カテゴリ:The Long Goodbye( 12 )

第13章

午前11時のリッツ・ビヴァリー・ホテルのバー。マーロウは、人と会う約束でここに来ている。壁一面のガラス窓からプールが見えている。マーロウは飛び込みをする娘を欲望を感じながら眺めている。それまでとは明らかにちがう展開への予感を感じさせる。

「私から三つ目のブースにはでな服装の男が二人いて、はでな身ぶりをしながら、二十世紀フォックスの動きについて論じ合っていた。間にはさんだテーブルに電話がおいてあって、二、三分おきに受話器をとりあげていた。」

バーで話し合ういかにもやり手風の二人の男たち。電話をひっきりなしにかけているこの二人が何をしているのかが、清水訳ではよく分からない。原文を次に示す。

“Three booths down a couple of sharpies were selling each other pieces of Twentieth Century-Fox, using double-arm jestures instead of money.They had a telephone on the table between them and every two or three minutes they would play the match game to see who called Zanuck with e a hot idea.”

二人は、どうやらホットアイデアを手みやげに一人の男に会うためにマッチゲームをしているらしい。「ザナックと呼ばれる男」とは、ダリル・F・ザナック。いわずとしれた二十世紀フォックスの大立て者である。とすれば、二人が金の代わりに腕を振り回して宣伝しているのは映画の企画ということになる。村上訳ではこうだ。

「三つ先のブース席では、いかにもやり手風の二人の男が、二十世紀フォックスの企画をぶっつけあっていた。そこで交わされているのは金ではなく、承認の仕草だった。テーブルの上には電話が置かれ、二、三分ごとに受話器が取られた。どちらが先にホットなアイデアを思いつき、ザナック御大に採用されるかを競っている。」

「ザナック」は、ルイ・ロペスとはちがって超大物である。ハリウッドで仕事をしていたチャンドラーでなくともだれもが知っているビッグ・ネームをなぜ省略したのか。話の本筋と関係がないと思うとあっさりカットしてすませてしまう。このあたりが清水訳の問題点である。

『さらば愛しき女よ』当時と比べ、本作品ではマーロウは歳をとっている。二人のいかにもやり手風の若者の精力的な売り込みの様子は、少しくたびれかけたマーロウとの対比を意図している。マーロウは仕事にも女にも飢えていない。素晴らしい体つきをした水着の美女であっても、大口を開けて笑うような女は願い下げなのだ。

そんなマーロウでも一目でぐらっとさせられてしまうのが、この章で登場するアイリーン・ウェイド。作家ロジャー・ウェイドの妻である。この矢車草の色をした瞳を持つ絶世の美女の登場シーンは往年のハリウッド映画の一場面を想い出させる。言い換えれば少々大げさ過ぎる。それだけ、魅力的であることを読者に印象づけたいということだろう。

アイリーンの依頼を断ったことで、むしゃくしゃしていたマーロウは、コメディアンと口論をする。軽口の応酬になるのだが、ヤンキースのセンターを守ってホームランをかっ飛ばす“breadstick”が、清水訳では「パンのし棒」、村上訳では「棒パン」になっている。無理なことの喩えなのだからパンでできた棒のほうが面白かろう。ここは、やはり「棒パン」か。

それともう一つ。アイリーンがくれた名刺のことだ。“a formal calling card”を村上氏は「社交用のしるしだけの名刺」と否定的な意味合いに訳しているが、清水氏は逆に「訪問用の正式のもの」と肯定的な意味合いに訳している。その前に“not ”がついているので、否定の否定が肯定になる。つまり、村上訳が構文上適切であろう。住所と電話番号を記した名刺を渡すだけで、相手に対する信頼の意を表すことができるというわけだ。
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by abraxasm | 2009-07-24 11:11 | The Long Goodbye

第12章(補遺)

12章の終わりに、これは清水氏訳のほうだが、あきらかに誤訳と思われる箇所がある。原文はこうだ。

“When I got home again I set out a very dull Ruy Lopez and that didn't mean anything either.”

清水氏はこう訳している。

「家へ帰ると、ルイ・ロペスのものういメロディのレコードをかけたが、やはりなんの感興もおぼえなかった。」

ルイ・ロペスという名前に聞き覚えがなければ、ラテンか何かの楽団と思いこんでしまうこともあるかもしれない。“set out”が、レコードをターン・テーブルに載せるという意味に思えてきて、“dull”がものういメロディを引き寄せたにちがいない。

しかし、少しばかり不注意のそしりは免れない。マーロウは、これまでにもたびたびチェスについて言及している。過去の有名なプレイヤーの棋譜相手にヴァーチャルな対戦をおこなっているのだ。ルイ・ロペスというのは、よく知られたチェスの定跡の創始者にして、その定跡の名前でもある。ちなみに村上訳ではさすがに正しく訳されている。

「再び帰宅し、ひどくだらだらしたルイ・ロペス(チェスの古典的な開始法)にとりかかったのだが、こちらにも集中できなかった。」

家でテリーのためにコーヒーを淹れ、煙草に火をつけるという別れの儀式を執りおこなった後、町に出かけ、映画を見てから帰宅したので、「再び」が入っているのだろうが、村上氏のこうした一字一句ゆるがせにしない訳しぶりが、まだるっこしく思われることもある。清水訳に軍配を上げる人は、そのテンポのよさを買っているのだ。

ネットで検索をかければ、たちどころになんでも情報が得られる今とちがって、専門的な分野についてはいちいち資料にあたるしかなかった初訳当時の苦労が忍ばれるエピソードである。人名辞典にルイ・ロペスの名は載っていなかったのだろう。
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by abraxasm | 2009-07-23 08:48 | The Long Goodbye

第12章

第十二章は、マーロウが自宅の郵便受けに手紙を見つける場面からはじまる。原文は次の通りだ。

“The letter was in the red and white birdhouse mailebox at the foot of my steps.A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised and even at that I might not have looked inside because I never got mail at the house.”

村上訳ではこうなっている。

「階段の登り口にある、鳥の巣箱のかたちをした赤と白の郵便受けにその手紙は入っていた。箱の上にはキツツキがついていて、郵便物が入っているしるしに、その翼が上に向けられていた。でも、そんなしるしが見えても、郵便受けをのぞかないこともある。自宅に郵便物が来ることはまずないからだ。」

参考に清水訳も引用しておこう。

「その手紙は階段の上がり口の小鳥の巣の形をしている赤と白で塗った郵便箱の中に入っていた。箱の上のきつつきがひっくりかえっていて蓋があいていた。私はそれでも、ふつうなら箱の中をのぞかなかったかもしれない。自宅に手紙がとどくことはほとんどないのだった。」

清水訳の小鳥の巣の形をした赤と白で塗った郵便箱というのは、想像することすら難しい。これは、巣箱と訳すのが自然だ。では、村上訳が正しいのだろうか。ひとつ疑問なのは、スィング・アームの訳し方である。

我が家にも東急ハンズで買ったmaid in USAのmailboxがあるのだが、それにも赤いスィング・アームがついている。郵便物が入っていますよ、というしるしに、それを上げておく腕木である。アメリカの郵便事情に詳しいわけではないが、何でも彼の地では郵便局が日本のように近くにあることはまれで、そのため、自分が出したい手紙も自宅ポストに入れておき、郵便物が入っているというしるしに腕木を上げておくと配達夫が、それを回収していくのだと聞いたことがある。

ここでいう“swing arm”は、その腕木を指すのではないだろうか。箱の上についたキツツキの翼と訳すのは少し無理があるように思う。それとも、アメリカ暮らしの長い村上氏のことだ。どこかで、そんな郵便受けを見たことがあるのだろうか。もし、そうなら、とんだ言いがかりということになるのだが。
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by abraxasm | 2009-07-20 22:20 | The Long Goodbye
第7章は殺人課課長によるマーロウ尋問の場面。例によって挑発に乗った課長は、マーロウの思うつぼにはまってしまう。グレゴリアスという課長は暴力に訴えるしかない愚鈍な刑事の典型として描かれている。翻訳上の異同はあまり面白いところが見つからないので、この章は割愛する。

第8章は、重罪犯監房の描写から入る。
“In the corner of the cell block”を清水は「廊下のすみには」と訳すが、村上は「監房ブロックの片隅には」と訳している。二つの鉄製の扉がついているのは監房ブロックの中だから、廊下というのは変だろう。

収監者はそこから面通し用の小部屋に引き出されるのだが、映画でよく見る線の引かれた壁を前に、マーロウもいろんなポーズをとらされる。その一つに“Hold your hands out”というのがある。「両手を前に出せ」と訳すのが清水。「両手を外に広げろ」が村上。映画の場面を思い出してみるのだが、右や左を見た後、どうしていたかよく思い出せない。袖をまくり上げ、傷跡を見せるには、どちらのポーズがいいのだろう。訳としては村上訳が合っているように思うのだが。

ルーティーンワークに飽きた警務主任のやり方に内心で茶々を入れるマーロウの内的独白が後に続く。
鼻の穴の中を見るのを忘れたとからかい、フットボールの試合でけがをして鼻中隔手術を受けた際の思い出を語る。

“Fifteen yards penalty,and that's about how much stiff bloody tape they pulled out my nose an inch at a time the day after the operation,I'm not bragging,Captain.”

「十五ヤードのペナルティーだ。手術が終わると、血で固まったテープを一インチずつ鼻から引っぱり出された。ほらを吹いてるんじゃない。」(清水訳)

「十五ヤードのペナルティー。手術の翌日に私の鼻から数センチずつ引き抜かれたごわごわした血まみれの包帯も、ほぼそれと同じくらいの長さだった。自慢しているんじゃないよ、主任。」(村上訳)

小さなことが大事だといいながら、包帯が15ヤードも鼻の中につまっていたと言ってのける。これを「ほら」と言わなくてどうする。ここは、「ほら」と訳した清水の勝ちだ。それと、ここに限らず村上はインチ表示を全部メートル表示に変えて訳している。たしかに日本人には分かりやすいのだが、1インチずつ引っぱり出されるという刻み方は分かるが、数センチずつというのは刻みとしては不適当だろう。15ヤードのペナルティだけは、さすがに村上も13.65メートルとは訳せなかった。13メートルもの包帯が鼻の中に入ってたって?マーロウ、吹いてくれるじゃないか。ただし、清水訳ではテープ(包帯)の長さが分からないから、せっかくのほらが生きてこない。ここは村上の勝ち。イーブンというところか。

調子に乗っているときのチャンドラーは、冗談が多くなる。次の科白もそうだ。

“Noah bought it secondhand.” 

「ノアはそれを中古で買ったにちがいない」という、傷だらけの樫材のテーブルを冷やかして言うマーロウの独白が清水訳には抜けている。

小さなことだが、某氏に雇われてマーロウの弁護をしにやってくるエンディコットという弁護士のシガレットケースは銀の打ち出し細工だが、清水訳では銀のシガレットケースになっている。“hammered”が抜けると、のっぺりしたシガレット・ケースをイメージしてしまう。持ち物でその男のイメージがはっきりする。大事にしたいところではないだろうか。

エンディコットがマーロウの言葉に「君は私が嘘を言っているというのか」と気色ばんだとき、マーロウがエンディコットがヴァージニア生まれであったことを思い出して言う次の科白。

“We think of them as the flower of southern chivalry and honor.”

「南部の義侠心と名誉の精華であると、彼らは見なされています。」(村上)

「ヴァージニアの人間は侠気があって名誉を重んずるということを想い出しましたよ。」(清水)

直訳調の村上訳より、清水訳の方がこなれているとは思うのだが、「南部」の一語が抜けているのが惜しい。南北戦争に破れはしたものの、南部の人間には誇りがある。そこをうまくついて相手の気をよくしているのだ。「南部」の一言はほしいところである。

分からないのが、“How ingenuous can a man get.”だ。「たいしたもんじゃないか」(村上)と、「りこうなやり方とはいえないんじゃないか」(清水)という訳になっているが、“ingenuous”には、「率直な、わだかまりのない」という意味がある。一方、一字ちがいの“ingenious”には、「工夫の才のある」という意味がある。村上訳はなんとも言えないが、清水訳は、こちらととりちがえている可能性がなくもないと考えられるが、どうだろうか。

億万長者のハーラン・ポッターが新聞報道に圧力をかけていると考えたマーロウの言う科白“publicity”を、村上は「報道」、清水は「工作」と訳している。その後に続く“a hundred million dollars can buy a great deal of publicity.”を考えると、「一億ドルもあれば大量の“publicity”を買うことだってできる。」というふうに訳するなら、中に何を入れるのが適当だろう。また、その後に対句として「大量の沈黙だって」が続くが、二人とも、こちらには“a great deal of ”を響かせていない。二つの語句がうまく対句になっていないからではないだろうか。
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by abraxasm | 2009-06-21 17:59 | The Long Goodbye
ティファナからの帰り道、マーロウはドライブの退屈さを嘆く。そのなかで、夜の港町のロマンティックさと自分の生活を対比させ、次のように語る。
“But Marlowe has to get home and count the spoons.”
清水訳は「だが、マーロウは家へ帰らなければならないのだ。」
村上訳は「しかしマーロウは家に戻ってスプーンの数を勘定しなければならない。」
村上の訳がいかに原文に忠実かが分かるだろう。
“count the spoons”は、客が何かを盗んでいないか確かめるという意味のイディオム。
老女の歌う賛美歌に喩えられる波のうねりのやさしさに比べて、殺伐とした自分の生活を嘆いてみせるマーロウの自嘲的な台詞だ。直訳で、それが分かるかどうかは別として、清水訳では意味が通じないのは明らかである。

帰宅したマーロウを待ち受けていた二人の刑事とのやりとりを描く第六章。
清水訳は、やや端折り気味に見受けられる。
「おさだまりの服をきたおさだまりの二人組で、おさだまりの面倒くさそうな物腰だった。」
村上訳では、最後の部分のあとにこう続く。
「例によって表情というものがなく動作は緩慢だ。自分たちが何か命令するのを、世界中が息を殺して待ち受けていなくてはならんと言わんばかりに。」
おそらく世界中の警官が見せる態度をうまく言い表す、こういう部分を清水氏がなぜカットしたのかが分からない。まさか、警察に気をつかったわけではないだろうが。

警察学校の“passing-out parade”を「犯人選び出し訓練」と訳しているが、村上訳の「卒業行進」が正しい。ただ、直訳すれば「彼らはそれら(冷ややかで尊大な警官の目つき)を警察学校の卒業行進で得る」というのは、警察学校における訓練の結果そういう目つきになるということだから、清水訳も逐語訳でなく意訳ととればまちがってはいない。

マーロウが帰宅したのは深夜の二時である。張り込み中の刑事がマーロウに言う嫌味の“we ain't not to work up an appetite”は、「腹ごなし」(清水)ではなく「食欲を増進させるため」(村上)でないといけない。アメリカの刑事もコーヒーぐらいは飲みたいだろうが、マーロウの家は人気のない場所にある。午前二時では、食べ物を調達できるわけがない。

マーロウは二人の刑事のうち、大学出で司法試験に受かっているデイトンは嫌っているが、年かさのグリーンには好意を持っている。レノックスの妻がはなれで男に会っていたくだりを説明するとき、グリーンは少し顔を赤らめるのだが、それを見逃さない。清水訳はこれをカットしている。後にも出てくる、刑事の中に人間性を見つける大事な部分なのだが。

怒ったデイトンが、マーロウを殴る場面も正確ではない。デイトンは立ちかけたマーロウにまず左フックを、そして次にクロスを見舞っている。清水訳では「みごとなレフトが命中した」だけである。「ベルが鳴ったが、それは夕食を告げるベルではなかった」もカット。「もう一度やろうぜ」の次のデイトンの台詞もおかしい。「いまはかまえができていなかった。手ごたえがなかった」は、“You weren't set that time.It wasn't really kosher. "だが、“kosher "とは、「おきてに適った」の意味で、ボクシングとして正しいやり方でなかったということを言っている。「手ごたえがなかった」のではない。

“Smart work,Billy boy.You gave the man exactly what he wanted.Clam juice.”
グリーン刑事のこの台詞も清水訳では、全然ちがう台詞に変わっている。こうだ。
「なかなかみごとだった。だが、この男はそのくらいのことじゃまいらないぜ。」
村上訳では、次のようになっている。
「やってくれるね。坊や。お前さんはまさにこの男の思うつぼにはまったんだよ。まったくどじ(傍点)なやつだ。」
「どじ」に傍点がついているのは、そこだけが意訳だからだろう。女性ファンも多い村上春樹だ。アメリカ俗語の悪態をそのままは訳せない。

テリ-の行き先を教える気はないかと尋ねるグリーンに好感は持つものの、友だちを裏切る気のないマーロウは、それを拒否し、もう一度デイトンを挑発する。しかし、彼は動かない。それを見てマーロウが思うこと。
“He was a one-shot tough guy.He had to have time out to pat his back.”
この観察も清水訳ではカットされている。“pat one's back”は、背中を軽く叩くことからきたご褒美を意味するイディオム。村上訳では次のようになっている。
「彼はパンチを一発相手に入れたら、タイムをとって、よくやったと自らをねぎらうことを必要とするタイプなのだ。」
パンチ一発でタイムをとるボクサーなどいない。つまり、見かけ倒しのタフガイだった、という意味になるが、原文にあるストレートな物言いと比べるとまわりくどい。

「課長は私を拘引しろと言った。」のあとに続く「手荒くな」というのが清水訳には抜けている。第七章に出てくる殺人科の課長が、どんな人物かを仄めかす言葉なのだが。どうしたわけか、この章では清水訳の欠落が目立つ。特に人物像を際立たせる言葉が目立って削られている。一度しか出ない脇役だが、グリーン刑事は人間味を感じさせる人物として造型されている。それは、他の刑事の何かというとすぐ暴力に訴える無能さや、権力をかさに着た物腰と好一対をなして、マーロウの目に映る。マーロウは単なる警官嫌いではない。それをはっきりさせるためにこういう人物の描き方をしているのだが、清水氏にはあまり重要とは思えなかったのだろう。ハードボイルド小説にはよけいなもののように思え、あえて割愛したのかもしれない。
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by abraxasm | 2009-06-13 14:16 | The Long Goodbye
さて、第五章である。
最後に飲んでから一月後、朝の五時にテリ-がやってくる。コートに帽子、そして手には拳銃という古いギャング映画のような格好をして。この“Old-fashioned kick-em-in-the teeth gangster movie"もよく分からない。スラングなんだろうが、emはthemだから、「歯の間に奴らを蹴り込め」となる。村上訳では「一昔前の非情なギャング映画」になっている。スラングというのは、時代とともに変化するだろうから、翻訳では手こずるところだ。直接アメリカ人に訊くのがいちばんだろう。

面倒なことになったと切り出すテリーを、マーロウはわざと相手にせず、コーヒーを淹れる。コーヒーメーカーを操るその手順を、まるで料理のレシピ本のようにひとつひとつ詳しく説明する。緊張した雰囲気のときには、ふだん何気なくしていることもいちいち気を入れてしなければならない。なるほど、と思わせる。人間心理をよく知っている。

マーロウはかつて検事局に勤務していた。法律には詳しい。だから、犯罪に巻き込まれるのはご免だ。そうはいいながらも、テリーの話は聞いてやる。大事な部分には決して触れさせることなく。無論読者も同じだ。果たして、妻は死んだのか、テリーに殺されたのか、大事なことは何も分からない仕掛けになっている。マーロウの推測だけを聞かされるのだ。

豚革のスーツケースはここでも出てくる。メキシコに飛ぶために飛行機の出るティファナまで、マーロウはテリーを乗せてゆく。テリーはいやがるが、荷物も持たずに飛行機の乗るのは不自然だと言い聞かせて。荷造りをする間、ウィスキーを飲ませ、そっと眠らせてやるマーロウは、まるで母親のようだ。

清水訳ではティファナがチュアナになっている。ハーブ・アルパートとティファナ・ブラスがヒットを飛ばしたのは、ずっと後のことになるからか。ティファナは、その頃まだ無名の国境の町だったのだろう。
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by abraxasm | 2009-06-08 20:40 | The Long Goodbye
第四章は、有名な「夕方、開店したばかりのバーが好きだ。」から始まるレノックスの長台詞で幕を開ける。この台詞を読んで、開けたばかりのバーを訪れたファンも多いにちがいない。もっとも、本にあるように午後四時では勤め人には難しかろう。マーロウのような個人営業主かレノックスのような金持ちにしかできない贅沢かもしれない。

長科白の好きなチャンドラーだが、アフォリズム風の気のきいた警句も見逃せない。たとえば次のような。
「アルコールは恋に似ている」「最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせる。そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ。」
レノックスの饒舌は、彼が人生に深く幻滅を感じていることを匂わせる。最初のうちは輝いて見えるのだ。開けたばかりのバーが、最初のキスが、そうであるように。しかし、早晩色褪せる。バーは、酔っぱらいで溢れ、女たちにも汗の匂いが鼻につくようになる。どんなに素晴らしい出会いも、時がたてばそこには幻滅しか待っていない。

第四章の主題は、きらきら輝いていたものが輝きをうしない、汚れてしまうことに寄せる深い悲しみである。そして、それは『ロング・グッドバイ』という作品の主題でもある。マーロウはしかし、知ったふうに「そうむきになるなよ」とテリーを諫める。聞き役を務めているマーロウには、テリーが自己憐憫に耽りすぎるように感じられたのだろう。「自分のことをしゃべりすぎる」と言って、彼を置いて店を出る。それが彼と飲む最後の晩になってしまうとも知らずに。人も羨むような暮らしぶりでありながら、ケチな探偵風情と待ち合わせて杯を重ねるのをわずかな愉楽にしているレノックスの憂いをマーロウはどこまで理解していたのだろうか。

もう少し話を聞いていれば、とマーロウは何度も悔やむ。しかし、人には口に出せない思いというものがある。それを言ってしまえばもとの関係にはいられない。だから、言葉はその周りを堂々巡りするしかないのだ。
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by abraxasm | 2009-06-07 17:17 | The Long Goodbye
第三章は、テリ-とシルヴィア・レノックス夫妻の再婚を紹介する新聞の社交欄記事の文体模倣で始まる。彼らの再婚を伝える社交欄の記事を読むマーロウは、かなり腹を立てているがおおよそ事実だろうと考える。その後に、“On the society page they better be"と続くのだが、これがよく分からない。村上は「新聞の社交欄で嘘っぱちを書いたら、ただではすまない。」と訳している。清水訳ではカットされている。基本的な単語ばかりで、短い文の方が、かえって分かりづらい。直訳すれば、「社交欄では、お行儀よくした方がいい」だろうか。

マーロウは、腹をすかせ、酔っぱらっていたころのレノックスの方に好意を抱いている。大金持ちの妻の金で何不自由することのない生活を送るレノックスには、「値札が付いている」ように感じられるからだ。それなのに、誘われると、バーにのこのこついていき、二人でギムレットなどという甘いカクテルを楽しむのである。ヤクザに惹かれる女心のようなもので、堅気の男にはここがよく分からない。『ロング・グッドバイ』は、男の友情を描いていると言われるが、レノックスを前にしたときのマーロウはまるで母性本能をくすぐられて喜ぶ女のように見える。

それは、ともかく、開けたばかりのバーでの二人の会話に登場する有名なギムレットに関する講釈や、マーロウがよだれを垂らしそうになるスポーツ・カーというハードボイルド探偵小説につき物の小道具がにぎやかに登場する、この章は読みでがある。豚革のスーツケースはここでもまた言及されながら、マーロウの家に置かれたままになっている。スーツケースについている金の鍵は、文字通り、この小説の謎を解く「鍵」なのだが。

時間の経過に従って話を進めながら、章の終わりにくると回想表現が混じるスタイルは、これから起きるであろう悲劇を予感させ、読者をはらはらさせながら、それをとどめるすべを持たなかった男の悔恨をにじませるという効果を発揮する。これ以降の作家が踏襲することになるハードボイルド探偵小説お定まりのスタイルである。
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by abraxasm | 2009-06-07 11:08 | The Long Goodbye
e0110713_19452444.jpg第三章で、再会したテリー・レノックスが乗ってきた車。最新流行の英国製スピードスターである。作中では、赤錆色に塗装されている。とくに自動車に関心があるわけではないが、と言いながらもマーロウはかなり熱心に解説を加えている。

「薄手のカンヴァスの屋根。その下には二人の人間がようやく腰を下ろせるだけのスペースしかない。薄緑色の革の内装で、金具一式は見たところ銀製のようだ。とくに自動車に関心があるわけではないが、その車を見ていると口の中にいくらか唾がたまった。」

こんな車で迎えに来られたら、誰だって助手席に乗ることを拒めまい。もちろん、かくいう私だってそうだ。
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by abraxasm | 2009-06-06 19:55 | The Long Goodbye
マーロウがテリー・レノックスを二度目に見たのがクリスマス前のハリウッド・ブールヴァードだった。彼は何日も食べておらず、ぼろ屑同然の姿で登場する。マーロウは、警官に見とがめられたレノックスをタクシーに乗せて家に連れ帰ろうとする。タクシー運転手は、メーター料金以上のチップを受け取らず、かつて暮らしたフリスコで自分も辛い目にあったと話す。マーロウは、機械的に「サンフランシスコ」と口にするが、運転手は「俺はフリスコと呼ぶ」と固執する。清水訳では、何の説明もないが、村上訳では、そのあとに「少数民族を尊重しろなんてご託宣は願い下げだね。」と続く。「フリスコ」は、サンフランシスコの俗称だが、正しい言葉で呼ぼうという運動があったのだろう。聖フランチェスコに由来する街の名を大事にしようというのは旧教を信じるヒスパニックの人々だろう。運転手はWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの略、アメリカの主流派)と思われる。多くの人種が暮らすアメリカでは人種間の軋轢は避けて通れない。上流階級の住む高級住宅地と盛り場を行き来するチャンドラーの作品には多人種への差別意識や偏見が頻出する。マーロウの日本人観にもそれは見て取れる。当時としては仕方がないのかもしれないが、読んでいて気になるところではある。

マーロウは腹をへらしたレノックスをドライブ・インに連れて行くが、清水訳では「うまいハンバーガーを食わせる」店らしいが、村上訳では「犬も食べないというところまではひどくないハンバーガーを出す」店になっている。これは新訳が原文に忠実。二重否定の構文が多いのも忠実に訳すとくどく感じられるところだろう。

さて、ヴェガスに行くレノックスがマーロウの家に置いていくことになる800ドルもする英国製の豚革のスーツケースである。特に訳に問題があるわけではないが、このスーツケースは妙に気になるアイテムである。何かが入ったまま預かっているマーロウにとっても気がかりだが、読者にとっても同じだ。

その来歴を聞かれて、レノックスの答える「ロンドンで人にもらったものだ。シルヴィアに出会うずっと前、大昔の話だよ。」という言葉が、再読時には胸にこたえる。そこに入っていたものが何か、最後まで読み通してはじめて分かるからだ。「読書は再読だ」というのは、ナボコフの言葉だが、映画でも本でも、何度も見返したり読み返したりするたびに新しい発見がある作品がある。そういう作品にめぐりあえるとうれしくなる。
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by abraxasm | 2009-06-06 10:58 | The Long Goodbye

覚え書き


by abraxasm