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奈良国立博物館

図書館で読んだ雑誌に、奈良国立博物館で開催中の「西国三十三所観音巡礼祈りと美」展が紹介されていた。
会期を見たら、日曜日が最終日だ。あわてて家に帰り、用意をして車に乗った。
天気は曇りで、日に焼けないだろうと思いコペンにしたが、黒い雲がふえてきたので、天蓋を閉めた。

奈良までは二時間程度。妻に運転を任せて、助手席でうつらうつらしているうちに着いてしまった。
まずは腹ごしらえ。天平倶楽部で昼食にした。妻はいつもの芋粥膳。
とんかつ御膳というのが新しいメニューに加わっていた。
この店の特徴は、一つ一つの品に手が込んでいることだが、とんかつをどう料理するのだろうと興味が湧いた。
結果は今イチ。湯葉を薄切りにした豚肉で挟み揚げたものを、生姜や大根おろしを薬味にポン酢で食べるというのは、さっぱりしていることはねらい通りだが、この店らしい美味さの工夫が足りないように思う。

博物館は最終日ということもあって、混んでいた。
西国三十三箇所の札所の御本尊や秘仏が一時に拝めるというのは、有り難いことだ。
お年寄りが多いのもうなずける。ただ、ゆっくり鑑賞できないのはストレスがたまる。
ふだんの美術館とはちがって、大声で話し声が聞こえるのも仕方がないのだが、いやだ。

どうしてかは知らないが、いつのころからか仏像が好きになっていた。
父が素人はだしの木彫を製作していたこともあるのかもしれない。
早くに死んだ姉のために作った観音像は、理由は分からないが未完成になっていた。
今はどこに行ったのかも知れないが、蓮華座の文様はよく覚えている。

堀辰雄の『大和路』あたりを機縁に、遠近の寺を巡るようになり、気に入った御仏もふえた。
めったに出会えない仏像にめぐり合える展覧会は、貴重な機会だ。
今回の清水寺の秘仏などは、こんな近くで見ることは、まず考えられない。
光背に飛天を配しためずらしい意匠もさることながら、お顔の凛とした表情が印象的である。
この機会をはずせば、また寺内に秘匿されるのだろうと思うと、有難い気持ちになるのである。

十一面観音や千手観音が多いのは、衆生済度の菩薩信仰ゆえだろう。 
すらりとした立ち姿や、軽く腰をひねった優雅なポーズには信仰を超えた美への憧れが見て取れる。
仏師も僧侶も、ただただ信仰のためにこのように美しい像をつくり、拝んだとは思えないのだ。
この美しさはただごとではない。
浮世絵や大和絵に描かれた美女には心惹かれないのに、男女を超えた御仏の美しさにこうまで魅力を感じるのは何故だろう。

人の多さには辟易しつつ、それでもはじめて出会った幾体かの仏像の美しさに心を残しながら新館を出た。
旧館では、平常展が開かれていて、顔なじみの仏様の顔を拝むこともできた。
秋篠寺からお出ましになった二体の御仏の美しさには、いつものことながらため息をついた。
技芸天だけではなかったのだ。このお寺にはほかにも美しい天部が居られる。

おおどかな奈良の風景にひたりながら、好い休日を過ごすことができた。
帰りはコペンのハンドルを握って、我が家まで快走した。
やっぱりこの車を駆るのは楽しい。
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by abraxasm | 2008-09-29 18:11 | 日記

青銅の悲劇

e0110713_199493.gif久し振りの笠井潔の新作は、772ページの超重量級。期待しつつ読んだのだったが…。うーん。正直言うと、ちょっと期待はずれかな。
扉に「わたしは日本に帰ってきた、矢吹駆を殺すために―N・Mの日記から」
とあるので、てっきりあの現象学的直観で犯人を推理する矢吹駆が活躍するシリーズの新作と思ったのだけれど。

探偵役は『天啓の宴』の主人公、宗像冬樹。後半には矢吹もののワトソン役ナディアも登場するが、肝心の矢吹は、本名の斑木として、話の中に登場するだけで、そこが物足りない。それだけではない。これまでの現象学的直観による推理を、ナディア自身の口を借りて、現象学の援用などではなく、矢吹の天才的な直観によるもの、という解釈がなされるなど、これまでの自身の手法を半ば否定して見せるかのような見解には、首を傾げたくなる。

今回の新作が目指しているのは、むしろエラリイ・クイーン風の本格探偵小説で、それとなく「読者への挑戦状」が置かれていたり、QED(証明終わり)という、エラリイが事件を解決したときに口走る口癖を披露して見せたりと、かなりエラリイを意識している気配が濃厚なのだ。

それでいて、推測と推論は違う、といってそれまでの名探偵の推理を単なる推測でしかないといってのけ、今回の解決もまた、推測によって犯人にはったりをかけ、自白を引き出したもので、数学的な厳密な推論から導き出されたものではないと、ナディアに言わせていることからも分かるように、エラリイ・クイーンが夢見たような論理的な解決が本当に得られるはずもないということを示唆してみせる。笠井潔は、本格探偵小説を書くことで、かえって「本格」を否定するという仕儀に至ったのである。

時代背景を昭和天皇が崩御する年の冬に設定することで、笠井が固執する全共闘運動との絡みも、回顧的でなく描けることになり、出始めたばかりのワード・プロセッサなどの小道具もうまく使われているようだ。ただ、この作品を楽しむためには、エラリイ・クイーンの作品、中でも『Yの悲劇』を読んでいないと、せっかくの仕掛けが楽しめないことになる。そういう意味では、読者を選ぶかもしれない。

毒薬を酒に入れることができたのは、家族の中の誰なのかという問題を解くことが、作中最も大きな謎で、たしかに数学的な問題にはなっているのだが、正直数学パズル好きな読者でないと、つきあいきれない。探偵小説には論理的な解決を楽しむパズルの側面があることは賛成するのだが、どれだけの割合をそれに向けるかというあたりが難しい。

笠井潔には、数学的な論理より、もっとちがった部分を求めている読者は多いのではないだろうか。その意味で、民俗学的な考証を生かした縄文人文化論や天津神と国津神の対立を天皇制を絡めて論じた宗教論議のペダンティックな風味のほうがより楽しめた。笠井が今後エラリイ・クイーンばりの本格を書こうと考えているのかどうかは分からないが、一人の読者としては、全共闘運動にこだわり、現象学や哲学にこだわる部分を残しておいてほしいと思うのである。
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by abraxasm | 2008-09-17 19:06 | 書評

覚え書き


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