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e0110713_14313830.jpg伝説的な現代小説でありながら、ジョイスの陰になり、陽の目を見ることのなかったフラン・オブライエンの代表作がやっと単独で刊行されたことをまず喜びたい。文章の難易度から言えば、同時期に発表されたジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』より、よほど読みやすい。適度に理解できるというのが難点だったのかもしれない。人は一般的に自分の理解できない物の方をありがたがるものなのだ。

「ぼく」は、大学に通う学生で伯父の家に下宿している。伯父からは「本の一冊も開いているのか」と皮肉を言われる毎日だが、実は本を書いている。しかもばりばりの現代小説だ。「ぼく」の小説論が作中に開陳されている。その概略は、小説は紛い物でなければならず、作中人物はどこかからの借り物でいいし、その性格や行動は作家が決めるのでなく、人物の勝手気ままににさせた方がいい。現代小説はもっぱら引照を旨として、既存作品と頻繁に照応させることで説明を省く。それが現代文学を理解しようなどという無教養な輩を締め出すだろう、というものである。まさに、ポスト・モダン。

その内容だが、いうところのメタ・メタ小説。「ぼく」の書いている小説の主人公がダーモット・トレリスという名の作家で、彼はレッド・スワン・ホテルの一室に住み、一日中ベッドに寝たまま原稿を書いている。トレリスは、登場人物を自分の部屋に同居させているが、彼らはトレリスが起きている間は言いなり(作中人物だから当然)にならざるを得ないが、内心では反発している。そこで、トレリスに薬を盛って眠らせておき、復讐の計画を練る。トレリスが創り出した絶世の美女とトレリスとの間にできた嫡子オーリックは父親譲りで小説の才があり、母が産褥で早世したことで父を恨んでもいた。そのオーリックに小説を書かせ、トレリスを痛めつけ、死ぬ苦しみを味わわせようというもの。

自分の生み出した人物に命をねらわれるという設定は、オースターの近作にもあったが、異なる階層間を往来する、その自在ぶりが半端でない。作家たるもの理想の女が描けたら、その女と寝たくなるのは当然で、その結果生まれた子が父を殺したいと思うのもフロイトを持ち出すまでもない。

ダーモット・トレリスが創り出す登場人物というのが、アイルランドの伝説上の人物フィン・マックール、狂王スウィーニー、見えない妖精グッド・フェアリ、同じく魔物プーカ、悪徳漢ファリスキー、ダブリン市内を暴れ回る二人のカウボーイ、といった既存作品から借りてきた、いずれ一癖も二癖もありそうな人物ばかり。主の眠っているのをいいことに、この連中が好き放題にしゃべりまくり歌いまくる。「スウイム・トゥー・バーズ」はアイルランド語「スナーヴ・ダー・エーン」(浮き漂え・二羽の鳥)の英訳で、作中狂王スウィーニーの話のなかに登場する。

フィン・マックールの格調高い物語のなかに狂王スウィーニーの哀詩が謳われるかと思うと、その話を受けて労働詩人ケイシーが詩を朗誦するという、時空も階層も異にする人物が織りなす入れ子状の物語が引きもきらず次から次へと繰り出される。その合間合間に「ぼく」の日常生活がぽつんぽつんと挿入されるという構造。一つ一つの挿話がとんでもない語り上手の口調で供されるので、構造の複雑さなど忘れついつい読み耽ってしまう。どうして、こんなに面白い小説が単行本化されなかったのだろうと首を傾げてしまった。

トマス・ピンチョンの全小説集が刊行されるような時代を待ってようやく手軽に読めるようになった。独り歩きするには、あまりにも早すぎたのだ。やっと「現代文学を理解しよう」などと思わずに、小説を楽しめる時代に出会えたというわけだ。伝説の英雄が語る物語の格調の高さと、妖精が今も生きていて、人々は歌が好きで酒飲みで猥雑というアイルランドの俗受けするイメージが混淆して何ともいえぬ文学的感興を催す。モダニズム文学の傑作であるとともに、ポスト・モダンを予言した伝説の一冊である。
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by abraxasm | 2014-11-30 14:33 | 書評
e0110713_0354978.jpg「すぐれた現代小説はしばしば推理小説的構造をとる」という説があるらしい。「私は何者でもない。その夕方、キャフェのテラスに坐った、ただの仄白いシルエットに過ぎなかった。雨が止むのを待っていたのだった。ユットと別れた時に降りはじめた夕立だ」という、ノワール小説風の書き出しはその説の正しさを裏付けるものかもしれない。

十年前、記憶喪失に見まわれた「私」を援けてくれたのがユットだった。記憶の戻らない「私」に新しい身分証明書を手配し、探偵として使ってくれたばかりか、引退した日、自由に使えと事務所の鍵まで渡してくれたのだ。自分の過去をたずねる旅に出る潮時だった。

「私」が探るのは、自分は誰で、十年前になぜ記憶をなくしたのか、という謎である。都合のいいことに、「私」を助けたのが探偵事務所の所長であり、八年間その右腕として働いた「私」は、今では腕利きの探偵となっている。引き継いだ事務所には紳士録や住所録のファイルで埋まった棚があり、ユットは各方面に人脈を持っていた。

実際に顔を見れば、「私」を覚えている者に会えるかもしれない。「私」は、わずかな手がかりを求め、人を尋ねてパリの街中を歩きまわる。文中に通りや建物の名が続出する。パリに詳しい読者なら、そこがどんな界隈かすぐにわかるのだろうが、詳しくなくともそこはパリだ。映画で見覚えのあるところも多い。サクレ・クール寺院近くの階段などとあれば、一気に情景が喚起される。

「私」が会うのは、亡命ロシア貴族やうらぶれたピアノ弾き、男色家の写真家といったいずれも落剥を絵に描いたような面々。彼らは思い出したくもない過去を問いただす探偵を追い払うかのように、思い出の品を手渡す。写真や形見の品から芋づる式に手繰り寄せる自分の過去。手がかりになるのは、名前と住所、電話番号といった記号化された情報である。一章が丸ごとそれにあてられることも。

そのうちに少しずつ分かってくるのは、「私」が、どうやらいくつもの名前を使い分けていたこと、恋人がいたこと、南米の外交官と関係があったこと等々。時代は第二次世界大戦下、ヴィシー政権下のフランスで臨検を恐れる立場にあった「私」は、同じ境遇の仲間たちとスイス国境に近いムジェーブという観光地への旅行を強行し、記憶喪失に至る事故に遭ったらしいい。

推理小説風にはじまった小説は、「私」の過去が明らかになるに連れ、過去に出会った人々の視点による回想が挿入されたり、自分の回想が入り混じったりして複雑な様相を呈するように。暴かれた過去ははじめの謎を解明するが、それによりかえって謎が深まってゆく。恋人だった女はどうなったのか。ボラ・ボラ島で行方知れずになった学生時代からの友人は本当に死んだのか。「すぐれた現代小説はしばしば推理小説的構造をとる」の後には「が、それはたいてい最後まで謎の解けない推理小説である」という、もうひとつの説が続いているという。いやはや。

「暗いブティック通り」は原文で“Rue des Boutiques Obscures” 。フランス語になっているが、もとのイタリア語では、ローマにある通りの名でイタリア共産党の本部があるとか。「私」がかつて住んでいた、その地を訪れるまで謎は解明されることはない。「私」とは、いったい何者でいくつもの名を名のらねばならなかった理由とは何だったのか。その解明は読者にゆだねられている、ということだ。

推理小説的構造を借り、娯楽小説の意匠を纏うことによって、戦争や人種、自己とは何か、というすぐれて現代的な問いを、不用意な読者に否応なしに突きつける、きわめて用意周到な作品である。それでいて、登場人物が仄めかすサイド・ストーリー、美味そうな酒や料理の紹介、と巷間に流布する凡百の推理小説やスパイ小説をはるかに凌駕する読み応え。本を読むことの愉しみはしっかり保障されている。1978年度ゴンクール賞受賞作。
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by abraxasm | 2014-11-28 00:36 | 書評
e0110713_1541879.jpg最近、日本版が刊行されたばかりの『変愛小説集』。オリジナルの方は翻訳家である岸本佐知子が自分の好きな海外短篇を毎月一篇、選んで訳し『群像』に連載したものを単行本にしたもの。翻訳家が訳すべき作品を自分で選べるというのは、多分楽しいことなんだろう。そういう意味では翻訳家の好みがよくわかるアンソロジーになっている。

単行本化に当たってつけたのであろうタイトルは、つい「恋愛」と読んでしまいそうになるまちがいを誘う気の利いた趣向だが、中身は特に「変(な)愛」が主題とも思えない作品も多い。要は翻訳家の琴線に触れた作家、作品が選ばれたにすぎない。少し考えてみれば分かるが、世にあるどんな小説にも何らかについての愛が書かれていない小説などない。それが「変」かどうかは、誰にも決められはしないのだ。

木に恋する性別不詳の「わたし」と、そのやはり性別不詳の相手と木の奇妙な三角関係を描いたアリ・スミスの「五月」が、中ではいちばん「変愛」の名に相応しい。人にとっての恋の対象は、たとえ「木」でなくとも、第三者にはどこがいいのか分からないものだろう。ただ、本人にとってのそれはかけがえのないもの。それがよく伝わってくる。

SF的な発想のものや恐怖小説風の作品も多いのは、編者の好みもあろうが、掲載するアメリカの雑誌や読者に受けがいいのかもしれない。軽さと辛らつさがうまくミックスされ、それなりに楽しめるが、個人的にはわざわざ読みたいとも思わなかった。都甲氏の最新書評を読んで期待したジェームズ・ソルターの「最後の夜」も、今ひとつだった。書評を読んで想像していたソルターの方がずっと読んでみたい。邦訳作品がどこかにないものだろうか。

まだ若い作者らしいがスコット・スナイダーという人の「ブルー・ヨーデル」が、中では最も好みの作品だ。蝋人形館だとか、飛行船、T型フォードという道具立てがまず好みだし、何故か自分を捨てて去った恋人をアメリカ中オンボロ車に乗って追いかける主人公の思いが他の作品にないピュアなものを感じさせる。表題は、ナイアガラの滝が凍るとき、氷のなかに閉じこめられた魚たちを指していう言葉だとか。印象に残る映像を言語表象化することのできる力を持った作家である。他の作品も読んでみたいと思った。
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by abraxasm | 2014-11-25 15:05 | 書評

『献灯使』多和田葉子

e0110713_1254270.jpgこれを読んで、面白かった、といったら不謹慎だと怒られるだろうか。近未来の日本を舞台にしたディストピア小説である、などと紹介すると、そこいらにあるSF小説みたいだが、震災と、それに起因する原発事故を受けた後のこの国で作家に何が書けるのか、という問題意識を感じた一群の作家がいたと記憶するが、その問いに答える仕事、とひとまずは言えるだろう。

災害が引き起こした放射能汚染により、逃げ出す者が相つぎ、都下は慢性的な果実や野菜不足に悩まされている。放射能汚染があった時点で成人していた者は百歳を過ぎても死ねず、逆に若い者ほど放射能の影響を受けやすく早死にする、近未来の日本は何故か鎖国中で、外来語は使えず、ドイツパンは讃岐パンと名を変えている。

作家の義郎は早世した両親、沖縄で働く祖父母に代わり曾孫の無名(むめい)の保護者として、食事の世話や学校への送り迎えをする毎日。今日も貸し犬屋で借りた犬を連れ、今や「駆け落ち」と名を変えたジョギングを済ませたばかり。無名たち虚弱化した子どもたちは、物も満足に噛めず、果汁を飲むことさえひと仕事という在り様。

ディストピア物SFといえば、汚染された都市の残骸、廃墟のなかで生き残りをかけて繰り広げられるバトルというあたりがありきたりだが、書くのが多和田葉子となると、ちょっと様子がちがう。状況設定がいちいちリアルで、現今の政治状況ではこれもありだなと妙に納得させられる。外国語・外来語の禁止などは、武道や日本史の必修という文科省の政策から窺えることだし、鎖国政策というのも、卓抜な比喩として現在の日本の置かれた状態を言い得て妙だ。うまい言い回しの引用を始めたら、全文書き写す羽目になりそうで、きりがなくなって途中であきらめたほどだ。

「民なる」のような漢字を駆使した外来語の言い換え、脚韻の多用、よく似た形の漢字を使った言葉遊び、と言語遊戯に淫した文体はバイリンガルとして多言語を自由に操る作家ならではというべきか。想像を絶する災害を前にして言葉を失った者は多かったが、時がたち、そこから生み出されたのがこれらの言葉であることを思うとき、その皮肉さに胸ふたがる思いがする。誰もが復興だの絆だのという耳に心地よい言葉を口にしながら、その実、汚染水はいっかな止まることを知らぬというのに、ほんの少し時が経っただけで、やれ再稼動だ、東京五輪だなどと浮かれ騒ぐこの国には、これくらいの遊び心や毒気が必要なのだろう。

表題となる中篇のほかに、同じ主題で書かれた短篇三作と戯曲一篇を収める。中で最も早くに書かれた「不死の島」は、短いながら放射能汚染に犯された後、民営化した政府の下で他国との交信もできなくなった日本の状況が端的にスケッチされ、設定が飲み込みやすい。先に読んでから表題作を読むのも手か、と愚考する。スウィフト作『ガリヴァー旅行記』、沼正三作『家畜人ヤプー』を髣髴させる風刺的、かつ被虐的な話題作。心して読まれたい。
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by abraxasm | 2014-11-22 12:05 | 書評
e0110713_1151514.jpg久しぶりに小説らしい小説を読んだ。でもないか。どちらかといえば、シネコンがハリウッド映画や邦画アニメで占領される前、街角の小さな映画館で観たフランス映画に再会したような感じだ。今年ノーベル文学賞を受賞したパトリック・モディアノ、十五作目の小説。

秋から冬にかけてのパリ市街。パリの冬は晴天に恵まれず雨もよいの空はいつも灰色で、人は孤独のあまり死にたくなるという。その頃「ぼく」は十八歳。両親は外国へ出かけたままで、いつ帰ってくるかもしれなかった。徴兵猶予を引き伸ばすために大学の文学部に籍を置いていた「ぼく」は、父の友人のグラブレーと二人、家具や絵を質屋に入れ、引っ越したばかりのようになったアパルトマンで暮らしていた。

ある日、誰かの手帳に名前があった件で警察に呼ばれた「ぼく」は、そこで出会ったジゼルに頼まれ、一夜の宿を貸すことに。女が身に纏った謎に魅かれるように、初冬のパリ旧市街を彷徨う「ぼく」。世間知らずの若者が、垣間見るいずれも正体の知れない大人の男女の世界。いつかその渦に巻き込まれ、抜き差しならない関係にはまってゆく「ぼく」の頭のなかにあるのは、ジゼルと二人でローマに行くこと。そこには仕事と落ち着き先が待っているはずだった。

ルノー・ヴェルレーあたりが演じそうな、愁いを帯びてほのかに甘く、どこか危険の香りが漂うような、青春映画が目に浮かぶ。セーヌ河畔、コンティ河岸に位置するアパルトマンからはポン・デ・ザール橋とルーブル宮が見え、夜ともなれば河を行き交うバトームーシュの光が部屋に線状の灯りを届ける。シテ島をはさんで、セーヌ左岸と右岸を往き来する「ぼく」は、いくつもの橋を渡る。カフェ・ドゥ・マゴや作家チェスター・ハイムズがよく顔を見せていたカフェ・トゥルノン、とまるで一筆書きでパリの市街図を描くように移動する二人の後を追ううちに、すっかりパリ見物ができるしかけだ。

十八歳の青年と二十二歳の女の関係は、女が私生活を明かさないことで謎を秘めたまま進行してゆく。少し年上の女に魅かれる若者の思いつめた気持ちや、女の心ここにあらずというアンニュイな気分が、移動中少しの間、姿をくらませてしまう女の謎とからみあって、なかなか深い関係に至ることがない。この宙吊り状態が緊張感に満ちたサスペンスを持続し、一気に終末に突入する。あっけない幕切れが、いかにも似合いそうな一途な若者の初恋を描いたみずみずしい小説である。
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by abraxasm | 2014-11-21 11:52 | 書評
e0110713_12431094.jpg「音楽学者とジャズ・ピアニストの対話」という副題どおりの本。ビバップからフリー・ジャズまでの代表的なミュージシャンを取り上げて、そのどこがジャズとして「すごい」のかを説き明かすというもの。冒頭から譜例やらコードネームやらが頻出するので、初心者にはとっつきにくく思われるかもしれないが、詳しく知りたい人にはYou Tubeに関連動画があり、著者の一人であるフィリップ・ストレンジ氏が実際にピアノを弾きながら解説してくれている。

誰それのジャズが好き、でもそのどこがすごいのかはよく分からない、という人はけっこういるのではないだろうか。かくいう評者もその一人である。数多ある名曲名盤のなかで、なぜその人のその演奏が自分にとって他の演奏者のものとはちがって聴こえるのか、素人には分かりにくいところだ。ジャズに関して書かれた本は多いが、ジャズメンたちの奇矯な逸話や録音時のエピソード、実際に耳で聴き目で見た演奏時の様子といった情報に終始し、音楽それ自体について詳しく論じたものは割と少ない。

ジャズの定義を問われたビル・エヴァンズは「ジャズとは一分の曲を一分で作曲することだ」と言ったそうだが、同じ曲名でも、演奏者が異なれば、全くちがった曲に聴こえるのがジャズだ。アドリブの即興性にこそ、ジャズの本質がある。この本の特徴は、一人ひとりのプレイヤーの創り出す音楽を構造的にとらえているところだ。選び抜かれたのはアート・テイタム、チャーリー・パーカー、マイルズ・デイヴィス、オーネット・コールマン、ジョン・コルトレーン、それにビル・エヴァンズの六人。

本を書くに至った意図の意義はわかるが、音楽を言葉で説明するのは、やはり隔靴掻痒の感が強い。譜面が読める素養のある読者は別だが、一般の読者にとって正直読んだだけではよく分からない、というのがほんとうのところ。読んでいてよく分かるのは、「彼らビバップのピアニストの発想は、右手がサックスで、左手が伴奏のイメージなんですね」といったところや、「アート・テイタムのピアノのモデルはオーケストラです。(略)彼は両手を四声で考える。右手の小指がメロディ(ソプラノ)、右手の親指がアルト、左手の親指がテナー、左手の小指がベース」といった具体的な解説だ。

個人の逸話からは距離を置いたつもりでも、やはりジャズメンに楽屋話は欠かせないようだ。白人ということで、コルトレーンがビル・エヴァンズをいじめたとか、マイルズが(ジョークかいじめか)エヴァンズに、「オレのバンドには昔からの伝統がある。新入りは必ずメンバー全員にオーラル・セックスをするんだ。どうだ、オマエにできるか?」と尋ねた時、エヴァンズが時間をとって考えて「それは無理だと思います」と答えた。それ以来マイルズはエヴァンズに一目置くようになったとか。マイルズという人は音楽的にはともかく、人間としては、かなりエキセントリックな人のようだ。

そのマイルズがオスカー・ピーターソンが大嫌いだった理由。「ある和音進行が出てくると、よく同じパターンで処理してしまう。曲と全然関係ない、自分のパターンの展覧会」だから。キース・ジャレットは「指のパターンから逃げたい」と言っている。指のパターンでやったのでは音楽にならないからだ。人間的にはどうあれ、こと音楽に関しては、マイルズは厳しかったようで安心した。

ストレンジ氏の実演と解説のほかに、関連する曲のリストがネットに上げられている。こちらの方はただの愛好家にもお勧めできる。マイルズ・デイヴィスのストックホルム・ライブにおけるコルトレーンの渾身のソロが、ワン・クリックで聴けるなんて、すごい時代が来たものだ。伝説的なピアニスト、アート・テイタムの超絶のピアノ・テクニックもここで聴ける。本と一緒に愉しんでもらいたい。
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by abraxasm | 2014-11-20 12:43 | 書評
e0110713_1712383.jpg「君は死体保管所にいる。そこの照明は不気味だ」という書き出しの一節からも窺えるように、全編を通してヌーヴォー・ロマンを思わせる二人称視点で書かれたハードボイルド小説。ハードボイルド小説を二人称視点で書くという試み自体が、すでに慣れ親しんだものを新しい視点から見つめることで生まれる「異化」効果となっている。作者クーヴァーはトマス・ピンチョンらと並ぶポスト・モダン文学の重鎮で、パロディの名手。つまり、これはハードボイルド小説や、それを原作として生まれた「フィルム・ノワール」と称される映画ジャンルをパロディ化したものである。

タイトルの「ノワール」は、フランス語で「黒い」の意味だが、主人公の私立探偵の名前であると同時に既に述べた「フィルム・ノワール」を踏まえてもいる。狭義には「虚無的・悲観的・退廃的な指向性を持つ犯罪映画」と定義される「フィルム・ノワール」だが、時代的にモノクローム・フィルムで撮影され、白と黒のコントラストが強調されたことで、人間の持つ裏や陰の部分が前面に出た。「暗い映画」と呼ばれる所以である。道義的に許されない行為に手を染める富裕層やファム・ファタル(魔性の女)と呼ばれる美女を相手に、私立探偵が孤独な闘いを挑む。ハメットやチャンドラーの描いたサム・スペイドやフィリップ・マーロウといった私立探偵の活躍は何度も映画化されている。

何度も繰り返され、使い回された結果、ジャンルとしてのハードボイルド小説や「フィルム・ノワール」映画といった「ノワール物」は、すでにステレオタイプと化し、そのままでは陳腐なものとなっている。それを逆手にとって、どこまでも「ノワール物」の手法を生かしながら、視点を二人称にしたり、甘い物に目がなく、トレンチ・コートの下は裸にゴム底靴という出で立ちの探偵を創造したりすることで、今まで自動化されて眼にとまっていなかった「ノワール物」の細部に、もう一度目を向けさせることを意図して、この小説は書かれている。

主人公の探偵の名前はフィリップ・M・ノワール。「Mはファミリー・ネーム」とトボケているが、そこに「マーロウ」を読んでしまう読者が予め想定されている。不定期に常駐する助手の名がブランチ(フランス語なら白)。ドジで怪我ばかりする探偵の有能なコーチであり母性的な介護役を勤める、この二人のコンビは『マルタの鷹』のスペイドとエフィーだろう。すべてがこの調子で過去の「ノワール物」のパスティーシュになっているのはいうまでもない。

しかし、ただのパロディと思っていると大まちがい。ハードボイルド小説というジャンルは既に完成済みであり、下手にいじくれば無様な失敗作となるか、よくて上出来の模倣作となるのが関の山。この前読んだばかりのベンジャミン・ブラック著『黒い瞳のブロンド』など、まさにその後者の一例。内容はステレオタイプに決まっているのだから、上手くなぞったところでコピーに終わるのは当然。クーヴァーはちがう。形式にとことんこだわる。

チカチカ点滅するネオンライト、雨の降る桟橋、牛乳容器に入れたウィスキーを出す食堂、全身に刺青を施したミチコという名の娼婦、ネズミという名の情報屋。情景も人物も徹底的に深く鋭く彫り込まれ、くっきりとした輪郭をまとった細部が其処此処に立ち上がる。やわなミステリーなら機械的に書きトバシてしまうだろうディテールが、吟味され、練り上げられて俎板ならぬページの上に供せられる。それを目にし、味わう喜びは極上の料理を堪能するのに似ている。パロディと呼ぶには、あまりに高すぎる完成度をもつ上質の「ノワール」小説。最後のどんでん返しに思わずニンマリしてしまう。

「どうして都市が不潔でも、われわれは都市をこのように愛するのだろうか?むしろ都市が不潔だから愛するのだ。小便をひっかけられ、唾を吐かれているから。意味がなく、危険であるから。われわれはそこにつながりを感じることができる。原則はこれだ――肉体は常に病んでいる。健康なときでも、あるいは健康であると思っているときでも。細胞は細胞を食っている。すべては消化に関わることだ。あるいは、消化不良に。都市においてわれわれが腐敗と呼ぶもの。食べる側が食べられる側を食べること。ほとんどは騒々しい闇のなかで起こる。それは死ぬまで続く汚い闘争であり、すべての人が負けるのだ」。ノワールの独白である。チャンドラーお得意の文明批評を真似ながら、それをはるかに凌駕する一節ではないか。
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by abraxasm | 2014-11-18 17:12 | 書評

『背乗り』竹内 明

e0110713_15401984.jpg筒見慶太郎は元警視庁公安外事二課係長。八年前、上の命令を無視して捜査を強行し、危うく国際問題を引き起こしかけた件で公安を追われ、今はニューヨークにある日本国総領事館の警備対策官。中国に対する人権外交を謳い滞米中の外務大臣黒崎がホテルで倒れたという報を受ける。命はとりとめたが血液中に薬物が検出された。自殺か他殺か。総領事の命を受けて筒見は帰国する。

同じ頃、世田谷では筒見がオヤジと慕う「影の公安部長」浜中の死体が発見される。臨場した元公安外事二課で今は巡査の岩城は現場にあった拾得物の中身が外事二課の秘密データだったことを元係長の筒見に告げる。八年前の筒見の暴走は、公安の中にいるモグラを暴くためだった。筒見は、モグラの妨害工作で解体されたかつての仲間を集め、事件を解明しようとする。

映画『裏切りのサーカス』の原作、ル・カレの『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』で知ったが、<モグラ>というのは、諜報機関に潜入した敵対組織の諜報員を指す隠語だ。非情なスパイの世界にあっては、敵を欺くために味方を売るまねさえせざるを得ないこともある。その過程でずるずると深みにはまり込んでしまう。その結果としての二重、三重スパイはよくある話だ。

敗者の烙印を押され、組織を追われたかつての仲間が再結集し、権力の闇に巣食う悪者をあぶり出すという設定。天才的なスパイ・ハンターながら組織を追われ、一匹狼となった筒見。サラリーマンの悲哀を感じながらも交番巡査の職務を真面目に遂行する正義漢岩城、ミステリアスな美女サラ、隻脚の中国人スパイ劉と役どころも揃っている。

尖閣の問題や民主化運動の高まりを受けて、対中国外交は日本にとって喫緊の課題となっている。関係者に言わせれば、スパイ天国になっているという日本が舞台。インテリジェンスに関して無防備とされる国家にあって、国家の屋台骨を陰で支える「ダーク」な組織、今流行りの公安警察の内部を描くことで、読者の興味をそそる内容となっている。

親に隠れてハクビシンに餌をやる少年や、父に虐待される兄弟の話を挿入し、非常になりがちなスパイ戦に情味を添えるのも忘れない。特にニューヨークを舞台にした前半の滑り出しが小気味よい。音楽や食事、犬を連れたジョギング、と海外のミステリを読んでいるようだ。肝心の後半だが、直接の事件の謎は解明されるものの、背後に巣食う闇には手をつけずに終わっている。シリーズ化を考えているのかもしれないが、これで完結というのなら、もう少し余情というものがあってもよかったのではないだろうか。
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by abraxasm | 2014-11-15 15:40 | 書評
e0110713_11525025.jpg内戦終了後間もない1957年のクリスマスを目前に控えたバルセロナ、旧市街にある「センベーレと息子書店」を訪れたのは、古臭い仕立ての黒い背広を着て杖を突いた年寄りだった。猛禽を思わせる目をした男は鍵つきの書棚から『モンテ・クリスト伯』を選ぶと、不自由な手でメッセージをしたためた。《死者のなかからよみがえり、未来の鍵をもつフェルミン・ロメロ・デ・トーレスへ。十三より》と。使用人で店主の息子ダニエルの親友でもあるフェルミンに本を贈ったのはいったい何者、不吉なメッセージは何を意味するのか。

心配するダニエルの問いに重い口を開いたフェルミンがぽつぽつと語り始めたのは、内戦からフランコ独裁に至るスペインの歴史の暗闇のなかに隠されていた悲惨きわまる物語だった。権力が推移するたび、現政府は前政府の関係者を次々と監獄送りにした。おかげで当時のスペインでは囚人の数が膨れ上がったが、そのなかにはフェルミンのように前政府の下で働いていた者ばかりではなく、政府批判をしたという理由で収監された作家や医者といった普通の市民も多かった。

『モンテ・クリスト伯』を模したフェルミンの脱獄とその後の『レ・ミゼラブル』ばりの逃亡生活は、敬愛するデュマやユゴーに捧げる作家のオマージュだろう。冒頭に登場するサルガドのような傍役にいたるまで登場人物の容貌や性格の輪郭がはっきりしているので感情移入しやすい。前二作にあった複雑に入り組んだ構成は影をひそめ、血湧き肉踊る19世紀ロマン派小説の作風で通している。主人公が少年の面影を残す純情な人物であるだけに、話を面白くするには脇を固める人物に個性的な面々が必要になる所以である。饒舌で多方面に顔が利き、何でもこなすダニエルの良き相棒フェルミンは以前から気になる人物であったが、今回は、このトリックスター的な人物に光を当てることにより、バルセロナの闇が愈々際立つ。

世界中でベストセラーとなった第一作『風の影』、第二作『天使のゲーム』につづく「忘れられた本の墓場」シリーズ四部作の第三作。四部作のグランドデザインを描く『風の影』でラフ・スケッチにとどめ置かれた部分に光を当て、細部をふくらませ、小説の厚みを増した。迷宮のようなバルセロナの街のどこかにある「忘れられた本の墓場」をめぐる幾重にも折りたたまれた入れ子状の物語のなかでは、比較的シンプルなストーリー展開。フェルミン自身の物語による回想部分を含めても、前二作のもつ複雑な構成とは一線を画す読みやすさだ。分量も半分におさえられているのは、ひたすら怒涛のように最終巻にのめりこむために一息入れる役割を果たしているのかもしれない。

バルセロナ・ゴシックとでも呼びたくなるような独特の怪奇・残酷美に溢れるサフォンの世界だが、奇を衒っている訳ではない。住民投票の結果を見ても分かるように、スペインからの独立を強く希求するカタルーニヤ。内戦の混乱、その後のフランコ独裁に締め付けられ、忍従しつつ生き延びてきたカタルーニャの人々には、曰く云い難い日々の記憶が層を成して堆積しているのだろう。それだけに、人々の生や愛に寄せる思いは強く、願いを遂げる意志には熱いものがある。宗教的立場や政治信条の差異が生死を分ける日常の中で、他人と自分の命を秤にかけるような毎日を生き抜いてきた人々の物語は時に怪しく、時に酸鼻を極めるものともなろう。

一つの小説のなかに、別の作家の手になる物語が入れ子状に仕組まれ、物語世界の動きが現実世界に影響を与え、今を生きる人物の行動が物語に反映するという、トポロジカルでメタ小説的な小説構造。どこから入っていっても最後に待つのは「忘れられた本の墓場」であり、物語はそこからいくつもの時代、数え切れない登場人物の生活へと延びている。バルセロナという都市の地下に埋もれた歴史の層を蟻の巣のように迷宮化してしまう四部作。本篇だけ読んでも充分に楽しめることはうけ合うが、おそらく、これを読めば他の二編と、刊行の待たれる最終巻も読みたくなるだろうことはまちがいない。
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by abraxasm | 2014-11-13 11:53 | 書評
e0110713_16155099.jpgチャンドラーの創作ノートに未発表作品の題名としてリストアップされていた“The Black-Eyed Blonde”(稲葉明雄訳は「殴られたブロンド」)をちゃっかり拝借して書かれた、あの『ロング・グッドバイ』の「公認続篇」だそうだ。作家は疾うに亡くなっているのに誰が公認したんだろう、と疑問に思って調べてみたら「遺族」公認とのこと。ブッカー賞受賞作家で、ミステリでも実績のある作家だからだろうか。草葉の陰でチャンドラーが苦虫をかみつぶしたような顔をしているのが見えるようだ。

ある暑い日、マーロウのオフィスを訪ねてきたとびっきりの美女はブロンドにはめずらしい黒い瞳の持ち主だった。失踪したかつての愛人を捜してほしいという依頼だ。さっそく捜査を開始すると、マーロウの足を向ける先々に死体が転がりだす。マーロウ本人も危険な目に遭うが、からくも脱出し、事件の真相にたどり着く。そこには意外な人物の姿があった。

矢車草の瞳の次は黒い瞳か、と皮肉の一つも言いたいくらいに、チャンドラーのこれまでの作品を下敷きにして書かれた、流行りの言葉で言えばパスティーシュ。平たく言えば模倣作で、そう考えれば出来はさほど悪くはない。仕事の依頼人は、一代で資産を築き上げたやり手の資産家の娘で、これ見よがしの豪邸に住み、広い邸の中には問題を抱えた兄弟姉妹がいる。凄腕のギャングや、政界に顔のきく実業家が次々と登場しては、マーロウを質問攻めにし、挙句が薬を盛っての拷問で、いつまでたっても真相に近づかないのもお約束である。

登場人物の顔ぶれだが、『ロング・グッドバイ』の続篇と銘打っているだけに、バーニー・オールズは勿論のこと、警官のグリーン、<ヴィクターズ>のバーテン、それに、なんとあのローリング医師まで登場するに至っては、笑ってしまった。会話のなかにはリンダ・ローリングもハーラン・ポッターも出てくるという大盤振舞い。そうなると、テリー・レノックスを登場させない手はない。なにしろ公認続篇なのだ。

アイルランド系の作家がアイリッシュの血を引くチャンドラーのパスティーシュを書くのだから、独立戦争が残した傷に触れようが、マーロウをアイリッシュ酒場に立ち寄らせようがそれはかまわない。問題は、作品自体が贔屓の引き倒しになってしまっていることだ。一人称で語るマーロウの口が、いつになく滑りやすくなっているのはまだ我慢ができる。もともと、おしゃべりが過ぎるのだ。ただ、話が始まって間もないうちに、依頼人であるクレアとベッドに、というのはちょっといただけない。

それだけではない。どちらかと言えば女嫌いなのではと思わせるほど、いつもは女にクールな態度をとる男が、寝ても覚めてもクレアのことが頭から離れないというのでは、これは我々がよく知っている、あのフィリップ・マーロウではない。マーロウがマーロウらしくないように、バーニーもバーニーらしくない。かつては同じ部署で働いていた同僚であるが、今は私立探偵と警察官という微妙な関係にある二人のいわくつきの「友情」は、ここで書かれるような、映画『リーサル・ウェポン』めいたバディムービーを思わせる類の軽妙なものではない。

いわんや、あのテリーとの思い出の場所である<ヴィクターズ>にバーニーを誘い、ギムレットで乾杯するなんてことは、マーロウなら絶対にするはずがない。まだある。麻薬の過剰摂取で危険な状態にあるクレアの弟をスキャンダルから守るためにとはいえ、あのローリング医師に電話をして呼ぶだなんて。正編で徹底的に侮蔑されているあの男が、ここではいっぱしの旧友のように登場するのを見て、果たしてチャンドラーは喜ぶだろうか。ポッター老をマスコミ界を支配する巨悪のように描くのも遺憾だ。著者は、本当に『ロング・グッドバイ』を読んだのだろうか。

言いたいことはまだあるが、一応「探偵小説」なので、これ以上正編との差異をあげつらうのはやめておくのが無難だろう。つい最近、テレビでも日本版『ロング・グッドバイ』をやっていた。それほど人気がある作品なのだ。それだけに続篇を名のるなら、正編に対するリスペクトを失ってはならないと思う。たしかに、謎を秘めた魅惑的な美女やそれなりに魅力を備えた悪役の造形はできている。マーロウを登場させるに相応しい舞台設定も巧みである。それならそれで、堂々と新作を書けばいい。チャンドラー自身、若い頃のマーロウと歳を感じ出したマーロウとを書き分けている。いっそ、若い頃の話にでもしてしまえば、すぐに女と寝ても若さゆえの愚かしさと見過ごすこともできる。なまじ、『ロング・グッドバイ』の後日談のような設定にするから差異が目立つのだ。

あえて、『長いお別れ』ではなく、『ロング・グッドバイ』と書いてきたのには理由がある。それは、訳者小鷹信光氏が訳に際し、村上版の『ロング・グッドバイ』を意識して訳されたと言われているからだ。そういえば“cheapy”の訳語として「はんちく」という、あまり馴染みのない言葉を引っ張り出してきたのは村上氏だったが、小鷹氏がそれを踏襲しているのが愉快だった。

ハムレット役者は孤独なものだ、という意味のことを言ったのはピーター・オトゥールだったと記憶するが、ハムレットと同じように、誰にも自分なりのマーロウ像がある。あえて、マーロウを主人公に据えるならそれだけの覚悟をもってやるがいい、と言いたいところだが、チャンドラーのファンでなくても読むかもしれない。もし、この手の小説が気に入ったら、是非チャンドラーの書いた『ロング・グッドバイ』を読んでほしい。そこには、まぎれもない正真正銘のフィリップ・マーロウがいるはずだから。
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by abraxasm | 2014-11-09 16:16 | 書評

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