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『方法異説』 アレホ・カルペンティエール

『方法異説』 アレホ・カルペンティエール_e0110713_10275996.jpg冒頭の舞台はパリ。凱旋門近くにある部屋に吊ったハンモックの上で第一執政官は眠りから覚めたところだ。昨夜、娼館でたっぷりと楽しんだせいか目覚めは遅い。身の回りの世話をしてくれるマヨララ・エルミラは<向こう(傍点三字)>に置いてきているので、スリッパも自分で履かなくてはならない。コーヒーを飲み、新聞を読み、部屋に呼びつけた理容師に髪を整えさせ、洋服屋に仮縫いをさせる優雅な暮らしぶりだ。

新聞の記事からは当時の世界の動向が分かる、と同時に部屋にかけられた絵画を紹介する文章の中にエルスチールの名を発見することで、この小説が事実と虚構を綯い交ぜにしたものであることが分かる。いうまでもなく、エルスチールはプルーストの『失われた時を求めて』の中に出てくる画家の名である。同じ小説の登場人物、ヴァントゥイユの名も後に出てくるから、小説家の目配せと受け止めておこう。

マリオ・バルガス=リョサの『チボの饗宴』の訳者あとがきで知ったのだが、ラテン・アメリカ諸国には「独裁者もの」と呼ばれるジャンルがあるといわれている。なかでもアレホ・カルペンティエールの『方法異説』は、時を前後して相次いで発表された、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』、アウグスト・ロア=バストスの『至高の我』と並ぶ、ラテン・アメリカ文学の「三大独裁者小説」と呼ばれている。前二作はすでに邦訳されているのに、『方法異説』は今回が初訳。頻出する芸術関係の固有名詞の多さが敬遠されたのかもしれない。

『方法異説』というタイトルは、西欧における理性的思考の代名詞であるデカルトの『方法序説』をもじったもので、およそそれにふさわしくないラテン・アメリカ世界の現状を揶揄したものととれる。ジャンル分けをすれば、ラテン・アメリカ文学の範疇に入れられることになるが、フランス人の父とロシア人の母の間にスイスで生まれたアレホ・カルペンティエールは、生粋のラテン・アメリカ人とはいえない。教育を受けたのはハバナだが、パリ留学も経験している。

そういう経緯もあって、ラテン・アメリカを描くときもアンビヴァレンツな感情に支配されているようなところがある。主人公の第一執政官にしたところが、大統領として本国の政務をとらねばならないはずなのに、特に政局に問題が生じない時はパリにある別邸で遊び暮らしている。電話をかける友人もパリ在住の学者や芸術家、社交界の人々で、娘のオフェリア(何という名だ!)はバイロイトでワーグナーを聴いたり、ストラトフォード・アポン・エイヴォンでシェイクスピア劇を観たり、とすっかり西洋風な暮らしがしみついている。

同じ独裁者といっても、ガルシア=マルケスの『族長の秋』で描かれる、いかにもラテン・アメリカらしい独裁者とは様子がちがうのだ。ラテン・アメリカ文学独特のぶっ飛んだ独裁者を期待すると裏切られる。鳥なき里の蝙蝠というとたとえが悪いが、無学で文字も読めないような国民があふれる国にあって、パリで西欧風の教養を必死で身に着け、一生懸命背伸びをしている第一執政官の姿は滑稽である、とともに西洋に追い付け追い越せと必死でやってきた国民の目から見ると同病相憐れむ、という感慨もわく。

そのパリで楽しんでいる第一執政官のところに決まって反乱軍の蜂起を知らせる電報が届く。あわてて帰国し、演説をぶち、正規軍の士気を鼓舞して前線に出ると圧勝というのがいつものこと。反乱を企てる相手というのが、大体において信用していた部下というのが皮肉である。この構造は最後まで揺るがない。つまり。政治的手腕としては第一執政官を超える人材はいないのだ。それなのに、反乱は繰り返される。

この芸術好き、ラテン崇拝の第一執政官の頭にあるのは、国民の暮らしをよくするという喫緊の課題より、本家にも負けない建築物カピトリオの建設である。キューバのハバナにある旧国会議事堂をモデルにしたカピトリオ建設のてんやわんやは、学生がまともに大学にも行けない状況下で、オリンピックスタジアムの設計が二転三転し、いまだに聖火台の位置すら決まらない、この国の現状を併せ見るにつけ、笑うに笑えない。

どう考えても実務能力に欠ける学者あがりの政治家をアメリカが推すのは、コミュニズムを信奉する学生のリーダーに力が集中するのを恐れるからだ。コミュニズムが力を伸ばし、ゼネストによって第一執政官の政権が脅かされるなど、さすがに時代状況の変化によって、設定に古めかしさが感じられ、今読むとリアリティに欠けるように感じられるところが惜しい。とはいっても、発表は70年代なのだから仕方がない。むしろこんな時代もあったのだなあ、という感慨の方が強い。

あれほど、西洋かぶれ、フランス贔屓であった第一執政官が、国を追われ命からがらパリに逃げてくると、マヨララ・エルミラが市場で調達してきた材料でこしらえる<向こう>風の料理に舌鼓を打つという場面が人間心理を突いていて頷かされる。もはや、無知蒙昧な国民を率い、西洋列強に相対する責任はないのだ。好きな料理を食べ、好きな酒を飲めばいい。指導者の孤独から解かれた第一執政官のこわばりの解けた姿に読者もほっとする。

改行がほとんどなく、活字も小さいので通常の小説に馴れた読者には読み辛いかもしれない。しかし、視点は第一執政官に寄り添い、叙述は時間の順序にしたがっている。語りのリズムに乗れば、この特徴的な人物の中に潜り込み、太平洋と大西洋側の両海岸を領土に持つ国の砂漠や沼沢地を検見することもでき、壮大なカピトリオ建設現場も謬見できる。この架空の国家のどこが、実在のどの国から抜き出してきてモンタージュしたのか考えてみるという楽しみも残されている。
by abraxasm | 2016-12-04 10:28 | 書評

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