<   2015年 06月 ( 6 )   > この月の画像一覧

e0110713_15493375.jpgかつて『ウィダの総督』というタイトルで訳されていたブルース・チャトウィンの数少ないフィクションの新訳である。サザビーズでも指折りの目利きとして知られながら、世界各地を旅して歩き、現地での見聞や蒐集した資料を駆使して、それまで誰も試みたことのない斬新なジャンルを創出したチャトウィン。ありきたりの紀行では満足できない作家的気質と天賦の才能が編み出した手法はノンフィクション・ノベルと呼ばれたりもしたが、いかに史実に基づいていようが、その淡々とした叙述が小説よりノンフィクションを思わせようが、『ウィダーの副王』は紛れもない小説である。

西アフリカギニア湾岸のベナン共和国はかつてダホメー王国と呼ばれ、奴隷売買が禁じられるまで、各国に奴隷を輸送する基地として繁栄を誇っていた。首都アボメーは内陸高地にあるため、奴隷を運び出す港は海沿いのウィダーに置かれていた。序文のなかでチャトウィンは執筆に至る経過を簡単に叙している。それによれば、作者は二度ダホメーを訪れている。再訪の目的はブラジル出身の白人奴隷商人フランシスコ・フェリクス・デ・ソウザの生涯について材料を集めるためだった。序文に簡潔に記されたデ・ソウザの数奇極まる生涯は小説中のドン・フランシスコのそれにそのまま重なっている。まばらな資料の間隙を埋めるため、作家は空想をもってそれに代えた。名前を変えたのはそのためである。

小説はドン・フランシスコことフランシスコ・マノエル・ダ・シルヴァ没後百十七年目に開かれたウィダーにおける故人の鎮魂ミサと追悼の宴の紹介から始まる。かつては偉容を誇った大聖堂も王国がベナン人民共和国に変わってからはさすがに落剥の色が濃い。西アフリカ各地からやってきた大人数の一団は屋敷に場所を移す。豪華なブラジル風晩餐の途中に死者の祭列が闖入し、山羊の首が切り落とされ、その血が死者のベッドや墓、祭壇の上に撒き散らされる。カトリックのミサとブードゥー教の祭儀の宗教混淆(サンクレティスム)である。宴席ではドン・フランシスコの莫大な財産の行方が話題の的だ。ラジオから大統領の緊急演説が聞こえているが、聞く者とてない。

第二章は宴席の向こうで死を迎えようとしているドン・フランシスコの愛娘エウジェニア・シルヴァの悲劇的な一生がまるで一篇の短篇小説のように挿入される。そのなかには故人の息子と孫のこれもまた悲劇としか言いようのない死の顛末が入れ子細工のように象嵌されている。第一、二章はまるまる一族の繁栄の陰画、つまりかつての栄耀栄華の痕跡であり、滲みの披露に費やされる。唯一人の生き証人エウジェニアが死んだ今となってはドン・フランシスコの生涯はいまや知る人もない。混沌そのものといえる末裔たちの乱痴気騒ぎと娘や息子の不幸な生涯の向こうに透けて見えるドン・フランシスコの生涯の物語とは。

第三章から第五章までが、ブラジル生まれのマノエル少年が単身アフリカに渡り、ダホメー王の生涯の友となり、ウィダーの副王に任ぜられ、ドン・フランシスコという王にだけ許される呼称で呼ばれるようになるまでの人生を描く。早くに両親に死に別れ、旱魃の飢餓にあえぎ、子どものうちから他人の中で独り生きていく術を身につけざるを得なかったマノエルは勇気とともに酷薄さを身に帯びた少年だった。その勇気が、誰も行きたがらないアフリカ行きを志願させ、狂気のダホメー王に一目置かせることとなる。

全滅した要塞を立て直し、奴隷貿易を再開させるまでの活躍は痛快なのだが、マノエルには人に好かれる才能と共に、人をたやすく信じてしまう癖も備わっていた。王によって囚われインディゴの入った樽に全身漬けられたり、轡で口に栓をされたり、アフリカへ行くきっかけとなった友人にも好いようにあしらわれたり、と人生の折り返し点を過ぎた辺りからは苦難の連続。さしもの剛毅なドン・フランシスコも、ブラジルへの郷愁からは自由になれない。王との契約に縛られ帰郷もかなわない我が身に代えて二人の娘を故国に送るのだが、娘の末路は哀れなものだ。

領地でもなければ、奴隷の確保でもない、ただただ敵の首を切ることだけが目的の戦争、頭蓋骨で部屋を飾る王、女戦士の軍団、絶えざる毒殺の恐怖といった想像を絶した驚異的な世界は、ガルシア=マルケスをはじめとするラテン・アメリカ文学を思わせるが、冷静沈着な記述スタイルから窺えるのは魔術的リアリズムというよりは古典的様式美である。チャトウィンの筆は、人生の最も輝いている時も惨めで救いがたい時も、何ら変化することなくただ事実を淡々と述べてゆく。その筆致は時に酷薄非情とさえ思えるほど。しかし、扇情的な叙述もお涙頂戴的な泣き言もない「述べて作らず」といった文章は、読むほどに故郷喪失者の筆舌に尽くしがたい苦衷を能弁に語って止むことがない。

小説は最終章で長い回想から覚め、現実世界に戻る。しかし、その世界で今行われようとしていることが過去の王国で行われた事跡の繰り返しに過ぎないことは誰の目にも明らかだ。永劫回帰。すべてはくり返す。人間のやることには進歩も成長もない。ブルース・チャトウィンのアイロニカルな視線が見据えた渾身のラストに戦慄が走る。旦敬介の訳は読みやすく雄渾。チャトウィンは好い訳者を得た。

[PR]
by abraxasm | 2015-06-23 15:49 | 書評
e0110713_15250827.jpg主人公の一人スキップことCIAのウィリアム・サンズがなかなかやってこない指令を待ちながら、潜伏先のベトナムのヴィラで読んでいるのが、シオランとアルトーというのが、スパイ活劇風小説におけるいいスパイスになっている。二段組で600ページをこえるボリュームだが、視点の一極集中による単線的思考からくる飽きを避けるため、複数の視点人物を配することで手際よく場面を転換し、ある種の群像劇とすることで最後までぐいぐい引っぱって読ませる。

1963年、ラジオからケネディ大統領暗殺事件の報道が流されるところからはじまり、1970年までのベトナム戦争の時代、サイゴン市内や南ベトナムの村を舞台に繰り広げられたCIAによる心理作戦関係者の体験を描いている。そう紹介するとスパイ物か戦争小説のようにとられそうだが、どちらともちがうような気がする。たしかに戦闘シーンには迫力があり、捕虜を逆さ吊りして拷問する場面など凄まじいまでに惨酷だが、それが主ではない。

中心になっているのは、戦闘や情報を操る側ではなく、否も応もなく事態に巻き込まれてしまう側の人物である。どこにでもいるごく普通の若者が戦争を体験するなかで、どのように変化していくのか、人は戦争をどう自分の中で処理し、あるいは戦争によって刻々と変えられていく自分をどう処理するのか。ベトナム戦争といういわば他国の戦争を戦ったアメリカ人だけが抱く深刻な問題意識を、異なる階層、異なる人種の視点を介することで、より立体的に客観的な見方で描こうとしたもの、とひとまずはいえるのではないか。

作者は、しかし観念的、抽象的なアプローチはとらない。父親を刑務所にとられ、母親は信仰にいれあげ、空っぽになった家から出たいばかりに、ベトナム戦争に従軍したヒューストン兄弟は、およそ立派な兵士とはいえない。何かといえばクソを連発するその会話を通して、戦争という事態が如何にクソであるかをストレートに訴える役割を果たす。それだけではない。兄弟にとっては帰国した故郷での暮らしも戦地以上にクソなのだ。未来の展望というものを一切欠いた二人の閉塞感は今のこの国を考えると他人事とは思えない。

狂言回し的な役割を果たすのがスキップことウィリアム・サンズ。伝説的な英雄で退役した今も「大佐」と呼ばれる叔父に憧れてCIAに入り、現在は共産主義と戦うために大佐の命でベトナム入りしている。しかし現場での華々しい活躍の願いは叶わず、現実は情報を記したカードの整理に終われる毎日だ。夫を亡くしたカナダ人女性キャシーと関係を持ったり、現地人の神父とお茶したり、およそ戦時とも思えぬ日々を過ごすうちに叔父の進める心理作戦「煙の樹」のなかに取り込まれてゆく。この内省的な人物の心理を通して読者は物語のあらましを知る仕組みだ。

大佐のために働くベトナム人のグエン・ハオやミン、ハオの友人でベトミンとなったチュン・タンからは、中国、フランスの支配を脱したと思ったらアメリカに蹂躙される郷土への思いが痛いほど伝わってくる。しかし、このベトナムの若者たちは何故か大佐にひきつけられる。豪放磊落なようでいて人心掌握に長けた元アメリカ軍大佐フランシス・サンズこそがこの長大な小説の鍵を握っている。物語は北ベトナムの闘士チュン・タンを二重スパイとして北に送り込むという大佐の計画によって動き出すと、後は一気に加速する。

ドイツ人の狙撃主や英国人の昆虫学者、CIAの協力者、と胡散臭い連中が大佐の作戦の遂行と阻止を賭けて暗躍するスパイ合戦の様相を呈してくる後半は、前半のテト攻勢下のヘリ基地を守る銃撃戦の場面と並ぶこの小説中の白眉である。スリルとサスペンス溢れる情報戦の場面と酒と女の乱痴気騒ぎ、雨の降り止まないヴィラでやってこない命令を待ち続けるスキップが過ごす村暮らしの静謐な時間、それに帰国した兄弟の破滅的な振る舞いが強烈なコントラストで次々に立ち現れる。この緩急相まったリズムがシニカルなユーモアを醸し出し、長丁場を支えるのだ。

アメリカにとってベトナム戦争とはいったい何だったのか。湾岸戦争、イラク戦争、そして今もまだ、世界各地で戦争を遂行中のアメリカという国は何も変わっていないのではないか。自国とは直接利害関係のない他国を舞台に断続的に戦闘行為を持続することで覇権大国の体面を維持し、パクス・アメリカーナの夢を見続けている。その陰で多くの人間が死に、傷つき、精神を病み、人生を損なっている。読み終えた後もやりどころのない重い塊のようなものが自分の中に居座り続けるのを感じる。「戦争」という言葉が息を吹き返して巷を賑わせている今日、観念としてでなく魂の深いところにおいて「戦争」を想起するのに相応しい一冊である。

[PR]
by abraxasm | 2015-06-20 15:25 | 書評
e0110713_18234282.jpg全集で難しいのは数多ある代表作の中から何を選ぶかということだろう。中上といえばよく引き合いに出されるのがアメリカ南部にある架空の地ヨクナパトーファ郡に起きた多くの人々と出来事を描いたウィリアム・フォークナーのヨクナパトーファ・サーガだが、中上がそのサーガの舞台としたのは、架空の場所ではなく彼の郷里である紀州、新宮のとりわけ路地と呼ばれる集落であった。その路地生まれの秋幸を主人公とした『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の三部作を池澤はあえて避け、秋幸の母フサを主人公に据えた『鳳仙花』を選んでいる。これが好い。

わざわざ日本文学全集で中上健次を読んでみようと考える人は、中上健次について不案内なはず。のっけから路地だの秋幸だの龍造だのといわれても、その輪郭がつかめないだろう。そういう意味で『鳳仙花』は、その世界を概観するためにはいちばんふさわしい。これを読んで面白いと思ったら三部作を読んでどっぷりと紀州サーガにのめりこめばいいし、そうでなくとも『鳳仙花』一篇はそれだけで充分読み応えのある傑作である。

主人公のフサは兄三人姉三人の下にできた父親のちがう妹で六つちがいの兄吉広を慕っていた。昭和六年三月。十五歳になったばかりのフサは吉広の口利きで親許の古座を離れ新宮にある佐倉という材木商の家へ女中奉公に出る。佐倉の家は大逆事件で幸徳秋水らに連座した「毒とる」と呼ばれた医師の弟筋にあたる。貧しい肉体労働者や門徒に頼りにされていたが、事件以来、天子様に弓引いたと周囲から掌を返したような扱いを受けた過去を持つその佐倉が何を考えてか人足らを大量に抱えこんでいる。この家を包む不穏な空気がフサの目や耳を通して伝わってくる。フサの成長を描く小説ではあるが、地霊が潜む新宮の地は奥が深いのだ。

紀州は木の国である。平地というものがなく山が直接海に落ち込んでいる。海沿いの町を結ぶ道はなく船便に頼るしかない。山から切り出した木は木道に油を引いた上を材木を束ねた木馬(きんま)を曳き、筏に組んで川に流す。危険な仕事だから男たちは勇み、あらぶる。山から降りれば女が欲しくなる。廓に通うだけでなく、手近な女に声をかけ浜で事に及ぶ。男も女も性に関しては奔放だ。フサにもすぐに男が言い寄る。吉広に似た勝一郎は路地の男だった。所帯を持ち、次々と子どもが生まれ、フサは行商をして子どもを育てるが、時局は厳しさを増すばかり。

貧しい暮らしの中で若くして多くの子を生んだ女が背負わなくてはならない人並みでない苦労が描かれるのだが、ひとつも湿っぽくならない。解説で池澤が古事記に喩えているが、自分の男を美しいと思い、生(性)を謳歌し、次々と子を産むフサは子を孕むごとに美しくなり、まるで神話の神のようだ。日本の神話だけではない。陽光溢れる紀州の海はエーゲ海や地中海を思わせ、フサの生む子もまた美形で知力や胆力に恵まれている。背中に彫り物を入れたイバラの龍こと浜村龍造さえいかつい大男であることやその正体が闇に包まれていること、次々と女に手を出しては子ども孕ませることなど、どこかの神を思わせる。

戦前から戦中戦後、朝鮮戦争の不穏な時代を背景に、古くから熊野信仰で知られる新宮に残る御燈祭や御舟漕ぎといった季節の神事を絡ませ、様々に入り組んだ差別的な環境の中で、差別を受ける側に視点を据えながら、卑屈にならず、逃げず、投げやりにならない主人公の半生を描く。その生き方は猛々しいまでに圧倒的に強く美しい。時にくず折れてしまいそうになるとき、小さいながらも子どもたちのなかに芽生えつつあるフサのものでもある向日性や小さな生をいとおしむ優しさが溢れ出て母親を支えるのが美しくも愛しい。

ほとんどロマンスといっていい物語性の強さにもかかわらず、これが日本文学の中でも指折りの傑作小説といえるのは、ほぼ家族史といってもいい「私小説」的な枠組みを用いながら、私小説に見られる自堕落なまでの主観的な事実へのもたれかかりに甘えることなく、周囲の人々への聞き取り、神話、民俗学、歴史から学んだことを溶かし込んで、果敢に小説的な試みに挑んでいることにある。作者の勉強ぶりもさることながら、その恵まれた感性や資質、特に海鳴りや山の音についての度重なる言及から、作者の音に対する感覚の鋭さは注目に値する。それが功を奏しているのか、語り口の好さはまさに音楽といってもいい。いつまでもその独特のリズムに乗っていたいと思わせるものがある。

他にオリュウノオバが語る中本の一統の男たちの物語、「半蔵の鳥」「ラプラタ稀譚」。今昔物語その他日本の古典に想を得た幻想譚「不死」「勝浦」「鬼の話」。ルポルタージュ風のエッセイ「古座」「紀伊大島」を所収。いずれもこの不世出の作家の才能をあますことなく伝える佳品ばかり。幻想文学好きには「不死」を含む三篇だけでも読まれることをお勧めする。中上健次は如何にそれが有名であったとしても、紀州サーガにとどまる作家ではなかったことが思い知らされる。

[PR]
by abraxasm | 2015-06-15 18:24 | 書評
e0110713_15483425.jpg原題は“ Gene Wolfe’s Book of Days ” 。この「ブック・オブ・デイズ」。ここでは「記念日の本」という訳になっているが、一年間365日の一日一日について、「今日は何々の日」ということを解説した本のことである。ジーン・ウルフがその初期短篇の中から、ある記念日にちなんだ短篇を選び出し、「ブック・オブ・デイズ」を模して配列した短篇集である。かなり短い作品から、中篇に近い作品を含む十八篇とまえがきに仕込まれた小篇がひとつ。ちゃんと前書きを読む好い子のためにおまけがついている。このおまけが絶妙で、本編に対する期待がいやまさるという憎い仕掛け。

実はジーン・ウルフについて、有名な『ケルベロス第五の首』や「新しい太陽の書」シリーズには今ひとつ好印象をもてなかったのだが、「デス博士の島その他の物語」には惹かれるものがあった。個人的な好みで一般性はないのだが、いかにもSFらしい作品を前にすると難解な科学用語や架空の理論にひるんでしまうところがある。それでいてSF作家が書く物の中にはお気に入りの作品がいくつもある。そんな読み手なのだが、この短篇集からは自分好みの作品をいくつか見つけることができた。自分でアンソロジーを編むとしたら、是非選びたいのは休戦記念日にちなんだ一篇、「ラファイエット飛行中隊(エスカドリーユ)よ、きょうは休戦だ」だろうか。

かなりの空戦マニアなのだろう。フォッカー三葉機のレプリカをほとんど自力で造りあげた「わたし」は、空気のきりっと冷たい早春のある日その年二度目のフライトに飛び立つ。機体はぐんぐん上昇し、どんな鳥の背をも見下ろす高度に駆け上がったそのとき、地平線すれすれに浮かぶ赤身の強いオレンジ色の点を発見する。それは気球だった。ゴンドラには美しい娘が乗って手を振っていた。「わたし」は、偵察の任務も忘れ、気球の周りを旋回し、娘と身ぶり手振りで会話のまねごとをかわすが、やがて燃料が切れ着陸を余儀なくされる。給油後再び離陸するも娘には二度と会えなかった、という話。

気球は南北戦争当時リッチモンドの淑女たちが拠出したシルクのドレスで縫い上げた偵察用気球のレプリカと思われたが、その後何度飛んでも二度と出会うことは叶わなかった。 「わたし」は密かに思う。すべてを本物と同じように造りあげたフォッカー三葉機が唯一オリジナルと異なっているのは、ドープ塗料が当時の強燃性のものから不燃性のものに変わっていたことだ。もし、強燃性ドープ塗料を使っていたら、事態はちがっていたのではないか、と。このとことん細部にこだわるマニアックな資質に神が宿るのだ。

日暮れ近い空の上で遭遇した気球はレプリカではなく本物ではなかったのか。もし、自分の機体が当時と同じ強燃性ドープ塗料で塗られていたら、オリジナルの飛行物体だけが時を越えて相見えることのできる時空に、思う様飛んでいけたのではなかったか。その時代の最新鋭機を造りあげた者だけが行くことのできる空の通い路には、今も多くの複葉機や三葉機、飛行船が夕焼けの雲を背景に行き交っている、そんな夢のような光景を想像させる珠玉の一篇である。宮崎駿はこの作品の存在を知っているだろうか。評者にはゴンドラに乗ったペチコート姿の娘がナウシカに見えて仕方がなかった。


[PR]
by abraxasm | 2015-06-11 15:48 | 書評
e0110713_12303509.jpg1701年冬、シレジアの雪原を二人の男が追手を恐れながら歩いていた。軍を脱走しスウェーデン王の許へ急ぐ青年貴族クリスティアンと、絞首台を辛くも逃れた市場泥棒だ。身を隠すため入った粉挽き場にあった料理を勝手に食べた二人は、ちょうど来合わせた粉屋に代金を請求される。無一文の二人は窮するが、貴族は近くに代父で金持ちの従兄が住んでいたことを思い出す。体が弱っていた貴族は泥棒に指輪を渡し、自分の代わりに従兄の領地に行きスウェーデン行きの支度を整えるよう頼みに行ってくれと泥棒に託す。

泥棒が訪ねた貴族の従兄の領地は荒れ果て、館には自分を追う悪禍男爵率いる龍騎兵の一団が屯していた。おまけに領主は死に、跡を継いだ美しい娘は多額の負債に苦しんでいた。粉挽き場に取って返した泥棒は貴族に事情を話し、二人が入れ替わることを提案する。自分がアルカヌムであるグスタフ・アドルフの聖書を携えスウェーデン王の許に行くから、お前はほとぼりが冷めるまで僧正館の鉱山に身を隠せ、と。つまり、この話は「王子と乞食」ならぬ「泥棒と貴族」という異なる環境に生まれた二人の人物の入れ替わり譚である。

年恰好は似ているが、二人の性格、能力はかなりちがう。坊ちゃん育ちの貴族はプライドの高いわりに肉体的には脆弱で何かというと弱音を吐く。一方、泥棒は知力、胆力、身体能力共に高く、人を差配するのに秀で、農業全般に詳しく経営の才能にも恵まれている。世が世であれば、泥棒の方が貴族の若殿にふさわしいのは誰の目にも明らかだ。泥棒が、貴族に成りすまし、娘を助けて領地を管理してやろうと考えるのも理解できる。

ヴァルター・ベンヤミンの『子どものための文化史』に「昔のドイツの強盗団」という話がある。泥棒のなかには王や皇帝といった権力者に楯突き、仲間内ではきちんとした盟約を交わした騎士団のような強盗団があったことを子どもたちに教える内容だが、ちょうどこの話の泥棒が悪禍男爵率いる龍騎兵と対抗するために首領に納まるのが、そうした強盗団のひとつである。いくつもある誓約の中には仲間を売らないという重要な一項がある。女の嫉妬がそれを破らせることで泥棒貴族の悲運が生じるのだが、それはもっと後の話。

美しい娘のことが頭から離れない泥棒は貴族との約束を反故にし、スウェーデンには行かずに盗賊団を率いて荒稼ぎをし資金ができたところで解散する。そうして娘のところに行き、自分があのクリスティアンだと名乗り、領地を監督、いつしか領民に<スウェーデンの騎士>と呼ばれるようになる。二人の間には可愛い娘クリスティーネもでき、幸福の絶頂にいるとき、昔なじみの盗賊二人が現れる。正体がばれそうになった泥棒は泣く泣くスウェーデン王の許に馳せ参じるためと偽って、家族のもとを去り、自分を陥れようとする昔の女を訪ねるのだった。

世界が今ほど固定化しておらず、未分化で混沌としていた時代。権力者としての王が君臨していても、それ以外にも地上の権力者は多数いて、治外法権に守られ、鉱山から産出される富で贅沢三昧する僧正、裁判権を手にし、好き放題に罪人を狩る悪禍男爵、強盗団の首領黒イビツ、といずれも手強い面々が群雄割拠しているシレジアの地。アルカヌムという羊皮紙でできた呪符に幸運を呼ぶ効力があり、体の傷みは呪いの言葉が癒すと信じられている時代である。年に一度煉獄からよみがえる粉屋の主人のような不審な人物も登場すれば、天使による天上での裁判の場面さえ描かれる。そういう場面には幻想小説の気味がないとも言えないが、異能の泥棒が盗賊団の首領から<スウェーデンの騎士>と呼ばれる貴族にまで成り上がるこの話はやはりピカレスク伝奇ロマンの名が相応しかろう。

「序言」で、この話はマリア・クリスティーネというデンマーク王国顧問官にして特命公使夫人の回想録をもとにしていることをことわっている。六歳の頃<スウェーデンの騎士>と呼ばれた父は母の懇願を無視して戦場に赴いたが、その後も何度か深夜に娘クリスティチーネの窓辺を訪れた。しかし、使いの者の報せによれば、父は三週間前に名誉の戦死を遂げていたという。では、二日前に父と会ったあれは夢だったのか。母は、お父さまのために『我ラノ父ヨ』を祈っておあげ、といったが、父の死を信じられない娘は、ちょうど表の街道をゆく葬列のために『我ラノ父ヨ』を唱えたのだ。この序言に示された不可思議の謎解きは最後に明かされる。いかにも悪漢小説(ピカレスクロマン)にふさわしい幕切れとなっていると思う。

[PR]
by abraxasm | 2015-06-07 12:30 | 書評
e0110713_11584252.jpgあるとき朔太郎を読んでいて、文学とはまず第一に批評である、と書かれていて驚いたことがある。それまで文学といえば真っ先に思い浮かべるのは小説だったから、なぜ批評がその上に位置するのだ、と疑問に思ったものだ。当時、批評とは「他人の書いたものをあれこれ論じて価値を定めるその時々のジャッジ」のことだと思っていたからだ。しかし、それは文芸時評(review)というもので、批評(criticism)ではない、と解説を読んではじめて腑に落ちた。それでは批評とは何か。池澤によれば「批評は文学の原理を明らかにし、文学を導くもの」だそうだ。なるほど、それならよく分かる。朔太郎のいう批評とは、(criticism)のことだったのだ。

当時すぐにそう思えなかったのは、こちらが未熟だったことは勿論だが、そう言われて思いつく批評(criticism)らしきものを読んだことがなかったからでもある。じゃあどんなものがそれにあたるのかといえば、この本の巻頭に置かれた「文学の楽しみ」を読めばいい。これこそ、文学の原理を明らかにし、文学を(本来そうであるべき方向に)導いてくれる文章というもので文学といえば何故小説を思い浮かべてしまったのか、そのわけが説き明かされるだけでなく吉田健一特有の思考の流れを丹念に追いつづける悠揚迫らない息の長い文章が、丸谷才一が言うところの女が着物に帯を合わせるように絶妙に配された絢爛たる引用と綯い交ぜになって読むものを文字通り「文学の楽しみ」に導いてくれる。

日本で文学といえば小説、それも自然主義の小説や私小説が主流となり、詩や批評が中心の位置に来なかったのか、なぜ世界を苦しいものと見たり、文学の中に思想その他何か別のものを求めたがるようになったのか、それを一口で言うのは簡単だが、レシピを読んでも料理の味が分からないのと同じで、早急に答えを求めるのでなく、古今東西の文学に深く親しみ、その詩をフランス語や英語の原文で諳んじることを日常とした文士の語りに耳を傾けるのが最もよいのではないか。文章には独特のリズムというか調子があって、一度その調子に乗ることができれば苦もなく長時間の講義を聴きつづけることができる。ときにはその辛辣なヒューモアに思わず噴きだし、次々と繰り出される名詩に酔い、意気軒昂たる啖呵に胸のすくのを覚える。

「文学の楽しみ」と並べるように置かれた「ヨオロッパの世紀末」も日本の近代文学成立とヨオロッパの19世紀とのかかわりの深さについて鮮やかに説き明かしてくれる。吉田によれば、ヨオロッパは18世紀にその絶頂を迎え、英国ヴィクトリア朝が代表する19世紀は偽りの世紀である。ボオドレエルやワイルドが代表する世紀末芸術が興ったことにより、ヨオロッパは再び息を吹き返す。こういう考え方や見方を身につけた文学者はその当時の日本には皆無であった。つまり、何も知らない日本の文壇を相手にギリシアにはじまりユダヤ教(キリスト教)を経由して生まれたヨオロッパというものを説くと同時に表層的な理解によって輸入した文学なるものの本来の根源を指摘したものである。

吉田健一ひとりで一巻としたところに池澤夏樹編の日本文学全集がいかに画期的な試みであるかが明らかになっている。これは池澤本人も書いているが、丸谷才一、吉田健一を指標としてこの文学全集は編まれている。旧来の小説偏重の文学全集とは批評重視という点で一線を画しているというわけだ。重量級の批評二篇に続いては、自身の翻訳書について触れた「『ファニー・ヒル』訳者あとがき」と「ブライズヘッド再訪」(小説そのものではない)が控えている。初めての読者はここから読み始めることを編者はすすめている。肩の力が抜けて気楽に読めるからだろう。

酒と食味随筆でも知られる吉田である。「食い倒れの都、大阪」や「酒談義」などの読んでいるだけで酒が飲みたくなってくる軽めのエッセイや「酒宴」「辰三の場合」などの短篇小説もちゃあんと用意されている。晩年に到ってようやく全開される「金沢」等の本格的な小説世界に導くための心遣いというものであろう。全集中の一巻という縛りのあるなかで、吉田健一という日本には稀な贅沢で幸福な文学者を紹介するという容易ではない仕事をさすがに若い頃吉田健一全集編纂に携わった経験を持つ編者ならではの目配りでやりとげていると思う。「ロンドン訪問紀」のなかでさりげなく触れられているイアン・フレミングとの交遊など読むほどにケンブリッジ帰りの文士のあの顔をくしゃくしゃにした笑顔を思い浮かべ陶然となる。

批評の中にも自身の翻訳によるラフォルグやディラン・トオマスの詩が引用されているが、「君を夏の一日に喩へようか」で始まる「シェイクスピア詩集 十四行詩抄」が原詩つきで末尾に付されているのは嬉しい。先に訳詩集『葡萄酒の色』を愛読していたが、原詩を読みたく思っていた。因みに冒頭部分原詩では“ Shall I compare thee to a summer’s day? ”である。シェイクスピアがぐっと身近に迫ってくるのを感じないだろうか?

[PR]
by abraxasm | 2015-06-05 11:58 | 書評

覚え書き


by abraxasm