池澤夏樹=個人編集 日本文学全集10

e0110713_1074974.jpg我が家から五十メートルばかし行ったところに「口の芝居跡」という碑が立っている。その昔、京・大阪の芝居小屋にかける前、全国から伊勢参りに来る旅人目当てに、ここで演じて評判が良ければ大受けまちがいなしとして、試演される芝居小屋だったと聞く。有名な歌舞伎役者もこの芝居小屋の舞台に立ったこともあって、古市は歌舞伎とは縁が深い。『伊勢音頭恋寝刃』の舞台となった油屋跡では町の若い衆によって小屋掛けの地芝居も演じられた。父は坂東庄雀という名を持つ立女形で、「伊勢音頭」ならお紺、七段目ならお軽というのが役どころだった。

芸事の好きな人も多かったのだろう、歌舞伎衣装や大道具小道具を扱う道具方や浄瑠璃、義太夫を語る人もいなければ幕は開かない。ほんの子どもの頃、父に手を引かれて夜道を歩き一軒の家を訪れたことがある。小さい頃のことで、覚えているのは老人が何か唸っていた記憶があるだけだ。浄瑠璃か義太夫か、どこぞのご隠居の趣味につき合わされたわけだが、おぼろげに首実検の話だったと記憶しているのは、幼心に気味悪かったからだろうか。

そんなこともあって、小さい頃から父につき合ってテレビの歌舞伎番組を見るようになった。地方公演があれば劇場にも足を運んだが、『仮名手本忠臣蔵』なら七段目、『義経千本桜』なら鮨屋、『菅原伝授手習鑑』なら寺子屋と、限られた場面しか目にすることができないのが常。有名な場面ばかりをぶつ切れで見せられても、今一つよく分からないのが歌舞伎のお約束、吉野下市の鮨屋の弥助、実は平維盛、といわれても何のことやら。

もともとは通し狂言で演じられてきた演目が、見た目の美しさや、歌舞伎らしいスペクタクル性、人情の機微に触れる口説き場面の有無などから、ひんぱんに演じられる場面とそうでない場面の差が生じ、現在ではいくつかの場面に限って上演される形態が普通になった。国立劇場などでは、現在でも通し狂言がかけられることもある。ただし、全部見ようと思えば一日がかりの観劇になるので、見る方にもそれなりの覚悟が必要になる。

ところが、この巻では人気の高い『仮名手本忠臣蔵』、『義経千本桜』、『菅原伝授手習鑑』の浄瑠璃を初めから終わりまで通して読むことができる。それも人気作家による現代語訳で。何というありがたい企画だろう。通して読めば、吉野の鮨屋が平家の跡継ぎという設定も、それなりにではあるがのみ込むことができる。なにしろ、維盛だけではない。知盛も能登守教経も、実は死んでおらず、生きて潜伏していたという設定なのだ。この辺のいい加減さというかアヴァンギャルドさが歌舞伎(浄瑠璃)ならでは。SFでいうパラレルワールドである。

橋本治がその著『浄瑠璃を読もう』のなかで『仮名手本忠臣蔵』を論じ、お軽という腰の軽い女と、それにすっかり夢中の勘平という若侍の、時と場所をわきまえぬオフィスラブが原因で起きた悲劇と説いている。本を読んだとき、それが今一つよく分からなかったのだが、今回『仮名手本忠臣蔵』を通して読んで、初めてその言わんとするところがよく分かった。

年末になると、テレビでもよく取り上げられる忠臣蔵だが、忠義の臣が主人の恨みを晴らすため、艱難辛苦に耐え、晴れて仇討に成功するという、日本人大好きのストーリーは、小説、映画をはじめ、講談や浪曲などのサイドストーリーを入れてふくらませたもので、『仮名手本忠臣蔵』そのものは、まったくの別物。お軽、勘平、加古川本蔵の娘小浪と大星力弥、天河屋義平とその妻園らの男女の愛が物語の中心になっている。吉良邸ならぬ高師直邸内への討ち入りなどもあっさりとしたもの。

討ち入りの合言葉といえば、「山」「川」だが、実は天河屋の義に感じ入った由良之介が「天」と「河」にしたところ、後世誤ってと伝えられたとか。地名尽くしやら、掛けことば、地口、洒落、かなり際どい性的なくすぐりも入れた浄瑠璃は語り物。それを読み物として読むのは、目からウロコの体験だった。儒教倫理にからめて、あたかも忠義がメインテーマのように持ち上げられがちな忠臣蔵も、浄瑠璃で読んでみると、その内実はもっとおおらかで、猥雑さすら感じさせるエンタテインメント性に溢れている。また、そうでなくては町人に喜ばれるわけもなかったろう。

『義経千本桜』も、「鮨屋」や「寺子屋」では、自分の妻や子の首を切り、主人の身代わりとする場面にばかり目を止めがちだが、空気の読めない弁慶のキレッキレの暴れっぷりに義経主従が閉口する場面や、渡海屋銀平実は平知盛や横川の覚範実は能登守教経の胸のすくような奮闘ぶりがふんだんに用意されていて、明暗のバランスもよく考えられている。

浄瑠璃は他に『曽根崎心中』と『女殺油地獄』を含む。特に後者における主人公与兵衛の描き方は、義理や忠孝といった観念的な倫理観に縛られた当時の浄瑠璃に登場する模範的人物像とは異なり、どうしようもない大阪商人の次男坊を描いて、駄目人間のかなしさをこれでもかとばかりに追求している点で瞠目に値する。真面目に生きようと思ってもそれができない与兵衛のような男は、現代でもそのままで通用しそうだ。人間観察のリアルさが半端ない。

他に能、狂言、説教節を収録する。説教節『かるかや』は、これも小さい頃、高野山の土産にもらった『石堂丸』の絵本を思い出し、当時の切ない気持ちが改めて胸に迫った。大衆に仏教を信心することの大切さを宣伝する目的があっての説教節だが、突然、道心を発した父親のせいで、妻や子の一生が左右される、その理不尽さ。まさに宗教とは阿片だ。伊藤比呂美の訳も出色の出来。文学というと書かれたものにばかり目が行きがちだが、こうして語り芸に光を当ててみたとき、日本文学の底流を成すものとして、その果たしてきた役割の大きさを改めて感じる。
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by abraxasm | 2016-11-21 10:27 | 書評

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