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暗雲立ち込める空の下、塵芥の山の上にそびえたつ城のような館を背に、沈鬱な表情を浮かべた半ズボン姿の少年が懐中時計状のものを手にして立つところを描いた表紙画が何ともいえない味わいを出している。著者自身の手になるものだそうだ。アイアマンガー三部作と銘打ったシリーズの第一巻。表題はディケンズの『荒涼館』を意識したのだろう。貧しい人々が生きていくために屑拾いをし、親を亡くした孤児が売り買いされるロンドンの街外れを舞台に、まさにディケンズ張りの世界を描く。

主人公のクロッド・アイアマンガーは、堆塵館という大きな館に住むアイアマンガー一族の一員。先祖のセプティマスは土地を持たない屑拾いからはじめ、屑山に捨てられた不用品の中から金目の物を探し、他人の借財を買い集めて財を成した。その資金を元手にロンドン中のゴミの山を一か所に集めたのがここ、フィルチングだ。アイアマンガー家の力が大きくなるにつれ、人々はそれをそねみ、憎んだ。一族を不浄の者と蔑み、フィルチング区の壁の中に閉じ込め、区外へ出ることを禁じた。

アイアマンガーの者は、人々が見捨てた物、壊れた物、汚れた物に愛情を注いだ。それは自分たちと同じ臭いがするからだ。そして、屑の山の上に、ごみの中から使えそうな扉や窓枠を探し出し館を建てるに至った。それが地上六階、地下五階に及ぶ広大な堆塵館だ。地下にはロンドン直通の蒸気機関車が走り、騾馬を動力とする昇降機を備えた近代建築でもある。地上には純血種のアイアマンガー一族が暮らし、地下には、どちらか一方の親がアイアマンガーの血を引くものが、純血のアイアマンガーたちの世話をする役として雇われ、居住している。

水平的平面では、その職業に対する差別意識によって、他のロンドン市民から差別され、隔離されているアイアマンガー一族は、垂直的には、地上階と地下階で、支配する者と隷属する者とに二分されている。同じ地下にあっても、執事や家事頭には名前があるが、下働きの女たちは館に来るまでは所有していた固有の名前を取り上げられ、ただアイアマンガーと呼ばれることに甘んじなければならない。事ほど左様にこの物語は差別被差別、支配被支配の関係の上に成り立っている。

アイアマンガーの支配するフィルチングには、ロンドン市内でやっていけなくなった貧しい者、病人、罪人、借金取りに追われる者、異国の者が集まってきた。彼らはごみの選別の仕事を与えられたが、そのうち奇妙な病気が流行り出した。それに感染すると人が物化するのだ。それはやがて区外にも派生し出した。壁近くに住んでいたルーシーの両親もその病で死に、ルーシーは孤児院に入れられた。ところが、親のどちらかがアイアマンガーの血を引いていたらしく、ルーシーは館に迎え入れられ暖炉係として働くことになる。

ディケンズの小説で描かれているように、当時のロンドンの下層階級に位置する人々の暮らしは貧しく悲惨なものだった。ルーシーは、その階級を代表するヒロインだ。一方、市民からは白眼視されながらも、経済的には富裕層である純血のアイアマンガーであるクロッドは、上流階級とはいわぬまでも中流程度の階層に位置している。この二人の身分ちがいの恋が、主題になっている。階層社会がそれなりに保たれるのは、互いの不干渉が前提である。そこに亀裂が走れば、あとは革命まで一直線だ。

物語は、当然のように二人の出会いに始まり、禁忌の侵犯があり、安定していた構造に揺らぎが起こる方向へ動き出す。そのための仕掛けが、「誕生の品」と呼ばれるものである。アイアマンガー一族が、人が物化してしまう病気から免れているのは、誕生すると同時に、贈られる「誕生の品」をいつも身近に置いておくことにある。まあ、言ってみればお守りのようなものだ。屑の中から選ばれるそれは、蛇口であったり、浴槽の栓であったり、というものだが、ロザマッド伯母の誕生の品であるドアノブが紛失したことが、アッシャー家ならぬ堆塵館の崩壊の契機となる。

誕生の品には、それぞれ名がついている。たとえば、クロッドの誕生の品である栓は、ジェイムズ・ヘンリー・ヘイワードという。一族の中で、誕生の品の名前やその他の物の話す声が聞こえるのは、イドウィド伯父を除けば、クロッド一人だった。いつも家族から疎んじられているクロッドには「聴く人」の力が備わっていたのだ。みじめな少年が異界からやってきた王子様ならぬみすぼらしい孤児の力を借りて、輝かしい騎士に変容する。このあたりのみそっかすがヒーローに変身するあたり、典型的な昔話のスタイルである。もともと児童向けに書かれた絵入り小説らしく、堆塵館に吹きつのる嵐の中、物たちが反乱を起こす場面など、血沸き肉躍る痛快冒険小説のノリで、手に汗握る展開はまるで映画を見ているよう。

いわゆる幻想小説を期待すると、ちょっとちがうかな、という気にさせられるが、見捨てられたものが力を結集して群体を作るという発想など、手塚治虫の『鉄腕アトム』にあったエピソードを思い出した。口髭用カップが走り出すのにつられて、いろんな物が次々と命を授かったように動き回るあたり、日本の付喪神を髣髴させる。屑となった物や、社会から振り落とされ、無用の烙印を押された者を支配する頂点に立つアイアマンガー一族の長である祖父を向こうに回して、虐げられた者や物の側に立つクロッドとルーシーがどう闘うのか、次巻の刊行が待たれる。
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by abraxasm | 2016-10-29 17:24 | 書評
e0110713_1517301.jpgさすがにドストエフスキーの国の話らしく、読んでいる間は鬱々として愉しまず、時おり挿まれる笑い話は苦みが過ぎて笑えず、読語の感想は決して愉快とはいえない。しかし、景気悪化がいっこうに留まることなく、それとともに戦前回帰の色が濃くなる一方の、この国に住んでいる身としては読んでおいた方がいい本なのかもしれない。副題は「『赤い国」を生きた人々」。歴史的にも何かと因縁のある国でありながら、戦後アメリカ一辺倒でやってきた日本にとって、ソ連、そして最近のロシアという国は、近くて遠い国といって間違いはないだろう。

筆者は、昨年(2015年)のノーベル文学賞受賞者で旧ソヴィエト連邦ウクライナ共和国生まれ。このぶあつい書物は、テープ・レコーダーを肩にかつぎ、街頭や個人の家に出向いては無数の人々の声を録音してきたインタビューを文章に起こしたもの。文中にたびたび(沈黙)、と記されているように、筆者は聞き役に徹し、ほぼ相手の話した通り忠実に書き起こしたものと思われる。それだけに、読みやすくはない。内容が内容だけに、感情的になりがちな話し手の息づかいまで聞こえてくるような書きぶりに、こちらのほうまで息苦しくなってくる。

タイトルにある「セカンドハンド」とは、中古品のことで一昔前には、それを略した「セコハン」という言葉はあたりまえのように使われていたものだ。では何がセカンドハンドなのか。ゴルバチョフ主導により行われたペレストロイカ以後、共産主義国家であったソヴィエト連邦が崩壊し、ゴルバチョフの後を受けたエリツィンにより、かつてのソ連はロシア連邦となって資本主義国家への道を踏み出した。しかし、民主主義や自由という言葉にあこがれ、よりよい生活を夢見ていた人々を襲ったのは、失職、預金封鎖、ハイパー・インフレの嵐だった。

かつては技師や研究者であった人々が、国家の方針転換で職をなくし、食べ物を手に入れるために、物売りや清掃人の仕事をして食いつながなければならなかった。そして、その子どもたちの時代、現代ではスターリンの肖像をプリンしたTシャツを着た若者の姿が目立つという。かつて、目にしたものが、批判され打倒されたはずのものがいつの間にか復権し、大手を振って町を席巻している。昔を知る人々にとっては、まるで美しく輝いていた共産主義が中古品になって出回っているという気にもなる。タイトルの由来である。

それにしてもである。人々の口にする言葉が画一的というか、人はちがっていてもまるで同じフレーズを唱えることに驚く。ペレストロイカで皆が夢見たものはソーセージ、それにジーンズ。そして、一時期の混乱を経て、今、ソーセージは確かに街に氾濫しているが、人々の頭にあるのはカネ、カネ、カネだ。人よりうまくやって金を得ることが何よりも大事なことになった。キイチゴ色のスーツを着て、金の鎖をじゃらつかせ、メルセデスに乗った勝ち組が大通りを闊歩する。

昔はこうではなかった。みんな貧しかったが、そのかわり大金持ちが威張りくさるということもなかった。スターリンは偉大だった。ソヴィエトは立派な大国だった。ゴルバチョフは、CIAの手先で、ユダヤ人たちに国を売り渡してしまった。あの偉大なソヴィエト連邦は、一発のミサイルも撃つことなしに共産主義国家を雲散霧消させてしまった。91年のクーデターを阻止するため、広場に集まった人々の口にする言葉は、みなおどろくほど似かよっている。

インタビューに応じる多くが、当時のインテリ階級で共産主義の理念に賛同し、熱心に活動してきた人たちだ。文学好きで、チェーホフやプーシキンの全集を備え、劇場に足を運び、舞台を楽しんでいた人々が、ペレストロイカ以後は、生きるために、まずは食べる物を獲得することに自分の全エネルギーを費やすことになる。その空しさを、切々と訴えるのだが、子どもたちには理解してもらえない。ジェネレーション・ギャップは、世界共通でもあろうが、彼らの言うように互いが異なる国に住んでいるというほどの認識までにはさすがに至らないだろう。

べネディクト・アンダーソンによれば、国家とは「想像の共同体」であって、地政学的な概念ではない。そういう意味では、かつてのソヴィエト連邦と、現在のロシア連邦は地理的には共通する部分が多いが、同じモスクワに住んでいても、ソ連当時のモスクワに暮らしていた人々と、現在のモスクワに住む人々は、まったく異なる国の国民であるといえる。ずっと故郷を離れていたモスクワっ子が、ペレストロイカ後のモスクワを見てその様変わりに「ここはモスクワではない」とつぶやいても無理はないのだ。

軍によるクーデターを阻止した人々が狂喜の後、激しい落胆に襲われた理由は、民主主義は突然やってきたりはしないということだった。ヨーロッパは二百年にわたって民主主義を育んできた。ロシアは、一朝一夕には変わらない。アメリカとの軍拡競争に明け暮れ、リベットを打って兵器を作ってきた多くの工場や研究所の閉鎖は大量の失業者を生んだ。おまけに軍縮はこれも大量の失業軍人を輩出した。「自動小銃と戦車しか知らない男たち」は、なすすべもなくウオッカを飲んで女を殴った。

政府の上層部は、共産主義を廃止すれば、民主主義や資本主義が、自然成立するとでも考えていたのだろうか。目端の利いた者が早いもの勝ちにパイを奪い合い、かつてそれなりの秩序の下にあったロシアは、ならず者が力で牛耳る国家になり果ててしまう。目を覆いたくなるような悲惨な状況が、次から次へと語り継がれる。まるで悲劇的作風の短篇小説を大量に集めたものを読まされている感じだ。しかし、これは小説ではなく事実。KGB出身のプーチンが、それなりの支持を得たのは曲がりなりにも治安を回復させたことにある。

西側からは歓喜の声を持って迎えられたペレストロイカの実態が、かくまでひどいものだったのかと、改めて思い知らされた次第。煮え湯を飲まされた世代と、過渡期の地獄を知らない世代にとってスターリンは英雄なのかもしれない。第二次世界大戦の生き残りは言う。「スターリンのことを悪く言うが、スターリンがヒトラーに勝利しなかったらロシアはどうなっていたんだ」と。年よりは、スターリニズムの恐怖を知らないわけではない。彼らは彼らの国家の夢をいまだに見ているのだ。想像の共同体である偉大なロシアの夢を。

国家が想像の共同体であるなら、この国にだって憲法に象徴される戦後民主主義の理念を共有する人々の共同体がある一方、戦前の価値観をセカンドハンドで手に入れ、ほこりをかぶったそれを今風に飾り立ててさも素晴らしいものであるように見せる人々がいる。この国もまたセカンドハンドの時代に入りつつあるのではないか。とても他山の石として見過ごせるような本ではない。

全編を通じて感じるのは、人々の語彙が単色であることだ。何人の人の口から唯物的な暮らしを意味するものとして「ソーセージ」という単語が出るか。新興成金の着る服はみな「キイチゴ色」で、他の色はない。言葉がプロパガンダ化しているのだ。この同調圧力の強さは、いったん戦時ともなれば強みだろうが、事態の急変を乗り切る際には弱みとなろう。レミングの暴走と化すのだから。この本から学ぶことがあるとすれば、そこではないか。道を誤らないためには、他人任せにせず、自分の目や耳をつかって、今起きていることを自分の言葉で語り、書きとめていく必要がある。それを反語的に教えてくれているのがこの本ではないのだろうか。
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by abraxasm | 2016-10-27 15:17 | 書評
e0110713_10501388.jpg<上下二巻を併せての評>

『転落の街』は、ロス市警強盗殺人課刑事ハリー・ボッシュが主人公。下巻カバー裏の惹句に「不朽のハード・ボイルド小説!」のコピーが躍るが、御年60歳で、15歳の娘と同居という設定では、どう転んでもハード・ボイルドになるわけがない。事実、射撃の腕は娘にも負け、視力の衰えや観察力、推理力が以前ほど働かなくなったことを認めてもいる。なにしろ引退を考えるほど自信をなくしかけている。

シリーズ物の作品をはじめから読まずに途中から読むのは厄介だ。キャラクター設定がのみ込めていないし、人間関係にも疎い。それでも、どうにか読めるのは、作家がそのあたりを配慮して、一話完結でも読めるようにしてくれているからだ。年をとり、一度は年金生活者となった主人公が再雇用され、「緊急呼び出しやできたてホヤホヤの殺人事件」を待たない未解決事件班に配属されているところから話がはじまる。

昔は使えなかった技術が可能となり、DNA解析が犯人割り出しの決め手となる。古い事件のDNAが、全米のデータベースに登録されている遺伝子プロファイルに該当し、特定の個人に合致したものをコールド・ヒットと呼ぶ。その報告書をたよりに犯人の身柄を押さえる未解決事件班は、荒っぽい現場に不似合いな年寄りや、血を見るのが苦手な刑事には似つかわしい職場だ。

今回の事件にはおかしな点があった。被害者から採取された血痕のDNAは、性犯罪の逮捕歴を持つペルという男のものだったが、事件発生当時の年齢は八歳。八歳児が十九歳の女性を拉致監禁後レイプし、死体を遺棄できるものだろうか?捜査をはじめるボッシュに呼び出しがかかる。別の事件を担当せよという本部長命令だ。元刑事で今は市議のアーヴィングの息子が昨夜ホテルのバルコニーから転落死した。自殺説を認めない市議はかねてから因縁の仲であるボッシュに白羽の矢を立てたのだ。

互いに関係のない二つの事件の捜査が同時に進行していく。ボッシュは相棒のチューとレイプ殺人事件の犯人を追いながら、アーヴィング・ジュニアの死の真相を追う。警察内部から情報が漏れたり、かつて警察にいながら職場を追われて遺恨を持つ、市議を含む複数の元刑事がからんでいたり、と転落事件は警察と市議会を巻き込む政治的事件の様相を呈してきていた。

冷静で有能なボッシュの捜査や尋問を通して捜査はすすめられてゆく。組織の中の力関係を見すえ、危うい均衡を操りながら動くボッシュの姿は、クライム・ノヴェルの緊張感に溢れている。話の途中にたびたび顔を出しては、鋭い観察眼を披歴する娘のマディとのかけあいも緩急のテンポを生んでいる。性犯罪者相手にセラピーを行う社会復帰訓練施設勤務の女医ハンナとの間にはロマンスさえ生まれ、上巻は地味ながら落ち着いた警察小説の色合いが強い。

転落死したアーヴィングの背中には特徴的な傷跡があり、落下する前に着いたものであることが分かる。床に落ちたボタン、不自然な目覚まし時計の位置、目撃証言、監視カメラの映像を手掛かりに、アーヴィング父子と利害関係のある巡査や元刑事を尋問し事件解決に近づいてゆくボッシュ。市議である父の力を利用してロビーストとしてのし上がってきた息子が何故死なねばならなかったのかを追う、こちらのほうの展開はハード・ボイルド調で楽しめるものになっている。

一方、未成年者の拉致監禁、レイプ殺人という陰惨な事件の解決は、ハンナがセラピーを担当するペルの記憶にかかっていた。母の情人によって虐待を繰り返された少年は、満足に学校にも通えず過酷な人生をたどるうちに、かつての被害者が今は加害者になっていた。救いようのない事案は、それにかかわるハンナとボッシュの関係にも影を落とす。未成年者のからんだ性犯罪というモチーフは、どう扱っても後味が悪い。ノワールに猟奇事件を持ち込むのはそろそろ止したらどうだろうか。

二つの事件が最後にどうからんでくるのかという興味があったのだが、DNAの二重螺旋構造よろしく、結局二つは最後まで交差することはない。どんでん返しに慣れすぎて、普通の解決の仕方では裏切られた気がするのだが、これは無理な注文というものだろう。ただ、転落死の解決は、動機が弱い。美人妻はハード・ボイルドでは謎を解くカギというのが定番。せっかく美しい妻を登場させておきながら出番が少ない。ハード・ボイルド色を薄めてしまった原因だろう。

かつてのパートナーが出世して上官になっていたり、現在のパートナーとの関係に齟齬が生まれたり、と警察小説ならではの人間関係を基軸としたサイド・ストーリーが、小説に厚みをもたらしている。惜しむらくは読後にスッキリ感がない。巧緻なプロットで有名な作家が二重螺旋構造というアイデアに固執し、二つの事件を同時に扱おうとしたところに無理があったのでは。一粒で二度美味しい、というキャラメルのように甘くはなかったというところか。
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by abraxasm | 2016-10-25 10:50 | 書評
e0110713_11555620.jpg芥川賞や直木賞なんて世界の文学賞のうちに入るのだろうか?日本の作家が書いた日本語の小説しか対象になっていないのに。なんてことを思ったけれども、読んでみました。今年も話題になっているのは、もちろんノーベル文学賞。村上春樹さんがとるかどうか、メディアで騒がれました。この本を読むとわかるのですが、その根拠になっているのがカフカ賞。この賞をとった人が二人、ノーベル文学賞をダブル受賞しているんだそうで、まだ受賞してないのが村上春樹なんだそうです。カフカ賞はチェコ語の翻訳が一冊は出ていないと受賞できないそうで、村上春樹がとった2006年は『海辺のカフカ』が翻訳された年。タイトルがよかった?

そのノーベル文学賞。世界的に開かれているような気しますが、実はヨーロッパの主要言語しか読めない人が選考委員なので、そうした言語で書くか翻訳版が優秀であること、北欧諸国出身だとさらに有利、とのこと。タイトル関連でいうなら『ノルウェイの森』に分がありそうなものだが、どうなっているんでしょう。それはさておき、8大文学賞として取り上げているのは次の賞です(開始年)。ちなみに、受賞対象が作品になっているのが、*のついている賞で、何もついていないのが、作家に与えられる賞です。<>内が本書で取り上げている作家名。

ノーベル文学賞(1901年)<アリス・マンロー、オルハン・パムク、V.S.ナイポール>
ゴンクール賞(1903年)*<マルグリット・デュラス、ミシェル・ウェルベック、パトリック・モディアノ>
ピュリツアー賞(1918年)<ジュンパ・ラヒリ、スティーヴン・ミルハウザー、E・P・ジョーンズ>
芥川賞(1935年)*<黒田夏子、小野正嗣、目取真俊>
直木賞(1935年)*<東山彰良、船戸与一、車谷長吉>
エルサレム賞(1963年)<J・M・クッツェー、イアン・マキューアン、イスマイル・カダレ>
ブッカー賞(1968年)*<ジョン・バンヴィル、マーガレット・アトウッド、ヒラリー・マンテル>
カフカ賞(2001年)<フィリップ・ロス、閻連科、エドュアルド・メンドサ>

この本は、都甲幸治さんを中心に、「小説家や書評家、翻訳家など本にまつわる様々な職業の人々に、一つの賞につき一冊ずつ、合計二四冊読んでもらい、全てを読んだ上、鼎談の形で論じてみたもの」。談話形式なので、口調がくだけていてとても読みやすい。鼎談の間には、都甲さんと、僕が翻訳本を選ぶ時の目安にしている翻訳家のひとりの藤井光さんのコラムもある。外国文学って、よく分からないけど、どんな本があるのだろうと考えている人には役に立ちそう。

で、はなから外国文学好きの人たちには、もっと面白いんじゃないかな。というのも、それぞれの賞の特徴についてふれたあと、その賞の受賞者たちの小説について三人が語るんだけれど、選ばれている作家の顔ぶれが、いいんです。今までにたくさんの人が受賞しているはずだけれど、この人たちを選んでくるあたりがすごいな。本当に本のことがよく分かっていて好きなんだなあ、と思います。

それぞれの賞につけたタイトルが、その賞の特徴を表していると思うので、下手に解説するより、それを紹介します(日本の賞は省略)。「これを獲ったら世界一?」(ノーベル賞)、「当たり作品の宝庫」(ブッカー賞)、「写真のように本を読む」(ゴンクール賞)、「アメリカとは何かを考える」(ピュリツアー賞)、「チェコの地元賞から世界の賞へ」(カフカ賞)、「理解するということについて」(エルサレム賞)。

今年ノーベル文学賞の受賞者に選ばれたボブ・ディランから音沙汰がないので、財団はさぞ気を揉んでいることだろうと思います。それもこれも、この賞の選考基準としていちばん全面に押し出しているのが「人類にとっての理想を目指す、世界でも傑出した文学者」というものだからです。「最近の受賞者の傾向を考えると、どうやらこの「人類にとっての理想」というのは、「人権擁護」や「国内で迫害されている人を描く」という意味」らしい。で、ボブ・ディランなわけです。そんなノーベル文学賞ですが、都甲さんがこう言っています。
今回紹介する三人はある意味「間違って獲っちゃった」人たちです(笑)。マンローはカナダのド田舎に住んでる普通のおばさんだし、パムクは『無垢の博物館』(早川書房、全二巻)のように変態的な話を面白く書く人だし、ナイポールはそもそもどの国の作家だと言いきれない。ノーベル文学賞を獲った立派な国民文学作家について国別対抗で語り合うんじゃなくて、「ノーベル文学賞獲ったにも関わらず、別の理由でいい作家です」という人たちを紹介したいです。

すべてにおいてこの調子。マンローもパムクもナイポールも、けっこう読んでいるので、都甲さんの言いたいことはよく分かる。特にマンローはすごい。「短篇一本を読んだだけで、長篇を一冊読み切ったくらいの気持ちにさせてくれる」(都甲)という評がすべてを語ってくれています。本当にその通り。パムクについて訳者の宮下遼さんがいう「それだけで短篇、中篇になりそうな話を、一つの長篇のなかに惜しげもなくいくつも投入していく気前のよさが、僕は好きです。こんなに西欧風な人間のくせに、そこだけトルコ的な御大気質を感じてしまって。ディテールの作り込まれた奇想こそが、物語の要諦だと思います」というのもまさにその通り。

この調子で紹介していると引用だらけになりそうなので、このへんでやめますが、ブッカー賞のところで、ジョン・バンヴィルの文章についていい話があります。毎日九時から一八時までオフィスで執筆に専念し、一日英語で二百語書けたらその日は成功だというのです。「バンヴィルはベンジャミン・ブラックという別名でミステリーも書いていますが、その時はパソコンを使って書くそうです。そのときは筆が速いらしい。バンヴィル名義は手書きで、極端に遅くなる」(都甲)。このこだわりがあの美しい文章を生むのですね。ブラック名義でチャンドラーの名作の続編を書いた『黒い瞳のブロンド』。チャンドラーには及びもつかないけど、ミステリとしてはけっこういけますよ。
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by abraxasm | 2016-10-24 11:56 | 書評
e0110713_14533730.jpgこれは、ジェイムズ・ジョイスのではなく、『ユリシーズ』という一冊の本の伝記である。ジョイスその人については、有名なリチャード・エルマンの『ジェイムズ・ジョイス伝』をはじめ、八冊の評伝がある。『ユリシーズ』について書かれた本に至っては数えきれない。だが、出版当時、猥褻であるという理由で焚書にされた書物が、現代の古典と呼ばれるに至るまでの出版事情について、このように詳しく書かれた本は多くない。

いうまでもなく、『ユリシーズ』を一冊の本という形で世に出したのは、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店の店主シルヴィア・ビーチである。パリ左岸の店は店主の居室も兼ねた貸本屋という形式で始まったが、すぐにパリ在住のモダニストたちのたまり場となった。ジョイスを世に広めるために尽力したエズラ・パウンドをはじめ、パリにやってきたヘミングウェイやF・スコット・フィッツジェラルドなどのアメリカ人作家も常連になった。

優れた文学者ではあっても、生活者としてはほとんどダメ人間で、金が入れば飲んで大散財してしまうジョイスは、シルヴィア・ビーチ以外にも多くの女性に援助を受けている。まず、『ユリシーズ』は本になる前に、マーガレット・アンダーソンという女性の主催するアメリカの雑誌『リトル・レビュー』誌に連載されることで日の目を見た。「ナウシカア」の章が猥褻だとして裁判になった時も、マーガレットはひるまなかった。

『ユリシーズ』の英国版を出版してくれたのは、ハリエット・ショー・ウィーヴァーという女性で、パトロンとして多額の資金を援助している。出版には素人で、敬虔な一家は猛反対したが、ウィーヴァーは何とか出版にこぎつける。ところが、その初版は一部が、第二班はすべて焼却処分となった。ウィーヴァーは、直接見知っていたシルヴィア・ビーチとはちがい、トリエステ、チューリヒ、と各地を転々とするジョイスと面識がなかった。どうして、ここまで援助しようという気になるのかが不思議。『ユリシーズ』という書物の持つ力としか考えられない。

シルヴィア・ビーチは『ユリシーズ』を品質別に価格の異なる三つの版で出した。オランダ産の手漉きの紙にジョイスのサインが入った豪華版、上質な紙を使用した版、それに廉価版だ。ゲラが上がるたびに新たに何度も章句を書き加えるジョイスに印刷工が難儀した話や、青地に白の装丁はギリシア国旗の青でなくてはいけないと言い張るところなど、いかにもジョイスらしいしたい放題をシルヴィア・ビーチは、よくゆるしたものだ。最後には口契約だったことを理由に版権をジョイスに奪われてしまうというのに。

著者がアメリカ人であるため、猥褻裁判の経緯についてはアメリカの裁判が中心。アメリカの当時の法律では郵便を使って猥褻な書物を送ることが罪とされていた。そのため、フランスで刊行された『ユリシーズ』は、一度カナダに送られ、協力者のズボンの中に隠されて船に乗り、アメリカに上陸したという。当時のズボンは幅が広かったとはいえ、ただでさえ分厚い『ユリシーズ』を二冊隠しながら歩くのはさぞ大変だったろう。

『ユリシーズ』は、非常に高価な本だったが、評判を聞いて本を求める顧客の所に到底いきわたらず、不正確な海賊版が横行した。ランダムハウス社の創始者ベネット・サーフは、裁判で無罪を勝ち取り、海賊版より先に『ユリシーズ』をアメリカで出版するため、弁護士と協力し、無罪を勝ち取ることに成功する。この裁判劇が小説を読むように面白い。

裁判を担当したのはウルジー判事だが、暖炉のある自室の肘掛け椅子にすわり、関連書物を何冊も用意して『ユリシーズ』を読み込んでいく。バック・マリガンの登場する第一章の叙述は苦も無く読め、共感を持てたものの、次第に叙述方法が変化してくるにつれ、わけが分からなくなってくる。それでも最後まで読むところに感心した。裁判の中で、弁護側のアーンストに「君、本当にすっかり読み通したのかね?大変だっただろう?」と訊ねるところが愉快だ。

ジョイス自身については、マリガンのモデルであるゴガティとの交友など、『ユリシーズ』に関連する事実については書かれているが、網羅的ではない。もっぱら言及されているのは、表紙の絵にもある通り、アイパッチに隠された眼のことである。ジョイスは、周期的に起こる虹彩炎に生涯悩まされる。痛みがひどくなると失神するほどで、手術は十一回も受けたという。ただ、回復はせず、最後には両眼ともほとんど視力をなくしていた。それでも、綴り字にこだわりのあるジョイスにしてみれば、口述筆記に頼るなど不可能で、最後は大きな紙に自筆で原稿を書いたという。

ひとくちに表現の自由というが、誰かが試みるまで、その自由は無きに等しい。国際的には評価の高い浮世絵の春画が美術館で公開されたのはついこの間のことだ。『ユリシーズ』が、猥褻でないと認められ、出版が許されたことは、その後に続く表現をどれだけ生み出したことか。

自分では印刷どころか価値を認めようともしなかったヴァージニア・ウルフにさえそれは影響を与えた。ウルフは書評にあった「三人のまったく異なる人物の意識から紡ぎ出された」という言葉を頭にとどめた。当時短篇を書いていたウルフは後に、それを長篇に作り変え、「ロンドンでの一日を舞台に、三人の意識に分け入る小説」を完成させる。『ダロウェイ夫人』である。この指摘には、虚を突かれた。「意識の流れ」という手法にジョイスとの関係を見てはいたが、ともにダブリンとロンドンの一日の出来事という類似には気がついていなかった。

ヘミングウェイがシルヴィア・ビーチにたのまれて『ユリシーズ』の密輸を手伝ったことや、飲みつぶれたジョイスを家に連れ帰って、ノーラに皮肉を言われた件など、お気に入りの作家のエピソードにも事欠かない。ジョイスファンにはもちろん、モダニズム文学に興味のある人にはお勧め。あと、猥褻裁判に興味のある人にも。
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by abraxasm | 2016-10-23 14:53 | 書評
e0110713_15433477.jpgボブ・ディランがノーベル文学賞をとって話題になっているが、このハビエル・マリアスも候補に挙がっていた一人。ノーベル賞は政治的な意味合いが強いので、ボブ・ディランにいったのだろうが、今さらという気もする。それよりは、もっと読まれてしかるべきなのに、世界的にはあまり知られていない作家に光を当ててほしいものだ。オルハン・パムクもパトリック・モディアノもノーベル賞を受賞していなかったら、日本でこんなに翻訳されることはなかったろう。

ハビエル・マリアスを読んでみようと思ったのは、候補に名が挙がっていることを知り、どんな小説を書くのだろうという興味を持ったからだ。なかなか個性的な作家で、特にその文体が特徴的だ。もっともこの一作しか読んでいないので、ほかの作品がどんなスタイルで書かれているのかは知らない。『執着』に関していえば、ページが黒々とした印象を持つほどに、改行が極端に少なく、会話であってさえ、まるで演説かと思えるほどながながと続く。

主人公マリアは三十代の編集者。出勤前に立ち寄るカフェで、<完璧なカップル>と名づけた夫婦を眺めるのを楽しみにしていた。ある日その男性ミゲルが殺されたことを知る。何日かたち、カフェで妻ルイサにお悔やみを告げたことをきっかけに家に誘われ、そこでミゲルの友人ハビエルに紹介される。その後、街で偶然再会したハビエルとマリアはつき合うようになる、というお決まりの展開。ところが、ハビエルには秘密があった。

自分と寝ていても、ハビエルが好きなのはルイサだとマリアは知っていた。そんなとき、寝ていたマリアは、隣室のハビエルと客との話を偶然耳にしてしまう。男はハビエルが誰かにミゲルを殺させるために選んだ仲介者だった。日頃シェイクスピアの『マクベス』やバルザックの『シャベール大佐』、デュマの『三銃士』を引用しながら、「不処罰の不条理」について語るハビエルの説は、自分がやったことについての婉曲的な告白だったわけだ。

愛する男が、間接的にではあるが人を殺したかもしれない。自分はどうするべきか。凄いサスペンスだ。普通のミステリなら、ヒロインがこの難局をどう切り抜け、部屋から逃げ出して警察に駆けつけるか、男はそれをどう阻止するのかという展開になるのだろうが、そうはならない。こんな漠然とした話を警察が信じるかどうか疑問だし、憔悴しきっているルイサが真実を知ったらどう思うだろう。それに何よりマリアはまだハビエルを愛している。

ここまで読んできたあなたは、これではネタバレではないか、と思うかも知れない。心配御無用。これはそんな簡単な話ではないのだ。先行する文学作品や辞書の例文まで使って、訳者の言を借りれば「恋愛と不処罰の不条理」という二大テーマを追った一種の思弁小説だからだ。ミゲルを刺した男は、娘に売春させているのはミゲルだと電話で何者かに使嗾されたという。しかし、寝起きする廃車に置かれた携帯に出るかどうか、ナイフで刺すかどうかは成り行き次第。殺人教唆にあたるかどうかすら疑わしい。
私はじっと時の過ぎるのに任せていた。うやむやに雲散霧消させるか粉々になるのかを待つかするのが、現実世界ではいちばん無難なのだ。頭と心の中では永遠に消えずに居座り、息が詰まりそうな腐臭を放ちつづけるのだとしても、それならなんとか耐えていくことができる。そういうものを抱えていない人がいるだろうか。

全編が「内的独白」を多用したマリアの一人称視点で語られている。「意識の流れ」に倣ったのか、主人公のモノローグは、しばしば脱線し、時には対話する相手に成り代わって、ハビエルの苦しい胸中も吐露すれば、ミゲルやルイサの口にするであろう言葉も自在に駆使する。もともとこのハビエル・マリアスは翻訳家で、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の翻訳ではスペイン国民翻訳賞を受賞している。『トリストラム・シャンディ』なら、脱線はお手の物である。

すべて、マリアがハビエルから聞かされた話でしかない。マリアがそれをどうとるかで、これから先のマリアとハビエル、ハビエルとルイサの人生が左右されることになる。最後のどんでん返しである、ハビエルの語るところによる、ミゲルを死に至らしめた真実の理由も、伝聞である以上マリア同様、読者も疑わずにはいられない。ハビエルの言う通り、この世の中には処罰されない犯罪など、いくらでも転がっているのかもしれない。

非常に知的で論理的。この目眩くような堂々巡りを、晦澁とまではいえないものの長広舌であることはまちがいない文体で読まされるのは、かなり被虐的快感であり、嫌いな人なら投げ出したくなるだろうが、好きな人にはくせになる。少なくとも評者は、はまった。近いうちにノーベル文学賞をとってもらいたい作家のひとりである。残る唯一の邦訳『白い心臓』もぜひ読んでみたくなった。
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by abraxasm | 2016-10-19 15:44 | 書評
e0110713_2320612.jpg『薔薇の名前』で一躍世界中で知られることになったウンベルト・エーコは、今年二月に亡くなったばかり。つまり、これが最後の小説ということになる。博識で知られ、一つの物語の背後に膨大な知識が蔵されていて、それらのサブ・テクストを読み解き、主筋に折りこみながら物語の森と化したテクストを追うことが必要となるため、読むにはそれなりの時間と体力を要した。さすがに、最近は『バウドリーノ』や『プラハの墓地』のように、よりエンタテインメントを意識した作風に変わってきていたが、『ヌメロ・ゼロ』は、さらにその傾向を強め、誰でも楽しく読める小説になっている。

1992年のミラノ。コロンナは、シメイという男にデスクとして雇われ、新しい日刊紙『ドマーニ』の発刊に向け、準備作業に追われていた。出資者はコンメンダトール(イタリアの勲位)・ヴィメルカーテという業界では名を知られた人物。真実を暴く新聞を作りたいというのが表の理由だが、本音は業界の裏話を書くぞ、と脅せば関係者が手を回し、自社株を安く回してくれたり、名士仲間に入れてくれたりするだろう、というのが読みだ。つまり、新聞は日の目を見る前に発刊取りやめになることが予想される。

そこで、シメイは発刊準備から発刊中止に至るまでを小説に書いて売り出すことを思いつく。前評判をあおっておけば、いざ中止となった時の保険になる。自分には本を書く力はないので、ゴーストライターとしてのコロンナの腕を見込んでの抜擢だ。他に六人の記者を雇うが、彼らには本当のことは伏せておき、見本として作る創刊準備号の編集会議を開く。会議の内容がそのまま本になるわけだ。パイロット版の名前がタイトルの『ヌメロ・ゼロ(ゼロ号)』。

ジャーナリズムを舞台に、その内幕を暴くのがエーコの狙いだ。労働騎士勲章を叙勲し、支持者にはイル・カヴァリエーレと呼ばれるベルルスコーニ元首相を髣髴させる、コンメンダトーレが考える新聞だから、左翼やインテリ向けではない。ふだん本など読まない読者が興味を持つような記事の作り方を話し合う毎日の編集会議はぶっちゃけ抱腹絶倒の怒涛の展開。エーコの饒舌が乗り移ったかのように、どの記者もトンデモない話をぶちあげる。それに駄目出しをしてシメイの言うのが…。

新聞の役割は、真実から人々の眼をそらすことだ。重要な事件が起きたときは煽情的な記事を一面に載せ、人々の目に留まらない紙面にその記事を載せる。また、正義の告発をした人物をひそかにつけねらい、彼が公園で何本もタバコを吸って足下に吸い殻を落としているところや、中華料理屋で箸を上手に使って食べているところ、テニス・シューズにエメラルド・グリーンの靴下を履いているところなどを撮影し、それを発表する。そうすると読者はその人物を信用できない人物としてみるようになる等々。

訳者あとがきによれば、靴下の色や中華料理の箸云々のエピソードはエーコ自身の実話だそうだ。語り口調は、いかにもあり得ない話をしているようで、随所に(笑)マークが入りそう。しかし、ことはイタリアに限らない。下っ端のやっている白紙領収書問題はテレビや新聞も採り上げるが、大臣クラスになると、ほとんど採り上げない。それでいて、政府や政権与党に不都合な人物だと、終わった事までほじくり出しては騒ぎ立て、ついには政治的生命を終わらせる。

つまり、裏返しなのだ。不真面目に見えるように書きながら、実は大真面目。それは、もう一つのテーマである「陰謀論」にも当てはまる。編集者仲間のブラッガドーチョは、何かというとコロンナを飲みに誘っては自分がずっと追いかけているネタを延々と話すのがくせである。そのネタというのが、ムッソリーニ替え玉説だ。背後に秘密組織があり、時機を見て南米あたりに隠しておいたムッソリーニを擁し、クーデターを起こそうとしていた、というもの。

現代イタリアに起きた数々のテロ事件や法王の暗殺騒動など、実際にあった事件を列挙しながら、それらすべてに関係するのが、ステイ・ビハインド、CIA、NATO、グラディオ、ロッジP2、マフィア、諜報部、軍上層部、大臣、大統領だと説く。この手の陰謀論は掃いて捨てるほどあり、いちいち本気にしていると頭がくらくらしてくるが、一つ一つの事件を子細に検討していくと不審な点が多く残っているのも事実。それでは、なぜ追及されずに放置されてしまっているのかといえば、我々の記憶が、そうは長持ちしないからだ。

「記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う」とエーコは言う。事実、主人公とその周辺の人物は架空だが、話の中に出てくる事件、組織、かかわった人物はすべてイタリア史に残る事実である。エーコは、ともすれば忘れてしまうことを本に書くことで記憶に残そうとしている。ブラッガドーチョの仮説が事実なのか、それともただの妄想なのか、エーコのすることだから、これが本当ですよと力説するはずもなく、真偽については読者が自分で考えるしかない。

どう考えてもおかしい事件が、まともに取り上げられることなくうやむやに終わってしまっている事は今のこの国にいくらもある。正常な判断力をなくしてしまったような国に、ほとんど絶望しかかっている者としては、小説の最後、危険を感じて逃げようとした主人公が恋人の言う、中南米のようにすべてが白日に下にさらされている国ならかえって安全かも、というのに答えて返す言葉が心に響いた。文中のイタリアを日本に入れ替えてみて、そこに何の不都合があるだろう。
イタリアも少しずつ、君の逃亡したいという夢の国になりつつあるんだよ。(略)汚職にはお墨付きがあり、マフィアが堂々と議会に入り、脱税者も政府にあって統治する。(略)良心的な人たちは悪党たちに投票し続けるだろう。(略)あとはどうにでもなれだ。待てばいいだけだ。この国が決定的に第三世界になれば、住みやすいところになるよ。まるでコパカバーナさ。歌にもある。女は女王。女は君主って

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by abraxasm | 2016-10-17 23:20 | 書評

『籠の鸚鵡』 辻原登

e0110713_13243545.jpg帯に「著者の新たな到達点を示す、迫真のクライム・ノヴェル」とあった。これは読まねば、と思って読みはじめ、しばらくたってから「ふうむ」と、首をひねった。たしかに、いつもの辻原登ではない。だが、これが新たな到達点だというのは、ちょっと待ってほしい。新たな高みを目指して登っていたら、目標としていた山とはちがう別の山頂に着いていた、というのが本当のところではないのか。

辻原登といえば、豊かな文学性、歴史的資料を駆使した物語性の面白さに、清新な気風を兼ね備えた稀代の小説巧者というのが評者の作家像だ。たしかに、近作は、悪や死、犯罪への傾斜を思わせる暗い情念が潜む小説を手掛けていた。だが、それらには巷にあふれる通俗的な読物とは一線を画し、どこかに辻原登らしい気韻のようなものがあった。

本作にも、辻原登らしい部分はある。小説中盤、峯尾が湯の峰温泉の湯治場に身を隠す場面がそれだ。逃亡中の身であることを忘れたかのように、父が炭を焼いていた大台山系に連日分け入るあたリには、奥山の大気を呼吸することで、やくざ稼業で身に着いた垢が落ち、心身ともに浄化されていく心境が感じられる。冒頭の太鼓腹に角刈り頭の峯尾とは別人の、まるで中上健次描くところの秋幸を思わせるものがある

冒頭、下津町役場出納室長の梶のところに先日行ったスナックのママ、増本カヨ子から手紙が届く。一通目は小出楢重の絵葉書に吉野英雄の短歌という文学趣味を感じさせるものだったが、その後数を重ねるごとに露悪的で卑猥なものに変わっていく。まるで官能小説から抜き出した文体をわざと歪めてみせたような偽悪的な代物で、個人的には、これがどうにも口に合わない。

カヨ子は、情夫である峯尾から色仕掛けで梶を落とすように指示を受けている。最初の絵葉書は名刺をもらった相手なら誰にでも出す挨拶状。それ以降は、慎重で用心深い梶を振り向かせるためのカヨ子なりの色仕掛けだ。それにしても、下卑た内容の手紙の末尾に伊藤静雄の「わがひとに与ふる哀歌」を持ってくるという神経が気に障る。大方、カヨ子の出身が長崎であることから諫早出身の伊藤静雄を思いついたのだろう。スナックを訪れた梶が吉本隆明の死を諳んじるところといい、妙な文学趣味がクライム・ノヴェルのテンポを崩している。

一人の女と金をめぐる三人の男の犯罪の顛末を描いたクライム・ノヴェルである。カヨ子は横顔が女優のイングリッド・バーグマン似の大柄な女。不動産業を営む紙谷という夫がある身で春駒組の峯尾と情を通じている。その紙谷は岸井という男と組んで痴呆症の老人が所有する農地を、書類を偽造して相続し、一億円手に入れた過去がある。岸井から話を聞いた峯尾は、ばらされたくなかったら女房と別れろと紙谷を脅迫。紙谷はやむなくカヨ子と別れたが、関係は続いている。

時代は八十年代。山口組と一和会の抗争が激しかった時で、舞台となる和歌山にもそれは波及していた。組長から資金調達を命じられた峯尾は、大金を扱える出納室長という立場にある梶がカヨ子に気があるとみて美人局を思いつく。二人の情事を盗撮し、それをネタに公金横領を迫る計画だ。ここまでを読む限り、どこがクライム・ノヴェル?と訊きたくなる、せこい犯罪ばかり。

それらしくなるのは、角逐する金指組に梃入れとして神戸から送り込まれてきた若頭白神が登場してからだ。それまではうまく棲み分けていた二つの組に衝突が相次いで起こる。その張本人である白神を殺すため武闘派の峯尾に白羽の矢が立つ。沖縄への武器調達の帰途、復路の船上で白神をどうやって仕留め、無事逃げ切るかというこの部分はサスペンスに溢れ、上質のクライム・ノヴェルといっていい。

峯尾の高飛び用の資金をめぐってカヨ子と梶、紙谷がそれぞれの思惑で動く後半部分が締まっていれば、クライム・ノヴェルの格好はついたのだろうが、ファム・ファタルとは到底いえない中途半端なカヨ子という女をヒロインに持ってきたことと、横領はしても荒っぽい犯罪は似合わない男二人のせいでノワール色が薄れ、緊迫感のない終幕となったのが惜しい。題名は、スナックでかかる歌謡曲、高峰三枝子が歌う『南の花嫁さん』の歌詞から。地方にも映画館が何軒もあり、日活ロマンポルノがかかるなど、程よい時代色が往時を知る読者にとっては懐かしい一篇。
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by abraxasm | 2016-10-16 13:24 | 書評
e0110713_1535575.jpgフィンランド北東部の村で暮らす家族四代の1895年から1996年にわたる世紀をまたぐ物語。その間には継続戦争と呼ばれる対ソ戦とその後のヒトラーによる焦土作戦や物資の欠乏に苦しめられた戦争の時代をはさむ。助産師として自立し、女手一つで娘ラハヤを育てたマリアは、一軒の家を買うと蓄えた金で次々と家を増築していった。戦争でその家が焼かれると、娘の夫となったオンニは、家を再建し、湖を臨む土地に新たに家を建てる。
人生は建物だと、マリアは思っている。多くの部屋や広間を持ち、それぞれにいくつもの扉がある。誰もが自分で扉を選び、台所やポーチを通り抜け、通路では新たな扉を探す。正しい扉も、間違った扉も、ひとつとして存在しない。なぜなら扉は単に扉でしかないからだ。時には、初めに目指していたのとまったく違う場所にいることに気づいたりもする。

増築に次ぐ増築で長屋のように横に細長い平屋の家の主であるマリア、戦争から帰還したオンニが建てた地下室や屋根裏部屋のある二階建ての家の主であるラハヤ、そして姑が実権を握るその家に圧迫を感じ、舅が建てた湖のそばの夏小屋を愛するカーリナという三人の女の、これは家と家族をめぐる年代記でもある。

フィンランドという北の国の中でもさらに北方にある起伏のある森に囲まれた小さな村が舞台。人々は旧弊で、男は女の体のことなど考えず、次々と子どもを孕ませる。しかもどの家でも助産師など呼ばず取り上げ女に任せていた。女たちは相次ぐ妊娠で体を弱らせ、難産で母子ともに死ぬことも多かった。そんな中、マリアは懸命に力を尽くし、無駄な妊娠を避けるよう説得し、女たちの信頼を得てゆく。二百キロも離れた町にある店に注文した自転車を馬車でもらい受けに行き、帰りには乗って帰るという進取の気性に富む娘だった。

この小説に登場する女性たちはみな強い。男に頼ることなく自立し、周囲からどのように見られても超然と生きている。その一方で、感情が激すると、洗い桶は投げつけるし、皿は叩き割る。手にした猫は壁に叩き付けて息の根を止める。反対に男のオンニは、家族思いで、子どもにも大人と同じように接するよき父親である。自分の子ではないアンナにもわけへだてのない愛を注いでいる。そのオンニが戦争から帰って以来、妻と夜を共にしなくなった。夫婦の間にできた距離は次第に広がり、ラハヤはマリアから見ても無慈悲な女になる。

いったい、オンニに何があったのか、というのがこの小説を前へ前へと進ませてゆく推進力になる。小説は四人の視点で語られる。時系列は、それぞれの視点人物の中では一貫しているが、人物が交代するごとにもう一度過去へと戻り、少しずつズレを含んで繰り返されることになる。同じ場面、あるいは前後する場面が、異なる人物の視点から語られることで、出来事の意味がまったくちがって見える。それまでは意味不明であった手紙の内容や、記憶の断片が少しずつ姿を現し、最後のピースが嵌められることで夫婦の不和、ラハヤの非情を生んだ原因が明らかになる。

秘密をかかえているのは、一人だけではない。マリアはラハヤに、ラハヤはオンニに、オンニはラハヤに対し、決して口にすることのできない秘密を胸にかかえ込んでいた。マリアが家を増築し、オンニが次々と家を建てていったのは、秘密を抱え続けるという息の詰まる事態に耐えるために、家族の中にあっても一人でいられる部屋を必要としたのではないか。そこにいさえすれば、息がつける、そんな部屋が。

ハンサムで人当たりがいいオンニの秘密は、出会ったときからラハヤに明かされていた。はじめ、そこでひっかかって変な気がしたのだが、オンニの良き父親ぶりを見ているうちにいつの間にか忘れてしまっていた。あれが伏線だったのだ。とはいえ、どんな鈍感な読者でもオンニの秘密はだいたい見当はつく。最後までわからないのは、ラハヤのかかえる秘密である。嫁と姑の中がうまくいいかないのは、よくあることだが孫に背を向けられる祖母というのはめずらしい。

ラハヤの人を寄せつけない性格が他人をしてそうさせるのだ。ではなぜラハヤはそんな非情な性格になってしまったのか。誰にも言えない秘密をずっと心の中にかかえてきたからだ。終章でようやくそれが明らかになる。読者は、そこを読み終えると、あわてて冒頭に置かれた「一九九六年 病院」のページを繰る。再読して初めてそれが何のことだったのか分かる。本当の終章は冒頭にある「一九九六年 病院」の章だったのだ。

森と湖の国、フィンランドという一昔前の観光用コピーを覚えているが、フィンランドと日本にはもっと生臭い因縁もある。第二次世界大戦勃発当時、フィンランドは日本がソ連と戦端を開くことを強く期待していた。そうなれば、ソ連は西に侵攻するだけでなく東へも戦力を向ける必要に迫られる。しかし、日本は日ソ不可侵条約を結び、アメリカとの戦いに勢力を傾注した。フィンランドは日本を恨んだにちがいない。この小説の背後にはそんな歴史も潜んでいる。

川沿いに建つ小屋で浴するサウナをはじめ、セルフビルドによる家作りなど、森と湖の国フィンランドならではの風物が、ともすればぎすぎすした家族間の諍いに傷んだ読者の心を優しく撫でてくれるようで、ずいぶん助けられた。
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by abraxasm | 2016-10-15 15:35 | 書評
e0110713_10491881.jpg事件が解決され、犯人が誰か分かった後、もう一度はじめから読み返すのが好きだ。張られた伏線も、ミスディレクションも、手に取るようによく分かるから。しかしながら再読したくなる小説はそう多くない。大抵は犯人の隠し方に無理があったり、語り手が重要な手がかりを充分明らかにしていなかったりして、不満が残る。しかし、なかには再読可能な作品もある。ミステリとしては瑕瑾があっても、それを問題にしたくないほど読ませる力を持つ作品が。

これもそういう作品の一つである。『終わりなき道』、『川は静かに流れ』に次いで、ジョン・ハートを読むのはこれで三作目。それまで読んだ二扁は再読しなかった。アメリカ探偵作家クラブ賞をとった『川は静かに流れ』は、『終わりなき道』よりは良かったが、人間の描き方に不満が残った。この作家は、殺人という罪を犯す人間は、外見はどう見えていても、実のところはみな異常者だと思っているのではないだろうか、という疑念がぬぐえず、三度目の正直を期待しながら読んだ。

ジョニーは十三歳。双子の妹アリッサは一年前に誘拐された。母キャサリンは、娘が戻らないのは迎えに遅れたあなたのせいだと父を責めた。優しかった父は家を出た。働き手を失い、家庭は崩壊する。貸家に移った母子を家主である町の有力者ケンが蹂躙した。母はドラッグと酒で心と体を支配され、息子は絶えず暴行を受けた。ジョニーは神に祈った。母が薬をやめ、家族が戻り、ケンが死ぬことを。神は答えなかった。聖書を焼き捨て、ジョニーは犯罪常習者を監視する。

一方、担当刑事のハントもすべてを犠牲にしてアリッサの行方を追っていた。そんな夫に業を煮やした妻は離婚。一人息子は心を閉ざしていた。父と子という主題は、この作品でも大きな役割を果たしている。事件から一年後、ジョニーは一人の男が何者かに殺されるところを目撃する。男は、死ぬ前に「あの子を見つけた」、「連れ去られた少女」、「逃げろ」とつぶやく。必死で逃げるジョニーの前に巨漢の黒人が現れる。男は逃走中の服役囚だった。男の耳には声が聞こえた。「少年をつかみ上げよ」という神の声が。

少年の冒険活劇という側面がこの作家にはめずらしく作品に明るさを呼び込んでいる。親友ジャックとつるんで学校をサボり、酒やタバコをやり、無免許で車を転がす少年像は、トム・ソウヤーとハックルベリー・フィンの系譜に連なるものだ。不良っぽいが、知識欲があり、図書館の本は延滞せず、何度も借り直すという律義さも持っている。インディアンの儀式に必要な羽をとるために鷲と格闘する勇気もあれば、餓死する運命にある雛鳥に心を痛める優しさも併せ持つ。

一つの事件を追うのではなく、一見関係のない複数の事件が起き、それらがからみ合うプロットがよくできている。少女誘拐事件はジョニーの活躍もあって意外な展開を見せるが、妹は依然として見つからない。組織力のある警察機構より、十三歳の少年が一歩前を行くというのは、どう考えても無理があるが、ハントはことごとく少年たちの後手に回る。そんなハントに代わり、事件解決に力を発揮するのがネイティヴ・アメリカンと黒人の混血、リーヴァイ・フリーマントルという大男。

アメリカという国の歴史や宗教を背景に取り込むのは、この作家のよく使う手だが、今回は奴隷解放の先駆者であった一人の男と彼が救った黒人奴隷の子孫(ラスト・チャイルド)がキー・パーソンになっている。神の前の平等は奴隷制度には都合が悪い。白人は自分たちの信じる神を黒人が信仰することを禁じた。白人に隠れてキリスト教を信奉した人々は、ハッシュ・アーバー(隠れ教会)と呼ばれる森の奥や湿地に集っては祈り、神を讃える歌を歌った。ゴスペルの始まりである。

救った側と救われた側のラスト・チャイルドの遭遇が奇蹟を起こす。今さらノックスの十戒やヴァン・ダインの二十則を持ち出すと笑われるかもしれないが、超自然的な力や、妹の事件の解決の仕方についてミステリとして気になるところはある。ただ、そこが小説のミソなので、結果論になるが、英国推理作家協会賞最優秀スリラー賞を受賞しているのだから、問題ないということにしておこう。個人的にはジョン・ハートの作品では、今まででいちばん面白く、後味もいい。ミステリという狭い枠にとらわれることなく、楽しんで読める作品になっている。
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by abraxasm | 2016-10-12 10:49 | 書評

覚え書き


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