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e0110713_09572449.jpgバベルの塔をモチーフにした、カバー装画がいい。街ひとつをそっくり呑み込んだ建築物という絵柄が、この三部作に共通するであろう主題を象徴している。ファンタジーなのだが、ディストピア小説めいた趣きもあり、寓意を多用した思弁的小説の装いも凝らしている。とはいえ、その本質は様々な怪異に満ちたあやかしを次々と繰り出し、見る者の目を眩ませる大がかりな奇術。ちょうど、理想形態都市(ウェルビルトシティ)を支配するドラクトン・ビロウが主人公の目を楽しませる手品と同じように。

ヘルマン・へッセに『ガラス玉演戯』という小説がある。ガラス玉演戯というのは、「古代から現代に至るまでの芸術や科学のテーマをガラス玉の意匠として一つ一つ封じ込め、それらを一定のルールの下で並べていくことによって、ガラス玉に刻まれたテーマ同士の関係を再発見し、新たな発見・感動を生み出すという、架空の芸術的演戯」というものだ。

人格形成小説(ビルドゥングス・ロマン)だから、一人の人間が如何にして人格を作り上げていくのかを描いている。弟子として師足るべき相手を探し、一段一段認識を高めていく。その舞台が、一種の理想的学園都市で、音楽や数学をはじめあらゆる学問技芸のマイスターが集まるカスターリエンは、第二次世界大戦の惨禍に嫌気がさしたヘッセが想像した究極の理想郷である。

マスター・ビロウが作り上げた理想形態都市は、その裏返しである。師であるスカフィーナティに教わった記憶術、それは自分の心の中にある宮殿をつくり、記憶するべき考えを象徴する花瓶や絵画、薔薇窓といった物体に置き換え、宮殿内に配置するというものだった。知識欲の強いビロウは、宮殿ではおさまらず、それを都市の規模に変えた。そして、頭の中にある都市を現実に作り上げたのだ。

多くの人々の知恵や技芸が互いを高めあい、相補い合って生成してゆくカスターリエンとは逆に、ビロウ一人のために都市があり、人々はその構成物に過ぎない。理想形態都市の住民は魔物の角から精製した粉末で一時恍惚感を味わったり、辺境の村に住む珍奇な生き物や剣闘士の競技といった見世物を見たり、とパンとサーカスを与えられることで懐柔されている。しかも人口増加に業を煮やしたビロウは人員削減のために主人公に命じ、観相学的観点から見て劣位の市民を処分することまで始める。

主人公のクレイはビロウの覚えめでたい一級観相官である。高慢で自惚れが強く人を人とも思わぬ傲岸不遜な人物だが、ビロウには忠実だった。そのクレイがスパイアという鉱石の産地である属領行きを命じられる。教会に置かれていた白い果実が盗まれ、その犯人を観相術で探せというのだ。属領でクレイはアーラという娘と出会う。理想形態都市に憧れ、そこにある図書館で学ぶことを夢見るアーラは独学で観相学を学び、クレイに劣らぬ能力を持っていた。

アーラを助手にしたクレイは何故か自分の能力を一時的に失い、捜査をアーラに頼らざるを得なくなる。捜索に失敗すれば硫黄鉱山送りはまちがいないからだ。立場の逆転によって自尊心を傷つけられたクレイは詭計を案じ、アーラを犯人だと告発。捕らえられたアーラの顔にメスを入れることで、従順な相を生み出し反抗心を除去するという暴挙に出る。ところが、大事な手術の最中に麻薬の一種である美薬が切れ、手術は失敗。アーラの顔は二目と見られぬものとなる。なぜなら、その顔を見た者は恐怖のあまり死んでしまうからだ。

任務に失敗したクレイが送られるのがドラリス島という流刑地。かつて自分が罪人と決めつけた人々を送り込んだところだ。高熱と悪臭が充満する硫黄採掘場である。ダンテの『神曲』の地獄めぐりを思わせる、この世の地獄で、クレイは自分の犯してきた罪の深さを知り、アーラに赦しを請いたいと願うようになる。赦免され、理想形態都市に戻ったクレイはビロウの相談役の地位を得るが、面従腹背を貫く。都市の地下深くに作られたクリスタルの球体の中に閉じ込められたアーラたち属領の人々を救出する目的があるからだ。

「依頼と代行」、「探索」、「双子」、「権力の継承」といった物語の機能を都合よく配置し、それに獣人やら魔物、緑人といった『指輪物語』等でお馴染みの異形の者たち、ビロウの天才的な技術とアイデアが作り出す、人語を解し酒や料理を供する猿のサイレンシオや、旅の道連れでありクレイの守り人でもあるカルーという力持ちの大男といった魅力的な脇役を配し、物語は一挙に加速する。

独裁者が恐怖と幻覚剤で支配する都市国家とその周縁に位置する属領という対立に加え、人工的に作り上げられた享楽的都市生活に対し、自然に囲まれた平和な村落で構成される原始共産社会といった構図もある。理想形態都市が有する女性には決まった役割しか認めず、その資質は男に劣るという考えに対する、同じ能力を有する女性アーラによる異議申し立てがある。やがて対立は波乱を生み、暴発する。

ファンタジーの筋立ては決まりきったものだ。それを面白く読ませるために、物語を貫く思想、魅力的な人物や奇想溢れる異世界の建築その他の意匠をどう創造するか、物語作者はそれを問われる。『記憶の書』の評でも書いたことだが、この作家の特徴は人物その他の形象がビジュアルであることだ。人狼グレタ・サイクスの頭に埋め込まれた二列のボルトなどは、容易にフランケンシュタインの怪物を思い浮かべさせる。読者の想像力に負担をかけないところが、巧みといえば巧みだが、ある意味安易でもある。

上辺の分かりよさに比べると、寓意を鏤めた思弁的な装いはそう分かりやすくはない。あえていうなら、ドラクトン・ビロウは自己の能力を通じて世界を創造する神としてすべてを統括する欲望の支配下にある。理想形態都市も属領をその中に閉じ込めたクリスタルの球体も、ひとつの秩序の下にある完璧な世界を希求したものである。しかし、世界は常に生成変化する。完璧に作り上げた世界であっても、時間の経過によって、生成変化の過程で生じる余剰や夾雑物が生じ、秩序を一定に保つことはできない。コスモスはカオスを内包しているのだ。秩序と混沌との相克こそが三部作を貫いて流れるパッソ・オスティナートである。

ファンタジーのお約束として、探索を依頼された代行者は宝探しの旅に出る。様々な苦難の末、帰還するわけだが、ビロウに敵対する道を選んだクレイには、果たしてどのような結末が待っているのやら。その前に、まだまだ次のミッションがクレイを待ち受けているにちがいない。次は、どんな世界が舞台となり、どんな奇妙な生物がクレイに襲いかかるのだろう。これが連続活劇の持つ醍醐味である。第三部がいよいよ楽しみになってきた。

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by abraxasm | 2017-09-22 09:59 | 書評
e0110713_07292391.jpg表題に惹かれて手に取ったら表紙の絵がまた魅力的だった。それで読みはじめたのだが、冒頭に何の説明もなく書きつけられた「理想形態都市(ウェルヴィルトシティ)」という言葉につまづいた。どうやら、かつてあった都市で、今は廃墟と化しているらしいのだが、語り手は、そこで高位の役職についていたらしい。しかし、今は一介の市民となって、そこを離れ、薬草を採っては市場に持っていき物々交換で日用品を手に入れているようだ。また、助産師のまねごともやっているようで、人々の信頼も集めている。

今一つ、説明が不親切だなと感じ、頁を繰る手を一時止めて「訳者後記」を読んでみて納得した。本書は三部作の第二部をなす巻だったのだ。書く方としては、当然第一部を読んでいるものとして書きはじめているわけだ。続きを読もうかどうか迷ったが、語り手はなかなかの話し上手で、かつて語った都市の崩壊の物語とは全く異なる、新たな出来事の到来を告げるその口ぶりに、すっかりその気にさせられて読み続ける仕儀となった。

「楽園に、一匹の魔物が野放しになっている。過去をよみがえらせることによって人々を惑わせる魔物が。」

この警告にある魔物というのが、まあ驚くなかれ、なんともチャーミングな魔物なのだ。その外見は教理問答の挿絵にでも出てきそうな、鉤爪に長い尻尾、大きな蝙蝠状の翼を持ち、頭には角、口からは牙をのぞかせている。歴とした魔物の姿をしていながら、廃墟で拾った眼鏡をかけ、人語を解し、いざとなったら料理も作ってくれる、道徳的な心の持ち主ときている。名はミスリックス。理想形態都市を作ったドラクトン・ビロウが<彼の地>で捕獲し、我が子として教育を施したのだ。

魔物の特技は、相手の頭に手を置くことでその人の考えていることや記憶のすべてが自分の中に流れ込んでくるという超能力だ。その力によって、父であるマスター・ビロウの恐るべき能力、知力を知ることができた。ところが、ビロウが送り込んだ人工の鳥が撒き散らす霧を吸った語り手クレイが暮らすウィナウの人々は次々と眠り込んでしまう。解毒薬を求めてクレイはビロウの住む理想形態都市の廃墟に出向く。老いぼれ馬に乗り、飢えた犬とクロスボウだけを頼りに。

人狼に襲われたところを助けてくれたのがミスリックスだった。ビロウの記憶をたどったとき、クレイの姿を目にしていたのだ。魔物に手を引かれてビロウのもとを訪れ、クレイは知ることになる。試験管を持つ手を滑らせ、ビロウもまた同じ薬品を吸い、眠りについたことを。解毒剤の在りかを訪ねるクレイにミスリックスの鉤爪が指し示したのは、ビロウの頭だった。彼は頭の中に記憶の宮殿を作っていた。その中にはすべてが象徴の形で収められている。そして、それぞれが何かを象徴する人も住んでおり、研究に励んでいるという。

ミスリックスの手が、ビロウとクレイの頭の上に置かれ、クレイはビロウの頭の中に運ばれる。そこは眠るビロウの記憶によって形作られた小宇宙だった。波打つ水銀の海の上空に浮かぶ小さな島には一望監視装置(パノプティコン)が聳え、そこからは時折、空を飛ぶ生首が研究者たちの思念を読み込もうと目を光らせて飛び出してくる。四人の研究者たちはどこからかそこに連れてこられ、研究を命じられている。逆らえば、<優男>という化け物が表れて彼らを食べてしまう。すでに一人仲間を失っているらしい。

クレイはアノタインという女性研究者の協力を得て、解毒薬を探そうとするのだが、アノタインの魅力にすっかり参ってしまったクレイは、ともすれば使命を忘れがちになり、何もかも忘れてアノタインンとの暮らしを満喫してしまいそうになる。そうこうするうちに、ビロウの体力が落ちてきたせいか、空に浮かぶ島は少しずつ崩壊し始める。崩壊を食い止めるためにはビロウの眠りを覚ますしかない。解毒薬を求めて、クレイは生首や<優男>と闘い、一望監視装置の中に入るのだったが、そこにあったものとは。

空想とはいえ、一応地上に存在する都市その他を舞台とするのではなく、人間の頭の中というインナー・スペースを舞台とするファンタジーである。ル=グウィンなどの手にかかると、灰色の茫漠たる世界のように描かれることの多い内的世界だが、この人の手にかかると、何ともわかりやすい。むしろ見えすぎるくらいの明るさで描かれるのが興味深い。空飛ぶ生首などというマンガチックなガジェットには笑ってしまった。

水銀の海というのは、一応無意識の隠喩なのだろうが、時間の順序はバラバラにせよ、そこに描き出されるのはビロウの愛の物語の記憶である。神ならぬ人間の、意識はともあれ、眠っているのだから、そこには無意識の世界が広がっていなければなるまい。合理や論理では説明のつかない、もっとどろどろとした欲望や正体の分からない何物かが息をひそめて待ち構えていてほしい気がするのだが、それはこちらのない物ねだりらしく、映画化でも狙っているのかと思うほど、どこまでも具体的かつピクチャレスクな風景が展開する。

美薬という麻薬紛いの薬品を、魔物もクレイもやたらと摂取するのだが、そこに倫理的葛藤などなく、むやみに心地よい楽園状態のなかで全能感に浸り続けるわけで、大丈夫かなあ、と心配になってきたりもする。第一部を読んでいないので、このクレイという人物について、全くと言っていいほど基礎的知識を欠いている者が評しているのだ。完全な勘違いということもあるだろうが、クレイのやることなすこと場当たり的で適当な感が強い。これで三部作の主人公がつとまるのだろうか、という感想を抱いてしまった。と、こうまで書いてしまうと第一部『白い果実』、第三部『緑のヴェール』も読まなくてはなるまい。

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by abraxasm | 2017-09-12 07:29 | 書評
e0110713_13034019.jpg大金持ちが島を買って、金にあかせて島を好き勝手に作り変えてしまうという話が主題の一つになっている。ポオの『アルンハイムの地所』や『ランダーの別荘』に想を得たと思われる江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』を思い出させる趣向である。しかし、中身はまるでちがう。ポオや乱歩の自己の夢想に忠実な仮想空間の実現という、ある意味純粋な個人の欲望の具現化に対して、サー・ジャックがやろうとしているのは、観光目的の施設の姿を借りた独立国の創設である。その意味では、既存の国家の中に独立国を作ろうとする井上ひさしの『吉里吉里人』の方が似ているかもしれない。

『フロベールの鸚鵡』や『101/2章で書かれた世界の歴史』を書いたジュリアン・バーンズは英国小説界きっての知性派で知られている。歴史に対する懐疑的な姿勢は前掲の二作にも明らかだが、個人の記憶に関して同じ主題を扱った『終わりの感覚』が、いちばん気に入っている。本作が主題の一つにするのも、一つは個人の記憶の不確かさであり、アイデンティティというものが持つ曖昧さである。それは、主人公であるマーサ自身のアイデンティティであり、イングランドという国家のそれでもある。

そういうと、いかにも難しそうな気がするが、三部構成の一部と三部がマーサの少女期、晩年にあてられ、脂の乗りきった中年のマーサが活躍する第二部が、小説の中心であり、サー・ジャック・ピットマンの片腕となって「イングランド・イングランド」を創出し、やがてそのCEOとなるまでの波乱万丈の人生はまさに怒涛のエンタテインメント。知性派の側面をかなぐり捨て、とまではいかないものの皮肉と諧謔を椀飯振舞して読者サービスに勤めている。ブッカー賞の最終候補まで行ったのも分かる。

マーサの父は、マーサが子どもの頃、家を出て戻らなかった。多くの子がそう感じるように、両親の離婚の原因が自分にあるように思いこんだマーサは賢く育ったが、神を信じず、皮肉屋で、男は誰もがマーサに惹かれたが、マーサはそうではなかった。成人したマーサは父との再会を果たすが、マーサの記憶の中心部分を占めるジグソーパズルも、父の記憶からはすっぽり抜け落ちていた。最後のピースが失われたせいで完成しないジグソーパズルは、マーサの人生の暗喩になっている。

さて、小説の核となる第二部は、「タイムズ」を買い占め、ワイト島にイングランドのレプリカを作るサー・ジャックという成り上がり男の野望を描く。マーサは、近くにイエスマンばかりが集まるのを厭うサー・ジャックがコンサルタントとして雇い入れた、いわば任命皮肉屋である。そこには、公認歴史学者のマックス博士、アイデア・キャッチャーのポール・ハリソン、その他のスタッフが集まり、アイデアを出し合う。ピットマンは、島内に二分の一サイズのバッキンガム宮殿を造営し、金と甘言を駆使して国王夫妻を迎え入れる。

その名も「イングランド・イングランド」という観光施設は、ディズニー・ランドではないと言いながら、まさしくその英国版。ビーフ・イーターもいれば、ロビン・フッドのアトラクションもある、イングランドを満喫するべく造られた総合アミューズメント施設である。イングランドのアイデンティティとは何か、をとことん追求してゆくのだが、そこに出てくるのは底の浅い、出来合いのイングランド像であって、アメリカ人や日本人観光客が喜びそうなものばかりだ。

おそらく愛情の裏返しなのだろう。徹底的に戯画化されたイングランド像がそこにある。そこを支配するサー・ジャックもまたその戯画化を免れない。自身は所属しない名門クラブのメンバーにしか許されないサスペンダーをし、唯我独尊。相手を挑発し、すべて自分の思い通りにいかなければ許せない。ある意味幼児的な自我は、赤ちゃんになっておむつをされて喜ぶという秘密の趣味を持つ所に現れている。いつクビにされても文句を言えない立場であるマーサとポールは、サー・ジャックに切られた新聞記者を雇い、その秘密を探り当てる。いざというときはこれを使って強請るつもり。それが功を奏して、ついにCEOに上りつめたマーサであったが、最後のピースは敵の手にあった。

第三部はオールド・イングランドのその後を描く。「イングランド・イングランド」を追放されたマーサは、諸国をさまよった後、故国であるイングランドに戻るのだが、国家の実体、つまり経済から情報発信、それに国王まで「イングランド・イングランド」に奪われてしまっては、旧イングランドに以前のような威厳は亡くなっていた。国土は荒れるままに放置され、それこそロビン・フッドがいた頃のアングリアに戻ってしまっていた。オールド・ミスと子どもに囃される年齢になったマーサは、故国と自分の来し方、行く末を見つめ感慨に耽る。

このすべてを奪われ、ただただ国民国家以前の旧態に先祖返りしてしまった旧イングランド、現在はアングリアと呼ばれる土地に、何故か不思議に惹かれる。インフラが整備されず、食べる物すら自給自足の産物でまかなうしかない、究極の地場産業、スローフードな暮らし方。進歩とも成長とも無縁のありのままな暮らし方。もし、許されるなら、私もそこで暮らしたいとさえ思う。メディア王によって国を丸ごと買い占められたオールド・イングランドをディストピアとして描きながら、おそらく、現実としてはあり得ないユートピアを皮肉にもそこに現出させる魔術師のような手捌きにうっとりさせられた。

主題であるアイデンティティについてマックス博士がマーサに説く言葉に我が意を得た思いがした。「私に言わせれば、たいていの人間は自分の人となりの大部分を盗むのだ。そうしなければ、貧しい人間ができあがってしまう。あなただって、意識するしないにかかわらず、大なり小なりそうしたつくりものなのだよ」。このどこか作家自身を彷彿させるマックス博士の言葉をもう一つ引いておく。「愛国心の最も熱烈な同衾者は無知であり、知識ではない」。これもまた然り。

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by abraxasm | 2017-09-10 13:03 | 書評
e0110713_17350720.jpg便利になったものだ。机上のモニターにグーグル・マップでリージェンツ・パーク界隈を開いておいて、作中に現れる場所を打ち込んでいくと、人物たちの移動ルートが手に取るように分かる。特に主人公が住んでいるパーク・ヴィレッジ・ウェストなどの高級住宅地では、建っている建築物の写真が見られ、なるほどこんな感じのところなんだな、と分かる。おそらく、作者もその辺を分かって書いているのだろう。異様に詳細に移動経路を示している。

紙の地図で、登場する通りの名を調べようとしたら、多分すぐにあきらめてしまうだろう。人物が角を曲がるたびに、次から次に出てくるアベニューやレーンの名前は地図ではなかなか見つからない。一度や二度ならロンドンにも行ったことはあるし、リージェンツ・パークも歩いて横切ってはいる。記憶に残っているのは、広い緑地を小径が走り、ところどころにベンチが設けられていて周囲は木立で囲まれているといった景観だ。野生の栗鼠が足もとで木の実を食み、リードもついていない大きな犬が走り回っていた。

謎解きミステリではない。無論、連続殺人は起きるし、犯人は最後に逮捕される。ただ、それを追うのがストーリーの中心ではない。犯人の目星を付けるための必須アイテムである、例の、主な登場人物の紹介もない。主人公は、メアリという若い女性である。DV男と縁を切るため、それまで住んでいた家を出て、長期のバカンスをとる祖母の友人の家の留守番をしようとしている。男は未練たらたらで、後を追ってくるのは見え見えだ。

メアリは、過去に骨髄移植のドナーになった経験がある。団体から手紙が届き、移植を受けた相手の名が分かり、偶然、留守番先の近くに住んでいることが分かる。当然二人は出会い、恋に落ちる。三角関係のもつれで殺人事件が起きるかと思いのほか、殺されたのはホームレスだ。植え込みや、草地の多い公園内は、夜間は施錠されるが、ホームレスが夜を過ごす絶好の場所になる。ところが、それを憎む者がいたのだろう。死体は、わざわざ公演を囲む鉄柵についたスパイクに串刺しにされていた。二人目の死体が出るころには犯人には<串刺し公>という異名が付いていた。

ある意味、主役はメアリではなく、リージェンツ・パークそのものではないか、と思えてくる。それというのも、この公園を根城にしたり、そこを毎日の仕事場にしている複数の人物が、事件に絡む。その人物たちをつなぐのが、公園という、身分の上下、階級の差を問うことなく、誰もが利用できる公共の<トポス>である。メアリは、公園の東に隣接する高級住宅地パーク・ヴィレッジ・ウェストから北西に位置する仕事場まで、公園を抜けて通勤している。そこで、よく目にする一人のホームレスがいる。

青い目に顎髭を生やし、Tシャツにジーンズ、くたびれたスウェットシャツ姿の男の名はローマン。オックスフォード訛りが残るのも当然で、かつては近くで友人と二人出版社を経営していた。交通事故で、妻と二人の子をなくしてからというもの、思い出が染みついた家を売り払い、ホームレス暮らしを続けていた。そんな自分に普通に挨拶をしてくれるメアリのことが気になり、ひそかに彼女を見守っていたのだ。

もう一人、メアリの家の持ち主が犬の散歩に雇っているビーンという男がいる。もとは、資産家の家に勤めていたが、SM狂いの主人が、彼に遺産としてその家を残してくれたので、今でもそこに住んでいる。ただ、年金だけでは家を維持していけないので、資産家の犬の散歩を何軒も抱えて、運動を兼ねてアルバイトしていた。公園の周囲に住む顧客から犬を預かっては公園内で運動をさせる。コースを考えれば、無理なく運動ができるのだ。ただ、この男は悪党で、弱みを握ったら相手をいたぶることを厭わない。

最後に、麻薬を買う金欲しさに、人に金をもらっては相手を傷めつけるのを仕事代わりにしているホブという男がいる。コカイン中毒で、公園の柵を乗り越えては、茂みに隠れて吸引し、ハイになったところで仕事にかかる。これらの怪しい男たちが、金や自分の嗜好のために、相手を利用し、使い捨てる。本邦の二時間ドラマのように、深い怨恨や愛憎ばかりが殺人の理由ではない。

さすがにルース・レンデル。普通なら交わらないだろう階層にある人物を、その人物がそれまで送ってきた人生の中で、すれ違うようにして持つに至った極めて薄い縁を巧妙に生かして話を組み立てている。あまり重要でない、と読み飛ばしそうな、つまらないうわさ話や、ふと目に留まる情景のなかに、丹念に手がかりを埋め込んでいる。祖母の遺産を相続することになるメアリの財産を狙う男の首尾を見極めるのに汲々として読み終えた後、もう一度、今度は連続殺人事件の真相を最初からたどらなくては気が済まなくなる。

ええっ、こいつが犯人?とぼやきたくなる真犯人に、突っ込みの一つも入れたくなるが、ミステリの常道をあえて無視した展開も、サスペンス小説なら許される。ではありながら、再読時には、ここをしっかり読んでいれば、犯人が何故、ホームレスの串刺しにこだわるのか、事件がある一定の範囲で起きる理由も分かっただろうに、と思わされる記述が、実に丁寧に書かれていたことに思い至り、老練な作家の手腕に讃嘆しきり。サスペンスの女王という呼び名に偽りはない。

それにしても、地図上に描かれた道をたよりに、人物の行き来をたどっていると、よく歩くものだなあ、と感心せざるを得ない。しかし、考えてみれば無理もない。鉄柵で囲まれた園地内に車は入れない。周りを走る地下鉄を乗り換え乗り返して、それを降りてからまた歩くより、公園内を突っ切ってしまうのが一番はやいのだ。読んでいて、またロンドンに行ってみたくなった。

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by abraxasm | 2017-09-05 17:35 | 書評
e0110713_12200356.jpg<上下巻併せての評です>

誰にでも人生の転機となった日というものがある。フワン・ディエゴにとって、それは十四歳のとき、父親代わりのリベラが運転していたトラックに過って足を轢かれた日だ。後輪に挟まっていた鶏の羽をとろうとしたところへ、サイドブレーキが引かれていないトラックがバックしてきた。足は潰れ、二時の方向に開いたままになった。障碍を背負って生きることにはなったが、それが自分の生きる方向を決めたことはまちがいなかった。彼は自分が行動するのでなく、他人の人生を観察し、彼らの人生を描く小説家になったのだ。

メキシコのオアハカ。ゴミの山の麓に建つ小屋に、フワン・ディエゴは住んでいた。小屋はゴミの山のボスであるリベラがゴミの中から掘り出した廃材で建てられていた。用済みとなった本をゴミと呼んでは、本好きに叱られそうだが、読者の心に残ったものは、その人の中にいつまでも存在し続け、時にはその人を作る一部となる。だとすれば、本自体は捨てられることにより、他者の手に渡る。そして、次の読者もまた同じことをする。ゴミの山は、金属その他のリサイクル品に限らず、知識や情操を養う宝の山でもあるのだ。そういう意味では、文学や哲学、歴史書の埋まったゴミの山は、そこで育った作家にとっては創作の前線であり、補給路でもある。

山の上からはゴミを焼く火から何本もの煙が空に上り、空にはハゲワシが舞い、地上では犬が吠える。犬の死体はハゲワシの餌食となり、最後はゴミと一緒に焼かれてしまう。時には人さえ焼かれてしまう。ゴミの山から金目の物を拾い集める少年たちはダンプ・キッドと呼ばれた。それが彼らの仕事だった。フワン・ディエゴはちがった。彼の漁るのは本だった。イエズス会の図書館が廃棄した他の宗派によるイエズス会批判の書であれ、小説、批評等の文学書であれ、彼はすべてを読んで、独学でスペイン語や英語を学び、自分の頭で考えることを学んだ。人は彼をダンプ・リーダーと呼んだ。

彼には一つ年下の妹がいた。名前はルペ。グアダルーペの聖母からもらった名だ。喉に障碍を持つルペの話す言葉は兄をのぞいて誰にも理解できなかった。ルペは人の考えていることや、その人が負っている過去、時には未来まで読んで兄に話していたのだ。手に入るのは子ども向けの本ばかりではない。彼はそれを朗読して妹に聞かせる。大人も知らないことを語り合う二人の異様な兄妹はこうして育った。妹の言葉は他の誰にも理解できない。フワン・ディエゴは、人に聞かすことのできない悪口や都合の悪いことはわざと訳さない。二人のやり取りは傍にいても他人には分らないからだ。こうしてルペの言葉は予言や託宣のようなものとして人に伝わることとなった。

ルペによれば、自分たちは奇跡なのだ。特に兄のフワン・ディエゴは。その奇跡を求めてか、何故か少年の周りには人が集まってきた。フワン・ディエゴに教育を与えたいと願うイエズス会修道士のペペ。足を轢かれた朝、アイオワから飛んできた神学生で、彼の教師となるはずのエドゥアルド・ボンショー。無神論者の整形外科医バルガス。良心的徴兵拒否者で体にキリスト磔刑図のタトゥーのあるグッド・グリンゴ(良きアメリカ人)。女性よりも美しいトランスヴェスタイト(異性装)の娼婦、フロール。彼らと巡り会うことで、フワン・ディエゴの人生は大きく動くことになる。

それは、フワン・ディエゴを取り巻く人々にも言えた。彼らは一様に負い目を感じ、人生から逃げていた。バルガスは家族全員が乗る飛行機に酔いつぶれていて乗り遅れてしまった。その機が墜落し、全財産は彼が相続した。彼は自分が許せない。フィリピンの戦場で戦死した父のために良心的徴兵拒否者となるはずのグッド・グリンゴは、徴兵を逃れてきたメキシコで、メスカル酒と娼婦に溺れるメスカル・ヒッピーと成り果てていた。心の優しさを臆病と誤解され、家族と折り合いのつかないエドゥアルドもまた、大学を放棄してイエズス会に逃げ込んでいた。彼らは生の意義を取り戻すために、我知らずフワン・ディエゴを求めたのかもしれない。彼の潰れた足は聖痕(スティグマータ)だったのだ。

主人公フワン・ディエゴは小説が始まる時点で五十四歳。アイオワ大学で学生に創作を教えていたが、引退して作家一本でいこうと考えている。高血圧のため、アドレナリンの放出を抑えるベータ遮断薬を処方されている。そのせいで性欲が減退するのは、バイアグラでなんとかできても、彼の大事な夢を見る能力が奪われてしまうことに不満を覚えている。フワン・ディエゴは五十四歳の作家となった今でも、十四歳当時の記憶を手放すことができないでいる。彼の中には十四歳のフワン・ディエゴが生きている。というか、フワン・ディエゴは二つの自己に引き裂かれているのだ。

引退記念としてフィリピン旅行中の今も、その問題が彼を襲う。薬をスーツケースに入れてしまったのに、大雪のせいでJFK空港で二十七時間も待機中なのだ。フィリピン旅行の目的の一つは、名前も知らないグッド・グリンゴの代りに、死ぬ前に約束した彼の父の墓参りをするというものだ。彼は今回の旅を感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)だという。負い目を感じたまま一生を送ることはできない。十四歳の自分にはできなかったが、今の自分にはできる。なぜなら、彼は作家であり、充分に生きることのできなかった人たちの生を、描くことで再び蘇らせることができるからだ。

アーヴィングは、アドレナリンを抑圧する薬と性欲を亢進する薬の二種類の薬の不都合な摂取により、フワン・ディエゴを十四歳当時のオアハカ時代の彼と現在のフィリピン旅行中の彼を、夢を媒介にして交互に切り替える。夢うつつの状態でいる初老の小説家はバイアグラのせいで性的妄想の虜となり、ファーストクラスで知り合った二人の魅力的な女性に宿泊先や旅程を好きなように変更されても言いなりになる。しかも、その二人の女性は以前にどこかで見かけたような気がするだけでなく、不思議な事実がついて回る。二人とも、鏡に映らず、カメラにも映らないのだ。

初読時は読み飛ばしてしまうのだが、実はこの二人に対する言及は、実に注意深く書かれている。ルネサンス絵画の大作の端に画家が描く自画像のように、誰の目にも止まらないけれど、フワン・ディエゴの目には映っているのだ。まるで守護天使のように、彼の人生が危機的状態に落ち入りそうになると、どこからともなくヴェールで顔を覆った二人の黒衣の女性が姿を現し、危機から脱した時には忽然と姿を消す。二人の黒衣の女性は、足をつぶされたあの日イエズス会の教会にもいたのだ。

初老の作家のエロスとタナトス塗れの一大ドタバタ劇と思春期を生きるみずみずしい二人の兄妹と彼らを見守る大人たちの悲喜劇を、見事なプロットと細部にわたる書き込みを通じて、壮大かつ華麗に描き切ったジョン・アーヴィングの力の入った長編小説である。上下二巻という大作だが、一気に読み通してしまうこと請け合い。とんでもなくおかしいのに、ひどく悲しい、不思議な小説世界はまるで魔法の国だ。表題の神秘大通りとは、グアダルーペの聖母の巡礼が歩く通りのことだが、作品の中で起きるすべてが神秘であり奇跡である。小説そのものが『神秘大通り』なのだ。

人道的な立場からの中絶等に対するカトリックの教義批判、性的少数者に対する差別批判、アメリカが関わった戦争への批判、コンキスタドールによるメキシコ侵略が齎した混乱、サーカスの世界、そのほか多くのテーマが取り上げられている。それら全部について触れるのは無理なので、ゴミの山ならぬ既存の文学から自分の文学を作り出す手法についてだけ、触れておきたい。

フワン・ディエゴが一時身を寄せたサーカス団にいた一座の花形で脚の長い少女ドロレスのことだ。魅力的な少女からただの妊婦へと堕落する少女のドロレスという名は、ナボコフの『ロリータ』を彷彿させはしまいか。また、レストランで何十年ぶりかに会った昔のいじめっ子の昔と変わらぬ強圧的な態度に、その家族の前で、かつて、その男がしたこと言ったことをぶちまけてみせる場面には、ウィリアム・トレヴァーの『同窓生』を思わせる怖さがある。アーヴィングを読むのは初めてなので、自作からの引用については分からないが、旧知の読者なら易々と見つけ出すことだろう。文学から作り出される文学の持つ豊饒さは文学を愛する者には何よりの愉悦である。堪能されたい。

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by abraxasm | 2017-09-03 12:20 | 書評
e0110713_17353680.jpgメキシコ湾に浮かぶタグ・ボートの上。セメントの桶に両足を浸けた男が、こう回想する。「いいことであれ悪いことであれ、自分の人生で起きた大事なことはほぼすべて、エマ・グールドと偶然出会った朝から動きはじめたのだ」と。シェルシェ・ラ・ファム(女を探せ)というのはノワールの合言葉だ。ジョーが心を奪われるファム・ファタル(運命の女)は、エマ・グールド。対立関係にあるギャングのボス、アルバート・ホワイトの情婦だ。

「コグリン三部作」の第二部。デトロイト市警警視正トマス・コグリンには、同じ市警に勤めるダニー、と検事補のコナー、それに末弟ジョゼフの三人の息子がいた。だが、『運命の日』で主人公を務めたダニーは、ストライキ後職を離れ、妻ノラとともにボストンを去り、失明したコナーも家を出ていた。月日は経ち、当時十二歳だったジョゼフも家を出て、今はパオロとディオンというイタリア人兄弟と組んで盗みを働いていた。

誰かが本作のことをビルドゥングス・ロマンと評していたが、なるほど、少年がいろいろな経験を積んで大人になり、自分の人格を形成していく過程を描くのがビルドゥングス・ロマンである。あの幼なかったジョゼフが無法者のジョーとしてその世界で成り上がり、ついにはギャングのボスにまで上りつめる姿を描く本作を、そう言ってもまちがいではないだろう。

『運命の日』が、ダニーやルーサーをはじめ多くの人物の人生が複雑に絡み合い、おまけに警官たちのストライキ騒ぎに始まる暴動という歴史的事件を扱った厚みのある小説であったのと比べると、本作の視点はジョー一人に寄り添い、どこまでもその成長を追うクライム・ノワールに徹している。愛する女の死、父の死、いつ殺されるかもしれない監獄で息を詰めて暮らす恐怖とビルドゥングス・ロマンにつきものの試練とやらもたっぷり用意されている。

腕力では到底兄にかなわないジョーは、集中して計画を練り、大胆に行動する頭脳派だ。だが、欠点もある。情に脆く女に弱い。一度好きになるとふだんの冷静さを失い、とことん突っ走ってしまう。銀行強盗で逃走中警官を死なせて手配中なのに、女と待ち合わせたホテルのパーティー会場に出かけるのだから無茶だ。その挙句がボスにつかまって殺されるところをトマスの手で助けられる。

エマとの出遭いがけちのつき始め。やることなすこと裏目に出て、とうとう刑務所に入れられる。何人もの刺客に襲われ、撃退したところでマソという老ギャングに庇護される。見返りは、トマスの協力だった。少々のことはできても、息子のために人殺しはできない、と殺人の依頼を拒否する父。その代わりにと大事にしているパテック・フィリップの懐中時計をジョーに手渡すトマス。これで命を買え、と。余談だが、この時計本当に命を救う。

末っ子が可愛いのは、どこの父親でも同じらしい。あの厳父が、ジョーにはどこまでも優しい。殺人の依頼を蹴って、息子を救う手立てがなくなると、神や先祖にまで祈る。そして、その最期は息子の小さい頃の悪戯を思い出しながら。父の死を契機にジョゼフは変わる。父の死は寂しいが彼を自由にした。ジョーは、あれほど憧れていた兄ダニーの申し出も断り、ギャングの世界で生きてゆくことを宣言する。つまり、「夜に生きる」のだ。

父のトマスも、兄のダニーも自由ではなかった。父はアイルランド系移民の警察官として一族を引っ張り、高め、維持するために汚いことにも手を染めて生きなければならなかった。ダニーはそんな父に反発し、まっとうな刑事として生きようとしたが、組合の幹部として多くの仲間を率いていかねばならなかった。その結果が失職だ。ジョーは、ルールに縛られる昼ではなく、自分がルールを作る夜に生きることを選ぶ。

ボストン市警ストライキという歴史的事件を前面に押し出していた前作のようには、歴史的事件は表面に出てこない。ただ、サッコとヴァンゼッティの絞首に始まり、ルーズベルト大統領によって禁酒法が終わる時代を背景に持つことははっきり分かるように書かれている。もう一つがキューバとの関係だ。刑期を終えたジョーは、マソの配下としてタンパを仕切り、ラムを売る。それを仲介するのがキューバ人のエステバンとグラシエラ。

当時のキューバは相次ぐ政変やクーデターで混乱していた。二人は反政府勢力のために武器を手に入れる必要があった。ラム酒の専売に手を貸す交換条件としてアメリカ海軍の輸送船から武器を強奪するのに手を貸せという。ダニーとちがってジョーには大義がない。グラシエラが好きだからやるまでだ。たしかに、ジョーは成長していくが、大人になってもジョーには甘さがある。情に流されるのだ。

セメント桶に足を浸けてタグ・ボートに乗せられるのも、裏切ったディオンを殺せという、ボスの命に背くからだ。てもまあ、そこが魅力といえばいえる。ジョーはギャングになりきれない、無法者だ。彼ほどの能力があり、忠実な部下や相棒がいたら、ボスの命令に従ってさえいればのし上がっていけるだろう。しかし、それでは自由ではない。ジョーは、ルールを自分で作るために、夜に生きることを選んだのだ。

再三の急場も誰かの救援によって何とかしのぐ。ちょっとご都合主義に思えるが、冒頭の回想でセメント桶について言及しているということは窮地は脱したということだ。華々しいギャングの抗争劇の裏に、裏切りと信義、父と子の情愛と確執、といった主題を蔵した『夜に生きる』は、まぎれもないデニス・ルヘインの力作である。三部作の完結編が『過ぎ去りし世界』。これも読ませる。出来れば順に読むに越したことはないが、どこから読んでも問題のないように一話完結で読めるよう書かれている。

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by abraxasm | 2017-07-25 17:35 | 書評
e0110713_06213719.jpgいつも同工異曲。似たような素材を相も変らぬ調理法で俎上に載せているのだ。飽きられても仕方がない。それなのに、新作が出るとついつい手に取ってしまう。それがまた期待を裏切らない出来映えになっているところが驚異だった。ところが、ここのところミルハウザーの新作を評する気になれなかった。いよいよミルハウザーも煮詰まったか、と残念な思いでいたのだが、本作は久しぶりに堪能。そうか、長編でもなく、短篇でもなく、中篇(ノヴェラ)という手があったか。そういえば、『三つの小さな王国』はじめ、中篇には佳品が多かった。

短篇と中篇の違いについて、柴田氏は、訳者あとがきのなかで「短篇は概して世界の一断片を切り取ろうとするのに対し、中篇は限定された一つの世界の全体を描こうとする」と書いている。博物館にしろ、土牢にしろ、徹底的に作りこまれた細部を増殖させてゆくミルハウザーのような作家にとって、世界を断片として切り取るだけでは満足できないにちがいない。これでもか、というくらい書き込んで初めて一つの世界が現出するのである。その細部にまで手を抜かない作りこまれた世界あっての、ミルハウザーだったのだ。

三篇が収められている。第一の「復讐」、第二の「ドン・ファンの冒険」、最後に表題作「木に登る王」と、読み進むにつれて次第に長さと読みごたえが増す。しかも、男女の恋愛が三篇をつらぬくテーマとなっているところが、いつになく一冊の本としての統一感を感じさせる。単に適当な長さの作品を三つ集めて編んだのではなく、そこには作家の明確な意図が感じられる。そうなのだ。本作は、いつものミルハウザーとは一味違う。

いやいや、心配には及ばない。「復讐」には、幽霊がとり憑いた一軒の家、「ドン・ファンの冒険」には、イギリス風庭園の中に仕込まれた人工楽園の世界、そして「木に登る王」には、迷路のように枝分かれする地下道を持つ王の城、といったお定まりのアイテムがちゃんと用意されている。特に「ドン・ファンの冒険」には、機械仕掛けで鳴くナイチンゲールや中身を刳り貫かれた岩を押し上げるシシュポスまで、これぞミルハウザーと思わせる凝りに凝った仕掛けがたっぷりと用意されている。

それでいながら、どこか違和感がある。同じ本やその他の商品を並べていてもヴィレッジヴァンガードと丸善がちがうように。どちらかといえば、これまでのミルハウザーはヴィレヴァンのような作家だった。明確な路線があって、ひたすらその世界を拡充するといったタイプに思えたのだ。ところが、ここへきてまさかの路線変更か。扱う素材はほぼ似ているのに、見せ方が異なる。主題が男女間の恋愛というのにも驚いた。それも不倫や三角関係である。これは文学の王道だ。ミルハウザーはいつから本格小説作家になったのだ。

夫に死なれ、妻が家を売りに出す。どの部屋にも本棚がある。見学者に家の中を案内しながら、夫との生活を語り聞かせる、全編これモノローグ。夫は生前不倫していた。告白を聞いて以来の懊悩惑乱ぶりを、見学者相手に語り尽すのだが、次第に調子が変わってくる。実は聞き手の女こそが夫の不倫相手なのだ。夫の恋人を地下室で切り刻む(想像上の)場面やら、首を括り損ねた屋根裏部屋の梁やら、いちいち実物を示しながら語って聞かすのだから、想像するだに怖ろしい。胸に覚えのある御仁は「復讐」は読まないほうがいい。本を読み、想像力豊かな妻がいるなら尚更だ。

「ドン・ファンの冒険」は、言わずと知れた伝説の遊蕩者ドン・ファン・テノーリオのアイデンティティ・クライシスが主題。ヴェネチアでの放蕩にも飽きたドン・ファンは彼の地で出会い、意気投合したイギリス人を訪ねることにした。サマセットのスワン・パークに館を持つオーガスタス・フッドは最近造園に凝っていた。「二百エーカーに及ぶ岩屋、滝、くねくね曲がった小川、いきなり遠くの展望が開ける広場、木製のベンチ、廃墟となった修道院」つまり、イギリス風景式庭園のはしりである。

それもただの庭園ではなく、ポオや江戸川乱歩が夢想した奇想に満ち、趣向を凝らした今でいう一大テーマ・パークを建設中であった。これでこそいつものミルハウザー、と安心したのも束の間、いつもなら庭園作りに夢中になる男が主人公なのに、今回は脇役。主役はもちろんドン・ファンで、その相手を務めるのがフッドの妻のメアリ、とその妹のジョージアナ。いつもなら気質の異なる姉妹の二人ともいただくはずのファンが、なぜか今回はなかなか手を出さない。どうも勝手が違うのだ。二人の女の間で虻蜂取らず状態に陥ったファンはとうとう病気になってしまう。

夫のある身でファンの虜となってしまうメアリ。しかし、簡単に落ちる姉より、手ごわい妹の方が気になるファン。三人の男女の恋愛感情の揺れ動く様を、人工のエデンやアルカディアを舞台にスペクタクルに描き出すミルハウザーだが、いつものように一瀉千里に拵え物の世界の完成を急ぐ勢いがない。どうやら今回は、外界よりも内界に目を移して、人間心理のあやを追うのに夢中らしい。女に翻弄されるドン・ファンのアイデンティティ・クライシスはかなり深刻で、負った痛手は深そうだ。

そして、最後に待つのが中世の宮廷詩人たちが語り伝えた恋愛物語、ワーグナーの楽劇でも知られるトリスタンとイゾルデの物語。ほぼ、原作を忠実になぞっているが、大きな改変が一つある。それは、語り手の存在である。コーンウォール王に長く仕えるトマスという老騎士の書き残した物語という体裁をとる点だ。王とその妻と甥の愛と信義がトリスタン物語の主題であることは言うまでもない。「木に登る王」も、それを踏襲している。というよりも、徹底してその点だけに焦点を当てているといった方がいい。

すべてはトマスの目を通して語られる。王の信頼篤いトマスであるから、王の心はかなり読める。しかし、妃の気持ちは知れない。トリスタンとて同じである。二人は王を裏切っているのか、それとも潔白なのか。王の命により、トマスはそれを探る。次第にその渦中に取り込まれるトマスの心の揺れを描くことで、吟遊詩人の歌物語のような古風な恋愛譚がラディゲが描きそうなフランス風恋愛心理小説に変貌を遂げる。しかも典雅で古風な意匠はそのままに。これは新たな境地かもしれない。コーンウォール城の地下深く枝分かれした洞窟の迷路よりも恋する者の心理を追うのは難しい。

いや、楽しませてもらった。今後のミルハウザーからますます目が離せなくなった。とはいえ、恋愛に耽る人間の心理の探究などはそっちのけで、人目もはばからず寝食を忘れ、ひたすら己の夢の実現に無我夢中に邁進する、あのどこかに少年の面影を宿した主人公たちを描く作家はどこへ消えてしまったのだろうか。作家も人の子、歳をとれば成熟し、つまらぬ夢想にいちいちかかずらっていた自分を、どこか醒めた目で見るようになるのだろうか。文学的にはそれこそ申し分のない達成であるのに、そこはかとなく喪失感が漂う。この違和感はどうしようもない。

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by abraxasm | 2017-07-23 06:21 | 書評
e0110713_15142731.jpg作家デビューが遅く、作品数が限られている。これは第三作目の短篇集だが、すでに自分の世界というものを持っていることが分かる。そして、その世界には確固としたリアリティがある。合衆国最北東端メイン州にある海辺の小さな町クロズビーが主な舞台。小さなといっても、そこはアメリカだ。車がなければどうにもならない広さがある。小さいのはコミュニティの規模だ。誰もがほぼ顔見知りで、家族の抱える弱みや泣き所は皆の知るところである。

十三の短篇は、各話独立しているものの、最初の「薬局」から最後の「川」まで、十三篇を通して読む連作短篇集として編まれている。表題のオリーヴ・キタリッジは、「薬局」では、主人公ヘンリー・キタリッジの妻で、七年生の数学を受け持つ教師で、クリストファーという一人息子がいる。このオリーヴという個性的な女性が、時には主役、時に脇役、あるいはちらっと顔を見せたらすぐに消えてしまう端役をこなし、小説を一つの世界につなぎとめる役割を果たす。

架空のスモールタウンに暮らす住民の家を次々と覗き込みながら、ありふれた市井の人々の抱える悩みや、生きることの苦しさ、中年の危機、親との確執、妻に隠れた恋愛事情、といったどこにでもあるテーマを、中心になる人物の組み合わせを次々と切り替えて描く。話が変わるたびに視点は主人公を演じる人物に寄り添う。そうすることで、オリーヴという女性の性格や言動も、よくある小説のように、ただただ善人であったり、一方的に悪人にされたりはしない。

熱血教師で、それを怖いと感じる生徒もいれば、困っている子に目と心を向けるオリーヴを好ましいと思っている子もいる。若い頃は背が高いだけだったが近頃では肩も腰も張り出して大型化している。手など男のようだ。相手がたとえ誰であっても傍若無人、思ったことを言い、行動する。大学は優秀な成績で卒業した。考え方がリベラルで同性愛者にも理解がある。つっけんどんな物言いは口癖のようなもので悪意はないが、人によってはそれを快く思わない。だから、あまり人と顔を合わせてしゃべるのは好きではない。庭に球根を植えたり、夫と二人で家を建てたりするのが好きだ。

夫のヘンリーはといえば、人の世話を焼きたくて仕方のない善人を絵に描いたような男。妻の言いたい放題を柔らかく受け止めて、周りに波風が立たないよう、うまく収めている。「薬局」では、このヘンリーの店に勤める女店員デニースとの出会いと別れが描かれる。結婚したばかりの夫に死別され、他郷で独り暮らしを余儀なくされる若い娘に対する同情が、俗にいう「可哀そうなは好きだってことよ」そのまま、愛へと変わる。いわばプラトニックな不倫である。オリーヴと別れる気もないくせに、デニースに別の男の影を見ると腹を立ててしまう。中年男の妄想を描いた話は他にもう一篇。どちらも切ない。

十三歳の時町を出たケヴィンが医師の資格を得て久しぶりに町に帰ってくる。銃で自殺した母を目撃した過去を持つケヴィンは自分に精神病質があるのを知り、自殺する前に家を一目見ておこうと帰郷する。ところが、海辺のレストランの前に車を停め、思案に耽っているところをオリーヴに見つかってしまう。図々しく助手席に乗り込んだオリーヴは自分の父が自殺した時の話を始める。そんな時、二人がよく知るパティが花を摘みに出た岩場で足を滑らす。

親に死なれた子である教師と、死に場所を求めて帰郷したかつての教え子。そんな二人の目の前で、早産の癖のついた新妻が波にのまれて溺れかけている。荒々しいメインの海を舞台に、生と死の拮抗を描く「上げ潮」は、比較的劇的な話の少ない短篇集の中で異彩を放つ。十代遡れるスコットランド系の先祖を持つ女性オリーヴは、一見すると傍迷惑な存在だが、人生から滑り落ちようとしている人間にとっては救いの神となることが多々ある。これもその一つ。捨てる神があれば拾う神もあるのだ。

この調子で、町の住人が繰り広げる、何気ない人生の一コマ、一コマを、丁寧にすくい上げて、よく練られたプロットを駆使し、絶妙な展開を見せる。どんな平凡な人間であっても、その人生の中で、たった一日くらいは、小説よりも奇なる出来事に出会うことがあるものだ。この短篇集は、オリーヴが中年の頃から七十四歳になるまでの間を扱う。長い時間をかけて見聞きしてきた各人の話を、語り出すときには当人の視点で語るのだ。

「小説よりも奇」と書いたが、怪異な事件が起きるという意味ではない。どこまで行っても人間の話である。人と人との間に起きる。しかし普通は、あってはならないことが起きる。例えば、昔の恋人が別れて何年も経ったある夜突然現れ、実は別れた後で母親が男の前に現れて服を脱ぎだしたことがある、と告げにくる話がある。また、夫の葬式の日に、家に同居していた従妹から、夫と一度だけ寝たことがあると告げられた寡婦の話がある。晩年の人生を「賜物」と感じていた妻が、コンサートの晩、知人夫妻の話から、夫の過去を知らされる傷ましい話もある。

何篇かを除いてほぼ田舎町の老人に起きる人間関係のもつれを扱っている。そんな話どこが面白いのだと言いたくなる若い読者もおられよう。しかし、もしこの国の政治が今よりもう少しましな人たちの手で執り行われるようなことになったら、今の若者も長生きできるかもしれない。そうなったら、この短篇集の凄さもわかることだろう。よく「珠玉の」という修飾語が短篇集に使われるが、そんな生易しいものではない。人が長く生きていれば、昔は美しかったものも醜くなるし、可愛かった子も他人になってしまう。

そのなかで、生き続けていかなければならないのだ。綺麗ごとなど言ってはいられない。自分の辛さや苦しさを、何とかするためには人の不幸さえ利用する。葬式には顔を出し、悲しみに沈む人の顔を見れば、少しは自分の悲哀も薄れるかもしれない。息子の起こした事件が原因で世間に隠れて暮らす夫婦の話を聞いたら、つれない息子のことも、あそこよりはましだと思えるかもしれない。そんなオリーヴの目論見は次々外れ、人生のもっと過酷な相に出遭うことになる。

一篇、一篇がどれも重い。が、中には悲哀の底に輝石のように光るものが沈んでいることもあり、救いが一切ないというのではない。『私の名前はルーシー・バートン』を読んで、他の作品も読んでみたいと思い、リストアップした中の一冊である。思った通り、他の作家にはない独特の小説世界を持ち、小説を読む愉しさを堪能させてくれる。読んでいると、アンドリュー・ワイエスの描くメインの海辺や針葉樹の姿が何度も目に浮かんできた。あの何とはいえず怖ろしさを秘めた静謐な風景はこの作家の世界にどこか繋がるものを感じる。

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by abraxasm | 2017-07-19 15:14 | 書評
e0110713_20540261.jpg主人公は三十六歳の画家。今は復縁しているが、五年前に突然妻から離婚を切り出されたことがある。あなたとはもう暮らせない、と言われたのだ。家を出るという妻に、自分の方が出ていくと告げ、愛車のプジョー205に当座の荷物だけを積みこむと、そのまま北に向けて走り出した。東北、北海道をさすらうようにして宮城に着いたところで車が壊れた。電車で東京に戻り、友人の雨田政彦に電話し、住むところを紹介してもらった。小田原の山中にある、政彦の父で画家の雨田具彦の家である。

具彦は山の上にある一軒家にこもって絵を描いていたが、今は認知症が進み、施設で暮らしている。空き家のままでは物騒で、「私」は番人代わりに格安で宿を提供される。しかも、政彦の紹介で市内の絵画教室の教師の職も得、何とか暮らしの目途もついた。そんなある夜、屋根裏で物音がする。明るくなってから天井裏を調べると梁にミミズクがいた。それともう一つ見つかった物がある。丁寧に梱包された絵だ。紐に付された名札には「騎士団長殺し」と記されていた。

雨田具彦は元は洋画家だが、留学先のウィーンから帰国後、突然日本画を描き出した。理由は不明だが、余白を生かした空間に飛鳥時代の人物を配置した絵は高い評価を得た。見つかった絵は、未発表のもので画家は誰にも見せる気がなく、秘匿していたもののようだ。画題は題名からモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に想を得たものと分かる。騎士団長(コメンダントーレ)がドン・ジョヴァンニに刺された直後を描いたものらしく、騎士団長の白衣には血が滲み、ドン・ジョヴァンニの恋人であるドンナ・アンナの驚く姿も見える。ただ服装は日本の古代の装束に変えられている。画家の代表作と言っていい傑作である。

その絵を見つけてからというもの、おかしなことが起きるようになる。深夜になると外で鈴の音が聞こえるのだ。それも敷地内にある祠のあたりから。祠の裏にはススキの茂みがあり、よく見ると塚のようなものがあった。一人で調べるのも気が引けたので、知りあったばかりの免色という男に話して協力を得る。IT関連で財をなした男で、早速手を回して業者と重機を手配し、蓋になっていた岩を持ち上げた。石の下には深さ三メートルほどの穴が隠されており、中には仏具の鈴が残されていたが、人のいた気配はなかった。

持ち帰った鈴はスタジオに置いた。すると今度は家の中で鈴が鳴る。恐る恐るスタジオの扉を開ける、とそこに騎士団長がいた。身長六十センチほどで絵の中から抜け出てきたなりをして。「ない」というところを「あらない」と奇妙な日本語を使うその男は本人の言葉を借りると「イデア」だそうだ。今は「形式化」していて、格好は主人公の頭の中にある騎士団長の姿を借りたのだという。いわば「私」の「心の眼」だけに写っているわけだ。現実界では長くこの姿でいることはできず、一定時間がたつと消えてしまう。

このイデアとの遭遇以来、主人公の絵は変化を遂げる。それまでも肖像画家としての技量は人に優れていたが、今ではモデルの外見ではなく本質を描き出すまでになった。免色に依頼された肖像画も傑作で、高額で買い取られて屋敷に飾られる。その上で免色はもう一枚絵を依頼する。「私」の絵画教室に通う十二歳の少女の絵だ。まりえという少女は、免色の愛した女の忘れ形見であるだけでなく、もしかしたら自分の血を引いているかもしれない、という。死んだ自分の妹に似たまりえは、日曜日になるとやってきた。教室では無口だったが、二人きりになるとよくしゃべった。

その絵もほぼ完成しかけたころ、ことは起きた。まりえの行方が分からなくなったのだ。騎士団長は、明日電話がかかり、何かを頼まれるが、それを断ってはいけないという。それがまりえの行方を知る手がかりだからだ。電話の主は政彦で、父の具合が悪いので見舞いに行くが一緒に行くか?というものだ。前々から具彦に会いたかった「私」はもちろん承知する。翌日、ベッドに横たわったままの具彦と「私」が二人きりになると、姿を現した騎士団長がここで自分を刺せ、と命じる。それがまりえを探す切り札だった。躊躇した「私」だったが、まりえのためと思い定め、言われたとおりにすると、不思議なことが起きる。

「私」は、具彦の部屋ではない薄暗いところにいた。そこは「メタファー」の世界だった。ところで、突然出てきたこの「メタファー」、修辞学で言えば隠喩である。それにとどまらず視覚表現などにも適用され、近頃では「空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきている」らしい。村上春樹をあまり読んだことがないので、よく知らないのだが、こんな小難しい理論を小説の中に持ち込むような作家だったか?

ここからはまったく「冥界下り」。ル=グウィンの『ゲド戦記』に描かれているような灰色の世界が延々続く。それまで読んできた現実的な世界から突然放り出され、霧に包まれた茫漠たる世界や三途の川を思わせる川、富士の風穴にあるような横穴などの中を「私」は一人で歩いていかなければならない。しかも、そこには「二重のメタファー」と呼ばれる恐ろしい存在がいて、「私」が動けなくなるのを待っている。必死で頼りとなる記憶をたどろうとする「私」だが、しだいにそれもままならなくなる。すると穴は狭まり、「私」は身動きが取れなくなる。まるで母親の子宮の中にいる胎児のようだ。

冒頭にあるように、結果として「私」は生還し、離婚していた妻と元の鞘に収まる。まりえがどこにいたのかもその口から説明される。めでたし、めでたしとなるわけだが、いったいこれはどういう小説なのだろう。ミステリめいた謎も多く解決されずにそのまま放置されている。妻にそのことを言うと(実はこれは妻が貸してくれたのだ。妻は村上春樹をよく読んでいる)「続編があるんじゃないの?」とあっさり言った。えっ、そうなの。これで終わりというのではないのか?そういえば、上・下じゃなかったなあ、と思い出した。第一部、第二部になっている。ひょっとしたら第三部が書かれたりすることもあるわけか?あるかもしれない。前にもそんなことがあった。

というわけで、ここまでで分かったことをちょっとだけまとめておく。これはユング心理学でいう「死と再生」を主題とした小説だ。村上春樹は河合隼雄と親しく、ユング心理学について対談もしている。「私」は実は一度死んだのだ。といっても、肉体的にはそのまま存在していた。ご丁寧なことに村上春樹らしく律儀にセックスまでしている。しかし、ユズという伴侶を失ったことは「私」が考える以上に彼を深く傷つけ、回復不可能なところまで追いつめていたのだ。彼はもう、一度死ぬしかなかった。

雨田具彦も一度死んだのだろう。愛する女性をオーストリアに残し、自分ひとり強制帰国させられた時点で。しかし、そのままでは死ねなかった。自分の身代わりのように南京に出征した弟が、ピアノを弾く繊細な手に剣を握らされ、中国人を虐殺するよう命じられ、帰国後自殺したからだ。その具彦が描いたのが「騎士団長殺し」の絵だ。考えてみると、この小説の登場人物のほとんどが、愛する人をなくして深い喪失感に耐えている。

免色はまりえを見るためだけに、大金を払って向かい合う山の上に建つ家を購入し、今でもまりえの母の衣服を鍵のかかった部屋にしまいこんでいる。まりえも幼い頃に母を失ったままだ。父は喪失に耐え兼ねて宗教に走り、娘を顧みることはない。肉体だけを残して魂が死にかけていた「私」は、何故かこれらの人に引きつけられるように小田原に来て、九か月間暮らした。これらの人々は「地下の通路」で結ばれているのだ。

思うに、「私」はまだ一人で死ぬだけの確かな自我を持っていなかったのだろう。謎の多い免色という人物や、妹を思い出させるまりえという導き手によって、象徴的な死を経験することができた。なにより、雨田具彦という先達が描いた「騎士団長殺し」という絵の存在が大きい。騎士団長のなりをした「イデア」がいなかったら、「私」はどうなっていたのだろう。一度死をくぐり抜けたことで、「私」はひとつ成長を遂げた。画家として対象の本質をつかむところまで行きながら、元の肖像画家として生きてゆくことを選んだ「私」。いつか、あの「白いスバル・フォレスターの男」の絵を完成させることはあるのだろうか?妻ではないが、続編を期待したい。

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by abraxasm | 2017-07-03 20:56 | 書評
e0110713_18132587.jpgくせになりそうな作家だと思う。自室に独りでいる自分の傍らに来て、低い声でぼつぼつと語りかけられているような、よほど親密な仲なら構わないが、そうでもない場合にはちょっと距離を置いた方がいいのではないか、と思わせるような、内心に秘かに隠されてあるものを中に手を差し入れてつかみ出して目の前に見せられているような、純粋ではあるのだろうが、この人とは友だちにはなれないな、と思わせるそんな気にさせる作家である。

何故そんな気になるのか。きっとこの人は読者を選ぶ、というかこの人の書く物を好きな人は、この語り手の視点に魅せられるからだと思う。ほとんどユーモアというものを感じさせない、ひどく乾いた語りである。いつも人を値踏みしながら観察している。自分にとって「いい人」なのか、そうではないのか。相手が自分にとって利用価値があるかないか、というのではない。こんな自分を受け入れてくれるかどうか、が判断基準なのだ。

話は、ルーシーが盲腸で病院に入院しているところからはじまる。すぐ退院のはずがなかなか退院できない。今暮らしているのはニューヨーク。病院の窓からはクライスラー・ビルが見える。夫は仕事と子どもの世話で忙しく妻に付き添えないので、妻の実家に電話をかけて母を呼ぶ。そんなわけで、故郷を出てから長い間会っていなかった母がある晩ベッドの先にいた。久しぶりに会った母が娘に語るのは、何故か昔の知り合いが結婚して、ほかに男を作って逃げた末、男に捨てられた話だとか、他人の不幸な噂話ばかり。これが伏線となる。

病院にいる五日間、母の語る知人の話を聞きながら、ルーシーは、これまで出会った人物のスケッチをまじえながら、自分の過去について語りはじめる。ジェレミーという古風な宮廷人のような紳士だとか、服飾店で出会った魅力的な女流小説家だとか、自分を診てくれている感じのいい担当医のことだとか。読者は、この語り手の心の中が何故孤独なのか、他者との関係をどうとればいいのかをいつも測ろうとしている理由が何なのか、次第に理解してゆく。

ルーシーは、中西部の貧しい家の生まれ。一家は大叔父の家の隣にあるガレージに暮らしていた。テレビはおろか、本も満足にない、夕食が糖蜜をつけたパンだけという貧しい生活。それでも父が働き者で優しい母がいて兄弟仲がよければ、家族で助け合って何とかやっていけるだろう。ところが、仕事の長続きしない父は時に娘を虐待し、縫物で家計を助ける母は父の言いなりである。姉とも兄とも心が通いあう関係ではない。家の貧しさのせいで、兄妹は学校では差別され、いじめられて育つ。

寒々とした家に帰りたくない少女は、学校が終わるまで教室で宿題をしたり、本を読んだりして過ごした結果、兄妹のうちでただ一人勉強ができ、シカゴ近郊の大学に進学する。一般的な家庭生活を知らないルーシーは、音楽やテレビの話題についていけず、人との間に距離感を感じるようになる。他人との間に間合いというものが取れず、話に入ったが最後切り結ぶしかない、そんなコミュニケーションの取り方といったら分かってもらえるだろうか。

それでも、男と知り合い、結婚して二人の子の母となる。子育ての間に書きためた小説が、文芸誌に掲載され小説家となる。いつか偶然街で出会った作家のワークショップに出席し、作家の現実の姿にも触れる。執筆のために必要なアドバイスも貰う。それらが、細かな章割りを通じて、看病に来てくれた母との会話や彼女の半生の間の出来事の間に、切り張りされたように混じりあう。そんな小説である。派手なところはないが、凡庸さも持ち合わせない。

いくつかの主題がある。アメリカに渡ってきた先人たちが「インディアン」に対してしたこと。当時話題となっていたエイズという病気のこと。同性愛者のこと。知人や自分の身の回りにいる人との関係の中から、自然に語り出されるそれらの主題は声高な主張とはならないが、自然に触れないではいられないことのように持ち出される。内省的で、静かな語り口ではあるが、譲れない一線というものを持つ。

自分に正直に生きることが、家族との間に溝を作り、都会で一人で生きることを選ぶ。それでも家族は家族であり、ほかの人を選ぶことはできない。そういう環境の中で育つことが、人にどのような生き方を強いることになるのか、ルーシー・バートンという一人の女性作家の視点で語る一人称小説。話者は母にとっては娘であり、夫にとっては妻。娘に対しては母であるという当たり前のことが、この人の語りで語られると何と不自由に聞こえることか。「私」の名前は、ルーシー・バートンだが、「私」とはいったい何者なのか?他の作品も読んでみたいと思わせる小説家である。

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by abraxasm | 2017-06-25 18:13 | 書評

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