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e0110713_11502982.jpgアレックスは二十七歳。職業は直筆商。直筆商という言葉は訳者による造語で、原題は“The Autograph Man”。日本でいうサインは英語ではオートグラフ。飴売りのことをキャンディー・マンというように、オートグラフを売買する人をオートグラフ・マンという。有名人が写真等に直筆したサインを売買する職業を指す。いちいちカタカナ表記するのも煩わしいということだろうが、見慣れない新造語が頻発するのも落ち着かない。日本でそういう商売をする人は、自分たちのことを何と呼んでいるのだろう。

アレックスの父は医師で名はリ=ジン。名前から分かるように中国人で、十二歳のアレックスをプロレス見物に連れて行った日に亡くなった。アレックスの本名はアレックス=リ・タンデム。本人は中国人を自称するものの、母がユダヤ人であるアレックスは、小さい頃からユダヤ人学校に通い、ユダヤ系社会にどっぷりと浸かってしまっている。ユダヤ人は母系制社会なのだ。

幼なじみの一人はラヴィになり、親友のアダムはカバラに夢中、その妹のエスターとは十年越しの恋人関係というユダヤ的な人脈に囲まれていながら、アレックス自身は神を感じることができず、どちらかといえば禅に傾倒している。病気のときはチャイナタウンにある中国人医師を頼り、処方された煎じ薬を魔法瓶に詰めて仕事に行くほど。もうすぐ父が死んで十五年。ユダヤ教では大事な儀式があり、アレックスは息子として出席を請われているが、死んだ父は中国人で、ユダヤ人ではない。この辺のアイデンティティの持つ複雑さが、主題になっている。

プロローグでアレックスとオートグラフの出会いが描かれる。プロレス会場で偶然出会ったユダヤ人少年ジョーゼフがコレクションするだけでなくそれで儲けていることを知ったのだ。皮肉なことに癌で死期が近づいていた父は会場で倒れ、その後死亡する。アレックスが一生の仕事とすることになるオートグラフと出会った日に父が死ぬ。これは偶然だろうか。

アレックスは仕事としてオートグラフを売買するが、少年時代から憧れていたキティーという女優のものだけは特別で、今でもサインをねだる手紙を書き続けている。何にでもサインしたジンジャー・ロジャースとは違い、キティーのそれは希少で価値が高いのだ。オークションに出かけない日は、アダムとドラッグでトリップ。オークションの日は仕事仲間とバーで酒浸り。エスターを愛していながら、他の女の子にもちょっかいを出す、といういい加減な毎日を送るアレックス。

そんなアレックスのところに何年も無視され続けていた憧れのキティーからサインが送られてくる。ちょうど、ニューヨークで行われるオークションに出かける予定であったアレックスは、ペース・メーカーを交換するための手術で入院中のエスターを英国に残したまま一人アメリカに飛ぶ。ハニーという同業の美女と共に雪のニューヨークをキティーの居所を探して歩くアレックス。そこに待っていたのはとんでもない秘密だった。エピローグ。一皮向けたアレックスは、儀式に向かうのだった。

大人になりきれない直筆商のナーヴァスな心情とドン・キホーテ的な思い切った行動を、ロンドン近郊のさえない町と大都市であるニューヨークを舞台にコミカルかつペーソスたっぷりに描いたゼイディー・スミス、長篇第二作。キュートでポップな文体にのせて、どこまでも優しく愛情溢れる友人たちが、悩めるアレックスのために手を差し伸べる、ウザいようでいて、本当はありがたい友情と愛情がいっぱいのハート・ウォーミングな物語。疲れたなと感じる日々には元気がもらえそうな一冊。550ページは長いようにも思うが、軽いノリでビートの効いた文章は、映画ネタや濃いキャラクター満載で飽きさせない。

ひとつ気になったのは、ニューヨークで行なわれるオークションの客寄せに広島に原爆を落としたパイロットのサイン会を持ってくる感覚だ。他の部分にも黄色い日本人に対する差別感が散見される。チャンドラーを読んでいても日本人に対する蔑視が気になることがあるが、ゼイディー・スミスのように若い作家であっても英国に住んでいるとそういう感情を共有するようになるのだろうか。悪ふざけが過ぎた表現と見るのが妥当なのだろうが、笑って読み過ごす気にはなれない。落語の「蒟蒻問答」をそのままキリスト教とユダヤ教の教理問答とした挿話や、漱石で有名な「父母未生以前本来の面目」という禅の公案をさらりと持ち出すところなど、よくリサーチされていて、随所に鋭い知性ととびっきりのセンスを感じさせる作家だけに、余計気になる。
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by abraxasm | 2016-04-28 11:50 | 書評
e0110713_1441443.jpg他国を移動する人々について書かれた作品を集めたのが近刊の『異国の出来事』。同じ訳者による『アイルランド・ストーリーズ』は、アイルランドに根を生やした人々の姿を描いた作品を集めたものだ。路傍の聖母像の話に始まり奇跡の話で締める。昔のLPレコード・アルバムになぞらえ、A面6曲、B面6曲の全12篇からなる短篇集。訳者のこだわりがわかるのはLP世代だけだろうが、いつまで存在するか分からないデジタル機器に比べ、ほぼ半永久的に復元可能なアナログ音源にトレヴァーをなぞらえたくなる、その気持ちはよく分かる。

実は数年前に一度読んでいるのだが、初めてトレヴァーの世界に触れたせいもあって、読後の印象がまとまらず、感想を書かずに済ませてしまった記憶がある。それでいて、その重苦しいようでいて何処か切なさを秘めた独特の味わいだけは深く心に残っていた。それ以後、新作が出るたびに読んできて、迂闊なことにようやくこの頃その作品世界が見えてきたというのが本当のところだ。かめばかむほど味が出てくるというとなんだかスルメみたいだが、読めば読むほど味わいが深くなる。言葉をかえて言えば、初読者にはとっつきにくい作家なのではないか。

その原因のひとつがアイルランドという国についてあまり知らないということがある。『異国の出来事』に出てくるヴェネツィアやパリと比べると、『ユリシーズ』の舞台として知られるダブリンはまだしも、ベルファストやコークといった地名はいかにもなじみがうすい。しかし、アイルランドの人々にとってベルファストは北アイルランドの首都というだけではない重い意味を持つ土地なのだ。以下「訳者あとがきにかえて」を参考に簡略に記す。

16世紀、嫡子の欲しいヘンリー8世が離婚を許さないカトリックに業を煮やし宗教改革を断行した結果、英国最古の植民地であるアイルランドは多数のカトリック信者を残したまま支配者層だけがアイルランド聖公会(プロテスタント)に改宗する。これが問題の始まり。その後1916年にダブリンで反英武装蜂起が起き、アイルランド共和国軍(IRA)と英国政府が派遣した特別警備隊の間で激しい闘争がくり返される。1921年アイルランドは独立を勝ち取るも、ベルファストを首都とする北アイルランドとダブリンに首都を置くアイルランド自由国のふたつに分裂する。

国民の大多数がカトリック信徒のアイルランド自由国(1949年英連邦脱退、現在のアイルランド共和国に至る)は教会の倫理規範に沿った政策をとり、それに違反する図書や映画の検閲、離婚や妊娠中絶を法律で禁止するなど厳しい施策を国民に強いた。一方北アイルランドでは、プロテスタントが多数派を占め、少数派のカトリック住民を差別し続けた。その結果カトリック系とプロテスタント系の武装組織の対立が三十年も続く北アイルランド紛争を引き起こし、多くの市民が犠牲となった。

「見込み薄」のミセス・キンケイドは結婚詐欺師。カモを探してたどり着いた町で農園を営むブレイクリーを見つけ近づく。独り居に慣れた男は容易に心を開かないが次第にその距離は縮まる。男のプロポーズを拒みながら、小切手を書かせるテクニックが見せ場だ。再会を約束し、女は小切手を手に町を去る。男は銀行からの連絡で金が引き出されたことを知る。約束の場所に女は現れなかったが、ブレイクリーは心のどこかに希望が残っているのを感じる、という話。

ブレイクリーは色とナンバーが酷似していたため誤って車に仕掛けられた爆弾で妻子を亡くした過去を持つ。女の方も親から受けついた下宿屋の収益をフィアンセに騙し取られた苦い過去がある。過去に苦しめられる二人が、少しずつ現在を受け容れようと思うようになる、その背景にあるのがミセス・キンケイドがバスの運転手と話す場面でさらりと触れる<ベルファスト和平合意>だ。長く続いた紛争が、ようやく終わろうとしている。簡単には戻りはしないが、人々は平和への希望を頑固に守ろうとしている。誰もが共通して感じる希望の光、それこそがブレイクリーの根拠のない希望の出所にちがいない。やがてそれはベルファストに暮らすミセス・キンケイドの胸にも届く。

巧みに展開させるストーリーの背後に、当時の社会がもつ感情や色彩を裏打ちすることで、物語の強度を増す。さほど分量のないトレヴァーの短篇が尋常ではない重量感を保持するのは、表面に出ないこうした工夫があってのことだろう。海外でも読まれることを意識しているのか、トレヴァーの筆は、事情に疎い日本人にも理解できるよう意を尽くしている。初読時にはそれが読みとれていなかった。ナボコフではないが「読書とは再読のことだ」とつくづく思う。

「哀悼」が扱うのも爆弾テロ。主人公リアム・パットはアイルランドの青年。工務店では使えない奴と思われ、セメントミキサーの番ばかりさせられ腐っている。ロンドンなら、ちゃんとした仕事があると思い、伝手を頼って渡英する。しかし、待っていたのは派遣仕事で、現場ではいじめにあう。そんな時、酒場で知り合ったアイルランド人から仕事を頼まれる。それが爆弾テロだった。今の境遇に不満を持つ若者をリクルートしてテロリストに仕立てる、という極めて現代的な主題がトレヴァーの手にかかると、まぎれもないトレヴァーの刻印が押された極上の短篇となる。

マイケル・コリンズのような英雄になれると言われ、その気で爆弾を入れたバッグを抱えてバスに乗り込んだリアム・パットは思い出す。父親が新聞を読んで「こんなみじめな英雄ってあるもんか」と言ったことを。一回目の爆弾テロは暴発によって失敗していた。父親が読んでいたのは運び屋の若者の葬式の記事だったのだ。名前も知らない若者が自分と重なり、リアム・パットはバスを降りる。故国を棄ててまで移住した異郷でまた虐げられる若者の切なさが心に痛い。こうしてテロリストは作られていくのか、と腑に落ちた。

不倫相手と最後の旅に出たベアトリスが旅先のバーで出会ったのは楽しそうに席を囲む一組の老夫婦と念入りに化粧した女の三人連れ。乾杯を交わした時ベアトリスには分かった。老女が男を愛していることを。そして男もまたそれを知っていることを。離婚の許されない時代、妻帯者を愛した女はその愛を心の奥に秘すしかなかった。男もそうした。そのまま歳をとって今があるのだ。それを見てベアトリスは自分のいやしさを恥じる。しかし、ドゥニーには、また別の思いがあった。

ドゥニーは八十二、三歳。ベアトリスは三十二歳。ドゥニーがベアトリスの年頃、アイルランドの生活様式には「不倫や離婚や明るい茶色の自動車なんてものは含まれていなかった」。自立して間もない国はカトリックであることを精神的支柱に据えた。映画館の案内嬢だったドゥニーは化粧が濃いと神父様に目の敵にされていたのだ。半世紀の時間差をはさんで、ふたりの女が互いの境遇を羨む「パラダイスラウンジ」。南のアイルランド共和国に住む者にも嘆きはあったのだ。

12篇のどれも、甲乙つけがたい選び抜かれた傑作ばかり。紹介しきれなかった作品にもアイルランドの歴史が色濃く影を落としたものが多い。なかには読むのが辛い話もある。逆に、暗澹とした展開に突然穏やかな光が差し込む「秋の日射し」のような話もあって、折れてしまいそうな心をなぐさめてくれる。シングル盤ではなく、アルバムとした所以であろう。一気読みは避けて、一話一話をじっくり味わうことをお勧めする。
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by abraxasm | 2016-04-24 14:41 | 書評
e0110713_1414186.jpg e0110713_14143617.jpg東西文明の十字路イスタンブルを舞台に、ある行商人の半生を描きながらトルコの現代史を点綴する、ノーベル賞作家オルハン・パムクの最新長篇小説。出だしこそ主題をはっきりさせるため、物語の中盤あたりから書き出されているが、主人公の人生を決定する駆け落ちのくだりを語り終えると、話者は時間を戻し、主人公メヴルトの少年時代から語りはじめ、物語はひとりメヴルトに限ることなくその係累、親戚縁者をはじめ、友人知人にいたる多くの人の口を借りて紡がれる。

その語り口は、現代小説というよりも一昔前の大衆的な読物を思わせるとっつきやすさで、上下二巻に及ぶ大長編であるにもかかわらず、一気に読みきってしまう。また、主人公メヴルトの人物像が、誰にも愛される善良で朴訥な性格と、頑丈なくせに華奢な体躯にいとけない少年のような顔を持ち合わせた人物に設定されていることもあって、読者は身構えることなくやすやすと作品世界に入っていける。トルコ風の人名地名こそなじみがうすいが、出てくる人物は誰もかれも少し前の日本のどこにでもいそうな等身大の人物ばかり。

目次のすぐあとに登場人物一族の家系図が見開きいっぱいに記され、下巻巻末には登場人物索引も付されている。この人物相関関係こそが小説の眼目だからだ。主人公の父ムスタファとその兄ハサンは姉妹を妻に娶り、メヴルトにはハサンの息子であるコルクトとスレイマンという従兄弟がいる。トルコの中央アナトリアにあるコンヤ県からイスタンブルに出てきた一族は担ぎ棒を肩に担いでヨーグルトや伝統的飲料ボザを売り歩く仕事を生業としていた。父と伯父はイスタンブルの端に位置する国有地の丘に一夜建てと呼ばれる粗末な家を建てることで、土地を事実上所有する。

その後家族の多い伯父一家は別の丘に移るが、それを契機に土地の所有をめぐり父と伯父の関係はぎくしゃくしたものとなる。ひとつには、行商をやめたハサンが雑貨商を経営し、その息子たちも地域の顔役の手伝いをしながら少しずつ裕福になっていくのに比べ、妻を故郷に残し長男だけ連れて首都に出たムスタファは、故郷の人々が生業としている伝統的な行商に執着し、兄のように時流に乗れなかったことを口惜しく思っていたのだ。

コルクトの披露宴の席上、花嫁ヴェディハの妹と目が会い、その瞳の美しさに運命の出会いを感じたメヴルトは、まだ十三歳の少女に手紙を書き続ける。四年後二人は駆け落ちを決行することになるが、メヴルトが手紙を書いていた相手は当の少女の姉のライハで、美しい瞳の持ち主は末娘のサミハの方だったのだ。題名の『僕の違和感』は、駆け落ちの夜、闇夜を照らす稲光ではじめて未来の妻の顔を見たメヴルトが抱いた思いからきている。

手紙のやりとりや駆け落ちの手助けをしてくれたスレイマンは、以前からサミハに思いを寄せていたが、姉が片付かないと妹も嫁にいけないと考え、姉のライハを従兄弟のメヴルトに嫁がせようと仕組んだのだった。仲のこじれた両家の間で、三姉妹の嫁取り競争が演じられることになる。これだけでも十分喜劇的な設定だが、これにトルコという国家の歴史が重なってくる。

建国の父アタチュルクによって脱イスラム色を強めたトルコ共和国だったが、その内実は脱イスラム的な左派世俗主義からイスラム擁護的な右派民族主義を奉じる集団まで様々なイデオロギー的確執を含んでいた。一例をあげれば、メヴルトの中学生時代からの親友フェルハトは、アレヴィー教徒のクルド人一家の息子で世俗主義を奉じる左派。従兄弟のコルクトやスレイマンは、右派民族主義に属している。メヴルトは親友のフェルハトと共に左翼のポスター貼りを手伝ったかと思うと、まだ糊も乾かないその上に、黒いペンキで右派のスローガンを書くなど、文字通り右往左往する。

対立するのは、イデオロギーだけではない。親友と従兄弟、妻ライハと義妹サミハ、首都イスタンブルと故郷アナトリア、無神論と神秘主義、進学と就業、と数え上げていけばきりがないほど、メヴルトは相反するものの間に立たされる。あちらを立てればこちらが立たないという二律背反状況をどうさばいて見せるか、というのがこの小説の見所だ。どちらかといえば、さばくどころか、あっちへよろよろ、こっちへよろよろと腰の定まらないメヴルトの迷走ぶりを面白がるという方があたっているが。

よくよく考えてみれば、メヴルトが肩に担いでいる担ぎ棒はその両側に盥を吊るしている。荷の重さで片側に傾けばまともに担ぐことはかなわない。どちらの方にも均等に力が伝わるようにバランスをとるのが、この商売の秘訣だ。そうしてはじめてイスタンブルの迷路のような道を好きなように歩くことができるというもの。肩に担ぎ棒を担いだボザ売りの立ち姿は、メヴルトの人生の比喩なのだ。そして、それは東西文明の中間に位置するイスタンブル或はトルコという国の姿でもある。

そう考えてみると、このアナトリアからイスタンブルへ出てきたボザ売りの人生を描いた通俗的な小説が、トルコという国の宗教や政治、因習的な家族関係、賄賂が横行し、やくざやマフィアが暗然とした勢力をふるう首都、などの深刻な話題を語る寓意的な小説にも見えてくる。どこの国にもそんな時代があるのだろうが、王政から共和政へと舵を切り、脱イスラムの旗を掲げ、西欧化へと突き進んできた現代トルコの状況は、敗戦後、新憲法の下、ひたすら先進国に追いつけ追い越せ、と走り続けてきた日本の姿にも重なって、他人事のようには思えない。

登場人物に纏わる挿話に活動家の暗殺や軍事クーデターといった史実を交えながら、メヴルトをとりまく状況は刻一刻と変化してゆく。駆け落ち後、義父に許され、めでたくライハと結婚したメヴルトには、娘も生まれる。サミハとの結婚を望んだスレイマンだったが、そのサミハはタクシーで乗りつけた男たちによって誘拐されてしまう。サミハをさらったのは民族主義者の襲撃事件以来姿を消していたフェルハトだった。二人の結婚によって、メヴルトとライハの間にサミハが入り込んでくる。

妻を熱愛しているメヴルトだが、フェルハトとはじめたスタンドでのボザ売りを姉妹が手伝うようになると、サミハが気になって仕方がない。ライハはライハでスレイマンから夫が恋文を書いていた相手は妹だったことを聞かされ、嫉妬に苦しむ。「妹に恋して姉と結婚した男」と皆から陰口されているメヴルトは自分につきまとう違和感について尊敬する導師に相談したいと思うのだが、導師の言葉によってもそれは解消しない。

小説や物語はあることをきっかけとして何かが変容することの仔細を描く。教養小説なら主人公はストーリーの進展と共に人間的に成長を遂げるところだが、メヴルトは変化しない。メヴルトを愛して止まない人々は彼を愛することで悩んだり苦しんだりするが、メヴルト自身は心の裡に違和感を抱きながらボザを売り続けるだけだ。むしろ変化してゆくのはイスタンブルの街だ。観光客がよく歩く旧市街は別として、アナトリア各地やその他の隣国から流入してくる人々で首都の人口は増大し、住宅地が急増。一夜建ての粗末な家は建て増しに次ぐ建て増しの果てに取り壊され、高層ビルが建ち、かつてメヴルトが住んでいたあたりはスラム化する。

今やハサンとムスタファの一族は、ボスフォラスの海を見渡す高層住宅の住人となっている。そこを一人抜け出し、メヴルトは今宵もまたボザ売りに出かけてゆく。人の心をかきむしるような彼の売り声を待つ人々のために。ゲニウス・ロキ(地霊)というものがある。変わり続けてゆくイスタンブルの裏町を昔ながらのボザ売りの売り声を響かせながら歩いてゆくメヴルトこそは政治や宗教によってその都度変化する国家ではない、開闢以来変わらない土地としてのトルコの地霊なのではないかと思えてくるのである。
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by abraxasm | 2016-04-20 14:16 | 書評
e0110713_1325746.jpgトレヴァーといえばアイルランドという固定観念の裏を行く、異国を旅する話ばかりを扱った異色の短篇集。これには意表をつかれた。「アイルランドの片田舎で過ごした少年時代に最も影響を受けたのが映画や探偵小説だった」と告白しているトレヴァー。誰もが顔見知りの閉鎖的な世界を抜け出し、いかにも異国情緒に溢れた都市や遺跡を舞台に据えることで、いつになく華やかで流麗な小説世界を繰り広げてみせる。ストーリー・テラーとして定評のあるトレヴァーのこと、旅先のかりそめの恋や、運命の人との出会いを扱いながら、独特のひねりを効かせた展開で読者を翻弄する。

アイルランドの作家で、短篇の名手として知られるウィリアム・トレヴァーには故国を舞台にした作品が多い。登場人物もアイルランドの町や村で目にする、どこにいでもいそうな人々であることが今まで当然のように思っていた。自分の身のまわりにいるありふれた人々の日常のひとコマを、その尋常でない手際によって掘り下げ、えぐり出し、平凡に見える人々の裡にある思いもかけぬ真実を白日の下にさらしてみせる。料理に喩えれば、出来合いの素材を卓越した技術によってご馳走に変えてみせる名人のように思っていた。とんでもないまちがいだった。豪華な食材を使って絶品料理を作ることもあるのだ。

訳者によるトレヴァーのアンソロジーとしては、『聖母の贈り物』、『アイルランド・ストーリーズ』という短篇集が既にある。『アイルランド・ストーリーズ』がアイルランドの土地と歴史に根を張った作品を集めたものだったので、今回は移動する人々を描いた作品を集めてみようと思った、と「訳者あとがきにかえて」にある。一部アイルランドの田舎町も出てくるが、旅の主な舞台となるのは、スイスの湖畔、イタリアやフランスの避暑地、ヴェネツィア、シエナ、フィレンツェ、パリ、イランの古都イスファファン、と華麗な都市の名前が並ぶ。

こんな街を旅しようと思ったら、いつもの庶民階級の人々ではつとまりそうもない。そこで、それなりの財産を持った人々が登場人物をつとめることになる。旅の種類も、転地療養をする少年と母、妻を亡くした父とその娘が思い出の地を訪れる旅、男と女の旅先での出会い、同じく旅先での旧友との再会、家出や帰省、と様々である。舞台もホテルの部屋、観光地の広場、鉄道の食堂車、レストラン、バー、と変化に富んでいる。旅の舞台に相応しく人々の愛憎劇もいつもに比べ、その意匠が華やかだ。

とはいえ、そこはウィリアム・トレヴァー。舞台が華やかであればあるほど、視点が楽屋裏にまわったときにはその落差がひときわ激しく感じられる。旅というハレの場では、人は知らず知らず自分を偽っている。自分が気づかないのだから当然相手も分からない。普通の小説だったら、その正体も暴かれることなく、それなりに無事結末にもっていけそうな話を、この作者は無慈悲とも思われる手つきでその上っ面を引き剥がし、人の心というものの実体をこれでもかというほど露わにして見せずにはおかない。短編小説の名手と呼ばれるのは伊達ではないのだ。

旅先で出会った女に自分から声をかけておきながら、女がなびきそうになると逃げ出す男を描いた「エスファファーンにて」は、ジョイスの『ダブリン市民』にある「痛ましい事件」に想を得たのではないか。失ったものの価値に気づくのにかかる時間が、ジョイスは四年、トレヴァーは数日というちがいはあるが、自分に正直な女と、相手に対して自分を開こうとしない男の出会いと別れを描いている点、男の視点で描かれ、最後も悔やみきれない自責の念で終わっている点など、共通するところが多い。こういう自己に拘泥して他者とのかかわりを拒否する男を描かせるとトレヴァーの右に出る者はいない。哀切な余情を湛えた一篇である。

誰もがなるほどと納得するような人物描写を一度はしておきながら、最後でくるりと裏返し、真実の顔を垣間見せるというのも、トレヴァーが得意とする手法だ。このアンソロジーにも何篇か収められている。南仏の高級別荘地で夫を召し使いのように扱う奔放な妻。友人たちはあまりの扱いに憤慨し、勢い夫に同情が集まる。浮気相手と思われる若いウェイターに妻が手渡す高額の金の本当の意味は…。「ミセス・ヴァンシッタートの好色なまなざし」は永年連れ添った夫婦にしか分からない愛というものの底知れない闇を描いて秀逸。

母の死で独りになった父を心配し、気儘なフラットの独り居を棄てて父と暮らし始めた娘が、思い出の地ヴェネツィアで、若い旅行者に声をかけ、バーに誘う父に幻滅する姿を描く。実は娘には既婚者の愛人がいて週末のセックス、プレゼント、旅行という生活に厭きがきていた。それを解消するためもあっての父との新しい生活なのだ。思い余った娘は溜まった思いを父にぶつける。父と娘のすれちがう思いがヴェネツィアの海霧に滲む「ザッテレ河岸で」。

周りの大人にははかり知れない思春期の少年の心をさらりと描き出すのもトレヴァーの得意とするところ。自分の出自に悩みながらも、それを隠してせいぜい悪ぶってみせる少年の汽車旅を描いた「帰省」も読ませる。たまたま行先方向が同じなため相席する羽目となった寄宿学校の副寮母が傍若無人な少年の言動についにキレてしまう。ふたりのやりとりの面白さは集中の白眉。

しかし、最も心に残る一篇はときかれたら、「ふたりの秘密」と答えるだろう。相続した財産を売却した金で悠々自適の暮らしを続けるウィルビーは、切手収集の目的で訪れた旅先のパリで、思いもかけない人影を見つける。子どもの頃、アイルランドの海岸でふたりして遊んだアンソニーだ。しかし、アンソニーは故郷から姿を消し、死んだと思われていた。小さい頃共謀してやった秘密の行為が、アンソニーのその後の人生を変えてしまっていたのだ。

他者は知らない秘密の出来事だが、自分ともう一人だけはしたことの意味が分かっている。自分のしたことに対して自分はどう責任をとるか。再会したアンソニーは自らに課した罰としての人生を生きていた。自らも閉じられた世界に生きることで安心立命の道を選んだウィルビーだった。「だがこの日の朝、ウィルビーの胸の内では、アンソニーの生き方を好ましいと思う気持ちが、自分自身を愛する気持ちよりもほんの少しだけ勝っている」。自分を律することができるのは自分しかいない。その厳しさにどう立ち向かうか、が問われている。ウィリアム・トレヴァーにしか描けない世界がここにある。
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by abraxasm | 2016-04-15 13:03 | 書評
e0110713_1258442.jpgハードボイルド探偵小説の翻訳やミステリ評論で知られ、先頃亡くなった小鷹信光氏の編訳によるジャック・リッチーの短篇集。多方面の雑誌読者に合わせて、ミステリはもちろん、ラブロマンス、SF、怪奇小説、西部劇小説とジャンルを超えた作家であったジャック・リッチーは、洒落た会話、シャープな文体、ひねりを効かせた展開、あっと驚くようなオチ、という技量に優れたアルチザンだった。題名通り、あの手この手の手の内を、謀、迷、戯、驚、怪の五つのパターンに分類し、選び抜いた全二十三篇本邦初訳。これを読まずにすませるという手はない。

はじめに言っておくが、作品が発表されてからかなり時間がたっている。ごく最近の物で八十年代だ。いわば、全篇がグッド・オールド・デイズに属している。そのあたりの何とものんびりとした時代の多幸感のようなものを味わえるだけの心のゆとりがまず必要とされる。ハラハラドキドキしたい、とか思いっきり泣きたいとか、本を読むことに刺激を求めている読者にはとてもお勧めすることはできない。

時間つぶしというと言葉が悪いが、列車を待つ時間だとか、病院の待ち時間だとか、他に何かをするだけの時間はないが、何もしないでいるには長すぎる時間ができたとき、ポケットから取り出し、ぱらぱらとページを繰るのに丁度いいサイズなのだ。短時間で読めて、うーんと唸ったり、あっと声を上げたり、読後思い返して何度も首をひねってみたり、とそんなことを経験させてくれる作家はそうはいない。

小鷹氏による前口上と作品解題が懇切丁寧な上に情報量が半端でないので、詳しくはそちらに任せたいのだが、作品についてふれないですますという訳にもいかない。まずは、ヘンリー・ターンバックルが相棒ラルフと探偵役を務める三篇からいこう。《EQMM》や《ヒッチコック・マガジン》向けに書いた謎解きミステリだが、錚々たるミステリ作家の作品が並ぶ雑誌のなかで読者の注意を引くにはそれなりの工夫がいる。

リッチーがやってくれたのは、自己言及的ミステリとでも言えばいいのだろうか。例を挙げれば、端役が犯人であってはいけないと諭す「ヴァン・ダインの二十則」をはじめとして、ミステリには何かとお約束が多い。その他にも暗黙の了解として、双子が登場すれば入れ替わりを疑わなければいけない、などのように、それまで無数に使われてきたステレオタイプな設定がやたらとある。リッチーはこれをからかうように、ターンバックルに「双子」と「執事」が絡む事件を捜査させ、いちいちそれに文句をつけさせる。謎解きミステリであるのに、それをパロディーにしているところがミソだ。

さらには叙述トリックがある。クリスティの『アクロイド殺し』が特に有名だが、あれほど露骨にやらなくとも、作家がやろうと思えば、読者を欺くことはこんなに容易いのかと唸らされるほど、リッチーの作品には騙される。その一つに英語で書かれている、というのがあるのではないだろうか。日本語だと、会話に年齢差や上下関係その他の不要な情報が入り込むので、その点は訳者泣かせだろう。無駄のない、削ぎ落としたような文体がリッチーのミステリの文体の特徴だ。そのテンポのよい文章のリズムに乗ってサクサクと読まされてしまい、最後であっと言わされる。これは、作品名を挙げればネタバレになるので、あえて名を秘す。絶対驚くはず。

個人的に好きなのが、男女の淡い恋愛感情を描いた都会小説。第三部戯の巻に入っている「ビッグ・トニーの三人娘」と「ポンコツから愛をこめて」。前者は、荒っぽい仕事から成り上がった企業家が年頃の娘三人を嫁がせようとするが、昔のイメージが災いして上手くいかない。腕利きの男を西海岸から呼び寄せ、何とかしようとする話。クライム・ノヴェル風のタッチに騙されるのは、読者だけではない。後者はボーイ・ミーツ・ガール物。夏場だけ観光客でにぎやかになる田舎町の医者が乗り回す自動車に目をとめた観光客の女性と医者の互いに意識しながら強がって見せるやりとりを小気味よく描いている。軽妙洒脱で、ユーモアとウィットが効いた読後感も爽やかな読物になっている。線描に淡い彩色を施したイラスト入りで上質な紙に印刷した雑誌で読みたくなる。もちろん、エンジンは1919年型フォード、ボディは1925年型エセックスの屋根を切り取った1924年型アプロクシメットを中心に。

読者をはぐらかすのが趣味かと思えるジャック・リッチーだが、私立探偵が失踪人を捜すという定番の私立探偵物「金の卵」も、ええっ、まさかそれはないだろう、というオチ。意表をつくという点では同類の「最初の客」はドラッグ・ストアでレジ打ちをする男が客を装った相手にホールド・アップされる話。小鷹氏の言う「オチにいたるまでの完璧かつ用意周到な筆さばき」を堪能するためにも是非再読をお勧めする。

ほのぼのとした味わいが特徴のジャック・リッチーの短篇だが、意外に主人公は孤独である。第五部怪の巻所収の、突き出た顎から「猿男」と呼ばれ、試合で金を貯め、誰にも顔を合わせずにすむ島を買って住もう、と考えているボクサーが、図書館司書と出会う話もその一つ。外見と内面のギャップに悩む男の孤独が心にしみる。助けた小男から約束を三つかなえてやると言われ、二つを無駄にした男が、三つ目をどうするか、という「三つ目の願いごと」、偶然泊まった宿を営むエイリアンから支配人になれと命じられた男が、一度は逃げ出すものの結局戻る「フレディー」にも、独身男の孤独の色が濃い。

巻頭の、殺し屋と執事のやりとりから、いかにもジャック・リッチー的世界に引き込まれる「儲けは山分け」(この邦題は拙い。原題通り「ボディ・チェック」でいい)から、掉尾を飾る、江戸川乱歩の人間椅子と読み比べてみたい怪談「ダヴェンポート」まで、一篇といって外れのない傑作揃い。御用とお急ぎのない方は、とくとご賞味あれ。
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by abraxasm | 2016-04-09 12:58 | 書評

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