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e0110713_1426231.jpgアリス・マンローの短篇小説を読んでいると、小さい頃身近にいた、嫁の愚痴を聞かせるために早朝まだ鍵のかかっている我が家を訪れた祖母の念仏仲間や銭湯の床に長々と長躯を伸べて体操をする車引き上がりの隣家の隠居といった、いまだにくっきりとした映像として心に残る人々を思い出す。普段は忘れているのに、一度思い出すと、その声音から仕種まで鮮明によみがえる。子どもなりに、その思いつめた声や、緊張から解きほぐされた気の緩みのようなものを感じていたのだ。

市井の名もない人々にも、当人にとっては劇的な人生がある。星の数ほどあるそのドラマを神ならぬ一人の女性がどうしてこんなに知っているのだろうか。きっと、小さい頃から、道端ですれちがった子ども連れや電車で乗り合わせた若夫婦の何気ない表情や会話に耳目を働かせて日々を送ってきたのだろう。小説を書くとき、無意識に溜め込んだ深い層から掘り出してきたかけらに肉付けしてふくらませ、これらの人物を作り出すにちがいない。一つの短篇集に十篇ほどの短篇が収められている。そのなかには実に多彩な人物像が含まれている。

とても面白いのだが、といって読むのが簡単なわけではない。時系列は錯綜しているし、視点人物はころころと入れ替わるし。そもそも、人が気軽に口にした言葉がそれを聞いた相手にどう感じられたのか、正しい解釈というものが示されない。話者はいつも登場人物の一人だから、事態は当事者の一方の目から捉えられるわけで、つねに誤解と隣りあわせだ。しかもひどい場合、その誤解が親子三代にわたって語り伝えられていたりする。当人の死んだ後、孫の代になって、母の妹の口から全く異なる事実が明らかになるなんてこともある。表題作「愛の深まり」の場合がまさにそれだ。

離婚後、不動産会社に就職し、子ども二人を小学校に通わせている「私」のところに父から母マリエッタの死を知らせる電話がかかる。「私」の回想が始まる。信仰心に溢れた母に聞かされた祖母の逸話。だが、十二歳の時、母の妹ベリルに聞いた祖母の自殺未遂の経緯は、母から聞いたものとはちがっていた。真面目すぎる母の目には、自分の両親の真の姿が映っていなかった(のかもしれない)。妻に自殺を考えさせるほどの仕打ちをした父を憎んだ母は、その遺産を暖炉で燃やしてしまう。その金があれば、「私」は合格していた学校に進学もできたというのに。

何年ぶりかで実家を訪れた時の「私」、ベリルの話を聞く十二歳の私、母親が首を吊ろうとするところを目撃した子ども時代のマリエッタ、と三者の視点で描かれる、一家のメンタリティの系譜。かつて我が家に立ち寄った「私」はバカにされたように感じた。一時期ヒッピーたちのコミューンだったそれは壁一面にラブ&ピース風の虹やら鳩、男女の裸像が描かれ、ピューリタン的な父母の生き方に対する物言わぬ批評の働きをしていたのだ。「私」の目に映る頑ななまでに正しい道を行こうとする母は、もしかしたら、その信仰心故に不実な父を憎み、その犠牲者である母を憐れみ、金に価値を認めず、清貧に真の信仰を見ていただけではないのか。

自分が選んだはずの人生が、どれだけ他者の価値観によって左右されていたのか、あるとき人は気づく。当時感じられた苦味や荒々しさといったものは時が濾し、残ったものにはなんとも言いようのない味わいが醸されている。

どこにでもある人々の人生を鮮やかな切り口で切り取って見せてくれるアリス・マンローの短篇小説集である。風体の小ささに比べ、味わいの芳醇さが際立つ、上質の洋菓子を詰め合わせた小函のようなものだ。どこからでも、好きな順に読まれるといい。一つ一つ味わいは異なるが、どれも読み終えてしばらくは程好い残り香が感じられるはず。長いものには委曲をつくした構成の妙味があるし、短いものには切り口の切片が見せる鮮やかさがある。どれも心に残るが、個人的には、作者にはめずらしく視点人物を男性が受けもつ「ムッシュ・レ・ドゥ・シャポ」、「オレンジ・ストリート、スケートリンクの月」が印象に残った。年老いて初めて分かる、若さゆえの行動の切実さ、思い入れの愛しさがしみじみと伝わってくる。
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by abraxasm | 2015-02-27 14:26 | 書評
e0110713_17425318.jpg映画『スタンド・バイ・ミー』風にはじまるのが、表題作『善き女の愛』。春の朝、三人の少年が初泳ぎを自慢するために出かけた川で見つけたのは、近くに住む検眼士のウィレンズの死体だった。第三者の視点でひとしきり小さな田舎町を素描したかと思うと章が変わり、視点人物は訪問看護婦イーニドに移る。彼女が今看ているのは、同級生のルパートの妻ミセス・クィン。死が迫っているせいか片意地で我儘な患者に手を焼きつつも、常に善行を心がけるイーニドは誠心誠意務めを果たす。寡夫になろうとする男と奉仕活動のせいで行き遅れてしまった女との間に何かが起きるであろうことは、読者にも予想がつく。それを知ってか妻は死に際にとんでもない告白をする。

どこにでもありそうな静かな田舎町の上辺を繕っている覆いを剥ぎ取ったら、恐ろしい真実が現われる、というのはアメリカによくあるスモールタウン物の典型だが、全く別と思っていた話が、突然目の前に現われた川の情景で一つに結ばれる。告白の真偽が疑わしいのは、紹介済みの患者のねじくれた性格から予想される。イーニドの揺れる心が最後に選択したのはルパートと二人でボートに乗ることだった。暮れゆく光の中、隠してあるオールを探しに男は姿を消す。残された彼女を静寂が包む。息の詰まるようなラスト・シーンに言葉をなくす。

人物の心情や心理が嘘やごまかしなく的確に描かれている。周りからはその善行ゆえに聖女のように見られているイーニドだが、自分を汚らしく思えるような夢も見る。善行を積んでいるように見える生き方も、父や母との確執があってのことだ。どの登場人物もただの善意の人であったり、優れた人物には納まらない。物には裏表があるように、人にだって表面の笑顔の下に隠された思いや自分でも気づかない欲望や野心が埋もれている。

一人の人間が出来上がるにはいろいろな条件が左右し、人はそのなかでどう生きるか、どう生きればよいかを思い悩む。人が一人で生きていないように、成長する過程で親や配偶者、またその兄弟姉妹、さらには我が子、との間に必ず葛藤が生じる。アリス・マンローの短篇小説は、誰にでもある家族という核を中心に構成される。休暇旅行や帰郷といった日常性の中に時折り訪れるふだんとは異なった状況に人物を放り込み、そこに立つ小さなさざ波がしだいに輪を広げ周りのものを巻き込んでゆく様を、細部を大切にしながら丁寧かつ細心の注意を払って観察してゆく。

はじめは静かな佇まいを見せていた状況が、次第に募ってゆく人々の意地悪い視線や不寛容な言動によって、それまでの均衡を保てなくなったとき、事態は起きる。ずっと隠されていた秘密が暴かれ(「善き女の愛」、「コルテス島」、「変化が起こるまえ」)、危険が身を包み(「セイヴ・ザ・リーパー」、「腐るほど金持ち」、「母の夢」)、思い切った行動に走る(「子供たちは渡さない」)。

主人公は女性、それもかなり知的で、読書や音楽、演劇に親しみ、読んだ本のことを人と話したり、自分でも何かを書いたりすることを好む。周囲は善意の人々であるかもしれないが、地方の変わり映えのしない暮らしに慣れており、彼女が持ち込む知的な印象を、あまり感心しているふうではない。主人公は、一見それを受け入れているように振舞うが、内心では全然納得していないのは、たとえば一番身近な両親にははっきり反抗的な態度をとることでそれと知れる。

知的で自立した女性が、あまり都会とはいえない土地で周囲の因襲的な視線に囲まれて暮らすうちに溜め込んでゆく反感や抵抗、とそれが原因で起きる破局を、これぞ短篇小説という抑制された筆致で一気に終末に落とし込む。八篇のどれをとっても、鋭い人間観察力、肺腑を抉るような心理描写、切れのいい会話、時代背景が浮かぶ細部の描写、日常に亀裂を走らせる戦慄的なラスト、といずれ劣らぬ見事としか言いようがない手並み。大人の読者を満足させに足る短篇小説集である。
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by abraxasm | 2015-02-22 17:43 | 書評
e0110713_0471232.jpg原題は“The Testament of Mary”。「マリアによる聖書」とでも訳せばいいのだろうか。マリアは頭に「マグダラの」とつかない方のマリアである。ブッカー賞の候補に挙がったそうだが、冒涜的だという批判の声が上がり、候補にとどまった。作者コルム・トビーンはアイルランド人。カトリックの国でこういう本を書くのは勇気がいることだろう。特に宗教批判をする意識はなかったようだ。もし、扱われているのが、「あの方」の母親でさえなければ、一人息子を亡くした母親が、息子の死んだ日のことを何度も聞きに来る二人の男を煩わしく思う気持ちに何の不思議があろう。たとえ、その二人がヨハネであり、パウロであったとしても、だ。

知っての通り、キリスト教という宗教が世界宗教になったのは、キリストの死後のことである。自分が腹を痛めて産んだ子が周りに群れ集う輩に「神の子」と呼ばれ、崇め奉られる契機となった磔刑を目にした母の様子は聖書にも詳らかでない。福音書を書いた四人の弟子がすべて男だったからかもしれない。

年老いて死を前にしたマリアが、あの日々を追憶する。気持ちのいい若者だった息子が、エルサレムに行ってからというもの、少しずつ物言いが変化し、人の出入りがふえるにつれ、話が講話じみて身ぶりが大げさになってゆく様子に、母はなじめなかった。その言動が不穏視される息子のことを心配してくれる人がいて、呼び戻すために訪れたカナンの婚礼の席で、息子は知らない人を見るようにマリアを見、葡萄酒が足りないという声を耳にすると、壷に水を入れて持ってくるように命じた。

聖書が語る奇跡がその場にいた平凡な一人の母の目から見るとどう見えるか。作者は大仰な書き方を避け、穏当な筆遣いで淡々と起きたであろう事実を記す。一度書かれてしまい、多くの人々によって承認されたものは規範となり、批判を受けつけない正典となる。世俗の歴史書然り、聖書また然り。キリストと呼ばれる前の男はマリアにとってはただの息子であったが、使徒たちにとっては師でありカリスマである。彼の死後その言動は福音書の記述となって世界中に広がっていく。

仮令そこに悪意はなくとも、正典となったものは人を縛る。世の中は絶えず動き続け、かつては弱者であったり、少数者であったりした人々がそうではなくなる日が来る。女性がそうであり、同性愛者を含む性的な意味での少数者がそうだ。ところが、時代の移り変わりに抗して変わらないものがある。宗教もその一つである。預言者が男性であるからか、男性優位の教義を持つ宗教が圧倒的に多い。この作品におけるマリアは、イエスの母でありながら、福音書記者からは明らかに冷遇されている。それだけでなくつまらぬ発言などせぬよう隠微な監視を受けてもいる。

この作品におけるマリアは、一人の母であるとともに一人の女でもある。神の子の母と見られることを忌避しこそすれ、聖母などと呼ばれたいとはつゆほども思っていない。人並みに恐怖心もあれば、後先考えずに走りもする。後の福音書でどう書かれようが、そんなことは知っちゃいない。だいたいすべてはあの男たちが考え出したことではないか。一説ではマリアはキリスト降架後エフェソに移り、晩年を過ごしたとささやかれる。本書でもマリアはエフェソで暮らしアルテミス女神を信仰するなど、反パウロ的色彩が強い。

歴史はことが起きた後に力を得たものに都合のいいように記される。神話がそうであり、経典もまた同じである。神の名によって人を縛るものが、実は神ではなく権力を持った人であり、正義の名において人に命じるのが時の権力者であることは少なくない。多くの人に信じられた「正義」や「大義」の名によって、死地に赴くわが子を見送らねばならない母にとって、聖書に書かれたマリアの姿は果たして満足のゆくものなのか。

ことはキリスト教やジハードを奉じるイスラム教に限らない。多くの日本人のように信仰を持たない者にとっても「正義」や「大義」は存在する。意義深いと考えられることに我が身を投じる息子を、誇らしい、と語ってみせる必要は必ずしもないだろう。世間がどう思おうが、「あなた」は母である前に女であり、その前にひとりの人間である。何も女性に限らない。多数者や声高に語る人々がよくは思わない人々が、ありのままに生きることを許さない、不可視の大きな「力」に、このマリアは抗しているのである。冒涜の声が上がることは作者も想定内であったろう。それでも書く。発表する。刊行する。世界の国がそれを翻訳する。私が読む。あなたが読む。それでいい。
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by abraxasm | 2015-02-20 00:47 | 書評
e0110713_1293915.jpg『バット・ビューティフル』の「あとがき」でジェフ・ダイヤーが誉めていたので、どんな本だろうと思って読んでみた。何人ものジャズ・ミュージシャンの人生の一場面を「想像的批評」という方法で活写した本の書き手が称揚するだけに、かろうじて写真一枚を残すだけで、演奏の録音すらないジャズ史に残る伝説的なコルネット奏者の数奇な半生を、短い断章を駆使したコラージュ風のタッチで鮮やかに切り取ってみせる。書いたのは、映画『イングリッシュ・ペイシェント』(イギリス人の患者)の原作者マイケル・オンダーチェ。惹句にはドキュメント・ノヴェルなどという耳慣れない言葉が使われているが、実在の人物を素材にしたこれは、紛れもない小説である。

バディ・ボールデンは1877年生まれ。19世紀末から20世紀初頭にかけてニューオリーンズ・ジャズの最高のコルネット奏者として君臨。ジャズというスタイルの創出に重要な役割をはたしたが、三十歳のときに精神に異常をきたし、後半生を精神病院で送る、と「訳者あとがき」にある。とてつもなく大きな音が出せたという伝説が残っている。唇が傷むのもかまわず高音を吹き続けたとも。エキセントリックなミュージシャンだったのだろう。

ダイヤーがミュージシャンのポートレートを見た印象からストーリーを紡いで見せたように、現地を訪れたマイケル・オンダーチェは、知人にインタビューし、残されたわずかな資料を探して歩くうち、人物が「憑依」するのに気づく。探偵がその日の捜査で得た結果を手帳にメモするように、短い断章形式で書きとめた記述の合間合間に、バディ・ボールデン本人が立ち現われてくる。無論、作家の想像である。小説だというのはその意味だ。作家的資質の持ち主にかかれば、いくら事実をもとにして書かれようが、書かれた物は限りなく虚構に近づいていくのは避けられない。むしろ読者にとっては、その方がありがたいくらいのものだ。

昼間は床屋で働きながら、耳に入ってくる醜聞をネタにしたゴシップ新聞を発行し、夜はクラブでコルネットを吹いていた。彼を贔屓にする顔役が毎日届けてよこすアルコールが回ってくると狂気を帯びた剃刀が怖くて顔見知りは午後には髭を剃らせなかったなどという話も、後半生を知る者にはうなづける挿話だ。娼婦上がりのノーラを妻にしたのはいいが、妻は町一番の色男と手が切れない。バディの方もミュージシャン仲間の妻に魅かれ、二つの頂点が重なる三角関係が生じる。挙句が刃傷沙汰に次ぐ失踪事件だ。

何も知らずに手にとった読者なら、この本は探偵小説だと思うだろう。今は警官をやっているウェッブが、失踪した旧い友人のバディを捜し歩くという体裁をとっているからだ。作家はウェッブの眼を借りて、ニューオリーンズの街をバディを捜して歩く。梅毒を病んで娼館を追い出され、商売道具のマットレスを背に歩道に立つ娼婦たちは棒を手にした淫売狩りのポン引きに見つかると足首を潰される。ジャズの本だと思って読んでいると、とんだまちがいだ。酒と娼婦と音楽がまだ混沌としていた時代のニューオリーンズにいつのまにか迷い込んでしまっている。

伝説となったジャズ・ミュージシャンの末路はいつも何故か嘘寂しい。バディに憑依した作家が描き出す荒涼とした精神病院の風景、密閉された空間でおおっぴらに行われるレイプを含め、精神を病んだバディが見つめる自分とそれを取り巻く世界の描写がリアルで背筋が寒くなる。人が毀れてしまうには、それなりの理由があるのだろうが、当事者にとって納得できる何ものもそこにはない。よくできたハード・ボイルド小説を読んだ後のような、空しさと静かな余韻がいつまでも残る。
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by abraxasm | 2015-02-19 12:10 | 書評
e0110713_11384252.jpg世界の歴史という割には、思いっきり西洋それもキリスト教世界中心。日本人もインディオも賑やかしに出てはくるが、料理でいえば刺身のつま。どんな料理でも注文できる場所で朝昼晩食べたいのが、ベーコン・エッグスとベイクド・トマトの乗っかったイギリスの朝食だというのだから、博識で知られるジュリアン・バーンズも根っからの英国人なんだなあ、と改めて思い知った。

近著『終わりの感覚』で再認識したのは、その徹底して懐疑的な歴史観だ。「歴史とは勝者の嘘の塊」でなければ「敗者の自己欺瞞の塊」にすぎず、それもたいていの場合、記憶や文書が確かなものでないことが多い、というのが『終わりの感覚』の主題である。いかにもイギリス人らしい皮肉な歴史観だが、どうやらそれは首までどっぷり浸かった骨絡みの観念であったらしい。1989年に発表されたこの小説は、そのまま同じ主題を扱っている。

同じ主題であっても、2011年の『終わりの感覚』が、人の記憶というものが、いかに自分に都合のいいように改変されているかということを、一人の中年男の体験を通して抉り出した苦い認識として捉えたものとするなら、ほぼ二十年前の小説は、いかにもポスト・モダンらしい軽さや洒落っ気を感じさせる才気溢れる作品に仕上げられている。近作に魅かれた読者にはまるで別人の作のように思えるかもしれない。二十年の歳月は作家にとっても決して短い時間ではないのだ。

落語に三題噺という趣向がある。客席から適当に出された三つのお題を素材にして即興で噺を作って語ってみせる、真打ちそれも名の通ったところでなければ手を出さない高等芸だ。無理矢理にでも三つの題をおり込まなくてはならないところに、噺家の腕の見せどころがあり、聞く側の楽しみがある。誰も頼んでもいないのに、いくつかのモチーフを共有する10の短篇小説と随想めいた短章で一巻の小説を編むという離れ技をやって見せるあたりに、まだ四十代になったばかりの才気走った衒気が見える。

おそらく第一章「密航者」で、ノアの方舟を思いついたとき、これは使えると手応えを感じたにちがいない。船による航海という閉じられた空間設定はドラマティックだし、遭難、難破という悲劇的要素も絡む。それに、方舟に限らず、タイタニック号にメデューサ号の筏、と人口に膾炙した海難劇は枚挙に暇がない。あとは、ノアの方舟関連で、教会や、世界各地に布教した修道士の冒険譚、アララト山への巡礼といった題材が使える。

ただ、それだけでは面白くない。10と二分の一章をつなぐ一本の糸のようなものがほしい。それが、キクイムシであり、二人組みのペアであり、清潔なものとそうでないものの選別等のモチーフ群だ。何本縒りの糸のように複数の共通するモチーフが絡まりあって尻取り遊びのように次々と語り出される時と場所、人物の異なる十章の短編は、それぞれ一話完結でありながら、関連するモチーフによって緊密に結び合わされ、最終章までもつれ込む。この無理矢理とも思える辻褄合わせが面白いと感じられるか、不必要な遊びと煩わしく思えるかで評価が大きく変わる。

2015年に、これを読む読者としては、クルーズ船で観光ツアーを催行するタレント学者がアラブのテロリストによってハイジャックに遭う第二章「訪問者」が印象深い。二人組みのペア、清潔なものとそうでないもの選別という二つのモチーフが重い意味を持つ一篇である。テロリストは人質を選別する。日本人やスウェーデン人、アイルランド人は入口ドア近くに、アメリカ人やイギリス人はそれぞれ別の隅に、フランス、イタリア、スペイン、カナダ人はひとかたまりで中央に、という具合に。それを見たアメリカの哲学教授は「清潔と不潔を分離しているんだ」と呟く。

それを聞いたイギリス人主人公は二重国籍でアイルランドのパスポートを取得している。要求が入れられぬまま、人質の夫婦は一時間に一組ずつ処刑され、海に投げ入れられる。この光景が、第一章でノアの方舟から処分されたひとつがいの動物にオーバー・ラップされる。その選別の基準がまず、シオニストのアメリカ人夫婦から、ついで他のアメリカ人、イギリス人、フランス人…と続き、中立国のスウェーデン、テロリストを輩出している日本とアイルランドはしんがりという皮肉な順になっている。今、この事件が起きたら、日本人は何番目に処刑される順番に入るのだろうという疑問が頭を過ぎった。

「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」というマルクスの有名な言葉がある。テロもそうだが、船の沈没、航空機の墜落という事件も最近相次いで起きた。マルクスには悪いが、何度でも繰り返し循環する歴史観では二度目以降も到底喜劇とは思えないのが現実だ。裁判記録や書簡体といった、章ごとに手を変え品を変えた話法の採用に舌を巻いたことは別として、キリスト教世界に生きていない者としては、ノアの方舟に始まり永劫回帰的な天国に至るこの小説は、到底納得できない歴史観に基づいている、という感想を抱かざるを得ない。
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by abraxasm | 2015-02-18 11:39 | 書評
e0110713_10142573.jpg村上春樹の小説は読まないが、彼の訳になる小説やエッセイ類には結構お世話になっている。特にチャンドラーの翻訳と、ジャズ関係の文章は必ずといっていいほど目を通す。一昔前、植草甚一氏が果たしていた役割。ニュー・ヨークの本屋やレコード店をめぐっては見つけてきた本その他の話題を日本の読者に紹介するという目利きの仕事を、今受け持ってくれているのが村上春樹ではないのだろうか。村上氏が見つけてくるジャズ関連の書物は、もしかして彼がいなかったら、邦訳すらされなかったかもしれないものが少なくない。これもその一つ。ジャズ・ファンなら何をおいても読んでみたくなる一冊。

著者によれば「想像的批評」というジャンルになるそうだが、平たく言えばジャズ・ミュージシャン七人のポルトレ(評伝)である。どこが「想像的」なのかといえば、著者は伝記的事実を尊重しつつも、方法としては、ミュージシャンの写真を前にして想像をめぐらせ、頭の中に浮かび上がってきた映像を文章化してゆくという。その結果、セロニアス・モンクとバド・パウエルが麻薬不法所持で警官に逮捕される有名な場面が、車から投げ捨てられ、水溜りに浮かぶヘロインの袋にいたるまで、著者自身その場で目撃していたようなタッチで描かれることになる。

レスター・ヤング、セロニアス・モンク、バド・パウエル、ベン・ウェブスター、チャールズ・ミンガス、チェト・ベイカー、アート・ペパー、いずれ劣らぬ名手七人の肖像写真を収めるギャラリーの壁にあたるのが、ワンナイト・ギグの演奏会場に向けて車を走らせるデューク・エリントンが車中で曲の構想を練る場面のエピソードだ。ジャズの代名詞ともいえるデュークと長年の相棒ハリーの気のおけない会話が、いずれも個性の強い、どちらかといえば破滅型のミュージシャンたちが繰り広げる人生の一幕の色彩を浮き上がらせる役割を果たしている。

ノンフィクションとフィクションが垣根を越えて行きかうような描写は、まるで短篇小説を読んでいるようだ。これのどこが「批評」なのかと疑問を覚えた読者は「あとがき」を読んで納得するにちがいない。ジャズ・ミュージシャンは、常に先行するミュージシャンの音をなぞるように演奏する。たとえば、マイルズはディジーのように吹こうとした。ところが、ディジーのトレードマークである高音部の跳躍を持続させることができなかった。それがあのマイルズの「孤独な背筋が寒くなるほど美しいサウンド」をもたらしたのだ。演奏自体が批評行為である、というのが著者の見解である。

それにしても、ジャズ・ミュージシャンという人種は、なぜこんなにも破滅的な人生を送らなければならないのだろう。描かれる人々は、どれも麻薬中毒やアルコール中毒患者、さらには精神を病んで精神病院に入院した経歴を持つ。早死にした者も多い。著者が選んだミュージシャンに偏りがあるとは思えない。「あとがき」で著者も書いているように、これがジャズ・ミュージシャンなのだ。一晩のギグのために、全精力を傾けての演奏。それも、インプロヴィゼーション(即興演奏)がその中心となるだけに、気を抜けるところがない。クスリやアルコールに頼りたくなる気持ちも分かるというもの。

表題『バット・ビューティフル』は、スタン・ゲッツとビル・エヴァンスの名演奏で知られる曲だが、あるサックス奏者のどうしようもない生活、その生き方の破滅的な様相を前にして、なおかつその演奏を耳にした女が漏らすひとことでもある。村上春樹氏も訳しながら、彼らの演奏を聴いていたというが、この七人にデューク・エリントンを含めた七人+αの演奏を聴きながらページに目を落とすとき、知らず知らずのうちにあなたも口にしているだろう。彼らの人生はなんと凄惨なんだろう。「けれど、その音楽はなんと美しいことか…」と。
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by abraxasm | 2015-02-14 10:15 | 書評
e0110713_1159481.jpg「身ぶり」という、それ自体は曖昧な多義性を持つものを、意識的、無意識的を問わず、ある時代に固有の精神や経験を具現するものと読むことで、講和条約発効前後に発表された日本映画を分析したもの。テマティスム批評の流れを汲む映画批評である。

採りあげる作品は、黒澤明の『虎の尾を踏む男達』、『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』、小津安二郎の『晩春』と『麦秋』、谷口千吉の『赤線地帯』、松竹映画『二等兵物語』シリーズ初期作品、成瀬巳喜男の『なつかしの顔』と『浮雲』他(付録として米映画一本を含む)である。

映画批評にもいろいろなスタイルがあるが、役者や監督という人間が表現しようとした意図の成就如何に着目するのではなく、画面上に映し出される映像を何かを意味するものの集合としてとらえることで、そこに意味されているものを読みとっていこうとするのが、テマティスム映画批評というものである。そういう目で見られたとき、美しい映画女優は単なるオブジェに等しく、黒澤、小津といった世界的監督さえも特権的な力を持たない。名作の名をほしいままにする小津、黒澤、成瀬の作品と『二等兵物語』が並ぶのは単に同じ時代を共にしたという理由だけではない。

そうはいっても、著者の批評が冴えるのは、やはり、小津の二作における原節子の仕種、身ぶりを論じた第二章「絆とそのうつろい」、さらには成瀬を論じた第六章「女が身をそむけるとき」においてだろう。黒澤の諸作その他も、時代固有のメンタリティをよく抽出しているとは思うものの、読みとられた「身ぶり」が傍役のものであったりするところに不満が残る。『二等兵物語』を「敗軍の兵を許す」という身体性の表出と見る分析にも教えられるところは多いが、「身ぶり」という観点では、伴淳、アチャコのそれは、原節子のそれに遠く及ばない。

成瀬の二作。著者はニュース映画を見る女たちが、多くの観衆が見入る画面に映し出される兵士の行軍や引き揚げ船の映像から目を背けるという一種異様な「身ぶり」に目をとめる。戦中のニュース映画には出征兵士が映っており、銃後の家族がこぞって映画館に押し寄せたという。しかし、実は画中の人物の殆どは戦死の運命下にあった。1941年の映画でそれが予見されていたと筆者は読み解く。『浮雲』の場合。高峰秀子演じるヒロインは、敗戦後、復興しようとする日本に背を向け続ける。季節は変わるはずであるのに、高峰秀子は常に寒そうな身ぶりをしている。敗戦後掌を返すように、したたかに戦後社会を生きることのできなかった人々の心性がそこに露出している。

『晩春』における原節子の正座が「日本的なもの」の絆のきつさが強まるときに現われるという指摘はなるほどとうなづかされる。また、あの有名な「壷」のシーンに関連して、原節子の頭部が画面上から消えるカットが何度もあり、それは父親の結婚相手について言及されるときに起こる、という。普段は椅子に座り、畳の上では足を崩す快活な原が、家族のしがらみのなかで、次第次第に手も足も出なく(正座)なり、彼女らしさ(頭部)を喪失してゆく様を身ぶりに見出す、この読解は注目に値する。

『麦秋』について著者はこう言い切る。<『麦秋』において空を見上げる身振りは死者を召喚する機能を持つ>と。死んだ二男を想起する場面で人々は常に上を振り仰ぐ。戦地から帰らぬ家族を待つ人々にとってほぼ確定している死を口に出せない分、身ぶりの果たす役割は大きかったであろう。最後に、咀嚼するには堅いが味のある独特の文体を紹介するために、もう一箇所引用しておこう。原が結婚を決意する契機となった戦地からの二男の手紙に添えられていた麦の穂にふれた部分である。

<『麦秋』とは、ほとんど誰も記憶にとどめることがないであろう一匹の犬の波打ち際の彷徨で始まり、ひとりの死者の記憶を解き放とうと決意した若い女性の毅然とした行動を描き、その記憶をぎこちなく呑み込もうとする老人たちの目の前で、死者の形見と同種の植物が海のように立ち噪(さわ)ぐ光景で終わる物語なのだ。救われるべき「無数」の記憶は残されている。>
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by abraxasm | 2015-02-12 12:00 | 書評
e0110713_1183622.jpgこのシリーズも三巻目。副題に「西洋近代名作選 諸雑誌氾濫篇」とあるとおり、二十世紀の西洋怪奇文学を広く雑誌に渉猟したものである。70年代に日本でも怪奇幻想文学がブームを呼び、夢野久作や久生十蘭、小栗虫太郎などの作品が次々と復刊され、読み漁ったものだ。もっと他にないのか、という思いで雑誌「新青年」の復刻本にまで手を伸ばしたが、ここに集められたのは、その種本にあたる本家本元の西洋の雑誌に寄せられた刺戟的な娯楽小説が中心である。

二巻目が、教養に恵まれた富裕層に向けられた作品の系譜をたどったものとすれば、本書は大衆向けの興味本位の扇情的な、俗にいうパルプ・マガジン等から拾い集めたものである。編者である荒俣宏が前書きにそう書いているのだからまちがいない。もともとこのシリーズ、世に埋もれた傑作、快作を紹介しようという編者の意図から編まれたもの。知ってのとおり、荒俣は該博な知識と資料の蒐集にかけては現代日本において他の追随を許さない第一人者である。

怪奇幻想文学と一口にいっても、上はヘンリー・ジェイムズの幽霊譚から、下はエロ・グロ・ナンセンスに溢れた大衆娯楽小説まで、その範囲は広い。ゴシック・ロマンスやE・A・ポオのように定評のある作品は、すでに紹介済みで、今更編者が手がけるまでもない。そこで、彼が目をつけたのが、安価で大量に流布され、使い捨てられた大衆誌に載った作家、作品である。ネーム・バリュウのある作家もいれば、日本では無名といっていい作家もいる。ただ、それらの果たした役割は大きい。

どんなジャンルであっても、それが世に出て、認められるまでには時間がかかる。淘汰され、名作、傑作と称される作品が掬い取られるまでに、目の荒い網からこぼれ落ちた銘品、佳品も数あるにちがいない。それを紹介せずにはおかない、という心意気が感じられるこのシリーズである。粗悪な紙質のパルプ雑誌を現地で買い漁るだけでなく、時間をかけ欠本を探し集めることで、発表当時の表紙画や挿絵、イラストまで大量に紹介できる強みが荒俣にはある。全巻所収の丁寧な前書きと手厚い作品解説が今後の研究者に寄与する何より貴重な資料となるだろう。

前置きにあるように、作品自体の質はそう高くない。フランスのグラン・ギニョル劇の戯曲や、そこから起こした小説、アメリカのパルプ・マガジンで量産された小説が中心なのだから、そこは仕方がない。そんななか、ヒッチの映画にもなった『三十九階段』の原作者ジョン・バカンの「アシュタルトの樹林」は、さすがに風格がある。南アフリカに邸宅を構えた旧友を訪ねた語り手が、変わり果てた旧友の秘密を探り当てると、小さな樹林の中に古い神を祀った神殿があった。ジンバブエの円錐神殿を完璧にしたような石造りの塔。キリスト教以前の太古の神々といえば、ラブクラフトが有名だが、それとは一味ちがった繊細な趣きに心惹かれるものがある。

アメリカのパルプ・マガジン系にもなかなか読み応えのある作品が選ばれているが、なかで一つ選ぶとすれば巻末に置かれたM・E・カウンセルマンの「七子」か。黒人奴隷の一家に生まれた七番目の女の子は、なぜか皮膚の色が白かった。悪魔の子といわれ、納屋に放置され、名前もただの「七子」とされていたところを、雇い主が知り、それがアルビノであることを教え、普通の暮らしに戻るが、彼女には他の子にはない力が備わっていた。アフリカン・アメリカンのルーツを感じさせるブードゥーの呪いがとんでもない悲劇を捲き起こす。幼い少女を主人公とするなら、これしかないだろうという「ひねり」と、静かな癒しを湛える結末が余韻を残す佳品である。
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by abraxasm | 2015-02-10 11:09 | 書評
e0110713_16594690.jpg「マイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』創作術」を書いた音楽ジャーナリストが柳の下の泥鰌をねらって(かどうかは知らないが)世に問うた「レコード本」の二作目である。邦訳に引きずられていったいどんな真実が明かされるのだろうと期待してはいけない。原題は“ A Love Supreme The Making of the John Coltrane Masterpiece ” と、素っ気ないもの。アルバムタイトルに続く節はアーチスト名以外はサブタイトル扱いかフォントが小さい。平たく言えば「メイキング」だ。書かれたのは2002年。

前作と共通するのは、このアルバムが『ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・ベストアルバム500』に於いて、47位にランクインし、前者の12位に次ぐ高位置につけていることだ。40年も前に録音されたレコードのどこにそんな価値があるのか、分かる人には分かるのだろうが、今の人には分かりづらかろう。そこで、当時セッションに参加したミュージシャンにインタビューを行い、残された録音を聞きながら、記憶をたどってもらう、というのは前作とほぼ同じ趣向だ。序文をエルヴィン・ジョーンズが書いている。ジャズを聴きはじめた頃、よく読んでいた相倉久人の本で、丁度来日中の彼がトラブルに見舞われ帰国できず、仕方なくピット・インで日本のジャズメンとセッションしていた様子を読んでいたので、とても懐かしい。

実のところ、愛聴盤であるマイルスの『カインド・オブ・ブルー』とはちがって、『至上の愛』は、他のコルトレーンのアルバムに比べて聴く機会が少なかった。気楽に聞き流すことの難しい緊張を強いるからだ。この見解は、特別なものではないらしい。ジャズ界にあっても当初は難解であるとか、意図が理解できないという批判があった。現在に至ってもコルトレーンの最高傑作という評価が定着しているわけではない。しかし、一方ではジャズという枠を取り払い、音楽というジャンルを外れても特別な評価を受けていることも確かだ。一言で言えばスピリチュアルであるという事実がそこにある。

著者は、その評価を受け入れつつも、より客観的な評価を求めて、アルバムの創作過程を追う。特に録音を担当したルディ・ヴァン・ゲルダーの力を重要視している。マイルスの場合とちがって、『至上の愛』が録音されたのは、ルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオだった。写真で見ても木組みの梁が印象的なライブな音が期待できそうなスタジオである。伝説的なアルバムだけに録音の様子を再現する筆には力が入る。ベースのジミー・ギャリソンの指が弦から外れるときの音を拾うルディ・ヴァン・ゲルダーのマイク処理など、実際にCDを聴きなおすと目に見えるようだ。

前作に比べ、面白さに欠ける点があるとすれば、ジョン・コルトレーンという人間についての掘り下げ不足という憾みがある。マイルスの場合、その人間的な問題点が、文章の端々から立ち上がってきて、音楽家としての素晴らしさとの間に絶妙の緊張感をもたらしていたのだが、コルトレーンの場合、マイルスのバンドを馘首になった原因である麻薬中毒については、過去のこととしてあっさり触れるにとどめている。そのことが、『至上の愛』を通じて発せられる神への捧げ物としての音楽を創り上げるコルトレーン像との間にギャップを生み、二つのコルトレーン像が分離したまま統合できていないという感がある。

コルトレーンの遺族が、『至上の愛』を特別なもので、「ジャズ・レコードではない。(略)音楽でメッセージを伝えようとしたんだ」と位置づけているのに対して、エルヴィン・ジョーンズは「音楽だ」「私ならそう呼ぶよ」と、言い切っている。「美学は混沌を嫌う」と言ったのは西脇順三郎だが、『至上の愛』は紛れもなく音楽である。第三者的な立ち位置を取り、自分の意見や考えをあまり前面に出すことのない著者の個性が裏目に出てしまっているようだ。『至上の愛』という伝説的アルバムを共に創り上げた黄金のカルテットは、この後すぐに崩壊してゆく。フリー・ジャズに接近しようとしていたコルトレーンが、従来のジャズとの境目に立って、危うい均衡を保っているのを他のメンバーが本当のところどう見ていたのか、もっと突っ込んだインタビューが聞いてみたいと思った。
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by abraxasm | 2015-02-08 17:00 | 書評
e0110713_1341029.jpg煙に閉ざされた灰色の都市ベローナに腰を据えた「キッド」は、レイニャとの会話から自分がまた狂いはじめているのかと疑惑を抱きながら街を徘徊する。スコーピオンズの<ねぐら>に寝泊りすることで、しだいにリーダー的存在に昇格し、グループを仕切っていたナイトメアから、その位置を譲られる。弟分のデニーとレイニャの二人と共に愛を交わし詩を書く自分と、リーダーとしてメンバー間の揉め事の仲裁をせねばならない自分との葛藤。二巻目は主にスコーピオンズというグループ内で起きるいざこざや『真鍮の蘭』出版を祝うコーキンズ邸でのパーティー・イベントが中心となる。

一巻に比べると、新たなSF的状況と言えるのは、通常の何倍もの大きさの太陽らしき光源の出現くらい。あとは他からの連絡、情報の供給を含む一切のインフラを欠いた、一種の自己完結型閉鎖的空間内における人間の行動パタンの観察とでもいえる叙述に終始する。テレビ、映画はもちろん、ラジオの電波も届かないベローナでは、コーキンズの発行する新聞が唯一の情報であり娯楽。本はといえば、キッドの新刊詩集が住民の愛読書になっている。ストーリー展開はまだるっこしい分、閉じられた世界で演じられる人間の行為が濃密に描かれることになる。

一見暴力的な相貌を持つスコーピオンズも、その実態はほとんど、<ねぐら>内でごろ寝するばかり。腹が減ったら略奪してきたスープや豆、肉類の缶詰を温めて食べ、ワインを飲み、したくなったら手近な相手と寝る、という怠惰で頽落的な日常だ。ヒッピー・コミューンでの経験をもとに描かれたのかと想像したくなる、セックス漬けの生活は70年代の対抗文化(カウンター・カルチャー)的な匂いがプンプンする。

まずはセックス。異性との一対一の組み合わせという既成概念に挑むかのように次々と繰り出されるパタンは、同性とのそれ、さらには男二人と女一人の組み合わせ(キッド、デニー、レイニャの場合)、乱交、輪姦、売春の真似と、やれそうなところはとりあえず試しているようだ。ただ、フィクションというより、作家の実体験の反映のように思えるほど、性に対する嗜好が限られていて、自由に開かれているという感じはあまりない。没頭するというのではなく、真剣に取り組む対象がないため、日常を紛らすための儀式めいたそれは、ピンチョンが『重力の虹』で描いているような強烈な没我感を伴うようなものではない。

グループ内外のトラブルの元にあるのは、人種やジェンダーの差異から生じる軋轢である。何かといえば「ニガー」という言葉が発せられる、黒人に対する白人の持つ優越感とその裏側に張り付いた恐怖心や劣等感がある。一方、偏見を持たず誰とでも接する者には、裏切り者に向ける敵視が待ち受けている。主人公は、「インディアン」との混血で、有色人種でありながら黒人種ではないという微妙な位置に置かれることで、公平な視座を得るよう配慮されている。ジェンダーに関してもレイニャやドクター・ブラウンという魅力的な女性が配され、男性優位視点からの脱却が試みられている。

後半に入ると最も目を引くのが、タイポグラフィー的な実験である。テクスト内に複数の異稿がコラージュ状に配され、一貫した叙述を追うことが難しくなる。冒頭から志向されていたことであるが、改行ではじまる書き出しが、文の途中から始まったり、小説的な文章の間に、手記もしくは草稿のような文章や、推敲段階にあることを示す訂正を表す線が引かれた単語を残した文章、と多様なナラティヴが駆使され、混在する文章で叙述されている。一篇の小説が終始一貫した視点や話者、統一された話法で書かれる必要があるのか、と問いかける実践であろう。多少読みにくくはあるが、読めないほどには毀れていない。テクストを書く主体が誰であるかという問題はこの小説の主題とも関わる重要な点であり、必要充分な実験と了解できる。

さて、最後に残されたのが、異様な記述で始まる冒頭の謎であり、ベローナという都市がはらむSF的世界の解決である。主人公の容姿に比べ異様な手の醜さや、冒頭登場する女性のふくらはぎの切り傷、といった手がかりから、主人公の出自、本名、表題の由来等についてはそれなりの解答が用意されていて、読者を納得させることが可能だが、ベローナという世界については読者自身が解決せざるを得ないようだ。何度か言及されるオランダの画家M・C・エッシャーの絵画あたりがヒントになるかもしれない。ただ、この小説はSFという枠を取り払っても自立している。特に合理的な説明を要求してはいない。

ひたすらダルいばかりのコミューン的日常やダンテの『神曲』めく、ベローナ地獄めぐりから、どう脱却し新生を目指すのか、と気を回しながら最後まで読んで、ちょっと意外に思ったのは今読めば9.11を予言していたかのような一大パニックによる幕切れ、である。冒頭に挿入された夢幻的なシーンに続く、去る者と訪れる者の一時の出会いと別離という再帰的な情景に物語作者としてのディレイニーの巧さを改めて思い知らされた。と同時に、やれやれ上手くかわされてしまったな、という舌打ちが頭蓋の奥の方で聞こえたことも記しておく。
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by abraxasm | 2015-02-07 13:04 | 書評

覚え書き


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