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十年ぶりの二村永爾の帰還である。『THE WRONG GOODBYE』の一件で神奈川県警を辞めた二村は再雇用プログラムの一環で嘱託となり、被害者支援対策室で詐欺被害者の愚痴を聞く毎日。そんな二村に、映画女優の桐郷映子のところに行くように命じたのは元上司で捜査一課長の小峰だった。父で映画監督だった桐郷寅人が香港で撮った幻のフィルムを買いにいったはずの男が帰らない。捜してほしい、というのが依頼の内容だ。

本業に戻った二村は殺人を目撃した老女の家に出向く途中、対象者を尾行する男を見つけ後を追う。男は二村の制止をきかず一人の男を銃で撃って逃走した。現認しながら犯人を取り逃がした二村に、小峰は香港へ飛ぶよう命じる。支援対象者は吉林省長春出身、父親は満映で働いていた。映子の父の寅人も元満映、二つの事件はつながっていると見るのが筋だろう。

帯に「日活映画100年記念」とある。タイアップというのか、今回は映画ネタが満載で、二村がこんなに映画に詳しかったのか、と首を傾げてしまった。のっけから、日活時代に桐郷寅人の撮った映画タイトルに“地獄へ10秒”というのが登場する。トリュフォーが絶賛し、ゴダール映画の登場人物が映画の中で褒めちぎっているという代物だ。もちろん、そんな映画は実在しない。アルドリッチの戦争映画『地獄へ秒読み』の原題「TEN SECONDS TO HELL<地獄へ10秒>」の引用である。

宍戸錠が実名で登場し、エースのジョー役で香港映画に出演するなどというサービス満点の設定は、日活への配慮なのだろうが、それだけではない。宍戸の代名詞である「エースのジョー」だが、殺し屋役は三作しかないのだ。なんでも香港には同じ綽名を持った本物の殺し屋がいたらしく、クレームがついたというのがその理由。桐郷寅人が撮った幻のフィルムとは実録物で、香港のエースのジョーを描いたものだった。

本編は香港を舞台にしたハードボイルド小説。横浜、中華街の近くで育った二村が中華街の親玉、ノワール色溢れる香港を縦横無尽に走り回る。黒社会のボスや、映画のスポンサーといった湯水のように金を使う男たちを相手に、幻の映画に隠された秘密を奪い合う。そのフィルムには何が映っていたのか、というのが謎だ。その謎を追う二村の行く先々に死体が転がりだす。幻の映画というのが、ヒッチコックの言うマクガフィン。それ自体に意味はなく、話を先に進める契機となるもののことだ。

サービスといえば、香港を舞台にしたル・カレの『スクールボーイ閣下』に出ているジェリー・ウェスタビーまで登場するのには驚いた。なんと「サーカス」の一語までおまけつきだ。空を飛べなかった頃のクリストファー・ウォーケンだとか、メルヴィル以後のフィルム・ノワールはクソだ、とか映画ファンにはたまらない科白が続出の今回の作品、チャンドラーの『大いなる眠り』を思わせるジャングルのような温室まで登場させている。どうせ遊ぶのだったら徹底的にやろうと思ったのか、映画のみならず、スパイ小説やハードボイルド小説といった、エンタテインメント色の強い読み物好きには堪えられない趣向になっている。

車に拳銃、英領の名残りを残す香港ならではの料理、酒、葉巻、といくつになってもこういうものが好きな男たちにはたまらない薀蓄の総ざらい。ここしばらくハードボイルド小説から遠のいていた鬱憤を晴らすつもりか、或はまた、卒業したつもりでいたハードボイルド小説を書くことに対する開き直りなのか、二村はいつになく饒舌。宍戸錠とのやりとりも含め、ファン・サービスに徹している。本場の中華料理を楽しみに香港に渡った二村がなかなか中華料理にありつけないという、焦らしもまた、お約束ながら、読者を最後まで引きつけて離さない。複雑に入り組んだプロットは、旧満州国、八路軍、毛沢東などにより、時代の刻印を押されながら、日本と中国の二つの国を渡り歩く運命を負わされた人々の苦渋の人生を照射する。

相変わらず、センチメンタルで、簡単なことでは女に手を出さない、近頃稀なダーティーでないヒーロー像だが、舞台を香港という魔都に取ったことで、スマホで小峰と連絡は取りながらも、日本の湿った空気から解放された二村永爾が、のびのびと動き回るところは好印象。前作『ロング・グッドバイ』は相手役に不満が残ったが、今回は男性陣に魅力的な人物が用意されていて満足した。美人女優が三人も登場するのだが、心に残るほどのヒロインとは言い難い。二村の相手をするに相応しい年齢ではなかったのかもしれない。まだまだやれそうな二村永爾。次回の登場まで、今度は何年待たされるのだろうか。



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by abraxasm | 2014-12-29 17:20 | 書評
e0110713_12321256.jpg初めて読んだ小説のはずなのに、既視感(デジャヴュ)のように、見覚えのある光景がちらちらと仄見え、聞き覚えのある口ぶりが耳に懐かしく甦る。何ひとつ家具らしいもののないがらんとした一室は『さびしい宝石』、探偵が相棒の口癖を思い出すのは『暗いブティック通り』、馴れ親しんだ界隈を歩いては女が歩いたはずだと確信するのは『1941年。パリの尋ね人』だ。なんのことはない。かつて読んだモディアノ作品で使われていた設定や背景を、まるで映画のセットや俳優を使い回すようにして作られた新作である。ふつうなら、がっかりしたり腹が立ったりしそうなものなのに、モディアノだと、馴染みの店に久しぶりに入ったようで妙に落ち着いて心地よい。これがモディアノ中毒なのだろうか。

「つまるところ、唯一の興味深いひと、それはジャクリーヌ・ドゥランクだった」。ルキという名でカフェ・コンデの常連仲間に愛された女の正体とは。四人の話者によって語られる一人の女のそれぞれ異なる横顔。女を追いつづける男たちがパリ市街を歩き回る焦燥感に満ちた足どり。アイデンティティの不確かな女を核に、五月革命前夜のパリ、セーヌ左岸のカフェにたむろする男たちの在りようをスケッチし、かつて確かにそこに流れていた時代の風景を鮮やかに甦らせるパトリック・モディアノらしさの横溢した一篇。

モディアノは探偵が後を追うように、ルキの周りにいる男たちにルキについて語らせる。たしかに男の気をひく女なのだろうが、外面ではない。よく、心ここにあらずというが、所在のなさというか、どこにいてもそこが本来の居場所ではないような、ルキのそんなところが皆の注目を引いたのだろう。ルキは、モディアノ文学にはお馴染みの、舞台で稼ぐ母を持ち、かまってもらえないことから、夜間外出を繰り返す少女が大きくなった姿である。

小さい頃に親にしっかり面倒みてもらえなかったことが、長じてその子の自我に与える影響は強いものなのだろう。モディアノのオブセッションともいえる。《永遠のくりかえし》が、ここでもその主題となっている。探しても探しても確かな手応えとなって帰ってくることのない「私」という存在。それを見つけるための悪あがきがかえって自分を追いつめてゆく。過去の自分を知る界隈(カルティエ)から逃げ、年上の男やグル的人物を頼り、空っぽの自分を埋める何かを探す女。その女ルキの自分探しの顛末を、彼女に魅かれた男たちの証言でつづってゆく。

いくら言葉をつくしても彼女を知りつくすことができない男たちの無力感が色濃い。パリという都市を線引きし、異なる相貌を見せる地区を区切り、その中心に「中立地帯」を夢想する、作家自身を思わせるロランという同い年の青年がいちばん彼女の近くにいると思われたのだが、ルキはその手からもするりと抜け落ちてゆく。強い肯定の意を響かせるニーチェの『永劫回帰』とちがい、モディアノのいう《永遠のくりかえし》は、たぐってもたぐっても自分のもとによって来ない過去の空白の記憶を充填しようとする、報われない行為のように思えてならない。

年上の知識人が集うカフェにも、隠秘学を奉じるギ・ド・ヴェールの主催する集会にも、ルキと呼ばれる女の居場所はなかった。目印のように記される地名は今もあるのに、もうそこにはない店や学校。たしかにいたはずなのに、回想の中でしか立ち現れてこない一人の女。存在というものの不確かさを時間と空間の中に、記憶と脚を頼りに追いつづけるパトリック・モディアノの彷徨は終わることがない。

気鋭の翻訳は原文の息遣いを感じさせるが、日本語の文章表記として斬新すぎる。もしかしたら元の原稿が横書きなのかもしれないが、縦書きで一人を1人、十月を10月、と書かれると違和感がある。それ以外にも「ジェスト」、「ボールポイント」のような日本語としてこなれていない外来語の使用頻度が必要以上に高い。フランスには、モディアノ中毒という言葉がある。これだけ訳書が刊行されていれば、日本にもモディアノ中毒患者の数は少なくないと思う。これぞモディアノという翻訳をしようという意欲は買うが、翻訳は自分だけのものではない。構文はともかく、用語の選び方など、他の訳書とのバランスも考慮してほしいところだ。

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by abraxasm | 2014-12-26 12:32 | 書評
e0110713_16592008.jpg一九四五年生まれの作家は、ある日、古い新聞「パリ・ソワール」紙を読んでいて、尋ね人の記事に目をとめる。日付は一九四一年十二月三十一日。十五歳の少女、ドラ・ブリュデールの失踪を告げるその記事に目を留めたのは、連絡先の両親の住所に覚えがあったからだ。パリ、オルナノ大通り41番地。クリニャン・クールの蚤の市で知られる界隈だ。子どもの頃母親にくっついてよく訪れた所だ。

「私」の回想がはじまる。「一九六五年一月。オルナノ大通りとシャンピオネ通りの交差点では夜のとばりが降りはじめていた。私は何の価値もない存在で、宵闇の街にとけ込んでいた」。まさにモディアノ調。アイデンティティの希薄な若者が、薄闇のパリの街角に佇んでいる様子が浮かび上がってくる。ところが、読者ははじめから知らされている。これがいつものフィクションではないことを。

ドラ・ブリュデールは、実在の少女で、両親が尋ね人の広告を出す二週間ほど前、寄宿学校から脱走している。一九四一年といえば、日本が対米戦争に突入した年である。パリはドイツの支配下にあった。ドラはフランス国籍を有していたが、両親はオーストリアとハンガリーのユダヤ系市民であり、胸に黄色い星をつけなければならない人々であった。

モディアノ自身がユダヤ系の父を持ち、ユダヤ人として小説を書いてきた。戦後生まれたモディアノは、戦争当時のフランスでユダヤ人がどんな扱いを受けたか実体験は持っていない。しかし、父が非合法活動に手を染めて家を出、役者だった母からも見捨てられ、孤独な少年時代を過ごさねばならなかった作家には、自身の過去と戦時下のフランスのユダヤ人差別は、切り離すことのできない問題であり、作家としての核ともいえる。

戦時下フランスにおけるユダヤ人差別を追う作家は、戦後それらの証拠となる資料の多くが廃棄されていることに気づく。アウシュヴィッツはナチス・ドイツの犯罪としてしまいたいフランスの思惑がそこにはあった。モディアノは彼の小説の主人公のように、資料をあさり、関係者をたずね、ドラの消息を明らかにしようとする。長きにわたるその経緯を書き留めたのが、このエッセイともフィクションとも言い切ることをためらわさせる作品なのだ。

ドラという少女の生を跡付ける試みであるのに、書かれた物からは、ドラと同じ程度、いやそれ以上にモディアノの過去が色濃く浮かび上がってくる。語り手は、ドラの歩いただろう駅から続く通りをたどりながら、当時自分がそこを歩いたときの気分を思い出し、寄宿学校を脱走しなければならなかった少女の気持ちを推し量る。少女の反抗は、モディアノ自身のものだったからだ。

こうして、単に地名や日時といった記号化された情報ではなく、小説家ならではの想像力が駆使された結果、そこにはジャン・バルジャンがコゼットと身を潜めた地が、ジャン・ジュネも入っていた感化院や監獄が重ねられ、失踪から、やがて送られる収容所までの一人のユダヤ系少女の足取りがくっきりと示されることになる。この、作家自身のメモワールと、尋ね人の少女と、当時迫害を受けた多くのユダヤ人の幾筋にもわたる人生が縄を綯うようにして絡まりあう叙述が、単なるノン・フィクションとの間に一本の線を引いている。

過去の過ちをいつまでも引きずりたくない、という思いはフランスだけの問題ではない。加害者側は忘れたくても被害を被った方は、告発や謝罪が済まない限り忘れられるものではない。時が過ぎて記憶が曖昧になる前に、たしかな事実を力ある言葉にすることが作家には求められているのだろう。パトリック・モディアノの仕事は、その役目を果たしている。

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by abraxasm | 2014-12-23 16:59 | 書評
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いい小説だ。読み終わって本を置いた後、じんわりと感動が胸のうちに高まってくる。一人の男が自分というものを理解し、折り合いをつけて死んでゆくまでの、身内をふくめる他者、そして世間との葛藤を、おしつけがましさのない抑制された筆致で、淡々と、しかし熱く語っている。「文章に気品があり、燃え立つ情感が知性の冷ややかさと明晰さという外皮をまとっていた」というのは、作中で主人公がかつて愛した女性の著書を評した言葉だが、そのまま本書を評したものともいえる。

読む人によって、それぞれ異なる主題が見つかるだろう。主人公は大学で主に英文学を教える助教授である。そこからは、大学というアカデミックな場において繰り広げられる身も蓋もない学内政治の暴露が、また、師が弟子の資質を発見し、己があとを託すという主題が見える。さらには、シェイクスピアの十四行詩と『リア王』が全篇にわたって朗々とした音吐を響かせていることも発見するだろう。

男と女が夫と妻となったが故にはじまる家庭内での葛藤を主題とした小説でもある。自分を見失った中年男が理想を共にする歳若い女性との秘められた情事のなかで再び自分を回復していくという、些細ではあるが忘れることのできない挿話もある。自分以上に自分を知る友との出会いと別れ。また、その反対に、故知れぬ悪意を抱く競争相手との熾烈な闘争、とよくもまあこれだけの主題を逸脱することなく、一筋の流れの中にはめ込むことができたものだと、その構成力に驚く。

忘れてならないのは、戦争という主題である。主人公が大学で教鞭をとるのは二つの大戦期である。戦争に行くことに価値があり、忌避は認められていても誉められる態度ではなかった。優れた素質を持ちながら、主人公が終生助教授の地位にとどまるのは、戦争との関連を抜きにしては語れない。主人公の中にあって、自らは知らない教師としての素質を見抜いた師が迷う弟子に言い聞かす言葉がある。「きみは、自分が何者であるか、何になる道を選んだかを、そして自分のしていることの重要性を、思い出さなくてはならん。人類の営みの中には、武力によるものではない戦争もあり、敗北も勝利もあって、それは歴史書には記録されない」というものだ。教育に携わる人なら肝に銘じたい言葉である。

裏表紙に、イアン・マキューアンとジュリアン・バーンズの推薦文がある。この二人が薦めるなら、何をおいても読まねばならない、と思って手にとったが、はじめはいかにも古風な出だしにとまどった。ところが、学生時代、スローン教授によるシェイクスピアのソネットの朗読を聴いたストーナーが顕現(エピファニー)を実感する場面がある。周りのすべてがそれまでとちがって見える瞬間を描いた部分だ。ここが何とも美しい。主人公が文学に開眼すると同時に、小説は一気呵成に面白くなってくる。

注目すべきは人物。たとえば同僚のマスターズ。大学は自分たち、世間に出たらやっていけない半端者のために作られた避難所で、ストーナーは世間に現実とは違う姿を、ありうべからざる姿を期待している夢想家にしてドン・キホーテだ。「世間に抗うべくもない。きみは噛みしだかれ、唾とともに吐き出されて、何がいけなかったのかと自問しながら、地べたに横たわることになるだろう」という予言めいた言葉を残し、戦死してしまう。

そのマスターズの陰画が他校から赴任してきたローマックス。頭脳明晰で弁が立ち、傲岸不遜。二枚目役者の顔を持ちながら背中に瘤を負い、脚を引き摺る小男というディケンズの小説にでも出てきそうな人物。この男がストーナーを目の敵にして生涯立ち塞がる。その嫌がらせの度合いが半端でない。ところが、世間ではこうした男に人気が集まり、出世も早い。弁証法的な役割を果たし、小説をヒートアップさせる名敵役だ。

シェイクスピアを蔵する英文学という世界はまことにもって恵まれている。主人公のストーナーは大学内では世間知らずで善良であるがゆえに貧乏籤を引かされるエドガー役を勤め、家庭においては、現実とは違う姿を、ありうべからざる姿を期待し、書斎からも放り出され、居場所を探して放浪するリア王の役を演じさせられる。マスターズが囁く「トムは寒いぞ」の科白ひとつで嵐の中を流離う老人の姿が眼前によみがえる。さらに、主人公が文学に目覚める、十四行詩の七十三番は、老教授の思いを伝えて哀切極まりない。

かの時節、わたしの中にきみが見るのは
黄色い葉が幾ひら、あるかなきかのさまで
寒さに震える枝先に散り残り、
先日まで鳥たちが歌っていた廃墟の聖歌隊席で揺れるその時。
わたしの中にきみが見るのは、たそがれの
薄明かりが西の空に消え入ったあと
刻一刻と光が暗黒の夜に奪い去られ、
死の同胞(はらから)である眠りがすべてに休息の封をするその時。
わたしの中にきみが見るのは、余燼の輝きが、
灰と化した若き日の上に横たわり、
死の床でその残り火は燃え尽きるほかなく、
慈しみ育ててくれたものともに消えゆくその時。
 それを見定めたきみの愛はいっそう強いものとなり、
 永の別れを告げゆく者を深く愛するだろう

しかし、翻訳という文化のおかげで、われわれもこの世界を共有することができる。文学という喩えようもない広く深い森の中に足を踏み入れ、枝葉のそよぎや鳥の鳴き声に耳をすませる悦びを知る者には、五十年という歳月を経て、再びこの小説が陽の目を見ることができたことが何よりうれしい。

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by abraxasm | 2014-12-22 12:54 | 書評
e0110713_16193956.jpg映画監督フランソワ・トリュフォーを相手に、日本における友人といってもいい山田宏一と仏文学者にして映画批評家蓮實重彦が行ったロング・インタビューがトリュフォー没後三十年を記念して、やっと単行本として刊行された。この本に目をとめる人は、おそらく映画ファンで、レビューなど参考にせずに読むにきまっているから、何を書いても空しい気もするが、読後の感想くらいは書いておきたい。

この三人の名が連なるものとしては、すでに『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(晶文社)という本がある。映画監督になっていたトリュフォーが断られるのを覚悟でヒッチコックにインタビューを依頼する手紙を出したところ、意外なことにOKが出て可能となった映画ファン必読の名著だ。そのインタビューの邦訳者が山田、蓮實両氏だった。私見だが、『トリュフォー最後のインタビュー』は、前掲本へのオマージュとして作られているのではないだろうか。和田誠による装丁は平野甲賀のブック・デザインを意識して踏襲しているように思える。

了承されてもずっと先のことだろうと思っていたインタビューが、ヒッチコックのすぐやろうという返事で、あわてたことが本書にも書かれているが、作品を年代順に通して見直し、用意した質問は五百項目に及んだ。インタビューの目的と内容は以下の通りであった。

(1)一本一本の作品がどのようにして生まれてきたか。その具体的な製作事情、発想。
(2)一本一本のシナリオがどのようにして組み立てられたか。その具体的な構想、展開。
(3)一本一本の作品を演出するにあたって生じた諸問題をどのようにして解決したか。その具体的な個々の例。ディテール、等々。
(4)一本一本の作品をヒッチコックがどのように評価するか。当初の抱負とできあがった作品の商業的及び芸術的な価値についての判定。

上記の「ヒッチコック」の部分を「トリュフォー」と入れ替えれば、このインタビューの目的、内容となる。項目別に並べると鹿爪らしいが、映画が好きで仕方がない人間同士が、大好きな映画について語るのだ。しかもインタビュアーは、相手を敬愛していることがよく分かっている。長い付き合いの山田氏相手には語らないことも、第三者である蓮實氏が加わることで、最初に戻って丁寧に答えているので、話がよく見えるのもありがたいところ。

ゴダールと並ぶヌーヴェル・ヴァーグの双璧と目されていながら、五月革命以来、過激化する一方のゴダールと袂を分かち、裏切り者扱いを受けながらも、商業的な映画を撮り続けてきたトリュフォーは、果たして本当に「転向」したのだろうか。ジャン=ピエール・レオーによるアントワーヌ・ドワネルものから、遺作となった『日曜日が待ち遠しい!』まで、ヒッチコックのときと同じく製作年代順に一本一本の映画について、実に具体的に、しかもヒッチコックとちがって、シニカルになったりジョークで煙に巻いたりすることなく、真摯に語るトリュフォーの姿から、本当に映画が好きなのだ、ということがよく伝わってくる。

ウィリアム・アイリッシュの原作が気に入って映画化した『黒衣の花嫁』だが、カラーで撮ったのが失敗だったと語る。フランスのミステリ・シリーズ「暗黒叢書」(セリ・ノワール)好きで、アメリカで有名になる前から仏訳されたアイリッシュやハイスミスを愛読していたトリュフォーは、その独特のミステリアスな雰囲気が派手な色彩によって失われてしまったことを後悔していた。遺作となった『日曜日が待ち遠しい!』は、そのリヴェンジとして、モノクロームで撮影したのだと打ち明け話をしている。

『アメリカの夜』でジャクリーン・ビセットを使ったのは、『いつも2人で』にヘプバーンの旅仲間として少しだけ出たのを見ていたからだが、映画の中で水疱瘡にかかるのがヘップバーンで、ジャクリーン・ビセットがヒロインになる版を見てみたいものだと思った、などとオードリー・ファンなら怒り出すようなことも平気で口にする。もっともたしかにあの映画のヘプバーンの若作りはかなり無理があったのは確かだ。

フランソワーズ・ドルレアックとカトリーヌ・ドヌーヴの脚がきれいだったことを別のところで口にしているが、あの二人ならブロンドとブルネットとの違いはあるが一卵性双生児なのだから、当然だろうなどと思ったりもした(それにしてもきれいな姉妹だった)。映画ファンにとって、一つ一つが貴重な証言であるし、まだ見ていない映画の話も含め、とにかくおもしろい。今年出た映画本のベスト1に推したい。

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by abraxasm | 2014-12-19 16:22 | 書評
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表紙を飾るリトグラフがプロムナード・デ・ザングレなのだろうか。棕櫚の並木が海岸通に沿って消失点に向かって遠ざかっていく。地中海から差す光を受けて立つ男が曳く長い影から見て朝早くだろう。人通りのまばらな避暑地のものさびれた風景がパトリック・モディアノの作品世界を暗示する。趣味の良い装丁である。訳が堀江敏幸というのもうれしい。

舞台は南仏コート・ダジュールのニース。安ホテルに独り暮らし、一階のガレージを預かる「私」はガンベッタ大通りでヴィルクールと再会し、うらぶれ果てた相手の姿に戸惑う。七年前、写真家だった「私」はマルヌ河岸の水浴場を撮影中、シルヴィアと出会った。親しくなり、招かれたヴィラにいたのが夫のヴィルクール。当時の彼は「南十字星」という宝石を転売し、マルヌ河に浮かぶ中之島にプールつきのナイトクラブを造ろうという野心家の青年だった。その「南十字星」の首飾りをしたシルヴィアと、駆け落ちしてきたのがニース。宝石を売った金で暮らしていけるはずだったのだが。

モノクロームで撮影されたモンテ・カルロ湾の写真集に触発された「私」は、パリ近郊マルヌ河岸に今も残る水浴場の写真を撮り、写真集を作ることを考える。華やかなモンテ・カルロに比べ、マルヌ河岸はかつて娼婦や女衒たちが稼いだ金で建てた家が立ち並ぶ地区である。岸辺に建つヴィラの主、ヴィルクール夫人も隣接する撮影所の秘話を語る口ぶりから、過去を持つ様子がうかがえる。そのすべての登場人物が素性の知れないあやしい人々ばかりという、モディアノならではの人物設定は健在である。

観光客で溢れる避暑地で気ままに独り暮らしを送りながら、その実過去に囚われたままの今の「私」。人目を避け、二人で息を詰め、カフェやレストランに出向いては宝石を買ってくれる人を探していた駆け落ち当時。行方知れずとなった恋人を探して探偵のように手がかりを嗅ぎまわる「私」。断片的に回想される何層にもなった過去の記憶が、ねじれた時間軸の周りを回り出す。ほぐれるように浮かび上がってくる、男と女の逃避行の果てに起きたある事件とは。

ニースは、『暗いブティック通り』の探偵事務所長が隠棲先に選んだ土地。住み慣れたパリを離れても、時間を忘れたような古い建築や見捨てられたような安下宿を訪ね歩く手法は変わらない。相も変らぬ唐突な「置き去り」を主題に、愛する女を失った男の喪失感と、その謎を追う追跡劇を描くモディアノの筆は期待を裏切らない。一枚の写真の中からファム・ファタルをめぐる男たちの思いもかけぬつながりが浮かび上がる謎解きなど、巷に溢れるつまらぬミステリを超えているとさえ思うのに、時系列を追って書き進めば純然たるミステリにもなろうかというモチーフを、あえて時系列を歪め、近い過去と遠い過去を現在時のなかに挿入するという語りの手法を用い、単なるミステリにしない。

マルヌ河岸とニースのどちらにもあるプロムナード・デ・ザングレという地名をはじめ、ルフランのように繰り返し使われる同語反復。河岸と海岸を照らす光と影、亜鉛の屋根をたたく侘びしい雨音と紺碧海岸の上にかかる青空、安定した職業というものに無縁の正体の知れない、かといって危険というのでもない、妙に人擦れのした、地続きでどの国でも生きていける大陸に暮らす、根無し草のような人々。そんなモディアノ世界の住人たちが、ふと曲がった曲り角の陰から顔を出してはまた消えてゆく。何ひとつ確かなものなどなく、すべては仮象でしかない、人と人とのつながりさえも。一度この世界の空気を呼吸すると、他の濃密な空気が耐え切れなくなる、そんなパトリック・モディアノの世界がここにある。


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by abraxasm | 2014-12-16 20:44 | 書評
e0110713_12055260.jpg五篇の小説が骰子の五の目のように組み合わさって作られた組曲のような小説、登場人物もちがえば、時系列もバラバラでいながら、鏡に映したように似ている組み合わせのカップルもいる。ほとんど同じ名なのに、少しだけちがう人物もいる。まだ小説を書いていない小説家が自分の創り出した人物と延々と対話し続ける自己言及的なメタ小説。実験的な小説のようでいて、ロマネスクな香気を漂わせる、独特の作品世界。モダニズムを代表する最後の作家、ロレンス・ダレルの最後の小説『アビニョン五重奏』の完結編である。

読者を幻惑させるかのように、グノーシスの秘儀やテンプル騎士団の財宝といったミステリアスな意匠を用意し、ブランフォードとサトクリフ、アッファドとコンスタンス、その他の人物の対話を通じてフロイトの精神分析やユダヤ人、ジプシー(ロマ)の受難、禅やヴェーダーンタ哲学その他、二十世紀が抱える様々なイデオロギーを繰り出してみせたところに、現代小説作家の問題意識が色濃く反映されている。しかし、最終巻までたどり着いてみれば、何のことはない。恋多き女コンスタンスと物語の語り手であるブランフォードの、縺れに縺れた恋の顛末が通奏低音として全篇に響いていたことが分かる。

コンスタンスのヨガ・マッサージで奇跡的な恢復を遂げたブランフォードは、コンスタンスと二人テュ・デュックの別荘で暮らし始める。水浴中のコンスタンスが痙攣に襲われて溺れかけたことがそれまでは介護される立場だったブランフォードを一気に覚醒させる。背中の傷みをものともせずコンスタンスを救うために水に飛び込み、コンスタンスを抱いて泳ぎきったのだ。自信を回復したブランフォードは心身ともにコンスタンスと結ばれ、完璧な恋愛の成就がもたらす幸福感が全篇を染め上げる。

最終巻であるから、それまでに引かれた伏線は、その意図を明らかにし、隠されていた秘密は暴かれなくてはならない。英独二重スパイのスミルゲルが明かすリヴィアの死の真相、テンプル騎士団の財宝の在り処、と暴かれる秘密は少なくない。ただ、これまでの鬼面人を驚かすような凝りに凝った細工は影をひそめ、道化役のゲイレン卿も年老い、王妃の容態が思わしくない王子も、いつものように乱痴気騒ぎを起こさないのが少し残念。

サヴィーヌの再登場で一族の「母」と呼ばれる長の占いが一行の未来を予言するところや、馬車や荷車に家財道具を詰め込んだジプシーの群れがヨーロッパ中からアヴィニョンに蝟集する姿に一抹の不穏な空気を残すが、森のあちこちに店を出したジプシーの屋台、電飾されたポン・デュ・ガールに揚がる花火が祝祭的な一夜を盛り上げる。紀行作家としても知られるダレルは、一篇に最低一つ、必ず絵になる場面を書き入れないではおかない。サント・マリー・ド・ラ・メールの聖女サラの祝祭と、このページェントが今回の目玉だ。

五篇の小説がそれぞれ異なる主題を奏しながら、やがて世にも稀な五重奏曲として成立する、そんな小説を意図して書かれた『アヴィニョン五重奏』も、いよいよこれで最後。どうなることかと勢い込んで読み始めたのだったが、冒頭、アヴィニョンに向かう列車の窓からブランフォードは小説のためのメモをすべて捨てる。新たな人生の始まりを意識しての行動だった。創作メモを駆使して作りこむような小説の忌避とも読める。それを証明するように作為的な部分がすっかり消え、いつになく真剣なサトクリフとブランフォードの思弁的な対話が戯曲のように長々と続く「クインクス」は、これ一篇では独立した作品として読むのは難しい。

連作小説の完結編としてなら、ブランフォードとコンスタンスが紆余曲折の果てに結ばれることに尽きる。互いにはじめて会ったときから惹かれあいながら、二人の間には邪魔が入り、その都度、別の愛が生まれては破局を迎える。完結に至るまでに何人の男女が傷つき、死んでいったことか。そういう意味では時代と呼応しあうような死と狂気に溢れた小説世界であった。いまや、すべての死者は静かに瞑目し、二人の新たな門出を祝うかのようだ。しかし、やがて、ブランフォードは小説を書くために、まるでリルケイアンのごとくコンスタンスのもとを離れ、一人去ってゆくだろう。それは、既に読者の知るとおり。

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by abraxasm | 2014-12-15 12:08 | 書評
e0110713_15411694.jpg主人公ジェラルドの家で開かれたパーティーの最中、ロスというの女が殺される。ロスは男なら誰でも寝てみたくなるような相手で、事実多くの男と寝ていた。ジェラルドもその一人だ。夫のロジャーはロスに夢中で彼女が女優をやることに反対だった。パーティには、舞台関係者や美術関係者、法曹界、映画界の人間、それに招かれざる客として警視正と警官二人、毀れた便所の配管を修理するために呼ばれた二人の鉛管工、その他大勢の隣人や知人、またその知人といった客が七、八十人も入れ替わり立ち替わり登場する。

クーヴァーをご存知なら、このミステリ仕立てではじまった小説が、すんなりと犯人探しを中心に展開してゆくとははなっから予想もしないだろう。まさにそのとおりで、パニックに襲われるロジャーをよそに、パーティ客は死体のことは警察にまかせ、宴は続けられる。それどころではない。居合わせた舞台監督はロスの死体を使って撮影を始めるし、バスタブで血で汚れたドレスを洗う画家や、便器に跨ってお漏らしで汚れた体を洗ってもらうモデルで塞がったバスルームへ尿意を催した客が次々押し寄せる。キッチンでは妻が客に出す料理の世話で大忙し、というシュールなタッチですべりだす。

「三一致の法則」を意識したのだろうか、場所はジェラルドの家、時間は一夜、筋としては殺人事件(死者が複数だが)と、きわめて古典劇に忠実な規則を遵守しながら、その実体はといえば、いつもながらのスラップスティック・コメディ。妻の死で取り乱し、暴れたロジャーは警官に撲殺、画家はバスタブで溺死し、親友のヴィックは過って娘の処女を奪いかけたジェラルドをフォークで刺そうとして警官に銃で撃たれるというドタバタぶり。その間隙を縫うように、ソーセージやら、アヴォカドのディップやら、ヴェルモットやオールド・ファッションドとパーティにつき物の食事と酒、女たちのドレスや、男たちの白い麻のスーツやアスコットといったファッションが羅列され、アメリカ中流生活のうわべの華やかさが派手に演出されるが、ドレスは血まみれ、美女は糞まみれ、男と女は誰彼かまわず暗がりや空き部屋を見つけてはセックスに励んでばかりというトンでもない在り様。

殺人が起きていながら、事件の方はそっちのけで、主題は専らジェラルドの恋愛遍歴だ。今宵も、夫同伴で出席しているかねてから意中の美女アリスンと情を交わしたいという欲望をたぎらせながら、次から次へと押し寄せる客の波を乗り切ろうと躍起になる姿を追う。その合間合間に妻と何気なく会話を交わし、ホスト役を務め、親友の娘の挑発をかわし、義母の冷たい視線を気にしながら眠れない息子の世話をし、何とか困難な一夜を乗り切ろうと悪戦苦闘するさまを、作家はジェラルドに寄り添いながらユーモアを忘れず、最後まで付き合う。

カーニヴァルめいた俗悪な騒ぎが引きもきらず主人公に襲いかかる。その狂騒の切れたとき、ふと触れ合った女たちの肌との接触が甘美な郷愁に似た過去の女たちとの思い出をジェラルドの脳裏によみがえらせる。あるいは、思索に耽りがちだった父が、時折り息子相手にもらした、今となっては身に重い箴言の数々。この喧騒と静謐のえもいわれぬ対比が絶妙な効果を生んでいる。

ロバート・クーヴァーといえば「血と糞とセックスの横溢するラブレー風な哄笑」で有名だが、「ポストモダンのアメリカ中流生活を風刺するドタバタ喜劇」の厚塗りの化粧から透けて見える等身大の人間の抱く哀歓もまたつけ加えたい魅力の一つだ。とはいえ、それは果てしもなく続く乱痴気騒ぎの果てに、ようやく一息つくようなものであって、汗を流し、息を切らせた藪こぎの途中で垣間見る稜線の向こうの青空のようなもの。束の間爽やかな風が吹いたかと思っても、すぐに誰と誰が何のことで会話しているのか見当もつかない会話や、息もつかせぬきわどい描写が待っている。ところどころに挿まれる地口や洒落が、ちょうどよい息抜きになっているが、あまり見事な日本語になっているので、原文の言葉遊びがうかがえないのがちょっと残念。
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by abraxasm | 2014-12-11 15:42 | 書評
e0110713_1225250.jpg19XX年のある冬の晩、ひとりの老人がヴェネツィアのサンタ・ルチア駅に降り立つ。生涯を締めくくるにあたり、自伝的著作の最終章をまとめるため、人生の出発点ともいえる地を訪れ、自分を人間にしてくれた、あの人との関係を見つめなおす心積もりであった。老人の名はピノッキオ。かつての操り人形は、人間となった後アメリカに渡り、主にヴェネツィア派絵画を専門に研究した結果、ノーベル賞を二度も受賞するほど有名な大学教授となっていた。

しかし、駅で待っていたポーター、実は原作に出てくる狐で、相棒の猫と二人してまたしてもピノッキオを騙し、金を奪おうという魂胆。老教授はホテルを探して雪のヴェネツィアを連れ回される。原作と同じ「赤エビ亭」で散々飲み食いされた挙句、逃げられ途方にくれたところを懐かしいマスチフ犬のアリドーロに助けられる。冒頭から原作のエピソードが矢継ぎ早に繰り出され、これが『ピノッキオの冒険』のパロディーであることを読者に教えてくれる。

しかし、原作は「むかしあるところに」という、決まり文句で始まっており、「ピノッキオ」の舞台がヴェネツィアだとはどこにも書いてない。実は「19XX年」という記述を冒頭にもつ作品がいまひとつある。トーマス・マン著『ヴェニスに死す』である。著述に倦んだアッシェンバッハがヴェネツィア行きを思いつくのが同じ19XX年。陸路と海路の差に加え、季節のちがいこそあれ、『哀れな人』や『精神と芸術』という主要な著作の名、決して強くない意志と肉体に鞭打って学問上の業績を積み上げてきた刻苦勉励の人生、と人間になったピノッキオの後半生はフォン・アッシェンバッハから借りているのだ。

自分の本性を偽り、ただひたすら学問に励んできた老学徒が、人生の最後にそれまでの自分を全否定し去るような日々を生きることになる、という点で、この作品は『ヴェニスに死す』と同じ主題を共有する。芸術と実人生を天秤にかけ、外面的には芸術に価値を置いているように見せながら、その実、官能的な美には滅法弱く、頭の程度など問題にすることなくその色香に迷う老ピノッキオのみっともない姿は、トーマス・マンが格調高く描いたアッシェンバッハのカリカチュアであるが、正直なところを申せば、世の謹厳実直を絵に描いたような男たちの鎧を外した姿そのものである。

それだけに、老残の身を狐と猫に騙されて、またもや身ぐるみ剥がされてしまい、雪の降る街を重い荷物を引きずってホテルを探して回るところなど、初めは笑っていられても終いには、辛くて見ていられなくなってくる。世間的には名士となった今でも、その内実は操り人形であった当時のピノッキオと少しも変わらない教授は、友達に助けられた時は感謝をしても、すぐに誘惑に負けて裏切ることの繰り返し。まことに懲りない。だってそれが本質なのだ。色欲も物欲も名誉欲も全然枯れていない。

『ピノッキオの冒険』のエピソードを忠実になぞりながら、パワーアップした大人バージョンの色と欲の追求がはじまる。クーヴァーならではのとことん下品で卑猥な表現は、もとが子ども向けの話であるだけに、その冒涜ぶりが際立つ。カトリックの聖母信仰や純粋な母子愛などを信じて疑わない向きには到底許すことのできない破廉恥な叙述が溢れているので、とてもお勧めできない。こういう表現の仕方でしか現すことのできないものもあるのだと理解してもらうしかない。信仰心も道徳心も特には持ち合わせていない評者などには、ただただ暴力的に面白く感じられるのだが。

あらためて原作を読んでみて、自分がこんな話だと思っていた『ピノキオ』がディズニー映画その他の再話によって改変された毒にも薬にもならない類の話になっていたことをあらためて思い知った。原作は、欠陥も多いが、もっともっとあっけらかんと惨酷な場面も平気で描いた話だった。気になったのはその最後の場面。人間になったピノッキオがもとの操り人形を目にして言う言葉。「操り人形だったころ、ぼく、なんてぶかっこうだったんだろう!でも、いまではりっぱな子どもになって、ほんとにうれしいな!」。なんという上から目線の優生思想であることか。

ピノッキオが憧憬する恋人であり、母でもある「青い髪の妖精」がしたことは、悪戯はしても反省することのできる、生き生きした子どもらしい子どもであったピノッキオを、道徳的なお題目を説き聞かせることで、どこか「小国民」めいた少年にしつけることであった。どちらが語の真の意味での「操り人形」か。老教授となったピノッキオが自伝の最終章を書くためには、この妖精の真の姿を見極め、本来の自分を再発見することがどうしても必要だったのだ。

エロ・グロ・ナンセンス上等、スラップスティック・コメディ全開のノリでやってきた顰蹙物の小説が、最後の場面で見せる超絶技巧に目を奪われる。それまでの汚穢やみだりがわしさは影をひそめ、キリスト教が世界を席巻する以前の原初的な聖母子像が現出する、かと思ったら…ああ、やっぱり。ポスト・モダンの巨匠の名に恥じぬ傑作。
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by abraxasm | 2014-12-09 12:25 | 書評

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