『大いなる不満』 セス・フリード

e0110713_10144981.jpg一歩まちがえたら真っ逆さまに墜落しそうな崖っぷちのようなところで、曲芸を演じている道化。セス・フリードにはそんな雰囲気が濃厚に漂っている。下手を打ったら寓話になってしまいそうなぎりぎりのところで危なっかしく小説を書いている。ところが、いつまでたっても華麗な技が続くばかりでいっこうに墜ちる気配がない。

そこで、ようやく見ている者にもわかってくる。この若い演者は、今は亡きカルヴィーノやボルヘスのいる世界からこの地上にやって来たにちがいない、と。寓話的な手法を用いる作家は少なくない。ただ、成功するのは難しい。数少ない才能のある者だけが、寓話的手法を駆使して完成された小説を生み出すことができる。セス・フリードはまちがいなくその一人である。

「フロスト・マウンテン・ピクニックの虐殺」は、毎年死者が出ることで反対運動が起きているピクニックに参加する「私たち」のアンビヴァレンツな心理を克明に描いている。マウンテン・ゴリラにばらばらに引き裂かれた小さな女の子の死は、「ルイーズを忘れないで」というTシャツを作らせた。しかし市民集会が下火になると、翌年のピクニックの宣伝が何か月も執拗に続き、「私たち」の態度は軟化する。
誰も自分からはっきりと口にしないが、集団的な思い込みとして、あれほどまでに大々的にピクニックの宣伝がされているからには、様々な問題は解決されたに違いないと思ってしまうようだ。(略)怒りの炎を絶やさない少数の市民たちは、必然的に、前進していくことを拒み、不和を生きがいにする者とみなされる。(略)つまるところ、こうした反対派が私たちを納得させるのはただ一点、ピクニックに参加しなければ、「正常な」世界から外れてしまう、ということだけだ。

実は「私たち」も気づいている。できたら行きたくないと。しかし、「同調圧力」は、それを許さないほどの強さで迫る。無料のソフトクリームやフェイス・ペイント、遊園地の遊具といったいかにも平和な仮面をかぶりながら。毎年何十人もの死者が出るピクニック会場に行くためのフェリー乗り場で、船を待つ「私たち」の感じるものは、アメリカ人だけのものではない。

地震や大雨でズタズタにされた道路やずれた断層、崩壊した山地から雪崩落ちる土砂の映像を最低でも半年に一度は眼にしながら、日本人の多くが原発再稼働を容認する政党に投票しているのだから。原発は決してコントロールなどされていないのに、オリンピックどころではない貧しい国なのに、またぞろ東京で開催することを認めてしまう。これは「私たち」のことではなく私たちのことを描いているのだ、と思えてくる。

と、こう書けば、読んでいるあなたは、なんだやっぱり寓話じゃないか、けっ詰まらない。そんな説教は聞きあきた、と思うかも知れない。それはちがう。上の解釈は私が感じた個人的な感想だ。「フロスト・マウンテン・ピクニックの虐殺」は、そのハチャメチャさが半端ない。ピクニック現場で肢体は引きちぎられ、爆弾はさく裂し、マウンテン・ゴリラ二十五頭が走り回る。その悲惨極まりない実態を知りながら、毎年フェリー乗り場に並ぶ「私たち」の心理が次第に分かってくるところに凄いリアリティーがある。設定は極めて不条理なのに、その心理は条理を兼ね備えているのだ。

「ハーレムでの生活」は、異性愛者である王の命令でハーレムで暮らす女たちの仲間に入れられた事務官の心情を綴ったもの。なぜ自分が?という疑惑。いつお呼びがかかるかという不安。王という権力者でなくては味わうことの不可能な「欲望」の正体を追うのが本筋だが、一人称の語りのせいで、王のお召しを待つ男である「私」に感情移入している自分に気づく。この異様な設定は何だ!文学的コスプレではないか。

表題作「大いなる不満」も示唆に富む。エデンの園で樹上の猫は目の前のオウムを見つめながら煩悶する。血の流れることのないエデンの園では動物たちはお役御免だ。ただ、猫の本能はかすかに残っているせいで、目が放せない。「完全に掌握できない何かがおのれの本性にはあると、猫は気付き始める。猫はそれに苛立つ。なぜこの体を与えられ、意志に反する欲望に苦しまねばならないのか?そして、この体がおのれのものでないなら、猫であることはどこで始まるのか?」

寓話では動物は人間に擬されている。暴力的な欲望が自分の中にあることに気づいた猫は、なぜ本性を隠す必要があるのか、と苛立つ。これって、最近の世界の有様に似ている。なぜ不法入国者に壁を立ててはいけないのか?なぜ移民を受け容れなければならないのか?押しつけ憲法をいつまで後生大事に守っていなければならないのか?

そこがエデンの園だからに決まっている。エデンの園を選んだのは我々人間の叡智だからだ。確かに、エデンの園から出れば、猫はオウムを仕留められるかもしれない。しかし、そこには、猫を襲う動物が待っている。本性のままに生きる獣であふれたそこが現実世界だというなら、それは御免こうむりたい。木の上で煩悶しながら、歯噛みしながらも、私ならそこから出ていきたいとは思わない。もちろん、あなたがどう考えようとそれはあなたの自由だ。

私なら、とつい考えさせられてしまう巧妙な、それでいてたまらなく蠱惑的な仕掛けに満ちた短篇集だ。突飛な設定、意表を突く視点人物、思索へと誘う開かれた終わり方。暴力的な、それでいてどこか静穏なセス・フリードの描き出す世界に魅せられた。これは、ちょっと他では見つからない類の短篇集である。巻末の「微小生物集」も文句なしに傑作。思弁的SFやショート・ショートのファンなら、きっと気に入るはず。
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by abraxasm | 2016-09-27 10:15 | 書評

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