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e0110713_173032100.jpg愉しむために本を読んでいるはずなのに、いろいろな本を読んでいると、心がささくれ立って感じられることがある。そんなときは、お気に入りの作家の本を読んで、気晴らしをするに限る。それで、何冊か新しい作家の本を読むごとに、馴染みの作家の書いた本を探すことになる。ル・カレのように、まだ新作を書いてくれる作家はいいが、死んでしまった作家の新作は読めない。村上春樹のように、定期的にチャンドラーの新訳を発表してくれる奇特な訳者がいて、大いに助けられているが、次回作を待つ間が長すぎる。

それで、『黒い瞳のブロンド』のような別の作家によるマーロウ物に手を出すことになる。『プードル・スプリングス物語』は、チャンドラーが第四章まで書いたところで他界し、遺作となっていたのを、ロバート・B・パーカーが後を書き継いで完成させたもの。厳密にはチャンドラーの作品ではないが、前々から気にはなっていた。パスティーシュとしての『黒い瞳のブロンド』には、あまり満足できなかったので、今回も心配しながら読みはじめた。

『プードル・スプリングス物語』は、『長いお別れ』の続篇ではないが、そこで知り合ったリンダ・ローリングとの関係が重要な主題となっている。二人は結婚し、高級住宅地であるプードル・スプリングスに所帯を構える。富豪の娘と結婚しても、マーロウは私立探偵を続けている。近くのガソリン・スタンドの二階にオフィスを構えたとたん依頼が舞い込んでくる。クラブ経営者のリピイが借金の借りを返さず姿を消したままのレス・ヴァレンタインという写真家の居所を探してほしい、というのだ。

レスの妻というのが、リンダの友人でやはり大金持ちのブラックストゥンの娘ミュリエル。夫は仕事で出かけていると言うので、出先をあたるがどこにもいない。手がかりらしきものを探すうちにマーロウはとんでもない秘密を見つけ出す。それと、いつものように彼の行く先々に死体が転がっているという始末。大金持ちの妻と、プールと気の利いた使用人つきの豪邸に住み、毎日自宅からオールズで砂漠を挟むロス・アンジェルスまで長距離通勤する私立探偵、というパロディめいた設定に、正直最初は面食らったが、いざ仕事にかかると、いつものテンポで話は流れ出し、ちょっと安心した。

解説代わりに附された「ハードボイルド雑感」という文章の中で、作家の原尞がハードボイルド私立探偵小説には二つの型がある、一つは「探偵の調査活動そのものが物語の骨子をなしている型」で、もう一つは、そこに「読者にとってはどうしても読みすすんで答えを見出したくなる要素を付け加える型」だ、という説を述べている。チャンドラーの主要な長篇では、『長いお別れ』を除く六作が前者で、テリー・レノックスとマーロウの友情の発端から終末までの物語を描いた『長いお別れ』が後者である。そして、本作もまた、後者に属するものとしてパーカーは書いている。いわずと知れたリンダとマーロウの新婚生活がどうなるのか、という主筋とは異なる別の物語が待っているからだ。

本筋の方だが、いまや岳父となったハーラン・ポッターの同類の大富豪や、その凄腕の用心棒、女を誑かせる強請り屋まがいのポルノ写真家、ごろつき同然の刑事、といったお馴染みの連中に、バーニー・オウルズまで顔を揃え、チャンドラーらしさ溢れた仕上がりとなっている。そのチャンドラーらしさをどこに持ってゆくかで、作品の風情というものが違ってくるのだが、パーカー描くマーロウは、へらず口はリンダを相手にするとき以外は封印して、強面相手にフルネルソンをきめるなど結構タフガイらしきところを見せている。雨の波止場で、トレンチ・コートに身を包んだ早撃ちの用心棒と同じくトレンチ姿のマーロウが対峙するところなど、様になりすぎて恥ずかしいくらいだ。

その一方で、感傷的で「俺はロマンティックな探偵だ」と嘯きながら、どうしようもない屑みたいな男に惚れぬいた女の子エインジェルの泣き顔を見たくないために、警察にも依頼主にも真実を隠しとおすマーロウ。パーカーが胸に抱くマーロウ像は、案外センチメンタルなヒーローのようだ。リンダに対して、金も力もない自分にあるのは自分であり続けることだけだ、というマーロウは、われらがマーロウ、と喝采を送りたいところだが、一晩留置所に入れられただけなのに、ハーラン・ポッターお抱えの弁護士が迎えに来ると、唯々諾々と釈放を受け入れるのはリンダのためとは思っても、少々焼きが回ったのではないかと考えてしまう。

事件の解決に至る思考過程も、いつもほど明解ではなく、マーロウは最後まで真犯人を決めかねている。チャンドラーが、どう考えていたのかは分からない以上、本筋の事件解決は後を書き継いだ作家の責任になるわけで、いろいろと逡巡があったにちがいない。随所に見られる、ある種の女性に対する辛辣な表現も含め、結果的にはチャンドラーらしさを感じさせることに成功しているのではないか。

もう一つの物語、リンダとマーロウの新婚生活の方だが、こちらはどうだろう。人によって意見は違うだろうから、個人的な見解として言わせてもらうのだが、チャンドラーだったらこうは書かなかったのでは。いかにもアメリカ人が好みそうな楽天的な展開に、もう少し屈折した、余韻の残る終り方はなかったのだろうかと溜息が出たのだが、四章までの書きぶりを考えると、こういうラストもありなのか、とも思った次第。いずれにせよ、すべての読者をして満足させることは不可能な試みではある。上々の出来としたい。
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by abraxasm | 2015-01-31 17:31 | 書評
e0110713_2334528.jpg主にニューウェイブSFの中篇を集めたアンソロジー。表題作になっている「ベータ2のバラッド」を書いているサミュエル・R・ディレイニーの短篇集『ドリフトグラス』を読んで、その才能に驚いたばかりなので同じシリーズ中の本書を手にとった。編者が若島正氏というのも選択の理由だ。ニューウェイブが英国で始まったことを意識してか、バリントン・J・ベイリー、キース・ロバーツに、リチャード・カウパー、H・G・ウェルズという英国作家が並んでいる。アメリカからはディレイニーともう一人、ハーラン・エリスンが選ばれている。本邦初訳が四篇というから、かなり異色のセレクションということになる。

表題作「ベータ2のバラッド」は謎解き興味を持たせたSF中篇。銀河系人類学を学ぶ学生ジョナニーに与えられた課題は数世紀前に地球を離れた宇宙船団<星の民>で起きた事件である。目的地にたどりつけなかった二隻の船に何が起きたのかを探りレポートにして出せというものだ。ベータ2というのは、難破船の一隻の名で、そこで起きた歴史を歌にしたバラッドが残されている。ジョナニーに課されたのは一次資料に直接当たり完全な分析を行うことだった。航海日誌等の資料を見つけたジョナニーは、そこで緑色の目をした不思議な少年に出会う。

お目当てのディレイニーだが、SFに譚詩という文学的なモチーフを用いている点や、言語に関する言及など、後のディレイニーを予感される卓見や優れたアイデアは散見されるものの、同じ中篇の「エンパイア・スター」と比べると、初期の作品ということもあり若書きの感がぬぐえない。本来ならもっと長い作品となるべき素材を枚数の関係で短く端折った中途半端な仕上がりという印象を持った。

ベイリーの「四色問題」は、数学好きか、もしくはバロウズファン向き。ロバーツの「降誕祭前夜」はいわゆる歴史改変小説で、第二次世界大戦時に英独連合ができていたら、という仮定にたって書かれている。SFに詳しい方ではないので、自信はないが、この二篇が、英国由来のニューウェイブ選という括りにぴたりと当てはまるのかどうか、首をひねってしまった。

掘り出し物と思ったのは、リチャード・カウパーの「ハートフォード手稿」だ。現代青年が、叔母の遺産を相続するにあたり、叔母が甥に遺した古い本をめぐる話である。以前、H・G・ウェルズの『時の探検家たち』は、実話に基づいていたという叔母の話を一笑に付した甥に、時間旅行の可否を判断する決め手として遺した本の中には、その時代には絶対に書くことが不可能な記述が挿入されていた。専門家による鑑定を経て、話者はその内容を逐一書き写し、読者の判断を仰ぐというスタイルだ。

その中身は、タイム・トラベル物のSF。それもかなり古典的な。本家のH・G・ウェルズの『タイムマシン』と比較しても往古の雰囲気漂う逸品。タイムマシンの故障で、想定外の時代に降り立った主人公が修理用の部品調達のために、ペスト禍に見舞われるロンドンを目指す話である。不衛生な当時のロンドンで得体の知れない疫病に市民がどう立ち向かったか、未来から来た人間には、それが如何にまちがった対処法に思えたか。分かっていてもどうしようもない無力感に加え、忍び寄る疫病、とサスペンス溢れるSF小説となっている。

小説のもとになった当のH・G・ウェルズの『時の探検家たち』も収録されている。両方を併せて読むと、なおさら感興が深い。『タイムマシン』を読んでいなかったら、それも参照されるとなお良い。
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by abraxasm | 2015-01-30 23:35 | 書評
e0110713_18260713.jpgセーヌ・エ・マルヌ県にあるホテルのバーで四人の男女が酒を飲んでる。痩せて背の高い男がミュラーユ、そのそばにいる逞しい身体の男がマルシュレ、奥の方に立つ女が支配人のモー・ガラ。肘掛け椅子に座っているのが「私」の父だ。引出しから出てきた一枚の古い写真に見入るうちに「私」は、はるかな過去にすべりこんでゆく。

幼少時に他人の家に預けられ、大学入学資格も取得した頃、突然父が現われた。トランク一つに荷物をつめて家を出た「私」はその日から父のあやしげな仕事を手伝う羽目になる。古書店で見つけた初版本に作者の献辞を偽装して高値で売り払う商売に「私」は次第に夢中になっていった。そんなある日、あの事件が起こったのだ。ジョルジュ・サンク駅で線路に突き落とされた「私」は危うく死にかけた。背中を突いたのは父だ。それ以来父は「私」の前から姿を消したのだった。

十年ほどして、「私」は父を見つける。父は悪い仲間と商売をしていて、助けを必要としているように思えた。外人部隊にいた昔を懐かしがるマルシュレや、ゴシップや中傷記事専門の新聞を発行するミュラーユのカバン持ちとなった父は「私」を覚えていなかった。混迷の時代。身分証明書を持たないユダヤ人の父はベルギーへの脱出を計画していた。「私」は彼らの仲間入りをし、父を助けようとする。

語り手の「私」は、モディアノの小説ではお馴染みのアイデンティティを捜し求める青年。自分を捨てた父を見つけ、親子の関係を回復することが急務だ。しかし、冒頭からその語りは曖昧にぼかされている。父が怪しげな連中とつるんでいたのは占領下のパリ。古い写真に写る父やその仲間と作家を名乗る「私」が同じ時間を共有することはありえない。ところが、父を蔑ろにする仲間のもとを抜け出し、二人は中古のタルボを駆って夜のパリ環状通りを流してゆく。

占領下のパリといえば、レジスタンスが通り相場だが、闘士ばかりいたはずがない。フランス人には思い出したくもないことだろうが、不穏な時勢を逆手にとって、闇物資を売買したり、ユダヤ人を密告、脅迫する人間もたくさんいた。作家の父もその一人であった可能性は拭いきれない。戦後生まれの作家は、当然その時代を知らない。自分というものの成り立ちを知ろうとすればするほど、その時代と父の姿が気になる。作家は書くことを通して父を手に入れようとする。当時の出来事や事件の顛末、人物の来歴、記憶の向こうに追いやられてしまった事実を再現し、歴史の陰の部分を明るみに引きずり出す。多くの人名の中には実名も混じっていよう。薄闇の世界の中で出自をひたすら隠しながら生きのびようとあがく父を発見して作家は何を思ったのだろう。

捨てられたはずの父に呼びかける「私」の声が何度も書きつけられる。モディアノ作品の中で、これほど父に寄り添い、共に行動する主人公は今まで読んだことがない。虚構であるからこそ、今の自分が当時の父と同じ風景を見て言葉を交わすことができる。常にびくびくし、同じ落伍者仲間に追従する下卑た父の姿を目にしながら、「私」は、父を裁かない。むしろ、自分を汚すこともいとわず、父の近くにとどまろうとする。

『パリ環状通り』は、「根無し草」(デラシネ)が失われた根を求めて現実とも夢想ともつかぬ世界を彷徨する話である。根無し草は根がなくとも生きていられる。人間も同じだ。苦い過去など忘れた方が生きやすいに決まっている。しかし、そうやって生きている今の自分とは何なのだ。最後の場面、父の顔見知りだった給仕が、「あんたは若いんだから将来のことを考えた方がいいよ」と諭す。「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」といったヴァイツゼッカーの言葉が耳によみがえる。自分も知らない過去に、いつまでも拘泥するパトリック・モディアノは、それをいちばんよく分かっているのかもしれない。

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by abraxasm | 2015-01-27 18:26 | 書評
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四六版二段組で約六百ページの短篇集。本邦初訳や新訳を含むSF、ファンタジーのジャンルに属す短篇小説が十五篇、それに「あとがき」のあとに、唯一の中篇「エンパイア・スター」(新訳)が収められている。ディレイニーに馴染みのある読者なら収録順に読むのが順当だが、巻頭の「スター・ピット」に抵抗を感じる向きには、後ろから読むことをお勧めしたい。猫好きだったらディ=クという名の仔悪魔猫が重要な役割を受けもつ巻末の「エンパイア・スター」がお勧め。未熟な若者が成長してゆく姿を描く人格形成小説(ビルドゥングス・ロマン)と、二大勢力の長きにわたる宇宙戦争の経緯を描くスペース・オペラが一つになった構成で、ディレイニー初心者にもとっつきやすい。

神のごとき全知視点を持つ結晶体ジュエルが語るコメット・ジョーの物語は、時の裂け目をくぐることで、並行世界ならぬ多観的(マルチプレックス)な世界を何度も生きる人々を描く、いかにもSFらしい稀有壮大なロマン。売り出し前のボブ・ディランに前座をつとめさせたこともある元フォーク・シンガーのディレイニーらしく、オカリナとギターのセッションが繰り返し重要な場面に登場するのも愉しい。エリオットの詩句や、オスカー・ワイルドとダグラスの引喩、多様な語りの文体の採用といった文学的技巧も駆使され、SFファンでなくてもその面白さを堪能できる仕上がりとなっている。

逆にニュー・ウェイブの旗手と呼ばれたディレイニーらしさを味わうなら巻頭の「スター・ピット」だろう。今は、スター・ピットで宇宙船の修理格納庫を自営するヴァイムには捨ててきた過去があった。過度の飲酒癖が災いし、幼い息子を置いてコロニーを出たのだ。その原因が生態観察館(エコロガリウム)。生態サイクル学習用の「水槽」だ。その時代ゴールデンと呼ばれる一部の人間を除き、スター・ピットを越えて宇宙へ出ることは不可能だった。外に出れば狂死する運命にある自分と閉鎖空間に生きるエコロガリウム内の生物のアナロジーがヴァイムを苦しめる。閉鎖的サイクルからの脱出願望とその不可能性を主題とする「スター・ピット」に横溢する遣り場のない閉塞感は黒人の同性愛者である作家自身のものであろう。

ライヴァル関係にあるロジャー・ゼラズニイのスタイルを模した「われら異形の軍団は、地を這う線にまたがって進む」は、ヘルス・エンジェルスまがいの集団がコンミューンを営むカナダ国境地帯が舞台。全世界動力機構に属し、電力網整備に携わる主人公の、反動的なマイノリティに寄せる共感と任務との間で生じる葛藤を主題とする異色作。分かるものには分かるゼラズニイ的要素をふんだんに盛り込んだ文体模倣が見もの。蝙蝠状の翼を持つ翼輪車(プテラサイクル)「箒の柄」で月に向かって上昇し、エンジンを切った後の滑空にどこまで耐えることができるかを競うチキン・レースなど、他の作品とは明らかに異なる視覚イメージに多才さを再認識させられる。

ヨーロッパ放浪中、原稿料を使い切ると海老漁船に乗って稼いだ経験がそうさせるのか、主人公には漁師はもちろん、手を使う仕事に従事する人物が多い。肉体と技術を駆使して危険な作業に携わる「男」(トランス・ジェンダー的世界を描くことも少なくないので括弧つきだが)の仕事上の葛藤や、そこから解放され、他者と交わるときに感じる開放感や軋轢、といった心理は、SFに限らず、どんな小説にあっても物語を先に進めてゆくための推進力となるものだが、ディレイニーが描くとそこには詩的な美しさが現出する。命を賭けて海底の谷間に電力ケーブルを設置する両棲人の傷だらけの栄光と挫折を描く表題作「ドリフトグラス」。旧世界の神とキリスト教の神の暗闘に、狭い島に生きる青年の懊悩を絡ませた「漁師の網にかかった犬」。これら海に生きる男の背中に漂う悲哀は、まるでギリシア由来の神話や悲劇を見るようだ。

SFは高校時代に友人の勧めで一通り読んだが、あまり好い読者ではなかったと記憶している。だから、ディレイニーについても全く知らなかった。新聞の広告を読んで久しぶりに興味が湧いたというのが正直なところだ。読んでみて驚いた。とてつもなく面白い。しかも発表された年代は60年から70年代というのに、少しも古臭くなっていない。軋みを上げる体制になすすべもなく翻弄されている現代に比べ、抑圧に対し真摯に悩み、果敢に行動する人間を描いている点、むしろすぐれて今日的といってもいい。長篇『ダールグレン』も是非読んでみたいものだ。
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by abraxasm | 2015-01-26 15:12 | 書評
e0110713_12364052.jpg一九七〇年代終りから二十一世紀にかけて、パキスタンのパンジャーブ州に大農園を経営する地主ハールーニー家に関わる人々のそれぞれの人生を描いた連作短篇集。時代の移り変わりとともにそこに生きる人々の意識や生活が大きく様変わりしてゆく様子が、主人とその係累、執事、運転手、庭師といった末端の使用人に至る、様々の階級を異にする主人公の目を通して描かれる。一人の人物に焦点を当て、その行動や心理を通し、大地主一家を中心に繰り広げられる、虚々実々の人間臭さ溢れる人生模様が的確にスケッチされる。

半世紀近い過去を描いた諸篇では、あまり馴染みのないムスリムの結婚式や葬儀の風習を通じ、パキスタン文学らしさを示しながら、日陰をつくるために植えられた菩提樹の並木道、ミルク入りの紅茶といったE・M・フォースターの小説で見慣れたインド亜大陸の風物も抜かりなく配し、英文学の系譜を引くことを見せている点など頗る興趣に富む。一方、時代を現代にとった作品からは、シャンパンやバレエを愉しみ、パリやニュー・ヨークを往き来する優雅な階級ならではの西洋文明に首まで浸かった暮らしぶりに、同時代の西欧文学に何ら遜色ない面も披露してみせるなど、才能の片鱗を惜しげもなく見せつける。

巻頭に置かれた「電気技師ナワーブッディーン」と巻末の「甘やかされた男」は、中老年の男性を主人公とし、己の才覚で家庭生活を豊かにしてゆく姿を描いた好短篇。恵まれない階級に生まれた男は、弁舌を駆使して相手に取り入り、器用仕事をこなしながら、少しでも今より好い生活を手に入れるしかない。ささやかな幸せを手にするための涙ぐましい努力と、それが一瞬にして瓦解することが、ただ一枚の戸を隔てているに過ぎない運命の皮肉を描いて秀逸。読者に思慮を強い、余韻を感じさせる結末は短篇小説の手本のような二篇である。

つつましい生計の維持を期待するのがやっとの男たちと違い、七〇年代終りから八〇年代を背景に持つ「サリーマー」、「養え、養え」、そして表題作「遠い部屋、遠い奇跡」の女たちはたくましい。少しでもいい暮らしができるなら、年上であろうと、妻帯者であろうと、処女を捨てることになっても躊躇したりしない。しかし、階級制度や血縁関係といった旧態依然とした体制が力を持っていた時代、地方にあって、彼女たちの得た地位は、寄りかかった大樹が倒れたときひとたまりもない。ほかに頼るものとてないわが身ひとつを武器にのし上がってゆく女たちの栄華と没落を描く筆は、指の間に挟んで水気を絞りきったドライブッシュのそれのように乾ききっている。

パキスタンを舞台にしない唯一の作品「パリの我らが貴婦人」と、中篇と呼ぶべき「リリー」は、二篇とも現代の男女の結婚を主題にしている。上流階級らしい観劇や食事、パーティー、ピクニック、小旅行といったモチーフを巧みに展開させながら、単に男女が愛し合うことに比べたら、結婚というものが如何に複雑で困難な状況を呼び寄せるものであるかということを、きわめてリアルな視線で描いて見せる。二組のカップルの誰一人として悪感情を抱かせる人物はいないのに、読後に感じる深い徒労感はどこから来るのだろう。人種の壁、人生観の違い、とその要因はいくらでも挙げられるだろうが、愛はそれらを軽々と越えたりしない。醒めた現実感覚はこの作者の個性なのか。今後が楽しみな作家の一人である。

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by abraxasm | 2015-01-22 12:36 | 書評
e0110713_16273541.jpg『東方綺譚』は、ユルスナール若書きの書。アムステルダムに住まう老画家を描いた一篇を除く八篇が作者の生地であるベルギーからみて東方(オリエント)に位置する地方を舞台にするのがその名の由来。ブリュッセルの名家に生まれ、教養ある父と家庭教師により高度の古典学を教授された著者は、父の死後各地を遊学し見聞を広める。厖大な古典学の教養と実地に感受した諸国の風土、文物の印象を綯い交ぜにし、絢爛たる修辞を惜し気もなく濫費しつつ、彫琢された硬質の文体で思惟を固め、衆生の耳目を驚かせるに足る九つの稀譚を、表情の一つも変えることなくさらりと語り終える。初版時には十篇構成であったが、38年後改訂版上梓にあたり、その内一篇を手直しの用無しとして削除するほか、文体上の修正を経て今に至る。

巻頭を飾る「老絵師の行方」が特筆すべき完成度を誇る。訳者いうところの「神韻縹渺たる趣き」が全篇を蓋いつくし、時に読者をして批判や解釈を捻り出そうとさせる夾雑物が入り込む隙を与えない。とはいえ、それでは評足り得ない。気のついたことを幾らか記しておく。旅の絵師汪佛の興味の対象は物ではなく、その影像にあった。偶々知遇を得た玲は、汪佛によって、事物に色彩あることを知り、師と仰ぐ。自分より画中の影像に心奪われる夫を憾んで妻は縊死を選ぶ。玲は家財を売り払い汪佛と旅に出る。

ある時、師弟は捕縛され皇帝の前に連れ出される。無実を訴える絵師に皇帝が語る。外界と隔絶され、汪佛の画を蒐めた部屋で育った皇帝は、世界を汪佛の描いた画のように美しいと思って育つ。長じて実世界の醜悪であることを知り、あまりの違いに絶望した。老師の罪は天子を欺いたことによる、と。最期に未完の絵を完成させるよう命じられた汪佛が素描の水に色を差すと櫂の音が聞こえ、先刻殺されたはずの玲が舟から招く。汪佛が乗るや否や舟は次第に遠ざかり、やがて画中の崖の陰に消える。汪佛が船に乗って消え去るところは、「解題」にあるハーンの『果心居士』によく似ている。

訳者は絵師の品格と作品の美的効果をもってユルスナールが勝るとする。それに異論はないが、両者の差は名品を所有する(描ける)者に対する権力者の思いの差にあるのではないか。信長や光秀のそれは単なる物見高さに過ぎない。しかるに皇帝のそれは、現実を超える美や真への希求である。魂のこもった画には、現実世界の空虚さには比ぶべくもない存在感がある。しかし、一度それを知ってしまえば、皇帝と言えども、世界の支配者という点では一介の絵師に及ばないことを認めねばならない。皇帝としてそれは許せない。手を断ち、眼を焼く罰は、汪佛からその世界を奪うことに他ならない。支配者は一人でいいという論理。これでこそ皇帝というものである。

ユルスナールの物語る綺譚は、ただ物珍しい話というのではない。そこには哲学というと言い過ぎかもしれないが、何か人をして深く思いに至らせるものが含まれている。しかも、寓話のように独断的な解釈によって諭すのではなく、読者が自ずから思いをめぐらせそれまで気づかなかったものの見方に触れる契機となる、そんな物語となっている。すぐれた文学だけが持つ美質である。

人柱とされても、幼子のために乳を飲ませたいと願う母性の奇蹟を描いた「死者の乳」、造物主の造り損ねた天使がニンフや牧羊神となった、というキリスト教ありきの解釈がいささか気にはなるが、急進派の宗教者がキリスト教以前の神の撲滅を図るのを憐れんで降臨するマリアの起こす奇蹟を語る「燕の聖母」と、地方に伝わる譚詩を素材とするものや、礼拝堂の名から発想を得て書かれた架空の由来記と、その発想は自在。原作がはっきりしているパスティーシュとしては『源氏物語』から想を得た「源氏の君の最後の恋」がある。さすがの光の君も歳をとり、奥山に庵を構え寂滅の時を待つ。目も見えなくなり人の訪れを厭う光のもとを訪れるのは花散る里、別人を装い最後の情人となることを願うのだが…。女人の持つ業の深さに、ひときわあわれを催す一篇である。

悼尾を飾る「コルネリウス・ベルクの悲しみ」は、レンブラントの画家仲間の一人、コルネリウス・ベルクが老境に至ってたどり着いた境地を描く。巻頭の「老絵師の行方」(原題は「ワン・フォーはいかにして救われたか」)が、画業に専念した画家の永遠の救済をモチーフにしたものとするなら、それに呼応して、救われることのない厭世観を胸に抱く、やはり老画家の末路を描いたもの。対比が鮮やかで、その構成の妙にただただ賛嘆するのみ。見事というほかない。

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by abraxasm | 2015-01-18 16:27
e0110713_16250329.jpg冬の夜更け、湖畔の温泉保養地を訪れた話者は、取り壊されたホテルや明かりの消えたショー・ウィンドウをながめ十二年という時の流れに思いを馳せる。季節外れで人影のない街路をぬけ、そこだけは賑わいを見せる駅前広場に足を向けたとき、列車を待つ金髪の若い兵士に身を寄せる男が目にとまった。ベージュの私服を着て首にスカーフを巻き、兵隊たちのからかいを受けている男の名はルネ・マント。あの夏、「ぼく」はイヴォンヌとマントと三人、避暑客で溢れるホテルやカジノを渡り歩いては無為に日を送っていた。

アルジェリア戦争時代、騒然とする世情に不安を感じた「ぼく」はパリを抜け出し、スイスにほど近いサヴォワに宿を取り、逼塞の日々を過ごしていた。そんなある日、映画を撮り終えたばかりの新進女優イヴォンヌに出会う。意気投合した二人は彼女の友人で、医学博士のマントと共に、毎日を享楽的に過ごす。片眼鏡をかけ、ロシア系の伯爵と身分を偽り、イヴォンヌのホテルに移った「ぼく」は日々を共に過ごすうち、いつか二人でアメリカに渡ることを夢見るようになる。

不穏な情勢をしり目に、怠惰な日々を避暑地で送るブルジョワたちに交じって椰子やブーゲンビリアに飾られた人工的な楽園で日がな一日プ-ルで寝そべる安逸な暮らし。傍目から見れば実に安穏な生活だが、三人には人の知らない事情があった。シュマラ伯爵を自称する「ぼく」は、事故死した父の仕事のいかがわしさとユダヤ系の血筋に漠然とした不安を拭い去れないでいる。イヴォンヌとマントはこの地方の出身ながら、早くに町を捨て別世界に生きていた。売り出し前とはいえ女優のイヴォンヌにとっては錦を飾る帰郷だが、頻繁にジュネーブとの往復を繰り返すマントは、何か事情がある様子。

定職に就かず身分を偽り、根無し草のような生活をずるずる送る十八歳の「ぼく」は、いやでも作家その人を思い出させる、モディアノ作品ではお馴染みの主人公だ。少し年上だが、「ぼく」と同棲を続けるイヴォンヌも二十歳を少し過ぎたくらい。二人は、地方の名士で開業医の息子であるマントを介して、高級ホテルで避暑を愉しむ上流階級の仲間入りを果たす。実在の人物やコクトーの『オルフェの遺言』、アラン・レネの『去年マリエンバートで』など、当時上映中の作品名を散りばめて、時代背景を浮かび上がらせる手法は堂に入ったもの。

イヴォンヌの叔父さんに職業を訊かれて、本を書いていると答えてしまう「ぼく」。女優と作家の関係にマリリン・モンローとアーサー・ミラーを重ねて、アメリカでの成功を夢見る、いかにも幼い十八歳の青春。金と暇をもてあました若者たちの避暑地の恋を描くかのように見せかけて、若い者には垣間見ることのできない世界の奥深さ、ほろ苦さを、マントをはじめ彼らを取り巻く大人たちが醸し出す、何かはっきりしない後ろ暗い振る舞いや彼らとは異なる退嬰的な香りによって仄めかす。これが四作目というから、その練達の技量は初期のうちから確立されていたもののようだ。

青春時代を回想する者だけに許される、あまやかな悔いにも似た感情が胸の裡に迫り、今となってはとり返しのつかない過去を憧憬する、その感傷性に思う存分浸された『イヴォンヌの香り』の原題は「Villa Triste(哀しみの館)」。深夜になると、どこからかマント宛てに電話がかかってくる。その伝言を聞くため二人が頼まれて留守番をするマントの家の名だが、二度と再び帰らない、ひと夏を過ごした避暑地の隠喩でもある。

「そう、あの夏はたえずあたりに歌や音楽が、しかもいつも同じ曲目が流れていた」。「半分破れた雑誌が、床に散乱していた。琥珀色の香水びんがあちこちに転がっていた。犬は膝掛け椅子に横にまたがってまどろんでいた。そしてぼくたちは、古びたテパーズのプレイヤーでレコードを次々に回した。明かりをつけるのも忘れていた」。夏の思い出は悲しい。しかし、それはいつまでもぼくたちの胸によみがえってきては、帰らないものの名を呼びつづけるのだ。

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by abraxasm | 2015-01-16 16:25 | 書評
e0110713_13150947.jpg音楽ジャーナリストによる『カインド・オブ・ブルー』の、著者が言うところの「レコード」本。レコード史上に残る名盤『カインド・オブ・ブルー』がどのようにして作られたのかを追ったドキュメントである。中心になるのは、二回にわたって行われた録音の実際がどのようなものであったか。コロンビアから提供されたマスター・テープを実際にスタジオで聴き、当時のことを記憶する関係者にインタビューし、どのテイクは誰の失敗によって没になったか、どんなノイズが混じったのか、それらに対するミュージシャンたちの反応を、いちいち事細かに文章化している。

もちろん、読むだけで十分面白いが、できれば実際にステレオでレコードを聴きながら本文にあたることをお勧めする。同じアルバムでありながら時間をおかれて録音された二回のセッションで、録音のマイク位置が逆転しているキャノンボール・アダレイとジョン・コルトレーンのソロの受け渡しの変化が手にとるようにわかる。ソロの順番は、どちらのセッションでもテナーのコルトレーンから、アルトのキャノンボール・アダレイへと移るのだが、この時期、急激に力をつけつつあるコルトレーンのソロがテクニックやキャリアにおいて上回っているアダレイに影響を与えていることがよく分かる。

『カインド・オブ・ブルー』という画期的なアルバムの成立事情については、前々からいろんな論議があった。すべてがマイルスの作曲なのか、ビル・エヴァンス作曲によるものもあるのか、それとも二人の共作なのか。録音に呼ばれたメンバーが、トランペットのマイルスを筆頭に、テナー・サックスのコルトレーン、アルト・サックスのキャノンボール・アダレイ、ピアノのウィントン・ケリーとビル・エヴァンス、ベースのポール・チェンバース、ドラムのジミー・コブとなった理由はなぜか(この時期、ビル・エヴァンスはバンドを辞めていた)。

マイルスという音楽家は「クール」だとか「モード」といった一つのスタイルで括られることを拒否し、常に新しい試みにかけ、次々と脱皮を繰り返してはファンを翻弄し続けた人だが、『カインド・オブ・ブルー』は、そのマイルスの変遷の中でも特別の意味を持つアルバムのように思われる。それは、果たして正しいのか、マイルスの初期から、『カインド・オブ・ブルー』に至るまでの音楽的な変遷を追うことで、「クール」から「ウェストコースト・ジャズ」と呼ばれる一派が生まれた経緯、さらには名盤『クールの誕生』を共に作りながら、他の白人ミュージシャンと袂を分かち、ニュー・ヨークに戻って「ハード・バップ」の中心となったあたりの消息が手にとるように分かるのもありがたい。

『カインド・オブ・ブルー』におけるマイルスの抑制されたリリシズム、どこからともなく響いてきて、中空に漂い続けるかのようなサウンドは、ビル・エヴァンスとの出会いなくして生まれなかったと想像できるのだが、クラシックに造詣の深いビル・エヴァンスと家では、アルバン・ベルクやストラビンスキー、ラヴェルなどを聴いていたというマイルスが、どのようにしてこのアルバムのサウンドを創造するにいたったか。本当は内気であるのに、強がった物言いや素っ気ない仕種で孤高を気取るマイルスと学究肌の白人ピアニストとの関係が化学反応のようにして『カインド・オブ・ブルー』に結実したその内実もまた読みどころである。やがて疲弊したビル・エヴァンスが離脱するのもよく理解できる。

マイルスがトランペット奏者としては決して上手くはなく、バードやディジー・ガレスピーのように高音域を思うように響かせることができなかったことは以前から知っていた。しかし、そのことが『カインド・オブ・ブルー』における中音域を生かした歌うような独特のサウンドを生み出したこと、同じように不器用で上手くはなかったコルトレーンの中にある創造性に気づかせ、彼を仲間に引き入れ、手綱を引いたり、突き放したりしながら、後のコルトレーンを準備したことは、この本を読んであらためてよく分かった。埋もれている才能を見つけ出す能力、それらを活かしながら、自分のバンドのパフォーマンスを高めてゆくこと、それまでのジャズ・ミュージシャンがやろうとしなかったことやできなかったことを次々と実現させてゆくマイルス・デイヴィスという存在を鮮やかに描きだしている点でこの本は優れている。

ジャーナリストらしく自分をあまり前面に出すことなく、多くの仲間のミュージッシャンや録音に携わったスタッフの証言を配することで、人間的には毀誉褒貶相半ばするマイルス・デイヴィスという人物の音楽家的な側面を重視した公平な評伝にもなりえている。もちろん、インタビューに同意しなかった関係者の証言はないわけだが、汚い言葉もそのまま拾ったマイルス語録にはニヤリとさせられる。どうであっても、マイルスはやっぱり、かっこいいのだ。同じ著者による『ジョン・コルトレーン「至上の愛」の真実』も近く出されるようで、ファンとしてはこちらも期待したい。


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by abraxasm | 2015-01-15 13:15 | 書評
e0110713_15115592.jpgソファで眠りかけていたところを起こされたルイは、娘の背丈が母と変わらないことに驚きを感じる。今夜は知り合って以来初めて妻オディールの三十五歳の誕生日を祝う会を山荘で開く。腕のギプスが外れたばかりの息子は招待客の子どもたちとはしゃぎまわっている。寂しい山住まいだが平穏な今の暮らしに不満はない。パリ行きの夜行に乗る友人を車で駅に送った帰り道、ルイは落ち始めた雨滴に十五年前を思い出す。

兵役を終えても両親のいないルイには帰る所がなかった。顔見知りのブロシエの伝手でパリにあるブジャルディのガレージを手伝っていた頃、サン・ラザール駅近いビュッフェで眠りこけていたオディールと出会う。不始末をとがめられ店を首になったばかりの娘は場末の音楽ホールに入り浸っていたところをベリューヌという作曲家に拾われ、歌手を目指していたが、この日ベリューヌが自殺し途方にくれていたのだ。

身寄りのない二十歳前の男女が大都会で生きるすべもなくその日暮らしの生活を送る。それを助けるのが、ブロシエとブジャルディ。身寄り頼りのない若者を導く中年の男、というのはモディアノ作品ではお馴染みの存在。何の商売をしているのかはよく分からない二人だが、いずれろくでもない仕事のようで、詳しくは語らない。それでも右も左も分からない二人がパリ生きてゆくには彼らが必要だった。ルイは、ブジャルディに信頼され、オディールと二人、イギリスまで金の運び屋をしたりする。

一時期のフランス映画にでもありそうな、青春真っ只中の若者の行き当たりばったりのパリ暮らしが、なんともいえずモディアノ調。先行きが見通せない若者の、誰を何を頼ればいいのか分からないままに、誰かに何かに頼らなければ生きていけないというディレンマ。これっぽっちも信じられないのにまるまる信じたふりをし、食べつけないものを食べ、飲みつけない酒を飲む。命じられるままにパリ市内を彷徨い、海峡を流離う二人の根無し草的放浪。

特に恵まれたとはいえぬまでも普通の親を持つ者と、寄る辺ない身の上の者とでは、青春といっても、かくもちがうかという際立った孤独感を見せて読む者の胸に迫る二人の境遇だが、確かにこれも「ある青春」である。競馬の騎手であった父と踊り子だった母の間に生まれた、というルイの生い立ちは、これまでに読んできたモディアノの小説で見かけた男の子の出生の秘密に類似し、作家のアイデンティティへの固執をうかがわせる。ブジャルディには終始手厳しく接する愛人ニコルがルイには優しいのも、年上の女性に対するモディアノの思慕の強さを物語る。

あまりにも繰り返される類似のモティーフが、作家モディアノの描く小説世界と、作家自身の生い立ちとの相似関係を必要以上に暴き立てる理由となっているのだが、あまり神経質に考える必要もない。モディアノ自身、テクスト至上主義を言い立ててはいない。無鉄砲な青春期にある者にしかできないであろう選択と決断によって、ルイとオディールは、二人を取り巻く胡散臭い連中との別離を余儀なくされる。さらりと書かれているようでいて、読み終えた後うならされる、なかなか巧みな小説である。

風格を感じさせる訳も好ましい。ただ、1983年刊だけに、今となっては幾分古色を帯びているように感じられた。訳文の「ミルクコーヒー」、原文では「カフェ・オ・レ」だったのではないだろうか。「Uブックス版に寄せて」を読む限り、訳者はご壮健のようだ。このままでよしという自信の翻訳であろうから、改訳とまでいかずとも、ほんの少し手が入っていたら、と愚考した次第である。

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by abraxasm | 2015-01-11 15:12 | 書評

こらえ性がないからか、ついつい先を急いで読み進めてしまい、あるところまで来て、そうかこれは探偵小説だったのだと気がついた。そのころには、手がかりのつもりで作家が書き込んでおいた細部のあらかたは読み飛ばしており、しかたなく再読をする羽目となった。読書とは再読のことだ、とはよく言われることだが、知らずに読んでいた本が探偵小説だと分かって、謎解きが終わってから再読しても楽しめるなら、それに越したことはない。そして、これはそういう本である。


大学時代の親しい友人ダニエルが婚約者のフリアナを殺してから三年たっていた。ずっと音信を絶っていた「私」のところに、本人から昼食の誘いの電話があり、「私」は病院に向かう。心神喪失が認められたダニエルは資産家である母親の工作により、刑務所でなく精神病院の一室に収監されていた。「私」の助けがいると切り出したダニエルは、あらためて事件について話し出す。


当時、金に飽かして古書を買い集め、年長の四人と古書店を共同経営していたダニエルには、両親と妹がいたが、心身を病に侵された妹は屋敷の火事の後、療養先で行方知れずとなっていた。その読書量から同輩を遥かに超える学識の持ち主であるダニエルには大学時代「私」以外に友人はいなかった。「私」は、毎日精神病院の一室でダニエルの話を聞くと同時に、かつての共同経営者を訪ね、三年前に何が起きたのかを探る。偶数章にはダニエルの語る物語が、一章を除く奇数章には四人の共同経営者たちがそれぞれ語る話が交互に配される形式で物語は進んでゆく。


厖大な古書籍を読み、歴史や物語を記憶する古書収集家の青年が、ワトソン役をつとめる「私」に語る物語は逸話、挿話が引きも切らないペダンティックなものだ。世に稀な典籍を商う四人の共同経営者もそれに負けていない。橋に宙吊りにしたゴンドラに籠るパフォーマンスで錯乱した手品師、人間の皮膚から紙を作るマグヌス・シュワルツコフ、本屋稼業の裏で人体の部位を密売する組織、ミュンヘンにあるという死者のためのホテル、左足の靴しか作らなかったコロンビアの靴職人、発育不全の息子を幽閉し、年に二度薬で眠らせている間に檻を小さく作り変えていた憑夢竜等々、それだけで奇想の短編集がいくらでも作れそうな稀譚、怪異譚が次々と繰り出される。奇想好きの読者にはこれだけでもたまらない馳走になっている。


穴の開いた犬の屍骸に詰められた人の心臓や体の皮膚が自在に伸びる奇病といった奇怪で残虐なイメージ溢れる世界は、まさにポオのいう「グロテスクとアラベスクの物語」だが、それだけではない。ゴシック・ロマンスを思わせる怪奇な書割だけでなく、狂人が呪文のように呟くダニエル作の物語が謎を解く鍵になるなど、論理的解決を主眼とする探偵小説の始祖ポオの系譜を正しく継承するものである。特にダニエルとソフィア兄妹の濃密な関わりは、作中にも登場する『アッシャー家の崩壊』から強い影響を受けているといえよう。


螺旋を描いて放射状に広がっていた市街の街路を模した廊下を蔵する邸宅を転用した精神病院だとか、紙製の模型の家で演じられる自作の人形劇だとか、一人のはずのフリアナが二人いるとか、ラカンのいう想像界、象徴界、現実界のメタファーがちりばめられ、小説の半分は精神病院の患者が語る殺人事件の経緯である。狂気というモチーフが物語世界を染め上げている。


センデル・ルミノソのテロにより農村が壊滅的な被害を受けた時代のペルーが背景にある。残虐といい、狂気といい、正気な精神では直視できない出来事が日常茶飯となっていた。描かれているのは個人の狂気であり、忌まわしい残虐な殺人であるが、物語の端々に農村や市街地を覆う殺戮や処刑の影がちらついている。探偵小説の意匠を借りてはいるが、単なるミステリと等閑視することのできない人間存在が抱える罪業の重さが詰まっているように思う。



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by abraxasm | 2015-01-10 17:17 | 書評

覚え書き


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