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天窓以外に窓という物を持たぬ四部屋のなかに二万五千巻の貴重な典籍を収め、朝七時からの一時間の散歩を除けば、一日を書卓の前に孤座し、思索に耽る孤独な長身痩躯の学者こそ、ペーター・キーンその人である。一部屋に寝台替わりの寝椅子、他には肘掛け椅子の前の書卓あるのみ。絨毯を敷いただけの後の三部屋に家具はない。洗面台すら車付きにし、終われば部屋の外に出すという徹底ぶり。書物を愛し、驚異的な記憶力でそのすべてを完璧に諳んじており、書棚から孔子を呼び出し、中国語で対話に興じることも屡々。


孤独な学究生活に女は邪魔、と四十になる今日まで独身生活を貫いてきたが、家政婦の本を扱う奇特な態度に感激し、結婚を申し込んだのが転落の始まり。夫婦となるや、部屋は半分をよこせ、家具は新しく買い入れよ、と矢の催促。その挙句が、預金通帳や遺言書の要求。本以外の家具や他者の干渉に煩わしさを覚えるキーンは、目を閉じ、自分を木石と認識し、見えず、聞こえずという態度をとることで、自分が認められない環境に対処しようとするが、あえなく妻により家から放り出される。


知力は飛びぬけていても、それ以外のことについては全く何の力も経験ももたない学者が世間に投げ出されたらどういう目に遭うことになるか、お追従やらお為ごかしを真に受けては金を奪い取られ、身包み脱がされ、骨の髄まで徹底的に搾られつくす。人間というものを書物の上でしか知らず、生身の人間が何を考え、何を目的に生きているのか理解しようともせず、上から目線で見下ろすことしか知らない学者先生の無知無能を作者は完膚なきまでに侮蔑し尽くす。


行く先々で虚仮にされ、最後には官憲の手に落ち、殴られ、蹴られ、嘲られ、服を脱がされ痩せさらばえた体を曝したキーンは、自分を放り出した妻が、蔵書を質に入れた金で、玄関番の男と自分の部屋でよろしくやっていることも知らずに、自分が貯金通帳を持って出たため、家に残った妻は飢えのあまり、自分を食べつくし、骸骨になって葬られたと勝手に妄想し、偶然出会った妻を見ても、幻覚としか思えない。キーンにとって世界とは自分の頭脳の中にしかないのだ。


一方、キーンの頭脳の外にある世界では、男は女を買い、気に入らなければ容赦なく殴り殺す。女は男に色目を使い、隙あらば抱きつきたいと腰をくねらせ、亭主の留守には毎夜男をベッドに誘い込む。人の金はすべからく自分のものであり、どんな手を使ってでも奪わずにはおかない。小人でせむしのフィッシェルレは、チェスの名人戦が行われるアメリカ行きを果たすため、キーンの金を騙し取る。背中の瘤を隠す洋服を仕立て、洒落のめして我が家に帰還したところを姦夫の手で殺される。女は姦婦で淫売、男は盗人で人殺しという目を覆いたくなる生き馬の目を抜く地獄のような場所だ。


毎日、部屋にこもって本ばかり読んでいるような読者にとって、父親の遺産で暮らし、本は買いたい放題、食事や掃除は家政婦がやってきて世話を焼いてくれる生活というのは夢である。だからこそ、その夢が、崩壊してゆくのを見るのは実に辛いものがある。何はともあれ、一刻も早く、妻と別れて、もとの独り暮らしに戻れ、と願いながら読み進めるのだが、その祈りは虚しい。ミソジニスト、被虐趣味のある読書人には何を措いてもお勧めしたい書物である。


小人でせむしのフィッシェルレをはじめ、十五も年上で元家政婦の妻のテレーゼ、何かというと拳骨を振るういかつい玄関番と、キーン以外の人物は、口八丁手八丁で一癖も二癖もある人物ばかり。長台詞がつづくモノローグもものとはせず、虐げられている者の日ごろの鬱憤をここぞとばかりにしゃべりまくる。物言わぬ丸太ん棒のようなキーンのことなんかそっちのけで逸脱につぐ逸脱を繰り返し、町に繰り出した群衆で街路は溢れ、乱痴気騒ぎ。電報で呼び出された弟の登場でようやく事態は収拾し、元の状態に戻るかと思われたのだが…。


これは、ひとりの孤独な中国学者が本来拘るべきでなかった群衆と過って拘ったがために陥った悲惨な境遇を、奔騰する妄想と哄笑する世間知が織り成す悲喜劇を残酷かつ滑稽極まりない筆致で描ききった小説である。『群衆と権力』の著者で、文化哲学者という肩書きを持つエリアス・カネッティが二十六歳のときに書いた処女長篇。出版時には無視されたが、その後、ブロッホ、ムージルと並ぶ二十世紀ドイツ文学の代表作という評価を受け、ノーベル文学賞を受賞する。初版は1972年。2004年に新装版が出た。池内紀の訳は、当時としては出色の出来映え。2014年現在、読み通すに、いささかも遜色ない。



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by abraxasm | 2014-10-27 14:34 | 書評

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冒頭、話者であり主人公のセリーナは、この物語が、ほぼ四十年前の出来事であることを明かす。1970年代、彼女は若く美しく、小説を読むのが大好きな、ごくふつうの娘だった。家庭環境に恵まれ、数学ができたためケンブリッジに進む。成績は芳しくなかったが、不倫相手であった教授の口利きで諜報機関(MI5)の下級職員として働くことになる。ところが、ある日、スウィート・トゥース作戦の担当を命じられる。反共文化工作のため、有望な作家を支援するプログラムに、現代小説に詳しいセリーナが抜擢されたのだ。


担当の作家は、トム・ヘイリー。大学で文学を教えながら小説を発表している。昇進のチャンスと意気込むセリーナだったが、作品を読み、相手を知るにつけ、トムのことが好きになり、トムもそれにこたえる。関係が親密になればなるほど、素性を隠していることがつらくなり、恋愛と仕事のジレンマに悩むセリーナをよそに、トムの小説は文学賞を受賞し、一躍脚光を浴びることに。ところが、有頂天の二人を待ち受けていたのはスキャンダルだった。


美人スパイの恋愛と任務遂行の間で揺れる心理を描くスパイ小説であり、若い美女のそれほど豊かではない恋愛遍歴を語る恋愛小説であり、70年代英国の文化、政治状況を描いた歴史小説でもある。主人公が彷徨う、ロックが鳴り響き、ヒッピー風俗のサイケデリックな色彩に溢れた70年代の街頭風景の裏で、国際的には東西冷戦、国内ではアイルランド問題に頭を悩ます英国情報部。それだけでも十分に面白い小説なのだが、ヒロインの相手が売り出し中の作家であることが鍵になる。作家を素材にすることで、実名で登場する作家や編集者、批評と文学賞のあり方といった出版界の内情や、創作論に触れる自己言及的なテクストともなるからだ。


事実、セリーナが目を通す、作者の未刊、既刊の小説から採られたらしいトムの小説は、概要にとどまらず、ほぼそのままで短篇小説として読めるような形で作品内に登場する。悪戯心から牧師である双子の弟の身代わりに説教をした兄がそれに魅了された女の狂気に支配され、自分と家庭を崩壊させてしまう話や、自分で家財道具を売り払っておきながら、盗みに入られたと嘘をつく妻に、どうしたことか欲情をつのらせる夫の話などは、マゾヒズムや自己懲罰の心理がにじむ独特の味わいを持つ短篇小説として、独立した一篇として読みたいと思わせるほど完成している。


トムが編集者と交わす文学談義のなかにピンチョンが腰掛けた椅子が登場したり、作家自身が勤務した大学のキャンパスが描かれたり、と文学好きなら、それだけでもかなり楽しめるこの小説は、最後にとんでもないどんでん返しが待っている。最後まで読み進めた読者は「やられた!」と叫ぶや否も応もなく、もう一度冒頭に戻って再び読み返しはじめるにちがいない。それというのも、自ら中級の小説好きと認めている主人公は、「トリックは好きではない。わたしが好きなのは自分の知っている人生がそのままページに再現されているような作品だ」と、作中で意見を開陳しておきながら、この小説自体が、とんでもないトリックであるからだ。


レビューという限界があり、これ以上、そのトリックについて触れるのは避けたい。ただ、手法自体は特に目新しいものではない、とだけ言っておこう。中級以上の読者なら、今までに一度ならず目にしているはずである。要は、アイデアを作品として肉付けしていくその手際にある。作家マキューアンの手腕は、自分の手持ちの作品、あるいはこの小説のために新たに考えた短篇小説のモチーフを、すべて、何らかの形で、この小説を形成するモチーフと重ねあわせている、という点に尽きる。一篇の小説を書くために、「小説のための小説」を複数ひねり出すという、きわめてメタフィクション的なあり方である。


作家が小説を書くということはどういうことなのか、何もないところからフィクションを生み出す創作の秘密とは、どのようなものなのかを、懇切丁寧に、それも人を鮮やかに欺くかたちで示して見せるという、はなれわざをやってみせたマキューアンに拍手。ボードレールは『ボヴァリー夫人』を読んで、エンマのなかに、フローベールという男性が入り込んでいることを発見している。男である作家が、女になるということの難しさと、それゆえにうまく成就したときの歓びは、作家冥利というものだろう。セリーナという美女のなかに入りこみ、中年男とのセックスを含むいくつかの恋愛沙汰を経験した作家は何を得たのか、それを知るには、何よりもまず、この小説を読んでみることだ。


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by abraxasm | 2014-10-23 15:41 | 書評

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ミア・ファローが、じっとこちらを見つめている。その右頬あたりに白抜き、横書き三段組でタイトル。同じフォントの漢字の上に小さくローマ字を添えた作者名。映画かファッション関係の雑誌のような装丁だが、著名な編集者でもある著者三冊目の小説である。なぜ表紙がミア・ファローなのかは読めばわかる。処女作が軽井沢、二作目が北海道、そして今度は吉祥寺。舞台となる町や村にある種の選択眼が働いているようだ。


岡田匡は四十代後半の雑誌編集者で、金融関係の研究所に勤める妻と離婚したばかり。息子はアメリカ留学中で卒業後も海外で暮らす。マンションは妻に明け渡し、自分は井の頭公園を見下ろす古い家を改装して住むつもりだ。優雅な独り暮らしのはずだったが、偶然、かつて愛した佳奈が近くに住んでいることを知る。着々と進む改装工事と、どうなるか予測もつかない佳奈との関係。四十代の独身男がかつてふられた女性に再会し、あれこれと妄想をふくらませるという、他の作家が書けばあられもない話が、この人の手にかかると、こういう具合になるかという小説の手本みたいな一編。


主人公は離婚で落ち込む様子もなく、古くはあるが暖炉やカンチ・レバーのあるテラスつきの一軒家という恵まれた物件を破格で手に入れ、知り合いの建築家に改装を依頼し、その計画を実に愉しそうに語る。炊事、掃除も苦にならない凝り性の男が妻の干渉から逃れての独り暮らし、おまけに愛想のいい猫まで居ついている。こんな羨ましい話はない。やれ、家具は北欧がいいだの、ワックスは蜜蝋入りだの、お得意の薀蓄が顔を出す。


この人の小説には必ずといっていいほど料理の話が出てくるのだが、今回も青唐辛子を網で焼いたり、餃子を手作りしたりと、相変わらずこまめに働いている。その合間合間に、アオバズクやらシジュウカラやら、武蔵野の森をねぐらにする鳥に、カマドウマまで顔を出し、自然のなかに季節の移ろいを感じさせる仕掛け。会社や仕事の話はほとんどなく、わずかに谷崎潤一郎とオランダの画家の話が出てくるくらい。あとは、武蔵野の名残りを残した界隈に酔狂にも古い家を借り、好みの家に改装をする歓びを淡々とつづる。このままでは国木田独歩ではないか、と思った頃に蕎麦屋での出会いが用意されている。


離婚した主人公は、佳奈への思いを隠しきれない。佳奈も過去の別れ話を忘れたように食事をともにする。このままうまくいくのかと思ったところに佳奈の父が倒れ、介護が必要になる。匡の方も、せっかく改装が進んでいる最中なのに、もとの持ち主がアメリカから帰国するので、家を出なくてはならなくなる。なだらかに流れていた曲が終盤に至るや急激な転調が次々と襲い掛かってくるといった曲調で、敏腕編集者らしく、さすがにつぼを押さえた展開である。


熟年離婚(というには少し若いが)、親の介護、子どもの結婚問題と、今の世相をたくみにとりいれたリアルな設定に、この著者ならではの都会的なセンスに溢れたインテリアや絵画、暖炉や薪ストーブといった自然志向のアイテムを配した、サービス満点の小説である。個人的には、人間なら八十歳になる、ふみという名の雌猫がいちばんのお気に入り、パンを捏ねるような前あしの仕種を、メイク・ブレッドというのだとはじめて知ったのは収穫だった。ひとり寝のベッドにそっと入ってくるところや、匂いつけをするところ、そして姿を消す場面。去年逝った我が家の猫を何度も思い出し、鼻の奥がつんとなった。罪な小説である。


自分なりの決まりごとがあり、それを通すことが心地よい男が、別のシステムに従って動く他者である女と、どう生きてゆくか。愛し合ってさえいれば、自我は抑えられるものなのか、それはずっと長きにわたって可能なのか、一度結婚に失敗した男と、愛してはいたが、妻のある男との展望のない生活を続けることのできなかった女が、再び出会うことで、新しく何かがはじまるのか。互いの思いやりや気遣いが透けて見えるおだやかな日常をおびやかす身辺の瑣事。どんなに起伏のない日常を送る読者にも感情移入をゆるす、いかにも静かな身辺小説は、松家仁之の独壇場である。四十代後半にしてはその行動や心理がいかにも若く思えるのは、こちらが歳をとっているせいなのだろう。この作家が好きなファンには前作よりも受け容れられるのではないだろうか。



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by abraxasm | 2014-10-20 17:36 | 書評
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あまりに有名で、作品を読んだことはなくとも、その標題くらいは聞いたことがあるだろう、ギュスターヴ・フローベール作『ボヴァリー夫人』について書かれた、著者によれば「批評的なエッセイ」である。それゆえなのか「蛞蝓が這い回った後に生じる燐光を帯びた航跡のよう」だと評される独特の文体は、すっかりとは云わぬまでも、かなり影をひそめ、読みやすく分かりやすいのに拍子抜けした。

『ボヴァリー夫人』とは何か、と聞かれた多少なりとも文学に詳しい人が口にするのは、ルーアン近郊の田舎に住む免許医の妻であるエンマ・ボヴァリーが他の男と関係を重ねたあげく、男に捨てられて自殺する話、というあたりだろうか。一般的にはそれでまちがっていない、と誰でも考えたいところだが、そこは蓮実重彦。そう簡単に話をはじめてはくれない。まずは、「ボヴァリー夫人」とは、誰のことかという決まりきった設問に疑義をはさむ。たしかに、作品に登場するボヴァリー夫人と呼ばれる女性は三人いる。まずは、夫シャルルの母、次に先妻のエロイーズ、最後がエンマである。

三人のボヴァリー夫人がいるのに、標題を読んだ誰もが、エンマのことにちがいない、と思い込むのは、それまでに語られてきた多くの言説に影響されているからだ。蓮実は、たびたび「テクスト的現実」という言葉をつかう。『ボヴァリー夫人』に関してこれまで語られてきた、無責任で信用できない言説から自由になり、目の前にあるテクストを読むというところから話に入ってゆく。実は、先に使用した、そして多くの作家・批評家が無批判に用いてきた「エンマ・ボヴァリー」という呼び名は、作品内で一度も使われてはいない、というのが蓮実の議論の端緒である。たしかに、ボヴァリー氏の妻でエンマという名の女性はエンマ・ボヴァリーだろうけれど、作家が使用していない固有名を持ち出すのは、「テクスト的現実」を無視している、と筆者は言う。

語られることもあれば、語られぬこともある。姓名を詳しく記述される傍系の人物も作品中に登場するのに、何故「ヒロイン」は、一度もエンマ・ボヴァリーと呼ばれていないのか。そこには作者の意図があるにちがいない、と考えるのが、テクストに基づいて批評する者のとるべき態度なのだ。一事が万事、このスタイルで貫かれている。先行する批評、論文をあまねく渉猟し、その至らぬ点については批判を、すぐれた論考については同意を唱えながら、読者に『ボヴァリー夫人』に纏わる言説のもたらす批評の開けた地平を開陳しつつ、ゆるゆると持論を展開してゆく。

その映画批評で、大柄な西部劇俳優で政治的にはタカ派として知られるジョン・ウェインを、柱にもたれたり、ライフルでなければコーヒー・カップ、それもなければ包帯で片腕を釣ったり、若い女性を腕に抱いたり、と常に何かに触れていないと大地に佇立できない「接触の魔」と喝破して見せた手際に、手もなくひねられたのを覚えているが、『ボヴァリー夫人』も、その流儀である。テマティスムというのだろうか。ストーリーとは無縁に、たとえば、「手」、「足」、「塵埃」、「毛髪」といった事物が何度も作品中に登場する場面を吟味し、それが登場する場面の前後で、エンマやシャルルのとる行動にどのような変化が見られるか、を微細に読み込んでゆく。相変わらずの鮮やかな手並みだが、初めて見せられたときのようには驚かない。ふむふむ、なるほど、といった感じ。

それよりも、従来の小説を読みすぎて、現実世界をそれととりちがえた夢見がちな女性としてとらえられてきたエンマ像や、妻の心理や行動の変化に気づくことができない鈍重で無神経な夫と見られてきたシャルル像の読み替えに蒙を啓かれた。いかに、われわれ読者は「テクストをめぐるテクスト」に影響を受けてテクストに対しているか、そのために読むべき文章を読み飛ばし、勝手な人物像を創りあげてしまっているか。筆者があたらしく取り出してみせるシャルルのなんと、生き生きした人物であることか。
この小説を「エンマ・ボヴァリーは自殺した」と要約してみせた批評家がいたそうだが、思い出してみよう。小説は転校生のシャルルが「僕ら」の前に登場する場面から始まっているし、エンマの死後も小説は続いている。最後は薬剤師オメーの受勲の知らせで終わっているのだ。出版当初は「地方風俗」という副題が付されていたこの小説をよく読めば、エンマは「自殺」などしていないことがよく分かる。なんと、自殺を認めるはずのないカトリックの司祭にみとられて最期を遂げているではないか。

あまりにも有名な『ボヴァリー夫人』を読むという作業に待ち受ける陥穽にはまることなく、手垢のついたボヴァリー夫人像にも染まらず、ほこりを払って目も覚めるようなエンマやシャルルに出会える、フローベールが書いた「テクスト」としての『ボヴァリー夫人』を読むための待望の手引書である。



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by abraxasm | 2014-10-20 11:45 | 書評

ふつう小説を読むとき、読者はその小説を書いた作者や、語り手(話者)のことを意識せず、作品世界のなかに入ってゆく。まれに19世紀の小説などで、作者が語り手の口跡を借りて直接読者に語りかけることもあるが、それとて、すぐに背後に退き、小説世界はそれまでと同じ次元にとどまってゆるがない。作者や語り手は信用できる存在であるから、読者はその言葉を信じ、疑う必要などないという、暗黙の契約がそこにある。


『夜のみだらな鳥』は、はじめのうち、リアリズム小説らしい会話や叙事、説明が繰り返されるので、不覚なことに、読者はいつもの小説を読むような気持ちで読みはじめてしまう。どうやら語り手は《ムディート》(小さな唖の意味)という名の寺男らしい。修道院に雇われている聾唖者ということだが、喋ることができずとも、小説の語り手はつとまるが、聞くことのできない話者というのは無理がある。冒頭の会話は誰の耳が聞いたのか、という疑問が生じるからだ。つまり、少なくとも聞くことはできるはずで、聾唖者というのは嘘だということがはじめから明かされている。これは、所謂「信頼できない語り手」が、かたる(騙る)物語なのだ、と作家は警告を発しているのだ。


《ムディート》が修道院に暮らす老婆たちから聞く物語がある。昔、九人の息子と一人の末娘を持つ裕福な地主がいた。ある日、兄弟は噂を聞く。妹の召使が魔女であり、二人は夜な夜な怪異な動きを見せると。兄弟は召使を捕らえ、木に結わえ付けて川に流す。これで、末娘がインブンチェにならずにすんだと人々は胸をなでおろす。インブンチェとはアラウコ族の俗信で赤子をさらい洞窟で怪物に変える妖怪のこと。村人は今でも魔女が娘をさらい、体の九つの穴を糸で縫いつけ、髪も爪も伸び放題にし、白痴状態にして慰み者にすることを恐れているのだ。


このインブンチェのイメージが小説全体に流れているライト・モチーフだ。外部に開いた窓を閉じて、自分の内部だけしか知らないで育つ子ども。肥大する自己イメージと外部の現実との落差を知らず、そのいずれが真実なのかさえ知りえない、目隠しされたまま幾重にも取り囲む迷宮の中で大人になる怪物めいた「子ども」の姿。それは、語り手のもうひとつの姿であるウンベルト・ペニャローサその人の姿でもある。しがない小学校教師の息子でありながら、父からは「ひとかどの者」になるよう期待され、法学を志すも、実態はカフェにたむろする毎日。作家を自称するが、イメージは膨らみ、ほとんど頭の中で出来上がっているという作品は、ただの一枚も書かれてはいない。


ウンベルトはその後、名門アスコイティア家の当主ドン・ヘロニモに見出され、リンコナーダの屋敷内に部屋を与えられ、秘書として働くかたわら原稿を書くことを認められる。『夜のみだらな鳥』は、そのウンベルトが書きつつある小説である。作中ウンベルトは、ヘロニモの妻イネスに懸想し、その召使の魔女ペータ・ポンセの計らいでイネスと交わる。その結果イネスは畸形の嫡子《ボーイ》を出産する。家名を穢すことを恐れたヘロニモは、《ボーイ》をリンコナーダの中庭に閉じこめ、その周りに畸形や不具の者ばかりを集め、外の世界を見せずに育てる。ウンベルトはヘロニモの命で屋敷を監督する。報酬を聞きつけた畸形者が殺到し、その程度に応じて住まいを与えられ、リンコナーダはボッシュ描く『悦楽の園』と化す。


ヘロニモの親族で、これも畸形のエンペラトリスはリンコナーダにあってウンベルトのよき協力者だったが、ウンベルトが吐血し人事不省に陥ると天才外科医でやはり畸形のアスーラ博士と謀り、屋敷を私する。博士の手術で体の八十パーセントを失ったウンベルトは、屋敷を出てアスコイティア一族の用済みの使用人の収容所と化したエンカルナシオン修道院で寺男《ムディート》として働くことに。修道院には六人の魔女と呼ばれる老婆が、孤児の一人の妊娠を契機に、処女懐胎の秘蹟を真似、包帯でぐるぐる巻きにした《ムディート》を赤ん坊のように抱っこしたり、下の世話をしたりする遊戯に耽っている。埋められた窓、釘で板戸を打ち付けられた修道院や《ムディート》の姿を見れば、これもまたインブンチェのモチーフだと分かる。


書けない作家のオブセッションをライト・モチーフに、少しずつずれを含んだ繰り返しを反復させる、それ自体が迷宮のような小説である。修道院で老婆の語る物語が、そのままイネスとその召使の二人に重なり、リンコナーダに閉じこめられる畸形の子と、包帯ぐるみの《ムディート》がインブンチェと重なり、アイデンティティというものの不確かさが、どこまでもつのってゆく。書かれない小説は、頭の中で何度も別稿や異文を生み、話は歪み、増殖を繰り返す。外部と内部、現実と想像、自己と他者の境界が崩れ、相互に流入する。何が真実で、どこまでが嘘か知る術はない。


早い話が、ローマから帰ったイネスはヘロニモの待つ家に帰らず、修道院で清貧の暮らしを始めるが、イネスの子どもの話は一切出ない。それどころか、スイスで手術を受けたイネスは人柄まで変わってしまっている。人間の自己とは、その外部によるのか、内部によるのか。臓器移植や整形外科が当たり前のように行われている現代を見越したかのように、イネスとペータ・ポンセの表皮を除く内部の入れ替えが生じさせる人格、容貌を含む人間そのものの変化が投げかける問いは重い。


さらに、ローマによって列聖される聖者や福者は、時代を少し遡れば、その昔魔女と恐れられた女に行き着くこともある。名門といわれる家系を遡った果てに魔女と福者が現われるという家系、出自の信仰を疑う、階級に寄せるアイロニカルな視線。ホセ・ドノソは、自分とは何か、この根源的な命題を愚直にも問い続けて倦むことを知らない。混濁しきった小説世界は最後に静謐な抽象性をまといつつ、その幕を閉じる。すぐれた幻想小説のみが持つ余韻の残る結末には舌を巻いた。



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by abraxasm | 2014-10-13 15:42 | 書評
e0110713_16352140.jpg何故今まで邦訳がなかったのだろう、と読み終えて思ったほどの重厚な長篇小説。いかにも英国小説らしい、田舎に住む一族の一世紀にわたる年代記である。とはいえ、読み始めたばかりの頃は、これがあのチャトウィンか、と首を傾げたくらいの地味な作風。『パタゴニア』にはじまり、一作ごとにテーマも文体も変化させ、ジャンルすら横断してしまう華麗なスタイリストぶりは影を潜め、イングランドとウェールズの境界地方にじっくりと腰を据えた土臭い仕上がり。英国では賞もとり、ウェールズではカルト的人気を誇るといっても、気候風土も人々の風習も異なる日本で、広く読者を得られるかどうか、出版社が二の足を踏んだとしてもおかしくない。察するところ、初訳まで25年もかかったのはその所為にちがいない。

主人公は双子の兄弟。一卵性双生児にはよくあることらしいが、兄弟の一方に何か異変が起きれば、もう一方はどこにいてもそれを察知する。逆に離れては生きられない、二人で一人という濃密な関係にある。小説は年老いた二人の人物概況からはじまる。母の死以来、両親愛用の四隅に柱のついた寝台に並んで眠ることをはじめ、昔は見分けがつかないほど似ていた二人が歳経て、相貌に差が生じたこと。農場の仕事は兄のルイス、家事一切は弟のベンジャミンが担当すること。両親から受け継いで順調に経営してきた農場は遠からず、甥のケヴィンが相続すること、等々。

全篇は50に及ぶ短い章で区切られ、一章に一つの挿話が語られる。一族の年代記は第二章、双子の父が妻をもらうところからはじまる。ウェールズから一歩も出たことのない農民の子のエイモスが、インドやパレスチナを訪ね歩いた牧師の娘を妻にし、教養もちがえば育ちも異なる二人が、夫婦になることで起きるだろう齟齬を予感させる。事実、ことあるごとに対立しながら、それでいて別れられない二人の間で、双子は育てられる。どちらかといえば外向的で活発な兄は女好き。弟は頭がいい分、引っ込み思案。母は、病気がちな弟に文学を教え、兄は父の手伝いを任される。

荒地を鋤き、牧草を育て、羊を買う農場の暮らしと聞けば一見平和そうに思えるが、境界を接する隣家との諍いはいったんこじれだすと血を見るところまでいく。年頃の男女が親の目を盗むに絶好な窪地も多く、妊娠がからむ人間関係のもつれも多い。しかも、時代は両大戦期を間にはさむ二十世紀。非国教会派の信者である父は聖書の戒律「汝殺すなかれ」を盾に双子の徴兵免除を策すが、二人ともとはいかず弟は徴兵される。軍に批判的な弟は徹底的に傷め付けられ、心身に傷を負う。

隣家に忍び込み鶏を盗んだり、垣根を越えて馬が牧草を食べに入り込んだり、他家の娘を孕ませて逃げたり、田舎ならではのもめごとが、法律で解決されることのないまま、もつれにもつれて、人間関係を複雑化させる。教育環境が整備されておらず、無知で因習的な人々は、知恵の遅れた子や働く意欲のない若者を放置したまま助けようともしないので、不衛生な環境で育てられる子はよくて病み衰え、悪くすれば死んでしまう。母によって学校へ行けた双子に比べ、周囲の子どもたちの置かれた境遇は苛酷である。二人はそんな中で大きくなってゆく。

ほぼ百年にわたる年代記の後半は両親の死後、双子が巻き込まれることになる様々な人間関係につきる。相変わらず女性との出会いを求める兄と、それが引き起こすことになる厄介事に眉をひそめる弟の前に、共進会やページェントの催しを通じて、次々に現われる新しい女性や昔なじみの女たち。やがて、ヒッピーのコミューンがウェールズくんだりにまで波及したり、黒人兵が屯したり、とようやく覚えのある時代が近づいてくる。地道ではあるが着実な経営で近くの土地を買い集め、広げてきた農場は、後継ぎのいない二人の後はどうなるのか。

時代は変わる。母の死んだ後、部屋の飾りつけも家具もそのままであった双子の家<面影>(ザ・ヴィジョン)は、飛行機好きの叔父の八十歳の誕生日プレゼントにと、ケヴィンが企画した記念飛行を潮に、少し変化を遂げる。空から見た黒ヶ丘の空撮写真が壁の一画に掲げられたからだ。やがて、弟が購入を渋っていたトラクターが予言のように事を起こし、事態は思いもかけない結末を迎える。ほろほろと剥落してゆくような<面影>(ザ・ヴィジョン)のうつろいが心にしみる。

階段の真下がウェールズとイングランドの境界に当たる<面影>(ザ・ヴィジョン)と呼ばれる家を舞台に、紀行物語の名手とされるブルース・チャトウィンが、イギリスの地方から一歩も出たことのない農場主の一生を、飾ることなく、酷薄なまでに精緻に描いた三作目にして唯一の長篇小説。鳥と言葉を交わす娘が歌うケルトの血を引く哀歓溢れる歌声が、テント暮らしをするタオイストの青年の朗読する聖書の一説が、人々の間に積み重なった汚れや憎しみを洗い去り、浄化をもたらす。地方の人々や風物、自然、鳥や獣を見つめるチャトウィンならではの視線が、どこまでも静謐に掬い取ったウェールズの叙事詩ともいえる。

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by abraxasm | 2014-10-07 16:35 | 書評

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九篇の短篇を収める短篇集である。その味わいを一口にいうなら「不条理」だろうか。特にその感が強いのは、国境に造られた壁を上り、その上からの眺望を楽しみに登りはじめた男が、様々な障害にあい、なかなか上層階にたどり着けない状況を描いた「国境」にとどめをさす。はじめは、観光気分で国境の壁にやってきた男が、許可に手間取ったり、壁の中途に設けられた宿舎に宿泊したり、ついには、その旅程の遠大さから登頂をあきらめる人と出会ったりしながら、上るべきかやめて途中で出会った女と結婚するべきか真剣に悩む様子が、状況と不釣合いなほど真摯に書かれるので、不条理感が募る。


寓話のような語り口ながら、これといった寓意があるのでもない。ただただ辻褄の合わない状況に放り出された人物の、漠然とした悪意に翻弄されているような境遇を追体験させられる、どこかカフカを読むときに似た読書体験である。特殊な状況を極限まで誇張することから起こる滑稽さと神話のようなスケール感。はじめは、ただの国境を隔てる壁でしかなかったものが、話が進むにつれ、次第に聳え立ち、覆いかぶさるような威圧感と果てしもない質量を保有する時空と化し、男の意志の成就を何が何でも拒絶する外界の意志の具現化したもののように思えてくる、その言語詐術はなかなかのもの。同じような不条理感を漂わせながら、より物語的な意匠を採用したものが「六時十八分の風」ほか数篇。


表題作「わたしは灯台守」は四部構成。短篇と呼ぶには少し長めの中篇小説。他の作品の人物に比べれば人物像がくっきり描かれている。自ら望んで海の上に建つ灯台守となった男の孤独な日常と、刻々と移るその心理の推移を追ったものだ。本人の告白からすると、現状に対し批判的な意見を表明したために、現在の状況に追いやられたある種のイデオローグのようだが、別の日の真情の吐露を信じるなら、女性に相手にされない自分を認めたくないがための逃避のようでもある。


孤独にもいろいろある。人との関係を欲しながら満たされぬ思いで陥る孤独もあれば、自ら望んでその境遇に生きる場合もある。前者の境遇にある人物を描いた作品は数多くある。多くの人が孤独であることに不遇を感じるからだろう。しかし、中には孤独を望む人もいて、その境遇に生きる自分を観照する隠者のような人もいる。後者の場合、本人の書いたものが世に残ることになる。さらに、自らは望まないのに、孤独を強いられる者もいる。獄舎に閉じ込められる囚人がそうだ。


暗礁も通る船舶もない海域に設けられた灯台には存在理由がない。しかし、彼の前にも灯台守は何人もいて、書き継がれた「日誌」で灯台の内部は埋まろうとしているほどだ。ただ、それは百五十年の間は読まれることのない決まりになっており、彼に読むことはできない。外界からの連絡は、ヘリコプターに限られていたが、ある日電話が設置される。間違い電話以外にかける相手もかけてくる相手もいない電話が醸し出す強烈なイロニー。切実に他者との関係を求めながら、そういう自分を認めず、他者を拒否するポーズを貫く主人公は、ヘリコプターが届ける昇進の連絡やそれが誤報であったことを告げる連絡によって一喜一憂し、徹底的に翻弄される。


「国境」のように、ひたすら不条理に感じられる作品とは少し異なり、表題作には苦い自己認識が認められる。現状に対する不満を抱きながら、それに対峙し、状況を改革するというアクションはとらず、否定の身振りを振りまきながら、自分の認めない状況から距離を置く批判者というスタンスを取り続ける「わたし」というものに対してである。自らを「象牙の塔の番人」と呼ぶ「わたし」は誰も読むことのない「航海日誌」を書き続ける。


エピグラフに、作家の言葉が掲げられている。「わたし」のような男を「象牙の塔の間借人」と呼ぶ作家は、こう書いている。「間借人たちは彼らの塔を愛している。唯一彼らが恐れていること。それは、いつの日か賃貸契約が解除されてしまうこと。再び路頭に迷い、もう二度と閉じこもって抵抗することができなくなること。あのくだらないものに、彼らに攻撃をしかけ感情をかきみだしにやってくる、あのどうしようもなくくだらないものに、万難を排して抵抗することができなくなること」。


「どうしようもなくくだらないもの」とは何の謂いだろう。象牙の塔を出て、日常の瑣事に携わることから生じる諸々の関係性がもたらす「非本来性」をいうのだろうか。この作家の本来性に対する切迫感が強く感じられるエピグラフだが、表題作はまさにそれを主題としている。ただ、「国境」には、作家の別の資質がのぞいているようにも思える。個人的な主題にばかり固執するのではなく、近ごろ稀な「不条理」を感じさせてくれる物語世界を創造できる作家としての活躍も期待したいものである。


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by abraxasm | 2014-10-05 14:11 | 書評
題名通りモンスターたちをモチーフにした短篇ばかりのアンソロジー。出版社も作家の名前も有名とはいえない。編集者が「モンスター」という共通項を頼りに探し当てた既存の作品や、これと見込んだ作家に依頼して新たに寄稿してもらった作品を集めたものである。ネームヴァリューや宣伝の差で、批評家の眼に留まることもなかったのか、本国でも評判にならなかった現代アメリカ作家の競作が日本語で読めるのは、翻訳者の目に留まったからだとか。作家たちにとって、日本の読者にとって幸運なことであった。拾い物である。

作者の創作による馴染みのない怪物もいるが、大方の素材となっているのは、フランケンシュタインの怪物や吸血鬼、ミイラ男といった面々。家庭が舞台の作品が多いからか、小説ではなく映画やテレビ・シリーズ物に登場するキャラクターたちが中心だ。自分がモンスターだと思い込んでいる少年や、自分の子がモンスターだとしか思えない母親、またモンスターを演じる俳優といった人たち。短篇ということもあり、真っ向勝負というよりは変化球主体の構成。ウィットともユーモアというのともちがう、サタイア或はアイロニーの色あいが強いのも特徴である。

実際のところ、フランケンシュタイン一つを例にとって見ても、モンスター物には、何故か悲哀が漂う。よくよく考えてみるまでもなく、そこにあるのは少数者ゆえの悲劇というものだろう。その生まれゆえの絶対的な孤独感、それに加えて、外貌の醜悪さや奇怪さ。心許せる仲間とてなく、圧倒的多数者の前に放り出され、自分の心情は考慮されることなく、はじめから異端者として迫害される運命。だからこそ、モンスターに心寄せるものは、彼らにシンパシーを抱くのだ。編集者の意図もその辺にあるのだろう、モンスター物であるのに、ホラー臭はさほど感じない。

むしろ、モンスターを世に入れられることのない単独者の隠喩であると見るのが正しいのかもしれない。着ぐるみやメイクアップ、仮装が重要なモチーフになっているように、仮面をかぶることでしか、ふつうの人々の間にいることができない、他に理解されない哀しさ辛さを噛みしめる孤独な人たち。彼らの内心をモンスターに託して描いてみせる作品が多いのは、むしろ不思議でもなんでもないのかもしれない。それだけ、家族や友人たちの無理解に苦しむ人が多いということなのだ。だからこそ、生きていることを実感したときの歓喜は素晴らしい感動を呼ぶ。

巻頭のジョン・マクナリー作「クリーチャー・フィーチャー」は、除け者意識を抱き、自分をモンスターに重ね合わせる少年の、母の妊娠に由来する焦慮や不安定な心理を描いた佳篇。母の出産の知らせを聞き、雨に打たれながら「生きているんだ!」と歓喜の叫びをあげる少年とフランケンシュタイン博士を二重写しにした構成が見事。オースティン・バンの「瓶詰め仔猫」は、交通事故で顔に火傷を負い、モンスターの顔になった少年のハロウィンの夜を舞台とする復讐劇。事故の原因を作った相手の少年は死んでいた。未来に希望のもてない少年は事故死した少年の妹を復讐相手に選び、クスリで眠らせ自分の思いを遂げようとする。眠り込む前の少女の告白が少年に過去を許させ、未来を拓く。

上質の白い紙に色刷りの挿絵入りで横書き印刷された雑誌に載りそうな、しゃれた短篇が多い中、しっかりした文学的な読み応えを感じさせてくれる長めの作品もある。俳優になるために家を出たジーンは、仕事にあぶれての帰り道、北カリフォルニアでビッグフット役のアルバイトをすることになる。着ぐるみをきて、客を脅かす仕事が終わるとバンガローに帰る日々。引っ越した日に隣に住むジミーと仲良くなる。青年は肺を病んでいた。モンスターとの関連は着ぐるみだけだが、周囲との交わりを絶たれ、森に隠れ住む孤独な姿はビッグフットを偲ばせる。家族から離れて暮らす二人の心の底にしみいるような孤独が胸に迫るローラ・ヴァンデンバーグ作「わたしたちがいるべき場所」。
ロックが好きな「モスマン」(蚊人間)を主人公にしたジェレミー・テンダーのロック好きなら涙なくして読めないマンガをいれて十六篇。ファンタジーはもとより、ショ-ト・ショートあり、純然たるホラーあり、とどれも面白い。ジョニー・デップ主演の『エド・ウッド』でベラ・ルゴシを演じるマーティン・ランドーの演技に涙した人には絶対にお勧めの掘り出し物。あと少ししたら、この中の何人かの単行本が読める日が来るにちがいない。編集の妙味を見せるアンソロジーの佳作である。

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by abraxasm | 2014-10-03 12:41 | 書評

覚え書き


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