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e0110713_15522270.jpg『停電の夜に』で、衝撃的なデビューを果たした後も、『その名にちなんで』、『見知らぬ場所』と確実にヒットを飛ばし、つい最近は『低地』で、その成長ぶりを見せつけていたジュンパ・ラヒリ。その彼女がアメリカを捨て、ローマに居を構えていたことを、この本を読んではじめて知った。単に引っ越したというだけではない。英語で書くのもやめてしまい、今はイタリア語で書いているという。ずいぶんと思い切ったことをしたものだ。もちろんこの本もイタリア語で書かれている。もっとも読んでいるのは当然のことながら日本語に訳されたものであるわけなのだが。

コルカタ生まれの作家の両親はアメリカに来てからも家ではベンガル語を話しつづけた。ロンドン生まれで幼い頃アメリカに渡ったラヒリは、小さいころは両親の使うベンガル語をつかっていたが、幼稚園ではまわりの子とまじって英語を話すことを強制された。ずいぶん居心地の悪い思いをしたことだろう。その当時の気持ちは、ここに所収の言語習得に関する自伝的エッセイにくわしい。しかし、成長するにつれ、英語で話したり書いたりすることがあたりまえになると、今度は両親と話すときにだけつかうベンガル語が疎遠になったと感じるようになる。そのへんの喩えを、メタファーの名手であるラヒリは、実母と継母の喩えを用いて説明している。無論、英語が継母である。

しかし、この実母と継母は仲が悪かった。コルカタに帰れば、周りはベンガル語を話す人ばかりで、今や英語で書く作家になったラヒリにとって、そこは父母の祖国ではあっても自分の祖国という気にはなれない。では、アメリカが祖国かといえば、それもちがう。そのあたりのことを作家はこう書いている。

「ある特定の場所に属していない者は、実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語も持たないわたしは、世界を、そして机の上をさまよっている。最後に気づくのは、ほんとうの亡命とはまったく違うものだということだ。わたしは亡命という定義からも遠ざけられている。」

そう感じる作家には、「べつの言葉」が必要だった。しかし、イタリア語との出会いはそんなふうに理詰めに進んだわけではない。その美しい出会いについては、本文中に、時系列に沿って、水泳や雷の一撃といった的確かつ美的なメタファーを使用しながら詳しく書かれている。すごい美人ではあるが、どうみてもオリエンタルな印象を与える彼女の外貌のせいで、買い物をした店でイタリア語の発音の流暢さを、スペイン語訛りのイタリア語を話す夫に負けてしまう悔しさなど、笑ってはいけないのだが、つい笑ってしまうようなエピソードもまじえながら。

いくら好きでもラヒリがイタリア人でないのはその外見だけではない。歴史や土地との結びつきそのものがネイティブとは決定的にちがうのだ。パヴェーゼが『ホメロス』の訳について書いている書簡の内容に触れて、その深さ、広さに到底追いつくことのできない限界を感じながら、それでも言葉を覚えはじめたばかりの少女のように、目を輝かせて、新しい世界に飛び込んでゆくことの感動を語るジュンパ・ラヒリにまぶしいほどの感動を覚えずにはいられない。それと同時に、人間というものと言葉との結びつきの深さにも今一度再考させられた。

「小さいころからわたしは、自分の不完全さを忘れるため、人生の背景に身を隠すために書いている。ある意味では、書くことは不完全さへの長期にわたるオマージュなのだ。一冊の本は一人の人間と同様、その創造中はずっと不完全で未完成なものだ。人は妊娠期間の末に生まれ、それから成長する。しかし、わたしは本が生きているのはそれを書いている間だけだと考える。そのあと、少なくともわたしにとっては、死んでしまう」

このような深い省察が、二十年にわたる努力はあったにせよ、まったく自由に選び取られた言語で綴ることのできる才能に呆然とするばかりだ。ただ、その達成のために、自分を世界的に有名な作家にしてくれた英語を捨て、アメリカを捨て、ローマに移住してしまう行動力、意志力にも驚かされる。

はじめは誰にも見せない日記からはじめたイタリア語は、やがて週刊誌に毎週寄稿するにまで至る。原稿はまずイタリア語の先生に見てもらい、その後知人である二人の作家に目を通してもらい最後に編集者の意見を聞くことになる。それを作家はローマ時代のポルティコを支える足場にたとえ、その足場にありがたさを覚えると同時に、今はまだ足場がなくては崩れてしまいそうな段階だが、いずれは足場を外しても建っているだけの文章にしたいと決意を語っている。

イタリア語に惹かれるようになってからこれまでの経緯をつづる短いエッセイが二十一篇。いずれも、この人の手にかかると読み応えのある、しかも端正でみずみずしい筆致にあふれる読み物になっている。それに図書館で突然降ってきたかと思われるようにして書かれた短篇、というより掌編が二篇付されている。英語で書いていたころとはひと味もふた味もちがう新生ジュンパ・ラヒリがそこに息づいている。これからも、この人から目が離せない。そんな思いにさせる一冊である。
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by abraxasm | 2015-10-30 15:52 | 書評
第二次世界大戦中のロンドン。作家のモーリス・ベンドリクスは官吏のことを書いた小説の取材のため、パーティーで知り合ったばかりのヘンリ・マイルズの妻、セアラに近づく。しきりと夫のことを知りたがる小説家に好感を抱いたセアラと、文学や映画についての話ができることを喜んだモーリスは一気に恋に落ちる。戦時下、国内安全省に勤務するヘンリの目を盗んで情事に耽る二人だったが、一九四四年六月のある日を境に突然セアラはモーリスの前から姿を消してしまう。

小説は二年後の一九四六年一月の夜から書き出される。一杯飲もうと家を出たベンドリクスは、雨の中ずぶ濡れになって公園を横切るヘンリを見かけ声をかける。誘われて寄ったヘンリの家で近頃よく家を空ける妻の素行を疑っていることをヘンリは洩らす。似た者同士の境遇にほだされたのとセアラに別の男ができたことに嫉妬したベンドリクスは、気が進まないヘンリに代わり探偵事務所を訪ねることに。一方、再会したモーリスとセアラは二年ぶりに昔よく通った店で食事をする。セアラはセアラで近頃夫の様子がおかしいことを心配していた。

女中を手なずけた探偵は、セアラの書き損じの手紙をベンドリクスに届ける。そこには自分以外の男に寄せる激しい愛の言葉が書かれていた。セアラの新しい恋の相手は誰なのか。二年前の六月、なぜ彼女は姿を隠したのか。探偵の調査によって、少しずつ事の真相が明らかになる。そこには、神ならぬ身の想像もつかない、愛ゆえの神秘が隠されていた。愛とは何か。憎しみとは何か。神は果たして存在するのか。カトリック作家グレアム・グリーンでなければ書き得なかった傑作。

V1号ロケットによる空襲に見舞われる戦時下のロンドンは死と背中合わせの毎日。セアラは爆撃で倒壊した扉の下敷きになったモーリスのために祈った。セアラはそれまで神を信じていなかった。愛する者を奪われないためなら、存在を信じられない神にでも人は祈る。英国においてカトリックの信者はごく上層部の者か、あるいは下層階級の一部に限られる。中産階級に属する大部分の英国人は英国国教徒だ。聖体拝領や洗礼、告解などといったカトリック独特の信仰には一歩距離を置いている。

主人公で語り手の小説家ベンドリクスも、高級官吏のヘンリもその妻セアラもあまり信仰心を持っていない。イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』もそうだが、恋愛を描いた小説において、カトリックが問題になるのは、離婚が許されないということだ。夫のある女が、いくら別の男を愛そうと、離婚できない以上、その男と結婚することができない。真に愛していればいるだけ悩ましいディレンマとなるわけだ。セアラはそれまでもほかの男と関係があったが、モーリスとの恋愛はそれらとはちがっていた。

愛するものの命を救うため、神に祈ったら、神がそれに応えたかのように、男が生還した。神はいるのか?セアラは、公園で神など虚偽だと説くリチャードの家に通い、自分の誓いを守る必要がないことを証明しようとするが、教理問答を続ければ続けるほど、セアラの信仰は強まってゆく。一人称視点の小説であるからセアラの心理の推移は、セアラ自身の口から語ってもらうしかない。作者は探偵が手に入れたセアラの日記をベンドリクスが読むという形で、神への愛とモーリスへの愛に引き裂かれるセアラの苦悩と葛藤の日々を明らかにする。

グリーン自身を思わせる自意識過多な作家が、自己の小説作法を滔々と論じつつ、友人の妻との恋愛事情を語るという、べたな展開に見えた小説は、セアラの日記によってその趣きを変えてしまう。このあたりの急旋回は見事というしかなく、技巧しか取り得がないようにうそぶくベンドリクスの冒頭の独白が思い出されて、グレアム・グリーンという作家の人の悪さに舌を巻くばかりだ。伏線の張り方といい、自己言及的な語りといい、読者を翻弄する作家の手並みの鮮やかさは群を抜いている。

信仰とは無縁に思えた主人公が、神と対話する最後の場面に至るまで、信じられないような「偶然の一致」が顕現し、登場人物を驚かせ、畏怖させる。それまでリアリズム小説、それも主題が不倫というだけに、エンタテインメントに近いものを感じつつ読んでいた読者は、ここに至って一挙に居ずまいを正して読むように迫られる。いやはや、畏れ入った。新訳もあるらしいが、訳者が永川礼二氏とあるので、あえてこれを選んだ。こなれた訳で実に読みやすい。機会があれば新訳のお手並みは意見といきたいところだ。
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by abraxasm | 2015-10-30 06:34 | 書評
e0110713_17524659.jpgいずれも甲乙つけがたい、虚飾を廃した文と余分なものを一切削ぎ落とした構成で仕上げられた短篇が十二編。短篇の名手の名に恥じない傑作短篇集である。惜しむらくは程度の差こそあれ、四人の訳者による翻訳が、それに見合っていないことだ。車や酒の訳語が訳者ごとにちがっているのはご愛敬だが、一つの作品で人物の名が濁ったり濁らなかったり、なかには日本語として意味の通じない文すら見受けられる。編集者は目を通したのだろうか。

翻訳の瑕疵があり、歪みや気泡を封じ込めた硝子窓ごしに眺めるようであっても、トレヴァーにしか表現することのできない独特の世界は、まぎれもなくそこにあって、読者が眼を凝らしさえすれば、いつものように立ち現れてくる。そこにあるのは、高望みとは無縁の慎ましやかな暮らしを営む夫婦、親子、兄弟が、突然わが身に降りかかってきた故知らぬ受難に、これはいったい何の罰であろうかと悩み、苦しみ、やがて、それをやはり自分がしてきたことへの罰として受け入れてゆく、一言でいえば、諦念を主題とした物語である。

ものごとには原因があって、結果がある。どうして自分がこんな目に遭わねばならないのか、と天を仰いでみても、神は何もこたえてはくれない。辛いと感じるのが自分である以上、責めを負っているのは自分なのだ。誰もそれを肩代わりなどできない。ひとはそうして、自分のどこがいけなかったのかと貝が柔らかな身内に砂粒を入れてしまったとき、体液で包み込んで傷みをやわらげるように一心に思いをめぐらせ、自身に納得させてゆかねばならない。

われわれは愚かであり、自分勝手な存在であるから、滅多なことでは日々の自分の行いを振り返ることなどしない。トレヴァーが描く人々も同じだ。事が起きたとき、ひとは動揺し、ある者はうろたえ騒ぎ、ある者は畏れ黙す。語り手は初め、第三者的な位置から語りだし、やがて人物の内面に入りこんで、切実な心理の起伏を描いて見せ、最後にこうでしかありえなかった、とでもいうように断を下す。その締めくくり方は時には冷た過ぎると思えるほど。しかしまたある時には悲哀のうちにも穏やかな慰撫が含まれている。

目の不自由なピアノ調律師オーエンが年老いて再婚した相手は、前妻より若く美しい女ベルだった。ベルは前からオーエンと結婚したかったのだが、彼が選んだのはバイオレットだった。亡きバイオレットは夫の目となって、彼の周りの人や物を美しく描き出して見せた。ベルはそれが妬ましく、バイオレットが紡ぎだした世界をすべて否定してゆく。オーエンは妻の嘘に気づいているがそれを許す。「べルが主張したからとて、彼女を咎めるべきではないし、主張というものは、傷つけ、破壊なしにはありえないのだ。ベルは最後には勝者になるだろう。なぜなら、常に生存者が勝つものだから。それに、バイオレットは最初に勝者であったし、より幸せな年月を過ごしたのだから、ベルが最後の勝者になるのも、公平と言えるだろう」と。「ピアノ調律師の妻たち」の結語に仄見える認識の鋭さに、立場の弱い者が甘んじて受けねばならない仕打ちへの苦い諦念が窺える。

金目当てで、他人の子を孕んだエリーと結婚した中年男モーリビーは真面目によく働いた。エリーが生んだ娘もなつき、幸せに暮らしていたある日、エリーは娘に真実を話すと言い出す。エリーの相手は巡回司祭だった。周りは止めるがエリーは娘に事実を打ち明ける。名目上の夫であることがばれて、物笑いのタネになったことを恥じるモーリビーは黙々と馬鈴薯畑を耕す。自分の家の体面しか考えない伯父や母親、教会を相手に我意を貫き通すエリーの行動と、困惑しながらもエリーと娘との生活を続けるモーリビー。愛だの恋だのというのではない、二人の実直な生活者の間にいつの間にか生じつつあるもの。(「馬鈴薯仲買人」)

プロテスタントの家に生まれたミルトンはある日果樹園で不思議な女の人に出会う。その女性は聖ローザと名乗り、聖なる口づけをする。プロテスタントの祝日、七月の行進行列の日、ミルトンは聖ローザが自分に話すように強く命じるのを感じる。義兄の牧師も、聖ローザについて教えを乞うたカソリックの司祭も、ミルトンの話を真剣に受け止めようとしない。やがて町に出て説教を始めたミルトンを父親は激しく叱り家に閉じ込めてしまう。翌年の七月の行進行列の日、悲劇は起きる。「失われた地」は、カソリックとプロテスタントの間にある確執が主題となった、トレヴァーにはめずらしいメッセージ性の強い一篇。自分たちと異なるものを排除することで失われた地を取り戻すという、救いのない結末は決してアイルランドに限ったものではないだろう。

それにしても、である。これだけの作品を翻訳するというのなら、いくらでも適任者はいるだろう。この短編集が企画された当時、まだまだウィリアム・トレヴァーの名が知られていなかった、ということなのだろうか。表題作は、「雨上がり」という表題で『聖母の贈り物』にも収められている。そちらの訳者は栩木伸明氏。読み比べてみるのも一興かも知れない。
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by abraxasm | 2015-10-26 17:53 | 書評
e0110713_11375676.jpg「ヘンリーは、興奮のあまりからからに乾いた唇をなめながらパイオニア・パークの上空の太陽を目を細めて見ると、腕時計に目をやった。ほぼ一一時。そろそろディスキンの店が閉まる頃だ。そこで、ヘンリーは、この七回に慣例の、地元の観客たちの背伸びタイムを利用することにした。急いで階段を降り、階下の食料雑貨店(デリカテッセン)でサンドイッチを二つほど買うことにしたのだ。今夜は長くなりそうだ」。ええっ。何で十一時に閉店するの?開店のまちがいとちがう?それに陽が高いのにどうして今夜?と、頭が混乱しかけた。

本当は夜の十一時。ヘンリーのいるのはアパートの自分の部屋。こんな時間に野球などどこの球場でもやっていない。進行中の試合は、ヘンリーが自分で考えた野球ゲームの中でのことである。現在はシーズンも終盤に入り、首位を走るパイオニアズとそれを追うチームの接戦が続いていた。中でも、今日の試合は往年の名投手ブロック・ラザーフォードの息子デイモンが完全試合を成し遂げられるかがかかる大一番である。ヘンリーが熱くなるのは当然だった。

ヘンリーが考案した野球ゲームは、カードや野球盤は使わない。使用するのはスコアブック。試合は三つのサイコロの出た目を、前もって作られている何種類もの一覧表と照らし合わせて進められる。もっとも、このユニヴァーサル野球協会の公式試合も五十六年度に入った。一覧表はヘンリーの頭の中にすべて入っている。それでも、完全試合が起きる確率はきわめて低い。次のサイコロを振る前に一息入れたくなるのも分かる。

この野球ゲーム、ただのゲームと考えると問題である。八つのチームがあり、一つのリーグを構成している。チームには監督がいて、それぞれの名前はもちろん、その性格、手腕も各々異なっている。選手もそれは同じだ。体格がちがうように、気性がちがう。野球殿堂入りを果たした名選手には二世がいて、新人選手として頭角を現しつつある。試合の結果はすべて記録され、論評され、名鑑に記載される。それらのすべてを取り仕切るのがヘンリーだ。ヘンリーは会計事務所に勤めているが、試合がヒートアップしてくると、深夜にまで及び、その記録をまとめていると朝になる。近頃では、毎朝遅刻し、仕事中も居眠りが続き上司に勤務態度を注意される始末。

野球ファンではないので、取り憑かれたように夢中になる気持ちというのがよく分からないのだが、ヘンリーのそれは、ほとんど病気。「野球ゲーム」はゲームなどではなく、もう一つの現実の世界と化しているのだ。ヘンリーは、その世界の中で観客であると同時に、あるときは監督となり、また選手になる。同時に、現実のヘンリーのいるピートのバーがヘンリーの頭の中で、野球ゲームの中で選手が飲みに通うジェイクのバーとごっちゃになり、現実と非現実が交錯し合う。それというのも、ヘンリーが野球ゲームに使っている選手の名前や容姿は、現実に自分の周りにいる人々のそれを流用しているからだ。

この現実と非現実の入り混じり具合が絶妙で、なんとも曰く言い難い魅力になっている。選手の命名の仕方や名前など、一昔前の大リーグのそれが髣髴され、アメリカ人がベースボールを愛する流儀がよく伝わってくる。これは、もう単なるスポーツなんかではなくて、ひとつの宗教のようなものだ。そう考えてくると、選手の名前や家族、出身地を一つ一つ考え出す行為は聖書でいう「創世記」のようなものとなる。世界を偶然できたものと考えず、神の手になる創造物と考えるのはキリスト教ならではだが、その神が自分の意図で創造するのではなく、サイコロを投じ、出た目の数字によって人々の運命が変わる、というのは実に皮肉っぽい。

観客が英雄視する若きヒーロー、デイモン・ラザーフォードがニッカーボッカーズとの試合中、相手投手ジョック・ケイシーの投げた球が頭を直撃し、死んでしまうという事件が起きたあたりから、二つの世界は混沌とし、次第に悲劇的な翳りを帯び始める。ヘンリーは、その事実を受け止めることができず、仲のいい娼婦ヘティや会社の同僚ルーという現実界での友人との間に軋轢が生じる。周囲の目にはヘンリーが、たかがゲームにのめり込むあまりに正気を失いかけているように見える。しかし、ヘンリーにとっては、会社や仕事なんかより、何十年にもわたって記録を取り、成績をまとめ、トレードを成立させ、年老いた選手を引退に追いやり、人数調整のため、構成員の生死を決定してきた「ユニヴァーサル野球協会」の存続の方がより重要であることを誰も理解できないからだ。

「アメリカ小説の斬新な流れがリアリズムから非リアリズムに移行しつつある」と柴田元幸氏は言うが、六十年代にその潮流を作ってきたのがトマス・ピンチョンやドナルド・バーセルミ、そして、このロバート・クーヴァーら、所謂「ニュー・ライターズ」の連中だ。いかにもポスト・モダンの旗手らしい軽やかな筆致で、野球ゲームにのめり込む独身中年男の姿を活写している。その哀れとも滑稽とも見える生き方はユーモアとペーソス溢れる筆致のなかで、やがて悲劇性をすら漂わせ、結末に至っては神話的ともいえる世界が現出する。その比類のない小説手法に拍手を送りたい。これは紛れもない傑作である。
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by abraxasm | 2015-10-22 11:38 | 書評
e0110713_11582583.jpgミルハウザーの愛読者にとっては長年の渇を癒す、待望の長篇第二作(1977年)の翻訳。しかも翻訳は柴田元幸氏である。何をおいても手にとらないわけにはいかない。そう勢い込んで読んでみたのだが、ちょっと様子がちがう。夏の月夜の徘徊、自動人形、雪景色といった偏愛のモチーフを多用し、他の作家にはない独特の世界を構築するミルハウザーらしさは横溢しているのだが、執拗に同じフレーズをくり返す、粘着気質っぽい話者の語りが異様なほど強調されていて、訳者あとがきで柴田氏も書いているように、「ミルハウザーらしいと思える面と、およそミルハウザーらしくない、と思える面」がある。訳者の言うとおり、「すべての読者をまんべんなく喜ばせることはなくても、一定数の読者を強烈に魅了する本」なのかもしれない。

原題は<Portrait of a Romantic>。ヘンリー・ジェイムスの『ある貴婦人の肖像』やジョイスの『若い芸術家の肖像』を意識したのだろうか。アーサー・グラムという名の弱冠二十九歳の話者が幼い頃から高校時代までの自分と家族、親しい友達との交友を語る、半自叙伝的小説である。英語の「ロマンティック」は、日本語の語感とは少しちがって「空想的な」という意味で、人を指していうときは「夢想家」。「夢想者」という訳語は耳慣れないが、ちょっとルソーの『孤独な散歩者の夢想』を連想させる。

舞台はコネチカットの田舎町。コンクリートの堤防に囲まれた小川だとか、車体工場だとか、全然ロマンティックでない風景のなかに、工場の簿記係の父と小学校教師の母の間に生まれた一人っ子。仕事より趣味が生きがいの父親とバリバリと家事をこなす母親に育まれたアーサーは、毎日が退屈で退屈でしかたがない少年に育つ。外遊びが嫌いで、家で本を読んでいる方が好きという、典型的な内面活発、外面不活発の少年である。当然遊び相手にも恵まれず、両親相手にトランプ遊びをしたり、年中行事のピクニックや海水浴も家族親戚同伴という生活が高校時代まで続く、というのだから確かに退屈にちがいない。

ミルハウザーらしいのは、このどこといって代わり映えしない田舎町でアーサーが過ごす日常を目に見える物、聞こえる音を壁紙の模様から遠くを走るトラックの音まで端折ることなくとことん精緻に克明に描写していること。この描写魔めいた記述はある種の読者にとっては麻薬めいた魅力を持つといえるだろう。一方で、アーサーのとる行動は終始一貫したパターンから抜け出ることはない。バーベキューで焼くのはフランクフルト。飲み物は母が作ったピンクレモネード、といった具合に。年齢を重ねるに連れ行動半径は広がるが、家を出て、どの場所を抜けて、どこに向かうかは、ほぼ不変といっていい。だから、その行動を追う話者の語る言葉もまた同じ文句の繰り返しになるわけである。

従姉妹のマージョリーを別にすると、アーサーには親しい同年輩の友だちがいない。その代わりに現れるのが「自分の分身」である。七歳の時に登場するのがウィリアム・メインウェアリング。もちろん、ポオの『ウィリアム・ウィルソン』を踏まえている。ウィリアムとはモノポリーや卓球、探検ごっこを毎日やって飽きない。第八学年になると、「第二の分身」、フィリップ・スクールクラフトが現れる。ポオに夢中なこの少年は、級友や教師を蔑視し、本の中に隠した拳銃でロシアン・ルーレットをやるようアーサーを唆す誘惑者である。高校に入ったアーサーを待っていたのが「亡霊(ザ・ファントム)エリナー」ことエリナー・シューマンという女の子。病気で欠席がちな少女の、人形で埋め尽くされた部屋にアルトゥール(アーサー)は入り浸る。

ウィリアムとは家族ぐるみの交際が続くが、後の二人とは当人の部屋を訪れているときだけの付き合いである。その分、濃密で蠱惑的な関係が深まってゆく。二人に共通するのはデカダンスであり、死に対する篇愛である。実は毎日が死にたいくらい退屈な「僕」には小さい頃から自殺願望が付き纏っている。フィリップとのロシアン・ルーレット、エリナーとの薬物による心中ごっこ、と死への傾斜は度を増してゆく。そして、ハックルベリー・フィンとトム・ソーヤーのような関係に見えていたウィリアムもまた…。

退屈な毎日がくり返すだけの田舎の夏休みを少しずつずれを含んだ繰り返しで描いてみせる部分と、エキセントリックな友人と共有する異様で不安に満ちた非日常の世界。この二つが微妙な均衡を保ちながら、少しずつ後者の比重が重くなってゆく。過去のノスタルジックな回想の中に漂う郷愁に満ちた感傷が薄れ、成長した「僕」は次第に倦怠感溢れる日常に押しつぶされそうになってゆく。

個人的な感想だが、幼少期から思春期に賭けての昼間の野外での活動を描いた部分からは自分の少年時代の映像が何度も喚起され、非常に魅力を覚えるのだが、月夜の徘徊やエリナーの部屋での狂態、つまりミルハウザー的なモチーフに溢れた、よりファンタスティックな部分にはいまひとつ満足感が得られなかった。おそらく、後の短篇の完成度が高過ぎて同様のモチーフとして不満足に感じられたのだろう。また、分身三人は文字通りの「分身」であって、現実には存在しなかった、と思える。小さい頃のウィリアムが生き生きとした存在に描かれているのは、子どもの頃は誰もが「夢想者」なのであって、その分ウィリアムにも現実感が賦与されているわけで、歳をとればとるだけ、空想は現実味を失い幻想的なものと化す。フィリップやエリナーが漂わせる不在感は、空想の持つリアリティが減衰してゆくのを表しているのだろう。

訳者によれば「アメリカ小説の一番斬新な流れがリアリズムから、非リアリズムに移行しつつある」のが、現在という。ミルハウザーはその先駆であると訳者はいう。『ある夢想者の肖像』は、その「アメリカ小説の斬新な流れ」を一作の中で体現してみせる小説であるといえよう。本作に見ることのできる、ミルハウザーのリアリズムというものが、非リアリズム的な部分と比べても充分に魅力的であると再確認した上でいうのだが、ミルハウザーによるリアリズム小説というのも読んでみたいと痛切に思うようになった。
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by abraxasm | 2015-10-20 11:58 | 書評
e0110713_153556.jpgマルトク(特別協力者)とは、「公安警察が、主に敵対するスパイ組織や犯罪組織の内部に獲得し、運用する、特殊な情報提供者」のことである。平たく言えば二重スパイのことだろう。公安がそういう人種を運用するなら、敵も同じことをするにちがいない。つい、この間中国で日本人がスパイ容疑で拘束されたと報道されていたばかりだ。国と国との間だけではなく、敵対、競合する組織間では、こんなことは日常茶飯事になっている。

警視庁公安部外事二課(ソトニ)の活躍、というか暗躍を描くシリーズ第二作は、先の戦争前に朝鮮に渡った人々のうち、戦後になっても帰国することが叶わなかった日本人の、自分たちを裏切り、見殺しにした戦後日本に対する怨念と復讐を主題とする。主人公は前作『背乗り』で颯爽と登場した在ニューヨーク日本国総領事館警備対策官、筒見慶太郎。制止命令を受けたにもかかわらず、業務を遂行しため責任をとらされ、公安部外事二課を追われた男である。業務執行中に息子を死なせたことに負い目を感じ、その復讐を誓っている。

現在外務省に出向中という身分の筒見は今回は単独行動。外事二課に所属する島本彩音と捜査一課から異動してきたばかりの朝倉の若い二人が彼と競いあって事件を追う。事件は日本とアメリカで起きていた。政府高官が白昼狙撃されて重傷を負うのと時を前後して、北朝鮮に亡命していた元内閣情報調査室調査官が半死半生の身に一つの頭蓋骨を抱いて日本に流れ着く。同じ頃、筒見との接見を求めてきた男が二人殺される。メキシコでは張哲(チャンチョル)という特別協力者。ニューヨークでは日本に亡命を申請し、筒見が保護していた北朝鮮外交官。二人とも絶対安全なはずの場所で殺されていた。情報はどこから漏れたのか。

複数の事件をつなぐのが犯行に使用された拳銃が南部乙自動拳銃で実包も当時のものを使用している点だ。わざわざ失敗の危険を冒して旧式の銃や弾丸を使用するのは被害者に向けてのメッセージがそこにあると考えられる。筒見と外事二課が追うのは、バラバラのピースをつなぐ線であり、完成時に現れるはずの絵柄である。マルトクが筒見に見せようと隠し持ってきたモナザイトが謎を解く鍵となるはずだ。

北朝鮮の金正恩体制が対外的にいくら強硬姿勢を貫いて見せようが、不作による食糧難ほか国内に鬱積する体制に対する不満は今や爆発寸前だ。相つぐ粛清がその証拠である。金王朝を倒し、集団指導体制を行なおうとするクーデターはいつ起きても不思議ではない。もし、その現実化を急がせるためにどこかの国が秘かに協力し、クーデターが成功したなら、その国は新しい国家の重大なパートナーとなって半島に眠る貴重かつ莫大な鉱物資源を手にすることも夢ではない。

そんな夢のような計画をどこかの国が画策していたら、その国を舞台に政府側と反政府側の暗闘は熾烈なものとならざるを得ない。もしそれが日本のことだとしたら?拉致問題ばかりが囃されるが、戦後連絡がとれなかった在朝日本人は、日本国によって死んだことにされている。この国が国民を守らないのはとうの昔に知れたことだが、戦後の混乱期を旧統治国で迎えた邦人の悲惨さはまさに地獄であったろう。家財は奪われ進駐してきたロシア軍兵士によって女と見れば強姦された。そんな地獄のなか自己犠牲を通じて邦人を救った女性とその遺児を日本に帰すために立ち上がった者がいた。一方、利権をめぐって国にすりより、鉱物の採掘権を得ようとたくらむ者も。

いくつもの思惑が交錯して、事件は錯綜する。ハイテクばやりの世の中なのにデッドドロップという昔ながらのアナログな通信手段で交わされる暗号通信文。外事二課六係が行なう追尾陣形、と一昔前のスパイ小説や刑事物を読んでいるような楽しさがある。シリーズ物ならではのお楽しみ、筒見の愛犬白いシェパードのフィデルもちらっと登場する。前作ではビル・エヴァンスだったBGMが今回はバードだったり、愛読者の期待は裏切らない。

男っぽいアクションや、ハードボイルド風の会話はたっぷり用意されているが、男女の恋愛やとびっきりの美女との濡れ場はない。紅一点の彩音は、昔窮地を救ってくれた恩人の筒見とは年が離れすぎていて、憧れの対象となっても恋愛には発展しない。むしろ、東大を中退してMITでロボット工学を学んできたくせに刑事になった変わり者の朝倉との関係が微笑ましい。今後のシリーズで、関係が深まっていけばいいコンビとなるだろう。巨悪を暴くと宣言し、公安の方に向かってゆく筒見の去就はどうなるのか。次回作が楽しみな結末となっている。
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by abraxasm | 2015-10-16 15:04 | 書評
e0110713_10394859.jpg時代は二つの大戦間。リージェント・パークを臨むウィンザーテラスにはアナとトマス夫妻が住んでいた。アパー・ミドルに属する二人の館には、アナ目当ての男たちが毎日のように訪れていたが、トマスはあまり客を喜ばず一階の書斎で過ごすのが常だった。そんな時、別の女との関係が原因で亡き母に家を追われ、外国暮らしを続けていた父が亡くなり、二度目の妻との間にできた義妹ポーシャを頼むという遺言が遺されていたことを知る。

父が残したわずかな財産で母と子は外国のホテルを転々とする暮らしを続けてきたが、その母も死に、ポーシャは義兄の家に預けられる。内心の葛藤を隠し、体裁を整えるのが当たり前の上流階級の人々と、見知らぬ他人の間で生きてきた中流下層に属するポーシャの共同生活は予想通りうまくいかない。ふと目にとまったポーシャの日記をアナが見たことがすべての始まりだった。

アナの従兄弟の友人で歳若いエディ。小説家のセント・クウエンティン。アナのかつての恋人ピジョンの戦友プラット大佐といった面々がポーシャの前に現れては彼女を幻惑する。ポーシャはイノセントそのもので、大人たちにはそれが魅力的に映る。特にエディは、積極的に近づき、ポーシャに恋人であるかのように思わせる。次第にのめりこんでゆくポーシャを心配し、メイドのマチェットは厳しく戒めるが、アナが取り仕切るウィンザーテラスの世界に居場所のないポーシャにとってエディだけが心許せる相手だった。

三部構成で、一部と三部がロンドン、二部が海辺の町シールを舞台とする。登場人物も二部だけが中流下層の若者主体で、雰囲気ががらっと変わる。エディだけが二部の世界に闖入し、兄夫婦の外国旅行中、ポーシャの寄宿先であるミセス・ヘカムの家やシールの若者連中を引っ掻き回してはロンドンに帰ってゆく。ざっかけない暮らしぶりのミセス・ヘカムの家の暮らしになじみ、同じ年頃の仲間に混じって暮らすことで、ポーシャは変わりはじめる。

少女のイノセンスが、長く続いた習慣が作り上げてきたアパー・ミドルの虚飾の世界を暴き立て、内部で崩壊しつつあるアナとトマスの夫婦関係の破綻が白日のもとにさらされることになる。異なる階級、価値観に生きる人々が集う豪奢なテラス・ハウスは、ロンドンという都市の象徴であり、階級社会である英国そのもの。夏の間だけ避暑客で賑わう海辺の町シールは、よくも悪しくも田舎である。家のない子であったポーシャにとって、立ち位置の分からないロンドンより、行きずりの暮らしに慣れたシールの方が息がしやすいのは分かる気がする。

日に焼けて帰ってきたポーシャは見かけだけでなく何かが変わった。それは周囲の人に分かるほどの変容であった。セント・クウエンティンからアナが日記を盗み見たことを教えられ、ポーシャが家を出るあたりから、話は俄然面白くなる。少女の帰宅が遅れたことが、疑心暗鬼を生み、とりすました仮面夫婦の仮面が剥がれ、内心の愛憎が噴出し、一気にクライマックスに至る展開は三部構成の小説が正・反・合の弁証法的構成になっていたことをあかしている。

ポーシャの心を翻弄するエディという若者の存在が小説の眼目になっているようなのだが、当時「ブライト・リトル・クラッカー」と呼ばれ、「ダンディであること、ローグ(悪党、腕白坊主)であること、そしてナイーヴ(天真爛漫、無邪気)であること」が特徴だったと訳者あとがきはいう。いつの時代もそうだが、一世を風靡した世代の風俗は時代が変われば陳腐なものと成り果てる。個人的にはこの若者の臆病なくせに尊大で自意識過剰なあまったれ振りが鼻についてしようがなかった。訳者あとがきによれば、エディのモデルはボウエンと関係があった人物だとされる。個人的な思いが反映しての人物造型だとすれば、その愛憎の深さが思い知れる。

『パリの家』でも感じたことだが、アナがアンになっていたり、セント・クウエンティンが、サン・クウエンティンとなっていたりするつまらないミスだけでなく、意味の取りづらい訳が散見される。会話ももう少し訳し様はなかったのか、と思わせる直訳めいた箇所がいくつかあり興が殺がれた。版権の関係もあろうが、別の訳者の訳でも読んでみたいと思った。
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by abraxasm | 2015-10-15 10:40 | 書評
e0110713_15382748.jpgほとんどの登場人物が七十歳をこえている。こういう用語があるかどうかは知らないが、いうならば「老人」小説。わが国にも川端康成の『眠れる美女』や谷崎の『瘋癲老人日記』といった立派な老人小説が存在するが、ミュリエル・スパークのそれは、特異な性癖を持つ老人の行動や心理を描くというのではなく、イギリスのアッパー・ミドルに属する男女が、老いてからも続ける社交生活のなかで出合う結婚、恋愛につきものの嫉妬、裏切り、秘密といったあれこれを、お得意の底意地の悪いシニカルな視線であぶりだしてみせたもの。それに加えて、老齢からくる物忘れや神経衰弱、身体の不調、介護施設の扱い、遺産相続の揉め事、信仰心がからむ。英国小説であるから当然のことに階級の差からくる心的葛藤もモチーフの一つとなる。

誰が主人公とはっきりいえないくらい多くの人物が主要な役割を務めているが、中心に君臨するのは作家のチャーミアン。誰もが魅了される女性である。その夫がゴドフリー。妻が注目を集めるたびにプライドが傷つき、妻に意趣返しをしないではいられない俗物である。その妹がディム・レティー。事の起こりは、レティーのところに、不審な電話がかかってくることだ。その男は「死を忘れるな」と、告げる。いったい誰が何の目的でそんな電話をかけてくるのか。妹は兄の家を訪れ不安を漏らす。

一方、チャーミアンの古くからの話し相手兼メイドであったジーン・テイラーは今では老人施設に入所している。そこには昔の恋人で、身分違いゆえに結婚をあきらめたアレックがよく訪ねてくる。彼は「老年」について研究している素人社会学者。友人、知人を訪ねたり、人を雇って探らせた情報をカードに記入し、インデックスを作っている。テイラーは友人のチャーミアンの影響を受けてカトリックに入信した信仰心の厚い女性。レティーもよく彼女を訪ねては相談を持ちかけている。

脅迫めいた電話は、その後複数の関係者に次々とかかってくる。犯人は誰か、という興味で引っぱってゆき、次々と死者の数が増えるのだから、これは連続死を扱ったミステリ小説と見ることもできる。もっとも、何人もの死が続くのは単に登場人物が老人ばかりのせいで、殺されるのはその中のたった一人。しかも、その犯人は電話とは無関係ときている。登場人物の中で、知性もあり、周囲をよく観察しているテイラーとアレックがホームズとワトソン役だろう。テイラーの考えでは電話は神の声であり、アレック説は集団ヒステリーだ。いくらミステリのパロディとしても、この見解はふざけている。

社会階層で上の方に属する人々がもっぱら恋愛遊戯にうつつをぬかし、年老いた今になっても過去の出来事を気にして相手を憾んだり憎んだりしているのに比べ、階層の低い方はもっと露骨に金銭目的で犯罪をたくらむ。死んだライザ・ブルックの家政婦だったミセス・ベティグルーは、レティーに頼まれてチャーミアンの世話をすることになり、屋敷に入り込む。この女は名家の秘密を探り、それをネタに強請りをかけ、自分が相続人になるために遺書の書き換えを強要する悪党だ。

その意図を知ったテイラーは、リウマチで自らは動けない。好奇心の強いアレックを使って、チャーミアンの財産を守ろうとするが、それは親友の過去の罪を明らかにすることとなり、嫉妬による裏切りと見られる行為であった。世俗的には裏切り行為であっても、神の目から見れば友を救う慈悲による自己放棄の行為である。「死を忘れるな」の言葉通り、テイラーはそう遠くない死を前にして最善の行為をなす。しかし、どこまでも皮肉なミュリエル・スパークは、この世に善が行なわれることが、即人々を幸せになどしない、というあくまでも辛口な結末を用意している。

その意地の悪さに辟易しながらも、絶妙のタイミングで繰りだされるヒューモアについにんまりとさせられるのが、この作者ならでは。一つだけ挙げればチャーミアンのかつての恋人で批評家のガイと詩人のパーシーのアーネスト・ダウスンの評価をめぐるやりとりはなんとも微笑ましい。抗議をしにきた相手に抗議文を書く紙をわたしながら、「泊まっていけよ」と誘うところなんぞ「碁敵は憎さも憎し、懐かしし」という古川柳を思い出した。その後、『チャイルド・ハロルド』について話し合うために三週間滞在し続け、果ては『死を忘れるな』と題したシェイクスピア風のソネット一篇をものにした、というオチのつけ方など拍手喝采ものだ。

原題は『メメント・モリ」。いうまでもなくラテン語の警句で「死を忘れるな」の意。芸術作品のモチーフとしてよく使われる。昔の絵には、よく書斎の机の上に頭骸骨が置かれているが、あれがそうだ。もともとは、どうせ死ぬ身なのだから今を楽しめ、という意味で使われていたらしいが、キリスト教によって、生の空しさ、ひいては来世の希求、を表すようになった。アレックやテイラーにとっては後者の意味で、ミセス・ベティグルーにとっては前者の意味で使われているように見える。このダブル・ミーニングもまた、いかにもミュリエル・スパークらしい。
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by abraxasm | 2015-10-10 15:38 | 書評
e0110713_137179.jpg短篇小説というのは、雑誌などに他のいろいろな記事に交じって掲載されることが多い。短い頁数の間で読者に何がしかの感興を抱かせなくてはならない。書き出しにつまづいたら読者は放り出し、次の記事に目を移す。うだうだと御託を並べたてる暇はないのだ。そこで一気に読者をつかむためには思いっきり突飛な話題をぶつけるに限る。少なくともトピックがめずらしいものであれば読者は目をとめる。あとは、だれることなく関心を引きつけておけば結末まで読んでくれる。

だからといって、作家も人間だから次から次にと好き放題に面白いネタを取り出すというわけにもいかない。そこにはその作家ならではの特徴や個性のようなものがおのずから滲み出てくるものだ。ケヴィン・ウィルソンの場合、それは、他者との間に設けられた微妙な距離感ではないだろうか。人嫌いではないのだが、人との関係を上手く保つために、できたら他人との間に距離を置いておきたい、というような。それほど難しい要求ではないが、周りが理解しない場合、厄介な状況に置かれることになる。その切ない状況の細部を際立たせることで読者を主人公の心情に共感させる。

「替え玉」は、核家族対象の祖父母派遣サーヴィス会社のスタッフである五十代の女性が、祖父母との関わりを持たずに育った孫のために代理の祖母となって面会する仕事を扱っている。依頼者である身勝手な夫婦の態度に憤った「わたし」はついにタブーを侵してしまう。気ままな独り暮らしを選んだ独身女性がいくつもの仮の孫との疑似体験を経るうちに遂げる心境の変化を描く。祖父母派遣会社というアイデアが現代の家族問題を照射して秀逸。

「発火点」は、三年前に両親を「人体自然発火現象」で亡くした「ぼく」が、リストカット常習者の十六歳の弟と共に生きる日々を綴ったもの。両親の発火原因が不明で自分もいつか発火するのでは、という不安を抱える「ぼく」が勤めるのが、《スクラブル》のコマを作る工場。機械が吐き出す雑多な文字の中からをQの字を選り分けるのが仕事だ。作業の工程と作業中の心理がリアルに描き出されることで、その圧倒的な徒労感が胸を打つ。弟の自殺、自分の発火に脅えながら藁の中から針を探すような仕事に耐えるストレスを癒すのが製菓店の娘との束の間の逢い引き。娘の髪に残る菓子の香料の移り香があまやかだ。

「あれやこれや博物館」の管理者兼従業員である三十一歳の「わたし」は、今はやりのミニマリスト。自分の周りには何も置きたくないのに、がらくた同然の日用品を展示する博物館で働いている。そこに水曜日の昼になると展示品であるスプーンを見に来る初老の医師がいる。二人を結ぶのが、ウィリアム・サローヤンのコレクションだ。がらくたにしか思えない輪ゴムや石の展示の仕方を真剣に考えるなかで、他人にはがらくたに思える物も、集めた当人にとってはかけがえのない物であることを、「わたし」は、やがて知ることになる。

表題作のタイトルは、ちょっと大げさ。大学を卒業したばかりの三人の男女は毎日主人公の家でゴロゴロするうちに裏庭に穴を掘ることを思いつく。ある程度深く掘ると、そこからは横に掘り進み、所々に広い部屋状の空間を作っていく。夜はそこで寝泊りして地上には出なくなる。地上へ通じる穴から親たちが食事を運んでくれるのがおかしい。やがて、刀折れ矢尽き、一人、二人と脱落していき、主人公も外に出る。社会に出るのを躊躇するモラトリアムの気分を地中のトンネルという、そのまんまの仕掛けで描いてみせたところが力業。

「ワースト・ケース・シナリオ株式会社」の「ぼく」は、大学で専攻したカタストロフィ理論を使って物事が崩壊してゆく筋書きを企業に売り込む仕事をしているが、プライベートでも最悪のシナリオを想定せずにはいられず、二十七歳にして髪が抜け落ち、彼女にふられてしまうことを心配している。ある日、生まれたばかりの赤ちゃんのいる家の抱える危険度についての調査を依頼されるが、最悪のシナリオを聞かされた母親はその日から眠れなくなってしまい、会社を訪ねてくる。同情した「ぼく」が家を訪ねると夫が現れ、余計な節介をしたと殴られてしまう。カタストロフィ理論をネタにしたトラジコメディ。

ほかにクイズ選手権でしか価値を認められない二人の少年が目覚めはじめた性衝動ゆえに友人以上恋人未満の状況に陥る「モータルコンバット」。日系人家族の息子四人が祖母の家の相続権をめぐって千羽の鶴を折り、勝者を決める争いを描く「ツルの舞う家」など、すごく変わっているわけではないが、ちょっと周囲からは浮いている人々を主人公にした十一篇で編まれた短篇集。エキセントリックな登場人物や奇妙な仕事をふざけたものに見せないために、作者が用意したそれらを支える細部の描き方が効いている。
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by abraxasm | 2015-10-01 13:07 | 書評

覚え書き


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