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彼女のいる背表紙

時に本を読むことに疚しさを覚えることがある。何もあぶない本というわけではない。自分が読者に相応しいとは到底思えない本を手にしたときである。あとがきに次のような記述がある。

本書は二〇〇五年四月から二〇〇七年四月にかけて、「クロワッサン」に連載した一連の文章をまとめたものである。この雑誌の中心的読者であるらしい四十代の女性を念頭に置きながら、おなじく四十代に入った男の心に残っている≪女性たち≫の思い出を語る。

とうにその年代を過ぎてしまった男としては、いささか手にとるのをためらわせるところがある。とはいえ、著者は今の日本で、その文章を読む気にさせてくれる数少ない書き手の一人である。読まずにすませるには惜しい。しばしの葛藤のすえ、手にとった。

ブッキッシュな著者らしく、心に残る女性といっても実在の人物ではない。書物のなかで知り合った女性のこと。若い頃から読んできた作品に登場する主人公や作家その人を、できるかぎり初読当時の本(版型、仮名遣い、翻訳等々)にあたって、その扉を叩き、再訪を試みた探訪記である。

今でこそ小説家の肩書きに何の不思議もない堀江だが、デビュー当時は、そのエッセイとも小説ともつかぬ一種独特な作品世界、ある意味中途半端とさえ形容できそうな微妙な立ち位置を好んでとっているように見えた。

板に二本の釘を打ち、それに余裕のある長さの輪状にした紐をかけ、輪の内側に鉛筆を入れ、たるまぬように気をつけて鉛筆を動かすと板の上に楕円が書ける。この作家には初めから、一つの中心を持つ円ではなくて、二つの中心を持った楕円の精神を喜ぶところがある。

どうやら作家その人の思い出が語られているのだと安心して読み慣れた文体に身をまかせていると、いつの間にか話の中心は物語の中の女性に移っていて、作家の鋭い視線が彼女に注がれている。リブレスクなエッセイとも随筆風の書評ともいずれにも決めかねる二つの中心を持つ楕円の描く軌跡のような、この作家ならではの世界に入りこんでしまっている自分を発見するのだった。

採りあげた作品はおよそ五十篇。女性作家が中心ということもあって、掉尾を飾る『更級日記』のように名の知れた古典を別にすれば、海外のそれも知る人ぞ知るといった作家の作品が多い。それらに共通するのは、どんな境遇に置かれても不遇をかこつわけでもなく、かといって従容とそれに従うわけでもない、くっきりとした輪郭と、決して派手ではないが、独特の光彩を身に纏った一人の女性の肖像が目に浮かんでくることである。

それともう一つ、かつて初めて彼女たちと出会ったときには気づかなかった事を年経て相見えることで改めて発見した作家の驚きの眼差しである。「彼女たちを苦しめている環境は、同時に生かしている環境でもある。支えてくれる人々はすぐ隣にいるわけではなく、一見、無関係なところに立っていて、表向きは支援者に見えない場合もあるという世の中の仕組みを、私は知らずにいたのだった。」『少女パレアナ』で知られるエレナ・ポーター著『スウ姉さん』からの引用を孫引きする。

全世界いたる所に、無数に散らばっている「スウ姉さんたち」に、この作品をささげます。/しんぼうづよく、不平をいわずに、「わずらわしい毎日の雑用」を果たしながら、はるか遠いかなたに自分たちをさしまねいている「生きがいのある生活」をながめているのが、それらのスウ姉さんたちです。(中略)私が知ると知らぬにかかわらず世のすべての「スウ姉さんたち」に祝福あれと、私は心からいのります。

さまざまな女性の人生との邂逅を綴ったエッセイとも、卓抜な読書案内とも読める本であるが、上に引いた文章から、この本が、意のままにならぬ人生を、それでも自棄になって放り出すことなく、懸命に生きている女性たちに向けておくられた静かなエールであることが伝わってくる。

そう思うと、他人宛に書かれた親書を覗き見たような、はじめに感じた疚しさが、またぞろぶり返しそうになるのだが、いい歳をした男でも、もう一度読み返したくなる本や、一度会ってみたいと思わせる主人公が少なくなかった。言い訳めくが最後に一言申し添えておく。たとえば次のようなものがそうだ。

ヴァージニア・ウルフ『ある犬の伝記』
E・L・カニグズバーグ『ジョコンダ夫人の肖像』
チェーザレ・パヴェーゼ『美しい夏』
ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』
ヴァレリー・ラルボー『幼なごころ』
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by abraxasm | 2009-07-28 15:23 | 書評

第13章

午前11時のリッツ・ビヴァリー・ホテルのバー。マーロウは、人と会う約束でここに来ている。壁一面のガラス窓からプールが見えている。マーロウは飛び込みをする娘を欲望を感じながら眺めている。それまでとは明らかにちがう展開への予感を感じさせる。

「私から三つ目のブースにはでな服装の男が二人いて、はでな身ぶりをしながら、二十世紀フォックスの動きについて論じ合っていた。間にはさんだテーブルに電話がおいてあって、二、三分おきに受話器をとりあげていた。」

バーで話し合ういかにもやり手風の二人の男たち。電話をひっきりなしにかけているこの二人が何をしているのかが、清水訳ではよく分からない。原文を次に示す。

“Three booths down a couple of sharpies were selling each other pieces of Twentieth Century-Fox, using double-arm jestures instead of money.They had a telephone on the table between them and every two or three minutes they would play the match game to see who called Zanuck with e a hot idea.”

二人は、どうやらホットアイデアを手みやげに一人の男に会うためにマッチゲームをしているらしい。「ザナックと呼ばれる男」とは、ダリル・F・ザナック。いわずとしれた二十世紀フォックスの大立て者である。とすれば、二人が金の代わりに腕を振り回して宣伝しているのは映画の企画ということになる。村上訳ではこうだ。

「三つ先のブース席では、いかにもやり手風の二人の男が、二十世紀フォックスの企画をぶっつけあっていた。そこで交わされているのは金ではなく、承認の仕草だった。テーブルの上には電話が置かれ、二、三分ごとに受話器が取られた。どちらが先にホットなアイデアを思いつき、ザナック御大に採用されるかを競っている。」

「ザナック」は、ルイ・ロペスとはちがって超大物である。ハリウッドで仕事をしていたチャンドラーでなくともだれもが知っているビッグ・ネームをなぜ省略したのか。話の本筋と関係がないと思うとあっさりカットしてすませてしまう。このあたりが清水訳の問題点である。

『さらば愛しき女よ』当時と比べ、本作品ではマーロウは歳をとっている。二人のいかにもやり手風の若者の精力的な売り込みの様子は、少しくたびれかけたマーロウとの対比を意図している。マーロウは仕事にも女にも飢えていない。素晴らしい体つきをした水着の美女であっても、大口を開けて笑うような女は願い下げなのだ。

そんなマーロウでも一目でぐらっとさせられてしまうのが、この章で登場するアイリーン・ウェイド。作家ロジャー・ウェイドの妻である。この矢車草の色をした瞳を持つ絶世の美女の登場シーンは往年のハリウッド映画の一場面を想い出させる。言い換えれば少々大げさ過ぎる。それだけ、魅力的であることを読者に印象づけたいということだろう。

アイリーンの依頼を断ったことで、むしゃくしゃしていたマーロウは、コメディアンと口論をする。軽口の応酬になるのだが、ヤンキースのセンターを守ってホームランをかっ飛ばす“breadstick”が、清水訳では「パンのし棒」、村上訳では「棒パン」になっている。無理なことの喩えなのだからパンでできた棒のほうが面白かろう。ここは、やはり「棒パン」か。

それともう一つ。アイリーンがくれた名刺のことだ。“a formal calling card”を村上氏は「社交用のしるしだけの名刺」と否定的な意味合いに訳しているが、清水氏は逆に「訪問用の正式のもの」と肯定的な意味合いに訳している。その前に“not ”がついているので、否定の否定が肯定になる。つまり、村上訳が構文上適切であろう。住所と電話番号を記した名刺を渡すだけで、相手に対する信頼の意を表すことができるというわけだ。
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by abraxasm | 2009-07-24 11:11 | The Long Goodbye

第12章(補遺)

12章の終わりに、これは清水氏訳のほうだが、あきらかに誤訳と思われる箇所がある。原文はこうだ。

“When I got home again I set out a very dull Ruy Lopez and that didn't mean anything either.”

清水氏はこう訳している。

「家へ帰ると、ルイ・ロペスのものういメロディのレコードをかけたが、やはりなんの感興もおぼえなかった。」

ルイ・ロペスという名前に聞き覚えがなければ、ラテンか何かの楽団と思いこんでしまうこともあるかもしれない。“set out”が、レコードをターン・テーブルに載せるという意味に思えてきて、“dull”がものういメロディを引き寄せたにちがいない。

しかし、少しばかり不注意のそしりは免れない。マーロウは、これまでにもたびたびチェスについて言及している。過去の有名なプレイヤーの棋譜相手にヴァーチャルな対戦をおこなっているのだ。ルイ・ロペスというのは、よく知られたチェスの定跡の創始者にして、その定跡の名前でもある。ちなみに村上訳ではさすがに正しく訳されている。

「再び帰宅し、ひどくだらだらしたルイ・ロペス(チェスの古典的な開始法)にとりかかったのだが、こちらにも集中できなかった。」

家でテリーのためにコーヒーを淹れ、煙草に火をつけるという別れの儀式を執りおこなった後、町に出かけ、映画を見てから帰宅したので、「再び」が入っているのだろうが、村上氏のこうした一字一句ゆるがせにしない訳しぶりが、まだるっこしく思われることもある。清水訳に軍配を上げる人は、そのテンポのよさを買っているのだ。

ネットで検索をかければ、たちどころになんでも情報が得られる今とちがって、専門的な分野についてはいちいち資料にあたるしかなかった初訳当時の苦労が忍ばれるエピソードである。人名辞典にルイ・ロペスの名は載っていなかったのだろう。
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by abraxasm | 2009-07-23 08:48 | The Long Goodbye

第12章

第十二章は、マーロウが自宅の郵便受けに手紙を見つける場面からはじまる。原文は次の通りだ。

“The letter was in the red and white birdhouse mailebox at the foot of my steps.A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised and even at that I might not have looked inside because I never got mail at the house.”

村上訳ではこうなっている。

「階段の登り口にある、鳥の巣箱のかたちをした赤と白の郵便受けにその手紙は入っていた。箱の上にはキツツキがついていて、郵便物が入っているしるしに、その翼が上に向けられていた。でも、そんなしるしが見えても、郵便受けをのぞかないこともある。自宅に郵便物が来ることはまずないからだ。」

参考に清水訳も引用しておこう。

「その手紙は階段の上がり口の小鳥の巣の形をしている赤と白で塗った郵便箱の中に入っていた。箱の上のきつつきがひっくりかえっていて蓋があいていた。私はそれでも、ふつうなら箱の中をのぞかなかったかもしれない。自宅に手紙がとどくことはほとんどないのだった。」

清水訳の小鳥の巣の形をした赤と白で塗った郵便箱というのは、想像することすら難しい。これは、巣箱と訳すのが自然だ。では、村上訳が正しいのだろうか。ひとつ疑問なのは、スィング・アームの訳し方である。

我が家にも東急ハンズで買ったmaid in USAのmailboxがあるのだが、それにも赤いスィング・アームがついている。郵便物が入っていますよ、というしるしに、それを上げておく腕木である。アメリカの郵便事情に詳しいわけではないが、何でも彼の地では郵便局が日本のように近くにあることはまれで、そのため、自分が出したい手紙も自宅ポストに入れておき、郵便物が入っているというしるしに腕木を上げておくと配達夫が、それを回収していくのだと聞いたことがある。

ここでいう“swing arm”は、その腕木を指すのではないだろうか。箱の上についたキツツキの翼と訳すのは少し無理があるように思う。それとも、アメリカ暮らしの長い村上氏のことだ。どこかで、そんな郵便受けを見たことがあるのだろうか。もし、そうなら、とんだ言いがかりということになるのだが。
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by abraxasm | 2009-07-20 22:20 | The Long Goodbye

覚え書き


by abraxasm