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『若い藝術家の肖像』続

西欧の文学を理解するためには、ギリシア神話や聖書、シェイクスピアに堪能でなければならないというようなことがまことしやかにささやかれる。まあ、知っているにこしたことはないが、知らなかったからといって別に読めないわけではない。事実、この作品でもキリスト教的な知識、たとえば天使のヒエラルヒーなどが衒学趣味まるだしで披瀝されていたりもするのだが、熾天使と大天使のちがいなど日光月光菩薩のどちらがどちらでもたいしたことがないように、ああそうなのかぐらいに読んでおけばいいのだ。

それより、読むべきは、ここで語られる地獄の有り様のおどろおどろしいこと。これでもかというくらいにリアルに語られる。聞かされているのは、まだ子どもと言っていい年齢の少年たちである。日本にも地獄を絵巻風に描いた地獄絵があるが、どことなくユーモラスな雰囲気さえ漂うあの世界とは格段にちがう。スティーヴンならずとも、このように毎日聞かされていては、地獄に堕ちることの恐ろしさに怯え、犯した罪を告白したくなるだろう。

若いスティーヴンの魂は、徹底的に叩かれるのである。結論から言えば、彼は宗教者になることをやめ、芸術家の道を選ぶのだが、スティーヴンは神を信じないのではない。神を信じないなら、母親の意にそうように聖体を口に入れることもできるはずだ。それを拒否し続けるのは、自分の中に聖体が入ることにより、何かが変わることをおそれるからである。われわれ門外漢から見ればただの煎餅のようなものが、キリスト教世界の中にあっては重い意味を持つ。スティーヴンは、骨絡みに染みついたキリスト教的なくびきから自由になりたいと思ったのだ。

この自由への渇望は、『若い藝術家の肖像』全編を貫くモチーフである。彼は、愛してやまないアイルランドに対してさえ、ファナティクな愛国主義者と行動を共にしようとしない。それだけではない。何かの旗幟を鮮明にした運動には一歩距離を置く。こうしたスティーヴンの態度は、友人には理解されない。友だちをなくしてもいいのか、と詰め寄られたりもする。それでも彼の態度は変わらない。スティーヴンが拠って立つのはただ藝術あるのみ。もし、若い頃に読んでいたなら、この若者に快哉を叫んでいたことだろう。
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by abraxasm | 2009-10-26 22:26 | 書評

若い藝術家の肖像

e0110713_22421624.jpg丸谷才一による新訳と銘打ってジョイスの『若い藝術家の肖像』が出版された。ついこの間、岩波から文庫本で新訳が出たと思っていたら、丸谷の新訳である。実は、初読である。新訳といわれても旧訳を読んでいないのだから、そのちがいが分からない。そこで、また旧訳を探してみたのだが、近くの古本屋にはなかった。県立図書館にあるようなので、予約しておいたからそのうちとどくだろう。

岩波文庫版もそのうち手に入れて読みくらべてみようと思っている。丸谷が新訳を急いだのは、岩波文庫版に影響されてのことではないかと思うからだ。旧訳からずいぶん年月がたっている。どんな名訳でも、時代による経年劣化は避けられない。丸谷にはジョイス訳者としての矜持があるだろうから、岩波の新訳が定本になる事態は避けたかったのではないだろうか。

ところで、『若い藝術家の肖像』 だが、ジョイスの作品としては読みやすい。半自伝的な作風で、単純な時間配列ではないが、主人公スティーヴン・ディーダラスの少年時から青年時を追う叙述になっている。イエズス会系の学校に通う少年スティーヴンが、持ち前の天分から将来は司祭にと嘱望されながらも、藝術家への希望をあきらめられず、親の期待に背く形でトリニティ・カレッジに進む。その内心の葛藤を、ジョイス一流の様々なタイプの文を挿入しつつ描き出す。

あの名車ロールスロイスをセカンド・カーとして持っている人のファーストカーがミニだという言葉があったが、それに倣って言うなら、この『若い藝術家の肖像』こそ、20世紀を代表する小説の一つ、『ユリシーズ』を続編とする、その正編である。実際、『ユリシーズ』におけるスティーヴンの鬱屈は、『肖像』を読むことで、より陰影を増す。父サイモンとの確執、聖体拝領拒否と母の死、すべてがここにはじまっていたのだ。

頻出する「鳥」のイメジャリー、愛憎相半ばするダブリンの街の描写等々、採りあげたいことは多いが、家族との確執、友人との交流、初恋、性への目覚め、肉欲との葛藤と、若者ならではの悩みは尽きない。現今の若者にはどう映るのかは分からないが、ここには一つのみずみずしい魂がある。
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by abraxasm | 2009-10-25 22:37 | 書評

片岡温泉

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湯の山にある片岡温泉が地元の人に人気だと聞いたので行ってみることにした。
しかし、湯の山温泉といえば有名な温泉地である。
古くから御在所岳の山麓に多くの旅館ホテル群が林立している。
何故また、山の下にある線路沿いの温泉が人気なのだろうか。
なんでも、源泉かけ流しの上、バスクリンを入れたような色をした湯だという。

高速道路を四日市インターで下りたら、湯の山温泉方面にまっすぐ走る。
ロープウェイ乗り場と温泉街に向かうY字路手前の信号を左に折れるとすぐのところにある。
近鉄線の線路越しに大きな字で片岡温泉と見えるから初めてでも迷うこともない。
地元の人に人気と聞いたが、駐車場には他府県ナンバーの車がぎっしりと並んでいた。

入浴料は600円。休日料金という名目で高くしていないところは良心的である。年中無休。
浴場の造りはシンプルそのものだ。40㎡の広さを持つ大浴場と、打たせ湯、露天風呂だけ。
少し大きめの銭湯だと思えばいい。しかし、湯はちょっとちがう。
青みがかった湯が滾々と湧き出ている。ほとんど無臭。泉質はアルカリ性の所謂美人の湯。

いちばんの特徴は、加温、加水、循環なしの百パーセント源泉かけ流しという点だ。
源泉かけ流しを謳いながら、小さな浴槽だけだったり、加温していたりというところは多い。
日帰り温泉だからあきらめていたが、600円で本物の源泉かけ流しというのはえらい。
パンフレットに堂々と書いているのだから嘘はなかろう。

露天風呂の垣根越しに電車のパンタグラフが通りすぎるのも一興である。
あと、特筆すべきは休養施設の充実である。ゆっくり眠れる仮眠室まであるのは驚いた。
最後に、愛犬家には犬も入れる温泉が人間用とは別に用意されている。ドッグカフェもある。
もちろん宿泊も可能で、食事もできる。人気の出るのも分かる気がする。
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by abraxasm | 2009-10-13 08:54 | 日帰り温泉

ユリシーズ註解 その2

ようやく読み終えた。註解本を読み終えたというのもなんだか変なものだが…。
世に『ユリシーズ』ファンは多いようだ。評者の住む地方都市の岩波文庫を置いていない書店でも、文庫版の『ユリシーズ』は、コーナーができているほどだ。今ひとつつけ加えるなら、なんとマンガ版の『ユリシーズ』まであるのには驚いた。ちゃんと、ブルームが肉屋で豚の腎臓を買うところがマンガになっていた。ただ、何のまちがいか腎臓がレバーに変わっていたが。

さて、その『ユリシーズ』だが、二十世紀を代表する文学作品と呼ばれながらも、読破した人は少ないというのが本当のところ。なにしろ、あの丸谷才一が翻訳しているのに、その誤訳の研究本が出されているくらい難解を通り越して謎だらけといういわくつきの小説である。何が、そんなに難しいのかといえば、一つはダブリンという街が、登場人物と同じかそれ以上に細密に描かれている点だ。

主たる登場人物三人のうち、スティーヴンとブルームの二人をはじめ、ひとくせもふたくせもありそうな個性的なキャラクターが一日、ダブリンの街をあっちからこっち、こっちからあっちと動き回る。商店や工場、酒場からトルコ式浴場まで、当時のダブリンの街がくまなく浮かび上がるように描かれた、この小説があればダブリンの街がまるごとこの世から消えても再建が可能と作者をして豪語させたほど。

著者は長年海外で暮らし、ダブリンにもたびたび足を運びジョイスゆかりの地を訪ね歩き、時刻による日光の当たり方まで実地検分を行っている。それだけではない。ジョイスのいた当時のダブリンを知るためには、当時の記録にあたることが大事と大英図書館に日参してはThom's1904という資料を閲覧した。あまり頻繁に来館してはメモを取る姿を見て、図書館の好意でマイクロ・フィッシュによる複写が許されたという。

丸谷訳の誤訳の原因の一つは、この資料にあたることなく、ギフォードなどの註解をそのまま引用していることによるというのが著者の見解。Thom's1904にあたることなく『ユリシーズ』を翻訳するのは、万葉代匠記を繙かずに万葉集を現代語訳するようなものだという。しかし、現地の図書館に足を運ばねば閲覧できないような資料を日本の作家が参照するのは難しかろう。

さらに、ジョイスの文体の特徴である「意識の流れ」の問題がある。一般の小説では、主人公の心理は話者が整理して読者に伝える。読者は話者を通して、一貫性のある思考なり心理なりを知ることができる。しかし、よく考えれば、われわれの思考や心理状態というものは、そんなに整理されているわけではない。ふとした瞬間目にした風景から連想や追想がはじまり、あれこれと移りかわっているのが真実のところである。

「意識の流れ」の手法は、それをそのまま文章にしている。だから、突然何の脈絡もなくそれまで言及されていない言葉がぽつんと現れる。そのまま読んだり訳したりしてもまさにちんぷんかんぷん。だから、脚注が不可欠となる。その脚注にしても、聖書やシェイクスピアならまだしも、作者ジョイスの生い立ちから交友関係、アイルランドの歴史にダブリンの地理と、キリスト教の教義とくると、生半可な知識ではおぼつかない。

著者が丸谷訳の問題点としているのは、丸谷氏にはヨーロッパで暮らした経験がないということである。一例を挙げれば、丸谷氏は「ワイン半パイント!」と訳しているが、パイントという単位で注文するのはビール。ワインをパイントで注文することはあり得ない、と著者は指摘する。その他実に些細なことを採りあげてはヨーロッパ経験の乏しさから来る誤訳の例を挙げるのだが、正直なところこのあたりは酷な気がする。

とにかくそのままではふつうの読者には歯が立たない『ユリシーズ』をなんとか日本語に翻訳しようという丸谷氏らの努力は認めなければなるまい。著者がこうまで書くのは改訳時に訂正されるべき点がそのままであったり、かえって間違った訳に変わっていたりする点にある。このあたりについては、丸谷氏の返答が聞きたいところである。

著者の註解は実に丁寧で、英語に堪能な読者なら、この註解頼りに原文で読み進めていけるはず。それでも分かりづらい点は、丸谷氏らの翻訳と照らし合わせて読めば、かなりのところ疑問点は明らかになるはずである。挑発的とも思われるほどに丸谷氏に対して質問を投げかけている著者であるが、その態度は是々非々。正しく改変されたところはちゃんと認めている。

読者としては、複数の注を参照しながら自分の読みを作っていく喜びがふえたという点で、この本の上梓を喜びたい。なお、『ユリシーズ註解』と題されているが、厳密には、集英社版の丸谷氏他訳の『ユリシーズ』三巻本のうち第一巻に対応している。つまり第1挿話「テレマコス」から、第10挿話「さまよう岩々」までである。あと二巻に対応する部分の註解が待たれてならない。
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by abraxasm | 2009-10-03 18:05 | 書評

覚え書き


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