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『木に登る王』スティーヴン・ミルハウザー

『木に登る王』スティーヴン・ミルハウザー_e0110713_06213719.jpgいつも同工異曲。似たような素材を相も変らぬ調理法で俎上に載せているのだ。飽きられても仕方がない。それなのに、新作が出るとついつい手に取ってしまう。それがまた期待を裏切らない出来映えになっているところが驚異だった。ところが、ここのところミルハウザーの新作を評する気になれなかった。いよいよミルハウザーも煮詰まったか、と残念な思いでいたのだが、本作は久しぶりに堪能。そうか、長編でもなく、短篇でもなく、中篇(ノヴェラ)という手があったか。そういえば、『三つの小さな王国』はじめ、中篇には佳品が多かった。

短篇と中篇の違いについて、柴田氏は、訳者あとがきのなかで「短篇は概して世界の一断片を切り取ろうとするのに対し、中篇は限定された一つの世界の全体を描こうとする」と書いている。博物館にしろ、土牢にしろ、徹底的に作りこまれた細部を増殖させてゆくミルハウザーのような作家にとって、世界を断片として切り取るだけでは満足できないにちがいない。これでもか、というくらい書き込んで初めて一つの世界が現出するのである。その細部にまで手を抜かない作りこまれた世界あっての、ミルハウザーだったのだ。

三篇が収められている。第一の「復讐」、第二の「ドン・ファンの冒険」、最後に表題作「木に登る王」と、読み進むにつれて次第に長さと読みごたえが増す。しかも、男女の恋愛が三篇をつらぬくテーマとなっているところが、いつになく一冊の本としての統一感を感じさせる。単に適当な長さの作品を三つ集めて編んだのではなく、そこには作家の明確な意図が感じられる。そうなのだ。本作は、いつものミルハウザーとは一味違う。

いやいや、心配には及ばない。「復讐」には、幽霊がとり憑いた一軒の家、「ドン・ファンの冒険」には、イギリス風庭園の中に仕込まれた人工楽園の世界、そして「木に登る王」には、迷路のように枝分かれする地下道を持つ王の城、といったお定まりのアイテムがちゃんと用意されている。特に「ドン・ファンの冒険」には、機械仕掛けで鳴くナイチンゲールや中身を刳り貫かれた岩を押し上げるシシュポスまで、これぞミルハウザーと思わせる凝りに凝った仕掛けがたっぷりと用意されている。

それでいながら、どこか違和感がある。同じ本やその他の商品を並べていてもヴィレッジヴァンガードと丸善がちがうように。どちらかといえば、これまでのミルハウザーはヴィレヴァンのような作家だった。明確な路線があって、ひたすらその世界を拡充するといったタイプに思えたのだ。ところが、ここへきてまさかの路線変更か。扱う素材はほぼ似ているのに、見せ方が異なる。主題が男女間の恋愛というのにも驚いた。それも不倫や三角関係である。これは文学の王道だ。ミルハウザーはいつから本格小説作家になったのだ。

夫に死なれ、妻が家を売りに出す。どの部屋にも本棚がある。見学者に家の中を案内しながら、夫との生活を語り聞かせる、全編これモノローグ。夫は生前不倫していた。告白を聞いて以来の懊悩惑乱ぶりを、見学者相手に語り尽すのだが、次第に調子が変わってくる。実は聞き手の女こそが夫の不倫相手なのだ。夫の恋人を地下室で切り刻む(想像上の)場面やら、首を括り損ねた屋根裏部屋の梁やら、いちいち実物を示しながら語って聞かすのだから、想像するだに怖ろしい。胸に覚えのある御仁は「復讐」は読まないほうがいい。本を読み、想像力豊かな妻がいるなら尚更だ。

「ドン・ファンの冒険」は、言わずと知れた伝説の遊蕩者ドン・ファン・テノーリオのアイデンティティ・クライシスが主題。ヴェネチアでの放蕩にも飽きたドン・ファンは彼の地で出会い、意気投合したイギリス人を訪ねることにした。サマセットのスワン・パークに館を持つオーガスタス・フッドは最近造園に凝っていた。「二百エーカーに及ぶ岩屋、滝、くねくね曲がった小川、いきなり遠くの展望が開ける広場、木製のベンチ、廃墟となった修道院」つまり、イギリス風景式庭園のはしりである。

それもただの庭園ではなく、ポオや江戸川乱歩が夢想した奇想に満ち、趣向を凝らした今でいう一大テーマ・パークを建設中であった。これでこそいつものミルハウザー、と安心したのも束の間、いつもなら庭園作りに夢中になる男が主人公なのに、今回は脇役。主役はもちろんドン・ファンで、その相手を務めるのがフッドの妻のメアリ、とその妹のジョージアナ。いつもなら気質の異なる姉妹の二人ともいただくはずのファンが、なぜか今回はなかなか手を出さない。どうも勝手が違うのだ。二人の女の間で虻蜂取らず状態に陥ったファンはとうとう病気になってしまう。

夫のある身でファンの虜となってしまうメアリ。しかし、簡単に落ちる姉より、手ごわい妹の方が気になるファン。三人の男女の恋愛感情の揺れ動く様を、人工のエデンやアルカディアを舞台にスペクタクルに描き出すミルハウザーだが、いつものように一瀉千里に拵え物の世界の完成を急ぐ勢いがない。どうやら今回は、外界よりも内界に目を移して、人間心理のあやを追うのに夢中らしい。女に翻弄されるドン・ファンのアイデンティティ・クライシスはかなり深刻で、負った痛手は深そうだ。

そして、最後に待つのが中世の宮廷詩人たちが語り伝えた恋愛物語、ワーグナーの楽劇でも知られるトリスタンとイゾルデの物語。ほぼ、原作を忠実になぞっているが、大きな改変が一つある。それは、語り手の存在である。コーンウォール王に長く仕えるトマスという老騎士の書き残した物語という体裁をとる点だ。王とその妻と甥の愛と信義がトリスタン物語の主題であることは言うまでもない。「木に登る王」も、それを踏襲している。というよりも、徹底してその点だけに焦点を当てているといった方がいい。

すべてはトマスの目を通して語られる。王の信頼篤いトマスであるから、王の心はかなり読める。しかし、妃の気持ちは知れない。トリスタンとて同じである。二人は王を裏切っているのか、それとも潔白なのか。王の命により、トマスはそれを探る。次第にその渦中に取り込まれるトマスの心の揺れを描くことで、吟遊詩人の歌物語のような古風な恋愛譚がラディゲが描きそうなフランス風恋愛心理小説に変貌を遂げる。しかも典雅で古風な意匠はそのままに。これは新たな境地かもしれない。コーンウォール城の地下深く枝分かれした洞窟の迷路よりも恋する者の心理を追うのは難しい。

いや、楽しませてもらった。今後のミルハウザーからますます目が離せなくなった。とはいえ、恋愛に耽る人間の心理の探究などはそっちのけで、人目もはばからず寝食を忘れ、ひたすら己の夢の実現に無我夢中に邁進する、あのどこかに少年の面影を宿した主人公たちを描く作家はどこへ消えてしまったのだろうか。作家も人の子、歳をとれば成熟し、つまらぬ夢想にいちいちかかずらっていた自分を、どこか醒めた目で見るようになるのだろうか。文学的にはそれこそ申し分のない達成であるのに、そこはかとなく喪失感が漂う。この違和感はどうしようもない。

by abraxasm | 2017-07-23 06:21 | 書評

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