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e0110713_1919307.jpgノーベル賞受賞後に初めて書かれた小説だという。なんとなくのほほんとした気分が漂うのは、そのせいか。かつてのバルガス=リョサらしい緊張感が影をひそめ、よくできた小説世界のなかにおさまっている。同時進行する、場所も人物も異なる二つの物語が、章が替わるたびに交互に語られ、最後に一つの話に収斂するのは『楽園への道』で使った手法。複数の会話の同時進行や、一つの会話に別の会話を挿入するといった『ラ・カテドラルでの対話』に見られた技法。過去の作品で読者になじみのある人物の再登場など、読者サービスなのか、単なる遣いまわしなのか、いずれにせよ既視感が強い。

奇数章の主人公はペルー北西部にあるピウラで運送会社を営むフェリシト・ヤナケ。彼のところに、リスクを負いたくなければ月々五百ドル支払うようにという、署名代わりに蜘蛛の絵が書かれた脅迫状が舞い込む。フェリシトは「男はこの世で、誰にも踏みつけにされてはならない」という父親の言いつけを守り、脅しに屈することなく警察に届けるが、警察は本気にしない。そのうち、二通目、三通目が届き、ついにはフェリシトの愛人が誘拐される事件が起きる。

事件の捜査を担当するのが、『緑の家』以来リョサの作品に何度も顔を出す、ピウラ出身の警官リトゥーマ軍曹と、『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』でもコンビを組んだ上司のシルバ大尉(以前は警部補だったが太った女に目がないところからみて同一人物と思われる)。このシルバ大尉、見かけによらず名探偵なのだが、それ以上に大事なのは、脅迫、誘拐事件という陰湿、険悪な物語に笑いの要素を与えるコメディ・リリーフ的な役割の方で、この人が出てくるとニンマリさせられる。

偶数章の主人公は保険会社のオーナー、イスマエル・カレーラ。年の離れたメイドのアルミダとの結婚式を挙げたばかりだ。イスマエルには双子の息子がいるが、これが揃いも揃ってろくでなし。父親の死で遺産が入るのを待っていたところを鳶に油揚げさらわれた格好で、父の結婚を無効にしようと裁判騒ぎを起こす。イスマエルの結婚の証人を務めた長年の友人で部下のリゴベルトは裁判に巻き込まれ、それが解決するまで退職金もおりず、念願のヨーロッパ旅行にも出かけられない始末。

このリゴベルト、『継母礼賛』、『ドン・リゴベルトの手帖』の主人公で、音楽・絵画・文学をこよなく愛する審美的人物。美貌の妻ルクレシアと、先妻の子フォンチートを溺愛している。友人の結婚が引き起こした騒動に加え、近頃息子のことで悩んでいた。自分と同年輩の男がフォンチートの行く先々に現れては話しかけてくるのだが、問題はこの男、フォンチートにしか見えず、他人には見えないという点だ。リゴベルトは、精神科医や友人の神父に息子と話をしてもらうが、どちらも何ら異常は見受けられないと保証する。

すべての騒動に共通するのは、家族、就中、父と子の問題であるということだ。男たちは社会的な成功者で人格者でもある。しかし、一夜の過ちで妊娠させた相手と結婚せざるを得なかったフェリシトは、妻と自分にちっとも似ていない金髪碧眼の長男を愛することができず、仕事一途に生きてきた。今は週に一度愛人と過ごすことを楽しみにしている。愛する妻を亡くしたイスマエルは、心臓発作で入院中、病室で話す息子たちの会話から、二人の子が父の死を望んでいることを聞いてしまう。その腹いせが病後の世話をしてくれたメイドとの結婚だった。

美しい妻と天使のような息子に恵まれ、誰もが羨むようなリゴベルトもまた、子どもから男になりつつあるフォンチートとの関係に頭を痛めていた。息子の前に現れるエディルベルト・トーレスというペルー人は、幼児性愛者なのか、それとも息子の見ている幻想なのか、悩みぬいたリゴベルトは、トーマス・マンの『ファウスト博士』を思い出し、息子の相手はもしかしたら悪魔なのではと、不可知論者らしからぬ考えまで抱く始末だ。

人物は既存の作品から借りてきながら、それらとは全く異なる作品世界の中で動き回らせることで、ひと味もふた味もちがうストーリーを作り出して見せるその手際にひとまずは拍手を送りたい。「反抗と暴力とメロドラマとセックスが小説の重要な要素である」という作家自身の言葉を引き合いに出すなら、たしかにどの要素も用意されてはいる。ただ、言わせてもらえれば、かつての作品に見られたような強度が「反抗、暴力、セックス」という要素において弱まり、残るメロドラマの要素ばかりが突出した作品のように見える。

こういう作品は駄目だというのではない。これはこれで上出来の小説である。ただ、一愛読者としては、次の機会にはマリオ・バルガス=リョサでなくては書けない、半端でない強度を持った、手応えのあるリアリズム小説を読ませて欲しい、と強く願うのみである。

個人的な感想になるが、パパはどうして資質として相応しい芸術家ではなく、芸術愛好家になったの、と質問されたリゴベルトが、「臆病だったからだ」と答えるところが胸に迫った。ヨーロッパに憧れながら、リマを離れなかったのも、徒に人と交わるのを厭い、書斎に閉じこもって絵画や音楽に耽溺するのも、その一言が説明してくれる。小説は怖い。これほど愉快な小説を読んでいて、胸抉られる気にさせられる。
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by abraxasm | 2016-01-29 19:19 | 書評
e0110713_1448296.jpg『天国でまた会おう』のときにも、そう感じたのだけれど、ルメートルという作家は気質的に残酷な話が好きなのかな、と思ってしまう。何人かのレビューに、『その女アレックス』より先に、こちらを読むべき、とあったので、その言に従ったのだが、タイトルが気になった。原題どおり「丁寧な仕事」とした方が良かったのではないか。『その女アレックス』が売れたので、未訳の第一作を後から出すことになり、女性の名前つながりで行こうと考えたのか、アレックスを読んだ読者なら、この題名がいい、と思ったのか、おそらくそんなところだろうけれど、配慮に欠けるやり方だ。

ミステリもこれだけ書かれてくると、トリックや動機もたいてい出つくした観がある。後から参入する新人としては、それまでにないまったく新しい仕掛を考え出さなければとても読んではもらえない。それで、犯人の動機や叙述の仕方に新味を出そうと、頭をひねった結果、こういったケレン味の強い作品が生まれることになる。仕方のないことかもしれないが、ストレートに書いてもけっこう読ませる筆力を持っている作家なのに、どんでん返しや叙述トリックが売り物になるのは残念だ。それとも、読者はやはり新奇なアイデアに飛びつくものなのだろうか。

解説者も作品紹介に手を焼いているように、少しでも内容にふれるとネタバレを起こしそうになるので難しいのだが、殺害方法が残酷である点には理由があり、ミステリ好きならそこは許容するしかない。何故そんなにも手の込んだ仕事をしなければならなかったのか。あなたが海外ミステリのよき読者であったなら、分かるように書かれている。それほどの数を読んでない評者のような読者にはとても無理な話だが。

探偵役を務めるのはパリ警視庁の警部カミーユ・ヴェルーヴェン。身長145cmの小男ながらなかなかの切れ者で、犯罪捜査部班長として個性溢れるチームを率いる。妻イレーヌは妊娠中であり、フランスの男らしく、難事件の捜査中でも妻に対する心配りを忘れないでいたいのだが、今回の事件は残虐で時間がかかりそうだった。二人の若い娼婦が体をバラバラにされたあげく、壁に血文字で「わたしは戻った」と書かれていたのだ。映画撮影用という名目で借りた部屋の壁紙や家具は新調されており、金がかかっている。殺人目的でそんなところに金をかける必要があるだろうか。しかも、殺人事件は一件ではなかった。同じ犯人によるものと思われる事件が他にも見つかり、カミーユは対応に追われる。

小説は二部仕立てで、紙数の大半は第一部に割かれている。カミーユの身長に対するコンプレックスや大富豪の息子でルックスも知力も兼ね備えたルイ、浪費家と吝嗇家という好対照のマレヴァルとアルマンといった部下の紹介が、小気味よいテンポで語られ、事件解決まで一気に突き進んでゆく。残虐な事件を描く部分と人間関係の機微を描く部分がほどよいバランスを保ちながら綴られているので、事件の陰惨さに滅入り、後が読めないということはない。シリーズ化しようという思いが透けて見えるような、登場人物間の関係も、連続テレビドラマを見るような人物紹介の仕方で切れ味のよさを感じさせられる。

問題は、叙述の方法にある。クリスティの『アクロイド殺し』を面白いと思えるか、フェアじゃないと感じるかで評価が分かれるように(ちなみに本作の中では傑作と評価されている)、それまでは読者が疑うこともしなかった記述者という設定をどう受けとめるかだろう。確かに、意表をつかれたが、なるほど、と感心もした。こんな手があったか、という感じである。犯人探しをする上で、ヴァン・ダインやノックスが謳った古典的な原則からみても何の問題もないし、伏線も用意されている。さりながら、裏切られたという思いが付き纏うのはどうしようもない。

シリーズ物の第一作である。当然、次の作品はこの人物設定で書き続けてゆくことになると思われるのだが、そうなるといささか厄介な事情が介在することになる。そのあたりの問題は、読まずにおいた第四作『その女アレックス』が解消してくれるのだろうか。やはり、著述順に、第二作『死のドレスを花婿に』を先に読んだ方がいいのだろうか。いや、どれだけ読んでみても、このもやもやは解消しないだろう。発表当時、内容の残酷さが問題になったそうだが、それよりも作中人物の人物像を判断停止させてしまう叙述の方が余程罪が深いように思われるのだが。どうだろうか。
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by abraxasm | 2016-01-24 14:49 | 書評
e0110713_16362840.jpgSFの持つ面白さにもいろいろあるが、一つには時空間や次元を超えた世界や文明を持ち出すことによって、今ある世界や文明に対する批判が容易にできることがある。しかし、想像力にも限界があって、批評する側が当然視してしまっている文化のようなものは案外スルーされてしまうものだ。だから、太陽系を遠く離れた宇宙や何万年も先の未来を舞台にしてみても、そこに登場する人間や宇宙人は、我々とよく似た考えや行動をするし、世界の構造も今ある世界と極端に異なっていたりはしない。逆に、あまりにもかけ離れた世界を想定したとして、自分たちと似ても似つかぬ存在の引き起こすあれやこれやに興味を引かれることはないだろう。我々は、見慣れた世界の枠組みはそのままにしておき、一部が異なる設定の中に置かれて一喜一憂する人間の姿を面白がっているのだ。

だから、すべての人が仮面を着けて暮らし、他者とのコミュニケーションの手段として幾つもの楽器を奏する者たちが暮らす星を舞台とする「月の蛾」のような小説を読んでも、別に面食らったりしない。たとえ、装着する仮面がその日の気分によってちがったり、相手との関係性によって的確な楽器を選ぶことができないと、気まずいどころではなく、身に危険が及ぶことになる惑星シレーヌのようなところであっても。ジャック・ヴァンスは、ジャズミュージシャンになろうと思ったことがあるらしいから、楽器の持ち替えというアイデアの出所も分かる。世界中を旅し、様々な職業に手を染めた経歴から、自分とは異なる文化慣習を持つ人々とコミュニケーションをとる難しさとともに、その面白さも充分すぎるほど理解していたにちがいない。

典型的なアメリカ人にとっては、感情をあまり表面に出さず、相手との関係性のちがいによって言葉の使い方を常に変化させ、何よりも体面を非常に気にする文化を持った民族――たとえば日本人のような――と接するのは、ほとんど別の星の生物と話すようなものなのかもしれない。「月の蛾」を読んでそう思った。尊敬語に謙譲語、丁寧語、と同じ内容をいくつもの言い回しで異なる表現を使用する日本の「敬語」は、ある意味、相手によって別の楽器を使い分けているのかもしれない。顔に被る仮面も、自分が人からどのように思われ、どれくらいの物を身につければいいか、身分相応というか、相対的な価値観で選ぶ、この若干面倒臭い気遣いにも身に覚えがある。この短篇集を読んだ日本の読者の多くが「月の蛾」を激賞するのもそのせいではないだろうか。異なる文化が持っている差について敏感な作家である。

千六百年前、宇宙に戦争があり、拠点を破壊された船団の船長たちが惑星に非難してきた。新来者である人類は先住者である<先人>を森へと追いやり、長い時間をかけて大城砦を築き上げ、そこに宇宙船から取り外した火砲を据え、惑星を支配する。表題作「奇跡なす者たち」は、呪師を擁する二つの陣営の闘い、とその後に起こる<先人>との戦いを描いた作品。人類同士の戦いは、一種の憑依体験を使って、バーサーカー状態にされた兵士同士の戦闘によって決着がつけられる。この場合重要なのは、人間が感情や心理、精神を持った存在であることで、呪師はそれを使って戦わせる。ところが、<先人>が使用するのは蜂やダニといった虫や落とし穴のような罠である。偉大な呪師も虫相手には力を発揮できず、人類は苦戦する。それを救ったのが、見習い呪師のサム・サラザールだった。科学が退潮し、魔法が台頭している未来において、初歩的科学が息を吹き返すというひとひねりが効いている。

中篇「最後の城」も、舞台設定は表題作によく似ている。地球へ帰還した人類は他の星から連れてきた奴隷や農奴を駆使して巨大な城を築き、ようやく栄華を誇れるようになった。ところが、機械の扱いはじめ、生活手段のほとんどを頼っていた奴隷階級メックが反乱を起こしたことで、貴族的な階級である人類が追い詰められてゆく様子を描いている。日本の伝統社会の様式的主従関係をヒントにした社会制度である氏族の当主の性格や嗜好、能力等の特徴が的確に描き分けられ、会議の場における主張のちがいによって選択する進路に差ができる。迫りくる敵を前にして、城に残る者、城を去る者、それぞれの運命が分かれる。中篇らしく人物像を丁寧に描いているので、主要な人物に陰影が生まれ、読んでいて心躍るものがあった。『三国志』を読んでいるような感じといったら分かってもらえるかもしれない。

表題作も、この中篇もそうだが、戦いは壮絶でありながら、憎悪や怨念というネガティブな感情が感じられない。ぶつぶつ言いながらも主人公を乗せて飛ぶ巨鳥もそうだが、どこかのどかなヒューモアが感じられる。戦いの終わり方も同じで、敵を殲滅して終わるという破壊的、終末論的な決着の仕方を選ばない。話し合いによる和解の道を探るという方法論を大切にする作家の考え方に強い共感を覚えた。古い物では50年代の作品も含まれているが、全然といっていいほど古びていない。むしろ、この殺伐とした時代にこそ読みたくなる先見性すら感じられる。コアなSFファンでなくとも充分楽しめる、読みどころの多い魅惑的な短篇集である。
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by abraxasm | 2016-01-22 16:36 | 書評
e0110713_1339679.jpg前書きにもあるように、これはボラーニョの初期の作品『アメリカ大陸のナチ文学』の最終章に出てくる、ラミレス=ホフマン中尉の話を大幅に改稿し、一篇の小説としたものである。その話を「僕」に教えてくれたのは、アルトゥーロ・B。ボラーニョの他の作品にも作家の分身として登場する人物だ。『アメリカ大陸のナチ文学』の最終章の出来に物足りなさを感じたアルトゥーロは「僕」と共に、一か月半かけてこの物語を完成させた、という。

作家が自身の分身と対話しながら物語を完成するという設定は、自己の複数性という小説のテーマを仄めかしているが、要は、何冊でも書けそうなネタを贅沢に一冊の中にぶちこんだ小説を書いてしまった作家が、ネタの持つ価値に気づき、それだけで一篇の小説を書いてみたいと思ったのだろう。その熱の入れようもあってか、ボラーニョらしいミステリ仕立ての本作は、読者をぐいぐいと作品世界の中に引き込んでいく迫力を持つ。

アジェンデ政権時代のチリ、文学部の学生だった「僕」は、同じ詩の創作ゼミで、金髪で痩身、頑健な体躯の美丈夫、アルベルト・ルイス=タグレという二、三歳年上の男と知り合う。彼は「僕」と親友のビビアーノが思いを寄せる一卵性双生児のガルメンディア姉妹を夢中にさせていた。ほどなくして、クーデターが起きる。混乱を避けて実家に戻った姉妹はルイス=タグレに襲われ、「僕」は収容所に入れられてしまう。そんなある日の夕暮れ、一機の飛行機が空中に煙で詩を書くところを目撃する。カルロス・ビーダーというパイロットこそあのルイス=タグレであった。

斬新なパフォーマンスでチリの新し物好きの賞賛を浴びることになったビーダーは、最後となる航空ショーの終わった深夜、自室に親しい者を集めてパーティーを開く。そこで、招待客が目にしたのは、部屋の天井や壁に貼られた猟奇殺人を証拠立てる夥しい数の写真だった。ビーダーはその夜限り姿を消すが、その後生死についていくつもの噂が錯綜する。

四十代になった「僕」をバルセロナに尋ねてきたのは、アベル・ロメロという刑事だった。人に頼まれてビーダーを探している。協力してくれれば金を払うという。「僕」は、ロメロが集めた同人誌やガリ版刷りの冊子の山の中からビーダーを探し始める。幾つもの仮名、変名を使い分け、人種差別的な雑誌や反ユダヤ系雑誌に詩や評論を発表し続けるビーダーを「僕」は、ついに発見する。

チリがアジェンデ政権下にあるときルイス=タグレと名乗る男は周りの左翼的な若者とは距離を置きながらも詩の創作に励んでいた。ところが、クーデターの後、軍事政権が権力を握ると、彼は右翼ファシストとしての姿を現し、多くの人を殺す。その後、飛行機で詩を書くパフォーマー、カルロス・ビーダーとして名を馳せるが、サディスティックな猟奇的殺人者としての一面を披瀝して地下に潜る。それ以降は、異名を用い、マイナーな雑誌に、オカルティズムやナチズム、反ユダヤ主義、SM的嗜好を表明する多くの作品を寄稿する詩人として、一部の熱狂的な読者に支持される。

カルロス・ビーダーの文学的軌跡を追い続けるのは、これも作家の分身であるビビアーノだが、ビーダーについての執拗な探索は、反語的な方法による自己の発見である。自分の方がビーダーを読むのであって、決してビーダーに自分が読まれてはならない。というよりむしろ、ビーダーによって自分が読まれないことを恐れているようにも読める。作家にとって、書くことは読まれることを意味する。名前は幾つもの名に変わっていても、ビーダーはその糞のような作品をつねに供給し続ける。そこにはその糞のような主張を受け止める読者がいるということだ。それに対し、かつてビビアーノや「僕」が師事していたファン・ステインやディエゴ・ソトといった詩人は、詩を棄てて革命家になったり、ブルジョワ知識人として幸せな家庭生活を送ったりするものの、最後は殺されてしまう。

これはドッペルゲンガーを描いた作品である。「僕」もビビアーノもカルロス・ビーダーに自分を重ねながら、重なることを恐れている。カルロス・ビーダーが体現しているのは紛れもなく「悪」であるが、何故か「僕」たちは、その「悪」に魅入られている。「悪」の持つ力が人を惹きつけるのだろうか。書かれているのは、糞みたいなプロパガンダなのに。糞みたいな「悪」が、世界を席巻する時、「悪」を容認できない詩人は、ペンを銃に持ちかえるか、ペンを棄てるかしかないのだろうか。チリのクーデターは、「僕」や他の詩人の生き方を大きく変えてしまったが、チリにはアベル・ロメロがいた。今しもクーデターのさなかにいる我々の中から、アベル・ロメロは出てきそうにない。考えさせられることの多い小説である。
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by abraxasm | 2016-01-20 13:40 | 書評
e0110713_1514976.jpg「公私混同」という言葉がある。公の仕事に、私的な事情を持ち込むことを指す。ふつうは望ましくないことと考えられている。ふりかえって今の我が国の政治家の言動をみていると、私的心情や私利を隠しもせずに前に立てていっこうに恥じるところもないようだ。政治家相手に倫理規範を問うのがはじめからまちがいなのかもしれない。しかし、法律家だったら話はちがってくる。裁判官が審理に際し、私情をはさむことなぞあってはならないことだ。だから、我々は時々テレビ画面で見る黒い法服を着た人たちの家庭事情なぞ想像したりしない。黒い法服自体が一私人としての彼らの個性を覆い隠し、裁判官という公の存在しか見えなくさせているシステムの一部なのだ。

フィオーナ・メイは五十九歳。高等法院家事部で裁判長を務めている。夫は地質学が専門の大学教授で、ロンドン市内の恵まれた地区に住んでいる。離婚による親権争いなど今も複数の裁判を抱えている。六月の雨の日曜日だった。フィオーナは夫から突然、他の女と性交渉を持つことを認めた上で結婚生活を続けたいと持ちかけられ、怒りを抑えられなかった。そんな時、助手から緊急手術が必要な十七歳の少年が輸血を認めないので、病院側が裁判所に訴えてきたという連絡が入る。少年も両親もエホバの証人の信者だった。

エホバの証人という宗派では、他人の血を体内に入れることは聖書が禁じていると主張し、輸血でトラブルが起きることは知っていた。今回の場合、白血病細胞を標的とする薬が免疫システムや赤血球、白血球を作る能力を衰えさせるため、至急血液製剤を輸血しなければ、患者である少年は軽くても視力が奪われ、最悪の場合死に至る。フィオーナは関係者を集め話を聞きいた上で、自分の目で少年を見て話を聞いてから、最終判決を下すと言いおき、病院に向かう。少年の年齢が自分の判断で輸血を拒否できる十八歳まであと少しというところがみそだ。輸血拒否が親や長老による強要なのか、少年の判断力はどこまで発達しているのか、という見極めが何より重要である。

この緊急事態が進行していく間で、夫婦の危機も事態は深刻さを増してゆく。フィオーナは夫の申し入れを拒絶する。そりゃそうだろう。実に虫のいい話ではないか。そもそも六十歳にもなってたかだか何週間かセックスしなかったから、他の女でエクスタシーを感じたいなどと言い出す男の気持ちが分からない。「公私混同」の話を出したのは、ここのところで、フィオーナは内心は動揺を受けながらも、裁判に関わる間は冷静にことを処してゆく。読者は、「私」である時のフィオーナの夫への怒り、自分の美貌の衰えに対する自覚、相手の若い女への嫉妬、といった負の感情の奔流を知っている。それだけに「公」の場でのフィオーナの感情に溺れない態度に感心もすれば、その辛さを慮りもする。抑制の効いたマキューアンの筆は、窓外や室内の光景を客観的に眺め渡してゆくだけだが、どこまでも冷静さを装った視線が、かえって心の中の葛藤を窺わせて深い印象を残す。

少年に会ったフィオーナは、詩を朗誦する少年の現在の心境を知り、少年の弾くヴァイオリンの伴奏に合わせて「サリーの庭」を歌って聞かせる。フィオーナの判決により、少年は輸血を受けることとなり、命は助かる。しかし、それは「エホバの証人」という宗教への離反を意味するわけで、少年が得た新しい命と人生にとってはまったく新たな問題が生じることとなる。同じ家の中で、互いの間に距離を置く、夫との冷たい戦争状態は続くが、法曹界における優秀なピアニストでもあるフィオーナは、コンサートその他に引っ張りだこで、その練習もしなくてはならず、恒例の巡回裁判のため英国各地を旅しなければならない。いかにも英国小説らしく、田舎の館の構造から、あまり美味しくなさそうな料理の献立、バッハの「パルティータ」に始まるクラシック音楽の解説と、悠揚迫らぬ展開で小説は続いてゆく。

しかし、実はフィオーナの知らないうちに悲劇は進行していた。小説の主題は、一人の女性裁判官の行動や心理を通して、神ならぬ身の人間が、あくまでも「私」心を交えずに、どこまで公正な判断を通して裁判という「公」の仕事を全うすることができるか、ということを真正面から、真摯に問いかける。人間というものは、自分を勘定にいれず事態に処しているつもりでも、どこかで私事のために判断に影響を受けることは否めないのではないか。普通の仕事なら、そんなことは当然である。誰もそれを責めはしない。しかし、法の守り手である裁判官その人ならどうだろう。自分の判断に自身がもてるだろうか。それまでフィオーナに寄り添って事態の進み具合を見てきた読者は、結末に至り、フィオーナとともに疑心暗鬼に襲われる。あの判断は、あの処理は、あれで本当に正しかったのか。心のなかに、夫との不和による寂しさの代償を求める気持ちはなかったといえるのか。取り返しのつかない事態を前にしての慟哭は胸に迫る。

本格的な小説だ。決しておもしろいとはいえない。読後に残るのも悔いに満ちた苦い悲哀の味である。それでも、この小説を読んでよかった。そう思えるのは、人生も終わりに近づいてきた女性が、ただ一人愛してきた男性から最後通牒を突きつけられ動揺する姿に、人間として感動させられるからである。決して美しいとか見事だとかいうのではない。じたばたするその態度は醜かったり哀れだったりする。しかも、よくよく考えれば彼女がその仕打ちを受けねばならなかったのは、彼女のそれまでの仕事の完璧さによってである。自分のせいではないのに、罰を与えられる。これはもう語の真の意味で悲劇としかいえない。その神々しいまでの悲劇性故に、つまらぬ凡愚の輩である評者などは、静かに頭を垂れるしかない。
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by abraxasm | 2016-01-10 15:14 | 書評
e0110713_16213472.jpg階級や家風のちがう二つの家が結婚問題をきっかけとして交際が始まることによって起こる騒動の顛末を描く、E・M・フォースター作『ハワーズ・エンド』を下敷きに、現代アメリカを舞台に描いた喜劇風味の風俗小説である。フォースターの代表作をいじるなど、なかなかの度胸だが、名作『ハワーズ・エンド』のパロディーを意識したものではない。むしろ大好きな作品にオマージュを捧げている、という感じだろうか。ただ、よくも悪しくも階級社会が当然視されている英国とは異なり、多くの人種や文化がフラットに混在するアメリカという国を舞台にすることで、階級差のずれから生まれる微妙なヒューモアは薄まり、それに代わって人種問題、貧富の差、大学内でのセックスを含めた交遊の実態が暴露されるなど、シニカルな諷刺劇風のニュアンスが加わった。

『ハワーズ・エンド』におけるアッパー・ミドルの知識人階級と富裕ではあるが無教養な商人階層という二つの家を隔てる階層差の壁に対し、作者が持ち込んだのは、二つの家を代表する男たちを宿敵同士とする工夫である。二人はレンブラントを専門とする教授で、英国生まれの白人ハワードは無宗教で個人を尊重するリベラル。レンブラントを巨匠と仰ぎ見る世評を徹底的に批判する論文は書きかけで放置されている。それに対し、カリブ系黒人のモンティ・キップスはキリスト教を奉じ、家族を重視する保守派である。レンブラントに関する論文はハードカバーで刊行され、よく読まれている。

事の起こりは、ハワードの長男ジェロームが、インターンをしているキップス家の娘ヴィクトリアに結婚を断られたことで、もともと犬猿の仲だった両家の間がいっそう気まずくなったうえに、何の因果かロンドンの大学に勤めていたキップスが、ハワードのいるアメリカの大学に転職し、近所に住むことになる。不倶戴天の二人はアファーマティブ・アクションをはじめ、弱者を優遇する措置に対し、ことごとく対立する。その上、ハワードの娘ゾラが不倫相手のクレアの講座を受講したり、奔放な美女のヴィクトリアがハワードに接近したり、と人間関係が複雑な様相を呈し始める。

『ハワーズ・エンド』の枠組みを踏まえているところは多々ある。弱い立場の人々を放っておけない性格の持ち主は『ハワーズ・エンド』では妹のヘレンの役だったが、本作ではジェロームの弟リーヴァイが担当する。才能はあるが恵まれない環境にいる若者レナード役は、コンサート会場で傘ならぬディスクマンを取り違えられたカールとなり、この世に埋もれた詩人をめぐって、ゾラがヴィクトリアとぶつかってしまう。ややこしい対立関係にある両家の中で、ハワードの妻キキとキップス夫人は心を通わせあう関係となり、遺言で遺贈された物が恥知らずにもキップスに握りつぶされてしまうところまで『ハワーズ・エンド』に倣っている。

英国風俗小説の骨格を譲り受けながら、中身は現代アメリカの中流家庭が抱く問題、それは中年男の浮気による家庭内別居だったり、親子の意思疎通の難しさだったり、子どもの恋愛問題だったり、といろいろだが、まあ、どこにでもある問題が二つの家族とその周りにいるボストン郊外の大学町に住む人々や、よりましな暮らしを求めてアメリカに移住してきた中南米諸国の移民からなる人々を巻き込んで、あれやこれやの騒動を捲き起こす、てんやわんやを描いたものと一口で言えばそうなる。

すでに『ハワーズ・エンド』を読んでいれば、ああ、なるほど、とにんまりすることは多々あるだろうけれど、別に読んでいなくとも充分面白く読める小説である。ラップやヒップホップという音楽、それに美術、詩、そして小説、といった作者の関心を集めた諸々が惜しげもなく配され、なかには、敬愛するナボコフの『ロリータ』の一場面を思わせる中年男と美少女の危うい場面まで登場する。これまでの自分を作ってきた因子をすべて突っ込んだのではないか、と思わせるフル装備である。

普通だったら主人公の位置を占めるだろうハワードという人物が、教授としての腕はともかく、家庭の父親として、あるいは年老いた父親を独り異国に住まわせる息子として、そして愛する妻の夫として、あまりにも好い加減で、まあ、たしかにこういう人物の方が、リアルなんだろうけれど、身もふたもない、その生き方に口あんぐりとなってしまったのだが、それでいてどこか憎めない。独りよがりの思い込みで、とんでもない行動に走ってしまうリーヴァイも、頭が良く、議論に強く、粘り強いネゴシエイターであり、父のよき理解者であるゾラも、家庭内のよき調停役であるジェロームもみんないい子であるのは、昔はすごい美女だったが、太ってからは大女と化したキキあってのことだ。このキキの人物像は魅力的で、キップス夫人が家族よりもキキを心のよすがとしたのは、とてもよくわかる。人物がよく描けている小説はおもしろい。そういう意味でも、この小説はとてもおもしろい小説であるといえる。
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by abraxasm | 2016-01-07 16:21 | 書評

覚え書き


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