑いた一軒の家、「ドン・ファンの冒険」には、イギリス風庭園の中に仕込まれた人工楽園の世界、そして「木に登る王」には、迷路のように枝分かれする地下道を持つ王の城、といったお定まりのアイテムがちゃんと用意されている。特に「ドン・ファンの冒険」には、機械仕掛けで鳴くナイチンゲールや中身を刳り貫かれた岩を押し上げるシシュポスまで、これぞミルハウザーと思わせる凝りに凝った仕掛けがたっぷりと用意されている。

それでいながら、どこか違和感がある。同じ本やその他の商品を並べていてもヴィレッジヴァンガードと丸善がちがうように。どちらかといえば、これまでのミルハウザーはヴィレヴァンのような作家だった。明確な路線があって、ひたすらその世界を拡充するといったタイプに思えたのだ。ところが、ここへきてまさかの路線変更か。扱う素材はほぼ似ているのに、見せ方が異なる。主題が男女間の恋愛というのにも驚いた。それも不倫や三角関係である。これは文学の王道だ。ミルハウザーはいつから本格小説作家になったのだ。

夫に死なれ、妻が家を売りに出す。どの部屋にも本棚がある。見学者に家の中を案内しながら、夫との生活を語り聞かせる、全編これモノローグ。夫は生前不倫していた。告白を聞いて以来の懊悩惑乱ぶりを、見学者相手に語り尽すのだが、次第に調子が変わってくる。実は聞き手の女こそが夫の不倫相手なのだ。夫の恋人を地下室で切り刻む(想像上の)場面やら、首を括り損ねた屋根裏部屋の梁やら、いちいち実物を示しながら語って聞かすのだから、想像するだに怖ろしい。胸に覚えのある御仁は「復讐」は読まないほうがいい。本を読み、想像力豊かな妻がいるなら尚更だ。

「ドン・ファンの冒険」は、言わずと知れた伝説の遊蕩者ドン・ファン・テノーリオのアイデンティティ・クライシスが主題。ヴェネチアでの放蕩にも飽きたドン・ファンは彼の地で出会い、意気投合したイギリス人を訪ねることにした。サマセットのスワン・パークに館を持つオーガスタス・フッドは最近造園に凝っていた。「二百エーカーに及ぶ岩屋、滝、くねくね曲がった小川、いきなり遠くの展望が開ける広場、木製のベンチ、廃墟となった修道院」つまり、イギリス風景式庭園のはしりである。

それもただの庭園ではなく、ポオや江戸川乱歩が夢想した奇想に満ち、趣向を凝らした今でいう一大テーマ・パークを建設中であった。これでこそいつものミルハウザー、と安心したのも束の間、いつもなら庭園作りに夢中になる男が主人公なのに、今回は脇役。主役はもちろんドン・ファンで、その相手を務めるのがフッドの妻のメアリ、とその妹のジョージアナ。いつもなら気質の異なる姉妹の二人ともいただくはずのファンが、なぜか今回はなかなか手を出さない。どうも勝手が違うのだ。二人の女の間で虻蜂取らず状態に陥ったファンはとうとう病気になってしまう。

夫のある身でファンの虜となってしまうメアリ。しかし、簡単に落ちる姉より、手ごわい妹の方が気になるファン。三人の男女の恋愛感情の揺れ動く様を、人工のエデンやアルカディアを舞台にスペクタクルに描き出すミルハウザーだが、いつものように一瀉千里に拵え物の世界の完成を急ぐ勢いがない。どうやら今回は、外界よりも内界に目を移して、人間心理のあやを追うのに夢中らしい。女に翻弄されるドン・ファンのアイデンティティ・クライシスはかなり深刻で、負った痛手は深そうだ。

そして、最後に待つのが中世の宮廷詩人たちが語り伝えた恋愛物語、ワーグナーの楽劇でも知られるトリスタンとイゾルデの物語。ほぼ、原作を忠実になぞっているが、大きな改変が一つある。それは、語り手の存在である。コーンウォール王に長く仕えるトマスという老騎士の書き残した物語という体裁をとる点だ。王とその妻と甥の愛と信義がトリスタン物語の主題であることは言うまでもない。「木に登る王」も、それを踏襲している。というよりも、徹底してその点だけに焦点を当てているといった方がいい。

すべてはトマスの目を通して語られる。王の信頼篤いトマスであるから、王の心はかなり読める。しかし、妃の気持ちは知れない。トリスタンとて同じである。二人は王を裏切っているのか、それとも潔白なのか。王の命により、トマスはそれを探る。次第にその渦中に取り込まれるトマスの心の揺れを描くことで、吟遊詩人の歌物語のような古風な恋愛譚がラディゲが描きそうなフランス風恋愛心理小説に変貌を遂げる。しかも典雅で古風な意匠はそのままに。これは新たな境地かもしれない。コーンウォール城の地下深く枝分かれした洞窟の迷路よりも恋する者の心理を追うのは難しい。

いや、楽しませてもらった。今後のミルハウザーからますます目が離せなくなった。とはいえ、恋愛に耽る人間の心理の探究などはそっちのけで、人目もはばからず寝食を忘れ、ひたすら己の夢の実現に無我夢中に邁進する、あのどこかに少年の面影を宿した主人公たちを描く作家はどこへ消えてしまったのだろうか。作家も人の子、歳をとれば成熟し、つまらぬ夢想にいちいちかかずらっていた自分を、どこか醒めた目で見るようになるのだろうか。文学的にはそれこそ申し分のない達成であるのに、そこはかとなく喪失感が漂う。この違和感はどうしようもない。

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by abraxasm | 2017-07-23 06:21 | 書評
e0110713_15142731.jpg作家デビューが遅く、作品数が限られている。これは第三作目の短篇集だが、すでに自分の世界というものを持っていることが分かる。そして、その世界には確固としたリアリティがある。合衆国最北東端メイン州にある海辺の小さな町クロズビーが主な舞台。小さなといっても、そこはアメリカだ。車がなければどうにもならない広さがある。小さいのはコミュニティの規模だ。誰もがほぼ顔見知りで、家族の抱える弱みや泣き所は皆の知るところである。

十三の短篇は、各話独立しているものの、最初の「薬局」から最後の「川」まで、十三篇を通して読む連作短篇集として編まれている。表題のオリーヴ・キタリッジは、「薬局」では、主人公ヘンリー・キタリッジの妻で、七年生の数学を受け持つ教師で、クリストファーという一人息子がいる。このオリーヴという個性的な女性が、時には主役、時に脇役、あるいはちらっと顔を見せたらすぐに消えてしまう端役をこなし、小説を一つの世界につなぎとめる役割を果たす。

架空のスモールタウンに暮らす住民の家を次々と覗き込みながら、ありふれた市井の人々の抱える悩みや、生きることの苦しさ、中年の危機、親との確執、妻に隠れた恋愛事情、といったどこにでもあるテーマを、中心になる人物の組み合わせを次々と切り替えて描く。話が変わるたびに視点は主人公を演じる人物に寄り添う。そうすることで、オリーヴという女性の性格や言動も、よくある小説のように、ただただ善人であったり、一方的に悪人にされたりはしない。

熱血教師で、それを怖いと感じる生徒もいれば、困っている子に目と心を向けるオリーヴを好ましいと思っている子もいる。若い頃は背が高いだけだったが近頃では肩も腰も張り出して大型化している。手など男のようだ。相手がたとえ誰であっても傍若無人、思ったことを言い、行動する。大学は優秀な成績で卒業した。考え方がリベラルで同性愛者にも理解がある。つっけんどんな物言いは口癖のようなもので悪意はないが、人によってはそれを快く思わない。だから、あまり人と顔を合わせてしゃべるのは好きではない。庭に球根を植えたり、夫と二人で家を建てたりするのが好きだ。

夫のヘンリーはといえば、人の世話を焼きたくて仕方のない善人を絵に描いたような男。妻の言いたい放題を柔らかく受け止めて、周りに波風が立たないよう、うまく収めている。「薬局」では、このヘンリーの店に勤める女店員デニースとの出会いと別れが描かれる。結婚したばかりの夫に死別され、他郷で独り暮らしを余儀なくされる若い娘に対する同情が、俗にいう「可哀そうなは好きだってことよ」そのまま、愛へと変わる。いわばプラトニックな不倫である。オリーヴと別れる気もないくせに、デニースに別の男の影を見ると腹を立ててしまう。中年男の妄想を描いた話は他にもう一篇。どちらも切ない。

十三歳の時町を出たケヴィンが医師の資格を得て久しぶりに町に帰ってくる。銃で自殺した母を目撃した過去を持つケヴィンは自分に精神病質があるのを知り、自殺する前に家を一目見ておこうと帰郷する。ところが、海辺のレストランの前に車を停め、思案に耽っているところをオリーヴに見つかってしまう。図々しく助手席に乗り込んだオリーヴは自分の父が自殺した時の話を始める。そんな時、二人がよく知るパティが花を摘みに出た岩場で足を滑らす。

親に死なれた子である教師と、死に場所を求めて帰郷したかつての教え子。そんな二人の目の前で、早産の癖のついた新妻が波にのまれて溺れかけている。荒々しいメインの海を舞台に、生と死の拮抗を描く「上げ潮」は、比較的劇的な話の少ない短篇集の中で異彩を放つ。十代遡れるスコットランド系の先祖を持つ女性オリーヴは、一見すると傍迷惑な存在だが、人生から滑り落ちようとしている人間にとっては救いの神となることが多々ある。これもその一つ。捨てる神があれば拾う神もあるのだ。

この調子で、町の住人が繰り広げる、何気ない人生の一コマ、一コマを、丁寧にすくい上げて、よく練られたプロットを駆使し、絶妙な展開を見せる。どんな平凡な人間であっても、その人生の中で、たった一日くらいは、小説よりも奇なる出来事に出会うことがあるものだ。この短篇集は、オリーヴが中年の頃から七十四歳になるまでの間を扱う。長い時間をかけて見聞きしてきた各人の話を、語り出すときには当人の視点で語るのだ。

「小説よりも奇」と書いたが、怪異な事件が起きるという意味ではない。どこまで行っても人間の話である。人と人との間に起きる。しかし普通は、あってはならないことが起きる。例えば、昔の恋人が別れて何年も経ったある夜突然現れ、実は別れた後で母親が男の前に現れて服を脱ぎだしたことがある、と告げにくる話がある。また、夫の葬式の日に、家に同居していた従妹から、夫と一度だけ寝たことがあると告げられた寡婦の話がある。晩年の人生を「賜物」と感じていた妻が、コンサートの晩、知人夫妻の話から、夫の過去を知らされる傷ましい話もある。

何篇かを除いてほぼ田舎町の老人に起きる人間関係のもつれを扱っている。そんな話どこが面白いのだと言いたくなる若い読者もおられよう。しかし、もしこの国の政治が今よりもう少しましな人たちの手で執り行われるようなことになったら、今の若者も長生きできるかもしれない。そうなったら、この短篇集の凄さもわかることだろう。よく「珠玉の」という修飾語が短篇集に使われるが、そんな生易しいものではない。人が長く生きていれば、昔は美しかったものも醜くなるし、可愛かった子も他人になってしまう。

そのなかで、生き続けていかなければならないのだ。綺麗ごとなど言ってはいられない。自分の辛さや苦しさを、何とかするためには人の不幸さえ利用する。葬式には顔を出し、悲しみに沈む人の顔を見れば、少しは自分の悲哀も薄れるかもしれない。息子の起こした事件が原因で世間に隠れて暮らす夫婦の話を聞いたら、つれない息子のことも、あそこよりはましだと思えるかもしれない。そんなオリーヴの目論見は次々外れ、人生のもっと過酷な相に出遭うことになる。

一篇、一篇がどれも重い。が、中には悲哀の底に輝石のように光るものが沈んでいることもあり、救いが一切ないというのではない。『私の名前はルーシー・バートン』を読んで、他の作品も読んでみたいと思い、リストアップした中の一冊である。思った通り、他の作家にはない独特の小説世界を持ち、小説を読む愉しさを堪能させてくれる。読んでいると、アンドリュー・ワイエスの描くメインの海辺や針葉樹の姿が何度も目に浮かんできた。あの何とはいえず怖ろしさを秘めた静謐な風景はこの作家の世界にどこか繋がるものを感じる。

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by abraxasm | 2017-07-19 15:14 | 書評
e0110713_20540261.jpg主人公は三十六歳の画家。今は復縁しているが、五年前に突然妻から離婚を切り出されたことがある。あなたとはもう暮らせない、と言われたのだ。家を出るという妻に、自分の方が出ていくと告げ、愛車のプジョー205に当座の荷物だけを積みこむと、そのまま北に向けて走り出した。東北、北海道をさすらうようにして宮城に着いたところで車が壊れた。電車で東京に戻り、友人の雨田政彦に電話し、住むところを紹介してもらった。小田原の山中にある、政彦の父で画家の雨田具彦の家である。

具彦は山の上にある一軒家にこもって絵を描いていたが、今は認知症が進み、施設で暮らしている。空き家のままでは物騒で、「私」は番人代わりに格安で宿を提供される。しかも、政彦の紹介で市内の絵画教室の教師の職も得、何とか暮らしの目途もついた。そんなある夜、屋根裏で物音がする。明るくなってから天井裏を調べると梁にミミズクがいた。それともう一つ見つかった物がある。丁寧に梱包された絵だ。紐に付された名札には「騎士団長殺し」と記されていた。

雨田具彦は元は洋画家だが、留学先のウィーンから帰国後、突然日本画を描き出した。理由は不明だが、余白を生かした空間に飛鳥時代の人物を配置した絵は高い評価を得た。見つかった絵は、未発表のもので画家は誰にも見せる気がなく、秘匿していたもののようだ。画題は題名からモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に想を得たものと分かる。騎士団長(コメンダントーレ)がドン・ジョヴァンニに刺された直後を描いたものらしく、騎士団長の白衣には血が滲み、ドン・ジョヴァンニの恋人であるドンナ・アンナの驚く姿も見える。ただ服装は日本の古代の装束に変えられている。画家の代表作と言っていい傑作である。

その絵を見つけてからというもの、おかしなことが起きるようになる。深夜になると外で鈴の音が聞こえるのだ。それも敷地内にある祠のあたりから。祠の裏にはススキの茂みがあり、よく見ると塚のようなものがあった。一人で調べるのも気が引けたので、知りあったばかりの免色という男に話して協力を得る。IT関連で財をなした男で、早速手を回して業者と重機を手配し、蓋になっていた岩を持ち上げた。石の下には深さ三メートルほどの穴が隠されており、中には仏具の鈴が残されていたが、人のいた気配はなかった。

持ち帰った鈴はスタジオに置いた。すると今度は家の中で鈴が鳴る。恐る恐るスタジオの扉を開ける、とそこに騎士団長がいた。身長六十センチほどで絵の中から抜け出てきたなりをして。「ない」というところを「あらない」と奇妙な日本語を使うその男は本人の言葉を借りると「イデア」だそうだ。今は「形式化」していて、格好は主人公の頭の中にある騎士団長の姿を借りたのだという。いわば「私」の「心の眼」だけに写っているわけだ。現実界では長くこの姿でいることはできず、一定時間がたつと消えてしまう。

このイデアとの遭遇以来、主人公の絵は変化を遂げる。それまでも肖像画家としての技量は人に優れていたが、今ではモデルの外見ではなく本質を描き出すまでになった。免色に依頼された肖像画も傑作で、高額で買い取られて屋敷に飾られる。その上で免色はもう一枚絵を依頼する。「私」の絵画教室に通う十二歳の少女の絵だ。まりえという少女は、免色の愛した女の忘れ形見であるだけでなく、もしかしたら自分の血を引いているかもしれない、という。死んだ自分の妹に似たまりえは、日曜日になるとやってきた。教室では無口だったが、二人きりになるとよくしゃべった。

その絵もほぼ完成しかけたころ、ことは起きた。まりえの行方が分からなくなったのだ。騎士団長は、明日電話がかかり、何かを頼まれるが、それを断ってはいけないという。それがまりえの行方を知る手がかりだからだ。電話の主は政彦で、父の具合が悪いので見舞いに行くが一緒に行くか?というものだ。前々から具彦に会いたかった「私」はもちろん承知する。翌日、ベッドに横たわったままの具彦と「私」が二人きりになると、姿を現した騎士団長がここで自分を刺せ、と命じる。それがまりえを探す切り札だった。躊躇した「私」だったが、まりえのためと思い定め、言われたとおりにすると、不思議なことが起きる。

「私」は、具彦の部屋ではない薄暗いところにいた。そこは「メタファー」の世界だった。ところで、突然出てきたこの「メタファー」、修辞学で言えば隠喩である。それにとどまらず視覚表現などにも適用され、近頃では「空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきている」らしい。村上春樹をあまり読んだことがないので、よく知らないのだが、こんな小難しい理論を小説の中に持ち込むような作家だったか?

ここからはまったく「冥界下り」。ル=グウィンの『ゲド戦記』に描かれているような灰色の世界が延々続く。それまで読んできた現実的な世界から突然放り出され、霧に包まれた茫漠たる世界や三途の川を思わせる川、富士の風穴にあるような横穴などの中を「私」は一人で歩いていかなければならない。しかも、そこには「二重のメタファー」と呼ばれる恐ろしい存在がいて、「私」が動けなくなるのを待っている。必死で頼りとなる記憶をたどろうとする「私」だが、しだいにそれもままならなくなる。すると穴は狭まり、「私」は身動きが取れなくなる。まるで母親の子宮の中にいる胎児のようだ。

冒頭にあるように、結果として「私」は生還し、離婚していた妻と元の鞘に収まる。まりえがどこにいたのかもその口から説明される。めでたし、めでたしとなるわけだが、いったいこれはどういう小説なのだろう。ミステリめいた謎も多く解決されずにそのまま放置されている。妻にそのことを言うと(実はこれは妻が貸してくれたのだ。妻は村上春樹をよく読んでいる)「続編があるんじゃないの?」とあっさり言った。えっ、そうなの。これで終わりというのではないのか?そういえば、上・下じゃなかったなあ、と思い出した。第一部、第二部になっている。ひょっとしたら第三部が書かれたりすることもあるわけか?あるかもしれない。前にもそんなことがあった。

というわけで、ここまでで分かったことをちょっとだけまとめておく。これはユング心理学でいう「死と再生」を主題とした小説だ。村上春樹は河合隼雄と親しく、ユング心理学について対談もしている。「私」は実は一度死んだのだ。といっても、肉体的にはそのまま存在していた。ご丁寧なことに村上春樹らしく律儀にセックスまでしている。しかし、ユズという伴侶を失ったことは「私」が考える以上に彼を深く傷つけ、回復不可能なところまで追いつめていたのだ。彼はもう、一度死ぬしかなかった。

雨田具彦も一度死んだのだろう。愛する女性をオーストリアに残し、自分ひとり強制帰国させられた時点で。しかし、そのままでは死ねなかった。自分の身代わりのように南京に出征した弟が、ピアノを弾く繊細な手に剣を握らされ、中国人を虐殺するよう命じられ、帰国後自殺したからだ。その具彦が描いたのが「騎士団長殺し」の絵だ。考えてみると、この小説の登場人物のほとんどが、愛する人をなくして深い喪失感に耐えている。

免色はまりえを見るためだけに、大金を払って向かい合う山の上に建つ家を購入し、今でもまりえの母の衣服を鍵のかかった部屋にしまいこんでいる。まりえも幼い頃に母を失ったままだ。父は喪失に耐え兼ねて宗教に走り、娘を顧みることはない。肉体だけを残して魂が死にかけていた「私」は、何故かこれらの人に引きつけられるように小田原に来て、九か月間暮らした。これらの人々は「地下の通路」で結ばれているのだ。

思うに、「私」はまだ一人で死ぬだけの確かな自我を持っていなかったのだろう。謎の多い免色という人物や、妹を思い出させるまりえという導き手によって、象徴的な死を経験することができた。なにより、雨田具彦という先達が描いた「騎士団長殺し」という絵の存在が大きい。騎士団長のなりをした「イデア」がいなかったら、「私」はどうなっていたのだろう。一度死をくぐり抜けたことで、「私」はひとつ成長を遂げた。画家として対象の本質をつかむところまで行きながら、元の肖像画家として生きてゆくことを選んだ「私」。いつか、あの「白いスバル・フォレスターの男」の絵を完成させることはあるのだろうか?妻ではないが、続編を期待したい。

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by abraxasm | 2017-07-03 20:56 | 書評

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