<   2016年 03月 ( 10 )   > この月の画像一覧

e0110713_11331422.jpg舞台はペルーの首都リマを思わせる架空の都市。反政府勢力との戦争が終ってから十年、首都は再建下にある。たった一つ残ったラジオ局のアナウンサー、ノーマは、政府による検閲済みのニュースを読むほかに日曜深夜の人気番組のパーソナリティーをつとめている。「ロスト・シティ・レディオ」は、聴取者からの電話を受けて、探したい人の情報を流し再会を仲介する、かつての日本にもあった「尋ね人」コーナーだ。戦争は終わったが、戦争に狩りだされた男たちの多くが家に帰ってきてはいなかった。

ある日ラジオ局に、ジャングルの村から、村を出て行ったまま消息不明の者たちのリストを携えて少年ビクトルがやってくる。戦争終了後、政府は戦争をなかったことにするため、かつての地図をすべて回収、焼却し、地名は数字に変わった。一七九七村は大量虐殺が噂された村であった。そのリストには、民族植物学者としてジャングルに出かけたまま帰らないノーマの夫レイの名があった。首都への旅に同行した教師なら知っているはずだ、という少年の言葉にすがり、ノーマはマナウというその教師を探す。

リアルタイムで行なわれるノーマとビクトルの首都における探索行についての叙述に、ノーマとレイの出会いから結婚、別離に至るまでの回想、レイの視点から説き起こされる、政府とその転覆を図る勢力「不法集団」(IL)との戦い、ビクトルの村での「タデク」にまつわるエピソード、といった複数の視点人物による複数のストーリーが、改行もなく突然に入り込んでくるポリフォニックな語りは、多数のピースで構成されたジグソウパズルを思わせる。あるピースが、全く関わりを持たないパートとパートを結びつけ、最後のピースを嵌めた時点で一枚の絵柄が完成する。

パズルの主題は戦争だ。不正選挙で再選を果たした大統領は買収によって集められた大群衆を前に「混乱を引き起こして公共の秩序を崩壊させる扇動者どもの不法集団」と戦うことを宣言する。政権が権力を維持するために仮想敵を持ち出すのはどこの国でも同じだ。敵が国外の場合もあれば国内にいる場合もある。「不法集団」とされるのは、リーダーもいなければ、組織さえはっきりしない、無数のゲリラやテロリストたちだ。首都から離れた土地で警察を焼き討ちしたり、騒動を起こしたりしながら首都に迫る。

一方、政府は軍を使って、検問や民衆による互いの密告、通報を受け、逮捕、拘留、拷問による転向といった手段で対応する。そのやり方に整合性などない。何か人と異なって目に付く表徴があれば、それが起きる。対象は誰でもいい。恐怖が疑心暗鬼を引き起こし、民衆は声を出すことをしなくなり、支配は容易になる。互いの勢力に供給できる人員が続く限り戦争は継続する。どちらかが人員を供給できなくなった時点が戦争の終わる時だ。

過去に逮捕歴を持つレイは、ノーマとの初デートの最中検問に引っかかり、矯正施設である「月」に送られる。そこは、無数のクレーターで地表を覆われた地雷原で、直立姿勢でいるしかない狭い穴に七日間放り込まれたレイは、政治運動から手を引くことを受け入れるしかなかった。しかし、そんなレイを「不法集団」は放っておいてはくれなかった。執拗に接近し連絡係にしてしまう。こうしてレイはいくつもの名前を持ち、首都とジャングルを定期的に行き来するようになり、首都ではノーマと、ジャングルの一七九七村ではアデルと暮らす二重生活者となる。

ビクトルにも触れたくない過去がある。戦争が終わった頃、村に食料を求めて現われたILの兵士が、タデクを行なった。麻薬効果のある植物を服用させ、譫妄状態になった少年を使って泥棒の犯人を当てさせる、古くからある方法だ。名指しされた者は両手を切り落とされる罰を受ける。ビクトルは友人の父、ザイールの両手を切らせた過去を持つ。そのザイールにも人に言えぬ秘密があった。金のため情報を流していたのだ。しかも犯罪小説ファンだったザイールは、自分が拵えた物語をその中に混ぜてしまうという罪を犯したのだ。

因果は因果を生んで、めぐりめぐる。ギリシア悲劇かシェイクスピアのそれを思わせる悲劇が、封建主義には遅すぎ、民主主義には早すぎる国家を舞台に繰り広げられる。王や為政者ではない名もない民衆が国家の戦争に巻き込まれ、傷つきながら、人としての思いを次の世代に託す。英雄でもない賢者でもない、どちらかといえば好い加減な生き方で身を処す男たちの等身大の人生を、押し殺したような声音で、息をつめ、ひっそりと物語った、ダニエル・アラルコンの長篇第一作である。

ヨーロッパと変わりない首都と、未開の自然を残し官能的な魅力溢れるジャングルの村。二つの土地を対比的に描き、そのどちらにも愛着を覚えながら、戦争という機械を動かし続けるための歯車のひとつになるしかなかった男。男を愛したために悲劇の主人公にならねばならなかった女。架空の都市といったが、どこの国のことでもある。

国民が知っておかねばならないニュースは流れることがなく、独立騒ぎや不倫騒動、学歴詐称のタレントを次々と名指ししつつ公開処刑にかける裏側で、着々と事態は進展している。権力によって「不法集団」とされた勢力は、とうの昔に壊滅され、この国では「戦争」の起きることを憂慮することさえできない。限りなく民主主義から遠ざかりつつある国にいながらこの小説を読むと、その超がつくほどのリアルさが身にしみる。ダニエル・アラルコンの罪は、小説をフィクションとして読む愉しさを奪ってしまうところにあるのかもしれない。
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by abraxasm | 2016-03-30 11:33 | 書評
e0110713_17135538.jpg1950年代、雑誌『マンハント』や『ヒッチコックマガジン』で活躍したジャック・リッチーの短篇を、60年、70年、80年代と年代別に四部に分けて収録した短篇集。全二十五篇が本邦初訳というのだが、えっ、これが今まで訳されてなかったの、といいたいほどの完璧な出来映え。無駄のない叙述、キレのいい会話、あっと驚くオチ、とその完成度の高さはまさに短篇の鑑。犯罪を扱ったものに佳篇が多いので一応ミステリというジャンルになるのだろうが、正統的な謎解きにはあまり興味がないようだ。

視点を犯罪者の側に置いて、犯罪を犯す動機や、そのプロセス、そして意外な結末、という事件の推移を余計な感情を交えず、クールに描いている点はハードボイルド・タッチといっていい。ではあるのだが、それだけではない。掲載する雑誌によって作風を変化させていたのだろう。仄かなユーモアを感じさせる作品も少なくない。そして、それがただのほのぼのとしたユーモアだけではなくて、少しシニカルだったり、苦味を含んでいたり、と微妙な味わいが癖になる類いのものなのだ。

大都会を舞台にしたものより、アメリカの片田舎、謂う所のスモール・タウンを舞台にしたものが圧倒的に多く、独特の味わいはその設定が功を奏しているといえるだろう。凝ったトリックや、不自然な殺人方法などは全くといっていいほど登場しない。よく出てくるのが、轢き逃げや鈍器による撲殺。死体の隠し場所もよくて谷間に埋める程度。銃で撃ってそのまま放置というのが結構多い。つまり、そんなものに興味も関心もないのだ。

じゃあ、何に興味があるのか。人間である。シリアル・キラーやサイコパスではない。それこそ、アメリカのスモールタウンのどこにでもいそうな、読者の隣に住んでいても不思議ではない、ごくごく普通の一般的な市民が、ふとしたはずみで犯罪に手を染める。苦境に陥ったり、欲に駆られたり、棚ぼた式に幸運が舞い込んできたりして、人は殺人を犯す。たいしたきっかけは要らない。犯罪の痕跡を隠すのにも何の苦労がいるものか。そのために、わんさと犯罪小説が書かれている。そのなかのどれか、いちばん簡単な方法をとればいい。シンプルが一番なのだ。

火掻き棒で殴られたり、ショットガンで撃たれたり、と短篇集だけに被害者の数は厖大だが、後味がさほど悪くないのは、恨み辛みがもとになったネガティヴな犯罪が少ないことがある。ポジティヴな動機というのも変だが、なんだか犯人がそれほど憎めないのだ。そんな動機あるある、というとなんだかこちらまで犯罪予備軍みたいになるが、仕返しであったり、やむをえない事情があったり、犯人にもいろいろと都合があるのだ、これが。

犯罪者の視点から描いたものを主に紹介してきたが、もちろん、犯罪を追う側の視点で書かれたものもある。なかでも、ヘンリー・ターンバックル巡査部長と相棒のラルフが探偵役を務める三作が面白い。父親に本ばかり読んでおらずに少しは人のためになることでもしなさい、と言われ警察に勤めることになったヘンリーは、捜査で訪れた関係者の部屋に置かれた本が気になる、という文系探偵。その相棒のラルフも少々変わっていて、このちぐはぐなコンビのとぼけた感じが楽しい。

その一つ「容疑者が多すぎる」に登場する学生時代「ミス・読書家」に選ばれたこともあるドーラとの丁々発止の掛け合いが読ませる。マクジョージと呼ばれ、振り向いたところを撃たれた被害者はマクジョージではなかった、というのが謎という一篇だが、ドーラは、誰かがドアを開けて「何か叫べば、普通、振り向くわ。たとえ自分の名前がスミスとかブルービアードだとしても」と説く。この「ブルービアード」だが、日本でいえば山田(太郎)級にありふれた名前の(ジョン)・スミスに対し、珍奇な名前としてミス・読書家ドーラが例に挙げる名前なのだから、「青髭」(シャルル・ペロー作)にルビを振る程度の工夫が欲しいところだ、と思う。

ミステリ一辺倒でもない。一風変わったゴースト・ストーリー(「帰ってきたブリジット」)もあれば、テレポーテーションを扱ったSF([正当防衛])もある。冒頭に置かれた極々短い一篇は「恋の季節」のタイトル通り、微笑ましい恋愛小説である。その次に置かれた「パパにまかせろ」は、よくできる息子に追い越され気味の父親が姦計を用いて威厳を取り戻そうとがんばる、いうならば家庭小説。そのどれもこれもが、ほんの少しであるが、ミステリ風味のスパイスが効かしてあって、しかも極上のオチが用意されている。

殺人を描いている場合でもユーモアをまぶさずにいられない作家にも、時にはその持ち味を封印し、ハード・ボイルドに徹した作品を書きたい衝動が起きるらしい。「編訳者あとがき」で小鷹信光氏が「原稿二千枚を百分の一に圧縮したような作品ですが、山間の寒村を舞台に起こる五つの殺人が、冷え冷えとした描写を通じて描かれた恐ろしい物語」と評するような一篇も中には含まれる。あえて、作品名は伏せておられるので、ここでもそれに倣っておく。確かに、凄味のある一篇で、他の作品群とは一線を画している。こういうタッチでも書けるのだ。

小鷹氏曰く「とても芸域の幅の広い、練達の短編小説家」ジャック・リッチーには、2013年に同じポケミスから『ジャック・リッチーのあの手この手』が刊行されている。この短編集が気に入った読者なら見逃す手はない
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by abraxasm | 2016-03-24 17:14 | 書評
e0110713_16385749.jpg題名に引かれて読んでみたのだが、特に「世界文学」を論じた本ではない。ノーベル賞作家J・M・クッツェーの文学評論を集めたもの。作家になる前はベケット論で博士号を取得した研究者であり、大学教授でもあった。それだけに評論とはいうものの、冒頭に置かれた「サミュエル・ベケットとスタイルの誘惑」、「カフカ『巣穴』における時間、時制、アスペクト」の二つは、さすがに難しかった。一度読みかけた本は最後まで読み通す、というのが自分に課したルールなので、とにかく最後まで読み続けたのだが、結論から言えば、あきらめないでよかった。

巻頭を飾るのは、「古典とは何か?」という講演で、これはとっつきやすい。その次が件の二本だが、博士論文をもとにしたベケット論も、ドイツ語の時制を話題に小説内の時間を論じるカフカ論も内容自体は興味深く、その論じ方も具体的かつ丁寧で、決して難解な文章ではない。ただ、学術論文のようなもので一般の読者を対象にしていないから、難しく感じられるのだろう。ただ、その次の「告白と二重思考――トルストイ、ルソー、ドストエフスキー」になると、格段に分かりやすくなる。

人が自分について語るとき、どこまで語ることができるのか、という問い自体は普遍的なものである。ところが、問題はそう簡単ではない。語る自分と語る対象の自分はそのまま重ならないのは、以前はともかく、ポストモダン以降自明である。クッツェーが言うように、私とは他者であり、自伝とは「他伝」なのだ。ド・マンやデリダを引きながら、脱構築批評とはひと味ちがう考察を行なっている。対象がトルストイ、ドストエフスキーというロシア文学の二大巨頭ということもあり、カフカやベケットよりも馴染みがあるのもありがたい。

「検閲の闇を抜けて」は自身も南アの検閲で被害にあっているクッツェーの語る「検閲論」。「偏執症(パラノイア)は不安定な政治体制の、特に独裁制の、病理である。近代の独裁制をそれ以前の独裁制から区別する特徴の一つは、偏執症が上層部から全人民に感染する範囲の広さと速度である」。全市民が他の全市民をスパイするようになるのだ。「絶え間ない公的脅迫」は、市民を「抑圧された人にするだけでなく自らを抑圧する人にする」。このあたりの論調はフーコーの「パノプティコン」に共通する。クッツェーは検閲を経験した自分もまたこの病理に冒されていることを自覚している。ここに突然挿入される、自己についての認識を語る比喩の巧さにうなった。

「自己とは、今日の私たちの理解では、古典的合理主義で思われていたような統一体ではない。逆に、それは多数的で、多数に自己分裂している。比喩的に言うなら、それは、多数の動物が住んでいて、合理性という過労気味の管理人がかなり限られたコントロールしかしていない動物園である。夜になると管理人は眠り、動物たちはうろついて夢という仕事をする」「フロイトによれば、芸術家とは、一定の自信を持って内部の動物園を周遊し、望むならばたいした傷も受けずにそこから出てくることができる人々である」

自己というのが多数的なものであることは既に承知していたが、芸術家の仕事がフロイトの言う通りなら、とんでもない仕事といわねばならない。くわばらくわばら、である。

次の「エラスムス――狂気とライヴァル関係」も考えさせられる論文。『痴愚神礼賛』の読解を通じて、一つの権力(教会)とその抵抗者(ルター派)のどちらにも組することなく自らの位置を維持するためにとったエラスムスの企てを語っているのだが、エラスムスに限らない。誰もがあらゆる状況で同じ状況下に置かれている。右でないというなら、左だ、という論法を前にして、それをずらしながらライヴァル関係のどちらにも引きずり込まれないポジションを取り続けるのは周囲すべてを敵に回すことにもなる難しい選択である。クッツェーという人の真摯さがよく伝わってくる。

最後に置かれているのは書評である。ここまでよく読んできました、とご褒美をもらった気分になる。ダニエル・デフォー『ロビンソンクルーソー』、ローベルト・ムージルの『日記』、J・L・ボルヘスの『小説集』、ヨシフ・ブロツキーのエッセイ、ゴーディマとトゥルゲーネフ、ドリス・レッシング自伝、ガブリエル・ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』、、サルマン・ルシュディ『ムーア人の最後のため息』の八本。

やはり、多くの作品を読んでいるボルヘスとガルシア=マルケスについて書かれたものがおもしろかった。とにかく教養の幅が広く、学識がある。ボルヘスについても教えられることが多かった。その二人についての逸話がある。ラテン・アメリカ文学に対するボルヘスの影響は大きなものがある。ガルシア=マルケスがそれについてこう言っている。「[ブエノスアイレス]で買った唯一のものがボルヘスの全集だった」「私はそれをスーツケースに入れて持ち歩いている。毎日読むつもりだ。だが彼は[政治的理由]で私が大嫌いな作家だ」。ピッグズ湾侵攻をボルヘスが支持したからだ。ガルシア=マルケスはカストロと盟友関係にある。

ドリス・レッシングの自伝についても、生い立ちから、共産党入党に至る経緯、結婚観、その作家として、女として、親としての時に頑なとも思える姿勢を好意のまなざしで綴っている。書評と書いたが、クッツェーのそれは単なる書評を超えている。作家論といっても差支えがない。おそらく、書く以前に厖大な資料を読み込んでいるにちがいない。一冊の書物の陰から一人の作家の人生が確かな輪郭を纏って立ち上がってくる。まだ一冊も読んでいないクッツェーの小説、是非読んでみたいと思った。
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by abraxasm | 2016-03-20 16:39 | 書評
e0110713_1632419.jpg一昔前のドーナツ盤レコードでは、裏表に一曲ずつ録音されるのだが、力を入れて売りたい曲の入った面をA面といった。それに対して、あまり売ることを期待していない方をB面といった。もっとも、予想に反してB面扱いされた曲の方が人気が出るということもあった。著者には、『昭和史』という力の入ったA面的な著作が既にあるが、正面きって日本の昭和史を語ったA面では採りあげなかった庶民大衆の暮らしの様子や娯楽といった側面に目を向けて、当時の世相を語ったのが本書である。まさにB面というにふさわしい。が、それだけでなく世の中には陽のあたるA面よりも日陰の身のB面を好む人種がいるもので、どうやら著者もその一人のようである。

大体、歴史について書かれた本で取り上げているのは、偉い政治家や軍人の話ばかりで、こういっては悪いがあまり面白いものではない。それに比べれば、当時の名もない一般の人々が何を考え、どんなものを楽しみに生きていたのかを知るほうが余程楽しいにちがいない。著者の語り口調も、それを意識しているのか、ざっくばらんにくだけた調子で、向島育ちの悪ガキが、そのまま大きくなって、気炎を上げているといった感じだ。

そうはいっても、昭和元年から、終戦の年までを扱うとなると、そうは庶民史ばかりを語るわけにはいかない。また、「阿部定事件」のように、世間の耳目を集めた話題をとりあげ、それがおきたのが二・ニ六事件の年であることを書かずにすますわけにはいかない。むしろ、逆で、教科書的な歴史の裏で、世に住む人々はどんな世相に目を向けていたかを知るためには、やはりAB両面を書いていくよりないようで、特に戦争が激しくなると、情報が統制され、新聞に載るのも軍部の検閲済みの記事ばかりとなって、あまり面白い資料は残っていない。そんな中、荷風散人や高見順など文人作家の戦時中の日記は貴重な資料になっている。

ふだんあまり歴史書など読まない自分のようなものが、なぜまた昭和史なんぞ読んでみようと思ったのか。実は、近頃の世間の様子がなんだか変だ。どうもきな臭い、と思い始めたからだ。安保関連法案が、ホウレン草でもあるまいに十把ひとからげで一括強行採決されたのにも驚いたが、現政権に対し批判的な番組(と目された)のキャスターが何人も降板したり、と以前のこの国では考えられないようなことが次から次へと起きてきている。

おまけに新聞やテレビが、どう考えてももっと報道するのが当然だと思う出来事をぱったりと報道しなくなった。外国の新聞やテレビが報道しているというのに、だ。この道はいつか来た道、と北原白秋ではないが歌いたくなっても仕方がないではないか。著者もあとがきで、そのことに触れている。

「国力が弱まリ社会が混沌としてくると、人びとは強い英雄(独裁者)を希求するようになる。また、人びとの政治的無関心が高まると、それに乗じてつぎつぎに法が整備されてくることで権力の抑圧も強まり、そこにある種の危機が襲ってくるともう後戻りはできなくなる。あるいはまた、同じ勇ましいフレーズをくり返し聞かされることで思考が停止し、強いものに従うことが、一種の幸福感となる。そして同調する多くの仲間が生まれ、自分たちと異なる考えを持つものを軽蔑し、それを攻撃することが罪と思われなくなる、などなど。そうしたことはくり返されている。と、やっぱり歴史はくり返すのかなと思いたくなってしまいます。」

それでは、ほんとうに歴史はくり返しているといえるのか。それは自分の目で読んでみるしかない。テレビや新聞が、われわれ民衆、著者の言葉でいうなら「民草」の知るべきことを報道し続けるという保障はどこにもない。知りたいことは自分で探るしかない。現に、すでに自国に不都合と思われることは新聞でもほぼ流れず、テレビは日本がいかに美しく、日本人はどれほど優れた国民であるかを強調する番組でいっぱいである。さて、このあと事態はどう進んでいくのか。

本書には、エログロ・ナンセンスに湧いていた時代から、終戦の詔勅に至るまで、日本が少しずつ戦争の泥沼に足を踏み込んでいき、ついに抜けられなくなってしまうまでの日本を取り巻く状況とそれをほとんど知らずに、まことに能天気に暮らしていた民草の泣き笑いが、たっぷりおさまっている。つまり、「あとになって「あのときがノー・リターン・ポイントだった」と悔いないためにも、わたくしたち民草がどのように時勢の動きに流され、何をそのときどきで考えていたか、つまり戦争への過程を昭和史から知ること」ができるのである。

いや、そんな心配いらないよ。戦争なんて考えすぎだろう、と思われる人にこそ、お勧めしたい。著者は焼夷弾など怖くないと教えられ、火の手に追われて死に損なっているので、根っからの戦争嫌いである。ただ、自分の考えを押し付けようとするところなど微塵もない。当時の自分がいかに何も知らなかったか、そして、当時は「また言ってるよ」と馬鹿にしていた父の洞察がどれほど確かだったかを今更ながらふりかえるだけだ。

今はまだ、「ノー・リターン・ポイント」までは達していないと思いたいが、どうだろうか。
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by abraxasm | 2016-03-17 16:33 | 書評
e0110713_18304979.jpg洒落た本だ。各章のタイトルが色刷りで、文中に登場している音楽のLPやドーナツ盤のジャケット写真がフルカラーで紹介されている。表紙は濃いピンクの地に、モノクロームでタイトルにある、コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイが俯瞰の視点で描かれている。コーヒー・カップは白で、ソーサーと中のコーヒーは黒だ。ドーナツ盤は当然黒で、ピンク地のラベルには演奏者の名前の代わりに、太いゴチック体で、YOSHIO KATAOKA、とある。もちろんニットタイは黒に決まっている。サブタイトルのように入れた1960-1973だけはイエローで、見返しの色とあわせている。裏表紙に続くタイの横にあしらわれているのは、ドーナツ盤に開いた穴とターン・テーブルの回転軸の隙間を埋めるプラスティック製のアダプターだ。と、ここまで書いて、はたして今の世代に分かってもらえるのだろうかと不安になった。

タイトル通り、いわば半世紀も昔の東京の街に流れていた音楽を手がかりに、大学を出た「僕」がフリーランスのライターとしてやってゆけるようになるまでを描いた小説である。短篇とも呼べないほど短い小説を掌編というが、その掌編ほどの長さを区切りとした44のストーリーが、時代順に並んでいる。1963年の「あのペンネームはどこから来たのか」で、語られているその名前が、日本人としてはめずらしい「テディ」というペンネームであることから、自伝的小説と呼んでもいいだろう。ファンなら、そのペンネームの由来にある種の感銘を覚えるにちがいない。

あとがきにもあるが、片岡は1960年から1973年までフリーランスのライターを続け、その翌年から小説家となった。喫茶店がフリーランスのライターとしての仕事場であり、そこにはいつも音楽が流れていた。それがタイトルの意味だ。フリーランスとはいえ、仕事上の打ち合わせを行なう以上、タイくらいは締めねばならなかったのだろう。ニットの緩さが黒で少しフォーマルにされている。アイビー・ルック全盛時代、黒のニットタイはマスト・アイテムだった。

話自体は、営業職についた「僕」が、三ヶ月で退職届けを出し、フリーランスのライターとしていろんな雑誌を掛け持ちするまでになる日々を、いかにも片岡義男らしいクールなタッチで淡々とつづったものだ。「僕」は作家が創り上げた人物としてそこにいる。3Bの鉛筆に金属キャップをはめたのをシャツの胸ポケットに入れ、コクヨの二百字詰め原稿用紙をLIFEに挟んで輪ゴムで止めたのを手に、喫茶店を三軒、多いときは四件はしごしながら、冷めたコーヒーを相手に原稿を書き、編集者と打ち合わせをする。

書き終えた後は、ピンク電話で雑誌社に電話をかけ、編集者が取りに来るのを待つ。会社のある神保町辺りの喫茶店にするのは、締め切り間際まで時間が使えるからだ。原稿を渡した後は、編集者に誘われて軽くブレンデッド・ウィスキーを一杯つき合う。音楽はどこでも流れている。喫茶店でもバーでも、飲み屋でも。カウンターの中から、開いた店の扉越しに、厚い壁を通して。片岡義男だから、ジャズやポップス、ハワイアンは予想ができたが、意外なことに歌謡曲が多いのには驚いた。

もちろん美女も登場する。どの女性も媚というものを知らず、みごとなほど男性と対等に会話する。無駄な言葉がなく、必要なことを適切な分量で話す。いつものことながら、こんな会話がこの国のどこで交わされているだろうか、と思ってしまうほどに。それは男同士でもかわらない。必要にして十分な会話が、ドーナツ版のレコード何枚かがかかっている間続く。クールかつドライ。どこまでも乾ききった片岡義男ワールドがそこにある。

3Bだから鉛筆の芯はすぐ丸くなる。ポケット・ナイフで削るのだが、削り屑をそのまま床に落として、ウェイトレスに叱責される。その後、店の外で削るようになるのだが、この物書きを目指す青年が喫茶店で鉛筆を削るシーンは、あのヘミングウェイの『移動祝祭日』にも出てくる。片岡が意識したかどうかは分からないが、心に残る。

1966年はビートルズが来日した年だ。「ビートルズ来日記者会見の日、僕は神保町で原稿を書いていた」は、記者会見に行くはずだった僕がその日が締め切りの原稿を書き忘れていて、記者会見をキャンセルする顛末を書いたストーリー。四人のジョークが分からず、真面目くさって額面どおりに受け止める日本人記者と、笑って聞いている外国人記者との差を電話で伝える『平凡パンチ』の友人編集者の言葉。「言うべきことを自分の言葉できちんと言っている四人の闊達さを、現場で直接に受け止めたのは、幸せだった」。あれから、半世紀たった。日本人記者は、言うべきことを自分の言葉できちんと言えるようになっただろうか。
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by abraxasm | 2016-03-15 18:31 | 書評
e0110713_1465460.jpgつい先ごろ亡くなったウンベルト・エーコの最新長篇小説。その素材となっているのは、反ユダヤ主義のために書かれた偽書として悪名の高い『シオン賢者の議定書』である。その成立過程が明らかにされてからもユダヤ陰謀説を裏付けるものとして、反ユダヤ主義を広めたい者たちによって何度も利用されている史上最悪の偽書だが、そんなものがどうして世に出ることになったのか。そしてまた、イエズス会、フリーメイソン、ユダヤ人、と時代や場所によって誹謗する対象を変えながらも、何度も息を吹き返しては現れる、この偽書が民衆に対して持つ意味とは。

記号学の大家としても知られるエーコ先生だが、こ難しい理論を開陳しようというのではない。たしかに、偽書の成り立ちについてくわしく語ってくれてはいるが、そこはあのドストエフスキーにも影響を与えたといわれるウージェーヌ・シューばりの大衆小説的技法によって、モデル的読者ではない初歩的読者でも飽かずに読ませる工夫がなされている。しかも、読み様によっては、ウンベルト・エーコの小説理論をそのまま具体化した見本としても読めるように書かれているから楽しみだ。

というのも、この本のストーリーの母体となった『シオン賢者の議定書』の成立過程を論じたものが、『小説の森の散策』(岩波文庫)の第6章「虚構の議定書(プロトコル)」にほぼそっくりそのまま載っている。もともとハーバード大学ノートン詩学講義(1992-93)として行なわれた講義を文章に起こしたもので、小説『前日島』を執筆していた当時のエーコの頭の中には、すでに『プラハの墓地』のストーリー(物語)が、あらかた完成していたといえる。

あとは、カピタン・シモニーニという主人公の人物像をふくらませ、縦横無尽に活躍できるよう、『シオン賢者の議定書』成立に関与する人物たちを、いつどこでシモニーニに出会わせるか、という鉄道のダイヤグラムにも似た精密な図式を仕上げればいい。ご丁寧なことに、そのプロット(筋)とストーリーを表に現したものが巻末に付されている。博覧強記を誇るエーコらしい、と思われるかもしれないが、そうではない。

エーコは、前述の『小説の森散策』の第1章「森に分け入る」の中で、ただただ、ストーリーを追っかけて、次に何が起こるか、最後はどうなるのかと読み続ける一般読者(経験的観客)と、遊びのルールを心得た上で遊びの同伴者になれるモデル読者を区別している。一般読者として物語を楽しむことはいっこうに構わない。ただ、エーコ自身は物語テクストの経験的作者としての存在には意味を感じていない、という。つまり、この扇情的な通俗小説を模した『プラハの墓地』というテクストもまた、モデル読者を想定して書かれているというわけだ。

パリの場末のいかがわしい界隈にある部屋の克明な情景描写に始まるこの小説は、いうまでもなくシューの『パリの秘密』や『さまよえるユダヤ人』などの連載小説(フィユトン)を意識したものだが、テクストはそう簡単なものではない。まずは主人公シモニーニの手記がある。それに、謎の人物でありながら、主人公の部屋に出入りするダッラ・ピッコラという名の神父が書き残すメモがある。さらに、それらの手記を人物の肩越しに覗き込み、読者に分かりやすく語りなおす<語り手>の存在がある。三種のテクストはフォントの異なる活字で明確に区別されている。経験的読者はそんなこと、はなから無視して読める。モデル読者は、三者の視点から読み分け、その異同の趣向を味わうことができる。

実際は複数の人物による度重なる捏造、複製、引用加筆の果てに成立した偽書を、シモニーニという典型的な文書偽造者に託したことにより、主人公はシチリアでガリバルディのイタリア統一運動に参加してみたり、パリでドレフュス事件に関与したり、と自在にいろんな場所、いろんな時代を往き来することになる。それらを無理なくこなすために、語り手はフラッシュバックやフラッシュフォワードという語りのテクニックを駆使する。また同様に、到底一人ではこなせないだろう仕事を可能にするため、「分身」のモチーフを採用して主人公に第二の人格を与えるという奇手まで使ってみせる。

小説家エーコの卓越した技量によって描かれる、社会の裏で暗躍する謀略、諜報合戦。それに従事する各国情報機関、あるいはイエズス会やフリーメイソンのような秘密結社、黒ミサの儀式を執り行う破戒僧、死体を隠した地下水路、といかにも大衆小説向けのキッチュな要素が入り乱れ、絡み合って物語は進行してゆく。その隙間を埋めるように点綴されるのが、デュマやバルザックからプルーストに至る同時代の錚々たる作家、芸術家の噂話。それと、文書偽造の手腕を認められてスパイ活動に携わる以外、これといって何をするでもない主人公の唯一の道楽である美食についての情報。『バベットの晩餐会』にも出てくる19世紀パリを代表するレストラン、カフェ・アングレの献立をはじめとするフランス料理の列挙、と楽しみどころはいろいろ用意されている。

経験的読者として読んでも期待は裏切られないが、モデル読者として読むのなら、先にあげた『小説の森散策』などの文学評論を手元において読まれると作家の手の内を読むことができ、よりいっそう愉しみが増すにちがいない。こういう作品に効用を求めるのも無粋だが、読んでいてはたと膝を打ったところがいくつもあった。その一部を引いておきたい。

「人々はすでに知っていることだけを信じる。これこそが<陰謀の普遍的形式>の素晴らしい点なのだ」

「おわかりでしょう。普通選挙によって独裁体制が実現できる! あの悪党は無知な民衆に訴えかけて強権的クーデターを成し遂げた! 」

「愛国主義者は卑怯者の最後の隠れ家だと誰かが言いました。道義心のない人ほどたいてい旗印を身にまとい、混血児はきまって自分の血統は純粋だと主張します。貧しい人々に残された最後のよりどころが国民意識なのです。そして国民のひとりであるという意識は、憎しみの上に、つまり自分と同じでない人間に対する憎しみの上に成り立ちます。」

19世紀フランスの話だというのに、昨今の世情を見るにつけ、何かと引き比べて考えてしまう文章がやたら目につく。最後に、「虚構の議定書」の中から次の文章を引用して結びとしたい。「こうして読者と物語、虚構と現実との複雑な関係を考察することは、怪物を産み出してしまうような理性の眠りに対する治療の一形式となるのです」。エーコ亡き後も、我々は決して理性を眠らせてはなるまい。
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by abraxasm | 2016-03-14 14:07 | 書評
e0110713_13371337.jpg解説では本書をビブリオ・ミステリとして紹介しているが、「ビブリオ」については問題はないが、これを「ミステリ」と呼ぶのはどうだろうか。もっとも、解説の中でも触れられているように、ビブリオ・ミステリには定義があるらしく、それによると、本に関する職業の人物が主人公、本に関する場所が主舞台、作中で特定の本が重要な役割を果たす、の三つのうち二つ以上を満たしておればいい、というのだから、その意味で本書はまちがいなくビブリオ・ミステリといえる。しかし、その定義について言えば、それ以前にミステリとしての要素を満たしている本であるという前提があってのことだろう。

たしかに殺人事件が起き、主人公が犯人と考えられる状況が作り出される。それを解決するために主人公が活躍し、犯人と対決する場面も用意されている。だが、殺人事件が起きるのは半分以上読みすすんだ後であり、殺される人物は、それまでほとんど顔も見せていない。何より、それまで不安障害で、人と接するのが苦手だった主人公が、事件発生後まるで人が代わったように、ヒーロー振りを発揮するのが、とってつけたようだ。

しかし、この本の読者はそんなことは問題にもしないだろう。ビブリオ・ミステリというレッテルをはがしさえすれば、何の問題もない。原題は" The Bookman’s Tale ” 。フェアリーテールの、あの「テール」なのだ。訳者もその原義を生かして『古書奇譚』という邦題にしたにちがいない。とはいえ、本書にミステリ本来の面白さがないわけではない。いや、本好きの読者ならまちがいなくはまるとびっきりの謎解きが用意されている。

シェイクスピア別人説というのがある。ストラトフォード・アポン・エイヴォンの役者シェイクスピアは手袋職人の息子で、地元のグラマー・スクールしか出ていない。それにしては、作品を読む限りギリシャの古典その他に詳しく、誰か他に作者がいたのではないか、ということから同時代の有名な人物であるフランシス・ベーコンや劇作家クリストファー・マーロウ、第17代オックスフォード伯などが実作者ではないかというものだ。シェイクスピアについては詳しいことが分かっておらず、はっきりしているのは死んだ年月日だけだという話まである。

そこで、登場してくるのがシェイクスピア本人手書きのマージナリア(本の余白に記された覚書)入りの二つ折り本。『冬物語』の種本といわれる、これも同時代の詩人・劇作家ロバート・グリーン作『パンドスト』である。ふとしたことから、この本の売買に関わることになった書籍商ピーター・バイアリーは、一週間という期限の下に真贋を決定しなければならない。その経過を追うのが、この小説の本筋だ。殺人事件はそれに付随する挿話に過ぎない。

けれども、本書の魅力はそこだけにあるのではない。主人公ピーターが、いかにして今の職業である書籍商を営むことになったのか、という彼の半生の物語がある。今は亡き妻アマンダとの出会いから結婚、そしてその死に至るまでの臆病者と堅物のカップルならではのラブ・ストーリーはそれだけで一篇の恋愛小説になる。個人的な感想で申し訳ないが、主人公の両親以外の人物がすべて善人で協力的であるのも含め、引っ込み思案の青年が資産家で大学の創始者一家の一人娘と相思相愛になるというご都合主義的な展開は好みではない。まあ、その辺が「テール」である由縁か。

もっとも興味深いのは、現代から遠く離れた時代を舞台とする、『パンドスト』という本が持つ運命の物語だ。多くの資料を読み込み、本の成立事情を組み立てた後、一冊の本がどういう経路で、著者から他人の手に移り、また別の人の手に渡ってゆくのかを追った歴史小説的なサイド・ストーリーこそ『古書奇譚』という表題に相応しい部分ではないだろうか。しかも、主人公の現在、過去の回想、という二つのストーリーを綯い合わせるのが、この『パンドスト』という流転する本を主題とする三つ目の物語。そこにはまた別の恋愛譚があり、それこそフェアリーテールめいた不思議なめぐり合わせを生むもととなる。この時空の異なる三つの話が代わる代わる語られる構造こそ作者が最も心を砕いたところだろう。肝心要の贋作者の資質等々、所々安直と思われる部分があるにもかかわらず本書が多くの読者に支持されるのは偏にその語りの手法にある。

本を扱った小説に目がなくて、解説でも取り上げているエーコの『薔薇の名前』、カルロス・ルイス・サフォンの『風の影』に始まるバルセロナ四部作、ジョン・ダニングの『死の蔵書』に始まる古本探偵クリフ・ジェーンウェイ物と、手当たり次第に読んできたが、本書は、あまりミステリらしさにこだわらない点で『風の影』のテイストに近いといえるかもしれない。主人公と一緒に殺人事件に巻き込まれたリズ・サトクリフが亡き妻に代わる伴侶にでもなれば、シリーズ化も可能だろう。

ここからは、本の内容と直接関係がないのだが、ここのところ読んできた『道化と王』、『地図と領土』、それに本書、とおよそ領域の異なる小説が、ロンドン大火、ウィリアム・モリス、ラファエル前派等で繋がっていることに、シンクロニシティを感じた。過去を振り返ってみてもこういうことは時々起こる。本書の主人公が窮地に陥ると、死んだはずの妻アマンダがピーターの前に現れ、何かと指示を与えて夫を助けるところに、ミステリにそぐわぬ神頼みに似た精神を発見し苦笑を禁じえなかったが、偶然手にした三冊の本の間に共時性を発見して面白がっている自分も、それを笑える立場ではないことに思い至った。
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by abraxasm | 2016-03-08 13:37 | 書評
e0110713_2164868.jpg『素粒子』を引っさげて颯爽と登場してきたとき、評判につられて読んでみたが、セックスを前面に出した作風になじめないものを感じ、本作が邦訳されたのは知ってはいたが読まずにすませた。ところが、先ごろの『服従』の評判を聞きつけ手にとってみると、その小説作法は円熟味を見せ、セックスに関する関心は相変わらずながら、それを扱う手際が鮮やかで、小説を被うコミカルなタッチと相俟って、艶笑譚風な趣きすら感じさせる仕上がりになっていた。これはと思い、未読であった本作を今頃手にしたという次第。

読後、人類や人類がつくりあげた工業製品で溢れた世界が、時が過ぎゆくままに錆びつき、ほろほろと崩壊していったあとに、丈高い草や潅木が繁るにまかせた草原や森がどこまでもうねうねと続いてゆく光景が眼に浮かんだ。社会や芸術、人間存在のあり方について言いたいことは有り余るほどあり、それについては熱い思いもあるのだが、自分が生き、そしてやがて死ぬことが決まっている、すぐそこにある未来に向け、透徹した眼差しをもつ者だけが抱く、空虚な明るさに満ちた虚無感が全篇に漂う小説である。

作品を発表することで、スキャンダラスな話題を提供することが好きなミシェル・ウエルベックのことだ。主要な登場人物のひとりに、ほぼ等身大で自身に重なる作家を実名で登場させ、持論を展開させたり、まるでそこだけがピエール・ルメートルの手になるフレンチ・ミステリになってしまったかのようなサイコ・パスによる残虐な殺人事件をストーリーの中に突然嵌め込んでみせたり、鬼面人を驚かすような仕掛けは相変わらずだ。

ただ、小説中に自分を登場させ、とんでもない目にあわせるのも、フランスの政界やテレビ業界の有名人を実名で登場させたり、カメラや携帯電話、自動車の企業名や機種を羅列したりしてみせるのも読者の関心を引く手でもあるだろうけれど、ウケねらいというだけではない。深さの程度に差こそあれ、小説の主題に関わっているのだ。

主人公ジェドは、写真や絵画、映像作品を通して自分の伝えたいことを表現するアーチスト。そのジェドを視点とする限り、話題は必然的に芸術をめぐるものとならざるを得ない。過去から現在に至るビジネスとアートの関係。年老いた父をめぐる現代人の死生観の問題。観光ビジネスがフランスの地方文化に及ぼす影響等々が、ウエルベック本人や主人公さらにはその父の口を借りて言及される。

全体を通して読み終わった時、そこに残るのは孤独で静謐な人生を生きたひとりの芸術家の一生を描いた芸術家小説を読んだという印象である。ジェドは、互いに物を作り出す立場にある者としてウエルベックに心を通わせてゆく。特に、ウィリアム・モリスを例に力説されるのは、ルネサンス以降の芸術家のあり方に対する批判だ。ボッティチェリやレオナルドは工房に大勢の職人を抱え、彼らは指示を与えるだけで、その仕事の大半は、君主や教皇への対応に追われていた。それは現代の企業の社長のようなものであって、芸術家としては退廃的だ、といった主張である。この意見表明には単に読んで面白いだけの小説ではなく、作品に作家自身の問題意識を鮮明に打ち出すことを恐れない作家としての思いがこめられているのだろう。

この小説の眼目は、ジェドというアーチストを通して架空のアート作品を創り出すところにあるといっても過言ではない。器械、工具等をフラットに撮影した写真から活動をはじめたジェドは、初の個展にミシュラン製の道路地図を写真撮影した作品群を選ぶ。ぼんやりとした航空写真と比べ、道路や目的地が鮮明に写し出されたそれらの作品はプレスの活躍もあって注目され注文が殺到する。次にジェドが手がけたのは、近くに店を開く職人の肖像を描くことだった。カメラを絵筆に持ち替えたそれらのシリーズはビル・ゲイツとジョブズがチェスをしている場面を描いた作品にまでたどり着く。職人の手仕事を描くところから始まったシリーズが、ガレージで手作業をしていた男が大金持ちの実業家になったところで終了するのが象徴的である。それらを集めた個展を開くに際し、カタログの執筆者としてジェドが選んだのがウエルベックだった。ウエルベックによるジェドの作品解説は、架空の作品についての架空の解説ということになる。個人的にはここが最も興味深かった。

しかし、小説家としてのウエルベックの成熟は、実はそれ以外のところにある。オルガというロシア系女性との報われることのなかった恋愛を描いた部分のしみじみとした味わいはこの作家にはめずらしいほどの抒情性に満ちて切々と読む者の胸にしみる。小さい頃に母に自殺され、仕事で忙しい父の手で育てられたジェドは、人との関わりを求めない。いわゆるデタッチメント。美しいオルガを悔いなく去らすジェドに共感できる人なら他の小説では得られない手応えを感じるにちがいない。

ジェドはウエルベックの人生をまねるように小さい頃の思い出が残る祖父母の家を買い取り、晩年をそこで孤独に過ごす。作品が売れ莫大な資産を手に入れはしたが、父に死なれ、オルガとはよりを戻せない。ジェドは広大な敷地を電流入りの金属フェンスで囲い、死ぬまでそこで撮影をし続ける。残された作品には、隠棲した老アーチストの目に見える世界が映し出されていた。架空のモンタージュ映像のはずが、作家の筆により、まざまざと眼に浮かぶのが小説というものの力だろう。実は小説の終わるのはここでも近未来。預言者的とでもいうのか、今のままで行けば自分たちの社会がどう変わるのか、というところから目を離せないのがミシェル・ウエルベックという作家なのかもしれない。
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by abraxasm | 2016-03-05 21:07 | 書評
e0110713_15351378.jpgクロムウェルの死によって清教徒革命が潰え、1660年にはチャールズ二世による王政復古が始まる。ピューリタンの清貧と禁欲に倦んだ宮廷の人々は、豪奢な衣装や宝飾品を身に纏い、頭には鬘、その上に髪粉をふりかけ、男も薄化粧してハイヒールを履き、着飾った紳士淑女は、山海の珍味が並ぶ晩餐会や舞踏会の饗宴を思うさま享受した。その一方で、首都ロンドンでは、有名な「ロンドン大火」が起き、黒死病が大流行するなど、1660年代は英国史上忘れることのできない事件が相継いで起きた時代でもある。

豪華絢爛の王宮生活と業火と黒死病に挟み撃ちにされたロンドンという劇的な時代を背景に、ふとしたことから王の寵愛を受けた手袋職人の息子が、出世コースを上りつめた挙句、幸福の絶頂で王を裏切る破目に陥り、凋落の憂き目を見るという、ジェットコースター並みの人生の有為転変を描いた歴史小説。生と死、快楽と苦痛、頽落と清貧、学知と狂気、といった対比的な設定をあざといくらい多用し、コントラストの効いた派手派手しい描き方は、たしかに豪華な衣装や大々的な舞台装置を駆使した映画向きかもしれない。

主人公メリヴェルと王の愛人シリアの結婚披露宴のために用意された料理の献立を列記すれば、鶏肉のクリーム煮、蒸した鱸、茹でた鮭、鴫、孔雀、小鴨、真鴨、鶉のロースト、ミートパイ、カルボナード、骨髄のタルト、牛タン、鹿肉のパイ、ホロホロチョウの窯焼き、生野菜の盛り合わせ、クリーム、マルメロ、ドライフルーツ入り砂糖菓子、マジパン、ジャム、チーズ、果物、フランス産の発泡ワインに、重めの赤ワイン、ミルク酒等々。訳文は魚や鳥の名前が片仮名表記というのが惜しいが、映像では確認できない食卓の奢侈さが文章化されると、じっくり堪能できる。

料理だけではない。メリヴェルに与えられたビッドノルドの館の家具、調度は言うに及ばず、陛下から下賜された愛馬から本人の衣装に至るまで、この時代の持つ意匠が隅々まで書き込まれる。下手の横好きながら、絵画や音楽の練習に精を出すメリヴェルの絵の描き方、色彩の好み、音楽の好み、オーボエの運指、と普通ならさらっと流してしまいがちな細部がなおざりにされることなく、事細かに描き込んであるところがいい。これは偏にメリヴェルが現実世界の多様さを愛で、貪婪にそれを愉しもうとすることを示すものだ。メリヴェルは快楽主義者なのだ。

快楽のためなら、自分を笑い者にすることも厭わず、身分の上下に関係なく女とみれば褥を共にするため馬を走らせる。それ故、誰からも愛される人気者である。ただ一人名目上の妻シリアを別とすれば、だが。メリヴェルの弱みは、王に寄せる愛と女好きというところ。医師としての学識はケンブリッジとパドヴァ仕込みで、実際のところ、親友ピアスが勤める精神病院でも、黒死病に襲われたロンドン都下にあっても、メリヴェルの活躍は光る。ただ、どこへ行っても土壇場で肉欲を抑制することができないのがこの愛すべき男の弱点である。

王の道化としての役割から墜落し、人里離れた病院でやっと本来の医師としての存在に目覚めたかと喜んだのも束の間、医者としてあるまじき行為に走ってしまう、メリヴェルの駄目さ加減は半端ではない。とことん駄目な人間である。それなのに、愛想尽かすことができないのは使用人のウィル・ゲイツだけではない。読者である自分も同じなのだ。調子に乗っては反省する。反省はするが長続きせず、また元の木阿弥。こういう人間こそが友とするに価する人間なのであって、クエーカー教徒で志操堅固なピアスのような男は、立派だと思って尊敬はしても、いつも傍にいてほしいとは思えない。

この典型的な駄目男が起死回生の働きを見せるのがロンドン大火の日。愛馬ダンスーズを駆って、乳母に預けたままの自分の娘の救出に向かう途中、耳が聞こえないせいで逃げ遅れた老女を助けるため火の中を掻い潜る。実はメリヴェル。両親を火事で亡くしている。冒頭に付されたこの事実が、あとで活かされることになる。ところどころに張られた伏線が功を奏し、実に愉快な結末に結びつく。このあたりの展開は見事といっていいだろう。ほぼ原作に忠実に映像化された映画『恋の闇 愛の光』が、終末部分を改変している理由がよく分からない。

原題は“RESTORATION”。回復、復帰のような、元に戻る状態を意味する英単語だが、定冠詞がつくとイングランドの王政復古を意味する。もちろん、その時代を舞台にしていて、王自身準主役級の扱いで登場するので、文字通り「王政復古」ととってもよいが、主人公の転落とその回復を意味するダブルミーニングと受け止めたい。その意味からいうと邦題は、もう一工夫欲しいところ。もっとも、この小説を原作とする映画の邦題『恋の闇 愛の光』と比べると、まだいい方かもしれない。映画のほうを先に見ていたが、ロバート・ダウニー・ジュニアとメグ・ライアンのコンビは覚えていたが、細部は忘れていた。アカデミー賞の美術賞、衣装デザイン賞を受賞しているそうだ。読んだ後で見比べてみるのも楽しいだろう。
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by abraxasm | 2016-03-03 15:35 | 書評
e0110713_10413612.jpgシンプルなタイトルが示しているとおり、英国小説ならではの評伝を踏まえたもの。丸谷才一氏に寄れば、何故か英国人という人種は、伝記の類を読むことを好むらしい。アーサーとジョージという二人の人物の少年時代からアーサーの死までを伝記風に追ったものである。交互に登場する二人の人物のうち、アーサーの方は、こう紹介されるのは本意ではないことはあくまでも承知の上で書くのだが、あの『シャーロック・ホームズ』シリーズの作者であるサー・アーサー・コナン・ドイル。ジョージの方は、この事件以外では無名の司祭館育ちの実直な事務弁護士ジョージ・エイダルジ。本来なら出会うこともなかったであろう二人の人生が、ある事件をきっかけに交差する。

その事件とは。一九〇六年ジョージの暮らす司祭館近くで、馬が腹を切られて死ぬという事件が立て続けに起き、その犯人としてジョージが逮捕される。無論、語り手はジョージの行動について、ジョージの側の視点で語っているわけで、ジョージは真犯人ではありえない。しかも、それ以前から司祭館の周りでは、不審者がうろつき、壁の落書きや脅迫の手紙などの嫌がらせが相継いでいた。ジョージの父である司祭は警察に被害を届けるが相手にされず、馬やポニーの腹が切られる事件が起きると警察はジョージを逮捕し拘留する。

無罪の訴えも空しく、裁判の結果七年間の懲役刑が与えられ、ジョージは服役することに。理不尽な裁判に対し、支援者が声を上げたこともあって、ジョージは三年目に放免されるが有罪は変わらず、事務弁護士の資格は奪われたまま。冤罪の汚名をそそぎ、三年間の懲役に対し補償を求め、ジョージは雑誌に記事を載せる。当時、私立探偵シャーロック・ホームズの活躍を知る多くの読者が、難事件の解決に作者コナン・ドイルの登場を願う手紙を書いた。アーサーは、そのほとんどに秘書を通じて断りの手紙を書かせていたが、病気の妻を持つ身でありながら、ジーンという恋人が出来たことで悩み、意気消沈していたアーサーは、たまたま目にした事件の内容に憤慨し、自らが乗り出すことを決める。二人の運命が交差する機縁であった。

交通手段が馬車から自動車に変わろうかという時代を背景に、シャーロック・ホームズの作者コナン・ドイル本人が、秘書で助手を勤めるウッドをワトソン役に、探偵役を務めるという魅力的な設定がある。自身が医者として勉強中、ジョゼフ・ベル医師の患者を見る観察眼の鋭さに驚かされ、眼科医となってからもそれを実地に応用したことが名探偵シャーロック・ホームズの登場シーンに活かされたというエピソードを地でいく鋭い推理による真犯人探しは、凡百のミステリの顔色なからしめる出来映え。

さらには、無実の青年が悪意によるのか無知のせいか、明らかな証拠が無視され、被告側に不利な証言、証拠が列挙され、次第に追い詰められてゆく法廷劇の出来がまた秀逸である。自身が弁護士であり、鉄道に関する法律のガイド本の著者でもあるジョージは官憲や裁判所、つまり法の下の正義を信じている。自分を弁護してくれる弁護士二人は有能で熱心でもある。しかし、裁判自体は思うように展開しない。冷静で落ち着いた被告の答弁は、陪審員にはかえって被告の有罪を裏付けるものとしてとられるなど、すべてが裏目に出る。有能な弁護士が客観的に自身を被告とする裁判の過程を凝視する。事態がどんどんよくない方向に進んでいくのをあくまでも冷静に凝視するジョージという人物の創出が凄い。

アルコール中毒で病院に送られてしまう父を見て育ち、自分が母を守ることを幼い頃から心に決めたアーサーは、騎士道物語を語って聞かせる母を愛する少年として育つ。長じて、学生仲間に自分が作った話を語り聞かせる人気者となり、クリケットやゴルフ、スキー、ボクシングとスポーツ万能の大男となっても、騎士道物語そのままに母や姉妹を守り、妻を大事にする家長となる。思いつきで書いてみた探偵小説が思わぬ人気を呼び、本来書くべきであった歴史小説より評価されるのは面白くないが、屋敷を建て、庭にモノレールまで敷設できるのだから文句はない。行動的でエネルギッシュなアイルランドとスコットランドの血を引き、母方の祖先はプランタジネット朝まで遡れる名門出身のアーサーは、自伝をもとにして描かれているのだろう、自分本位なマザコン男だが、どこか憎めない。ワトソン役のウッド、二度目の妻ジーンもいい味を出している。

イングランド国教会の司祭を父に持つジョージは、自分では典型的なイングランド人だと思って育つ。しかし、事件が起きるようになると、父はパールシーの話を持ち出し、ジョージを諭す。パールシーとはペルシャ系のゾロアスター教徒のことであり、ジョージの父はボンベイ出身のパールシーであったが、スコットランド系の母と結婚し、自身もイングランド国教会の司祭となってこの地に赴任した経緯を持つ。肌の色のちがうこともあって、少年時代ジョージはいじめにも会っている。しかし、ジョージ自身はそれが人種による差別だとは微塵も気づかない。杓子定規に法の下の平等を信じている。賢い父と優しい母、しっかりした妹という家族に守られ、道徳的な若者に育ったのだ。

三つ子の魂百まで、とはよく言ったもので、人は大きくなっても子ども時代の人格を保ち続ける。アーサーとジョージもその例に漏れない。アーサーの尽力により、真犯人らしい人物が割り出されるが、ジョージはそのやり方に、自身を犯人扱いした警察と同じ、思い込みにはじまる推論と不法な証拠集めを認めてしまう。直情径行で思ったら行動してしまうアーサーと自身に有利であっても法的に問題があれば認めようとしない、頑ななジョージ。この対照的な二人の人物像がこの小説を面白くさせている。

ジュリアン・バーンズにしては、ずいぶん正攻法の小説に思われるが、時代小説として当時の出来事を絡めたり、アーサーの友人、知人にキプリングやオスカー・ワイルド、ウェルズなどの文士連中が顔を出し、楽屋落ちのような打ち明け話を聞かせるあたりにバーンズらしい工夫があり、愉しませてくれる。二段組で約五百ページという分量だが、少年時代を記す淡々とした文が、二人が成長し、アーサーは恋愛に夢中になり、ジョージは事件に翻弄され出すあたりから俄然筆が熱を帯び、二人が出会い、事件の解明が始まると手に汗握る面白さとなる。しかし、最後には静かな余韻を残し、小説は終わる。このリズムがなんとも心地よい。

前作『終りの感覚』で打ちのめされて以来、ジュリアン・バーンズの次回作を楽しみに待ち続けていた。読後の印象は前作と比べようもないが、期待は裏切られなかった。オスカー・ワイルドが披露した小咄で、悪魔がなかなか誘惑に屈しない賢者に、友達が出世した話を耳打ちすると、賢者の顔が嫉妬で醜く歪んだ、というのが身にしみた。不意打ちのように襲い掛かってくる、この種の洞察にあらためてジュリアン・バーンズらしさを感じた。次の邦訳が待ち遠しい作家である。
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by abraxasm | 2016-03-01 10:41 | 書評

覚え書き


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