『アーダ』上・下 ウラジーミル・ナボコフ

e0110713_10235074.jpg<上・下巻併せて>

舐めるようにしゃぶりつくすように読んだ。それでも、作者がこれでもか、というくらい用意したお楽しみや仕掛けの万分の一も見つけてはいないだろう。それでは楽しめないではないか、と思うかもしれない。ちがうのだ。一度読めばそれで二度と手に取ることのない本がある。いや、そういう本の方が圧倒的に多い。筋を追うことが本を読むということなら、これはちがう。書かれた文字や言葉を、お気に入りの音楽や大好きな料理のように何度でも繰り返し味わいたくなる、そんな本だ。

九十歳を過ぎた男が、人生を通してたった一人愛した女との初めての出会いから、死を間近にした今に至るまでを回想した物語である。男の名はヴァン・ヴィーン。幾代かさかのぼれば先祖には公爵家を頂く名門の出で、愛するアーダは名目上は三つちがいの従妹にあたる。しかし、冒頭に付された家系図を信じるわけにはいかない。ヴァンの父ディーモンと、アーダの母マリーナは不倫関係にあり、ヴァンの本当の母は、マリーナの姉アクワではなく、マリーナその人であった。

兄と妹にあたる二人が、初めて会ったその時から精神的にも肉体的にも惹かれあい、睦み合うようになるのは、ある意味必然であった。アーディスと呼ばれる避暑地に立つ豪壮な邸宅を舞台に、十五歳と十二歳の男女が、他愛無い接触から性的な欲望へ、次第に高まりあう官能の焔に炙られ、両親や使用人の眼を避けながら、禁断の愛を貪りあう様が、楽園を思わす牧歌的な風景を背景に延々と繰り広げられるのが上巻、第一部である。

放蕩者の血を継ぐヴァンではあったが、肉体的には何人もの女と関係を持っても、愛するのはアーダ一人。ところが、アーダが他の男と関係を持つことは許せない。そのたびに相手と決闘騒ぎを起こしたり、アーダとの関係を断ったりする。二部以降は二人の紆余曲折する恋愛事情を追う。そこに、アーダの妹であるリュセットが絡む。少し歳の離れた妹は、姉と同じようにヴァンを愛するようになる。

と、こう書けばまるでロマンス。それもかなりどろどろしたロマンスのように思えるだろうが、作者はあのナボコフである。『アーダ』は『ロリータ』で成功し、大学を離れてスイスのホテル暮らしを始めてから書かれたナボコフ最大の長編小説である。経済的に安定し、自分の書きたいことを書きたいように書けるようになったわけだ。書き出しからトルストイの『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭を裏返しに引用するなど、これがメタ文学であることをばらしている。

プルーストの『失われた時を求めて』について何度でも言及しているように、好きな作家や小説をパスティーシュするのは勿論のこと、ドストエフスキーやフォークナーといった嫌いな作家や作品を揶揄ったり、誤訳の揚げ足取りをしたり、名前を勝手に変更したりとやりたい放題。挙句は自作の『ロリータ』をモデルにした『ジプシー娘』という小説の作者をこともあろうにヘルボス(ボルヘスのアナグラム)とするなど、悪ふざけの度が過ぎる。

それだけではない。舞台となる世界はアンチテラという星でテラ(地球)という星とは兄弟惑星の関係にある。そこではテラとは異なる歴史が展開し、ロシアはいまだにタタールの軛の下にあり、一部のロシア人はアメリカに渡りアメロシアという国をつくり、イヴァンたちはそこに暮らしている。SFでいう歴史改変小説、あるいはパラレル・ワールドの設定である。とはいえ、ナボコフが真面目にSFなど書くわけもなく、電気ではなく水流の力で音を伝える伝話という変なガジェットが目に付くくらいで、SFらしさはあまりない。ジッカーという名の空飛ぶ絨毯はミルハウザーのようでちょっと面白いが。

テラとアンチテラとでは時間差があるという設定を駆使し、少年時を回想する場面では馬車が走るなど、時代がかった書割が興を添える。蝶の研究家でもあるナボコフらしく珍しい蝶が舞い、夏の夜に蛍が群れを成して光を明滅する川辺をはじめ、『賜物』で描かれた自然描写に似た、作者の記憶に残るロシアの美しい自然が細密に描写される。もとより、語り手であるイヴァンの記憶に基づくのだから、すべては夢のように美しく描き出される。その文章の密度たるや、比類のない完成度だ。

その一方で、言葉遊びを駆使した文章は、英語の中にフランス語やロシア語がまじるだけでなく、語呂合わせや駄洒落が頻発する。訳者である若島正氏は、ルビの多用や漢字変換の妙技によって、何とか日本語化させているのだが、訳者の苦労がしのばれる新訳になっている。これがどれだけ分かるかは読者の側にどれだけそれを読むことのできる力があるかによってちがってくる。正直なところ、読んで面白がることはできなかった。

自身も現役の放蕩者であるヴァンの父さえも、近親相姦の事実を知ったときにはさすがに息子をなじっているというのに、当事者である二人とも何の苦悩も持つことがない。二人の快楽追求の強度は信じられないほどで、倫理や道徳の出る幕がない。このあたりはさすがにナボコフと感心するばかりだが、余りに周囲の人間に対する配慮というものがない。一途にヴァンを慕うリュセットが歳を重ねるごとに可愛く美しくなってゆくのを見ているだけに、快楽追求のモンスターの輪から外されてしまい、自滅してしまうのが何とも切ない。

難物と言われる『アーダ』だが、これは何度も読む本だと思えばいい。初読時には、家族の年代記として書かれる初めの部分は後回しにしてもいい。ヴァンの母親の狂気について触れた部分も初めから分かる必要はない。ヴァンの時間論についても同じで、分かる読者にとっては楽しめる部分だが、大半の読者にとっては難解だ。しかし、ヴァンとアーダの禁じられた恋愛模様やリュセットの悲劇は勿論のこと、家族や隣人とのピクニックの場面その他には堂々たる古典の趣きがある。

マルクス、レーニンによるロシア革命もなければ、ヒトラーによるユダヤ人の虐殺もないアンチテラでは、貴族の末裔が持てる資産の上に胡坐をかいて、美術品を収集したり、豪華客船で世界中を旅したり、女の尻を追っかけたり、と遊び惚けている。別にうらやましくもないが、アンチテラでの暮らしは、放射能や核ミサイルの恐怖もなさそうだし、政治は誰か有能な人間が担当していそうで、なかなか悪くない。ロシア革命で苦汁を舐めたナボコフにしてみれば、小説の中だけでも、自分の好きなものに囲まれていたかったのかもしれない。

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by abraxasm | 2017-11-13 10:24 | 書評

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