<   2016年 09月 ( 20 )   > この月の画像一覧

e0110713_9322417.jpg妻を病気で亡くして間もないマックスは夢を見た。夢のなかで自分は今の歳でありながら少年だった。自転車が壊れ、足を怪我し、誰もいない田舎道を歩いていた。「日が暮れかかっているのに、雪のなかをひるむことなく歩き続ける哀れなでくの坊。行く手には道路しかなく、帰っても歓迎される保証はないのに」。まさに、日暮れて途遠し。この夢は、長年連れ添った伴侶を亡くし、これからどうしたらいいのかと呆然自失する男の心象風景そのものだ。

というのも、マックスは、もともと何者でもない人間だった。彼には個性がなかった。個性の代わりに、生まれや育ちによって彼に与えられたもの――感受性や性癖や考え方や階級的な癖の寄せ集め――を彼は嫌っていた。彼の願いは何者かになることだった。彼は美術史家になった。だが、それは、結婚によって妻アンナの資産が得られたからであった。彼はアンナによって、自分自身になれたのだ。そのアンナを喪失したことで、マックスはアイデンティティ・クライシスに襲われる。
わたしたちは、もし自分自身でなかったら、だれだったのか?哲学者たちによれば、わたしたちは他人を通して定義され、他人を通して存在するのだという。バラは暗闇でも赤いのか?音を聞く耳が存在しない遠い惑星の森のなかでも、木が倒れるときには凄まじい音を立てるのか?

今のマックスは暗闇の中のバラであり、聞く耳のない森で倒れる木だった。この頼りなさは、ある年齢を経て、人生の下り坂に入った人でなければ分からないかもしれない。一生の仕事を持っていて、やるべきことが常にある人ならいいが、多くの人間はそうではない。社会から切り離され、夫婦という単位が唯一の拠り所となり、いつまでも一緒に余生を過ごすつもりでいた。その世界がある日突然崩壊してしまう。

マックスは夢に誘われるように、妻と暮らした家を売りに出し、少年の頃一家で夏休みを過ごした海沿いの町を訪れる。当時、海食崖の上に別荘が立ち、ゴルフ場を隣接したホテルの建つ町にはいろいろな人がやってきた。月単位で借りられるサマー・ハウス<シーダーの家>を借りたのは、グレース一家だった。マックスははじめ、肉感的なミセス・グレースに恋し、やがてその娘であるクロエを愛するようになる。みずみずしい少年期の性の眼ざめであった。

今はミス・ヴァヴァソーが管理する<シーダーの家>の一部屋を借りたマックスは、そこで書きかけているボナール論の原稿を前に回想に耽る。クロエとの出会い、映画館でのキス、海辺の小屋での出来事。またある時は、アナとの出会い、そして別れ、と次々に浮かび上がる過去の情景。娘クレアの言う通り、マックスは過去に生きていた。
彼女を通して、わたしは初めて他人の絶対的な他者性というものを経験した。つまり、クロエを通して、わたしは初めて客観的な他者として現れたといっても過言ではないだろう。(略)それまでは世界は一つでしかなく、わたしはその一部だったが、いまやわたしがいて、わたしでないすべてがあった。

他者性を獲得するということは、ひとくちにいえば、無垢な時代を脱したということだ。マックス少年は、自分の育つ環境を厭い、親を疎ましく思い、サマー・ハウスに長逗留するグレース家に憧れ、近づく。倦怠期にある夫婦と男女の双子、そしてまだ若い家庭教師のミス・ローズ。広場に立つ小屋を借りている自分との階級差に恥ずかしさを感じながらも、ピラミッドの上の方に上りつめたいと願うのだった。

わがままで、同じ年頃の少年たちを見下しているクロエにつきまとい、しだいにグレース家に出入り自由の位置を獲得してゆくマックス。ある日、木登りをしていたマックスは木の下に立って泣くローズとそれを慰めるミセス・グレースの姿を盗み見る。ローズはミスター・グレースに叶わぬ恋をしていたらしい。それがクロエの知るところとなり、二人の関係は以前より険悪なものとなる。そして、あの日がやってくる。

回想のなかで、少年の日の淡淡としながらもそれなりに官能的な経験を思い描きながら、ともすれば崩壊に向かおうとする自己と真摯に向き合う初老の男。こう書くと何やら格好いいが、正直なところ、いい歳をした男の正直な告白というのは読んでいて楽しいものではない。むしろ、読むほどにいやな気持ちにされる。どこがいやかといえば、自分に似ていると思わされるところだ。

美術史家といえば聞こえはいいが、要するに他人の褌で相撲をとっているわけで、自分の書くものに独創性のないことは自分がいちばんよく知っている。自分が何者でもないのは、個性の代わりに生まれや育ちによって自分に与えられた感受性や性癖その他のせい。確立した自分などなく、自分以外の何かによって再生産された自分があるだけだという考えは、ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオンⅠ』を読んで、文化資本という存在に気づいて以来とり憑いて離れない。

謎めいた過去の出来事に引きずられるように最後まで読んでくると、そこには思いがけないどんでん返しが待っている。謎は最後まで明らかにされることはないが、一抹の救いの残る結末は悪くない。自分を洞窟の聖ヒエロニムスに擬するマックスには微苦笑を誘われる。「ああ、そうさ、人生はじつにさまざまな可能性を孕んでいるのだ」から。
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by abraxasm | 2016-09-30 09:33 | 書評
e0110713_171454.jpg初老の男が遠い夏の日の初恋を思い出す。相手は友だちの母親。美しくも狂おしい過去の回想をさえぎるように、愛する家族を喪った記憶から立ち直れないでいる今の暮らしが挿入される、とくれば、あのブッカー賞受賞作『海に帰る日』を思い出す人も多いだろう。子どもの頃の習慣をなぞるように、大きくなった娘と海岸沿いをドライブする場面などほとんどそのまま使い回しだ。

数年前に発表し、賞までとった話題作に酷似したモチーフをあえて使って書かねばならないほど、材料不足なのか。それともまだ描き足りないものが残っていたのだろうか。たしかに、性への目覚めを主題の一つとした『海に帰る日』では、初めは遊び仲間である少女の母親に寄せていた関心を、早々とその娘に対する欲望へと切り替えることで、成熟した女性との性交渉に至る寸前で、危ういところを免れたような気配が漂っていた。

少年時代に萌した母親と同じ年頃の女性に対する強い執着が一種の強迫観念としてとり憑いているのだろうか。愛する家族と死に別れることへの恐怖が作家を捉えて離さないのだろうか。同一の主題、同種のモチーフに固執する作家は他にもいる。同工異曲というとたとえが悪いが、逆に言えば同じ材料で異なる作品をつくり上げるのだから、かなりの技術が必要となる。自信のない作家なら、まず手を出さない。自分の小説に対する並々ならぬ自負を感じる。

アレクサンダー・クリーヴは引退も考えている老舞台俳優。屋根裏部屋に籠もり、過去の思い出に浸っているところを電話で映画出演のオファーがあったことを妻に知らされる。近頃妻はキッチン、自分は屋根裏からめったに出ない。十年前に学者だった娘のキャスが自殺してからというもの、妻は悲嘆を抱えたままだ。キャスはリグーリア海岸に身を投じた時、妊娠していた。残されたノートにはスピドリガイロフという名で呼ばれる男の名があった。

映画はアクセル・ヴァンダーという言論人を主人公とするもので、「わたし」がその男を演じることになっていた。相手役は今を時めく人気女優。ところが、完成間近になってその女優が自殺未遂を起こす。娘のことを思い出した「わたし」は、気分回復にと女優をイタリア旅行に連れ出す。実は、キャスが自殺したころアクセル・ヴァンダーもまた、リグーリア海岸にいたのだ。偶然の一致といえばそれまでだが、気にはなる。その検証も兼ねてのイタリア行きだった。

傷ついた女優と老優の一風変わった逃避行が現在進行中の物語だが、『いにしえの光』という表題通り、話の主筋はミセス・グレイと「わたし」の出会いから別れに至る「ひと夏の経験」の方にある。町で眼鏡屋を経営する夫がありながら、息子の友だちである「わたし」に、裸でいるところを覗き見させたり、ステーションワゴンの中で「キスしたい?」と誘惑したり、とミセス・グレイは十五歳の少年には刺激的すぎる。

大きな街から引っ越してきたこともあって、田舎暮らしに退屈し欲求不満だったのかもしれない。しかし、グレイ家の洗濯室に敷いたマットの上で一度禁断の味を知ってしまった「わたし」は、ミセス・グレイに夢中になってしまう。それはそうだろう。男の子なら誰だって憧れる境遇だ。ステーションワゴンの後部座席で、後には林の中にある廃屋の中で、二人は愛し合う。性急で一途な少年の求愛に応えてくれる三十五歳のミセス・グレイの態度には、「わたし」ならずとも疑問を感じる。

自分で火をつけてしまったのだから、一度の過ちは仕方がない。しかし、狭い町のことだ。誰が見るかもしれない。夏休みの間中、人の目を盗んで逢い引きし、「わたし」の欲しがるままに体を与えるなど狂気の沙汰だ。しかし、林の中を流れる小川に足を浸し、木漏れ日を浴びて笑う裸のミセス・グレイには背徳の翳りが見えない。その幸せそうな様子を見ていると、夫人もまた二人の情事をただの火遊びとは考えていないのでは、とも思えてくる。

この二人の情交を描く筆は流麗かつ繊細で、何より官能的。文学は言葉でできているのだから当然といえば当然なのだが、雨音や雷鳴、光のうつろい、肌の色、皮膚のざらつき、匂い、それらを伝えるための工夫を凝らした比喩、と数え上げればきりがない描写のなんという美しさ。ポルノグラフィーとは対蹠的な文章によってはじめて描くことのできる性の営みのめくるめくような悦びがここにある。文章家で知られるというが翻訳でどこまでわかるものかと思っていたが、翻訳でも伝わるものは伝わるのだ。無論、村松潔の訳も素晴らしい。

いつまでも見ていたい夢のような夏も、季節がうつろえば、いつかは覚めねばならない。二人でいるところをビリーの妹に見られ、ミセス・グレイは姿を消してしまう。ミセス・グレイのその後を知りたいと思い続けてきた「わたし」の願いは結末近くで適うことになる。あの夏の奇蹟のような光あふれる日々が何故「わたし」に訪れたのか、その謎が解けることで、「わたし」の「彼女を充分に愛さなかった」「彼女はそのせいで苦しんだにちがいない」という思いは少しは癒されただろうか。

年若い読者にこそ読んでほしいのだが、いくら名文とはいえ、少々刺戟がきつすぎるかもしれない。それとも、今の若い人はこれくらいは刺戟とさえ感じないか。老いを迎えた男が、いたずらに過ぎた自分の過去を振り返りながら、滔々と流れる文章に酔い痴れるというあたりが無難なところか。
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by abraxasm | 2016-09-29 17:14 | 書評
e0110713_9222663.jpg短篇集なのだが、一篇一篇がとても短篇とは思えない重量感を持つ。短篇が高く評価されている作家だが、短篇向きではないのかも。ありふれた人物に起きる些細な出来事を絶妙の切り口ですくいとってみせる、そんな短篇の気安さを期待すると裏切られる。限られた紙数の中に、人の記憶と、そこに生きるしかない人々と世界が抱える問題を投げ入れ、人がどう生きたか、今をどう生きるかを問う。これは長篇小説の書き手に与えられた資質ではないか。

表題作「メモリー・ウォール」は、一見するとSF。ケープタウンを見下ろす郊外住宅地に住む七十四歳のアルマは、深夜家に誰かがいるのに気づく。夫は巨大恐竜の化石発見を妻に伝えるやその場で息を引き取った。昼間は使用人がいるが、夜は一人。アルマは近頃記憶が覚束ない。壁には覚えておきたいことのメモや写真と、四桁の番号とともにカートリッジがピンで留めてある。

記憶を読み取り、保存する技術が開発された近未来。電子レンジ大の機械につながれた三本のコイル状ケーブルがついたヘルメットをかぶると、頭蓋に埋め込まれた四つのポートに接続され、カートリッジに保存された記憶が頭の中に蘇る。記憶は個人のものでなくなり、カートリッジと、ポートさえあれば誰でも閲覧可能になった。化石売買は金になる。妻の記憶から化石の発見場所を探ろうと夜な夜な忍び入る男たち。

記憶は美化されがちだが、機械は嘘をつかない。本人に不都合な記憶が山と保存される。記憶を読み取るために頭にポートを埋め込まれた少年ルヴォが見たアルマは、使用人に冷たく、夫に対する不満を抱えた女だった。近未来SFに見えた小説が、『宝島』を下敷きに、ディケンズ的な解決へと結着する展開は、正直呆気にとられた。新作長篇『すべての見えない光』に顕著な物語性は、この辺りにも顔をのぞかせている。

「生殖せよ、発生せよ」はワイオミングを舞台に最新の不妊治療に賭ける夫婦の愛情と苦闘を描く。教え子によろめきそうになる夫、周囲の何気ない言葉や態度に傷つく妻のリアリティが痛い。

「非武装地帯」は、南北朝鮮国境が舞台。高圧電線に触れて落ちたツルの遺骸を埋めるため、立ち入り禁止の柵をこえ、軍法会議にかけられたアメリカ軍兵士が故郷で待つ父に出す何通もの手紙。クリスマスを迎える準備をする父は、男と逃げた妻のことを息子にどう伝えようかと悩んでいる。この一篇もそうだが、アンソニー・ドーアの視点は常に弱いもの、小さいものに寄り添う。その姿勢は揺らぐことがない。

「113号村」は、中国三峡ダム建設によって水没する村の話。移住話の進む中、種屋の女の一人息子でダムの保安員をしている李慶(リーチン)が帰郷してくる。一人また一人と村を去る人が増える。反対する者を李慶が殺しているという噂に、まさかと思いながらも疑いを捨てきれない母。大規模開発の陰で人々の記憶に残る土地が消されていく。最後まで村に残った種屋と柯先生が蛍の群舞を見る情景が心に残る。

孤児となった十五歳のアリソンは、リトアニアの祖父の家に引き取られる。慣れない土地での生活で唯一の慰めは近所のサボおばあちゃんと行く魚釣りだ。アリソンが狙うのは昔ネムナス川にいたというエルケサス(チョウザメ)だ。古いアルミのボートに乗った少女と老婆、それにプードル。「大きな悲しみ」を抱く孤独な少女の生と格闘する姿が凛として静かな感動を呼ぶ「ネムナス川」。

なぜ自分だけ助けられたのか?「来世」は、収容所送りにされた十二人のユダヤ人少女の中から、一人生き残った少女の晩年を追う。エスターには生まれつき癲癇の持病があった。発作に襲われると汽車がトンネルを通過するときのような轟音に続き、幻視が来る。見えるはずのない世界が見える。その力を惜しんだ医師がアメリカの伯父に手紙を書き、エスターは命拾いをする。

息子夫婦が、双子の養子を引き取るために中国に旅行している間、八十一歳のエスターの面倒を見るのは孫のロバートだ。ロバートは祖母の語る戦争の記憶をICレコーダーに録音する。ロバートは入院中のクリニックで薬づけにされた祖母の願いを聞いて家に連れ帰る。自転車につないだトレーラーに祖母を乗せ、月明かりの野道を行く情景がたまらなく美しい。

現在のエスターの暮らしと十五歳当時ハンブルクのヒルシュフェルト孤児院での暮らしが交互に語られる。外から見れば死に近づきつつあるのだが、エスターにとってはちがう。記憶に残る懐かしい世界の中へ帰ってゆくかのようだ。そのエスターの記憶に蘇るのは、時の経過とともにユダヤ人を取り巻く状況がどんどん悪化してゆく様子だ。
「最初にわたしたちは死ぬの」と女は言う。「そのあとで体が土に埋められる。わたしたちは二度死ぬのよ」(略)「そして」と女はつづける。「生きている世界に折りこまれた別の世界で私たちは待つ。子どもだったころのわたしたちを知っている人が、みんな死ぬまで待つの。その最後のひとりが死んだら、わたしたちはついに三度目に死ぬのよ」(略)「そしてそのとき、私たちは来世へ解放されるの」

幻視の中で語る女の言葉だ。今のオハイオの暮らしと記憶の中にある十五歳当時の過去の暮らし。そして幻視の中で見ている収容所に送られてゆくユダヤの人々の姿。さらに、死んだはずの十一人の少女たちの語らい、といくつもの異なった世界が重層的に描かれることで、現実の穏やかな生活と対比され、大戦下のユダヤ人の悲劇がより強く訴えかけてくる力を持つ。

南北朝鮮問題、ソ連、ロシアという大国に隣接する小国リトアニアの苦悩、躍進する中国が抱える環境汚染、と広く世界に目を向けつつ、過去から現在につながる民族差別の歴史に眼を据える。これが短篇集であることが信じられない。しかも、その一方で、物語性への傾斜は濃厚だ。記憶に残る美しい情景とともに、悲惨な状況下にあっても希望の萌芽を見逃さない、透徹した視線に救われる。長篇になるべき素材を凝縮し、短篇に仕立てた力技の短篇集。一篇一篇、心して読みたい。
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by abraxasm | 2016-09-29 09:23 | 書評
e0110713_844824.jpg一通の手紙がウルグアイのオチョ・リオスに暮らす、作家ユルス・グントの遺族宛に送られてくる。差出人はカンザス在住の大学院生オマー・ラザギ。オマーは、グントについての博士論文ですでに賞を得ており、副賞として大学から自伝の出版に対して研究奨励金が付与される。出版には遺族の公認が必要であり、早急に承認を求める手紙である。

遺言執行人三人の話し合いの結果、自伝の出版は認めないとの返事にオマーは狼狽した。すでに奨励金は使っていて、公認が得られなければ返却を迫られる。自分で直接現地に行くしかないと恋人のディアドラに背中を押され、オマーは思い切ってウルグアイに飛ぶ。

静かな湖面に投げ込まれた小石が初めは小さな円の波紋をつくり出すが、それは次第に大きく何重にも広がっていく。緊張をはらみながらも、時が止まったかのように静穏な暮らしが続いていたオチョ・リオスは、降ってわいたように飛び込んできた青年の登場で、残された人々がそれまで抑え込んできた過去や欲望が再び目を覚まし、活発に動きはじめる。

グント家の屋敷には、妻のキャロライン、グントの娘ポーシャ、その母であるアーデンの三人が今も住んでいた。キャロラインとアーデンはかつては一人の男を争う競争相手だったが、遺された屋敷で互いに干渉せず棲み分けるようにして暮らしてきた。兄のアダムは、近くの石造りの製粉所を改装し、タイ人のピートと暮らしていた。

実務能力に欠けるが、人のいいオマーはオチョ・リオスの人々の暮らしにすぐ溶け込んだ。当初は自伝に反対するキャロラインに与していたアーデンだったが、オマーの人となりを知るにつれ承認に傾いていく。そんな時、菜園の仕事を手伝っていたオマーが蜂に刺されたショックで昏睡状態に陥る。アーデンから連絡を受けたディアドラは勢い込んでウルグアイにやってくる。

人里離れた土地に建つ広壮な館。バイエルン鉱業を営んでいたグント家はヒトラーのユダヤ人差別に遭い、使い物にならない鉱山を買うことを条件にウルグアイへの移住が認められた。故郷に似せて植林したカラマツやノルウェイトウヒに囲まれた館は昼なお暗い。絵を描く妻のために夫が増設した屋根裏部屋に夫の死後もキャロラインは今も独り住み続ける。

両親に甘やかされて育った挙句、弟が生まれると掌を返したように拒否されたアダムは、人と素直に口を利くことのできない偏屈な老人となった。シュトゥットガルトから連れてきたピートは同性愛のパートナーだが、今では足の悪くなったアダムの介護者になっている。アダムはピートを解放してやりたいが、ピートは愛するアダムを一人にしておけない。

オマーもまたイラン革命の余波でカナダに移住した両親とともに国を出ている。親は後を継いで医学部に進めというが、本人は文学の道を選んだ。親の援助に頼れないため奨励金はぜひ欲しい。グントは、『ゴンドラ』という小説一作しか残しておらず、研究対象として有利だったのも事実だが、その境遇が自分に似ていることも選択に影響していた。

小説は人物間の会話を中心に進んでいく。内輪の食事にも蝶ネクタイを締め、プルーストを読むアダム。プライドが高く、自分に創造的な才能がないのを自覚し、模写しかしようとしないキャロライン。若く美しいアーデンは、新しい出会いに胸を躍らせながらも足を踏み出せない。人物の輪郭がくっきりしているのは、焦らしたり、からかったり、上げ足をとったり、と興趣に富む会話によるが、岩本正恵による訳は各人の性格を描き分けていて秀逸。

過去が現在を支配し、麻痺したように動き出せないでいる人々。しかし、何かをきっかけに人は過去を見つめなおし、今を生きたいと願うようになる。人と人との出会いが、澱んでいた水に動きを与え、それは勢いよく流れはじめると、あとは堰を切ったように迸る。何かに流されるように生きてきたオマーが、自分は本当は何がしたいのか真剣に悩みだすことで事態は思いもかけない展開に。

印象的なシーンには事欠かないが、死んだ妹のアパートの整理のため、グリニッジ・ヴィレッジを訪れたキャロラインと妹の愛犬パグとの出会いが個人的には好み。犬など飼ったことのないキャロラインの困惑をよそに、散歩に連れ出し、眠る際にドアを開けるようねだり、ちゃっかりベッドに飛び乗っては足元に丸くなるヒューゴが、なんともかわいい。頑なだったキャロラインの心がほぐされていくのが手に取るように分かる。

実に古典的、正統的なロマンスで、気恥ずかしいほど衒いがない。冒頭、まるでモネの絵から抜け出て来たかのような装いで、蝶が雲のように群れ、ワイルドフラワーが咲く野原をキャロラインとアーデンが歩いてゆく場面など、一昔前のフランス映画を見ているようだ。そこから、あっと息をのむようなラストまで一気に読まされてしまう。巻を置く能わず、というのはこういうことかと実感した。

読み終わった後、いい映画を見た後のような余韻が心の中に揺曳している気がしたが、それもそのはず。訳者あとがきに、ジェイムズ・アイヴォリー監督で映画化、という話が紹介されていた。ジェイムズ・アイヴォリーといえば、『眺めのいい部屋』や『ハワーズ・エンド』など、異なる価値観に出遭い、その壁を乗り越えようと試みる人々の姿を描く、E・M・フォースターの小説を好んで取り上げている。なるほど、これはジェイムズ・アイヴォリーが手掛けるにぴったりの小説かもしれない。
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by abraxasm | 2016-09-28 08:44 | 書評
e0110713_17124842.jpgアメリカの雑誌≪ニューヨーカー≫に載った短篇の中から、原則として未訳の物を編んだアンソロジー「ベスト・ストーリーズ」の第三巻。1990年から現在までを扱う最終巻。何といっても収録された作家の顔ぶれがすごい。豪華すぎるメンバーのラインナップと背番号代わりにタイトルを紹介しよう。

ウィリアム・トレヴァー 「昔の恋人」
アリス・マンロー 「流されて」
アニー・プルー 「足下は泥だらけ」
ミュリエル・スパーク 「百十一年後の運転手」
トバイアス・ウルフ 「疑わしきは罰せず」
ジョナサン・レセム 「スーパーゴートマン」
ジョナサン・フランゼン 「気の合う二人」
スティーヴン・ミルハウザー 「ハラド四世の治世に」
ジョン・アップダイク 「満杯」
ジョイス・キャロル・オーツ 「カボチャ頭 ボスニアの大学院生の訪れを受けた未亡人の話」
ジュリアン・バーンズ 「共犯関係 離婚した弁護士の話」
スティーヴン・キング 「プレミアム・ハーモニー」
ゲイリー・シュタインガート 「レニー♡ユーニス」
カレン・ラッセル 「悪しき交配」

編者若島正のドヤ顔が見えてきそうではないか。いずれ劣らぬ短篇小説の名手ウィリアム・トレヴァー、アリス・マンローが肩を並べ、ミュリエル・スパークとジュリアン・バーンズがいっしょにベンチ入り。オールスター・ゲームの監督気分でオーダーを組みたいところだが、残念ながら、打順は雑誌に発表された年代順。そうすることで、洒落た都会小説を得意とする≪ニューヨーカー≫も時代に合わせて変化してきたことが分かる。

「昔の恋人」は、三人の女と一人の男の長年にわたる関係を男の妻の視点から描く。夫の恋人から来た手紙を盗み見て、女の友人の死を知る。死んだ女も夫を愛していたが、後見人の位置に甘んじることで、夫への愛を隠していた。四十年前の情事に始まる夫とその恋人、そしてその友人との歳月を、見たこともない二人の女の容姿、服装から会話まで想像の中で振り返る。他の女への愛を口にする男と結婚を続けてきた妻が、夫への愛を隠し続けた女の死に感じるものとは。いかにもトレヴァーらしい苦味の効いた一篇。

「流されて」は、集中最も長い。オンタリオ州カーステアズで司書をしているルイーザに海外から手紙が届く。時は1917年。相手は負傷した従軍中の兵士で、故郷の図書館で見かけた司書に宛てた手紙には貴女の写真が欲しい、とあった。戦争が終わり帰還兵の名の中に男の名前はあったが、彼は図書館には現れなかった。

50年代、心臓の治療に訪れた街のバス停留所で、ルイーザはかつて手紙をくれた相手に声をかけられ、あれからの自分に起こったことを語って聞かせる。しかし、男の話は自分の知る「実際に起こったこと」とは食い違う。もしかしたら、それが「起こりえたこと」なのか。だって、男はとうに死んでいるのだ。男は幽霊なのか、ルイーザが心の中に抱くわだかまりが、時を超えて形をとって現われたのか?自他ともに認める実務的な性格で、両大戦間を生き抜いてきた女性の胸の裡のどこかに巣食っていた、愛についての複雑な心理を描いて圧倒される。

「起こりえたこと」と「実際に起こったこと」という異なる現実を扱った、この中篇は描かれる挿話の配置が時系列がバラバラで、何度読み直しても全部分かったような気がしない。それでは面白くないかというと実に面白い。訳者である若島は、「アリス・マンローの短篇を読むのは、小さな苗木が根を張り、枝を伸ばし、葉を繁らせて、一本の大樹に成長していくのを目の当たりにするような稀有な体験」と評しているが、まさにこれはそういう一篇である。

ミュリエル・スパークの「百十一年後の運転手」は、作家が自分の伝記の資料にと、探し集めた写真の数が思っていたより少ない。記憶にある何枚かはなぜ消えたのか?謎の解決が作品のタイトルになる粋な仕掛けだ。スティーヴン・ミルハウザーの「ハラド四世の治世に」は、訳者柴田元幸の言う通り、お得意の「たぐい稀な技能を有する芸術家がはじめは世に崇められるが、次第にあまりに作品が高尚になって世間から理解されなくなるというパターンの話」。精密な細密細工職人の超絶技巧を描いているときのミルハウザーの幸せそうな顔が目に見えるようだ。

これら、偏愛の作家たちの作品は期待通り。しかし、アンソロジーの良いところは、それまで知らずにいた作家を発見できるところだ。評者にとってはアニー・プルーがその一人。映画化された『シッピング・ニュース』、『ブロークバック・マウンテン』は二本とも寂びれた地で寡黙に生きる男の姿を描いていて共感を覚えたものだったが、うかつなことに原作者にチェックを入れることを怠っていた。ロデオ競技の一つ、猛牛に乗っている時間の長さを争うブルライディングを仕事にする男の生き方を乾いた筆致でつづった「足下は泥だらけ」には痺れた。

牧場育ちながらそれを嫌い、町で息子を育てた母。それなのに、息子はバイト先で経験したロデオに魅せられ、ブルライダーの道を選ぶ。母はなぜ牧場を嫌うのか?自分を駆り立ててやまないこの「血」の疼きはどこから来るのか?次のロデオ会場を目指して夜の道を行く男たちの孤独な生き方が胸を打つ。これが≪ニューヨーカー≫?って訊きたくなる、ウェスタン臭がプンプン匂ってくる男臭い一篇。これは掘り出し物だった。

90年代に発表された作品に偏った評となったのは、評者の歳のせい。後半の作品もひと癖もふた癖もある名品ぞろい。お気に入りの作家のものは当然ながら、今まで知らなかった作家にめぐり合う愉しみもある。アンソロジーの愉楽に耽るにはもってこいの一冊である。
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by abraxasm | 2016-09-27 17:13 | 書評
e0110713_10144981.jpg一歩まちがえたら真っ逆さまに墜落しそうな崖っぷちのようなところで、曲芸を演じている道化。セス・フリードにはそんな雰囲気が濃厚に漂っている。下手を打ったら寓話になってしまいそうなぎりぎりのところで危なっかしく小説を書いている。ところが、いつまでたっても華麗な技が続くばかりでいっこうに墜ちる気配がない。

そこで、ようやく見ている者にもわかってくる。この若い演者は、今は亡きカルヴィーノやボルヘスのいる世界からこの地上にやって来たにちがいない、と。寓話的な手法を用いる作家は少なくない。ただ、成功するのは難しい。数少ない才能のある者だけが、寓話的手法を駆使して完成された小説を生み出すことができる。セス・フリードはまちがいなくその一人である。

「フロスト・マウンテン・ピクニックの虐殺」は、毎年死者が出ることで反対運動が起きているピクニックに参加する「私たち」のアンビヴァレンツな心理を克明に描いている。マウンテン・ゴリラにばらばらに引き裂かれた小さな女の子の死は、「ルイーズを忘れないで」というTシャツを作らせた。しかし市民集会が下火になると、翌年のピクニックの宣伝が何か月も執拗に続き、「私たち」の態度は軟化する。
誰も自分からはっきりと口にしないが、集団的な思い込みとして、あれほどまでに大々的にピクニックの宣伝がされているからには、様々な問題は解決されたに違いないと思ってしまうようだ。(略)怒りの炎を絶やさない少数の市民たちは、必然的に、前進していくことを拒み、不和を生きがいにする者とみなされる。(略)つまるところ、こうした反対派が私たちを納得させるのはただ一点、ピクニックに参加しなければ、「正常な」世界から外れてしまう、ということだけだ。

実は「私たち」も気づいている。できたら行きたくないと。しかし、「同調圧力」は、それを許さないほどの強さで迫る。無料のソフトクリームやフェイス・ペイント、遊園地の遊具といったいかにも平和な仮面をかぶりながら。毎年何十人もの死者が出るピクニック会場に行くためのフェリー乗り場で、船を待つ「私たち」の感じるものは、アメリカ人だけのものではない。

地震や大雨でズタズタにされた道路やずれた断層、崩壊した山地から雪崩落ちる土砂の映像を最低でも半年に一度は眼にしながら、日本人の多くが原発再稼働を容認する政党に投票しているのだから。原発は決してコントロールなどされていないのに、オリンピックどころではない貧しい国なのに、またぞろ東京で開催することを認めてしまう。これは「私たち」のことではなく私たちのことを描いているのだ、と思えてくる。

と、こう書けば、読んでいるあなたは、なんだやっぱり寓話じゃないか、けっ詰まらない。そんな説教は聞きあきた、と思うかも知れない。それはちがう。上の解釈は私が感じた個人的な感想だ。「フロスト・マウンテン・ピクニックの虐殺」は、そのハチャメチャさが半端ない。ピクニック現場で肢体は引きちぎられ、爆弾はさく裂し、マウンテン・ゴリラ二十五頭が走り回る。その悲惨極まりない実態を知りながら、毎年フェリー乗り場に並ぶ「私たち」の心理が次第に分かってくるところに凄いリアリティーがある。設定は極めて不条理なのに、その心理は条理を兼ね備えているのだ。

「ハーレムでの生活」は、異性愛者である王の命令でハーレムで暮らす女たちの仲間に入れられた事務官の心情を綴ったもの。なぜ自分が?という疑惑。いつお呼びがかかるかという不安。王という権力者でなくては味わうことの不可能な「欲望」の正体を追うのが本筋だが、一人称の語りのせいで、王のお召しを待つ男である「私」に感情移入している自分に気づく。この異様な設定は何だ!文学的コスプレではないか。

表題作「大いなる不満」も示唆に富む。エデンの園で樹上の猫は目の前のオウムを見つめながら煩悶する。血の流れることのないエデンの園では動物たちはお役御免だ。ただ、猫の本能はかすかに残っているせいで、目が放せない。「完全に掌握できない何かがおのれの本性にはあると、猫は気付き始める。猫はそれに苛立つ。なぜこの体を与えられ、意志に反する欲望に苦しまねばならないのか?そして、この体がおのれのものでないなら、猫であることはどこで始まるのか?」

寓話では動物は人間に擬されている。暴力的な欲望が自分の中にあることに気づいた猫は、なぜ本性を隠す必要があるのか、と苛立つ。これって、最近の世界の有様に似ている。なぜ不法入国者に壁を立ててはいけないのか?なぜ移民を受け容れなければならないのか?押しつけ憲法をいつまで後生大事に守っていなければならないのか?

そこがエデンの園だからに決まっている。エデンの園を選んだのは我々人間の叡智だからだ。確かに、エデンの園から出れば、猫はオウムを仕留められるかもしれない。しかし、そこには、猫を襲う動物が待っている。本性のままに生きる獣であふれたそこが現実世界だというなら、それは御免こうむりたい。木の上で煩悶しながら、歯噛みしながらも、私ならそこから出ていきたいとは思わない。もちろん、あなたがどう考えようとそれはあなたの自由だ。

私なら、とつい考えさせられてしまう巧妙な、それでいてたまらなく蠱惑的な仕掛けに満ちた短篇集だ。突飛な設定、意表を突く視点人物、思索へと誘う開かれた終わり方。暴力的な、それでいてどこか静穏なセス・フリードの描き出す世界に魅せられた。これは、ちょっと他では見つからない類の短篇集である。巻末の「微小生物集」も文句なしに傑作。思弁的SFやショート・ショートのファンなら、きっと気に入るはず。
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by abraxasm | 2016-09-27 10:15 | 書評
e0110713_9572857.jpg第二次世界大戦前夜、パリにある国立自然史博物館に勤めるルブラン・ダニエルは白内障で急速に視力を奪われつつある娘のため、指でなぞって通りや街角を記憶できるよう、精巧な街の模型を作ってやる。しかし、マリー=ロールが模型で覚えた街の姿を頭の中に再現し、視覚以外の感覚を総動員して街歩きができるようになった時、パリはナチス・ドイツによって占領される。父娘は住み慣れたパリを離れ、大勢の避難民にまぎれ、心を病んだ大叔父の暮らすサン・マロを目指す。

同じころ、ヴェルナー・ペニヒは、ドイツの孤児院にいた。機械いじりが得意なヴェルナーは、壊れて放置されていた部品でラジオを作り、妹と二人で毎夜フランスから放送される子ども向け科学番組を聞くのを楽しみにしていた。才能を見抜いた土地の実力者の推薦で試験を受けたヴェルナーは士官学校に合格するが、そこで彼を待ち受けていたのは、優生思想を奉じ弱者を排除しようとする集団であった。

敵対する国家の下で育つ少年と少女が磁力に引かれるように、海賊が作った要塞都市サン・マロに導かれる。これは、ブルターニュからウクライナまで、第二次世界大戦下のヨーロッパ大陸を舞台に繰り広げられる壮大な規模の「ボーイ・ミーツ・ガール」物語だ。その奇縁となるのが、ボルネオのスルタンが所有していた、持ち主の命は守る代わりに、周囲の人を不幸にするという呪いのかけられた宝石<炎の海>だ。

有名な宝石を手に入れようと、癌に侵された体を引きずって、各地に散らばった本物を含む四つの石の持ち主を探すナチスドイツの上級曹長フォン・ルンペル。石を守るためにか、呪いから身を守るためにか厳重に保管場所を用意し、その錠を預かるルブラン。第一次世界大戦で心に傷を負い、家から一歩も外に出られない大叔父エティエンヌ。その家政婦で料理上手なレジスタンスの闘士マダム・マネック。個性あふれる面々がマリー=ロールをめぐって暗闘を繰り広げる。

器用な手仕事と娘に寄せる強い愛情で造られるパリとサン・マロの立体的な模型の街が、物語で重要な役割を果たしている。錠前主任の父親は毎年からくり細工の木箱の中にマリー=ロールへの誕生日プレゼントを入れる。成長するたびにからくり仕掛けは次第に手の込んだものになるが、マリー=ロールはあっさりそれを解除できるようになる。

時間の流れを自由に行き来し、少年と少女の身に起こる出来事を交互に語ってゆく自在な語りの注目すべき点は、盲目の少女の中に入った時。目の見えない少女が街の中で出会う人や動物、その他の事物をどう認識しているのかということだ。音や匂い、触覚、熱感覚、とそれこそ人間の知覚感覚を総動員して現状把握するのだが、それが何とも鮮やかに語られていることに驚き、その精神の強靭さに感動を覚える。

マリー=ロールをそう育てたのは、点字を覚えた娘に誕生日ごとに高価な点字の書物を与える父であり、仕事中の父に代わってマリーに博物学を語って聞かせるジェファール博士だ。エティエンヌといい、マネック夫人といい、マリー=ロールの周りには愛が溢れている。反面、ヒットラー・ユーゲントとなったヴェルナーは、ただ一人の親友フレデリックをいじめから守れず、ナチスに批判的な妹に口を利いてもらえない。

自由フランスとナチス・ドイツの戦いの渦中にある少年、少女の成長を描くかに見えた物語は、上級曹長の出現により、宝石をめぐっての攻防戦を描くサスペンス・ドラマの様相を見せ始める。オードリー・ヘプバーンに、盲目の女性が灯りの消えた家の「暗さ」を武器に犯人と戦う『暗くなるまで待って』という映画があったが、視点は女性の側にはなかった。それでは映画にならない。ところが、小説はそれが書ける。このあたり、面白く感じた。

呪いの宝石の由来を語る物語が、入れ子状に嵌めこまれていたり、パリの一区画や城壁で囲まれた城塞都市サン・マロがまるまる精巧な模型として造られていたりすることで、その街の中にいるマリーの頭の中に都市が嵌めこまれるという、入れ子状の構造の反復が、戦勝国側の視点で描かれた、ある意味で図式的な戦争物語を辛くも平板化から救っている。

アンソニー・ドーアには『シェル・コレクター』という短篇集がある。サン・マロで初めて海に出会ったマリーは、貝殻集めに夢中になるが、ドーア自身の趣味なのだろうか。ピュリツァー賞受賞作にふさわしい誰にでもお勧めできる作品。ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』が、通奏低音のように物語の水底で静かに鳴り響く。ヴェルヌ・ファンなら絶対見逃すことのできない必読図書である。
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by abraxasm | 2016-09-26 09:57 | 書評
e0110713_102389.jpg柳瀬尚紀氏が亡くなったのは七月の終わり頃だったと記憶する。本書の副題に「『ダブリナーズ』に嵌る方法」とあることに、ああ、近頃はもう、『ダブリン市民』とは呼ばず、『ダブリナーズ』がスタンダードになったのだなあ、とちょっと感銘を覚えたのであった。

「ニューヨーカー」がニューヨークっ子。「パリジャン」がパリっ子。だったら、ダブリンっ子は「ダブリナー」。土地っ子の名前を書名にした二誌に対抗してのタイトル名だ。当今流行りの横文字カタカナ表記の風潮に流されたものでないと『ダブリナーズ』の訳者あとがきにあったのを思い出す。

いかにも柳瀬氏らしい諧謔味あふれた解説に比べると、本書の内容はかなりの堅め。画期的新訳と評判の高かった『ダブリナーズ』が、新潮文庫から出たのが、2009年の三月。本書のもとになる『ダブリナーズ』研究会の第一回がもたれたのが、同年十月。ジョイスの『ダブリナーズ』が刊行されたのが1914年。本書は『ダブリナーズ』100周年を記念して企画刊行されたものである(実際は二年遅れの2016年刊)。

『ダブリナーズ』所収の全十五篇を、それぞれ異なる研究者が担当し、それまでの共同研究を踏まえたうえで執筆した、索引や引用参考文献も付いた歴とした研究論文集である。それでは一般読者向きでないかといえば、そんなことはない。たしかに微に入り細を穿つというか、重箱の隅をつつく、とでもいうか、よくまあ、そんなことに気がつくものだと呆れるほどの微細な点を話題にするところはある。

しかし、話題にされているのは『ダブリナーズ』だ。難解さで知られ、ピエール・バイヤールがその著書『読んでいない本について堂々と語る方法』の中で白状している通り、大学教授でもちゃんと読んだことがないと揶揄される『ユリシーズ』をはじめ、新語、造語が続出し、原語で読むことすら難しい『フィネガンズ・ウェイク』などのジョイスの作品の中では、比較的読みやすいことで知られている。

しかし、本書の執筆者の一人も言うように、読みやすいから分かりやすいというわけではない。特に、オープン・エンドといえば聞こえはいいが、解釈を読者任せにしるような結末のつけ方は、読んでいてなんとも落ち着かないものがある。その他にも謎めいた言葉が使われているなど『ダブリナーズ』は、他のジョイス作品と比べれば読みやすいだけで、決して分かりやすい作品ではない。

おまけに、従来から『ダブリナーズ』といえば、ダブリン市民の前に進むことのできない精神的な「麻痺」を描いたものだ、という定説のようなものがある。さらには、ジョイス独特の「顕現(エピファニー)」という概念がつきまとう。もっとも、これら二つについて、これが「麻痺」を表しているだとか、これが「顕現」だ、とか言っていれば、何やら分かったような気がするところもあり、通説は便利なようでいて、その実何の役にも立たないところがある。

その昔、「アンチョコ」というものがあった。「虎の巻」という呼び名もある。まあ、簡単に言えば教科書の大事なところを解説してくれる参考書のこと。今は「教科書ガイド」とか呼ぶらしい。自分で調べる方がいいのはよく分かっていても遊ぶ時間も欲しいから、結構お世話になった。『ジョイスの罠』は、『ダブリナーズ』という教科書の絶好の「アンチョコ」といえる。

言葉遊びを駆使したジョイスのこと。『フィネガンズ・ウェイク』とまではいかなくても、『ダブリナーズ』も、通常では使わない擬音の使用や、文章中に必要以上に頭韻を踏ませたり、ある種の文字に特定の意味を象徴させたり、と凝った書き方がされている。それらは、訳されるとき、翻訳者によって解釈された日本語に変換されることで、日本の読者には引っかかりのない滑らかな日本語として解されがちである。

それでは困るのだ。一例をあげると、「蔦の日の委員会」の中で酒瓶の栓を抜く音の件がある。柳瀬訳では<ポーヒョン!>という音、原文では通常<pop>とするところを<pok>と表記している。柳瀬氏の解釈では、飲みたくても飲むことのできないジャック爺さんの情けない気分が現れているというのだが。

数多ある説が紹介された後、「OEDによれば、“pok”は、“pock”の別綴りで“pox”「梅毒」を意味する」という説明になる。なんでも、この“pox”、あの『ユリシーズ』で、「市民」が、エドワード七世を愚弄する言葉として使われている、らしい。単なる擬音が、アイルランド・ナショナリズムを反映する言葉へと変容する解釈。スタウトの栓があけられるたびに<ポクッ(梅毒)!>と聞こえていると思うと、なんだか可笑しい。

その外、掉尾を飾る中篇「死者たち」の心霊主義的な解釈も読みごたえあり。手もとにお持ちの『ダブリン市民』でも、『ダブリンの人々』でもいい、一篇一篇はそう長いものではない。この極上のアンチョビならぬ、アンチョコをあてに、再読というのはどうだろう。いちいち原文を引きながら痒い所に手が届く『ジョイスの罠』。ぜひこの機会に『ダブリナーズ』に嵌っていただきたい。
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by abraxasm | 2016-09-24 10:03 | 書評
e0110713_1520321.jpg夏にはぴったりの怪談、というか幽霊譚。姿の見えるのもあるし、音や部屋の中に何かいる感じがするという存在感がたよりの幽霊もいる。さすがにどの家のクローゼットの中にも骸骨がいる、ということわざが成り立つ国はちがう。とはいっても、それほど、どこの家にもいればあまり怖くはなくなってくるのが人間の心理。人が集まるクリスマス前後の炉端だとか、気候のいい夏の宵には幽霊話が何よりの話題となる。

二十世紀の初め、ようやく自動車が登場し始めたばかりのころ。何かといえば田舎にある友人の屋敷に集まって、狩猟やスポーツを楽しむ階級に属する人々にとって、天気が悪く外に出られない日や、日が暮れて夕食も終わってから寝るまでの間、客が時間をどう潰すかがホストにとって課題だった。そんな時、話上手の紳士が仲間に交じっていれば何よりの幸運。話の効果を高めるため、灯を暗くして車座になり、耳を澄ます。

幽霊譚には様式があって、まずは前置きがある。どういう経緯で、その土地、その館に出かけたか、とか当主と自分の関係だとか、直接幽霊とは関係のない諸事情の説明だ。次に幽霊を見た経験を持つ人物が語り手によって紹介される。語り手自身もその場にいて、直接あるいは間接的に体験する場合が多い。最悪の場合、当事者は命をなくしたり、恐怖から正気をなくしたりすることもある。そのため実際に見たり聞いたりしたことを伝える証人が必要となる。それが語り手である。

E・F・ベンスンの幽霊譚は実にオーソドックスで、古来の様式を踏まえ、必要以上に恐怖をあおったり、残酷に過ぎたりしないところに好感が持てる。今風のホラーとはちがって趣味がいいのだ。電気が通じ、無線も電話もある時代の怪談ということもあって、心霊体験について懐疑的な読者を意識して、科学的に説明がつくように慎重に語っているのもとっつきやすい。それでいて、最後には説明がつかない恐怖体験が待っている。

語り口が似ているだけに、怪異の種類には変化を持たせている。まずは、死者の魂がこの世に執着した結果、死んでなお姿を見せる典型的な幽霊譚。これが集中最も多い。変わり種が、「芋虫」、「猫」といった虫や動物による怪異で、特に異彩を放つのが車が立てる土煙を扱った、「土煙」。自動車を駆ってのドライブが、上流人士の新しい遊びになった時代を反映してか、田舎道をすごいスピードで走る自動車に対する恐怖感をネタにしたものだ。

聖職者の息子に生まれたベンスンの書くものに、キリスト教的な宗教観を漂わせるものが多いのは当然だ。そんな中、牧羊神が吹き鳴らすパンの笛の旋律に憑かれた男の異教的な求道生活を描く「遠くへ行き過ぎた男」が異色。ニーチェがキリスト教に感じた違和感そのままに、生きる歓びを得ることに全精力を傾ける元画家の姿が熱く語られる。自分の奉じる神との出会いが思いもかけない事態を招く結末に色濃いイロニーは、ピューリタニズムによるものか。

スコットランドに狩りに出かけた一行が味わった恐怖を語る「ノウサギ狩り」は、古い館で出会う怪異というパターンを破る一篇。暑いロンドを厭いハイランド地方に出かけた「私」たちの車は、夜になってようやく目的地付近に着いた。目指すロッジまであと少しのところで、車は真っ黒で見たこともないほど大きなノウサギを轢き殺す。翌朝、ノウサギ狩りに出かけようとすると、ガイドがこの村でノウサギ狩りはできないと言う。

あくまでも契約事項にある通りノウサギ狩りを決行するというジムに、「私」は、本で読んだノウサギにまつわる民間伝承を語る。「私」の考えでは、一行は「禁忌」を侵したのだ。見知らぬ習俗を今に残す異郷で白眼視される闖入者が感じる居心地の悪さが次第に恐怖へと変化する。萩原朔太郎『猫町』を思い出すアルカイックな趣のある、一風変わった変身譚。

近代怪談のおっとりとした風情を楽しむにはもってこいの一冊。怪奇小説のアンソロジーではよく見かけるベンスンだが、これだけそろった短篇集は初めてだ。本邦初訳のものも多い。イギリスの家屋敷や庭園を彩る草花、田舎の風景、独特の気候の変化、と怪異を取り巻く雰囲気づくりに意を尽くした逸品ぞろい。じっくり味わいたい。
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by abraxasm | 2016-09-23 15:21 | 書評
e0110713_1452139.jpg休日に車に乗って何となく走っていると、自分の手が勝手に職場に通じる道の方にハンドルを切っているのに気づいたことはないだろうか。頭は休日モードに入っているのに手足は週日の習慣行動をとっている不思議さ。車の運転という高度な運動に、知的な活動を必要としないのは、感覚器官と四肢が何らかのつながりを作っているからで、もしいちいち考えながら動かなくてはならないとしたら人は二本足で歩くことすら満足にはできないだろう。

「僕」は、歩行中に突然空から落ちてきた何かによって頭部に傷害を受けて記憶をなくす。また、体の右半分の動きをコントロールする脳の部分に傷を負った。理学療法士はなくなった道筋の代わりに未使用のルートを通って手足を動かすリルートという方法を採用した。しかし、未開拓の荒れ地に道をつけていくためには、肩から始まり肘、手首、指と一つ一つの部位に意識を集中しなければならない。ひとくちでいえば「僕」と「僕」の行為の間にはギャップができてしまったのだ。

退院後、あるパーティに行った「僕」は洗面所の漆喰壁の割れ目に既視感を覚えた。それはまさにエピファニーだった。そのひび割れがある建物を隈なく思い出させたのだ。階段の手摺りや床板、自分の部屋の間取りから窓から入ってくる階下の老婆が焼くレバーの匂いに至るまでのすべてを。「僕」は、その建物にいたころの自分の動きの滑らかさを記憶していた。意識しないと動けなくなっていた「僕」にとって、そのリアルさは感動的だった。

示談が成立し、事故については今後一切触れない条件で850万ポンドの大金が支払われることになった。「僕」は、記憶にある建物を再現しようと決意する。窓から見える中庭や隣の家の屋根の上にいる猫まで。もちろん、レバーを焼く老婆や、まちがえた時にはゆっくり弾き直すピアニスト、中庭でバイクを修理する男を演じるパフォーマーを雇い、自分が見聞きし、味わった感覚すべてを再現するプロジェクトの開始である。

「神」による天地創造のパロディ。大金持ちには不可能などない。実務に長けた協力者ナズを得た「僕」は、記憶の再現にとりかかる。レバーを焼く匂いにニトログリセリン臭がするなど、細かな差異はあったが、プロジェクトは一応成功する。ゾクゾクするような快感に味を占めた「僕」は、雇った人々に執拗に何度も同じことを繰り返させる。屋根に放った猫が落ちて死んでも代わりの猫を探させ、何度も屋根に上げる。この辺りから違和感を覚え始めた。

プロジェクトは、それにとどまらず、パンクの修理で訪れたタイヤショップ、近くで起きた殺人事件現場の再現と続いてゆく。タイヤショップでの出来事は、洗浄液をかぶるという軽い程度のアクションだが、殺人事件の再現では撃たれた黒人の代わりを自分でつとめ、自転車から放り出されるシーンまで演じる。何度も繰り返すうち、トランス状態に陥った「僕」を心配して、ナズが医者を呼ぶ。医師の診断は外傷ショック性障害。激しいトラウマから来る痛みを抑えるため、分泌されるアヘン様物質が快感をもたらしているらしい。問題は新たな分泌への強迫的欲求が高まることだ。そんな「僕」が次に考えたのは銀行強盗の再演だった。

薬物に因らない脳内麻薬による中毒。脳の損傷による世界と自分との間に直接触れ合うことを遮る幕の存在を感じる「僕」にとって、プロジェクトが与えてくれる強烈な多幸感は他によって代え難い。PTSDによってもたらされた苦痛を癒すために分泌される脳内麻薬を求めて、より激しい痛みをもたらす刺激を求めるようになる人間の姿を具体的かつ細密に描いている。

やがて、それはナズにも伝染し、二人のすることには歯止めがかからなくなる。壊れた神によるディストピアの創造である。ただ、読んでいて面白かったのは四分の三まで。銀行強盗の再演のところで先が読めてしまう。謎の登場人物である背の低い議員の正体など、解決されないまま小説が終わってしまうのも残念だ。

考えてみれば、「僕」は思いつきを口にするだけで、実際にすべてを執り行ってきたのはナズだった。常に忠実に「僕」をサポートしてプロジェクトを進めてきた進行役のナズの崩壊と時を同じくするように、最後の方はそれまでの緊密な構成に欠け、急いで幕を下ろしたような感じがする。主人公のマニアックなところや建物その他のハイパー・リアルな再現は、スティーヴン・ミルハウザーの小説のテイストに近い。好きな人にはたまらない作家だろう。
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by abraxasm | 2016-09-23 14:52 | 書評

覚え書き


by abraxasm