大江と村上は意外に似ている?

大江健三郎と村上春樹。ある意味で現代の日本文学を代表する名前である。この二人が、「ノルウェイの森」と「懐かしい年への手紙」が出た1987年を分水嶺として、はっきり離反していく。大江を認める者は、村上を批判し、村上を支持する者は、大江を切り捨てるといったふうに。加藤は、「大江か村上か」ではなく、「大江と村上」という論点を提供する。この二人には意外に共通点があるからだ。

大江がある国際シンポジウムで、村上批判をおこなったことがある。それが当時、批評の世界で勢力を振るっていた柄谷行人や蓮実重彦に影響を与え、村上バッシングとも言える状況を作った。それ以降、村上は現代日本の文学的状況に発言を控えるようになっただけではなく日本から距離を置くようになった。加藤の要約によれば、大江の村上批判は次のようなものである。

村上の文学は、社会、個人生活の環境に対して「いっさい能動的な姿勢をとらぬという覚悟からなりたってい」る、その一方で「風俗的な環境」からの影響は「受け身で受けいれ」る、そのうえで「自分の内的な夢想の世界を破綻なくつむぎだす」。その彼は戦後文学とは「全く対照的な受動的な姿勢に立つ作家」で、その姿勢を通じて「富める消費生活の都市環境」で「愉快にスマートに生きてゆく」若い人間の「いくばくかの澄んだ悲哀の感情」を提示し、若い読者からの強い支持を得ている。

村上に対する嫉妬めいた感情をにじませながらも、なるほどこうも言えるかという悪意すら感じられる大江の批評は、しかし、加藤によれば的を外している。村上の「デタッチメント(=関わりの拒否)の生き方」は、時代状況を考え合わせるならそれ自身「能動的な姿勢」であったのだと。加藤はおそらく大江も読んだであろう村上の「パン屋再襲撃」に込められた現代若者の「アパシー」批判・揶揄を引きながら、この作品が京浜安保共闘グループによる銃砲店襲撃事件をモデルにしていることを指摘する、その手さばきが鮮やかだ。

次に大江自身の初期の仕事にある「受動的な姿勢」を指摘しながら、あえて、受動的な姿勢をとることで、ストレートな「能動的な姿勢」の浅さを撃つ手法を評価してみせる。そうしたうえで、なぜ村上の中にある同質の身振りを読み取ることができなかったかと問いかける。

さらに、村上の「ニューヨーク炭坑の悲劇」をそのタイトルのもとになったビージーズの同名曲の歌詞を原詩と訳詞を詳細に引用し、この作品が新左翼党派間の内ゲバによる死者への逆説的なコミットメントであったことを明らかにしていく。ビージーズのこの曲がヴェトナム戦争に駆り出された若者に対する想いを歌ったものであったことをはじめて知った。ニューヨークに炭坑なんかあったのかという漠然とした疑問は抱きつつ、深く知ろうともしなかった自分の愚かさを今さらながら思い知らされる。

デタッチメントからコミットメントへというのは、オウム真理教事件や阪神淡路大震災以降の村上の仕事の変化を表す際に用いられるコピーだが、大江の「レイター・ワーク(老年の仕事)」に見えるコミットメントの姿勢とも併せて、二人の重なりに目を向けることで、87年以降の評価の地勢図に書き換えが起きるのでは、という加藤の挑発に誰かが答えてくれるだろうか。

さらに、もう一本の「関係の原的負荷―二〇〇八、「親殺し」の文学」という評論も力が入っている。村上の「海辺のカフカ」と沢木耕太郎の「血の味」に共通する父殺しの意味を「関係の原的負荷」の露頭という視点から解析するもので、現実の社会に起きている問題と文学の間にある相関性が岸田秀のフロイト心理学を援用しつつ語られる。

『敗戦後論』で、論争を巻き起こした加藤だが、果たしてこの作品に対する反応はあるのだろうか。文壇の反応が期待される、スリリングな展開に満ちた意欲的な文学評論集である。
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by abraxasm | 2009-02-01 18:31 | 書評

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