カテゴリ:映画評( 4 )

流れる

成瀬巳喜男監督作品。原作は幸田文。
大川端近くの芸者置屋が舞台。
とにかく女優陣が凄い顔ぶれ。実は栗島すみ子を見るのはこれが初めて。山田五十鈴の姉貴分の芸者という役所だが、貫禄充分である。その山田五十鈴が芸者置屋の女主人で、その娘が高峰秀子。狂言回しを務めるのが、田中絹代演ずる女中のお春。置屋に籍を置く芸者が杉村春子と岡田茉莉子。山田五十鈴に金を貸している腹違いの姉が賀原夏子、妹役の中北千枝子というあたりが脇をしめる。

キャメラは固定され、フレームの中で女優たちの位置はしっかり決まっている。常に一点消失の透視図法で、見ていて安心できるキャメラワークだ。その中を山田五十鈴が着物を着替える。鏡台を身ながら帯をしめるその立ち居振る舞いの美しいこと。お太鼓の裾がちょっと斜になっているあたりの粋さ。なで肩でないと着物の良さは出ないというが、心持ち重心を落とした所作といい、着物の着こなしの見本のような山田五十鈴のつた奴の出来である。足もとにからむ猫の可愛さも見逃せない。

その山田五十鈴の艶やかさに対するに、杉村春子の演じる染香という年増芸者がすごい。お春さんに頼んでコッペパンとコロッケを買ってきてもらい、台所でソースをかけて頬ばるところや、少し着くずした着物の着方。つた奴の代わりでお座敷に出るために電話口でちりつるちりつるちりつるてんと口三味線を弾くところ、岡田茉莉子と二人で酔って踊りながらついには吐くところと、名女優杉村春子の独壇場である。美味しいところをみんなとってゆくというやり方で、監督にとってはこんな重宝な女優もいないだろうが、主演女優にとっては厄介で気のもめる存在であったろう。

山田五十鈴のやり方に反発し、鞍替えを言い出しながら、やっぱり元の鞘に収まるときの二人のやりとりがまたいい。どちらも、男との関係をさっぱり切り、三味線の藝で食っていく、という新規まき直しの気持ちが伝わってくる。二人が向かい合って三味線を弾くところの気迫が凄い。

作者の分身である田中絹代演じる女中の上品でいながら、しっかりした働きぶりは観客の共感を得るだろうから、これは得な役である。芸者の世界を嫌い、洋裁で自立しようとする高峰秀子、芸者稼業を割り切って生きていく岡田茉莉子と対照的な生き方ながら、若手二人の女優の生き方には同世代の共感が集まっただろう。

芸者という古い世界の粋と、その価値が下落していく時代潮流を哀感を込めて描きあげた傑作である。両国橋を遠くに臨む大川端の風情も、今はなき東京の良き時代を残して秀逸。世界に誇れる日本文化の代表作であると思う。
[PR]
by abraxasm | 2010-01-25 21:58 | 映画評

ポール・ニューマン

ポール・ニューマンが死んだ。
癌だそうだが、同じ頃活躍していたスティーヴ・マックィーンと比べたら、ずいぶん長生きした方だ。
マックィーンの死は、核実験場に近いネヴァダ砂漠でのロケが原因だという説があった。
事実、西部劇関係者の癌による死者の数は、他の死因よりも多いようだ。

ポール・ニューマンにもビリー・ザ・キッドを演じた『左ききの拳銃』や、あのアメリカン・ニューシネマの傑作『明日に向かって撃て』がある。
ただ、後者はアメリカにいられなくなった列車強盗団がボリビアで再起を図るというひねった話だったから、放射能に汚染されたモニュメンタル・バレーのロケがなかったのが幸いしたのかも知れない。

ポール・ニューマンといえば、まずは『ハスラー』を挙げたい。
ビリヤードに賭ける若者を描いた青春映画の傑作である。
同じアクターズ・スタジオの先輩であるマーロン・ブランドを真似たような仕種が印象的な演技だが、資質のちがいは早くから出ていて、ブランドにはないある種の甘さが感じられた。
それは、ジェームズ・ディーンの拗ねたような甘えの表現ともちがうものだ。
『タワーリング・インフェルノ』で競演したマックィーンとは、本格的な自動車レースを好むところや、ハリウッド・スターとしてのキャリアなどからよく比較されたが、若い頃は、ポール・ニューマンの方が贔屓だった。
歳をとって、旧作を見直し、マックィーンの身に纏う「孤独」に惹かれるものを感じたが、当時はそれが分からなかった。
対するポール・ニューマンには、キャサリン・ロスやドミニク・サンダ、シャーロット・ランプリングなどの美しい女優陣がよく似合った。誰かが「あれだけハンサムでなかったらもっと凄い役者になっていただろう」と書いていたが、恵まれた美貌のせいばかりではなく、性格的なものもあっただろう。あまり、野心を感じさせるタイプではなかったように思う。

そういう意味では、いい監督に巡り会った時、記憶に残る作品ができる俳優かも知れない。
『評決』は、後期の作品の中では彼らしさがよく出た佳編である。
落ちぶれたアルコール中毒の弁護士という役は、知性はあるが、どこか弱さを感じさせる彼にははまり役で、ひょんな事から弁護を買って出た裁判にのめり込み、友と恋人に助けられて復活を果たすという話だ。ジェイムス・メイスンという実力派の敵役を得て、単なるヒーロー像とはひと味ちがった男の哀感をにじませたいい仕上がりになっている。
もともと強いヒーローではなく、打たれ弱いが、芯には熱いものを湛えているといった複雑な男をやらせると、この人はいい味を出す。ストレートなヒーローを演じると、人の良さのようなものが出てしまって陰影が出ない気がする。
『明日に向かって撃て』では、逆にそれが幸いしてロバート・レッドフォードという新しい役者を引き立てることに成功し、自身もその効果で輝いたと言える。

歳をとってからも、ケヴィン・コスナーの父親役などで、いい味を出していたのが記憶に残っている。
華やかなことで有名なハリウッド・スターの中では、スキャンダルもあまり聞いたことがない。
碧い眼と笑顔が印象に残る爽やかなスターだった。冥福を祈りたい。
[PR]
by abraxasm | 2008-10-04 12:48 | 映画評

レンブラントの夜警

ピーター・グリーナウェイの『レンブラントの夜警』を観た。
映画館で映画を見るのは久しぶりである。
ハリウッド系の超大作やテレビ番組の劇場版ばかりやっているシネコンには足が向かないので、
ついつい映画館から足が遠のくことになる。
ところが、我が町にも一つだけ、他ではやらない映画を掛ける小屋がある。
ふだんはめったに行かないのだが、たまたま新聞の映画案内で見つけたのが、
久方ぶりのグリーナウェイだったわけだ。

もともと画家志望だったグリーナウェイの新作はなんとレンブラント。それも『夜警』ときた。
後から上に塗ったニスのせいで表面が黒ずみ『夜警』と呼ばれることになったが、
発表当時は昼間の光景を書いたものだというのが近年修復された結果分かった事実。
それでも、映画の中では黒っぽい画面のままで『夜警』という解釈なのがおもしろい。

野外のシーンは一部にとどまり、ほとんどはセット撮影。
キャメラ位置を固定した撮影はまるで舞台を観ているような感覚である。
彩度を落とした色彩、つねに鳴り続ける弦楽器。
グリーナウェイお得意の裸も小太りのレンブラントのそれだし、
久しぶりの映画館の暗闇に眠気に誘われてしまった。

映画のポイントになるのは『夜警』という絵画史に残る傑作に秘められた謎に迫るというもの。
『ダ・ヴィンチ・コード』の向こうを張ろうというわけではない。
確かにそれまでの群像を描いた肖像画とは異なるドラマティックな表現が気になる『夜警』である。
制作の裏に何か隠されたわけがあっても不思議ではない。

ネタバレは避けたいので、その秘密については見てもらうこととして、映画自体は今ひとつ物足りない。
美術好きの監督なら、画家が絵を描くところをもっと大事にしてほしかった。
何しろ相手がレンブラントである。ポロックを演じたエド・ハリスのようなわけにはいかないのは分かる。
そうはいっても、ほとんどキャンバスを見せないのは、期待を裏切ったと言われても仕方がないのでは。
えんえん馬の寝転ぶシーンを見せられた黒澤の『影武者』以来のがっかりである。

絵の裏にドラマを見るのは勝手だが、絵描きのドラマというのは絵の中にこそあるのではないだろうか。
「レンブラント・ライト」と呼ばれる独特の光線の秘密や、みごとな筆触の秘密をこそ暴いて見せてほしかった、というのが偽らざるところ。

名作を模したポーズが複数のシーンで描かれているあたりに、ようやくニヤリとすることができたのであった。
[PR]
by abraxasm | 2008-06-15 19:00 | 映画評

荒野の決闘

e0110713_1742354.jpg画面のずっと遠く、一点透視図法の消失点にあるのがモニュメンタル・バレーの奇岩だ。空はあくまでも広く、シルバーライニングを施されたちぎれ雲が浮かんでいる。寂寥感が胸に浸みる。
何度も見てきたはずだが、デジタル映像技術の進化か、こんなに美しい風景だったとは気づかなかった。画面のコントラストは、ハイキー気味で、その乾いた印象が荒野にぽつんと取り残されたようなトゥームストーン(墓石)という名の町に似つかわしい。
西部劇の古典的名作という触れ込みと邦題の影響で、決闘を主題とした典型的西部劇と思い込んでいたが、あらためて見てみると印象がちがう。
画面の上では復讐劇にありがちな怒りや怨みなどというギラギラした激情とはうらはらな平和な日常風景が描かれている。弟を殺された兄たちがよく飲み食いするシーンはどうだ。長兄のワイアットときた日にはポーカーに夢中である。
ドク・ホリディという気心の知れた友人もでき、日は何事もなく過ぎていく。
そんなところへドクの許嫁クレメンタイン嬢が現れる。ストーリーが動き出すのはここからだ。何と、ワイアットが恋に墜ちる。床屋で髪と髭を整え、おまけにハニー・サックル・ローズ(忍冬)の甘い香りの香水まで。
長身のヘンリー・フォンダの長い脚を効果的に使った、柱に足をかけて椅子を揺らせるシーンや教会建築を祝うダンス会場でのユーモラスなダンスシーンは忘れがたい印象を残す。
牛追い稼業のアープが東部のインテリ医師ホリディの教養に舌を巻くシーン。なんとドクは科白を忘れた旅役者に替わり『ハムレット』の長科白を暗唱してみせるのだ。朗誦の途中で喀血することで、東部の名外科医がなぜ西部でガンマンをやっているのかが分かる仕掛けになっている。理由も知らせずにクレメンタインを追い返すドクは「尼寺へ行け」とオフィーリアを去らせるハムレットに姿をダブらせている。
ワイアットがクレメンタインにキスをしたかしないかが話題になるラスト・シーンだが、ちゃんとしている。試写では握手だけの版だったのが、論争の原因だったようだ。
原題である『愛しのクレメンタイン』の曲が遠ざかるワイアットの馬上の姿にかぶさって見送るクレメンタインとの再会を祝福するように鳴り響いてエンドマーク。
ドクを追いかけるワイアットの馬による追跡シーンの疾走感は、今のカーチェイスなど色を失うような迫力に満ちている。決闘シーンのスピーディーな展開も緊張感が漲っている。悲運なドクと喜劇的なまでに幸福感に酔うワイアットとの対比と、最後までだれることなく物語を進めていく演出のテンポが心地よい。詩情に満ちたキャメラワーク、ウィットに富んだ脚本と、名作と謳われるに相応しい映画である。
[PR]
by abraxasm | 2007-01-13 17:24 | 映画評

覚え書き


by abraxasm