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『神秘列車』 甘耀明

e0110713_17062428.jpg台湾の若い作家の短篇集である。少し前に読んだ呉明益の『歩道橋の魔術師』もそうだが、近頃、現代台湾文学の紹介が相つぎ、それもどの作品も高水準を保つ。台湾は多言語社会でいくつもの言語が飛び交う。作中では多様な言語を駆使する甘耀明は、父が客家(はっか)で母はホーロー人。本人のアイデンティティーは客家だといい、翻訳では判りにくいが主に客家語で書いているという。

甘耀明の特長は、ストーリーテラーとしての才能にある。ひとりの語り手が語りだす物語のなかから、次から次へと語り手を繰り出しては新しい話を語り継ぐ、その様は台湾版小『千夜一夜物語』。ガルシア=マルケス『百年の孤独』以来、ちょっと風変わりな物語をみると、マジック・リアリズムの言葉を持ち出すのが流行りだが、規模は小さく、その意匠もアジア風に繊細ながら、この短篇集にはその言葉がそぐわないでもない。

表題作は深夜に家を抜け出した少年が夜行列車に乗って、勝興という山中の駅に向かう一夜の冒険を描く。少年には祖父と一緒に汽車に乗り、とある駅で降り、少しそのあたりを歩いては帰るという小旅行をたびたびした思い出がある。そんな折、祖父が昔勝興駅から乗り込んだ神秘列車の話を聞いた。いまやいっぱしの鉄道マニアとなった少年は、その誰も乗ったことのない神秘列車に乗ると思い定め、今夜決行したのである。乗り合わせた客や列車長の少年への思いがあたたかく、深夜の列車に独り乗る少年というテーマで思い出す『銀河鉄道の夜』とはまたちがった家族愛を感じさせる物語になっている。背景にさりげなく民族の歴史に残る悲劇を滲ませているあたり、ファンタジーで終わらせない一工夫がある。達者なものだ。

ややもすれば同工異曲のものが並びがちな短篇集が多いなかで甘耀明は一作一作ごとにまるでちがう作家であるかのようにその顔を変える。「伯公、妾を娶る」は、表題作とは趣きを一変するファルス。村長である主人公は「伯公」という神をずっと信じ、守ってきたが、息子はそれに理解を示さず大陸に行き、娘もまた白人の夫と結婚する。友人の政治家は参拝客獲得を目当てに神様を増やそうと伯公の妻や妾まで廟の中に入れる。グローバル化する社会の中でひとり旧弊な神信心に固執する主人公の苦衷を描く喜劇的な一篇。

「葬儀でのお話」は、話が好きで誰彼かまわず引きとめては話をするので素麺婆ちゃんとよばれていた祖母の葬式で、祖母の好きだった話を孫である語り手が語る。プロローグに続く第一話は「微笑む牛」。畑を耕すために買いに行った父が連れ帰ったのは雌の老水牛だった。ただ役立たずと思われた牛は微笑むことができた。闇夜でも霧の中でも道を失うことがなかった。語り手の少年の短慮から他の牛に傷つけられた牛はやがて…。七夕異聞ともいえる悲しくも美しいファンタジー。第二話「洗面器に素麺を盛る」は話好きの祖母と洗面器を背中に括りつけては宴会を訪れて振る舞い酒に酔うのが楽しみという祖父の出会いから別れまでを描いた夫婦の奇蹟の物語。まさに台湾版小『千夜一夜物語』。

台湾には同じ漢民族ながら戦前から住んでいた本省人と戦後移住してきた外省人の他に先住民がいる。山地で林業を営む人々は高砂族と呼ばれる。「鹿を殺す」に登場する二人の若い男女がそれだ。山を降りた二人が出会ったのは、獲物をさばいて売る猟師たちだった。仔を孕んだ水鹿が殺されるのを見ていられなかったパッシルは、買い戻そうとするが、値段が折り合わない。窮したパッシルは道具箱から仕事道具を出す。上手く口が使えぬパッシルに代わりゴアッハがその由来を語りだす。法螺話の面白さと山仕事に長けた少年のアクションが冴える痛快な一篇である。

いずれも読んだ後に台湾の歴史と風俗が醸し出す余韻が残る。後口のひときわ爽やかな短篇集。果たして台湾文学ブームは起きるか?

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by abraxasm | 2015-07-23 17:06 | 書評
e0110713_10221626.jpgフロリアン・キルデリーの両親は画家だった。親は息子に期待したが、彼にその種の才能はなく、両親の死後相続した十二部屋もある屋敷を保持する経営の才能もなかった。借金返済のために売り払ってしまい外国にでも旅立とうと考えていた。そんな時、部屋の隅で埃をかぶっていたライカを見つけ、両親はどうして写真という芸術があることに気がつかなかったのか、と思いついたフロリアンは、写真を撮ろうと訪れたラスモイの町でエリー・ディラハンに出会った。

エリーは修道院で育ち、ディラハンの農場に雇われたあと、その後添いに修まっていた。孤児だったエリーには他に選ぶ道はなかったのだ。ディラハンは自らの過失で妻と子を亡くした過去を持つ男だが、実直で働き者だった。結婚したあともエリーの毎日は変わらなかった。帳簿を整理し、週に一度自転車でラスモイまで行き、用事を片づける。変わったことといえば夜のことだけだったが、二人には子どもができなかった。

エリーは一目見た時からフロリアンのことが頭から離れなくなってしまう。修道院暮らしのあとすぐに農場に入り、男は今の夫が初めてで恋などしたことがなかった。イタリア貴族の血を引く細い指先の男などはじめて見ただろう。初恋に胸を焦がす若い娘の気持ちに肩入れしたくなるのだが、夫が嫌な奴ならまだしも、真面目で面白みはないが仕事振りといい、妻への気遣いといい、好い奴なのだ。フロリアンの方も満更ではない様子で、二人は人目を忍び逢瀬を交わすようになる。

そんな二人を街角で見つけ、ただならぬ気配を感じたのが商用の旅行者用宿泊所、広場四番の館を経営するミス・コナルティーだった。母親を弔ったばかりのミス・コナルティーには母に愛された記憶がなかった。ずっと無視され続け、妻のある男との間にできた子は有無を言わせず取り上げられた。そんなミス・コナルティーはエリーの行末を案じ、弟に命じて男を追い払おうとする。弟はしかし姉の心配を真剣に取り扱おうとはしない。姉以外に町で二人の姿を見た者などいないのだ。

いや、実は一人だけいた。長い間リスクィンのセントジョン家の図書目録係をしていたオープン・レンだ。年老いて今は記憶が不鮮明になりつつあり、通りすがりの人をつかまえては長談義に耽る町の名物男である。レンは、たまたま町で見かけたフロリアンを長い間町を離れていた雇い主である名家の跡継ぎと勘ちがいしてしまう。この人違いが、デウス・エクス・マキナとなり、物語は思わぬ方向へと進んでゆく。

長くイギリスの支配を受け、独立のための戦いを経て、やがてアイルランド共和国となる国の歴史を背景に、没落した領主層の末裔と、貧困の中から地道に精進を重ね、少しずつ農地を獲得してゆく民衆の間に生じた恋愛沙汰は、よくある「ひと夏の経験」を描くもの。やがて立ち去ることになる町での行きずりの恋を楽しむ男に対し、女は自分の生のすべてを賭けて相対峙する。まっすぐな気性の女は、自分の恋の理不尽であること、夫に対する裏切り、神に背くことを悩み、恐れ、恥じるが、思いは止み難い。

誰もが顔見知りであるような田舎町のこと。二人が逢引きに使うのは町外れのラヴェンダーが咲き乱れるかつてのリスクィンの屋敷跡、あるいは売りに出されて家具もなくがらんとした在り様のフロリアンの屋敷だ。どちらも移り変わる時代についてゆけなくなった階層のかつての夢の跡であり、この恋の行方が暗示されている。仕事に行く夫を送り出したあと、エリーは自転車を駆って約束の場所へ急ぐ。よろめきドラマの王道だが、初めて恋を知った若い娘の行動だと思うとちょっと応援したくなる。

しかし、男には未来に対する展望がない。才能がないのではない。幼馴染みのイザベラには物書きとしての素質を認められ、励まされたこともあったのだ。問題は才能のあるなしではなく、がむしゃらに何かに一生懸命になることのできない薄志弱行の性格にある。金に不自由のない家に育った者特有の生きる力の弱さだ。だからひたむきに迫るエリーを前にしてだんだん腰が引けて行く。エリーの思いを受け止められないくせにずるずると関係を続けるフロリアンというのは傍目から見ればとんでもない奴だが、いるよねえ、こんな奴。とても他人事と思えない。こんな男と駆け落ちなどしたって幸せになどなれっこない。今となってみればミス・コナルティーは慧眼だった。しかし、エリーは自転車に乗る大きさのスーツケースを町で新調する。はてさてどうなることやら。

古典的な風格をそなえたラブ・ロマンス。とても八十歳の老人の筆になるものとは思えないみずみずしさに溢れている。特に、アイルランドの田舎の人々の日々の付き合い、植物や動物の生き生きした姿、特に豪華ではないが、地の人々が愛する食べ物や飲み物がふんだんに登場するところなど、じっくりと読む楽しみをあたえてくれる。ひと夏、アイルランドの片田舎に滞在し、町の人々と知り合い、ともに酒などを飲み、歌を歌い、ダンスに興じ、ときには噂話に花を咲かせたあと、秋の訪れとともに静かに町を去る。そんな思いに誘われる愛すべき作品である。

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by abraxasm | 2015-07-15 10:22 | 書評
e0110713_18110998.jpg何故かナボコフの作品の中でこれがいちばん好きかもしれない、という気がしてくるから不思議だ。主人公は、ほぼ作者ナボコフ自身の経歴をなぞった亡命ロシア人の大学教授ティモフェイ・プニン。新大陸アメリカのウェインデル大学でささやかなロシア語講座を担当している。冒頭で読者は講演の依頼を受け、近隣の市に向かう列車に乗ったプニンを目にすることになる。禿げ頭に鼈甲ぶちの眼鏡、頑丈そうな上半身につりあわない華奢な足といった外見から、大学での講義の様子まで、およそ魅力的とはいいがたいが、傍目で見て笑いものにするにはもってこいという喜劇的な人物像が語り手によって描写される。実はプニン、乗る列車をまちがえている。時間短縮を図ったつもりがプニンが見たのは今は使われていない古い時刻表だった、というオチだ。

バナナの皮があるのを知らずに歩いてくる人物を描いたマンガのようなもので、その先に起こることを本人は知らないが話者と読者は知っている、というのは読者に話者と共犯関係にある優越感を抱かせる語りのスタイルである。しかし、徐々に分かってくるがこの語り手、通常の語り手とはいささか異なる位相にいる。どうやらプニンの友人であるばかりでなく、プニンの人生と深い部分で関わりを持つらしい。しかも、文中プニンの言うところによれば「彼は恐るべき創作者」で「なんでもでっちあげてしまう」というから、いわゆる「信頼できない語り手」ということになる。いかにもナボコフらしい仕掛けである。

あるところまで読んでくると、この語り手のいうことをどこまで信じたらいいものかという疑念が読者に生じる。すると、それまで滑稽に見えていたプニンに共感する気持ちが湧いてくる。からかうような筆致の中に、語り手は、友だちを大切にし、別れた妻が男との間に作った子にも愛情を注ぐ、心優しい男の像を忍ばせてもいるのだ。そればかりではない。プニンは、トルストイの『アンナ・カレーニナ』における時間の問題を滔々と弁じたり、シンデレラの靴がガラスとまちがえられた理由をその語源から解説して見せたりする。プニンは、異文化であるアメリカ社会の中に放り込まれることで滑稽にも変人にも見えているが、もし、正しい場所に置くならば、それなりの処遇を受けるに相応しい人格高潔にして学識豊かな人格者であることが読者にも分かるように書かれているのだ。

ストーリー自体は、うぶで女性に弱く、昔の恋人や自分を裏切った妻のことが忘れられない不器用な男が、周囲の思惑のためにようやく見つけた安住の地を奪われるという悲しい話である。それが、愛すべき人物プニンを取り巻く友人たちの好意や愛情によって住むところを得たり、休暇旅行に誘われたり、息子からの贈り物に一喜一憂したりという、ささやかなあたたかさによってくるまれて読者に届けられるので、ナボコフの小説の中ではちょっと他とはちがう感想を持つ。

一見したところ亡命ロシア人を題材に、ニューヨーカー向けの都会的なユーモアに溢れた連作短編小説とも読めるが、全篇をまとめて一篇の長篇小説として見ると、そこにはナボコフならではの複雑な構成が見えてくる。まずプニンの過去に寄せる郷愁が、事あるごとに彼を襲う。それは心臓の発作の形をとったり、単なる忘我のためという形をとったりするが、リスの形象は要注意だ。幼い時に病床でみた衝立に描かれたリスと壁紙のシャクナゲの模様が、そのまま今のアメリカでプニンを取り巻く自然と重なるあたり、『賜物』で使われた「チューリップ」の手法を思い出す。

語り手が蝶の蒐集家であったりするのも、作者とプニンの友人である話者を同一視させる手で、最後の章では、語り手は何食わぬ顔をして作中に登場してみせる。プニンとの関係を自ら語るばかりでなく、町を出てゆくプニンのセダンとすれちがい、追いかけもする。自らが造りあげたプニンという人物は、いうまでもなくもう一人の自分で、いうならばドッペルゲンゲル。ポオの『ウィリアム・ウィルソン』の例を待つまでもなく、自分がもう一人の自分と出会うときは、悲劇が起きる。どうやら、ナボコフも最初は、それを考えたらしい。しかし、最終的には今のラストを採用した。語り手がプニンを見送るときの文章は、相手の再出発を祝福しつつ名残りを惜しむという意味あいで『ロリータ』の谷間から聞こえてくる少女らの声を描いた箇所にも比して美しい。、

「小さなセダンは大胆にも勢いよく前のトラックを追い越し、前をさえぎるものがなくなって、輝く路面をばく走しはじめた。道はしだいに細くなって、静かにたなびく霞のなかで黄金の糸と化し、山また山が連なる美しい遠景の彼方には、どのような奇蹟がひそんでいるか何人にも予測することはできなかった」

しかし、これで終わらず、非情にもプニンの物真似をする同僚を最後にもってくるあたりが、ナボコフらしい。そうそう感傷的になって余韻に浸り続けていられても困るのだ。それよりも、ナボコフのよき読者なら、さっさと冒頭にもどって、文中に仕込んでおいた仄めかしや伏線を追いかけて、作中に巧妙に仕組まれている、初め読んだのとはちがう、別の小説を読むべく再読、三読にかかることを求められているからだ。

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by abraxasm | 2015-07-05 18:11 | 書評
e0110713_13125049.jpgサリンジャーのファンや愛読書の中に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』その他を挙げている人は読まないほうがいいかもしれない。読めば、これまでと同じような気持ちで作品を読み返すことが難しくなるだろう。たしかに小説と作者は別物だ。「文は人なり」などというつもりはさらさらない。人間として問題がある人物が美しい小説を書くこともある。ただ、サリンジャーという作家は特別だ。特に若い読者、あるいは若い頃愛読して大事な愛読書となっている読者にとって、コーニッシュの森は、侵すべきではない聖域という意味で一種のサンクチュアリになっている。この最も新しい評伝は、その中に土足で入り込んでいる。

二人の著者名があるが、二百人を超える関係者へのインタビューや書簡からの引用をその人物名をいちいち挙げてから紹介するという形式で書かれている。著者自身の言葉もそれらの中に混じっている。実在の人物を描いた映画のなかに当時の関係者が実際に顔を出して語る形式があるが、ちょうどあれと同じと思ってもらえればいい。一見多くの関係者の証言をそのまま提出しているように見えるが、その見せ方は著者たちの判断により、時系列を無視して選択・配列されている。一見したところこれといった意図のないカタログのように見えるが、その実購買意欲をそそるように周到に手が入っている。見えざる手が無数のカードを最も見ばえのする形になるように整えているわけだ。全篇を通して読んだら、サリンジャーという人物は、自身がその最も有名な著書のなかで徹底的に叩いたインチキ(フォニー)ではなかったのか、という疑念に囚われること必至である。

前半は、サリンジャー自身が著作の中で何度も触れている第二次世界大戦末期、ノルマンディー上陸作戦を含む五つの作戦に防諜部隊として従軍し、戦争の惨状を直接その目で見たこと、また終戦直前にダッハウ強制収容所の外部施設に進駐し、黒焦げになった無数の死体や骨と皮だけになった生存者を目にしたことで、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えるに至った事実を明らかにすることに多くの分量を割いている。

サリンジャーが体験することになった作戦の中には激戦として知られるノルマンディー、ヒュルトゲンの森、アルデンヌ(バルジの戦い)が含まれている。いずれもドイツ軍の攻撃によりアメリカ軍が多数の戦死者を出した戦場である。ただ、防諜部隊というのは一般の兵士とはちがい、ある意味恵まれた環境にあったのだろう。それほど激しい戦闘地帯にあっても、多くの証言のなかでサリンジャーは戦場のたこつぼの中でもタイプライターを離さず、ニューヨーカーに送る原稿を書いている。さらに驚いたことには、あのパパ(ヘミングウェイ)と戦地やパリで何度も会って原稿を読んでもらったりしているのだ。

この本が多くのページを割いているのがサリンジャーの女性関係である。長身でウィットに富み、洒落た会話ができたサリンジャーはニュー・ヨーク、パーク・アヴェニューに家を持つ裕福な家庭の生まれ。実業家の父とはあまりうまくいってなかったが、母には溺愛された。寒い戦地で葦を凍傷にやられなかったのは母が送ってくれた何枚もの靴下のおかげだったと言っている。1941年にサリンジャーが出遭ったのが、ウーナ・オニール。劇作家ユージン・オニールの娘である。十六歳にして、サリンジャーの他に、あのオーソン・ウェルズともデートしていたというから並大抵の少女ではない。戦地から大量の手紙を送るサリンジャーを振って、十八歳の誕生日になんと三十六歳も年上のあのチャーリー・チャップリンと結婚してしまう。これが終生サリンジャーにつきまとうトラウマとなる。

サリンジャーはそれ以後何度もティーンエイジャーの女性に接近し、気に入った娘には電話をかけて誘い、手紙を書き、最後には自分と暮らすことを認めさせている。「バナナフィッシュ」のシヴィルのモデルと思われる十四歳のジーン・ミラーとはフロリダ州デイトナ・ビーチで出会って以来、五年間交際を続けている。この無垢(イノセント)への固執はオブセッションとなり、才能ある美少女への執着、執拗な誘惑、魅力が開花するまでの助言、そして開花すると失望、落胆の果てに無視し廃棄する、この繰り返しである。『十八歳の自叙伝』の著者ジョイス・メイナードもその一人。大きな目が印象的な早熟の少女もサリンジャーの手に落ちる。その後の展開はすべて上に書いた通り。後にサリンジャーとの関係を暴露した『ライ麦畑の迷路を抜けて』を著し、マインド・コントロールから抜け出た経緯を記している。

著者は評伝を書いた目的を、サリンジャーが出版をやめたわけ、身を隠した理由、死ぬまで何を書いていたかについて答えることとしている。それらについては本の最後のほうに総括されている。興味のある向きはそこを読めば分かる。「第二次世界大戦はサリンジャーという人間を壊したが、かわりに彼を偉大な芸術家にした。宗教は彼が人間として欲していた心の慰みを与えてくれたが、かわりに彼の芸術を殺した」というのが著者の考えだが、そんな上手い具合に言い切れないのが人間というものではなかろうか。それは作家であれ、芸術家であれ、かわりはないだろうと思う。打たれ弱かったサリンジャーが、これを読まずにすんだのは幸いであった。

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by abraxasm | 2015-07-02 13:12 | 書評
e0110713_12280063.jpgディレイニーと並んで60年代アメリカSF界を代表する作家ロジャー・ゼラズニイの初期中短篇集である。全15篇の中には、ひとつのアイデアのみで成立する超短篇も含まれているが、その持ち味を堪能しようと思えば表題作を含む中篇に読み応えのある作品が多い。きびきびした語り口、当意即妙な会話はハードボイルド探偵小説を思わせる。格闘技好きらしくアクションを描くのが上手い。当今ではどこかの団体からクレームがつきそうなくらい男も女もやたらスパスパやるので作品の書かれた時代が分かる。しかし、ポケットから取り出して口にくわえればその場の雰囲気や人物の気持がさっと切り替わる絶妙の小道具である。持ち運びに面倒な酒類ではこうはいかない。

煙草や酒が気になるのは、飛びぬけた能力を持つ男が誰にも達成不可能思われる難局に挑む話が多いからだろうか。人はとんでもない状況を前にしたとき、何はさておき、まずは一服したくなるものだ。「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」は、十スクエア(一スクエアは百平方フィート)のフットボール競技場大の釣り用筏の上を縦横に移動できるスライダーを操作し、巨大な獲物イクティザウルス・エラスモグナトス(板顎魚竜)を釣り上げる話。どう考えてみてもクレーンゲームから思いついたに決まっていると思うのだが、1970年代のアメリカにはクレーンゲームは存在したのだろうか?舞台は金星の漆黒の海、太古の生物と眼を合わせたときに感じる一口には言い表せない感情に気圧され、一度は失敗した男が再起を賭けて挑む。ちゃちなアーケードゲームに巨大なスケール感をまとわせ痛快なアクションに仕立て直す才能に脱帽。

「この死すべき山」では、知りうる限りの世界で最高の標高を持つ山の初登頂を目指す男たちが出会う不可思議な体験が主題となる。麓から頂上を見ることができない“灰色の乙女”は大気圏より高く突き出たとてつもなく高い山だ。これまで世にある名高い高峰を征服してきたホワイティーにとって唯一登頂していないのが“グレイ・シスター”だった。いつもの仲間とチームを組んで登りはじめたが、頂上が近づくにつれ「帰レ」という声が聞こえ出し、天使のようなものが見え出す。これは高山がもたらす幻覚なのか?高峰を登山する体験をリアルに描いた山岳小説と思って読んでいたものが、最後にとんでもない種明かしが待っている。クライマックスまでの緊張感と謎解き後の緩さのコントラストが絶妙で口あんぐりとなること請け合いの一篇。

「このあらしの瞬間」は、凄まじい嵐のなか凶暴な獣が都市を襲う一大パニックに独り立ち向かう警官の活躍を描くハードボイルド感が強い一篇。冷凍睡眠による星間飛行が可能となった時代。見かけは若くとも実年齢はかなりの高齢者が現役で実力が発揮できる羨ましいような世界だ。監視カメラで空から街をパトロールする「わたし」には、若い女性市長の恋人がいる。長雨が洪水を呼び、水中から恐ろしい怪獣が現れるとパニックに襲われた街は無法地帯と化す。「わたし」の働きもあって災厄は去るが、嵐の後に残されたのは泥濘だけではなかった。人間とは何か、という問いに「わたし」は、かつてこう答えた。「人間は、彼がこれまでにしたこと、したいと思い、あるいはしたくないと思うこと、すればよかったと思い、あるいはしなければよかったと思うこと、それらすべての総体である」と。冒頭に置かれたこの定義が胸にしみる結末が待っている。

表題作は、火星のある一族に残る寺院の記録を解読する仕事を引き受けた詩人と踊り子の恋の顛末を描く。「伝道の書」によく似た色調を漂わせたその聖なる書物とは別に、一族には予言が伝えられていた。予言の成就と詩人の恋が二律背反になっている。リルケの『ドゥイノの悲歌』とサン・テグジュペリの『星の王子様』を風味づけに使ったところが洒落ている。ラブ・ストーリーなのだが、主人公の詩人はなんと東京大学東洋語学科の学生で講道館一級の腕前。当て身を使った格闘シーンもちゃんと用意されている。サービス満点の逸品。

冷凍睡眠によって想像を絶する時間を生きることが可能となった人間はイモータルな存在となり、ある意味神に近づくことになる。不死性を主題にし、神話、伝説を再構成したような作品も多い。どれをとっても神的存在や超人的なヒーローばかりのちょっと気恥ずかしくなりそうな英雄冒険譚が無理なく読めるのはヒーローが活躍する舞台となる世界の、SFならではのスケールの大きさにある。嘘くさい話をいかにも本当らしく読ませるのではなく、その愁いを喩えるのに白髪三千丈の比喩をもってした李白の美学にも似て、途方もなく大きなスケールを前にした時、ちっぽけな疑念などすっ飛んでしまい、人はある種の悲壮美にただ酔うのかもしれない。

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by abraxasm | 2015-07-01 12:28 | 書評

覚え書き


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