『殺す・集める・読む』 高山宏

e0110713_11351796.jpg著者自身が「博覧強記の学魔の異名をとる」という自身の紹介記事をことのほか気に入っているようなので仕方がないが、とにかく出てくるは出てくるは。見たことも聞いたこともない本の名前が次から次へと繰り出される。俗にいう「高山ワールド」の信奉者ならともかく。初心者には敷居の高いこと、天狗様御用達の高下駄を履いても、跨ぎ越すことは覚束ない。そうは言っても、上から目線で語りだされる「講義」そのものは、独特の講釈口調でなかなかに魅力的。

まずは冒頭に掲げられた表題作「殺す・集める・読む」を読めばいい。お題はシャーロック・ホームズなので、ずぶの素人にもとっつきやすい。後の章も大体が同工異曲。はじめて聞く名前の学者やら物書きやらの名前が目白押しだが、講義そのものは特に難解ではない。副題に「推理小説特殊講義」とあるが、推理小説についての講義と思って読むと足をとられる。推理小説を素材に、物の見方を説く本だからだ。読めば目から鱗が落ちる。

たとえば、「ヴィクトリア朝世紀末の感性と切り離してはドイルの推理小説は絶対に成り立たなかった」という断言はいかなる根拠があるのか、そのあたりから読み始めることにしよう。著者は言う。「仮にホームズのいないホームズ作品というものを考えてみると、残るものは確かに世紀末としか言いようのないビザルリー(異常)とグロテスク(醜怪)の趣味だけである」と。そして、本文からの引用が続く。

ホームズ作品からホームズを取り去るというところが、いかにも現象学的還元だが、そこにあるのは確かに醜悪な死体の「描写のフェティシズム」。現在の推理小説まで延々と繰り返される、この「酸鼻なバロック趣味」が、なぜこの時期に発生し得たのかという理由を語るまでに、羅列されるのが、サルヴァトール・ローザ、ムリリョ、カラヴァッジオなどのバロック画家の名前であり、『放浪者メルモス』を書いたゴシック作家のチャールズ・ロバート・マチューリン、『さかしま』の作者でデカダンスの作家ユイスマンスなどの名前だ。

大体が、高山宏といえば、マニエリスム、バロックの権威。要は我田引水なのだが、マニエリスム、バロック美学と推理小説を今まで誰も真っ向からぶつけて考えようとしなかったところが盲点であった。つまりは、両者を並べてその関係性を明らかにしたのがこの本だ。博引傍証が多いのも、衒学趣味ばかりではなく、この本自体がマニエリスム美学で成り立っているからで、それを愉しむ者にしか、この本は開かれていないのだ。

当時のロンドンが富裕なウェスト・エンドと、貧苦のイースト・エンドという明暗対比(キアロスクーロ)の都市だったこと。繁栄を誇る大都市はまた、衛生状態の悪さからコレラ、チフス、天然痘、猩紅熱に加えてインフルエンザの猛威に苦しめられる死の都市ネクロポリスであった。この大量死に対し、殺人という個別の死を対峙させ、神の死んだ世界にあって、神の代わりとなって、死の謎を解明するのがホームズだ。シャーロック・ホームズこそはビクトリア朝世紀末の悪魔祓い、というのが高山宏の見立てである。

勿論、こんな粗雑な括りを、褒めるか腐すか、人によって「奇才、異才、奇人、変人、ばさら、かぶき、けれん、香具師、ぺてん師」などと呼ばれる著者が簡単にするはずがない。ここに至るまでに世紀末のパノラマ文化に江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』を持ち出し、世紀末の老化衰退文化(ビザンチニズム)の行き着く先は集めることだと喝破したマーリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』を引っ張り出し、ホームズの収集癖、標本作り、テクスト作成等々を構造主義的な視点で語り明かす。

さらには、あのブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』が、立派な推理小説だという論点から語りつくす「テクストの勝利」、ケインズ理論を援用して論じる「『二銭銅貨』の経済学――デフレと推理小説」など、読めば成程と膝を打つ、腑に落ちる名講義が引きも切らない。そして、掉尾を飾るのがあの絢爛たるペダントリーで知られる『黒死館殺人事件』を論じた「法水が殺す――小栗虫太郎『黒死館殺人事件』」というのだから、これはもう読むしかないではないか。

ただ、書かれたのが2002年ということもあり、当時話題であったドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」や柄谷の「形式化」問題などの用語が今となっては隔世の感がある。その点は割り引いて読んでもらうしかない。著者自身による解説「この本は、きみが解く事件」を読んでから本文を読めば、著者がなぜこの本を書いたのがよくわかって納得がいくかもしれない。「美書で高価、おまけに難解」というイメージのつき纏う高山宏が文庫で読める。これはお勧めである。

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by abraxasm | 2017-03-23 11:35 | 書評

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