<   2015年 05月 ( 4 )   > この月の画像一覧

e0110713_14543263.jpg表題作の題名どおり、歩道橋の上に店を出す魔術師を各篇のつなぎに使った連作短篇集。時は1980年代初頭。今はなき台北の一大商業施設「中華商場」を舞台として、そこに暮らしていた少年たちの出会いや別れ、初恋、死といった、いずれも少し胸の奥がいたくなるような挿話が、いかにもアジア的な喧騒と混沌に溢れた稠密な建築構造物をバックに、静謐でノスタルジックな光景として束の間よみがえり、やがて消えてゆく。あえかな過去をふりかえる回想譚、全十篇。

カメレオンのように二つの目が別の方向を見ているような目をした「魔術師」は、大人が見れば奇術の道具とその解説書を実演販売する隻眼義眼の大道芸人なのだろうが、商場から一歩も出たことのない少年たちにとっては、見も知らぬ世界の奇蹟を披瀝する、まさに字義通り魔術師であった。小さい頃、家業の靴屋を手伝い、歩道橋の上で靴の中敷や靴紐を売っていた少年の向かいで店を出していたのがその男だった。歳をとり、今は物書きとなったかつての少年は、歩道橋の魔術師について語ろうと思いつく。記憶をたどり、昔なじみにも話を聞いて書き綴ったのがこの連作短編集、という体裁を採っている。

巻頭に置かれた表題作を除けば、魔術師その人について触れた文章はわずかである。今は成人し、それぞれの世界へ巣立っていった幼友達との共通の思い出が、歩道橋の上にチョークで描かれた円の中で、黒い紙から鋏で切り抜いて作った小人を踊らせる魔術師だった。各篇の主人公は、同じ時代、同じ故郷を共有する作家に、昔の思い出を語るのだが、そのどこかに歩道橋の魔術師がほんのワンカットだけ顔をのぞかせる。それが趣向。屋上のネオン塔の下に寝泊りする魔術師は、寝袋とわずかな荷物の中に本を忍ばせており、少年にとっては謎のような言葉を呟いてみせる。魔術師は少年時代と以後の人生を板一枚で隔てる扉のようなものだったのかもしれない。

少年たちの人生は魔術師と出会い、話をしたり、魔術を目のあたりにしたりすることでほんの一時、それは瞬時であったり、長い場合は三ヶ月であったりするのだが、ここではない別の世界を垣間見ることになる。DVに我慢できなくなった少年が神隠しにあったように消えてしまった後、姿を現したとき、自分はずっとそこにいたが周りからは見えていなかったようだ、と語ったり、姉がいなくなって寂しがる少女がノートに鉛筆書きした金魚をビニル袋に入れてもらったり、束の間、辛い現実を忘れさせるような経験をするが、やがて魔術は消え、彼らは現実の世界にもどることになる。

訳者は本書を「三丁目のマジック・リアリズム」というコードネームで呼んでいたというが、魔術師の見せるマジックは南米の作家が見せる玄妙不可思議で永遠にも思えるほど長時間浸っていられるような魔法でなく、紙製の人形や金魚といった、ささやかで、ちまちました魔術しか使わない。大勢の人間が暮らしながらそれぞれが小部屋暮らしで便所は共同という日本なら昭和を感じさせる舞台には、壮大なマジックは似合わないということか。この身の丈にあった魔術がなんとも心に沁みる。

連作短編の一篇一篇はどれも甲乙つけがたい水準以上の出来。言い換えれば、これが最も素晴らしいというような飛びぬけた出来のものはない。連作を意識したことでそうなったのかもしれない。昔顔見知りだった人の数奇な人生を人づてに聞くというスタイルをとる以上、放火や自殺といった悲劇的色彩の強い話も、思い出話という枠組みで濾過され、時間の望遠鏡越しに覗き見る地獄図絵からは熱も臭いも阿鼻叫喚もすっかり拭い去られ、悲しさや憎さといった感情は、今は上澄みのような透明な思いとなって静かに語られる。

後に恋人を殺して自死する男が店の前で弾き語りで歌うのが、ジェイムズ・テイラーが自殺した友人のことを歌った Fire and Rain であったり、その男にもらったレコードがジョニー・リヴァースによる「秘密諜報員ジョン・ドレイク」のテーマだったり、少し前の昔話という立ち位置をとっているところに、ある世代の読者は懐かしさを覚えるだろう。呉明益は1971年台湾台北生まれ。台湾の新世代を代表する作家として評価が高い。邦訳としてこれが本邦初訳となる。ふとしたはずみで、人生に躓いてしまう人々のそれぞれの身の処し方をさらりとなぞる手つきが重すぎず、軽すぎず、しみじみと心に残る。個人的には長毛種の白猫と暮らす「唐さんの仕立屋」が身につまされた。

[PR]
by abraxasm | 2015-05-28 14:54 | 書評
e0110713_12161830.jpg誰もそのことによって傷つけられはしない(本人は別として)。それどころか、その行為に加担することで利益を得る者すらいる。しかし、道義的に見れば社会的に許されない行為であることはたしかだ。事実を知れば誰も彼を許そうなどとは考えないにちがいない。何が彼をしてそのような行動に駆り立てたのだろうか。それは自分の人生がかりそめのものでしかなく、人生そのものにもともと意味を感じられない男の考え抜いた果ての決断であった。

オスロにある中央政府内の官僚ビョーン・ハンセンは三十代半ばの頃、妻子を捨て、情事の相手の故郷コングスベルグに居を移した。今彼は五十歳。女とはとっくに別れたが、市の収入役の仕事は続けている。週に一度はホテルで食事をし、休日には親友とハイキングを楽しみ夕食を共にする。優雅な独身生活を送る男が、女との過去の生活を回想したり、新しく同居を始めた息子との関係に心を配ったりする、事件らしい事件も起こらない身辺小説と思えたものが、最後にとんでもないサスペンスが待っていた。 

フィヨルドで知られるノルウェイ南部に、古くから銀鉱山の町として開かれたコングスベルグ。首都オスロでキャリアを積んでいた男がどうしてすべてをなげうってやってきたのか。女は教職のかたわら、市の素人劇団の中心メンバーとして周囲の男を惹きつけていた。痩せ型の美人でコケティッシュな身ぶりが魅力的な女は見逃せば一生後悔する相手だった。将来を約束された暮らしより、魅力的な女との生活を選んだのは愛のためではない。それが証拠に、女のふりまくコケットリーが容色の衰えに連れて見苦しくなってくると、男の心は離れている。

視点はつねに主人公に置かれている。小説はこの男が周りにいる人間を観察し、それに合わせて自分の動きを同調させてゆく様子を丹念に描く。事件らしい事件は最後まで主題にはならない。作者の興味関心はこの男の考え方や行動の方にある。そういう意味では、主人公に共感を感じることができなければ読み続けることができない。それでは、主人公ビョーン・ハンセンとは、どんな男なのか。

一口で言えば、ビョーンは「危ない」人である。 人並以上に知的能力を持ち、人あたりもよく、社会にも適合することができるのに、ある期間それが続けば退屈を感じてしまう。何でも思うようにできることが、かえって彼に刺激を感じさせなくなってしまうのだ。何かを成し遂げるために努力しているときはいいが、いざそれができたらそこには退屈が待っている。彼はそれに長くは耐えられない。そこから脱出し、生きている実感を得るには新しい冒険に身をゆだねるしかない。 

それによって自分の周囲にいる人間がどうなろうが正直なところ眼中にない、徹底したエゴイストである。ただ、積極的に相手を傷つけようなどとは思ってもいない。それどころか、金銭的な保証その他は手抜かりない。二歳の時に捨てた息子が同居を求めてきた時も気安く応じ、息子のために新しく家具を買い入れたり、部屋の模様換えまでしたりしている。しかし、そこには通常の父親らしい感情は感じられない。怜悧に観察対象である息子を観察し、その孤独に気づいても手を差し伸べることはしない。無関心ではないが不干渉の態度に終始する。

自分の人生が、自分で考え、行動してきた結果として目の前にあると感じられる人には、所詮この小説は絵空事である。主人公は反社会的ではないにしても不道徳で非社会的人物として断罪されてしまうにちがいない。しかし、幾度か人生の岐路に立ったとき、そのときそのときの成り行きに任せて道を選んできた評者のような薄志弱行の人間には、主人公の生き方はさほど奇異なものには思えない。体の不調を訴え、診断を受けた医師との出会いがなければ、ビョーンの想念は想念のままで現実化しなかっただろう。あくまでもゲームとして始めたものが、しだいに抜き差しならない現実と化してしまう恐怖を描いたものとしてみるなら、この小説はかなり怖ろしい。

訳者である村上春樹がノルウェイ滞在中の無聊を慰めるため、原著の英訳本を手にとり、タイトルの面白さにも魅かれ買い求めたのが日本語訳に手を染める契機であったという。原著はノルウェイ語で書かれているため、英訳からの重訳。ダーグ・ソールスターは、ノルウェイを代表する作家だが、外国に翻訳されるようになったのは比較的最近のことらしい。自他を問わず、人間を見つめる目のシニカルなところや、それでいて人の心の内奥にまで迫るような妙な親近感を感じる、斜に構えているようでいて、その実真剣すぎるほど真剣な文章が忘れ難い印象を残す。ちょっと癖になりそうな作家の登場である。

[PR]
by abraxasm | 2015-05-24 12:16 | 書評
e0110713_12122419.jpg三部構成で一部と三部は現代の「パリの家」を舞台とし、間に挟まれた二部は十年前の親の世代の恋愛事件を扱っている。ヘンリエッタは十三歳。早くに母を亡くし、父の都合でロンドンを離れ独り伊仏国境近くに暮らす祖母の家に向かう途中、同行者の都合で、パリでの乗り継ぎを余儀なくされる。時間待ちにあてられた祖母の知人ミス・フィッシャーの家には、レオポルドという九歳の少年がいた。彼ははるばるイタリアからまだ見ぬ母に会うため、この家を訪れていたのだ。レオポルドの母カレンはミス・フィッシャーの友人で、かつては亡父の婚約者であった。

母が来られなくなったという知らせをレオポルドが受けたところで、話は十年前に遡る。カレンはイギリスの上流階級の娘で、一家は人々に愛される名望家であった。ミス・フィッシャーの母親は元家庭教師でフランスの学校に通う名家の女子を寄宿させていた。カレンはアート・スクールの学生だった頃、そこに下宿していたのだ。娘のナオミと仲よくなり、家の客であったマックスともそこで知り合った。カレンがレイと婚約した頃、ナオミとマックスの婚約を知る。遺産相続のためにイギリスを訪れた二人はカレンと再会し、旧交をあたため合うのだが…。

お互い婚約者がいるにもかかわらず、或は逆に婚約を発表してしまったことによるのかもしれないが、カレンとマックスの間に恋愛感情が生じ、ドーヴァー海峡を挟んでの逢引きに発展してしまう。カレンがフランスを訪れたブローニュでのそれ。マックスが渡英してのハイスでのそれ。どちらも許されぬ恋であるが故の切ない逢引きが描かれる。特に雨の日のハイスにおける情景描写は哀切極まりないのだが、皮肉なことに二人の言葉のやりとりは微妙にすれちがい、感情の交感もどことなくちぐはぐなまま。この違和感はどこから来るのだろうといぶかりたくなる。

エリザベス・・ボウエンはヘンリー・ジェイムズやジェーン・オースティンを尊敬していたという。たしかに登場人物たちの取り澄ました会話や言葉と裏腹の関係にある心理の表し方などに共通するところを見ることができる。一口でいえば登場人物が一様に素直でないのだ。老嬢たちは意地が悪いし、子どもは早くから自意識が芽生えた結果、感受性が異常に肥大し、奇妙にひね媚びたませた口を利くくせにすぐに涙を流したりする。

ひとつにはヨーロッパという土地柄があるのかもしれない。この作品でも、人物たちはさかんに国境をこえて移動をくり返す。簡単に他国にいききができる利点もあるが、考え方や気質のちがう者同士が同じテーブルを囲むのが日常茶飯という環境では、分かりあう努力をするより分かり合えないことを前提に話す技術を身につけることが肝要なのかもしれない。気持と裏腹な会話が行き交う所以である。

それだけではない。同じ国の人間であっても階級差というものがあり、それにつきまとう貧富の差がある。結婚問題を主題とする小説にあっては、階級や資産というのは恋愛の妨げにはならずとも、その成就としての結婚ということになると、とたんに前に立ちはだかる巨大な壁となる。自分の気持ちに正直になることが幸せな結果にいたるというような気楽なお国柄ではないのだ。それに加えて人種の壁もある。アイルランドとイギリス、イギリスとフランス、それぞれ歴史的な角逐があり、ユダヤ人に対する偏見がことをよりいっそう複雑にする。

さらに、世慣れた大人と若者の間にある年齢差が輪をかける。社会的な地位や評判を手にし、何不自由のない暮らしを続けることが当然といったカレンの母ミセス・マイクリスの冷徹とさえ思える泰然自若とした態度も凄いが、ナオミの母マダム・フィッシャーの人を支配して飽き足らない、情愛に寄せる業の深さも恐ろしい。世間知らずの若者たちは、この母親たちの犠牲者である。

過去の恋愛事情が生んだ結果として、里子に出されたレオポルドの去就が問題して残る。
来られない母の代理として登場するレイの困惑ぶりが生まれと育ちを感じさせ、登場人物のなかで唯一感情移入ができそうな人物として造型されているのが一抹の救いか。時代がかった三角関係の恋愛物をそれぞれが位置する層と層の間にある差に目をとめることで知的な意匠を施し、現代小説に仕上げてみせた作者の力量に脱帽した。新訳というからには、旧訳より読みやすくなっているのだろうが、いくつか分かりづらいところがあった。旧訳と読み比べるという手もあるかもしれない。


[PR]
by abraxasm | 2015-05-20 12:12 | 書評
e0110713_11154513.jpgアメリカにおいては評価されにくいと聞く短篇を主体とするからか、本国では単独著作は未刊行。翻訳によって外国で作品集が刊行される珍しい作家である。これも訳者によって編まれた日本独自のオリジナル短篇集。表題作「紙の動物園」は20ページたらずの短篇だが、史上初のヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞の三冠に輝く。ただ、この一篇を取り出して読ませたら、これがSFだと思う読者はいないだろう。

「ぼく」は、コネチカットに住む中国系アメリカ人。自分につきまとう弱みの出所である中国人の母を憾みに思い、あるときから口を利かなくなった。母の死後、小さい頃母が作ってくれた折り紙の虎の裏に書かれた手紙を見つける。そこには自分の知ろうとしなかった母の数奇な人生が書かれていた。後悔の涙と母への愛が、一度は死んだ魔法を蘇らせる。この作品に幻想文学の要素を探すとすれば、母が折り、その息を吹き込んだ折り紙の動物は、吼えることや走ることはおろか、翼あるものは空を飛ぶことさえできるところ。

貧しい農家の娘が唯一授かったのは、古くから村に伝わる折り紙に命を吹き込む魔法だ。清明節の日に祖先にメッセージを伝えるための工夫であり技術である。日本の陰陽師が使う式神を思わせる、いかにも東洋的な呪術が、伝承遊びである折り紙と結び付けられることで、母と子を結ぶよすがとなる。この折り紙のモチーフが効いている。クリスマス・ギフトの包装紙で折られた老虎(ラオフー)に赤い棒飴と緑のツリーの模様がついているところや紙の水牛が醤油皿で水遊びをしたために毛細管現象で脚がだめになってしまうところなど、ほのかなユーモアが湛えられ心和む。

紙は水や火に弱い。破れてしまえばゴミ扱いされる。そんなはかないものにしか自分の愛を託せない持たざる者として運命づけられた母の悲しみ。その一方で、どこにでもある紙を折るだけで、そこに命を宿らせることのできる魔法のような手わざがあり、紙であればこそ、文字を書くこと、つまり自分の思いを相手に伝えることができる、という秘密がある。ここに覇権大国アメリカに移住した中国人という出自を持つ小説家の自負が現われていると見てもあながち牽強付会のそしりは受けないだろう。

ロケットや宇宙船といったいかにもSFらしいガジェットを用いた作品ももちろん多く収められている。古典的なSFを思わせる王道をゆくスタイルはSF好きにはたまらないのだろうが、永遠の若さや不死、過去の地球人対未来の人間を主題にした作品などにはいささか図式的とも思える二項対立的思考がうかがわれる。現実にある着想からヒントを得たアイデア・ストーリーは独創的なひらめきを感じさせるが、特にSF好きでもない読者としては、アジア系作家としての独特の持ち味を生かした作品の方に興味を引かれた。

ミャンマーの奥地で麻縄を結ぶことで文字に代える結縄文字文化を残すナン族の最後の一人ソエ=ボと複雑なタンパク質の折りたたみ技術を探すプラント・ハンター、ト・ムとの出会いをもとに、バイオパイラシー問題を描いた「結縄」。ソエ=ボの手を使うリテラシー能力をコンピュータに取り込むという発想の新鮮さに驚いたが、無邪気なプラント・ハンターと思われたト・ムがソエ=ボに対してみせる態度のなかにグローバル資本が山間の地に残る米作りまで搾取してしまうあくどいやり方が露わな結末には後味の苦さが残る。

同じアジアにある日本においても詳らかではない中国、台湾といった隣国の歴史に材を採った作品には教えられることが多かった。所謂「ありえたかも知れない世界」を扱った「太平洋横断海底トンネル小史」も読ませるが、台湾を舞台にした「文字占い師」が心に残った。アメリカ情報部に属する父に従って台湾の学校に転校してきた少女が新しい土地になじめないなか老人と少年に出会い友人となる。老人は文字占い師であり、いくつかの漢字を使って少女の未来を占ってみせる。次第に親しくなってゆく三人だったが、少女が父に漏らした一言が悲劇を招きよせる。日本や中国共産党といった大きな力に飲み込まれ、翻弄される「このうえなく美しい」島フォルモサ(台湾の旧称)の歴史を背景に、水牛がゆったりと泥田の中を歩む湿潤なアジア的風土のなかで成長してゆく少女の姿を追った佳篇。SFという枠を外しても、充分読者を獲得できる作家ではないだろうか。

長篇に手を染めたと解説にあるが、広くアジアをカバーして、西洋的な視点一辺倒でない小説が書ける才能の持ち主である。未訳の作品も残されているし、これから書かれる作品も楽しみである。訳者には是非オリジナル邦訳短篇集の続篇を期待したい。

[PR]
by abraxasm | 2015-05-07 11:16 | 書評

覚え書き


by abraxasm