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e0110713_9325682.jpgもともとは表題作の短篇がきっかけとなってできた長篇小説。同じ町に暮らし、それぞれがどこかで関わりを持ちながら、それとは気づかない複数の人物が入れ替わり立ち替わり現われては、一つの短篇の主人公を演じてゆき、綯い合わされた幾筋もの糸が縺れあい捩りあって、最後にはもとの人物のところに戻って完結する。シュニッツラーの戯曲『輪舞』に由来するロンド形式で書かれている。複数の人物に焦点が当たることにより、様々な社会階層で暮らす人々を描くことができ、互いの絡み合う利害は時には生死に関わることもある。人は思わぬところで他者とつながり、また傷つけ合っているものだ。

舞台となるのはハイチ共和国にある海沿いの町ヴィル・ローズ。携帯電話が普及し、ポルトープランスが首都として機能しているところからみると、2010年の大地震の少し前あたりか。「海の光のクレア」(クレア・リミエ・ランメ)は、絡まりあう物語の起点となる少女の名。貧しい漁師の娘である。誕生時に母が死に、幼い頃から他家に預けられ、今は父と暮らすが、親しい漁師仲間の死を見て不安になった父はクレアを養女に出そうとする。無学な自分と暮らしていてもこの先娘は一生かかっても幸せになれない、と考えたのだ。養子に出す先は、事故で娘を亡くした織物屋。大人同士の話はまとまるが、娘は逃げ出す。これが複数の筋を綯ってできた輪投げの輪のような物語の繋ぎ目となる。

視点人物が変わるたびに、語り手は時間を行きつ戻りつしながら、関係者に降りかかった災難を物語る。第二話は時間を少し遡る。織物屋の女主ガエルに起きるのは娘の出産当日に夫がラジオ局で殺されるという悲劇だ。第三話はそのラジオ局に勤める青年バーナード。第四話はバーナードの親友で学校を経営するマックス・シニアの息子ジュニア。続いて、ラジオ局のパーソナリティ、ルイーズとマックス・シニア、ガエルとマックス・シニアの関係が露わになり、物語は男女関係、親子関係が複雑に絡まりあった愛憎劇の様相を呈するように。

ギャングの抗争があり、裏切りがあり、その復讐としてゴシップのすっぱ抜きがあり、同性愛に悩む青年がマチスモの虚勢を張るためのレイプありという、とことん俗悪で、救いようのない人々の悲喜劇が繰り返されるなかで、唯一の救いは少女クレアと亡き母、その夫ノジアスの家族愛である。人々の思惑が右往左往し、葛藤が高まり悲劇が極限に達するところで、物語はカタルシスを迎える。お定まりのようだが、これでなくては救われない。

いかにもラテン・アメリカらしい、善意も悪意も上辺を取り繕うところがなく、あけっぴろげできわめて人間的。貧困と富裕、黒人と白人、スノッブと下層民の対立があるところにマチスモの文化が立ちはだかる。そこへむけて、ハイチならではの政治経済上の混乱が輪をかけて問題を複雑化する。やりきれない世界を浄化するのは、ヴィル・ローズという架空の町の前に広がる海だ。かつての灯台跡に点される海難事故の死者を悼む灯り、子どもたちが輪になって踊るときに歌う歌、人間関係の緊張と対立をほぐすかのように、リリカルな情景が挿入される。

一話完結でもいけそうな短篇を、人物同士の相関関係でつなぎ、連作短篇集もどきの群像劇に仕立てた作者の努力は買うのだが、それぞれの事件をあまりに都合よく繋ぎ合わせることで、作者が「神の手」を持つように見え、大事な登場人物が操り人形めいて、近代リアリズム小説ではなくロマン主義時代の小説のように見えてしまう。いくつもある主題のなかで、権力を有する大人の権謀術策が、汚れを知らない若者の芽を摘むという主題が、清冽な悲哀を感じさせるだけに、複数のエピソードを平均的に並べるのではなく、中心となる主題を選び、もっとメリハリをつけて描くことはできなかったのか、という憾みが残る。

そんななかで、個人的には、学というものを持たず、ひたすら愚直に妻や娘を思う木偶の坊のような漁師ノジアスの姿が、誰よりも印象深かった。他の近代的な人間が身にまとう処世術から発する胡散臭さから最も遠い、太古から変わらない神話的な人間像の描出に成功しているようだ。長篇執筆の契機となった短篇「海の光のクレア」には、それだけの力があった、ということなのだろう。
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by abraxasm | 2015-03-31 09:33 | 書評
e0110713_2142324.jpg気がつくと昨日と同じ服を着たまま見知らぬ部屋にいた。男の名前はチャーリー・ジョンズ、二十七歳。すぐに分かることなので説明すると、チャーリーがいるところは未来の地球。核戦争で絶滅した人間に代わり、ドームで覆われた世界レダムに暮らしているのは人間に似た別の種族。彼らが人間とちがうのは、両性具有であることだ。チャーリーはレダム人の世界について客観的な意見を述べるために選ばれてここにつれてこられたらしい。

レダムについて学習を終え、感想を述べることができたら解放され、もとの世界に戻れるという。チャーリーはレダムの歴史学者フィロスに案内され、施設を見学する。そこにあるのは、地球人をはるかに超えた科学水準を持ち、平和に暮らす人々の姿だった。チャーリーは学習が進むに連れ、レダムに親近感を覚え、トランスジェンダーの世界にもなじんでいくのだった。

いかにもSF的な設定で、異世界に紛れ込んだ地球人が、自分たちとは全く異なる世界に間近に接し、それまでの自分が抱いていた世界観を根底的に揺さぶられ、意識改革を迫られる寸前まで行く。ところが、そこで新たな事態が発生し、主人公はかつて住んでいた旧世界にもどらざるを得なくなる。主人公の価値葛藤を通し、今ある世界――というのは、概ね60年代のアメリカを中心とする世界だが――の是非を問う、現実の世界に対する問題提起を執筆動機とする長篇小説である。

主人公は、白人男性のキリスト者。問題にされているのは、西洋的価値観の根底にあるキリスト教と、それに付随するようにして現在にいたる男性中心主義である。レダム人は両性具有者同士の結婚により、双方が妊娠し双子を出産する。過去ではなく、未来を尊ぶレダムの人々は、子どもを信仰対象とし、知的な作業については時間短縮をはかり、独自の学習機械を用いて学習させるが、日常生活は手作業を主とした環境下で育てられる。このレダムの世界は一種のユートピアであり、科学技術万能で、人間らしさをスポイルされた現代社会批判になっている。

小説の構造的には、同時進行で現在のアメリカ家族の実態が、章が変わるごとに挿入される。現在アメリカ編では、互いに愛し合い結婚していても、男と女は別の生き物で、そのジェンダーには明らかな差がある、ヘテロ・セクシャルを強調する場面が描かれる。二つの世界が対比されることで、本編の視点人物であるチャーリーへの過度な感情移入を中和する役割が期待されているのだ。SF的世界の現実批判のぶっとんだ趣向に疲れたところで、洒落やジョークを主体とするコメディ・リリーフの登場となるわけである。

男性と女性には差より共通する部分の方が多い、という理論や、多くの生き物における交尾の多様さ、原始キリスト教のアガペー論等、よく勉強しているなあ、と思いはするものの、大事なところは講義調になり、物語の進行からは遊離しているように見える。自分が肯んじ得ない世界に無理矢理放り込まれた人間が時間の経過により意識や感情に揺らぎや葛藤が生じ、転向に至る人間ドラマが、存分には描ききれていない。もともとアイデア主体の短篇向きの作家なのではないか。どんでん返しに見せるキレのよさ、話の落としどころ、ミステリにも似た問題解決の鮮やかさからは、そんな感想を持った。

単純な異性愛を持ってよしとする固定化した性意識を疑わない社会が持つ息苦しさについては、ようやくこの国でも気づかれては来ているようだが、理解者が増えればそれに対する風当たりもきつくなる。作者はキリスト教を中心に据えた西洋の歴史的なあり方を批判の根拠に据えているが、決してキリスト教的論理を主とするとも思えないこの東洋の国においても、男性中心主義や同性愛者その他の性的少数者への偏見については西洋諸国に引けをとらない。

少し前の本だが、問題とするところは決して古びていない。固定化された過去をではなく、つねに変化、移行(パッセージ)を信条とするレダムの精神に見られる清新さにはある種の感銘さえ受けた。ユートピア物SFと見せかけて、最後にあっといわせる手際など、堂に入ったものだ。久しぶりにSFらしいSFを読ませてもらった気がする。
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by abraxasm | 2015-03-29 21:42 | 書評
e0110713_16112068.jpgにおいのようなものがある。自分の好きなタイプの小説かどうかが分かる。書き出しを少し読むだけで伝わってくるものがあるのだ。文体というのでも、話法というのでもない。漠然としていてつかみようがないのだが、そこにはっきり漂っている、まさににおいとでもいうしかない何かだ。『歌の翼に』にはそれがある。

中学校の図書館は日のあたらない中庭に面して窓が切られ、その下に外国文学の棚があった。それまでロケットや宇宙のことを書いた科学読物のような本ばかり読んでいたものが、ヘッセを読み出したから司書教諭は驚いて、「この頃読むものが変わってきたね」と言ったほどだった。県下一のマンモス校で一生徒の読書傾向をそこまで把握していることにこちらも驚いたが、雑誌でヘッセの『乾し草の月』を読んで以来、この作家にはまってしまっていたのだ。

どうもそのせいらしいのだが、芸術家になることを夢見る少年の成長を描く「人格形成小説」(ビルドゥンクスロマン)のにおいのする小説には手もなくやられてしまうきらいがある。これもそのひとつ。しかも、かなりよくできている。

ダニエルはニュー・ヨーク生まれだが、父の仕事の都合でアイオワ州エイムズヴィルで大きくなった。ファーム・ベルト(アメリカ中西部の農業地帯)は伝統的に保守色が強い土地柄だ。いわゆる近未来を舞台にしている点でSFに分類されるだろうが、食糧危機やキリスト教原理主義の激化といった設定は、あえてSFと考える必要もない。ただひとつ、ある種の人が「翔ぶ」力を持つという点を除けば。

ダニエルの夢は翔ぶことだった。ビルドゥンクスロマンの主人公の多くが芸術家であるように、ここでは、優れた歌い手が歌を歌う途中で「翔ぶ」。文字どおり、本人の意識は宙を翔んで好きなところへ自在に移動しているわけだが、肉体は地上に残したままだ。卑近な言い方でいえば幽体離脱か。飛んでいる状態の存在を「フェアリー(妖精)」と呼ぶ。長く翔んだままでいると、肉体が衰え、元に戻れなくなるらしい。州によっては「翔ぶ」ことを法律で禁じていて、キリスト教アンダーゴッド派の力が強いアイオワもそのひとつだ。

翔ぶことを主題にしながら、通常のファンタジー小説のように、空を飛ぶ場面は描かれることはない。それは、特殊な力に恵まれた人にだけ与えられるもので、素人愛好家レベルのダニエルにははなから無理な相談なのだ。「翔びたい、が翔べない」というのは、夢や野心だけはあっても、才能を磨いたり伸ばしたりできない多くのアーティストに共通する立ち位置だ。日々の生活のために夢を追うことは一時棚上げし、バイトに精を出す主人公の姿に共感する若い読者は多いだろう。

「翔ぶ」ことが象徴しているのは自由自在に飛翔する芸術三昧の境地だろう。たった一度の挑戦で翔ぶことができる幸運な者もいるが、ダニエルのように努力し続け、何度も試みても駄目な者もいる。決して才能や資格がないのではない。明らかにダニエルの額には、その徴が見えている。試練が課されているのだ。刑務所仲間に飛びっきり上手い歌い手がいた。彼はダニエルにこう忠告する。「生活をめちゃくちゃにすることさ。一流の歌手はみんなそうなんだぜ」と。

ダニエルは容姿端麗で人にやさしく頭もいい。詩も書けて歌も楽器もできる。それでも翔ぶことだけはできない。ロマン主義的な芸術観が持つ逆説だ。天才はランボオのように破滅型でなければならない。小市民型でまともな経済観念や生活設計ができるダニエルがモラルを破棄せざるを得ない破目に陥るきっかけが訪れる。荒廃したニュー・ヨークの唯一の娯楽であるオペラ劇場を舞台にした第三部は、それまでのアイオワ生活を彩っていた牧歌調をかなぐり捨て、猥雑で頽廃的な色調を帯びる。余儀なくオペラ歌手の囲い者になった主人公の生活は以前からは想像もできない「めちゃくちゃ」なものになる。肉体的にも精神的にも苦痛を味わったダニエルは、メンターであるミセス・シッフの言葉により、悲惨としか思えない境遇を楽しむことを覚える。それが転機だった。

ビルドゥンクスロマン(教養小説)のパロディであり、アメリカの近未来を予言したSFであり、作家の自伝とも読むことができる上出来の芸術家小説。極力SF色を薄めた語り口は自然で、SFというジャンルが苦手な読者も満足させられるにちがいない。作家トマス・M・ディッシュを代表する傑作である。
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by abraxasm | 2015-03-24 16:11 | 書評
e0110713_15293492.jpg奇想・ユーモアSFの傑作アンソロジーである。こういう選集は、編者のセンスが物を言う。選ぶ人と感覚が合わないと、何だこれは、ということにもなりかねない。編訳は浅倉久志。個人的にはユーモア小説というのは、特に好きなほうではない。面白い小説は好きなのだが、愉快という意味での面白さを欲してはいないのだ。どの作品もそれなりに面白い。ただ、ジョン・スラデックの「マスタースンと社員たち」だけは、他の作家のそれと一味ちがっていた。読み進むうちに面白さは増してくるが、はじめは首をひねった。中篇程度の長さが必要な作品なのだろう。

遥かな宇宙から巨大な怪鳥が太陽目指して飛んでくる「見よ、かの巨鳥を!」は、地球を卵に見立てたナンセンス物。地球を卵と考えれば、高山と海溝はたいした凹凸ではない、という説明はなるほどと思わされた。ばかげたアイデアを真面目に展開するところが面白い。

ヘンリー・カットナー作「ギャラハー・プラス」。二日酔いで目覚めた発明家が、契約不履行を訴えられるが、庭には巨大な穴があり、何やら機械を発明していたことは確からしい。発注者は三人で、その発明が誰の注文によるのかが発明家には分からない。深酔いしないと発明のアイデアが湧かない発明家の注文主との掛け合いや、執事ロボットのナルシシスト振りが愉快。

ウィリアム・テン作「モーニエル・マサウェイの発見」は、タイム・パラドクス物。下手くそな絵描きであるモーニエル・マサウェイのところに未来から美術評論家が現われる。何故か未来ではマサウェイの評価はレオナルドを凌ぐ勢いになっているという。訳が分からぬままに批評家に製作中の絵を見せるマサウェイ。ところが、批評家は首を傾げるばかり。批評家が携えてきた本にあるマサウェイの絵は見事な作品。いったいこれはどういうことか、という話。店主の目を欺いて商品をかっぱらう腕だけは天才的な画家のやったこととは。単純なアイデアだが、語り口に惹かれる佳作。

休暇旅行中、酒場に行ってはいけないという妻の言いつけに不満な夫二人が散歩の途中で見つけたのは、なんと満々とバーボンを湛えた湖、というジョン・ノヴォトニイ作「バーボン湖」。前足で湖面の水ならぬバーボンをすくっては口に運ぶビーバーがなんとも可愛い。酒飲みの妄想全開の奇想小説。

巨鳥で始まったアンソロジーは、グラックという鳴き声の珍鳥の話で終わる。友人の教授の遺言に従って、グラックの卵を手に入れた主人公が、競争相手の妨害や相次ぐトラブルを何とかかわしながら、その故郷で孵化させるまでの冒険を描いたユーモア小説。ことが成就したあかつきに読むように指示されていた二通目の遺書に書かれていた内容にあいた口がふさがらない、ハーヴェイ・ジェイコブズ作「グラックの卵」。ほかにいくらでも面白いSF小説はあるだろうに、この九篇を選んでくるあたりが、浅倉久志のセンスオブ・ヒューモアというものなのだろう。まあ、いいんじゃないだろうか。
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by abraxasm | 2015-03-18 15:29 | 書評
e0110713_11405927.jpg短篇集の巻頭を飾る一篇が持つ意味は大きい。初めての作家なら書き出しを読んで、この後読み続けるか、そこで本を閉じるかが決まる。「降りる」は、冷蔵庫内や食器棚に並ぶ日常的な食べ物の羅列ではじまる。あまりSFらしくない開始だ。「60~70年代の傑作SFを厳選」したという触れ込みのシリーズ物を手にとりながら、そう思うのは、実はSFらしいSFには食傷しているからだ。特にSFファンというのではない。面白い小説を探しているうちに、このシリーズに迷い込んでしまったのだ。

デパートの最上階のレストランから降りるエスカレーターの上で、買ったばかりの本を夢中になって読んでいるうちに、いつまでたっても地下に着かないことに気づいた主人公が、出口のない降り専用エスカレーター内で右往左往ならぬ上昇と下降を繰り広げる、悪夢のような時間を乾いたユーモアをまぶした筆致で描いた短篇。不条理感が際立つ。こいつは面白そうだ。

その次に控えるのが、エンバーミング技術が進化したせいで、防腐処理を施された遺体と暮らす生活に我慢できなくなった夫が妻に無断で家族の遺体を火葬場に送ることから起きるいざこざを描いた諷刺色の強い「争いのホネ」。ここまでくると作家の個性が読めてくる。悪趣味といってもいいくらい諷刺がきつい。人によっては死者、あるいは死そのものを諷刺の対象にすること自体を忌み嫌うものだ。逆にいえば、そうした、人が笑いの対象にしないもの、採りあげることが批判されそうな対象をからかうことが好きな作家なのだ。

革フェチのおかまが、それを抑制するためのセラピーを受けたせいでファナティックな極右に変貌を遂げる「国旗掲揚」で諷刺の対象となるのは、アメリカにおけるゴリゴリの極右。たしかそのはずだが、変身過程があまりにリアルに描かれるため、周囲のリベラル派がやきもきする様の方がおかしくも見えてきて、単なる革フェチの隠れゲイを認知しようとしない周囲の価値観との軋轢が、極右政治家の台頭を促すことにつながることを仄めかしているようにも思えてくる。いったい誰を揶揄するつもりなのか。それもこれも含めて一筋縄ではいかないアイロニカルな作風である。

ほかにも自殺願望を持つ女性や、パフォーミング・アーツ、批評家、フェミニズムとトマス・M・ディッシュはミダス王よろしく手を触れるものすべてを諷刺の対象にしないではおかない。そんななかで、表題作の中篇「アジアの岸辺」は、その長さのせいもあってか、他の短篇とは一線を画す異色作。イスタンブールを舞台に、人間のアイデンティティの不確かさを主題にした幻想小説である。フリオ・コルタサルが書きそうな、二つの世界を生きる主人公の不思議な体験が、アジアとヨーロッパを結ぶトルコの異国情緒溢れる雰囲気を背景に幻想色豊かに描き出される。

どこから出発したのかが、作家の階層を決めるということがアメリカにもあるらしい。脚光を浴びたのが、SF雑誌だったことが「ニューヨーカー」誌に自分の作品を載せることを難しくした、というような意味の発言を作家本人がしている。「ニューヨーカー」に載ることの意味はともかく、たしかに、本邦初訳のものも含めて、短篇には風刺小説を得意とするSF作家の個性を感じさせる。一方、表題作から窺がえるのは、もっと別の小説を書く力を充分に持っている作家だということだ。発表の場が、作品の傾向を決める、ということはあったのかもしれない。短篇、中篇でこれだけちがう作風を示すなら、長篇が是非とも読んでみたくなる。そんな作家である。
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by abraxasm | 2015-03-17 11:41 | 書評
e0110713_1123786.jpg書き出しは謎のような箴言のような一節ではじまる。あるいは、真空管があたたまって回路がつながったラジオから聞こえてくる会話のような。そんな切れ端だけでは、なんともつかみがたい見知らぬ他人の人生の中に土足で入り込んだような落ち着かない気持ちのまま、おずおずと物語のなかに招じ入れられるのだ。心してかからなければならない。見かけから伝わってくる印象ほど、理解するのは容易ではないのだ。今しがた足を踏み入れた場所は、他人には見せたことのない隠れ場所のようなものだから。整ってもいないし、快適でもない。積りつもった塵埃や湿気でぼろぼろになった古証文が散らばったままの地下室みたいなものだ。

アリス・マンローの短篇小説を読むのは心躍る行為だ。そこには、他の作家の見せてくれる世界とは確かに異なる光景が用意されている。北米大陸カナダを舞台にしてはいるが、飛び抜けて酷薄な自然があるわけでも、信じられないような事件が起きるわけでもない。読者が入り込むことを期待されているのは、誰にでもあって、どこにでも起こりうる、ごく普通の家族や親類縁者、友人知人の間にある長きにわたる交流だ。誰にだって、一人や二人噂話のタネになりそうな知り合いはいる。笑い話にされたり愚痴の対象であったりするが、世間というのはきっと、そういう人が潤滑油となって機能しているのだ。

一口で言えばゴシップである。誰それがどうした、こうしたという、主婦が台所で友だちと洗い物をしながら話したり、パーティー会場の片隅で声を潜めて語ったりするような仲間うちでの打ち明け話。有り体にいえば、小説というのは、それを読者という他者に開放してみせたものだ。アリス・マンローの凄いところは、難易度の高い手術を短時間にし遂げる外科医に似ている。たぶん傍で見ている者には、そこで何が行われているのか見当もつかないくらいの速度で事態が処理されている。特に現在と複数の過去の時間の処理。速い時には段落単位、高速度で切り替わるので、慣れない読者は面食らうにちがいない。馴れるとやみつきになるのだが。

素材となるのは自分とその周りにいた人物が主だ。人物に憑依したかと思えるほど、心の奥底に閉じこめ、誰にも見せなかったであろう思いを、腹腔鏡でも使うように適切な部位を過不足なく摘出してみせる。他の誰にもない、というのはそこである。他者を扱うなら思う存分メスでも何でも振るえばいい。しかし、どんな名手でも自分相手となればそうはいかない。躊躇が、逡巡が目を曇らせ、手を震えさせる。自分を自分ではない赤の他人のように冷静に、時には悪意さえ感じられるほど酷薄に見つめ、意識の深奥部に沈めてしまったであろう過去の記憶を探査し、掘り起こし、切り捌く、その手際に魅了されるのだ。

訳者によるマンローの邦訳としては初めてのもの。考え抜かれた選択だったろう。いかにもアリス・マンローという作品が並ぶ。いつも最後の文章に魅かれるのだが、父のいとこの思い出を語る「家に伝わる家具」の「なかに入って、コーヒーを飲んだ。コーヒーは沸かしなおしで、黒くて苦く――薬みたいな味がした。まさにわたしが飲みたかったものだった」がいい。マンローの書く自伝風短篇の味を語り尽くしている。今ひとつあげるなら、「ポスト・アンド・ビーム」か。

大学教授の妻になって二人の子を持つ年若いローナを訪ねて、実家から幼なじみのポリーがやってくる。そりが合わない夫とポーラの間に立って苦慮するローナはポリーを突き放すかたちで家を空ける。留守中絶望したポリーが自殺するのではという妄想に、ローナは神との取引を思いつく。自分の大事な何かを手放す代わりに、自殺を思いとどまらせて、と。神様との取引という民話によくある話を夫の教え子との「姦通」願望にからませ、幼な妻の揺れ動く心に迫る一篇。その思いがけない結末は神慮なのか、それとも思いなしか。読み方ひとつでどうにでもとれる、オープン・エンドもまたマンローの得意とするところ。表題作の「イラクサ」、「浮橋」も「人生の苦さと思い出の甘やかさ」を湛えて詩情あふれる佳篇。
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by abraxasm | 2015-03-13 11:23 | 書評
e0110713_1142043.jpg生地を訪ねてみれば、偉大な作家が手ひどい扱いを受けている。銅像の一部は欠け落ち、小説に登場する鸚鵡のモデルとなった剥製があろうことか複数の場所に本物として飾られている。作家の名はフロベール。『ボヴァリー夫人』で有名な近代リアリズム小説の巨匠である。サルトルの『家の馬鹿息子』、マリオ・バルガス=リョサ『果てしなき饗宴』、本邦においては蓮實重彦の近著『「ボヴァリー夫人」論』、とフロベールを論じた書物は枚挙に暇がない。いやしくも物書きを志す者だったら、フロベールを看過することはできない。

主人公もまた、かつては物を書こうとしたことがある。当時は生きるに忙しく果たせなかったが今は妻を亡くし子は自立した。鸚鵡を見ているうちに主人公は作家への親近感が募り、ついには作家についての本を書くことを計画しはじめる。主人公の名は、ジェフリー・ブレイスウェイト。頭文字だとJ・Bで、作家ジュリアン・バーンズに重なる。また、妻を自殺で亡くし、職業は医師、とくればピンと来たことだろう。『ボヴァリー夫人』こと、エンマの夫シャルル・ボヴァリー像が投影されている。一人三役を兼ねる主人公が、鸚鵡の謎をきっかけにしてフロベールの実像に迫る、という趣向。フロベール学者顔負けの薀蓄、取材旅行を重ねて得た見聞、書簡をはじめとする厖大な資料を駆使し、様々な文体、意表をつく切り口で、今までにないフロベール像を描き出す。

ジュリアン・バーンズその人もまたフロベールの心酔者の一人だったにちがいない。エピグラフにこうある、「友人の伝記を書くときは、仇を討ってやる(傍点七字)という構えでかからねばならない」。フロベールの手紙からの引用である。当初は「仇を討つ」の意味が分からなかったが、読んだ後で納得した。たしかに、よく読んでもいないのに訳知り顔で、フロベールは「人物の外面的特徴に対していかにも無頓着だから」エンマの目の色を何度も異なる色で書いている、と書いたイーニッド・スターキー女史や作家の自殺説を述べた妄想家エドモン・ルドゥーは、文中でこてんぱんにやっつけられている。

15章に及ぶ本書の構成は、およそ一般的な小説の形式とは相容れない。第1章「フロベールの鸚鵡」では、小説風に主人公がルーアンの町に降り立ち、銅像や鸚鵡を見て歩くものの、第2章はフロベールの年譜の羅列、と思ったら、第3章は、また主人公が登場し、イギリス人家庭教師で作家との関係が疑われるジュリエット・ハーバートに関する調査に当てられる、といった体裁で、フロベール愛好家によるフロベール研究の間に、創作や自分自身の妻についての「純然たる実話」、果てはフロベールについての知識や思考力を問う「試験問題」なるものまで付されているという始末。一応最後の章で鸚鵡についての疑問が解決されて小説は終わるが、全くもって人を食った小説である。

どうしてバーンズは、これを小説形式で書こうと考えたのだろう。自分を隠者に擬した作家の思いが叶ったのか、作家について書かれたことは実態からかけ離れた論が多く、生地での扱いはひどい在り様。作家の主義には反するが、フロベールの真の姿を著すに如くはない、ところが、問題がひとつある。フロベールは大の評論嫌いで通っている。作品についてならまだしも、作家についてあれこれ論じられるのは本意ではなかろう。そこで考えた。ここは一つ小説でやってみよう、と。まあ、本当にそう考えたかどうかはしらないが、スターン、セルバンテス、ジョイスといった先達が小説の融通無碍であることはつとに証明済み。小説という形式に意識的なジュリアン・バーンズのことだ。あたらずと言えども遠からず、といったところだろう。

しかし、これが実に面白いのだ。語り手をつとめるJ・Bのフロベール愛が半端なく、フロベールの書簡集からの引用で綴る年譜ひとつとっても、よくあるフロベール論とは一味ちがった、いわば作家の素顔が顔をのぞかせている。皮肉屋でペシミストで夢想家、徹底したブルジョワ嫌いのブルジョワであるフロベールがそこにいる。客観的な叙述でこれをやってもこうはうまくいかないはず。告白体小説の形を借りた「ルイーズ・コレの語る話」、『紋切型辞典』のパロディをやってのけた「ブレイスウェイトの『紋切型事典』」という珍種・奇手満載の、小説巧者ジュリアン・バーンズならではの新手のフロベールの「評伝」である。

もちろん、小説家ジュリアン・バーンズらしく、フロベールについての挿話を材料に遺憾なく料理の腕を披露してみせる。マクシム・デュ・カンと行ったエジプト旅行でピラミッドの頂上に立ったとき、ピンで留めた名刺が目にとまる。「アンベール(英語読みではハンバート)」という名前からナボコフが連想され、ナボコフは『ロリータ』を書く前に、この話を読んだのかもしれない、と想像の翼を広げてゆくあたり、小説読みの愉しみ、これに勝るものはない。

これ一冊を読むことで、秀逸なパロディ小説を堪能することができ、フロベールという偉大な作家について今まで知り得なかったことを知り、それより何より小説というジャンルが持つ無限の可能性について考えさせられる。なんともお得な一冊ではないか。
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by abraxasm | 2015-03-11 11:04 | 書評
e0110713_1424988.jpg「罪。彼女はほかのことに注意を向けていた。なんとしてでも探し求めようとする注意力を、子供以外のものに向けていたのだ。罪」。グレタは女流詩人だった。夫と子どもがいる女にとっては、あまり誉められる生き方ではない。夫は寛容で干渉しないが、積極的に応援するわけではない。ハリスとは一度会っただけだった。なのに忘れられない。夫が仕事で家を空ける夏、グレタはトロントに住む友人に休暇旅行中留守にする家の番を頼まれる。ハリスに到着日時を知らせる手紙を書く。住所は知らないので、コラムを書いているトロントの新聞社宛てに。瓶に詰めた手紙をバンクーバーから海に投げ、日本に届くことを祈るようなものだった。

マンローは、短篇集を編む時、作品の選択だけでなく順序にも気を配るという。その意味でも、巻頭に置かれた「日本に届く」は、アリス・マンローの短篇の見本のような作品だ。主婦という役割と、書かずにはいられない欲求との葛藤がある。自分を理解してもらえていないという不満の裏返しとしての理解しあえる相手に出会った時の一途な愛情の奔出がある。トラウマのように何度も描かれる我が子の消失事件がある。詩の引用がある。目まぐるしい人物の出入りと錯綜した時系列が駆り立てる焦燥がある。出会いと別れを主題とする話を、その象徴たる「駅」で始まり、「駅」で終わらせる、というため息をつきたくなるような見事な構成がある。

北米大陸を走る大陸横断鉄道を舞台に繰り広げられる、女流詩人の「蹌踉めき」ドラマである。バンクーバーの駅で見送る夫に手を振り、トロントの駅で別の男の腕に抱かれてキスされるまで、たかだか三十ページの短さであるのに、次々と移り変わる車窓の風景同様、一人ひとりの登場人物がくっきりした輪郭を持ち、生き生きと動いて見せるので、回想シーンを含め、主人公の揺れ動く心情がいちいちこちらの胸に迫ってきて、まるで長篇小説、『アンナ・カレーニナ』や『ボヴァリー夫人』でも読んだような気にさせられる。これが、引退宣言した八十二歳の老作家の筆になるものとは信じがたい。

何度もこれが最後といいながら、出版社の求めもあろうが、次々と出てくるアイデアにも促され、書き続けるマンロー。『小説のように』に次いで2012年に上梓された短篇集である。衰えを微塵も感じさせない十篇の短篇に、「フィナーレ」として括られた『林檎の木の下で』第二部の流れを汲む自伝的な四篇を含む。母親が目を離した隙に子どもに危機が及ぶという「日本に届く」と同じモチーフを、子どもの視点から描くことで、別の罪の物語として見せた「砂利」。徒に帰りを長びかせる帰還兵の見せる度重なる逡巡にも、その一時の隠れ場所となったあばら屋の女主人の物語にも人には言えぬ理由があった。巧みなプロットに唸らされる「列車」。

人生の危機は、躊躇や油断といったほんの一瞬の隙を目がけて襲い掛かる。その一瞬の記憶がその後の人生の長きにわたって人を苛む。何故目を離したのか、何故言われた通りしなかったのか、あの時、自分は、相手は何を考えていたのか、いなくなった者は答えを返さないから、残された者はいつまでたっても問い続けるしかない。誰かが自分に代わって罪を引き受けてくれることを信じられるなら救われるのかもしれない。罪を背負ってくれる他者を信じない者にあるのは、何度でも同じ問いから繰りだされる物語を紡ぎ続けることだけだ。凝縮された短篇の中に読む人の数だけ物語がある。迸るような激情から、ほの温かいぬくもり、或はほろ苦さを感じる結末まで、人生の有為転変を緩急自在の筆使いで描き分けるアリス・マンローの熟練の手業に身をゆだねる悦び、これに尽きる。
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by abraxasm | 2015-03-06 14:04 | 書評
e0110713_15431261.jpg生者と死者を分かつ境界を、人は苦悩にかられて思いつめる行為を通して越えることができるのだろうか。触法精神障碍者の施設にいる夫からの手紙にあった、死んだ子どもが別の次元に存在するという言葉に動揺する妻を描いた「次元」。マンローの短篇ではお馴染みの、若い相手と夫の浮気というモチーフに植物毒と逃亡中の殺人犯とを絡ませ、ミステリ・タッチに仕立てた「遊離基」。「訳者あとがき」によれば、マンローの作品をアメリカの「南部ゴシック」にひっかけて「南部オンタリオ・ゴシック」と呼ぶらしいが、この短篇集に限っていえば、その呼び名に相応しい作品が揃っている。

人の心の奥底に潜む暗い衝動や、無邪気に見える少女の笑顔の裏に隠された惨酷さ、平穏な日常のなかに突然表出する深い亀裂と、短篇ならではの凝縮された人間ドラマが続出するが、それだけに、苦い後味を残すものも少なくない。いつもと比べ、「悪意」の表出が露骨であるような気がする。自伝的な『林檎の木の下で』が最後の本と表明した作家が、それ以降に書いたものを集めた作品集である。ふっきれた、とでもいうところだろうか。

そんななかで、「小説のように」が、作者ならではの独特の余韻を感じさせる。夫の心変わりで一度は傷つきながら、歳月を経て再婚し、美しく才能に溢れ、周りに羨まれる自分を取り戻した女性が、突然現われた若い女性によって過去を振り返ることを余儀なくさせられる話。自分の中では、整理がつき、すでに終わっていた物語が、新しい人物の登場によって、別の角度から照明を当てられ、全く異なる物語が立ち現われる、という仕掛けだ。新しい人物というのが、自分を捨てた夫が愛した女の連れ子で、今は小説家となっている。その小説の中に、かつての自分が描かれているのだ。

誰にでも自分を贔屓目で見ることはある。ましてや、人並み優れた美貌や才能、知性に恵まれていたらなおさらだ。そんな自分が、どう見たって自分より下だと思える者に配偶者を奪われたら、自分に非があると思えるだろうか。夫も賢く夫婦に問題がなかったらなおのこと。主人公は、潔く身を引き、家を明け渡した。文句のつけようのない処し方である。そして今の自分がある。その優位は崩れない、はずだった…。傷つけられた自尊感情、長い恢復期、癒やされて一層高まったそれが揺さぶられ、打ちのめされる様を、主人公はさながら作家のような視線で見続ける。訳者が短篇集の邦題に「小説のように」を選んだのがよく分かる、心に響く一篇。

個人的には、林地で薪にするための木を伐る男が陥る危機を描いた「木」がお気に入りだ。丸太小屋を建てるために、主人公のように独り携帯もつながらない山林に入り、チェーンソウと手斧で木を伐った経験がある。誰もいない場所で窮地に陥ったらどうしようもないのだが、危険と隣り合わせの澄明な孤独感には他の何物にも変えがたい魅力がある。まして妻が欝気味とあれば、林地での単独行動は、息抜きでもあっただろう。他の作品とちがい、読後に残る後味がすがすがしい。この短篇集における一服の清涼剤の感がある。

原著は著者にはめずらしい実在の人物に材を採った「あまりに幸せ(Too Much Happiness)」を表題としているが、姉が、あのドストエフスキー作『白痴』に登場するアグラーヤのモデルだったという数学者で小説家のソフィア・コワレフスカヤを主人公にした一篇は、素材としての面白さはあるが、マンローの作品としては普通の出来。邦訳の表題となった「小説のように」の方が、格段に面白く、アリス・マンローらしさに溢れている。もっとも、原題は、“Fiction”と素っ気ない。短篇集の題が『小説』というわけにもいかないだろう。訳者の苦労がしのばれる邦題である。
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by abraxasm | 2015-03-04 15:43 | 書評
e0110713_10262034.jpg短篇集といってまちがいはないのだけれど、通常のそれとはいささか様子がちがう。本文に附された「まえがき」によれば、二部構成の第一部は、スコットランドで羊飼いをしていた一族が新天地を求めてアメリカ(カナダ)に移住し、原野を切り拓いてゆく、いわばレイドロー一族の年代記。第二部は著者が「自分自身の人生を探求する」つもりで書いた、「通常の場合と比べると人生の本当のところにいっそう注意を払っている」限りなく自伝に近い短篇小説集である。

ある程度の年になると、誰でも自分の血筋のことが知りたくなるものだが、特別な家でもなければ、たいしたことは分からない。系図や書物が残っているのは一部の階級に限られている。辺境の地の羊飼い一族についてこれだけの小説が書けるには理由があった。いかにもアリス・マンローの先祖らしく、「一族にはどうやら世代ごとに、率直で、ときにはけしからぬ手紙や、詳細な回想録を長々と書き綴ることを好む人間がいたらしい」のである。

直系の祖先は十七世紀末のウィル・オファープにまで遡る。妖精と話をすることができ、川をひと跳びで越えることができた、という伝説上の人物。その子孫の中から海を越えてアメリカで一旗上げようと考える者が出てくる。一家の航海の様子は「キャッスル・ロックからの眺め」に詳しい。しっかり者の嫁のアグネスや引っ込み思案ながら内に知性を秘めた姉メアリ、寡黙で責任感の強いアンドリュー、といった人物像はマンローの短篇集に度々登場する人物の原型だろう。弟のウォルターが書き残した「航海日誌」他の資料をもとにした創作である。

第一部の最後に収められた「生活のために働く」には、ヒューロン郡にある農場裏の植林地で毛皮獣を捕獲する著者の父が登場する。祖父というのが、なかなかの人物だ。冬になると仕事を全部片づけて本を読んだという。「必ずしも稼げるだけの金を稼ごうとはしていなかった」「生活水準を上げるため、生活を楽にするためにより多くの金を稼ごうとするのはみっともないことだと思われていたのかもしれない」。著者の母親はちがったようだ。父の獲った動物の毛皮を加工し、自分で町へ売りに行き金を稼いできたという。清貧をよしとしながらも進取の気性に富む、著者は一族の多様な気質を受け継いだようだ。

「家」と題された第二部は、少女時代から六十歳を過ぎた現在に至る半生を一人称形式で語る。これまでいくつもの小説に、ちょっと自意識過剰で、取り扱いが困難な、それでいて周囲の目を引く賢い女性が登場したが、その原型はここにいたと思わせる、ある意味非常に魅力的なヒロインが、すべての短篇に共通して現われる。著者の自画像である。

表題作「林檎の木の下で」は、ゴールズワージーやL・M・モンゴメリの本の影響で「自然」に傾倒し、田舎道を自転車で走り回り、木の下に寝そべって下から花を見上げたいという願望を抱く少女に訪れた初々しい恋を描く。日曜日の午後になると自転車を走らせ、人目につかない田舎の学校でのデートを繰り返していた「わたし」は、とある夕暮れ時、少年が働く馬小屋に誘われる。突然響いた銃声が、少女の恋愛観を決定してしまう。微笑ましくも残酷な初恋譚。

十七歳の夏、お手伝いさんとして避暑客に雇われた島での一夏の経験を描いた「雇われさん」。読書経験豊かな年頃の女の子が、遊興客を相手に感じる屈折した心理と、自我の安定を図るために耽る妄想が、ナウシカアーに関する知識とアイザック・ディネーセンの本という小道具を用いて鮮やかにまとめられている。短篇小説の名手の手にかかると、事実あったであろうアルバイト先での出来事の一つ一つが、まるで典型的な小説の素材ででもあったかのように見えてくるから不思議だ。

「チケット」は、結婚を前にした女性の心理をスケッチした一篇。父や兄は、善良ではあるが貧しい家の暮らしについて無理解な婚約者をからかう。異なる環境で生きてきた家族の出身者が共に暮らす結婚というものが本来的に有する不条理を冷めた目で見つめる話者。「うちの家族には(略)自分たちより上の人間、上だと思っているんじゃないかと感じられる人間を戯画化しようとする習性」があった、と「わたし」は言う。「地位にふさわしい以上の知性を負わされた貧しい人間」は、相手を戯画化することで自分を優位の位置に置き、無理にでも均衡を保とうとする、というのだが。自己を含む一族を客観視してしまうこの視線もまた、地位に見合わぬ知性の賜物ではある。

虚構であるが、かなりのところまで実人生に沿って書かれていることもあって、小説巧者の手際を見せるという点では他の短篇集に比べ物足りない。その一方で、作家が創作の基礎とする自分を含めた人間心理の探究、一人の作家を創り上げるために一族の果たした役割、移住者の目から見たカナダ開拓秘史等々、カナダ人作家アリス・マンローを知る資料として非常に興味深いものがある。
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by abraxasm | 2015-03-02 10:26 | 書評

覚え書き


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