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岩波文庫版『回想のブライヅヘッド』には、作者が後に書いた序文がついている。それが、ちょっとおもしろい。

ウォーが、この作品を書いたのは、戦争当時負傷したか何かで、軍隊を離れていた間らしい。なにしろ戦争中のことで、食べるものや着る物に不自由する状況であった。そのせいか、この小説には、食べ物や飲み物、衣服や車についての記述がやたら頻出する。一例を挙げれば、苺といっしょに飲む白葡萄酒(シャトー・ペラゲー)がそうだ。(映画「プリティー・ウーマン」のなかでは、シャンパンといっしょに苺を食べていたが、どちらが美味しいのだろう)。

それだけではない。文章も作者自身が装飾的な文体になりすぎたことを認めて、できれば書き直したいくらいだと書いているのだが、これも当時日常的に使われる英語自体が貧しいものであったことの反動らしい。

ブライヅヘッドのような建築もまた、フーパーのような若者の時代になれば取り壊されてなくなってしまうだろうという思いがあってとりあげたのだが、英国人の気質は、そう簡単に変わることもなく、カントリー・ハウスもその後注目を集めるようになった。

書いた当時と状況が変わったこともあり、できれば改変したい部分も多々あるようだけれど、そういう部分を愛している読者もいて、書き直すこともできないでいる、という意味のことを書いている。実作者の思いというのがよくわかって興味深い。

たしかに、これでもかというくらい出てくる料理やワインについての蘊蓄は、この小説を必要以上にカタログ小説化していると思っていたが、戦時中の乏しい物資に対する反動であったか。日本も戦争中、英国に負けないほどの食糧難であったが、残念なことに本邦には『ブライヅヘッドふたたび』のように、豊かで華麗な生活を追憶した作品は生まれなかったようだ。

無能な指揮官や、やる気の見えない兵隊ばっかりの軍隊生活に、すっかり愛想を尽かせた語り手のチャールスが、作家自身に擬せられることはあらかじめ分かっていただろうに、軍隊に与えてもらった休暇を利用して、のうのうとこんな作品を書き上げてしまうあたりが、ウォーという作家なのだろう。現実を一歩下がったところから冷静に見つめる視線に、英国人気質を見たような気がする。イギリス人というのは、つくづく食えない国民である。
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by abraxasm | 2009-12-29 19:17 | 書評
訳者は吉田健一。その独特のくせのある文章は定評のあるところ。一部には悪文家という評もあるようだが、どうしてどうして、その日本語は彼でなくては書けない種類の名文である。オックスフォード留学の経験もあり、彼を置いてこの訳の適任者はいない。読み難いという向きもあるようだが、一度そのリズムに乗れば、一気に読み通してしまう。むしろ格調ある典雅な日本語といってよい。それでいて、英国流のほろ苦いヒューモアをにじませた味わい深い翻訳となっている。

ほとんど恋愛といってよい同性間の友情を描くにあたって、原作自身が、感傷的過ぎると評されるほど、抒情過多な叙述を用いている。吉田の訳文は、それを情緒あふれる日本語に置き換えることに成功している。外国文学といっても、われわれが読むのは日本語である。日本語としてある程度の水準が保てなければ、原文の芳香は失われてしまう。主人公の部屋に香る「あらせいとう」やブライヅヘッドに咲く「しもつけの花」という語には木下杢太郎以来、脈々と西欧由来の文化を日本の土壌に移植してきた繊細な手触りが感じられる。

その一方で、英国流儀の生活スタイルに慣れた吉田でなければ、書ききれなかったであろう風俗的な叙述がある。葡萄酒の味ひとつとっても、その味を知って書くのと、知らないのでは文章の訴求力がちがう。文中白眉といってよい、主人公とその父親とのやりとりも、英国階級社会をそのまま日本の華族あたりに置き換えたような自在な訳しぶりが、他の訳では味わえないような独特の雰囲気を漂わせている。けだし名訳と評すべきであろう。
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by abraxasm | 2009-12-14 22:51 | 書評
回想形式で、現在から過去にさかのぼり、そして、また現在時で終わるという展開の仕方はプルーストの『失われた時を求めて』の影響を感じさせる。ブライヅヘッドというのは、グラスゴーにほど近い田園に建てられたマーチメイン侯爵の館のことで、戦時の宿営地として割り当てられたのが、かつて青春時代何度も訪れたその館だった。湖畔に佇む壮麗な館を見ているうちに、主人公ははじめてそこを訪れた日のことを思いだしていく。紅茶に浸したマドレーヌがコンブレーを想い出させるのとよく似たはじまりではないか。

そこに描かれるのが、貴族階級の生活であることも、プルーストを思い出させる。イスパノ・スイザやロールス・ロイスといった名車。年代物のワイン。晩餐には燕尾服を着用し、学生であってもトゥイードのジャケットにフランネルのトラウザーズという格好でいてはならないという格式張った暮らしぶり。当然、描かれる舞台となるのも、パリ、ヴェネチア、ラヴェンナはおろか、果てはモロッコのフェズまで。

語り手である主人公が画家であることも『失われた時を求めて』を思い出させる。ラスキンやラファエル前派のホルマン・ハントが引用されたり、ラリックのグラスが登場したり、果てはプルーストやジッドの友人であると自称するアントニーなる人物まで登場する。そのアントニーの魅力はあるが悪評高い人物造型も『失われた時を求めて』のシャルリュス男爵を思い浮かべてしまう。ただ、落魄するのは彼ではなく、主人公の親友であるセバスチャンだが。

誰からも愛されるが、本人自身は魅力以外に何かを持っているわけではないというセバスチャンは、いわば子どものまま大きくなった人物。家族も友人も翻弄されながらも、それを許してしまう。しかし、本人はいつも誰かに世話を焼かれていなければ生きていけない自分に負い目を感じ、酒に溺れてゆく。失踪したセバスチャンを捜しにモロッコまで出かけた主人公だったが、友人を救うことはできず、ブライヅヘッドを去ってゆくのだった。(続)
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by abraxasm | 2009-12-13 23:41 | 書評

ブライヅヘッドふたたび

イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』は、発表当時さまざまな反響を呼んだという。なにしろ、それまでは、喜劇的作風で知られ、好んで風刺的な作品を発表してきた作家が、一転してカトリックの護教的な作品ともとれる一作をものしたわけだから、カトリック派には好評でも、ヘンリー8世がアン・ブーリンとの結婚のために、カトリックに決別し、イギリス国教会を開いた国柄からは、おおよそ好意的な反響は望むべくもなかった。それまでのウォーの作品に好意的であったエドマンド・ウィルソンでさえ、辛辣な批評をしているほどである。

一般的な日本人のように宗教とは無縁の国民には、キリスト教の教義はもちろんのこと、カトリックとプロテスタントの確執は、まずは分からない。それでも、カトリックが離婚を認めないことくらいは知っているかもしれない。アダムとイブ以来、結婚する男女は神が定めたものだという建前だから、勝手にくっついたり別れられては都合が悪い。しかし、男女の恋愛というのは、相手が既婚者であるかどうかをあまり問題にしない。そこで恋愛と宗教が問題になってくるわけだ。

イギリスのように、一般的には国教会に所属するのが大半である国では、カトリックは少数者となる。ところで、イギリスというのは階級社会でもある。貴族の中には、カトリックを信仰する者もいて、その子弟はオックスフォードやケンブリッジに入学する。この作品の中に登場する主人公とその友人、恋人たちは主に上流階級に属するが、その宗派は異なっている。しかも、親子であっても宗教に関する限り信仰心にちがいがあって、物語を進めるうえで、それが大きな役割を果たすことになる。

主人公のチャールスは、幼いときに母をなくし、世捨て人同然の父に育てられ、オックスフォードに入学する。そこで知り合ったのが、セバスチャン。侯爵の次男で、美しい容貌と奇矯な行動で知られる名物男であった。家庭の味を知らないチャールスにとって、セバスチャンの家族は、興味の対象となるが、セバスチャンはなぜか隠したがる。家族は誰も魅力的で、彼が知ればその虜となって自分は見向きされなくなってしまうからだというのだが。

前半は、セバスチャンとチャールズの同性愛とも見まがうほどの蜜月的なエピソードが描かれる。「かつて我アルカディアにもあり」というルネッサンスの名画の題が附されるほどの享楽的な日常が、ウォーの持ち味でもある風刺的な諧謔味を帯びた筆致で描出される。特に秀逸と思えるのは、主人公とその父親の会話である。主人公がオックスフォードで暮らすための金を得るために父と子が駆け引きする、この親子の距離感は絶妙で、この作品の白眉をなすといっても言い過ぎでない。

それに比べれば、もう一つの山場である嵐の大西洋の船中の密会もかすんで見えるほどだ。とはいえ、運命的な再開を果たしたチャールスとジュリアの一線を超えた逢引きは、船中の客がほとんど船酔いに苦しむ中で、二人だけで逢瀬を楽しむという、空前絶後のシチュエーション。このロマンティックな再会のシーンは他のどんな密会のシーンをも超えるのではないだろうか。映画化が企画されたらしいが残念ながら没となってしまったらしい。このシーンに限らず全編に渡って映画向きと思われる作品なのだが。<続>
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by abraxasm | 2009-12-13 00:00 | 書評

永源寺温泉

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紅葉で有名な永源寺。五年ほど前に訪れて、その美しさが忘れられず、今年もと思ってきたのだが、残念ながらさすがに十二月では、とお寺の人に言われてしまいました。でも、そこは古刹。寂れた冬日のなかで、いかにも禅寺らしい風格を見せていたのが好ましかった。門前の茶店の味噌田楽もことのほか美味で、まずは満足。

実は、去年すぐ近くに温泉が出たことをネットで知った。その名も永源寺温泉「八風の湯」。なんでも、永源寺のすぐ近くだという。これは行ってみなくては、というので今回の日帰り温泉はここに決めた。新名神、名神と乗り継いで八日市で下り、あとは421号線をひた走ること、二十分ほど。

先に食事でもと、勇んで入ったのだが、フロントで入館料を払わないと食事もできない仕組みになっている。食事だけして、温泉は後ということにはできないらしい。そうするともう一度入館料がいるというのでは致し方ない、先に永源寺への参拝をすませ、その後に来ることにした。

国内屈指という葦拭き屋根の方丈に上がって、眼下に広がる近江の野の景色を堪能し、温泉に戻った。まずは腹ごしらえ。愛知川の河原を見下ろす食堂に入った。妻はヘルシー御膳。当方は田舎御膳。妻の方は、限定二十食というのに、ちゃんとあって、当方が注文した田舎御膳は売り切れという。どちらも岩魚がついているのだが、妻の方は、塩焼き、こちらは刺身と煮つけである。刺身が人気なのだろうか。仕方がないので、蕎麦のつく、もみじ御膳にした。

料理が来た。もみじ御膳には、天麩羅と岩魚の箱寿司がつき、蕎麦は温かいのと冷たいのが選べる。天麩羅を塩で食べるのが当世風らしいが、蕎麦つゆに浸して食べるのが好きなので、ざるにしてもらった。妻の方は、岩魚の塩焼きに刺身蒟蒻。それに雑穀飯に山芋のとろろと味噌汁がつく。食後にはグレープフルーツもついていた。

妻が言うには今まで食べた岩魚の塩焼きのなかでいちばん美味いそうだ。蕎麦は永源寺蕎麦、蒟蒻は永源寺蒟蒻と、なんでも永源寺の名を冠するのが愛きょうだが、蕎麦も蒟蒻もこのあたりの名物らしく、たしかに美味い。地酒を熱燗で一本つけてもらって、岩魚をさかなにちびりちびりとやるのはたまらない。大きなガラス窓越しに見える晩秋の景色も、色を添えて、なんとも贅沢な午餐であった。

さて、温泉だが、低張性の単純アルカリ泉で、地下1750メートルから湧き出している。源泉百パーセントだが、かけ流しではない。ということは循環させているのだろうが、ちゃんとそううたっているところはいさぎよい。内湯には薬草の湯とただの温泉の二種類。サウナに塩サウナ、露天風呂と一応揃っている。岩盤浴も予約制だが用意されている。

一押しは、愛知川の河原が一望の露天風呂である。男湯には、垣根などなく、湯舟の向こうがそのまま見える。枯れ薄が広がる河原の向こうには道路も走っているが、遠いので、のぞかれる心配はいらない。男湯と女湯は日によって入れ替わる仕組みなので、目隠し用か、すだれが巻き上げられていた。天気予報は晴れのち曇りだったが、たしかに雲は多いもののところどころに青空も見える、まずは上天気。ちぎれ雲の浮かぶのをぼんやりながめながら、暑くなったら湯の外に出、かけ湯をしながら、寒くなったらまた首まで浸かるという露天三昧。櫟の葉の舞い落ちる野趣溢れる温泉を愉しんだことであった。

入館料は平日1300円。土日祝日は1500円と、少々高いが、タオル、バスタオルはもちろん、作務衣風の浴衣もついている。風呂上がりに、そのスタイルでくつろげるスペースもたくさん用意されていて、マンガの読める部屋もあれば、リクライニングシートに液晶テレビがついたファーストクラスみたいな休憩室もある。温泉より、休憩室の方が人が多かったような気がするほど、充実した設備であった。駐車場には滋賀県ナンバーが多かったから、近くの人の癒しの場になっているのだろうが、高速は、しばらく土日千円でいくらしいから、遠慮は要らない、近県からの日帰り温泉として充分使える施設である。特に料理とロケーションはお薦め。是非一度お試しあれ。
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by abraxasm | 2009-12-06 22:50 | 日帰り温泉

覚え書き


by abraxasm