<   2015年 08月 ( 5 )   > この月の画像一覧

e0110713_14302538.jpg「現代のチェーホフ」と呼ばれる短篇小説の名手、ウィリアム・トレヴァーの短篇集。若島正がその著『乱視読者の英米短篇講義』のなかで「つまらない作品をひとつとして書いたことのない」と称えたトレヴァーである。死にゆく人の最期に付き添う姉妹が亡き夫の仕打ちを赦すことのできない妻の心を癒す「死者とともに」から、時間を盗むようにして束の間の逢瀬をくり返してきた恋人同士が別れることを決めるその日を描いた表題作「密会」に至る全十二篇。どれも外れのない読み応えのある名篇ばかり。

読み応えがあると評したのは、一口に「面白い」といったのでは、トレヴァー作品の魅力を言い表したことにならないからだ。まず、尋常ならとても面白いとは言い難い人物がしきりと登場する。紹介所を通じて紹介してもらったばかりの相手に食事代を払わせようとする自称写真家(「夜の外出」)だとか、ストーカーのように別れた妻のあとをつけまわし、過去に自分が中傷された経緯を聞いてもらいたがる被害妄想気味の朝食係ウェイター(「路上で」)だとか、ちょっとつき合いたくないタイプの人物が少なくない。

トレヴァーが書きたいのは、人を感動させたり、泣かせたりする「ちょっといい話」なんかではないのだ。かといって、暗くて憂鬱な人生を描くためにわざと卑小な人物ばかりを探し出しているわけではない。人物に寄せる視線が偏っていないのだ。トレヴァーの小説に登場する人物は、まず市井のどこにでもいるような人々である。裕福な人々も登場しはするが、だからといって幸福であるとは限らない。同様に貧しい人がいつも幸せであるわけでもない。どの人物も弱みや悩みを抱えて生きている。トレヴァーは、その心の脆さに目を向ける。まるで姿の見えない精霊か何かで束の間それらの人物の心のなかに入り、いっとき憂いや惑いを共にし、満足すればするりとそこから抜け出てしまう。いなくなる寸前、小説でいえば結末の部分に、神に近いものがそこにいたという少しばかりの温か味に似たものを残して。

難しい言葉は使っていないのに、読んでいて何やらよく分からない気がする話も多い。ふつうなら、必要となる情報を出し惜しみしすぎるきらいがある。本当はもっとたくさん書いていながら、推敲段階で削れるだけ削っているのだ。小説として成立するぎりぎりのところまで削ぎ落としている。読者に親切な作家ではない。しかし、それが作品の中に不可解な部分を生み、その不可解さを解消しようとして読者は最後まで読み通そうとする。そして最後に至り、結末を締めくくる話者の言葉に有耶無耶でであったものが、すっきりした形に整えられたのを感じて納得させられてしまうのである。

「ジャスティーナ・ケイシーだけは道理にかなっている。クロヘシー神父は、今度もまたもそう思い、その思いが繰り返し頭に浮かぶことを嘆かわしく思いながら首を振った。正直な話、道理も何もまったく理解できない娘なのだ」というのが「ジャスティーナの神父」の書き出しである。誰もが信仰心をなくしてしまった今日、ジャスティーナのように告解し、罪を償うものはいない。無邪気で皆に愛されるこの娘にどんな罪があるのか。姉のメーヴは何に苛立っているのか。読者はなかなか手がかりを得られない。皆が口を揃えていい娘だと言うジャスティーナには学習障害があった。メーヴは老人病を患った義父、パブ通いがやめられない夫の他に妹の面倒まで見なければならない。神父と一緒に静かに神の恩寵を祈りたくなる一篇。

小説好きには、「グレイリスの遺産」がお勧め。突然遺産相続の話を受けたグレイリスは相続権放棄の手続きのため隣町の弁護士を訪ねる。妻の望む銀行家の出世コースを外れ、図書館の分館に勤めることを選んだグレイリスには、昼休みに小説好きの女性と話をするという密かな楽しみがあった。三年後、人の口の端に二人のことがのぼりはじめたのを知り年上の女性は町を去った。遺産はその女性からだった。妻も死に、二人の間に何もなかったが、グレイリスは遺産を放棄する。そこには彼なりの思いがあった。どの作品もそうだが、最後を締めくくる話者の言葉が心にしみる。何人もの作家や作品名が二人の話に挙がる。知らない名前の作家も多いが、そんな中にエリザベス・ボウエンの名が入っているのが嬉しい。トレヴァーと同じアングロ・アイリッシュの作家である。

暗い話も多いが、一抹の救いは用意されている。安心して読まれたらいい。そんななかで、「ダンス教師の音楽」は、一人の娘が十四歳の時に耳にした音楽の調べが、年老いて死ぬまで身の回りから離れることなく、彼女を包んでいることを語る、人と音楽との出会いの奇蹟を描いた、トレヴァーにはめずらしい、ひねりのない愛らしい佳篇。ほかに歳の離れた男女の心の通じ合いを描いた「伝統」、娘が起こした事故を隠蔽するため故郷を捨てた英国人一家の話(「孤独」)、夫の才能を生かそうと妻が考えた秘策(「聖像」)、恩師の苦境に涙する少女(「ローズは泣いた」)、アメリカ暮らしを夢みた男女の別れを描く(「大金の夢」)を含む。
[PR]
by abraxasm | 2015-08-30 14:30 | 書評
e0110713_17133964.jpg読みながら、たびたび思い出したのは長田弘氏の詩だった。思索的でありながら、索漠とした散文ではない、詩心を感じさせてくれる文章なのだ。解説の中でカプシチンスキがほんとうに詩人だったことを知り、納得した。これは詩人の筆になるアフリカ大陸に住む人々に関する優れたルポルタージュであり、エッセイであり、紀行である。ノーベル文学賞候補に挙げられながら、ノンフィクションであることを理由に受賞を逸したという話が伝わるが、おかしな話だ。事実に基づいて書かれようが、一人の人間の眼や耳を通って入ってきた情報を同じ人物が頭や心を働かせて言葉にすれば、そこに現れるのは最早ただの事実の記録ではなく、ひとつの作品である。そういう意味で、これはりっぱな文学作品といえる。それも折り紙つきの。

ルポルタージュといえば、理不尽な状況下にある国家に潜入し、飢餓や差別、貧困にあえぐ住民の姿を記者が報告するといった態のものが多いが、そこには西欧的、人道的な視点から見た独裁政権に対する批判がつきもので、高所から義憤をもらすといった一種のお定まりのスタイルに落ち着きがちだ。記者の側も自分の身の安全を顧みず、危険な場所で記事を書くわけで、高揚感がつきまとうのも無理はない。

『黒檀』の凄いところは、そういった説教臭さや上から目線があまり感じられないところにある。はじめのうちこそ、政治家、高官へのインタビューが混じるが、次第に視線はもっと身近な場所、近くにいる人々にそそがれるようになる。それは、乗せてもらったトラックの運転手や、知り合いになった現地人から、彼らを通じてその家族、氏族、部族の長といったアフリカの内部というか深奥部にいる人々につながってゆく。われわれ外部の者が、アフリカと聞いて思いつくのは、新聞等で見聞きした内戦や飢餓の話題である。そこには原因とされる何かがあり、それを解明し、対策が立てられれば、一件落着。興味関心は別の事件に移る。

カプシチンスキに非凡なところは、単身その現場に乗り込み、白人が住む町ではなく、現地の人が暮らすゲットーを根城に、自分の体で現場を知ろうとするところにある。亀ほどの大きさのゴキブリが密集し、ゴソゴソと動き回る部屋ではさすがに寝られず、部屋の外で朝を迎えるが。アフリカの動物で何が一番怖いかといえば、ライオンでも象でもない。それは蚊だ。マラリアに侵され、結核になり、それでも帰国すれば二度と戻れないからと、現地にとどまり、治療を受けつつ記事を書く毎日。

それでも、町にいる場合はまだ安全だ。車を駆り、砂漠に出たり、徒歩で移動したりする旅の苛酷さは、いつも死と隣りあわせだ。クーデターの渦中にある国に入国し、そこから出るまでの経緯を書いた「ザンジバル」篇などは冒険小説そこのけである。それだけ、危険な目に遭いながらも、その筆にはどこか突き抜けたような澄明さがあるのがカプシチンスキの書くものの魅力なのだが、それはどこから来るのだろうか。考えてみれば、危地を脱したものでないと、その記録はかけないわけで、どうにか生き延びたという安心感の裏打ちがあっての文章の明るさなのかもしれない。

全二十九編、どれもそう長いものではない。出来事のすべてが記録されているわけでもない。いわば、その「切り取り」の上手さが命の文章である。だらだらとした長い文章ほど読者を疲れさせるものはない。カプシチンスキのそれはまさにその逆をいく。自分が感銘を受けた人物なり部族なりを追いかけ、その核心部を突く。そこには、彼ら西欧人の理解を超える生き方や、考え方、信仰心、生活の流儀がある。彼らと同じものを食べ、同じ道を歩ききったものにしか知ることのできないものが。その内奥に触れることで西欧人であることの意味などは簡単に覆されてしまう。ここには、西欧的な思考にない時間や空間、人間観が詰まっている。
アフリカには定規で線を引いたような国境線で分割された国があるが、それに何ほどの意味があるのか。旧宗主国による勝手な線引きをこえたものとして部族がある。ルワンダ内戦におけるツチ族とフツ族による虐殺について、新聞等で読んではいたが、カースト制にも似た差別構造や隣国との関係など、これを読んではじめて知ったことは数知れない。アフリカのことが書かれているのだが、読んでいて、これは今のこの国のことではないか、と何度も考えさせられた。たとえば、次のようなところ。ヨーロッパ文化にあって、アフリカにないものを「批判能力」だと言いつつこう書いている。

「概して他の文化にはこの批判精神はない。それどころか、自己を美化し、自分たちのものはなにもかもすばらしいと考える傾向がある。つまり自己に対して無批判なのである。あらゆる悪いことは、自分たち以外のもの、他の勢力(陰謀、外国の手先、さまざまな形での外国による支配)のせいにする。自分たちへの苦言はすべて、悪意ある攻撃や偏見や人種差別だと見なす。こうした文化の代表者たちは、批判されると、それを個人への侮辱であり愚弄でありいたぶりでさえあるとして、憤慨する。(略)自己を批判的に見る精神の代わりに、悪意、歪んだコンプレックス、妬みや苛立ち、不平不満や被害妄想でいっぱいだ。結果、彼らは、恒常的・構造的な文化上の特性として、進歩する能力に欠け、自らの内に変化と発展への意志を創り出す力を持たない。」

これはアフリカ人のことだろうか。私には現今の日本を支配する人々を指している文章としか読めない。
[PR]
by abraxasm | 2015-08-28 17:14 | 書評
e0110713_12113687.jpgボウエン最後の長篇小説。ブッカー賞のリストに載るが受賞はしなかった。プロットや人物造型に対する不満が評価が分かれる理由らしい。人物造型についていえば、たしかに主人公であるエヴァはあまり人好きのするタイプではない。なにしろ億万長者の一人娘で、遺言により二十五歳の誕生日が来れば父の遺産はすべてエヴァのものとなる。遺産相続前の今もジャガーを乗り回す、そんな女性に共感できる読者はあまりいそうにない。それでは、人も羨む人生かといえばそれはちがう。幼い頃に母に死に別れ、国際的な企業家である父の仕事の関係で、寄宿学校か世界各地のホテルを転々とする生活のせいで母国語の習得もままならず、いまだに満足な物言いすらできない。

それだけではない。父のウィリーは同性愛者で、父の死後エヴァの後見役をつとめるコンスタンティンがそのお相手。母の死は恋人のいるパリに逃げる途中の飛行機事故である。親の愛を知らずに育った子どもであるエヴァは、自分という存在に自信が持てず、言葉の問題もあって他者とのコミュニケーションがうまくとれない。行き場のないエヴァのため、父が金を出しコンスタンティンの所有する城を、金持ち連中がもてあました不良子女を集めて学校にしたのはいいが、不祥事が相つぎ廃校となった時、エヴァが唯一頼りにしたのが、女学校時代の教師イズーである。

イズーは才気溢れる女性教師だったが、結婚後は教職を辞めていた。夫の果樹園経営はうまくいかず、エヴァを預かることで多額の金が入ることはありがたかった。ただ夫婦水入らずのところへ若い女性が同居することで、もともとひびが入りかけていた夫婦関係が危うくなり、イズーはエヴァをうとましく思っていた。そのエヴァが独り暮らしのために海辺の一軒家を購入することで、小説は動き出す。エヴァが世話になっていた牧師館の息子のヘンリー、イズーの夫であるエリック、それにコンスタンティンという男たちがエヴァに絡み、それに引きずられるようにイズーがあやしい動きを見せる。

金はあるが、愛に恵まれない娘がいかにして自己実現を果たしていくか、結婚、子育て、社会への貢献と、本来自分に課せられているはずの行為を、やかん一つ満足にガスにかけられない世間知らずの女性が、どうやって自分のものにしてゆくのか。自分が果たせなかった愛に溢れた親子関係を実現するため、不正な取引で幼児を取得するも、そのジェレミーは聾唖者だった。言葉を介さない二人だけのコミュニケーションは成立するが、ジェレミーの成長に伴い事態は変わる。小説は二部に分かれ、一部ではエヴァの独立が捲き起こす騒動を、第二部は渡米し、子育てをしていたエヴァが帰国し、ヘンリーとの結婚のためローマに旅行するまでを描く。

湖畔に建つ城砦、ディケンズの『荒涼館』のモデルとなった書斎、その近くに建つ海辺の邸宅、といった抜群のロケーション。「邪悪な後見人」コンスタンティンとイズーが囲むディナー。シャブリでは場違いと称される山盛りの牡蠣に山鴫料理、リド・ヴォー、と涎の出そうな献立である。人物造型に難があるという評だが、どの人物もただただ人に愛され好かれるような人物でないだけで、コンスタンティンやイズーをはじめ、ある意味、わずかばかりの登場に過ぎない傍役まで、魅力的な人物が揃っている。

プロットという観点で言えば、E・M・フォースターの小説のように大団円に向けて整然と進むようにはなっていない。ただ、一見唐突なような結末も、早くから伏線を張り、サスペンスを盛り上げるなど、考え抜かれた構成であり、これはこれで成熟した小説世界である。七十歳で、これだけの長篇小説を仕上げる力に感銘さえ覚える。

思い出の城砦が建つ湖にボートを浮かべ、ヘンリーとエヴァが遊ぶ夏の一日。ヘンリーが用意した苺とワイン(おそらく白)は『ブライヅヘッドふたたび』におけるセヴァスチャンとチャールズの栗の花の下での一時をいやでも想起させる。友人イーヴリン・ウォーに向けて片目をつむって見せたつもりだろうが、幸せの渦中にある二人を後から偲ぶにはこれを置いてない取り合わせといえよう。ヘンリーの父親が花粉症でクリネックスを手放せないところなど、英国小説らしいヒューモアもちゃんと用意されている。代表作とされる『パリの家』より面白く読んだ。もっと評価されていい小説だと思うが如何。
[PR]
by abraxasm | 2015-08-24 12:12 | 書評
e0110713_13125058.jpg掌篇といえるような短いものも含む短篇小説が十七篇。いずれも、ごくごく普通の男女が日常のなかで出会うべくして出会ってしまった類稀なる非日常の一コマを鮮やかに切り取り、すくいとって見せる、短篇小説の名手ならではの技巧の冴えを見ることができる名篇ばかり。それに加えて、アングロ・アイリッシュという出自、少女から老女へと成長・変化する女性心理の細やかな書き分け、二人の男と一人の女というちょっとバランスを欠いた「三人組」の関係、戦争時代が手繰り寄せる幽霊譚、といったボウエン独特のモチーフが他の作家に代えがたい魅力を添えている。

幽霊とはいっても、ボウエンの書く幽霊はあまり怖くない。知らない場所で自転車や自動車が故障し、助けを求めた先がそこにあるべきはずのない家であったり、いるべきはずのない人であったり、家の廊下に足音がしたり後姿が見えたり、という程度のものが多い。ボウエンのゴーストーストーリーは、師と仰ぐヘンリー・ジェイムズ譲りの心理的な存在。M・R・ジェイムズの書く物に出てくるやたら人を怖がらせる幽霊とは別物である。

人が一人で、あるいは複数の人と暮らしてゆく中で、不満や納得できない感情が募っていくあまりに、何か箍が外れるように日常に間隙が生じるとき、そのひずみに乗じて現れるのが幽霊である。人と人との気持ちのすれちがいやわだかまりが、誰の手によっても救われることがなくなったとき、人ではなく幽霊が現れるのだ。ボウエンの描く幽霊は、救いのない状況の中で、かなえられない願いや救いを求める心の反映である。それだけに最も怖いのは、知らぬ間にそうした状況を生みなし放置してはばからない人間であるといえる。

少女の持つイノセンスについても触れておきたい。ボウエンの作品にはよく少女が登場する。その年頃によって微妙に異なるものの、愛らしいだけの存在などでは全くない。むしろ、冷めていてときには非情なまでに残酷である。「ラッパ水仙」や「森の中で」に登場する少女がそうだし、「あの薔薇を見てよ」の少女の諦念にも似た透徹した怜悧さも印象的である。少女期に友人に告げた一言が年経て、わが身に降りかかる「林檎の木」も怖い。ただ、「林檎の木」には救いがある。年配の女性の捨て身の看護により悪魔祓いがなされるからだ。

このある程度の年齢になった女性の持つ力もまた。ボウエン作品の魅力である。「林檎の木」のミセス・ベタスレーがその一人。二度までも「オオカミ」と形容されているくらいだから、普段は厄介な人格なのではと思わせる。しかし、結びの段落にある「虚栄心にひそむ情熱は、その根底を突きつめれば精神力であり、強靭な攻撃力となる」という言葉通り、一ケ月というものその毒舌を武器に若い女性にとり憑いた悪霊と戦い、勝利する。

「闇の中の一日」は、ある夏の一日を描いた一篇。少女が女性に変わろうとする羽化にも喩えられる一夏を描いて美しい。十五歳の少女バービーは、叔父に恋している。叔父の方も少女といる夏を楽しんでいるようだ。少女は叔父の使いでテラス・ハウスに住むミス・バンテリーを訪ねる。本を返すのとアザミを刈る道具を借りるのが言いつかった事だ。叔父とミス・バンテリーの関係には何やらあやがあるようだ。この老いたミス・バンテリーはまさに女家長であり、有能な実業家でもある。人を見抜く力にも優れ、バービーの恋心もあっさり見通している。初めて会う女のぶしつけな言葉に内心を見透かされ戸惑う少女の心の揺れを描く筆が秀逸。ピクチャレスクな風景に囲まれた観光地の夏。オールド・ミスが少女を自分の秘めた恋のライヴァルと認知する。その少女に寄せる辛辣ではあるがおおらかな好感がなんとも心地好い。ジブリ映画に登場する女家長を思い出す。ボウエンの長篇に音をあげた経験を持つ読者も、この掌篇はお気に召すことまちがいなしである。

「幻想短篇集」と銘打たれているが、どちらかといえば「傑作短篇集」。そのなかに、比較的ゴースト・ストーリーが目立つ、というところだろうか。長篇小説では、二つの大戦をはさむ異常な時代、階層によって異なる文化・慣習を持つ英国人社会が生み出す複雑で多様な人間関係を、鋭利かつ分析的な視点と晦渋とさえ感じられる精妙な文体を駆使して描き出すボウエンだが、短篇小説には、全く異なった切り口で取り組んでいる。長篇小説と短篇の違いについては併せて収録された四篇の自著に付した序文に詳しい。批評家としてのボウエンを味わえるという意味でも、よく考えられた編集であるといえる。[
[PR]
by abraxasm | 2015-08-18 13:13 | 書評
e0110713_17575013.jpg「しかし彼らは二人きりではなく、それは最初から、けだし恋の初めからそうだった。彼らの時代がテーブルの三人目の席についていた。彼らは歴史の産物で、彼らの出会いそのものが、ほかの日ではありえない出来事だった――その日の本質がその日に内在していた。恋人同士にとってはそれがつねに真実だが、それがわかるのはもっと後になるかもしれない。人と人との相互関係は、各自が抱えている時代との関係に左右され、起きつつあることに左右される」

一般に恋愛というのは二人の男女の間に起きる個別的な問題であるように思われるが、ことはそれほど簡単なものではないようだ。この小説が扱っている時代は、第二次世界大戦のさなか、しかも主たる舞台は灯火管制下のロンドンである。主人公のステラは早くに結婚したが、その後離婚。亡き夫との間に二十歳になるロデリックという息子がいる。現在ステラには、ロバートという年下の恋人がいる。ある夜ステラのフラットにハリソンという男が姿を見せ、ロバートには情報漏洩の嫌疑がかかっている、危険だから即刻手を切れ、という。どうやらハリソンはステラに気があるようだ。

英国の小説らしく、アッパー・ミドルに属する主人公、ミドルに属する恋人、ロアー・クラスのルウイ、コニー、と異なる階級に属するもの同士が出会うことで生じる途惑いや軋轢、憧憬やコンプレックスが人間関係に深みと厚みを与え、立体的な空間を現出する。ステラは離婚後、持ち家を売り、家具つきのフラットを借りているが、亡夫の従兄弟がアイルランドに所有するビッグ・ハウス、モリス山荘は遺言によりロデリックが相続することになる。それに比べるとロンドン郊外に建つロバートの家は、一見豪邸だが、実は売りに出されている。

社会階層が影響を与えるのは、住む家だけではない。そこに暮らす人間の流儀、社交のあり方、言葉の使い方などすべてに渉る。実際、ステラという女性は頭がよく、容姿も魅力的で近づく男を虜にしてしまう。夫との過去に何があったかは謎として伏せられているが、息子にとっても魅力的な母である。ステラのフラットを訪れるロバートとロデリックが一枚のガウンを共有するのが象徴的である。ロデリックにはフレッドという友人がいつも連れ添っているが、オックスフォードの学友らしいところから見て同性愛の関係が仄めかされている。

戦時中、夫を戦地に奪われた妻が内地でどのような生活をしていたのか。ルウイは寂しさを紛らすために男との出会いを求めていた。小説の冒頭でルウイが見つけたのが、ステラに事実を話すべきか悩むハリソンだった。ハリソンの目にはルウイは見えないのも同様だった。同じ事態の下にあっても、階層の差は異なった恋愛事情を生む。ステラとロバートの恋愛は本物であったが、ダンケルクからの撤退で脚を負傷して実戦から遠のいたロバートは対独戦争に熱を上げる国民感情を冷ややかに見ていた。

国家への忠誠と敵に通じつつある恋人との間で揺れ動く心理という主題は戦争中、英国情報部に勤務していたこともあるボウエンならではの問題意識でもあろうか。あとがきで訳者も触れている同じ時代、よく似た主題を持つ、イアン・マキューアンの『贖罪』、カズオ・イシグロの『日の名残り』、そしてボウエンの友人でもあったイーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッド再び』などを既読の読者にはひときわ感興の深い読書体験になろうかと思われる。

近年、この訳者によるボウエンの新訳が相ついで出版され、手軽に読めるようになったのはありがたいのだが、訳者の言葉にもあるように、原文に可能な限り忠実な訳というのが難物で、日本語の文章としてはとっつきにくい感がある。吉田健一訳があると聞いたのだが、古本でもめったに出ないらしく、ネットで検索をかけるとかなりの高額だった。近くの図書館で検索しても所蔵しているところはなかった。読み慣れれば最初ほどひっかかりはなくなるが、さすがに流麗な訳とは言いがたい。どこかで『ブライヅヘッド再び』の時のように、吉田健一訳の復刊は出ないだろうか。情景描写、心理描写ともに素晴らしい小説であるだけに、好きな訳者の翻訳で読んでみたいと切に願うものである。

[PR]
by abraxasm | 2015-08-15 17:58 | 書評

覚え書き


by abraxasm